本編
問題は単純なものだった。「メニューウィンドウが開けない」。オレは緊急用のハンドサインでサポート用のAIを呼び出す。
「こんにちは、コールセンターです!ご用件は何でしょう?」
女性の声音が両の耳へと送られて来るだけで、その姿は視認できない。
「メニューが開かなくて。何度か強制的に再起動もしたんだけど直らないんだ」
「少々お待ちください――」
30秒ほどあっただろうか、今度は目の前、声の主として然るべき距離に少女が姿を見せる。日本の女子高生の制服を身に纏い、長くて艶のある黒髪を靡かせているが、肌の白さや顔立ちが白人のそれであるのは多少違和感を感じさせる。
「どーも。チャットボットのザザ子って言います。今回のことはごめんなさいね。声だけじゃ不安でしょう?これで直接点検するから。もう一度、詳しく話を聞かせてもらえる?」
声が同一人物であるにもかかわらず、急に不躾な物言いへ切り替わった違和感はある。でも、それはAIの変な“スイッチ”を無意識で入れてしまったのだと自己完結した。
「詳しくも何も、さっき言った以上はないよ」
「いつ頃から開かなくなったの?」
「気付いたら」
「何それ?前回ログアウトするタイミングでは開けていたんでしょ?それはいつだって言うの?」
「ほとんど何も覚えてないんだ……。何をしていたかもそうだけど、自分が何者なのかも。気が付いたら、この世界にいたから」
ザザ子はこちらの姿をあちこち舐め回すように見た後、見せつけるように嘆息して、また姿を消した。
「そんな状態で要求がメニュー画面って、随分と控えめなのね。おかしいと思わないの?」
「そんなこと、君らに言っても仕方ないって思ったんだよ。とりあえず、強制終了してから病院にでも行こうと思って……」
「まあ、通常のエラーの範疇じゃないことは確かね。強制終了自体はこちらからも指示が可能だけど、今はひとまず止めておいた方がいいと思うわ」
「どうして?」
オレがそう言うと、少し会話に間が空く。AIならば大差もないだろうが、それは何か考えているようで、こちらも少し顔が見えないことにそわそわしてくる。
「記憶データがこの世界の中にあるからよ。一度現実世界に戻ったらそれが貴方の記憶として上書きされてしまう。二度と記憶は取り戻せなくなるかもね」
「どうしよう、再起動はもうしちゃってるんだけど……」
「仕様上問題ないわ。――そうだ、今貴方のログや友人のデータを出力してるから、その間に診察でもしましょうか」
「診察って?」
「残された記憶がどの程度照合したり、覚えていない、知らない部分はその都度説明したりってところ。まず基本動作、空は飛べる?上空の方が処理は軽くて、作業の方も早く済ませられるし」
「ああ、覚えてるよ」
左手の指を手順通りに曲げ伸ばしして、離陸の操作を世界に認識させる。こちらからはその様子を確認できないが、周りのプレイヤーやNPCと同様、背中からは天使のように翼が生えているはずだ。
遠のいていく地面を見下ろすと、ちょうど目を覚ました丘の頂上も確認できる。
それ以前に記憶していることがあるとするなら、目を覚ますまでに見ていた夢のことだろう。
「飛びたい」。それこそ、夢ではそんな叫びが木霊していた気がする。
雲の中を突き抜けた高さまで上昇したオレは、また指の操作でその上へ着地する。
「よし、問題ないみたいね。じゃあ、この世界が何なのかも分かる?」
「うん。最初にして最大のフルダイブ型メタバース、『イカロス』だよな?」
「そう、もう少し詳しく」
「元々はこれ自体もMMOとして遊べるよう展開されていたけど、色々な条件があったせいで不評だった。この環境をベースにしたVRゲームをプレイするためのインターフェースになってから人気が本格化したんだよな」
「イカロス」の条件。
第一に挙げられるのは、大量に個人情報を提出する必要があること。例えばまず新規で加入するにあたって、利用者は直接施設に赴いて登録を済ませることになる。その目的は情報の入力や必要な書類の提示だけでなく、容姿データをスキャンすることにある。この世界においては本人そのままの顔が3Dモデルとして使用されるからだ。
