5
そこで目が覚め、気が付くと遺跡のような石造りの建造物の傍にいた少年は、そこからほんの少し進んだ通路の先で不意に『背の高い』男に大きな声で呼び止められ、怯えてこの地上墓地へ逃げてきたのだった。
「俺……死んだんですか?」
少年が独り言のように言うと、ローブの男は「続く生を与えられ、この地に送られただけだ」と答える。
「ここは……どこなんですか」
さっきとは別の意味で、少年はもう一度そう尋ねた。
それに男は小さく肩をすくめてみせる。
「黄昏の地と呼ぶ者もいるが、本当の名前は誰も知らない。だが少なくともここにはもう、お前を追う者はいないだろう」
「じゃあもう……逃げなくてもいいんですか? 誰も俺に石を投げたりしない? 閉じ込めない?」
矢継ぎ早に言う少年に男はただ黙ったまま頷いた。それを見た少年の胸のあたりから、押し込められていた何かがそっと静かに抜けていく。
あの鎧をまとった翼人が言ったように、ここにはもう少年を知る者は誰もいないのだ。その事実に名前を付けるとしたら、それは少年にとってのまぎれもない『自由』と言えた。
そこまで考えが行き着いたところで、胸の奥から自然とあふれ出たものが安堵の吐息であることに少年はようやく気が付いた。自分のことを知る者のいないところへ行きたい――その望みは叶ったのだ。
そんな実感に呆然とする少年を見下ろしたまま、「もう一度言うが」と前置きして黒いローブの男は言葉を続けた。
「お前を追う者はいなくともここは危険だ。死霊たちのためにも良くない。お前にもはや逃げる理由がないなら、なおさらだろう。地下の墓地街に戻った方がいい」
その言葉に少年はためらいがちに頷いた。もう一度あの死霊たちに絡まれて生き延びられる自信はない。男の言う通り、人のいる街に戻った方がいいだろう。
しかし、彼には自らその中へ入っていく勇気もなかった。そのことに驚いたのは他でもない、彼自身だ。
あれほど逃げたいと願ったのに、そのために父親を殺しさえしたのに、突然自由になったと判った途端、少年は自分の中に何もないことに気付き、たった一人で何をすればいいのかが判らなくなってしまった。
あれをするな、これをするなと怒鳴られては殴られてきた彼にとって、誰かの言いなりになることが日常であり、それがすべてだった。何かを選択する権利などなく、自分ではない他の誰かに――たとえそれが恐怖という形であれ――与えられたことをこなすことしか許されていなかった少年の中には、そこから逃げ出したいという思い以外の何も残っていなかったのだ。殴られて壊れてしまったのか、怒鳴られて消えてしまったのか、それとも自分の意思なんてものははじめから何も持っていなかったのではないかとさえ思える。
それほどまでに少年にとって自由というものは無縁のものであり、不安定で、ある種の恐怖だった。自分の中に何もないことも。そのことに足がすくんだ。
それに彼はこれまで他人からこんな風に、こんな当たり前のように声をかけられたこともなく、それに対してどう応えればいいのかも判らない。ましてや突然すべてから解放されたところで何をすればいいのか、何もない自分が街に行って何ができるのかということも。
そんな思いを内に抱えて少年が不安そうな面持ちで顔を上げると、男は立ち尽くしたまましばらく何事か考えている様子だったが、やがて彼に向けておもむろに手を差し出した。
少年はそれを驚いた表情で見やり、再び男の顔を見上げる。
その表情はやはりローブの陰に隠れて見えず、男自身も何も言葉を発しようとはしない。
だが、それで充分だった。その沈黙には有無を言わさぬ何かがあり、恐怖とは別の――しいて言えば根拠のない信頼感に似たものでもって少年の心を支配したからだ。
