第35話 水底の影
これより新章スタートとなります。UMAとか詳しい人ならここでもう何か分かるやもしれません。
私は……なぜ泥水を啜っているのだろう。
目の前にあるのは地面、雨上がりの湿った土と、小さな水溜まりが見えた。その低い視野の中、腕で這いずり、水を求める。
喉が渇いた。渇くのに……川まで歩けない。
足が動かせない。無理に動かすと、あまりにも痛くて…痛くて…啜った泥水を吐き出して嗚咽した。
私は……なぜ泥水なんて啜っているのだろう。
湿った大地が私の体温を奪い続けている。
「お母さん……痛いよう…痛い…」
森の中、私の弱々しい声は誰にも届かない。
助けてくれる者など、誰も居ない。
暗い夜の山道、雲の隙間から月明かりだけが私を照らしている。
「お母さん……喉が渇いたよう、お腹が空いたよう」
喉の渇きを癒す事も、空腹を癒す事も叶わない。
「お母さん……お母…さん…」
私はただひたすらに、お母さんを探していた。
もう…居ないと知っているのに、この目で確認したのに…。
「お母…さ…ん…」
何度呼んだだろうか、とうとう目も霞んできた頃、ふいに自分以外の声が聞こえた。それは大人の女性の声。感情がこもっていないと感じる程に落ち着いたその声は、逆に安心感を与えてくれた。
「あなたのお母さんでは……ないよ」
その声を発したのは錆びた鉄ような肌の色をした女性。その色は痣の様にも見えて痛々しいが、同時に神々しい美しさも感じさせるものだった。
そして、心配などしていないような声色で私を心配してくれる。
「どうして……倒れているの?」
「足が、痛くて…」
「ほんとだね、折れてる…ね?」
折れている。そう告げられた事で我慢していた痛みが更に込み上げる。
「うう、痛いよう……喉渇いたよう」
「そう……弱いね。弱いのは……辛い…ね」
そう言うと、その女性は血のように赤みがかった石を取り出し、私の口元に当ててくる。それが食べ物ではない事はすぐに理解したし、もちろん口にも入れてはいない。しかし、その行為には何故か優しさが含まれているような、そんな気がした。
「お母さん…」
母親とは全く似ても似つかないその女性に、私は縋り付いて泣いていた。
「違うよ?でも……お母さんって…呼んでくれるなら…」
その女性は赤い石を仕舞い直すと、代わりに一枚の鱗を私に渡してくれる。その鱗は…その女性と同じで錆びた鉄のような色をしていた。
私は薄れていく記憶の中で、その鱗をいったいどうしたのか、覚えていない。
そして、その後の女性の声も、耳に届いていなかった。
「あなたのお母さんにはなれない…けど、あげる。もし……私の娘と会ったら、仲良く……あれ?人間って仲良くって…出来るんだっけ……」
意識が途切れる間際、血の味がした。
……… …… …
…… …
◆ ◆ ◆
「お姉様、今のところ妖精らしき生き物はいませんの」
ガロル村を出たアイラとリッシュは妖精の目撃例だけを頼りに南へと歩を進めていた。その道中は常に森、とは言え木々の隙間はそれなりに開いており歩きやすく、整備はされていないものの道らしい道は存在していた。
「そうだねー、お母さんどこ行ったんだろー」
「そうですわねぇ」なんて呟きながらリッシュは地図に目を落とす。アイラもソレに倣うように地図を覗き込んだ。もちろん地図の見方なんて分かりはしない。
分かりはしないのだが、その行動を取ることで必然的にアイラの顔はリッシュの顔に急接近する形になるのだった。
「はわ!?お、お姉様!?」
「ん?んー…今ってどこなんだろうなぁって、でもやっぱり地図分かんないや」
「大丈夫ですわ!地図は私に任せてくださいまし!…あ、でも…そうですわねぇ…、お、お姉様?地図のここ、分かりますかしら、ここですわ、ここ」
リッシュはわざとらしく指さしてアイラを誘導する。更に自分の顔に近くなるように地図上に指を這わせ、髪が触れるくらいの距離まで…。
「リッシュ?」
「は、はい!」
正気に戻されたリッシュが地図上で指さしていたのは長く続く川。しかし視線は地図では無くアイラの顔を見つめているのだからアイラも疑問を抱かざるをえなかった。
「その長い線?がどうしたの?」
「え?あ!そ、そうですわ!この長い線は川ですの!この川がこっちからこう流れてるんですの!も、もうすぐこの川に辿り着きますのよ!」
「へー、この川はどうやって渡るの?泳ぐの?それともまた丸太で筏作る?」
「う……もう筏はこりごりですわ……」
リッシュは筏の乗り心地を思い出すだけで吐き気が込み上げて項垂れてしまう。……が、すぐに顔を上げて地図を指差した。
「大丈夫ですわ!今橋に向かって歩いてますの!川の上を歩いて通れますわ!」