第二はそれに通じて、ゲームとしての窮屈さが否めないこと。「イカロス」では各プレイヤーの言動全てが運営のデータベースに蓄積される。そうして違反とみなされた者が発見されると厳しい処罰が下されるが、その際にはプレイ資格すらも容易に剥奪される。それは口だけの抑止ではなくて、サービス開始直後は厳重な処罰により摘み出されるプレイヤーが続出したという話だ。ただ、監視社会のような厳格な枠組みこそが各国の法整備や開発の気運を呼び、「イカロス」は現在に至るまで先駆者としての恩恵を大いに享受していると言える。
「なるほど、記憶障害にもかかわらずそこまで把握しているのなら、ゲームの再起動とログアウトの違いを知らないのは地の知識の問題、ということかしら」
「違い?」
「そう、この『イカロス』が他のゲームへ経由させてもなお快適な動作を維持できる理由でもあるわ。電話の音声が本物ではなく合成されたものであるように、この世界でプレイヤーが動作するのは神経伝達そのものを再現した結果ではないの。視覚に展開されているゲームの世界と現実世界の狭間には、あくまで装着されているデバイスの内で完結した処理として、デバイスがジャックした脳の神経伝達を4元数の動作表現へと変換する段階が存在する。実際の現実では動いていないから、いわゆる『幻肢』の要領ということになるけど――目に見えない仮想空間が狭間にあって、そこでプレイヤーの体をコントローラー化させる作業ってことね」
「それが、どうして本物の動きじゃないってことになるんだよ?」
「言ったでしょう?『イカロス』は膨大なプレイデータを蓄積しているの。そして、それは無条件でAIの学習に当てられている。プレイヤーが体を“操作”することで、AIが作成した類似するパターンを『イカロス』の中に落とし込んでいるの。全てをそのまま書き出してリアルタイムでMMOを機能させるよりもずっと現実的なやり方よ。それで、再起動はサーバーとの接続を司るものだけど、ログイン・ログアウトは『イカロス』のシステム全てから出入りすること。そこまでしたら、貴方は完全に現実世界へと帰還してしまうことになるって訳ね」
「そうなんだ。……正直、あまり興味ないけど」
「ああそう。――ちょうど一通り貴方のデータは得られたわ。つまらない話が終わって良かったわね」
ちょうどザザ子が姿を見せていた場所からディスプレイが出現して、オレのプレイヤーデータを映し出した。
「名前、『彦坂光都』。生年月日からして、年齢は18。アカウントのあるゲームは『エンシャント・ランド』のひとつだけみたいね。どう?そういえば聞いてなかったけど、流石に名前くらいは分かってた?」
「聞き覚えはある、確かに」
「自分に関する記憶はまるで頭に入っていないのね……。でも問題ないわ、関係の深いプレイヤーもログに残されていたから。自分のことを知りたいなら、まずはこの人物を探ってみることね」
そのプレイヤーの名は、『彦坂和泉』。
あくまで規約に則って――ということで、ザザ子からはオレがメニューを開けたとして確認可能な情報に限定してこちらへ提供してくれた。分かっているのは、彼女が現在は「ホットユニバース」という、宇宙戦争を題材としたゲームを主にプレイしていること。通常ならば仮想世界からも現実のSNSを確認することができるが、それもメニューを経由しての操作になるので、それでも制限されている部分は大きかった。
「――あれー?もしかして、イズのお兄ちゃん?」
「ホットユニバース」のオープンエリアに足を踏み入れてすぐ、女性に声をかけられる。和泉のことを調べるにあたりザザ子に作成してもらった新規のアカウントで、顔を剥き出しにした初期装備だったので、彼女もすぐにオレのことに気が付いたのだろう。しかし、当然こちらはその女性が誰かを知らない。
彼女は「ホットユニバース」においてイズのフレンドである「モンコ」というらしく、関係性はゲーム上に限られている一方で、その親交自体は6年ほど前からあるらしかった。
「『エンシャント・ランド』の方に来なくなったから暫く疎遠だったんだけど、ここで偶然再会してね。いや、私があの子を見つけて声をかけに行った、って言い方が正確かな」
