第32話 宴の前夜
ジボーゲンの獣討伐後、村に戻る前にもう一悶着あった話をしよう。
当然村長の話だ。村長は恐怖のあまり一つの行動をひたすら繰り返していた。そう、走り続けていたのだ。足の筋肉はとっくに悲鳴を上げているだろうに脳が興奮状態で身体の限界に気付いていない。走り続けなければ死んでしまうという強迫観念に囚われてしまっていた。
大人が本気で走り続けているのだ。リッシュには追いつけない。カルアでも無理だ、そもそも負傷しており走れる状態ではない。とは言え早く回収してあげねば狼などの野生の獣に襲われる危険性が高い。となれば村長に追い付けるのはただ一人、アイラだ。
人間に追い付く…なんていうのはアイラにとっては造作もない。チーターに対してナマケモノに追い付けと言ってるようなものだ。チーターは長距離を走れないとかそんな野暮なことは置いておくとして、実質アイラにとって村長は止まっているに等しい。すぐに追い付いてしまった。
村長を追い抜き、前に立ちはだかる。とても人間とは思えぬ脚をした人型の化け物が急に飛び出て来たのだ。それは突然悪魔が目の前に現れた様にも見えた事だろう。
「はひゃあああぁぁぁぁああ!!あ!あ!あ!ふひいいぃぃぃぃぃいいいやぁああ!!」
今まで生きてきた中でも最も情けない悲鳴をあげ、尻もちを着いた後反対方向へと走っていく。ジボーゲンの獣に狙われた時は捕食者に睨まれた様な感覚だったが、アイラは村長よりも小柄だ、そこまでの威圧感は無い。それでもアイラと相対して抱いた感情は…まぁ…ようするにヤバい奴だ。
「あ、ちょっと!もう終わったよ?ジボーゲンの獣死んだよ?」
アイラは村長の肩を優しく掴んで呼び止めるが、村長は足をバタバタと動かして今もなお走り続ける…ことが出来ている気になっていた。アイラに掴まれて走れる人間は…まぁ居ないだろう。力だけの話では無い、アイラは見た目よりも重い。
「お、お、お、俺はあ!!村の為に!村の為にぃ!!」
「うん。もう面倒だからこのまま連れていくよ」
村長を担ぎ上げたアイラは再びジボーゲンの獣の亡骸がある場所へと走りだす。実物を見せるのが一番早いからだ。村長は高速で流れていく景色にまた別種の恐怖を刻まれる事となった。世界を置き去りにするんじゃないかと思う程の加速だ、それを不安定な姿勢で体験しているのだから生きた心地などしないだろう。
「はひゅぅ…お…ぉ…ひぐぅぅ……母…ちゃん…」
今まで生きてきた思い出の走馬燈でも見えているのだろうか。流石に村長が可哀想になったところでジボーゲンの獣の亡骸と相見える事となり、ここでようやく村長は人心地ついた。
「こいつは……ジボーゲンの獣…か。そうか…やったんだな」
感慨深げに言葉を発するも村長の足はもう限界を越えておりガクガクブルブルと震えていた。ただの筋肉痛で済めば良いが…しばらくは安静にした方が良いだろう。
「アイラ…と言ったか。あんたが何者でもこの際構わねぇさ。悪魔だったとしても…恩人である事に変わりは無ぇ。魂を要求するならくれてやるさ」
「いらないよ、食べれないでしょ、ソレ。約束したのは牛!牛だからね!」
「あ、ああ。そうだったな。明日は宴にしよう。だが……その足は隠した方が良いな」
「何で?」
「ん?お、おお?本当に分からねぇって顔だな。人間に混ざる時は人間の振りしてほしいんだが」
「私は竜だよ。誇りある古竜なんだ。何で人間の振りしなきゃダメなの?」
「竜……は、はは、あはははは。そうかい。なんか…腑に落ちたよ。最近は妖精の目撃例まで上がってるらしいしな。古竜…ね、はははは。居てもおかしくないのかもなぁ。…そうだなぁ、人間は弱ぇからさ…強い生き物が怖ぇんだ。アイラが本当に古竜なのかどうかは俺には分からない。だが…少なくともジボーゲンの獣を圧倒できる強い生き物だろ?つまり…人間の振りだけでもしといてくれないと怖いんだよ。それともアイラは怖がられたいのか?」
「婆ちゃんは畏れられるのは誉れだって言ってたよ。一番強い生き物の証だって言ってた。舐める奴は見せしめにして良いんだよって教えてもらったよ?」
「おいおい…おっかないな。しかし…なぁ、それだと横に並ぶ友達みたいな間柄の人間は出来ないんじゃあないか?あぁ……いやすまない。連れのお嬢さんが居たな」