少年がおそるおそる男の手を取ると、闇のように黒い手袋に覆われた長い指が少年の小さな手を包み込み、柔らかに握り返してくる。温かみを感じないその手はまるで人形のようにも思え、一瞬の奇妙な違和感を感じさせたが、少年はすぐにそれを意識の外に追い出して忘れてしまった。そんなことなどもはや今の彼にとっては些細なことに思えたからだ。このぬくもりのない手が死霊たちから守り、道に迷った彼を先導してくれるならば、それが鎧をまとった鳥だろうと死神だろうとどうでもいい。ただ言えるのは、これが少年の短い人生において他者から受けた初めての、たった一つの他愛ない親切だった。
背の高いローブ姿の男に手を引かれ、少年は暗い森の中を歩きだす。
しかし先を歩いていた男が十歩と行かないうちに立ち止まり、不意に少年を見下ろした。フードの奥で人知れず目をすがめる。
少年は何事かと不思議そうに背の高い男を見上げた。その両者の間で青白い光がふわりふわりと音もなくゆらめいている。
「足をどうかしたのか?」
そう尋ねた男に少年は一瞬何のことかというような顔をしたあと、あ、と声をあげた。
「そういえばさっき、足をつかまれて……」
言いながら少年は体を曲げて自分の足元を見やる。暗くてよく判らないが、思い出した途端に足首に痛みが戻ってくるのを感じた。それと同時に、いつの間にか片足を引きずっていたことに気付く。
男は頼りなげな青い光を指先で引き寄せ、地面に片膝をついて少年の足に目をやった。細い指の形をした火傷の跡のようなものがうっすらと皮膚に浮かんでいる。
そこにかすかに触れるように手を伸ばし、男は少年には聞き取れない言葉で何事かを呟いた。
その次の瞬間、男の指先がほのかに光を放ち、少年の足の傷を柔らかに包み込む。それは少年の肌に優しく触れ、数秒後には温かな雪のように痛みと共に溶けて消え去った。
「す……すごい、もしかして魔法?」
少年は興奮気味にそう言って、膝をついたままの男に目を向ける。
魔術師が使うと言われる魔法については話に聞いたことがあるものの、少年がそれを実際に目にしたのは初めてだった。当然、魔術師を見たのも初めてだ。
少年の中で驚きと同時に好奇心が湧き上がる。
そんな少年の顔よりほんの少し下にある男のフードが揺れ、顔を上げるのが判った。その表情は見えないが、手を伸ばせば容易に届く距離だ。
少年は無意識に両腕を上げ、男のフードをそっと後ろへ払った。
「わあ……」
少年の口から思わず小さな感嘆の声がもれる。
闇に溶けて見える黒いフードからこぼれ落ちた闇よりも暗い黒髪、血に塗れたような赤い瞳。老いを感じさせない肌は生気に欠けて青白く――それはたぶん光のせいだけではないだろう――どこか作り物めいた端正さを感じさせる。
しかし、何より少年の目を引いたのは先端が細く尖った長い耳だった。
「その耳……妖精族? 初めて見た……」
少年がぽつりと、しかし熱っぽく呟くのを一瞥し、男は無言で立ち上がるとフードをかぶり直した。
「何故隠すんですか? きれいな顔なのに」
その問いに答える代わりに「痛みは?」と短く男が尋ね返す。それに少年ははっとして、「痛くない!」と、再び興奮と驚嘆の入り混じる声音で叫んだ。足を見ると指の跡もすっかり消えている。
男は少年に頷き、「その程度なら改めて専門の治癒師に見せる必要もないだろう」と言うと、また少年の手を引いて歩き出した。
その時になって少年は、男が自分の手を引いているのとは反対の手に錫杖のような長い棒状の物を持っていることに気付く。それはゆらめく青い光を受けてなお乾いた黒をたたえており、よく磨いた木のようにも金属のようにも見えたが、材質は判然としなかった。あるいは少年のまったく知らない物でできているのかもしれない。表面に流麗な装飾が施されたそれは、杖というより何かの柄にも見える。
男の手を強く握り返し、少年が興味深そうに尋ねる。
「あなたは魔法使いなんですか? 魔法使いは杖を持ってるって聞くし……妖精族には多いんですよね? あなたがさっき俺にしてみせてくれたことは……こんな言い方はちょっと変だけど、本当に魔法みたいだ」