「その、イズは今どこに?」
「……多分それで行っても秒殺されると思うし、『イカロス』の鑑賞モードで観戦しに行ったら?」
それからはこちらも事情を説明して、和泉の話を知っている限り調査した。
モンコと別れを告げた後で、オレは虚空に訴えかける。
「――鑑賞モードって?」
ザザ子のサポートは打ち切っていない。“彼女”にはこれまでの会話を全て聞かせていた。
「そのままの意味だけど?鑑賞モードはプレイヤー本人視点ではなくて、ステージ単位で俯瞰のプレイ映像を得ることができる。普通にハンドサインの操作で展開可能よ」
「そうなんだ。それは覚えてなかったな……」
「『イカロス』の打ち出したヒット戦略のひとつは充実した撮影機能で、実況やライブ配信向けの機能が手厚いの。今の時代、メディア戦略といえばSNS以外に無いから。まあ、貴方のログにはそういったことをした様子が無いし、知らなくとも無理はないけれど」
ザザ子に指定された通り手指を動かすと、途端に眼前の映像が切り替わる。天井から自分のモデルの頭頂部を覗き込むようになって、上下感覚のずれが気持ち悪くてすぐに体と動作の連動を切断する。代わりに調節が可能になったカメラ操作で、オレは“オレ”の正面に回り込んだ。
「これがオレ、か」
くっきりとした眉が特徴的なその少年の顔立ちには、確かに見覚えがあった。
モンコは、オレ――彦坂光都が彦坂和泉の義理の兄だと説明した。今から10年前、光都の父と和泉の母が再婚し、お互いの連れ子はその日から兄妹になったのだと。
和泉と同様のチームに参加したオレは、戦場に立たずとも共有されたボイスチャットを聴き取ることができる。
「誰か!私と生身で防衛か支援に行けませんか?少し塔のHP危ういです!」
溌剌と周囲と合図を交わす中心に、和泉の姿はあった。モンコの話の通りなら、彼女の変貌は確かに目を見張るものがあったのだろう。
以前の和泉は、決して輪の中心にいるような性格ではなかったという。モンコとて彼女とは小学校時代のクラスメイトを通じて知り合った仲で、元は光都を含め内輪のグループに居て、周囲に合わせて「エンシャント・ランド」をプレイしていたに過ぎない。それが今やサーバー内でも有名なプレイヤーで、実力も去ることながら、着飾って化粧した容姿から男女を問わずアイドル的な人気を集めている。
話によると、以前は雪森仙介という同級生の少年と特に仲が良かったらしいが、仙介らしき少年と共にいたところも見たことがない。そして何より、再会を果たしたモンコが現に和泉の輪へ入っていない。彼女が何か不満の言葉を口にしたわけではないが、それこそが幼馴染からして、今の和泉が昔の印象から変化していることを示す最大の証拠にもなっていた。
そして、オレは自分のことについてもモンコに尋ねてみた。
和泉にその自覚があったかは定かでないが、仮想世界に彼女の居場所を作ったのは彦坂光都だった。モンコも「エンシャント・ランド」の中では和泉より先にオレと知り合ったのだと語っている。
話の中で最も気にかかったのは、それからのことについてだった。
『今考えたら、紹介しといてお兄ちゃんが過保護すぎたって感じだけどね。仙介くんがいなかったら、結局仲良くなれてたかわかんなかったな』
しばらく待っていると、オープンエリアに和泉が姿を現す。取り巻きが多かったので、オレは何も言わずに遠くから和泉の視界に入ると、彼女は足を止めて、怪訝そうな顔をした。
「――ごめんねみんな。私、あそこの人に用があるから」
別れを告げた仲間は散り散りになって、やがて姿を消す。それを確認した後、和泉は少し真剣な顔になってこちらに声をかけてきた。
「お兄ちゃん……だよね。このゲームはやってなかった筈だけど、急にどうしたの?」
「えっと。オレさ……記憶をなくしちゃって、何も覚えていないんだ。君に会いにきたのも、アカウントに記録されていたのを手がかりに来ただけで」
「え……。何それ?冗談でしょ?」
眉を顰めてこちらの様子を伺っていた和泉だったが、間もなくオレの表情から事実を悟ったようで、最初に大きく嘆息した。
「本当、なんだ。まあ、そうだよね……。現実世界に戻るのはダメなの?」
