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地図屋の男はあくびをかみ殺し、椅子に座ったまま両腕を上げて大柄な背を伸ばす。交替の時間まであと少し。もう十分もすれば夜勤担当の者がやって来るだろう。そうすれば彼の今日の仕事は終わり、解放的な自由の時間がやって来る。今の仕事は彼にとって天職とも言えたが、それでも仕事終わりというのは嬉しいものだ。
「これで休日もあれば最高なんだがな」
そう独り言を呟いた男の視界に小さな人影が映る。遺跡に通じる通路の方からやって来たその少年の顔に見覚えはなく、辺りをきょろきょろと見回しながら不安げに歩いている様子からして新人だろうと地図屋の男にはすぐに察しが付いた。ならば地図屋の出番だ。
「おい、そこの坊主!」
男が大きな声で呼びかけると少年は文字通り飛び上がって男の方を一度振り向き、次の瞬間にはその場から一目散に逃げ出した。これに驚いたのは声をかけた男の方で、カウンター越しに身を乗り出してさらに叫ぶ。
「待て待て、どこに行くんだ、別に何もしねえよ!」
しかし男の言葉もむなしく、小さな少年の姿は男の視界から見えなくなってしまった。持ち場を離れるわけにもいかず、男はしまったというように顔を押さえて天を仰ぎ、ため息をつく。
「あらなあに、どうしたの?」
ふいに頭上から降ってきた同僚の聞き慣れた声に男は顔を覆っていた手を下ろし、丁度良かったと言いながら椅子から立ち上がった。
「モニカ、小さいガキを見なかったか? たぶん小人族――じゃねえや、若草の民の子供で、つい今しがた遺跡から来たみたいなんだが」
「遺跡? 新しい子かしら」
「たぶんな。でも逃げちまったんだよ。鳥たちから話を聞いてりゃこっちに来るはずだが……」
「あんたの顔か声が怖かったんじゃない?」
「否定はしないが、逃げられたのは初めてだ」
男は不満げにぼやきながら周囲を見渡すが、ぼんやりとした淡い明かりがぽつぽつとあるだけの視界の中に少年の姿はやはり見当たらなかった。地図屋の男はもう一度深々とため息をつく。
「ここ、他の街に比べて暗すぎるんだよな」
「元は墓地なんだから仕方ないでしょ」
同僚――モニカのにべもない返答に男は舌打ちし、「仕方ない、帰る前にちょっと探してみるか」と呟いた。悪気はなかったとはいえ、小さな子供を脅して危険な目にあわせてしまっていたらさすがに後味が悪い。
男は地図屋のカウンターをコツコツと指で叩き、「ここ、あとは頼んだぞ」とモニカに言う。
「それから、もし墓守が来たら次の石塔の件を伝えておいてくれ。案の定、俺の勤務中には来なかったからな」
「ええ。お疲れ様」
モニカは先ほどまで男が座っていた椅子に腰かけ、追い払うような愛想のなさで手を振る。しかしそれはいつものことなので男は気にすることもなく手早く店の引継ぎをすませると、さっきの少年を探して一階層をぐるりと一周してみることにした。
地面を深く円筒状にくり貫いて造られたこの墓地街は四階層でなっており、地図屋がある一階層には最低限の必需品を扱う露店が数軒と、遺跡と呼ばれる石造りの建造物、そして地上と地下二階層に通じる階段があるだけだ。照明は各店の傍と、通路に等間隔に街灯があるだけで薄暗い。巨大な空洞になっているこの街は最下層である四層が一番明るく、円形の壁に沿う形で張り出した通路の手すりから下をのぞけば、煌びやかな四層の街の明かりが見える。それはゆるやかな曲面の壁に無数に埋められた墓標や石棺の物悲しさを差し引いても、旅人には華やかで魅力的な光景に映ることだろう。
「下に降りたか? 地上に行ってなけりゃいいが……」
逃げてしまった少年が一階層のどこにも見当たらず、男は困り果てた様子で頭をかく。
墓地が地下に作られた理由、そして街がそこに発展した歴史を考え、地図屋の男は不安げに地上への階段を見やったが、やがてあきらめたように肩をすくめて自宅のある下の階層へと降りて行った。