どこか夢見るような口調で言う少年とは対称的に、男は淡々とした言葉を返した。
「確かに妖精族には魔術――お前の言う『魔法』を得意とする者は多い。その中で比較すれば私など大した術者ではないが、一応魔術師の端くれではある。専門は治癒術ではないがな」
「あなたはどんな魔法を使うんですか?」
興味津々といった様子で尋ねる少年に、しかし男は答えを返さない。代わりに「余計な世話かもしれないが」と前置きして、ローブ姿の魔術師は別のことを口にした。
「気にしない者もいるが、特に流枝の民には『魔法使い』と呼ばれることを嫌う者も多い。『魔術師』という言葉を使う方が余計ないさかいを生まずにすむ、ということは覚えておいて損はないと思う」
「流枝の民って、背が高くて、耳が俺みたいに丸い人たちですよね。地下にいた男の人みたいな……。何故その人たちには『魔法使い』と言わない方がいいんですか?」
少年は驚いた顔で男を見上げる。その角度からでは男の表情は一切読めず、また男も少年の方を見ることはなかった。返答の代わりに沈黙だけが返ってくる。
「魔法使いと魔術師って、何か違うんですか?」
根気良く少年が問いを重ねると男はあきらめたように一度小さく息を吐き、「意味は同じだが使われ方が違う」と答えた。
「お前の言う『魔法』はマナ――魔力を糧として行使する『術』だ。すなわち、魔力でもって望む結果を得る技術であり、素質にもよるが技術さえ学べばある程度は誰でも使えるようになる」
「え、それじゃ俺でも魔法が使えるようになったりするんですか?」
「そうだ。誰にでも多かれ少なかれ魔力はある。それを制御する方法を学び、望む現実を描き起こす技術と知識、そして実力さえあれば可能だ」
「それを『魔法』と呼ばないのは、技術だからですか?」
少年の立て続けの問いに男はもう一度小さなため息をこぼしたが、それは少年に対してではなく別の何かに向けられた諦観から来るもののようだった。
「『魔法』という言葉は魔術を知らない者の間で『原理不明の都合の良い万能な奇跡』といった意味合いで使われることが多い。だから、技術を組み上げた者、それを学んだ者、行使できるように腕を磨いた者たちにとってはまるで何の努力もせずに得られた力であるかのように聞こえ、それを不快に思う場合がある。特に流枝の民はそういう傾向が強い」
「妖精族にはそういう人はいないんですか?」
そう訊かれて男は前を見据えたまま軽く肩をすくめてみせた。
「妖精族は元来魔力の扱いに長けた者が多いからな。何の努力もなしにとは言わないまでも、さほど苦労することなく魔術を操れる者も少なくない。だから『魔法』という言葉が持つニュアンスに近い感覚でそれらを扱う者もいる。それに妖精族は他者の感性に無関心と言っていいほど寛容だ。他者の言う呼び方などまず気にもとめないだろう」
「あなたも?」
少年の質問に男は答えなかったが、きっと彼もそうだろうと少年は確信に近い思いを抱いた。先ほどのため息からして、この妖精族の青年もまた「不快に思う者もいる」と他人事のようにその感覚をとらえているのだろう。それは、追われていたと言う少年の話を聞いても、その理由を尋ねもしない無関心さからもうかがえる気がした。
「俺ばかりいろいろ訊いてるけど……俺がどうして追われていたのかとか、尋ねないんですか?」
少しの間お互い無言で歩いたあと、おもむろに少年はそう言ってまた男を見上げた。その顔はやはりフードに遮られて見えない。そして相変わらず少年の方を見ることもなく男は「別に」と答えた。
「話したければ聞くが、そうでないなら聞かない」
そんな味気ない返答に少年は何故か少しほっとした。理由は判らない。ただお前に興味がないと言われただけのようにも思えるが、彼が何かを話そうとしても怒鳴られたり殴られたりしないことは、彼にとってそれだけで価値があった。こんなことはいつぶりだったか、もはや少年には思い出すこともできないほどなのだから。