「ああ、ここにいる間でどうにかしないと、二度と元には戻らないって話でさ。少しでも自分に関係する場所や人を巡りたいんだ」
「分かった!私もできる限り協力するよ。お兄ちゃんのことを今一番知ってるのは私、だもんね!」
はにかんだその笑顔に、初めて失われた記憶を引き出した感覚があった。具体的な出来事を想起したわけではない。習慣として染み付いていた感情に覚えがあったのだ。そして今のオレには――今だからこそ、その感情が何であるかが明瞭に把握できたのだろう。
これは、好意だ。家族愛ではなく、異性としての恋慕。
そして同時に、オレは今になってようやく自分の境遇を恨んだ。和泉と家族になったこと――ではなく、たった今のことだ。もし今、記憶喪失に陥っていなければ、和泉の兄として、この感情の正体に気付くことがなかったのではないか。
オレは途端に恐怖を抱いて、和泉を目の前にして口を開くことができなくなった。
ただオレにとって感情の記憶とは、どうやら体で覚え込ませたものらしい。体温ばかりが加速度的に高くなって、目の前の少女に対する自分の感情の大きさをかえって冷静に自覚する。
彼女はこのタイミングにして、こちらの顔を覗きこむ。仮想世界のモデルは赤面しないかもしれないが、異変を察知したのは明らかだった。そして口を開いた直前、和泉は目を細める。
「――最低だね」
その声は、確かに和泉のいる方向から、大体は同じ距離感で聞こえてきた。
しかし、その声は和泉のものと異なる。短時間しかないオレの記憶に反応がある時点で、それが誰のものかは検討が付いた。
「……ザザ子!どうして!?」
和泉の肩に寄りかかった姿勢でザザ子が姿を現したので、和泉は慌ててそれから離れる。オレに付いているザザ子に違いなかったはずだが、その視線は何故か和泉の方へ向けられている。
「……まずは、そのネタバラシからした方が早そうね。貴方に付いているAIがオブジェクトとして『イカロス』の空間に実在して、この子に触れられているのは、変だと思わない?」
「AIじゃないってこと?」
「そう、私の名前はザイラ・ベル。簡単に言えば、『イカロス』の開発に携わったエンジニアね。専門がAIで、この『ザザ子』も私の名前から取っている」
「そ、そうなんだ……」
オレの反応が生返事に聞こえたのか、AIの真似事を止めたザイラは、オレの視覚からも確認できるその脚で、ずかずかとこちらとの距離を詰める。
「何?その反応。言っとくけど、それなりに驚いて然るべきところよ?『ザザ子』の声はそのままに、私がそのシステムを乗っ取って現れている。『イカロス』のルールを無視した芸当なんだから」
「いや――まあ、確かにそうかも……」
先ほどまでオレに助言していたザザ子は正式なチャットボットとして逸脱した態度と物言いだった。この場面でも、もし同調しなければ機嫌を損ねることになりそうだと察せるほどには、彼女の受け答えは終始人間味のあるものだった。
「まあ、そんなことはいいの。私がそこまでしてこの場に出向いている理由は、そのルールに違反した者をしょっ引く為よ」
そう言うと、ザイラは視線を和泉の方へと移す。
「貴女、彦坂和泉じゃなくて『アラクネスキン』のなりすましでしょう?悪いけど、現行犯ね」
「……え?」
ザイラが自らの立場を口にした瞬間から、彼女は要件が何かを理解していたのかもしれない。
「和泉」の顔からは笑顔が消えて、オレが声を掛けるよりも早く、その場から姿を消した。
「ログアウトしたわね。まあ、逃げられる訳ないんだけど」
「ちょっと!あれが和泉じゃないって、どういうことなんだ?」
それを聞いて、ザイラは鼻で笑う。
「『アラクネスキン』。今までこの場にいたオブジェクトは確かに彦坂和泉の所有していたものだけど、今は別人がコントロールしている。要は、偽者ってことよ」
「その『アラクネスキン』を使って、別の人間が和泉になりすましていた……って認識でいいのか?」
「『使っていた』、という表現から違うわ。『アラクネスキン』は俗称よ、裏の世界で出回ってるものだし。だからスキン、と言ってもその本質は単なる“着せ替え”とは全く違う。まあ、そこまで説明が面倒な理屈でもないから教えてあげる。もう貴方には、その原理に関わる大部分を話しているから」
