第23話 ネッシー
まだ陽は高く、湖の中でもかろうじて視界の確保が出来た。もっともそれはアイラの目なら…という条件付きだ。人間の目では浅い所を見渡すだけで精一杯だろう。
そうは言っても流石のアイラでも湖底まで見渡せる訳では無い。なんとなく地形が見えても水底に何があるかまでは分からない。深く、深く潜っていく他無かった。
途中で見える魚は黒と白を基調とした地味な色合いが多く、斑点模様のある魚くらいは居たものの目を楽しませてくれるような光景では無かった。
「美味しそうな魚が居るなぁ」というのが率直な感想ではあったが、流石に今は魚を獲っている場合では無いことは理解していた。それにいくらアイラといえども泳いで魚を捕まえるというのは非常に難しい。ドラゴンブレスで水温を上げて生態系にダメージを与えても良いというのであれば話は変わるが…それはフラウからは本当にお腹が空いた時だけにするように釘を刺されていた。
それに今のアイラの目的は魚では無く筏を修復する為の材料探しだ。都合よくロープがあるとは思えないが代わりの物くらいは見つかるかもしれない。そんな安易な考えで湖に身を投じたアイラではあったが、都合の良い物というのは存外あるものだ。
アイラが湖底で見付けたのは一艘の沈没船だった。以前は漁で使われていた物だろう。所々が朽ちて穴が空き、今は魚の住処として生まれ変わっていた。
余談ではあるが、新竜であるネッシーを恐れてネル湖で漁をする者は少ない。それゆえに荒らされていないネル湖には魚が豊富に泳いでおり、それを狙う漁船も少なからず現れる。というのもネッシーによる実害が報告されていない為で、金に困った漁師が恐る恐るやってくるのだ。
では何故この漁船は沈んでいるのか、単純に放棄されたものなのか、その答えを指し示すかのように船にはとても大きな噛み跡が付いていた。船ごと噛み砕けるんじゃないかと思わせるほど大きな噛み跡でありながらもこの船は原型を留めている。顎の力は大して強くないのか、もしくは痕跡を残さずに湖底に沈める為なのか。その答えは船を見るだけでは分からないだろう。
更に言えばアイラにとっては全く興味の無い事でもある。それが船である事すら理解していない。人間が作ったであろう木製の何かが沈んでいる、くらいの認識だ。
その中でアイラの興味を引いたのは船のマストに括り付けられた長いロープ。正に今一番欲しかった物がそこにあった。多少の傷みはあっても十分な強度を持った頑丈なロープだ。
ロープの外し方が分からないアイラはロープが括り付けられている船のマストの方を破壊したが、その際に解けたロープを一纏めに抱えるのは難しかった。
仕方なくロープの端を掴み、リッシュの待つ筏へと浮上を開始する。下へと垂れる長いロープは後で引っ張りあげれば済む話だ。それは本来人間であれば大人でも大変な作業だが、アイラなら一人で事足りる。なんなら沈没船ごと引き上げる事も容易だろう。
湖面に顔を出したアイラはリッシュに手を振り、戦利品を見せびらかす様にロープを見せつけて満面の笑みを浮かべた。
「リッシュー!ロープあったよー。これなら船直るよねー」
リッシュは壊れそうな筏の上で涙目になりながら必死にバランスをとっていたが、アイラの顔を見つけると今度は安堵の想いが溢れて涙が落ちる。
「あああ!お姉様!良かったですわ!お姉様が居ない間にネッシーが出たらと思うと不安で不安で仕方なかったですわー!筏が壊れてもネッシーが出ても私は死んでしまいますのよー!」
「え?そっかー、ごめんねー、そこまで考えてなかったー。今ロープ持っていくよ。これ凄く長いから適当に筏に巻き付けていっちゃうねー」
アイラはそう言いながら持ってきたロープの端を筏に括り付けると、残りのロープを引き上げながら筏全体にグルグルと巻き付けていく。
「怖かったですの。死ぬ時はお姉様の腕の中じゃないと死んでも死にきれませんわ。最後の一瞬までお姉様の顔を見ながらじゃないと安らかに逝く事ができませんのよ」