他人との『会話』が嬉しくて、少年は衝動的に――そして唐突に「俺、親父を殺したんです」と口を切った。
「母さんや俺のことをいつも殴ったから。それに……」
続く言葉が急にのどにつかえて出てこず、少年は酷く狼狽した。
突然言葉を切った少年の様子を不審に思ったのか、男はわずかに首を傾けて彼を見下ろしたが、そのことにすら少年は気付かない。
「それに……」
少年はもう一度そう言ってから、慎重に言葉を選ぶようにして続きを口にした。
「俺に……嫌なことをしたし、させたから」
何度も、と付け足して少年はうつむく。
それに男はやはり何も言わなかった。ただ少年を見下ろし、彼の小さな歩幅に合わせながら手を引いて荒れた森の中を静かに進む。
その静寂が逆に少年を饒舌にさせた。
「父さんは愛してるからだって言ったけど、それは絶対に嘘だ。だって……昔はそうじゃなかったんです。あの日から変わった……父さんが俺を初めて狩りに連れて行った日」
そう言った少年の靴が、ジャリ、と音を立てて小さな石を踏み砕く。それがまるで「あの日」に砕かれた何かであるように少年には思えた。もはや踏みにじって粉々にしてしまいたい何か――。
「俺たちの村は山の近くにあって、動物がたくさんいたから、狩りが上手い人は村に大事な食べ物を持ち帰ってくれる英雄だったんです。そして俺の親父はまさに村で一番の英雄でした。どんなに遠くの獲物でも射止める弓の使い手で、村のみんなから尊敬されてたんです。だから……そんな親父の子供である俺も絶対に弓が上手いだろうって、みんなが期待していました。それで、初めて俺が狩りに連れて行ってもらう日になった時、俺が一人で獲物を仕留めるように言われたんです。それくらいできるだろうって」
少年はそこで一度言葉を切って深呼吸すると、感情を押し殺した声で「でも」と言葉を接いだ。
「結果は最悪でした。何度やっても俺の放った矢は一本も獲物にかすりもしなくて……父さんは酷い恥をかきました。俺も恥ずかしかったし悲しかったけど……たぶん一番ショックだったのは父さんだったんだと思います。あんなに怒られたのは初めてでした。父さんにははっきりと見えている獲物が、俺にはどこにいるのかすら判らなくて……何故あんな獲物にも当てられないんだ、信じられないと何度も言って怒っていました。それ以来、父さんは俺が何もできない役立たずで恥ずかしいからと、俺をあまり家の外に出さなくなったんです。そしてたくさんお酒を飲むようになり、俺や母さんを殴るようになった。俺が出来損ないだからって。そんな俺が生まれたのは母さんのせいだって」
少年は視線を地面に落としたまま、独り言のようにさらに言葉を続けた。
「昔からお酒は好きだったし、酔っ払ったら大きな声を出したり乱暴になる人ではあったけど……俺のせいで父さんはおかしくなったんです。母さんも、全部俺のせいだって言いました。父さんが俺に嫌なことをさせるようになったのはそれからだし……そのことで俺が母さんも傷付けていると母さんは泣いてました」
そう言って少年はうつむいたまま、靴に当たった石ころを無造作に蹴り飛ばす。すると小さな石は何度か地面を跳ね、闇の中に飛び込んで見えなくなった。
「だから突き落としたのになあ……」
どこか不自然な陽気さの感じられる声音で少年は呟き、苦い微笑と共にかすかな息をつく。
「そしたら死んじゃって、母さんは俺を悪魔だって言ったんだ。殴られればどんなに痛いか……俺や母さんの気持ちが判るだろうって思っただけだったのに……怪我でもすれば判るって、それだけだったんです。殺すつもりなんてなかったし……母さんのためでもあったはずなのに」
少年はそう言って突然立ち止まり、おもむろに男を見上げる。視線が合うことはなかったが、男も同じように足を止めて少年を待った。もっとも、男の待ったものが言葉なのか、はたまた少年が再び歩き出すことなのかは判らない。