「オレに話したって……。最初に雲の上でしたアレのこと?」
「そう。この世界で見えている人の動きは脳で指示したそのものと違っていて、体を仮想コントローラーとし、類似する動きをAIで再現した結果――という話。これは動作を軽くすることもそうだけど、個人情報流出のリスクを回避する効果もあってね。ただそれが『イカロス』の唯一の隙にもなっているの」
「隙?」
「AIが学習するための素材は、AIが学習結果として出力している『イカロス』に表れたものではなくて、当然、プレイヤー各々の意図した動作そのものでしょ?その一方で、『イカロス』には本人そのものの3Dモデルが使用されていることから分かる通り、個人情報に関しては『イカロス』の世界が保有して司っている。つまり、AIの学習にも回されている行動記録と個人情報は一緒に管理されている訳ではない。でも、別のままなら、ゲームが成立しないことは分かるでしょう?」
「オレたちは自分たちの姿で意思のとおりに体を動かしてる。コントローラーと3Dモデルを結びつけないといけない……?」
「そう。この2つのデータはそれぞれブロックチェーンで管理されているのだけど、両者を紐付ける為の“糸”が存在している。『アラクネスキン』は、この紐付けのシステムを掻い潜ることで個人情報とそれをコントロールするプレイヤーとを入れ替えることができるの」
そこまで話を聞いて、オレは抱いていた違和感をそのまま言葉として吐き出す。
「待ってくれよ。その話だと、和泉はどうなったんだ?コントローラーと仮想空間の体の対応は1対1のままで、和泉のモデルを別人が使っていたってことは――」
「当然、彦坂和泉もまた仮想空間では別人でいるということね」
「じゃあ、あの和泉の姿をした奴に聞けばいいのか……!?」
「いえ、『アラクネスキン』は競売で一度に取引されているから。入れ替わっていると言っても、和泉の姿でいたあの人物のモデルを代わりに和泉が使っているとは限らないわ」
「そんな!じゃあ、これからどうやって手がかりを探せば……」
「さあね。じゃあ、私はそろそろ帰るから。一般プレイヤーに関わり過ぎたのがバレたら、評価が下がっちゃう」
「ま、待った!ひとつ訊いてもいいか?」
「何?」
「ザイラ、やけに『アラクネスキン』に詳しいのはどうして?裏社会の話を、どうしてエンジニアが?わざわざ和泉を捕まえに来たってのも引っかかる」
ザイラは腕を組んで少し考えて、姿勢を買えずに淡々と語り出した。
「……そうね。貴方みたいな人だから話すのであって、当然内密にしてほしいところだけど――私が『アラクネスキン』の概念を浸透させた『アラクネ』張本人だから、ね」
「何だよそれ……!?アンタは『イカロス』の開発チーム側なんだろ?どうしてそんな、この世界を混乱させるようなことを……!?」
「だからこそよ」
するとザイラは目を細めて、こちらを睨みつけてくる。これまでも愛想はよくなかったが、この時の反応はそれまでのどれとも異なる、はっきりとした苛立ちに見てとれた。
「元々このメタバースが『イカロス』と命名された理由は、ただゲーム性として空を飛べるからじゃない。ギリシア神話の中で、イカロスの認めた蝋の翼は太陽の熱に溶かされた。『イカロス』という仮想世界は、自然の摂理に逆らうような技術の増長を戒めたこの神話に対する挑戦的な“屁理屈”なのよ。科学は夢想を実現させるための過程。人間の行き過ぎた夢想が現実世界を汚しかねないのだとしたら、それは仮想の世界で叶えていけばいい――というね。秩序を作り出すことは『イカロス』の存在を定着させる上で重要だったけど、こんな窮屈極まりないままでは、この世界に進化はあり得ない。現実以上の法が整備された今こそ、一定の自由を許す為のムーブメントが必要なのよ」
「でも今の規約だと、アンタのしたことのせいで『イカロス』を追放される人だって……」
「ええ、その通りね。毎回申し訳なくは思っているわ。けど、やめるつもりはない」
「……そこまで拘って目指す進化って、いったい何なんだ」