アイラも流石に橋くらいは知っている。歩いて渡るだけだと聞いて少しつまらなそうに視線を前方に戻すと再び歩き続けるのだった。
それからしばらくするとその件の橋が見えるのだが、アイラの顔は一変して楽しそうな表情へと変わっていく。
だが、どうした事だろうか、そのアイラの表情とは反比例するかのごとくリッシュの顔は徐々に青ざめていくのであった。
「お……姉様……、この橋……」
「うん!ボロボロだね!」
そう、橋は確かにそこにあるものの、ロープと踏み板で作られた簡素なその橋は整備されておらず、あまりに酷いあり様だったのだ。
ロープは所々ちぎれかけており、踏み板は半分くらいは抜け落ちてスカスカ、まともな神経ならここを渡りたいとは思わないだろう。
「ワクワクする橋だね!」
「ヒヤヒヤする橋ですわぁ……」
川は広く、そして深い。人間であるリッシュには流れのある川を泳いで渡るという選択肢は無かった。
それに濁っており底の方が見えないのがまた恐怖心を煽ってくる。
それでもその橋を渡るしか無いのだが、その橋の傷み方は不自然であり、怖ろしげな雰囲気をまとっている。
……不自然。リッシュは何故かそう感じ取っていた。
なるほど、落ち着いてよく見ればその感想も納得のいく物だ。
「ロープも板も……わりと新しいですわね……」
自然に風化したものでは無い事は一目瞭然。どちらかと言えば破壊されていると言った方がしっくりとくる。
そしてその壊れ方もまた不自然で、まるで齧ったような痕まで残っている。叩き割り、しがみつき、そして齧り付いた様な、そんな痕跡だった。
「でも渡れそうだよ?早く行こうよ!リッシュ」
怖がる人間をよそに楽しそうに先へ進む最強生物。人間の感じる恐怖心なんてアイラには理解の出来ないものであった。
「ああ!待ってくださいまし!私も行きますわ!」
恐怖心はそれとしてリッシュにはアイラに付いて行かないという選択肢は無い。アイラに捨てられる恐怖に勝る恐怖など有りはしないのだ。
橋の距離は100メートル前後といったところだろうか、ボロボロに見えたその橋も足を掛けてみると造り自体は存外しっかりとしており、幾重にも張られたロープは数本ちぎれたくらいでは橋が落ちるまでには至らないであろう事が分かる。
踏み板にしてもそうだ、板の一枚一枚にしっかりとした厚みがあり、踏んだ瞬間に割れて落ちるような心配もいらないように見えた。板の無いところを踏まないようにだけ気をつけておけば問題は無いだろう。
川も広くて深いが流れ自体は激流というほどでは無い、即座に流されることもなさそうだ。アイラが居ればすぐに助けてもらえることだろう。
「あら、見た目の割には頑丈な橋でしたわね」
「ね、面白くないね」
「安心しましたわ。でもこれは……」
風化していた訳ではない、ということはこの橋を荒らした者が居るはずだ。しかし見るからに人間の仕業とは思えない。
「おそらくですが、また何か……いますわね」
「私から離れないようにね」
「片時も離れたりいたしませんわ!」
リッシュの言葉は心からの本心ではあったが、視線は足元に集中してしまい歩みはどうしても遅くなってしまう。とは言えアイラもそれを急かすような事はしなかった。
その時だった……リッシュはふと視界の中に奇妙なモノが映った事に気づく。割れた橋の隙間から川の中に妙な動きをする魚影を見た。
いや……良く見ると魚では無い。タコの方が近いだろうか。丸みを帯びた体に無数の触手のようなものが生えたシルエットが徐々に明らかになっていく。
そう……徐々に姿が明らかになっていくのだ。つまり深い場所から浮上しているという事になる。思ったよりもずっと大きい、3メートル弱…人間より一回り大きく見えた。そしてそこまで浮上すると色も鮮明になってくる。まるで内臓を思わせるような濁った赤だった。
「リッシュ!!」
アイラの叫び声でリッシュはハッとした。おそらくアレは危険なものなのだと本能が警鐘を鳴らす。
浮上してきたタコもどきの姿が顕になる。ソレはシルエットこそタコに近いと感じたが、けっしてタコでは無かった。
無数に生えた触手には規則性は無く、吸盤の様な構造も無い。そしてなにより……触手の先端は全て……歯の生えた口だったのだ。
「アイラお姉様!」
「大丈夫だよ!捕まって!」
アイラはリッシュを抱えて膝を曲げ、人外と化したその脚は強靭なバネとなり踏み板を力強く蹴り込み前方へと跳躍した。
まるで飛翔のように感じるほどの跳躍の最中、二人は一つの人影とすれ違う。緑色に見えるほど血色の悪い肌、それとは対照的な赤い瞳。
「女の……子?」




