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 やけに闇が深く感じられる森だな、と心の中で呟きながら少年は空を見上げる。それほど木々が密集して生えているわけではないのに、頭上に広がる夜空の大半を鬱蒼(うっそう)と茂る葉が覆い隠していた。黒一色に染められた葉と枝が月を(いびつ)に食らいながら、ざわざわと不穏な囁きを交わしている。その音が不思議と耳につくのは、虫や鳥の声がしないからだろうか。

 少年は一度身震いし、周囲を見渡した。時折、木々の間をぼんやりとした青い光が漂っていくのが見えるが、それが何なのかは判らない。

 ここは明らかに少年が知っている森とは違い、生物の気配はなく、何か別の異質なものが地面の下や影の中でうごめいているように感じられた。

 風は冷たく、すがり付いてくるような闇は泥のように重い。唯一確かな光源である月でさえ青ざめて弱々しく見え、その頼りない光は少年を不安にさせただけだった。

 独りは怖い。そう思ったが、少年は先ほど地下で男に呼び止められた時のことを思い出し、他人といるのも恐ろしいと感じた。あの声の大きな男が少年のことを知っているとは思えなかったが、声をかけられた途端、まるでとがめられたような気がしたのだ。何故人殺しがこんなところにいるのかと。

 しかも相手は同種族で殺し合うことも多いと言われる『背の高い人たち』だ。いきなり殺されることはないにしても、あの男が村人たちのように石を投げてこないとも限らない。また小屋に閉じ込められるかもしれない。そう思うと少年は地下に戻る気にはなれなかった。たとえ夜の闇や孤独が怖くても、誰かといるよりは独りで暗い森にいる方が今の少年にはましに思えたのだ。

――ここはどこなんだろう。俺は山を越えられたんだろうか?

 そんなことを考えながら少年はあてもなく森の中を歩く。石や食器をぶつけられたりしてできた傷がいつの間にか消えてなくなっていることに少年は気付かなかった。

 周囲にふわふわと浮かんでいる青色の弱々しい光に照らし出される地面は森の土というより荒れ地に近く、どす黒く乾き、ひび割れ、すべてが死に果てた大地のようにすら見える。それでいて、目には見えない土の下では貪欲な泥が渇きを潤してくれる獲物を探して這いまわっているかのような気配も感じられた。

 そんな土に半ば埋もれるようにして人工物とおぼしき石の残骸がひっそりと顔を覗かせている。方々に散らばったそれは墓石のようにも見えるが、ボロボロに欠けて傾いたり倒れ伏しているものも多く、全体像が判らない。ただ、荒廃した景色と一体化しているところからして、それらはかなり長い間この地に横たわっているであろうことだけが漠然とうかがえた。まるで使い古された舞台の背景のようにどこか色あせてくたびれたような寂寥感(せきりょうかん)が漂っている。

 その中で視界の隅に一つだけ目を引く物があった。暗い地面に真っ直ぐに立つ細長いそれは、自らかすかに光を放っているようにも見える。

 少年が興味を引かれて近付いてみると、それは見たことのない光沢を持つ石で作られた塔のようなオブジェだった。少年よりも背の高いその石塔の表面には、びっしりと文字らしきものが刻み込まれている。

「何て書いてあるんだろう……」

 文字の読めない少年は独り言を呟き、首をひねる。その時、背後でからん、と乾いた何かがぶつかる音がした。それと同時に全身の毛を逆立てるような、ぞわぞわとした気配が周囲の闇の中で急激に膨れ上がる。

 少年は恐怖に駆られ、反射的に後ろを振り向いた。しかし、本当は振り返らずにそのまま走って逃げた方が良かったのかもしれない。

 いつの間にか少年は数人の人影に囲まれていた。彼らは一様に皮膚も肉も失い、血や泥に汚れた骨だけの姿をしている。それにもかかわらずカラカラと音を立てながら歩き、眼球のない眼窩(がんか)の奥に闇を満たして少年のことを見ていた。

 そのうちの一人がゆっくりと少年の方に近付きながら腕を伸ばす。もう片方の手には錆びてぼろぼろになった剣らしきものが握られていた。ガリガリと刃先が地面を削る音がやけに耳に障る。

 少年はたまらず叫び声をあげた。その瞬間、殺気としか言いようのない鋭い気配が少年の周囲に満ちる。

 とっさに身の危険を感じた少年は、すぐさまその場から駆け出そうとした。

 しかし不意に足首をつかまれ、つんのめる。見ると上半身しかない生きた(しかばね)が枯れ果てた地面に横たわったまま、その隙間だらけの手で彼の足を握りしめているではないか。その細い指は震え上がりそうなほど冷たい。だがそれにもかかわらず、少年の皮膚にはかすかに焼けるような熱い痛みが這い上がってきた。同時に少年の中に恐怖が湧き上がる。