「そうね……人間の正確な思考回路をAIに導出させること、かしら。現在試験段階にあるところで言うと、AI自らに、いわゆる“NPC”として生命維持の営みを必要とさせること。天然の生命体と同じく、環境要因に依存した思考方法を再現できれば、その過程と結果をシミュレートすることは現実世界をも解き明かすことに繋がる。人間の可能性を計算できるようになるはず――自由を制限された人間の思考パターンだけでは、決してそこまでのデータは得られないわ」
そこまで気怠そうに説明したザイラは、こちらの意見を待つ気もなく首を明後日の方向に傾ける。
「じゃ、また何かあったら呼んで。『アラクネスキン』の匂いがしたら、ザザ子じゃなくて私が直々に来てあげるかもね」
それから、オレは1人で「エンシャント・ランド」の世界に来ていた。和泉が自らの姿を捨てるきっかけは、モンコの話から得られていない。つまり和泉と疎遠になった後で、彼女――いや、兄として彼女を支えていたオレを含めて、何らかの転機が生じたのかもしれない。
オレがプレイしているらしいゲームの中とはいえ、度々モンコと出会ったように都合良くいくはずもない。先ほどよりプレイヤー数が多いこともあり、集会所を歩き回っていても、自分の姿を見つけて駆け寄ってくる人間もいなかった。
「あれ――」
掲示されていたプレイヤーランキングを漫然と眺めていると、84位に見覚えのある名前があった。「エンシャント・ランド」でのアカウント名こそ「デンキ」だったが、詳細を確認すると、そこには確かに「雪森仙介」の名が記されている。
「すいません、ちょっと良いですか?」
それから、オレは真っ先に他のプレイヤーよりも豪華な装備を纏っている男性を見つけて話しかけた。自分もプレイヤーとしての勘が残っていたか否か、確かにその男は上位層にいるプレイヤーの1人らしかった。
「あのランキングに載ってるデンキって人、知ってます?」
「ああ、まあ話には聞いたことあるよ。ただ、レイドでも一緒になったことはないはずだから」
「その人に会いたいんですけど、誰か知り合いの知り合いみたいな人はいませんか?」
「うーん、フレンド1人ずつ聞いていけば誰かしらはいるかもしれないけどさ……」
男は渋い顔で首を捻ったが、オレも強気で視線を彼に当て続ける。
しかし男の方もそれで懲りる様子はなくて、溜息を漏らした。
「訊きたいんだけど、そんなにアイツに会いたいの?やめた方がいいと思うよ」
「どういう意味ですか?」
「いや、プライベートで知り合いなら何も言わないよ?ただ、ぶっちゃけあまりいい噂を聞かないから」
「……彼、何かしたんですか」
「基本的に態度も悪いし、女癖も良くないらしい。ちょっと前だって、ずっとペアみたいにくっついてた幼馴染だっていう女の子のヒーラーに手出して、傷付けたって話。グレーゾーンってことなんだろうけど、『イカロス』に捕まっていないのが不思議だよ。年齢はまだ高校生くらいらしいのに、危うい奴だよな……」
「――そうですか。それなら、やめておきます。教えてくれてありがとう!」
オレは即座に返答して、男から離れた。
その話が仄めかしている事実に気付かなかったはずもない。今平静を装ったのは、見ず知らずの男に向けて露出させていい感情の塩梅が見つからなかったからだ。
オレは早足で人気のないところまで離れる。侵入不可を示した木々に面して立ち尽くした。
大別するならば、今の感情は“不安”だ。今回はオレ自身の記憶の問題だが、獲得していく和泉の情報もまた、オレにとって極めて重要なものだという確信がある。だからこそ、和泉と仙介の関係に今聞いた通りの変化が生じていたのだとしたら、彼女の精神状態は不安だ。現に、彼女は「イカロス」にて彦坂和泉であることを捨てた事実がある。
しかし、それだけではない。不安なのは、それを受けてオレがどうするべきかという展望だ。今までのオレは本当に和泉の兄として、変貌した彼女へ声を掛けることができていたのか――万が一できていたとして、また全ての記憶を取り戻せたとしても、以前と同様に接することができるのか。
「――とにかく、まずは最有力の“証拠”を手に入れないと。全部は、それからだ……!」