ただ、何にせよ彼の邪魔をする気がないことだけは確かだと思えた。寛容な静寂と夜の闇だけが二人の間を埋めている。
少年はまるで他人事のように、一番感情の欠けた声でぽつりと静かに言った。
「俺にとって父さんは父さんだけで、母さんは母さんだけだったのに……家族だと思ってた、愛してた……はずなのに、あの人たちにとって俺は『そう』じゃなかったみたいだ」
そんな少年の言葉が彼自身の胸と頭の中に染み入って、ぐらぐらと少年の心をゆさぶる。そしてそれは次の瞬間、まるで地震のように少年の中に鈍い衝撃を与えた。
「あれ? おかしいな……さっきまで何もなかったのに」
不意に少年の大きな目からいくつもの雫が頬を伝って滑り落ちていく。
そんな少年の様子を男は何も言わずにただじっと見守っていた。
「すみません」
少年が目をこすりながら言うと、男は相変わらず淡々とした口調で「何故謝る?」と問い返す。
「お前には何の非もないだろう」
それが今の状況を指して発せられた言葉だと判っていながら、少年には過去の自分に向けられたものであるように感じられて悲しくなった。何故あの時この人が、この人のような誰かが傍にいてくれなかったのだろう、と。
そして、少年はずいぶんと都合の良い考えだと自分を笑った。もしもそうであれば――彼に何の非もなかったとすれば、少年は自分の罪から逃げられる。閉じ込められた小屋から、村から、あるいは家から逃げ出したように。
「俺、これからどうなるんでしょうか」
少年が男を見上げて尋ねる。
それに男は「どうなるかではなく、どうしたいかによる」と答えた。
「ここでは過去など無関係だ。鳥たちが望むのはただ一つ、戦力となる魂の研鑽。お前はここでできること、やりたいことをやればいい」
「でも俺、何もできません。親父の言ったように出来損ないなんです」
困ったように言って、少年はまるでかけられた期待から逃げるように反射的に手を引きかけたが、つながれた男の手からそれがすり抜けることはなかった。
光の加減なのか、わずかに輝いて見える赤い二つの目が静かに少年を見下ろし、そして不意に正面へと向けられる。
「お前の父親はどれくらいの距離にいる獲物を仕留めろと言ったんだ?」
突然思いがけない問いを投げかけられ、少年は「えっ」と声をあげた。
「さっきの狩りの話だ」
男はそう言って杖で奥の方にぼんやりと白く見える木々を指し示す。
「もしあの白い木々がある辺りの獲物を狙っていたのだとすれば、お前の父親は確かに相当の弓の名手で、恐ろしく目がいいと言える」
「え?」
再び同じ言葉を発した少年に視線を戻し、男は杖を下ろして淡々と「若草の民は目がいいことで有名だ」と言った。
「あれくらいの距離でも狩りができると聞く。しかし私にはあの距離で獲物をこの目にとらえるのは難しいし、他の種族にはもっと困難だろう。それができるのは若草の民だけだ」
「で、でもそれなら俺にだってもっとはっきり見えるはず……」
「そう。だから恐らくお前の視力は平均的な若草の民のものに劣る。それは生まれ持ったものでお前には何の責任もない。母体が熱病にかかると、まれに視力の弱い子供が産まれると聞く。だがそれでも他の種族に劣ることはない。ましてや他種族の中ともなれば、その目は大いに役に立つだろう」
そんな男の言葉に少年は呆然とした。
「確かに俺を産む前、母さんは熱病にかかって大変だったって聞いたけど……本当に……?」
「私の記憶と、読んだ医学書が間違っていなければな」
そう言って男は少年の手を握ったまま歩き始める。それにつられるように足を踏み出し、追い越すほどの勢いで少年は男に駆け寄った。
「いがくしょって?」
「治癒師や薬師が読む、病気や薬、治療法に関する本だ」
「あなたはお医者さんなんですか?」
「私が学んでいるのは薬学だから、どちらかと言えば薬の調合が専門だ。それを最高術位まで修めた者を薬師と呼ぶが、一般的にここで言う『医者』に近いのは治癒師の方だろう」