 彼はさらに悲鳴をあげ、自由な方の足で屍の腕を蹴り飛ばして何とか束縛から逃れると、がむしゃらに森の中を走った。そのあとを低いうめき声や慟哭(どうこく)が追いすがり、それは波紋のように徐々に広がって少年を取り囲んでいく。

 骨だけの姿をした者たちはそれほど足が速いわけではなかったが、疲れを知らない一定の速度で追ってくる様子からして、体力に限りのある少年が逃げ切るのは困難に思えた。少年と動く屍たちの距離が徐々に縮まっていく。

 うなじのあたりにチリチリと焦げ付くような殺気を感じた少年は、背後を確認すべく振り返ろうとした。

 しかしその瞬間、突如として木の葉を揺らす音が少年の鼓膜を打ち、前方にある茂みが激しく揺れる。

――回り込まれた!

 少年は心の中でそう叫び、骨だけになった腕に首根っこをつかまれることさえ覚悟したが、そこから飛び出したのは動く死者ではなく、黒い獣のような影だった。あまりの速さであったため少年の目には追いきれない。だが、それが骨の剣士だろうと獣だろうと彼にとって大差はなかった。

 殺される、と思った少年は、それと同時に何故か不意に冷静になって、骨たちの持つ錆びた剣で斬り殺されるのと獣に食い殺されるのとどっちがましだろうかと考えた。切れ味の悪い刃が肉に食い込み骨を打つ感触、はたまた鋭い牙が皮膚を裂き噛みちぎる感触――両方とも決していい気はしないに違いない。

 しかし実際はどちらも現実にはならず、少年は誰かに肩をつかまれ、次の瞬間には柔らかな闇の中に隠されていた。

「何を騒いでいる?」

 夜気のようにひやりとした男の声が静かに少年の頭上から降ってきたが、それは少年に向けて発せられた言葉ではなかった。

 屍たちが乾いた音を立ててにじり寄って来て、ぼそぼそと何かを訴えるように暗いうめき声をあげているのが判る。

『生……者……』

『敵……』

「ここにはもうお前たちの敵はいない」

 淡々とした口調で男が応え、声帯などとうになくしたはずの骨たちはくぐもった声でさらに途切れ途切れの言葉を吐いた。

『焼け……る……』

『憎い……』

『墓守……の……』

「判っている。私が何とかするから、お前たちは気にしなくていい」

 その言葉に納得したのかどうかは判らないが、やがてカラカラという枯れた骨の音が遠くなり、少年の周囲を取り巻いていた剣呑な気配も薄れていった。体をこわばらせていた少年が少しほっとしたように緊張を解く。

 そこでようやく男はそっと身をひるがえし、黒いローブの中に隠した少年を外へ出した。

「その様子からして屍学者やレンジャーではなさそうだが、ここで何を? 夜は地上に出るなと地図屋に言われなかったのか?」

 責める風でもなく、感情の読めない平板な口調で男が少年に尋ねる。

 少年はそんな男の言葉の抑揚が自分の知っているものとは違うことに気が付いた。よくいろんな町へ商売に出かける村の変わり者が同じような話し方をしていたように思うが、それよりももっと流暢(りゅうちょう)で品良く聞こえる。

 しかも男は彼よりもはるかに背が高い。ローブに付いたフードを目深にかぶっているので下から見上げても男の顔はほとんど判らなかったが、彼が少年とは違う『背の高い人たち』であるのは間違いなかった。

「口が利けないのか?」

 さらに問いかけてくる男の言葉にはっとして、少年は勢いよく首を振ってみせる。

「あの……すみません、助けてくれてありがとうございました」

「そんなことは別にいい。それより、この地に不慣れな者が長く留まるのは危険だ」

 あっさりと少年の謝辞を受け流し、男は近くに漂っているほのかな青い光におもむろに指先を向けると、何事か呟きながらくるりと小さな円を描いてみせた。

 黒い手袋に覆われたしなやかな指先に釣られるように光がするりと動き、男の傍にやってくる。そのぼんやりとした淡い光が男と少年を柔らかに照らした。近くに獣の姿は見当たらない。屍たちももはやどこかへ立ち去ったようだ。

