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額から流れる血や痛む肩、傷だらけの手足の痛みも忘れて、少年は必死に夜の闇の中を駆けていた。雨上がりのぬかるんだ土は黒く、まるで闇が実体を持って少年の足にまとわりついてくるかのように思える。
夜からあふれ出る底なしの黒、黒、黒。それは夜目が利くはずの少年の視界ばかりか頭も体も、骨も肉も飲み込んで無限に膨らんでいく――無意識に頭の中にわき上がったそんな想像にかすかな恐怖を覚えた途端、少年はぬかるみに足を取られて転びかけた。
それを何とか踏みとどまり、あやうく口から出そうになった声を懸命に飲み込む。
「あの坊主、どこに行った?」
「まだ近くにいるはずだ、探せ!」
怒気をはらんだ大人の男たちの声が少年の後方で飛び交っている。声を出したらたちまち見つかってしまうだろう。
少年は無言のまま再び走り出し、飛び出してきた村の方を振り向きもせずに近くの山へと向かった。
誰が呼びかけてきても足を止めてはいけない、と少年は自分に言い聞かせる。
「誰かあの悪魔を捕まえて! 人殺し!」
そう、遠くかすかに聞こえるそれが母親の声だとしても、あのヒステリックな女の声はもはや少年の名を呼ぶこともなく、決して彼を守ってくれることはないのだ。
「山の西側には行くなよ。あっちの方は地盤がゆるくて崩れやすいからな」
少年にそう教えてくれた父親はもういない。
――俺が殺した。
心の中で呟いた少年の目には何故か涙すら浮かんでこない。悲しみもない。後悔もない。少年には友達もいなかったし、同じ被害者であり、唯一の理解者だと思っていた母親も結局のところ、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げたかっただけの愚かな子供だった。
――殺すつもりじゃなかった。ただちょっと痛い思いをすれば、俺や母さんの気持ちが判るだろうと思っただけだったのに。
階段から突き落としたら、父親はあっけなく死んだ。
こんなつもりじゃなかったけど、これでもう母さんも殴られずにすむよと少年が告げると、母親は金切り声を上げ、人殺しとわめき散らし、少年に鍋や食器を手あたり次第に投げつけた。
「よくも私の夫を殺したわね。お前なんて生まれて来なければ良かったのに!」
そう叫んで泣き出した母を前に、少年は呆然としながらも自分の中で信じていた何かが唐突に崩れ去ったのを感じた。まるで夢から覚めたように、あるいは血の気が引くようにして掻き消えた感情に疑問を投げかける。何故自分は今までこんな者たちを家族だと思い、ばかばかしいほど盲目的に愛していたのだろうかと。
割れた食器の破片で少年はいくつも怪我をしたが、不思議と痛みは感じなかった。胸が痛むこともない。彼の中には何もなく、あるとすればそれはただ虚無ばかりで、判っているのは彼が絶望的に孤独だということだけ。
そんな少年の心にあいた穴を広げるように、騒ぐ母親の声を聞きつけてやって来た村の者たちは少年の弁明を聞くこともなく、母親同様に彼を罵り、石を投げ、物置小屋に閉じ込めた。
逃げたところで少年には頼れる者などどこにもいない。父は死に、母は彼を悪魔だと吐き捨てた。今や村中が少年の敵――いや、少年が村の敵なのだ。
――俺にだって人を殺すこと、それも親を殺すことがどれほど悪いかなんて判ってる。でも……。
ならば父親がこれまで自分や母にしてきたことは許されるものだったのだろうかと少年は思う。我慢し続けるべきだったというのだろうか。痛みに耐え、心を殺し、そのことに誰にも気付かれないままで。
――もう嫌だ。
だから少年は小屋の中にあった物を積み上げ、採光用の小さな天窓から逃げ出した。
山を越えて西の方へ行けば『背の高い人たち』の街があると聞く。そこまで行けば、山の反対側で閉鎖的な生活をしているこの村人たちが追って来ることもないだろうと少年は思った。しかも山の西側は危険だというので村人は誰も近寄らない。そんなところを子供が夜に通るのはもちろん危険だが、追っ手に見付かることなく街へ続く道に出られるだろう。
そう考え、少年は必死に山を登った。幸い月は出ているし、恐怖心にまぶたをふさがれなければ夜の闇の中でも視界は悪くない。父親の言い付けを守ってこれまで一度も西側には行ったことがなかったが、方角さえ見失わなければ山越えも不可能ではないと少年には思えた。
しかし、ふと足元に視線を落とし、小さな靴の跡が黒くぬかるんだ土にくっきりと残っていることに気付く。足跡を追われたら終わりだ、と少年は急激な不安に駆られ息を飲んだ。
急がなければと焦り、明かりもないまま少年は夜の山を進む。しかしそんな焦燥感に足を取られたのか、はたまた闇に埋もれていた石か何かに足を引っかけたのか、少年は早足の勢いもそのままに派手に転倒した。その小さな体が地面に投げ出され、べしゃ、と泥の上に突っ伏す。その拍子に世界は壊れた――いや、少年の父親が言った通り、ただでさえ不安定な地盤が雨でゆるみ、崩れたのだ。
少年は叫び声をあげる間もなく、土砂と共に夜の闇の中に落ちていった。