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 シーカの姿となった元は若草の民の少年ナイは、行くあてもないまま転移魔術を使って地上墓地に逃げ込んだ。徒歩で移動しなかったのは地図屋に見付かって誰何(すいか)されたくなかったというのもあるが、シーカをまくためでもある。彼はナイほど転移魔術が得意ではないはずだから、瞬時に移動してしまえば簡単には追って来られないはずだった。

 しかし、そう思いながらもナイは師が追いかけてくるのを心のどこかで期待している。だからこそ地上墓地を選んだのではないかとさえ彼は思った。

 シーカと初めて出会った場所。自分のことを悪魔だと罵った母親や、石を投げつけてきた村人たちから逃げてたどり着いた地。怨嗟の沼地とも呼ばれるそこは相変わらず陰鬱(いんうつ)な木々に囲まれ、泥のように重い闇が足元によどむ暗晦(あんかい)な森だった。

 ナイは一度地下墓地の入り口の方を振り返ってみたが、追っ手の姿はない。地下への階段の両脇にはあの頃と変わらず石造りのアーチがあり、その傍にたたずむ街灯が柔らかな光を地面に投げかけている。

 その明かりを避けるようにナイは森の闇の中へ足を踏み入れた。

――獣の姿になればシーカは地上まで追って来られるかもしれない。

 心の中でそう呟き、人知れずナイは顔をゆがめた。

 シーカが聴覚や嗅覚に優れる獣に姿を変えられると彼が知ったのはつい最近のことだ。それも、シーカの魂のかけらを盗んで自分の中に取り入れたことによる。シーカが自ら話そうとはしなかった秘密の一つ。他にもいくつか知らなかったシーカのことをナイは知った。

 彼のことはもう何でも知っているつもりだったのに、何も知らないも同然なほど彼は自分の本質をひた隠しにしている。それはおそらく誰に対しても同じなのだろうが、自分がそれを教えてもらえるほどの特別な存在ではなかったことにナイは少なからず傷付いた。無理やり彼の魂のかけらを奪い、信用を失うような暴挙に出たことは棚に上げて。

 ナイはいらだたしげに歯をかみしめると、さらに森の奥へ進んだ。その先には石塔が立っている。初めてこの森に来た時は文字が読めず、何が書かれているのかも何のためのものかも知らなかったそれは、未だこの地で彷徨う死霊たちのためにシーカが建てた墓標だった。その周辺には死霊たちが静かに集まっている。

 ナイはそんな彼らを無視し、おもむろに自分の魔力を炎に変えるとそれを石塔に撃ち込んだ。それを何度かくり返し、次は冷気に変えた魔力をぶつける。霜が走り、凍てつく冷気が氷の粒をまき散らす――が、ピシリという音を立てて石塔の表面に小さくひびが入っただけで、それが砕けることはなかった。この温度差では大抵の石どころか鉄でさえ砕け散るというのに、闇の中でほのかに光を放っているようにすら見えるその石塔は傾くこともなくその場にたたずんでいる。

 死霊たちがざわざわと声なき声を発しながらナイに殺意を向けた。

「いいね、その調子で騒いであの人を呼んできてよ」

 そう言ってナイはその場から走り出す。そのあとを死霊たちがうめき声を引きずりながら追い、森の奥へと移動して行った。

 地上墓地の奥には白骸(はくがい)の森と呼ばれる霊樹たちの聖地がある。かつてはこの地で穏やかに暮らしていた意思を持つ木々たち――霊樹は今やこの穢れた地で狂い、魔樹となって森を荒らし続けている。そんな中、数少なくなった霊樹のうち最古の老木がその身を()して霊樹たちの安寧(あんねい)の地として作り上げたのがこの白骸の森だ。そこには魔樹はおろか死霊たちさえ近付かない。人間も立ち入れば生きて出られる保証はないと言われているが、ナイは構わずそこを目指した。

 白骸の森にはその名の通り白く枯れて(むくろ)となった霊樹たちがひっそりと寄り添うように立ち並び、朽ち果てて大地に還る日を眠りの中で待っている。空からは灰のように色あせた枯れ葉が雪のごとく深々(しんしん)と舞い落ち、大地に刻まれた傷を覆い隠すように積もっては白一色の静謐(せいひつ)な空間を作り続けていた。

 ナイは少し開けた場所に出たところで息をつき、背後を振り返る。しかしそこにはもう死霊たちの姿はなく、彼らの嘆きの声も聞こえなかった。代わりに靴が土を踏むかすかな音を聞き、どこか悲しげにも見える微笑を浮かべて呟くように言う。

「やっぱり追ってきた」

 視線の先にはいつもの黒いローブ姿のシーカが立っていた。

「何で来たの?」

「放っておいたら何をしでかすか判らない」

 少し肩で息をしながら言ってシーカはナイを見返す。その視線にとがめるような鋭さがあるのを感じ取り、ナイはため息をついて肩をすくめてみせた。

「石塔を傷付けたことを怒ってるの? 壊れてないから大丈夫だよ。憎いくらい頑丈だ」

「……お前は何がしたいんだ」

「別に。したいことと言えばあなたと一緒にいることだけ」

 そう言ってナイはシーカの方に体ごと向き直る。両者の距離は隣人と呼ぶには近く、家族と呼ぶには遠い。

「ねえ、俺は本当にあなたに必要ない? それなら俺は生きている意味がないんだけど」

「……」

 答えないシーカにナイはさらに問いを重ねた。

「じゃあさ、どうすれば俺を殺してくれる?」

 微笑んで尋ねると、シーカは胸の奥にたまった毒でも吐き出すような苦い口調で言葉を返した。

「そんなひねくれ者に育てた覚えはない」

「そうだね。これはきっと俺の中に流れる、呪いみたいなあいつらの血のせいだ」

 ナイはそう言ってため息をつき、「母さんの言う通り、俺は生まれてこない方が良かったのかも」と呟く。

 シーカはそれに何か言おうとしたが、不意にナイのまとう空気が変わったように感じて口を閉ざした。そんなシーカに不自然なほど無邪気な笑顔を向けてナイが言う。

「おかしいのは俺かみんなか、どっちだろう。ねえ、先生?」

 その言葉と共にナイから鋭い殺気が発せられ、シーカは反射的に後ろに飛びのいた。

 杖を一振りし、それを両手に構え直す。がしゃん、という金属音を立てて杖は半月型の刃を持つ大鎌に姿を変えた。その冷ややかな白刃はナイがシーカの魂を切り分けるのに使った短剣のそれと似ている。もっとも鎌の刃に魔術的な装飾はなく、代わりに無慈悲にも見えるほどの鋭さがあった。

 シーカが先ほどまでいた地面は拳一つ分ほどえぐれ、そこから舞い上がった無数の白い枯れ葉が狂ったように視界の中で踊っている。その中で同じ姿をした両者は無言のまま睨み合った。

 何故こんなことになったのか、とはお互いが抱いた同じ疑問だろう。互いがそれぞれにとって良い結果を望んでいたはずが、何故か食い違ってしまった。ナイは自分より力の劣るシーカの力になりたいと思い、シーカはその力を必要とする多くの者のために役立ててほしい、彼の実力に見合った場に出てほしいと願った――それだけだったのに。

 無言のうちに存在を拒まれたナイにはもはや居場所はなく、ならばせめてシーカに殺してもらうことだけが今彼に残されている唯一の望みだったが、皮肉にもシーカより優れた才を持つゆえにそれすら叶うことはなかった。

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