 少年はそのことに安堵すると、目の前の長身の男と青色の淡い光を見比べるように順に視線を移しながらおずおずと尋ねた。

「あの……それは? それにさっきの骨たちは一体……?」

「これはこの辺りをただ流れているだけの、言わば残骸だ。特に害はない。だがお前のことを追っていた者たちは違う。彼らにも悪意や害意はないが……心も記憶も失い、それでも魂は戦火に残されたまま、衝動だけで兵士として戦い続けている」

 男はそこで一度言葉を切り、少年が逃げて来た方――森の奥に顔を向けて独り言のように静かに続けた。

「酷い戦いだったと聞く。ここは戦場で、あまりの死者の数にそのまま墓地としたほどの惨状だったそうだ。だが血と呪詛(じゅそ)(けが)れたこの地で倒れた者たちは死してなお安息を得られず、死霊となってあのように彷徨(さまよ)っている」

「死霊……」

 気味悪そうに呟き、少年も男の視線の先を追う。そこにももう死霊たちの姿は見えなかったが、森はいっそう暗く陰鬱(いんうつ)で、どこか物悲しげに見えた。

「彼らにとっては生者が傍にいるだけで苦痛になる。失った生が思い出されるたびにそれは妬みの炎となって彼らを焼き、いつまでも与えられない安息の死に焦がれては嘆きの海に溺れる。だからそれを消し去ろうとするのだろう。彼らに苦しみを与えた者こそ、彼らの敵だったから」

 男はそう言って再び少年を見下ろした。

「無闇にここに人が立ち入るのは生者にとっても死者にとってもいいことはない。地下の街まで送ろう」

 静かにそう言うと、男はきびすを返し歩き出した。

 しかしすぐに少年が立ち尽くしたままでいることに気付き、振り返る。そのまま何か問うでもなく、男は少年の反応を待った。

「あの、俺……逃げて来たんです。だからその、あんまり人がいるところには行きたくありません」

 少年はうつむきがちに視線を泳がせながら、落ち着かなげに言う。

「死霊以外の者にも追われているのか?」

 表情の読めない口調で男は尋ね、体ごと少年の方に向き直った。夜の闇の中、青白い光によって作られたひときわ黒い影が少年の上に重なる。

 少し前まで闇を怖いと感じていたはずなのに、今は何故かその影が作る闇に守られているような不思議な安心感を覚えながら少年は懸命に言葉を紡いだ。

「村の人たちに……追われて、山に逃げたはずなんです。でも転んで、そしたら急に地面が崩れて……気が付いたら知らないところにいました。変な夢を見た気がするけど……よく判りません。それで……さっき地下で男の人に声をかけられて、怖くなってまた逃げたんです。階段を見付けたから、急いで上がって来ました」

 そこまで言って少年はようやく一息つくように言葉を切った。顔色をうかがうように背の高い男を見上げる。

 しかし男は何も言葉を発しなかった。

 少年に怒鳴ることもなければ殴ることもしない。そのことに少年はほっとしたが、同時に落ち着かなさも覚えた。こんな風に人と話すのはどれくらいぶりだろうかと考える。

 しかし、そうやって考え込むことで会話が途切れてしまうことを恐れた少年は、反射的に質問を投げかけていた。

「あの、ここはどこですか?」

「捨てられた墓地。あるいは怨嗟の森、怨嗟の沼地とも」

「えんさ? 聞いたことないや……」

 そう呟いて戸惑いながら肩を落とす少年を、やはり男は静かに見下ろすだけだった。

「あの、あなたは『背の高い人たち』、ですよね? 俺たちは大人になっても、背丈がほとんど変わらないけど……西の方に『背の高い人たち』の街があるって、聞きました」

 少年は急に自分の話す言葉の訛りが恥ずかしく思えてきて、何とか男の抑揚を真似ようとしたが、訥々(とつとつ)としたぎこちないものになってしまった。

 しかし男はそんなことも気にした風はなく、簡潔に「その街はここにはない」と答える。

「どういうことですか?」

 その問いに男は再び夜の闇のように静かな沈黙を返した。彼はどうやらおしゃべりが好きではないらしい――そう気付いて少年はしおらしく身を縮め、消え入りそうな声で謝る。

「あの……怒らせてしまったのならすみません」

「別に怒ってはいない。だが、説明は面倒だ」

 代わり映えのしない口調で男は言い、わずかに首を傾けて少年を見下ろした。

「鳥たちから何も聞いていないのか?」

「鳥? そういえば夢で何か……」

 そう呟く少年の脳裏に遠い夢の果てのような記憶がぼんやりと蘇った。

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