お嬢様とご主人様③
「……いなくなっちゃった」
店の前に立ちながら、もう見えない彼女の背中に視線を送る。彼女はこの散歩の中で何かを思い出したらしい。時間にしたら1〜2時間程度だ…一体何だ。
彼女からなにかヒントを貰えるかと思ってお伴させてもらったけれど、結局よく分からなかった。
分かったことは、彼女がこの店に来てから帰るまでの間に自分の忘れ物を思い出し、それから忘れ物を見つけて、どこかへ行ってしまったということだ。話をした感じだと、彼女は今後の自分の行き先も何となく分かっていたような気がする。
彼女の忘れ物は何だったのだろう。
途中で物を拾った様子はなかったし、あの白い洋館に思い入れがあった?でも感動していた割には中に入ろうという言葉もなかったし、建物の前を通っただけだった。足を悪くして歩けなかったという彼女が散歩を楽しんでいたという、ただそれだけの時間だったようにしか思えない。
「…何だったんだろう」
店の中に入る。扉につけられているベルがカランと音を鳴らす。外で強く風が吹いたのだろうか、足元に隙間風が通り、扉が風に揺られ一度鳴り止んだベルが再び小さくカランと鳴った。
「……」
シンと静まった店内を見渡す。カウンター席にはハルちゃんが座っていて、こちらに振り向き手を振っている。橘さんの姿は見えなかった。
「おかえりなさい、実里ちゃん」
「ただいま、ハルちゃん」
カウンターの上には空のカップが置かれている。さっきの彼女の分は私が店を出る前に裏へと運んだはずだ。ハルちゃんの目の前にではなくその隣の席の前に置かれている、ということは他の人のものだろう。
「誰か来てたの?」
「うん。一人ね、お客様がいらしていたのよ」
他にもお客さんが来ていたんだ。店の前で私たちが話をしている間に、誰かが店から出てくる様子はなかったから、つまり散歩の間に誰かが来ていたということだ。
「そうなんだ、ってこの短い時間で、来て帰ったの?」
「うん」
「えー…早いなー」
先ほどの彼女ですら早いなと思ったところなのに、こんなに短い時間で忘れ物とやらをちゃんと探せる人もいるのか。私なんて、この店に来てからもう随分と時間が経つというのに未だ忘れ物が何なのかも分からずにいて…。
「凄いというか、ちょっと凹む。」
目に留まった空のカップを見つめた。少し深めの白いカップ。おそらくお客さんに出したのは珈琲系の飲み物だ。カップ一杯で全てを思い出し解決して店を後にしたのだろう。このお客さんも、そしてさっきの彼女も、一体何を忘れてそして思い出したのか。少し質問をさせてもらったけれど、結局よく分からなかったし。もう少し詳しく聞いてみればよかったかな、なんて思う。
「私もちゃんと忘れ物を思い出せるのかな……」
こうやってすぐに自分の忘れ物を思い出して、店を出ていくお客さんたち。反して私は自分が何を忘れたのかも思い出せずにこの店に留まって、メイドとして働いていて。
なんか嫌だな。
大好きなメイドの仕事をしたいという理由でこの店で働こうと思っていたのに、今この店のメイドでいることが、まるで世間に置いて行かれているような後ろめたい気持ちを感じるなんて。
「実里ちゃん」
ハルちゃんが手招きしている。そこでようやく自分が店の入り口に立ったまま動かなくなっていたことに気がついた。ポンポンと隣の椅子を叩いた彼女に誘われ、カウンター席へと座る。
するとハルちゃんは前を向いてテーブルに肘をつき、頬杖をつきはじめた。着物姿で常に姿勢を正していた彼女が頬杖をついている。袖が捲れて両腕が肘まで見えそうだ。ちらりと下を見ると足も組んでいる。彼女もこんな崩れた格好をするんだな、と意外な彼女の姿に少しだけ緊張していた気持ちが解れた。
「大丈夫よ。そんな焦らなくたって、実里ちゃんはちゃんとここで大事なことを思い出せるわ。お客様たちにはお客様たちのペースがあって、それに私たちが合わせる理由なんてないの。近くにいて話を聞いて、それでいいのよ」
カウンター上の明かりを見つめながら、ハルちゃんが口を開く。
そう大丈夫、焦らないのよ、実里。
自分で言い聞かせるのと誰かにそう言ってもらうのとでは、随分と心への響き方が違うものだな、なんて思う。こうやってハルちゃんと話すことが、私の忘れ物探しに繋がるだろうか、と私も彼女に応えるように口を開いた。
「うん。本当にね、何を忘れちゃったんだろう」
あまり深掘りした話はできなかったけれど、店の前でお見送りした時のさっきの女性の顔がとてもすっきりとした表情で、思い残すことがないというような表情だったのが印象的に残っている。思い残すことがない…?それじゃあまるで死んだかのような言い方じゃないか。ブンブンと頭を振ると、隣のハルちゃんが不思議そうな顔をしてこちらを見てきた。何でもないよと答えると再び彼女は前を向く。
彼女と私のいるこの店は、忘れ物をした人が訪れるというお店で、彼女も私も忘れ物をしている当事者だ。ここにいる理由は、きっとこの店を出ていく時には分かっているはず。焦らずに自分の忘れ物探しをしよう。
目を瞑ると私の大好きな職場の風景が現れた。軽快な音楽と明るい色使いの店内。可愛い花の装飾と広がるハチミツの甘い香り。早くあのお店でメイドの仕事がしたい。この世界が一体何のためにある世界なのか、どうして私が今ここにいるのか分からないけれど、私もあのお客さん達と同じように必ず自分の忘れ物を探し出して、この店を出たい。大事なものをもう一度自分のものにして、私は私のお店に帰ろう。そう言い聞かせた。
「ハルちゃんも絶対に忘れ物見つけて一緒に帰ろうね!」
「そうね、一緒にこのお店を出ようね」
伏せていた顔を起こし彼女に向かって言うと、首を傾けたハルちゃんはニコッと笑った。営業スマイルじゃない素の彼女の笑顔だ。彼女との距離が近くなったように感じて、嬉しくなる。
するとハルちゃんが巾着を取り出した。
ゴソゴソと中を探る。はいどうぞ、と渡されたのは薄い黄色の飴玉だった。包装にミツバチの絵柄が描かれている。ハチミツ味の飴だろう。
実はみかんと一緒にこれもよく持っていたの、とハルちゃんが笑う。そんなハルちゃんが眩しくて暖かく見える。
ハルちゃんだって、私と同じように忘れものが何なのかわからなくて、そしてどうしてここにいるのかも分からなくて、一緒にこの店でメイドさんをしているというのに。何でこんなふうに余裕があって笑っていられるのだろう。
ありがとう、と貰った飴玉を口の中に入れた。口の中から鼻へと広がるハチミツの香りに懐かしさを感じて、私の大好きなお店の店長や同僚たち、それから常連さんの顔が一気に浮かんで、元々熱くなっていた目元が更に熱くなって、私は再び顔を伏せた。