「エンシャント・ランド」に残された「マイルーム」。「イカロス」本体のメニューを開くのではなく、ここからなら今のオレでも、ゲーム内に限って自分自身のプレイ記録が詳細まで確認できる。
「前回のログインは4日前。子供の頃からずっとやって来たのか――」
独り言が止まる。最初に概ねのログイン記録から確かめようとしていたが、その時点で矛盾を発見した。
ほぼ毎日のようにログインしていたのが、2年ほど前を境に何の音沙汰もない時期が半年ほど続いていた。その後復帰して以降は、それよりも多少遅いペースで再びログインするようになっている。
傍目にはとりとめのないことと映るかもしれないが、何かの予感がした。
ログインが止まった日に届いているゲーム内のメールを遡ると、様々な人からの着信があった。その多くが未開封だったが、中には和泉から届いたものもあって、それだけが開封されていた。オレは恐る恐るそのメールを開く。
「光都兄さんへ 直接お別れはしたけど、やっぱり皆と一緒にこっちでも伝えたいことがあったから。届かないことは分かってるんだけど、兄さんから貰った世界も、思い出も全部ここからだったから。どうしてもけじめを付けたいって思いました。とはいえ、こんなメールを送っても、私は多分割り切れないんだろうなと思う。というより、私に友達ができたのも、好きな人ができたのも、全部兄さんが努力してくれたおかげだって知ってる。そんな兄さんがいなくなって、どうすれば周りの人達と付き合って良いかなんて、そもそも知らないから。でも、最近感じているのは、仙介くんが思い詰めていること。仙介くんは多分、私が元気をなくしたのが自分の責任だって思い込んでるんだと思う。兄さんに頼りきりだった私を、兄さんの分まで支えてくれようと背負い込んでしまってる(まだ告白もできてないから、そういうのが目に見えて分かるところは正直嬉しくもあるんだけどね)。そういう訳だから、私も少しずつ前に踏み出してみようって思う。そうすればきっと仙介くんの元気も出るだろうし、何より、兄さんの分を精一杯生きるべきなのは、仙介くんより私が先。家族だからね。私は凄く扱いづらい妹だったと思う。でも兄さんはきっと、そんな私を諦めないでいてくれて、それに合わせて接し方を変えてくれた。だから、今は本気で家族だって思えるようになった。本当にありがとう。大好きだよ。 和泉より」
「……これは」
――死んだ?
――彦坂光都は、既に死んでいる人間だった?
――じゃあ、オレは?
頭の中の靄が晴れる感覚。ゆっくりと、今この瞬間から過去へ向かって、記憶が遡っていく。
『現在試験段階にあるところで言うと、AI自らにいわゆる“NPC”として生命維持の営みを必要とさせること』
『貴方みたいな人だから話すのであって、当然内密にしてほしいところだけど――』
「――違う。そうじゃない」
オレは急いで「エンシャント・ランド」の世界から飛び出して、「イカロス」の世界の中を滑空した。
目的地は、オレが記憶を失って目覚めた丘。
「ここにいた――いや、ここにいたかったんだね、和泉」
「……思い出したの?仙介くん」
夢の声が、頭の中で響くのが分かった。
「ああ。君は『イカロス』で1人だと、よくここで無心で飛び回っていたよね」
たったひとつのすれ違いだった。オレは光都を妬んでいた。血の繋がっていない歳の近い兄という存在に対し、勝手な焦りと恐怖を覚えたのはオレだった。彼が死んだ後、どうにかしてあの光都のように和泉を支えることができたなら――それが「アラクネスキン」に頼ったきっかけだった。それを和泉へ話さなかっただけではない。別人に成り変わりたい動機など、冷静に考えれば疾しいものである場合が殆どだろう。しかし当時のオレは、元の“仙介”を、誰かが悪用するという発想も思い浮かばなかった。和泉を傷つけたのがオレ、という結論に変わりはない。
「ごめんなさい」
先にその言葉が飛び出したのは、和泉の方だった。