「治癒師ってさっきも言ってましたよね。その人たちが、あなたが俺の足を治してくれた時みたいな魔法――魔術を使えるんですか?」
次々と飛び出す少年の質問に男は数秒の沈黙を挟んだあと、やや気だるげに「興味があるなら本を読むといい」と答えた。
「いろんなことを教える学院もある」
そう言って男はずっと傍について来ていた青白い光に向かって指を振る。その途端、ほのかな青い光は水に放された魚のように再びふわりふわりと気ままに漂い始めた。
気が付くと周囲が明るい。
少年が顔を上げると明かりの灯った背の高い街灯が二つ、石造りのアーチの傍に立っているのが見えた。アーチの先には地下への階段が続いている。どうやら地下の墓地街入り口まで戻ってきたようだ。
ここまでの道中の照明を務めた青い光は役目を終えて解放され、森の奥へと流れていった。
それを男と見送りながら少年が遠慮がちに言う。
「俺、字は読めません。父さんはあまり読み書きに興味がなかったし……俺には教えるだけ無駄だと言って、誰からも教えてもらえませんでした」
「それも学べばいい。お前ならさほど労せず読み書きができるようになるだろう」
その言葉に少年は自信なさげに首をかしげてみせる。
「何故そう思うんですか?」
意味のない雑談を嫌いそうな男のその言葉が何の根拠もないお世辞だとは思わなかったが、彼がそう言う理由が少年にはまったく判らない。
だからその返答はあまりにも少年にとって予想外だった。
「お前の住んでいたところで使われていた言葉と、ここで一般的に使われている言葉では訛りが違う。だがお前はそれに気付いて意図的に変えた。完璧ではないがその精度は高い。音感と、言語に関するセンスがあるのが判る。それに多くの問いからうかがえる好奇心の強さや利発そうな話しぶりからしても、文字を覚えるのも難しくないと私は思う」
「ほ、本当ですか?」
訛りを気にして男の言葉を真似たことが気付かれていたと知って少年は恥ずかしく思ったが、それよりも喜びが勝った。誰かにそんな風に言われたことなど、これまでに一度もなかったからだ。
いつだって彼は「出来損ないだから」という理由で叱られ、殴られ、すべてを否定されてきた。
出来損ない――それはまるで呪いのように彼からすべてを奪うことのできる魔法の言葉で、誰もそれ以外のもので少年の価値を語ろうとせず、もはやそれすら無駄だと思われていた節さえある。村人の誰一人として狩りの腕以外の価値で少年を計ることはなく、彼に押し付けられたたった一つの言葉の呪符だけがすべての者の思考を止めたのだ。
「お前がこれまでいた世界はあまりに小さい。そこで何の支障もなく過ごせたのならそれでいいが、お前のような者には窮屈だろう。お前を活かすには器が小さすぎる」
男は相変わらず淡々と言いながら少年の手を引いて階段を降り始めた。静寂の満ちる空間に二つのちぐはぐな靴音が響く。
「器が小さいって?」
「特定の才――たとえば狩りのような限定的なものだけが求められ、それ以外の能力を生かす需要が存在しないことだ。お前のいた村のようにそれで成立する世界も存在するが、広い目で見ればそういったところは少数だろう。多くは様々な需要があり、様々な能力のうち一つ、あるいはいくつかを持つ者たちが大勢集まって初めて需要が満たされ、成り立つ世界だ。たった一つの才で、たった一人が英雄になる世界など極めてまれと言っていい。特にここではいろんな能力が必要とされている。それに、鳥たちがお前をここに招いたのならお前はここで必要とされる何かを持っているということだ。探せばそのうち何を求められてここへ来たのか、何ができるかが判るだろう」
「判らないままだったら?」
とめどない少年の問いに男は淀みなく、「時間はある」と答えた。
「どれくらい?」
「……永遠にも等しい、黄昏の時まで」
返答をためらったというよりは言葉を選ぶようなわずかな沈黙のあと、男は静かにそう言って口を閉ざした。