本当にあった不快な話 飲酒運転はやめてほしい
(* ̄∇ ̄)ノ 寄才ノマが極論を述べる
飲酒運転はやめよう。
と、私が言ったところでやめちゃくれない人がいる。
これは私の愚痴もどきのエッセイである。
私の親戚に何度言っても飲酒運転をやめない奴がいる。酔っぱらって車を運転するのは危険だ、と言ってはみたものの信じてはくれない。
「私は大丈夫だから」
何故か自信満々だ。なぜ飲酒運転をするのか、その理由を聞いてみた。
「車が無いと生活できない」
「酒を飲むのはやめられない」
「だから飲酒運転になるのは仕方が無い」
頭のおかしい理屈だと思うのだが。当人はおかしいとは思ってはいない。思っていないからこそ日常で飲酒運転が当たり前になってしまう。
「焼き肉を食べるときはビールを飲まないと焼き肉が美味しくない」
「だから焼き肉を食べた帰りは飲酒運転になる」
「みんなそうだし、これが普通だ」
自称普通の人というのは訳の分からない共感を押しつけてくる。自分がおかしいかもしれない、と考える想像力に欠けているのだろうか? これが常識で自分の方が正しいという自信に溢れている。
そんな自信は事故のもとだから必要無いのでは。さらには多くの人が自分と同意見だと主張するのだ。
「だいたい飲酒運転と事故は関係無い」
また何かおかしなことを言い出した。
「事故を起こす人はもともと運転が下手で、そんな人は酒を飲まなくても事故を起こす。飲酒運転を取り締まるのは警察が罰金で稼ぎたいだけだ」
どうしてこんな人物が運転免許を持ち公道を車で走っているのだろう。
そしてこういう人物というのは、自分のことを普通だと言い皆も同じだと言い、これが常識だと言い張る。
共同体の中で通じる共通幻想が常識でもある。狭いコミュニティの中では、端から見れば狂ってるとしか思えないことでも常識になる。
思い込みを作るのは習慣で、そこに理性も論理も必要は無い。
時代の変化と共に常識は変化するあやふやなもの。故に人が学ぶのは、時代を通しても通じる知識としての学問を身につけるため。
だが、この人物は飲酒運転をしても事故を起こしたことが無い、という経験を積み重ねたことが自信の根拠にもなっている。
「この前はビールをジョッキに三杯呑んで車で家に帰ったが、捕まらなかった」
「だからビールはジョッキに三杯までなら飲酒運転にはならない」
なかなか独特な法律の解釈の仕方だ。法律もまた解釈次第ということだろうか。
まあ、この人物が私の話を聞かないのも理由がある。
私は親戚の中、一族の中でのカーストは最下位になる。
そして自称普通の人というのは、自分以下と見下した相手の話は聞かないもの。なまじ言ってることが反論しづらいものであれば、お前ごときが私に説教するつもりか、と怒り出す。
私はこの人に、飲酒運転は危ないからやめるようにと警告した。なかなか聞き入れないのでしつこく言うことになってしまった。
私の言い方も悪かったのだろう。
「うるさい! 私が酒呑んで車に乗っても、誰にも迷惑かけてない! お前なんか生きてるだけで私の迷惑だ!」
興味深い暴論だ。暴論だが一理ある。
人に迷惑をかけなければ何をするのも自由だ。個人の責任のもとに。
自由主義と自己責任論を追求すれば、酒を呑んで車を運転しても人に迷惑をかけなければいい、となる。
何よりこの人物は飲酒運転が原因で、まだ事故を起こしていない。まだ他人に迷惑をかけてはいない。事故を起こすまでは。
この人物が飲酒運転をやめよう、と考えるには、飲酒運転が原因で残りの一生を後悔し続けるような、大きな事故を起こした後になるだろう。
これは物語の序盤に出てくるような小悪党の思考とも似ている。異常に不快で人の気持ちを逆撫でするような、時代劇で言えば悪代官や悪徳商人になるだろうか。
『私が自分以下の人間に危害を加えるのは私に許された当然の権利である。だが、私以下の人間が私の気分を害することは絶対に許されない』
文章化すればこうなる。自覚なき差別主義者だ。だが、この手の人物は自分の思考や思想を考察しようとはしないので、おかしなことを信じているというのを自覚しない。
だから、自分と似たようなものの考え方の悪役がやっつけられるテレビドラマも喜んで見ていたりする。
さて、問題として追加するなら、飲酒運転が運転手の責任だけとはならないこと。
この問題の人物が運転する車に乗ることになってしまうときは、さてどうすればいいのか? できれば関わりたくは無い人物だが、現実というのはまったくもってままならない。
運転者が酒気帯び運転をしていたなら、同乗者は2年以下の懲役、または30万円以下の罰金が科されることになる。また、同乗者が免許を持っていた場合、取り消しか停止になる。
ではどうすればこの人物に飲酒運転をやめさせることができるだろうか? 試してはみたが言葉での説得は不可能だ。
では、この人物が運転ができなくなるように手足の骨を折ってしまえばいいだろうか。
車が無ければ生活できない、と言うのであれば、今後の生活の心配をしなくて済むように、殺してしまえばいいだろうか。
だがこれを実行に移せば暴行か殺人となり、道交法以外の他の法律を私が犯してしまうことになる。
まったく法律というものは、あちらをまもればこちらをまもれずと、全てを厳守するのは不可能なようにできているのではないか?
『僕はみんなの言うことを聞いてるけれど、僕の言うことは誰も聞いてくれないんだ』
これはアニメ、ドラえもんに出てくる、のび太くんの名セリフ。今の私はのび太くんの気持ちが分かるような気がする。
『飲酒運転になるのは仕方が無い』
『誰にも迷惑かけてない』
『酒呑んで運転して何が悪い』
こんな人物が運転免許を持ち、今も公道を車で走っている。交通事故が無くなる気がしない。
ドライバーの皆さん、道路を歩く皆さんは、くれぐれも気をつけてください。
オマケとして、長年無事故無違反でゴールド免許を持つ人に聞いた、事故を起こさない秘訣とは。
『私は車を運転するとき、私以外の人は全員キチガイだと思って警戒している』
自動車は便利な乗り物だ。しかし、発達した技術の産物とは、使うときに他人を信用しないという心構えが必要なのかもしれない。