狂信者を友達と言っていいものかはさておき理解者が居るのであればこれ以上は説得するネタが見つからない。「困ったなぁ」と頭を搔く村長とは裏腹にその言葉はアイラの胸に棘の様に突き刺さっていた。リッシュは…アイラを友達だとは思ってくれていないからだ。
「分かった…脚…隠す」
「お、おお…そうか。じゃあ後で大きめな布をやろう。その革のパレオと合いそうな柄の物を探しておく。合わせて巻けば隠れるはずだ。だが品質は…勘弁してくれよ?」
「頑丈ならそれで良いよ」
「そうか、それなら任せてくれ」
ここは畜産を営む村だ、頑丈で動きやすい服なら自信がある。もちろんオオノヅチの革には遠く及びはしないが十分に旅に耐えうる物となるだろう。もっとも使うのは人前に出る時だけなのだから旅の最中はリッシュのブランケットになっているかもしれない。
今晩は村へと帰り疲れを癒す事となった。主に疲れているのは村長だったりするのだが、他の者たちにも時間は必要だろう。特にカルアは早く治療しないと不味い。
◆
カルアに肩を貸し、先に村に戻っていたリッシュは今…針を炙っていたところであった。何の為か、それはもちろんカルアの傷を縫う為だ。
「リッシュ…あんた医術の心得があったのか…助かるよ」
「ええ、農地の領主の娘ですもの。裁縫の心得くらいありましてよ」
そう言いながらリッシュが悪戯に笑うとカルアが一瞬動揺し目を見開く。
「裁縫!?いてっ!あたたたた…大きい声出させないでくれ、頬が裂けてるんだから。ったく…わざわざ針を炙ってるんだ、医術も習ってる事くらい分かるさ」
「でも…そうですわね、本当の事言いますと少し勉強しただけですの。昔お父様に…医者でも無いのにこんな知識要りますの?って聞いたら、知識は浅くても良いから広く持て、と言われましたの。そこから必要なものだけ深く学べと。今思うと医術もちゃんと学ぶべきでしたわね」
教養を得る為にはそれ相応の金が必要になる。浅い知識であろうとも得る事が出来るリッシュは恵まれている方だと言えた。
「いや、助かる。傷が塞がりさえすればそれで良い」
「…痕は…残っちゃいますの」
「気にするな、やってくれ」
「実際にはやった事無くて…痛い…かもしれませんの」
「既に痛いんだ、気にするな」
「お姉様…なら…」
なんとか出来るかも…と言いかけて更に気落ちしていくのを自覚した。また…頼ろうとしている。いざという時役に立てない自分に嫌気が差しているのに、また頼ろうとしている。
そんな時だった。家の扉が開く音がして村長を抱えたアイラが中へと入ってくる。
「たっだいまー。カルアは大丈夫ー?」
「ああ、おかげさまでね。これからリッシュに傷を縫ってもらうところだよ」
「へー、興味あるー。見てて良いー?」
そう言って近付いてくるアイラをリッシュは縋るような目で見つめていた。
「お姉様なら…カルアさんの傷を治せたりしますの?」
「いやぁ流石に無理かなぁ。焼いて良いなら塞がるけど?」
「お姉様の…血を…」
「私の血かぁ。馴染んだとしてもすぐには治らないよ?それに本来は馴染まずに死ぬ事のが多いんだよ?忘れてるかもだけど毒だからね、私の血」
「です…が…」
言い淀んでいるとカルアが半ば呆れた顔でリッシュを小突いた。
「アイラの一番の下僕ってのはさ、その程度の度量しか無いのか?」
「な、何を…」
「傷跡くらい残してくれて良いよ。今日の思い出に丁度いいからさ。あたしは最初から言ってるよ。気にするなって」
「言いましたわね、後悔しても知りませんわよ!」
「ああ」
リッシュは覚悟を決めてカルアの頬に針を通していく。裁縫とは全く違う、肉の弾力を針ごしに感じ手が震える。震えた手はカルアの肌を悪戯に傷付けるがカルアは決して顔を歪めたり悲鳴を上げたりはしなかった。カルアには分かっている、優しいリッシュは人を傷付ける痛みに耐えている。ならばカルアはその痛みを和らげる為に頬の痛みに耐えていた。
「私より…二人のが友達っぽいな…」
そう呟いたアイラの声は小さ過ぎて二人には聞こえていない。
もう少しで第2章も終わりますかね。
とりあえず次は宴です。私もお腹が空きました。
脚が完璧に人外化しましたが…これからもどんどん私のフェチ度が増していく予定です!