「読んだでしょ?私が兄さんに送ったメール。あのときは意気込んでたのに、結局逃げ出してしまった。襲われたのが別人だったなんて想像もできなくて、君を信用できなくなっちゃったの。現実世界でも引きこもって自分が嫌になって――真相に気が付いたのは、私自身が姿を変えた後だった。でも、乗り換えた別人として生きるなんて大変なこと、私にはできなかった。前にも増して居場所がなくなって、最後に選んだのが“ここ”だった。君がそうしたのと同じように、私は兄さんの遺品からデバイスの認証番号を確認した。最後は兄さんに縋る思いでそれを提出して、『アラクネスキン』の作業を依頼した……。まさか君に使われているなんて思わなかったの」
「止してよ……。悪かったのはオレだ。オレが青臭い覚悟を君に見せ付けたかっただけのことで、こんなことになってしまって」
「――ちょっといい?もう話は済んだ?」
再び、目の前にザイラが顔を出す。
「分かってるみたいだけど、全部貴方たちの責任よ。ただでさえ『アラクネスキン』のせいで一致していない体に、まさか後から2人目が乗り込もうとするなんて、想定外の挙動を起こして当然。メニューだって開けないものだわ。記憶喪失も同じでしょうね。データがこの世界にあるという話は適当で、本来の『イカロス』ではありえない事態だけど、そうなった以上は下手に弄れないから現実へ戻る前に思い出せと言ったの」
「何が起こってるのか、知ってたんじゃないのか?」
「知る訳ない。貴方のデータに関してはこちらも直接のアクセスができなかったから、私もデータベースの履歴を検索しただけで、当初は本当に貴方がAIであることを疑っていたわ。それから色々と話して、『アラクネスキン』で体を入れ替えた1人らしいという推測まではできていたけどね。まあ、お陰で正真正銘未知のデータが採れた。そして、そちらに特に問題がなければ、私がこれからすることはひとつだけ」
「追放……するのか?」
「ええ。最初に会ったときも謝ったけど――ごめんなさいね、そのことに関しては。貴方が自分で納得できるまで罪を見逃して黙っていたことが、その誠意の証明だと思って」
「……はあ」
「アカウントの凍結解除や再取得については年々条件が緩和されているから、期待して待つことね。じゃ、1人ずつ現実に帰すから少し待ってなさい」
こちらの返答も待たず、ザイラは姿を消す。
“光都”がその場に取り残されたことで、オレたちは2人きりになった。
「本当に、少しでも悪いと思ってるのかね、あの人は。説明しなかったのが誠意って言ってたよな。記憶喪失を治す近道になりそうな話なんだから、一旦説明してくれればいいのに」
「どうだろう……。もしかしたらまだ隠してることがあって、そこに触れられたくなかったのかもね」
「どうしてそう思うの?」
「えっとね。無理矢理兄さんの体に入ってここまで来たはいいけど、その直後に、今度は体も口も動かせなくなった。仙介くんの記憶喪失っていうのは、私の脳で入力している情報が一切利かなくて、君の脳で出力する情報がこっちに来るっていう、雁字搦めの状態のせいだったのかなって思ったの。君だって、最初に私の声を聞いたんでしょう?」
和泉が話している間に、視界がゆっくりと黒ずんでいく。どうやら、オレが先に「イカロス」を後にするようだ。
「ごめん、もうログアウトしそうだから!手短に!」
「あ、うん!その、言いづらいんだけど――」
それに続いた言葉の意味するところは、咀嚼するのに多少の時間を要した。一度遮断された体の感覚が“雪森仙介”のものへと帰還したことを確認して、デバイスを顔から取り除いたとき。
「……嘘だろ?」
オレは現実世界へ帰って、初めての言葉を呟いた。目の前にあった自室の鏡にて、ようやく確認できた本来の自分の姿。その表情は、安堵の漏れ出た笑みがそのまま引き攣って赤くなった、今後二度と見ることのないであろう不自然なものだった。
『私ね、仙介くんが頭で考えてたこと、全部聴こえちゃったの』
作者はITに専門性もなければ詳しいわけでもないので、もし用語や考証等で誤解している部分があったらすみません。
今作はなるべく進行中(1章終了済・年内再開予定)の長編「VGOO〜嘘の導く並行世界渡航〜」と近い楽しみ方が出来るように書いたつもりです。今作の設定もちょろっと登場してますし、もし興味が湧いた方はそちらも是非。