「えー……見えるとこに居るなら守るし、それは難しくない?」
「では私たちの愛は永遠ですわね!」
「愛!?」
ロープを巻き付ける度に安定していく筏の上でリッシュは次第に冷静さを取り戻していく。適当に巻かれたロープのせいで不格好ではあるものの丸太同士の繋がりは強固なものとなっていた。
「ロープなんてよくありましたわね。流石お姉様ですわ」
「えへへー。凄いでしょー。これね、まだまだ長いんだよ、どうしよ?全部巻く?」
ロープの反対側の端は未だにネル湖の下の方へと沈んでおり、暗闇の中へと続いている。
「そうですわね、もう二度とこんな思いは御免ですので出来る限り頑丈にしちゃいますの」
「分かったー。じゃあ残りも引き上げちゃうよ。よいしょー……あれ?」
引っ張っていたロープがふいに重くなり、アイラはピンと張られたロープを不思議そうに見つめていた。反対側から引っ張られている?いや、ロープの動きに合わせて何かが牽引されて付いて来ているような妙な感覚だった。
「どうなさいましたの?」
「うん、反対側が何かに引っかかってるかも?」
「あら、それは仕方ないですわね。切りますの」
「んーん。引っ張れないほどじゃないしこのまま引き上げてみるね」
引き上げられていくロープ。その先にある異変に気付いたのはアイラであった。水中のロープのシルエットが明らかにおかしいのだ。途中から有り得ない程に太くなっている。紐状ではあるものの、その太さは丸太よりも遥かに太く、今二人で乗っている筏の幅よりも太く見える。そして太いだけでは無く長い。シルエットだけで言うのなら本当にロープが突然太くなったように見えてしまう。
それでもなおロープを引くと水面が大きく波打ち、巨大な黒いロープの様な物が水上へとせりあがってくる。そしてよく見ると、いや…よく見なくともそれがロープでは無い事が分かるだろう。
丸い目、艶のある皮膚、左右に付いたヒレ、ロープに噛み付いている大きな口。それが魚の顔である事は一目で理解できた。理解出来ないのはその大きさくらいなものだ。
「ネ、ネッシーですのこれ!?お姉様ネッシー釣り上げちゃいましたの!?」
「え?これがネッシーなの?え?だってこの見た目って…」
そう、黒くて艶のある長い魚、大きさこそ筏を丸呑みできそうなサイズ感ではあるがその見た目は紛れもなくオオウナギであった。
オオウナギことネッシーは湖面をキョロキョロと見渡した後、アイラの顔を見るなり口からロープを離し、音も無くスーッと水中へと沈んでいく。さながらその姿は捕食者を刺激しないようにゆっくりと後ずさるかの如き動きであった。
呆気に取られているうちに姿を消したネッシー、この危機察知能力の高さこそがネッシーの目撃情報が少ない理由なのだろうか。あるいは…新竜ネッシーが古竜リープフラウエンにトラウマを抱えているという説が本当であるなら…アイラからフラウの匂いを感じ取ったのかもしれない。
どっちにしろ真相はネル湖の水底の闇の中へと迷宮入りしてしまった。ネッシーの用心深さを考えるとまた暫くは出てこないだろう。
「ネッシー……魚でしたわね。なんならウナギでしたわ」
「うん。昔川で見た魚とそっくりだった。美味しいやつ」
「まぁ…全身が見られればもっと格好良い可能性もありますわよね」
「水中に見えた姿は長くてニョロニョロしてたよ」
「せめて…ヘビであって欲しかったですの」
巨大ウナギであろうと新竜は新竜だ。その強さは海軍を持って挑む必要があるだろう。
とはいえ間の抜けた愛嬌のある姿に毒気を抜かれたリッシュは残りの船旅でネッシーに怯える様子を見せる事は無くなっていた。それよりも恐怖を感じたのは再び壊れ始めた筏に対してだろう。
水中に落ちてしまうかもしれない恐怖からリッシュは眠れぬ夜を過ごし、対岸が見えた時にはもう既に次の太陽がさんさんと湖面を照らしていた。
筏はなんとか二人を運び終えると、役目を終えたとばかりに湖へと散り散りになっていく。正にギリギリの船旅であった。そもそも何故補強されたはずの筏がこうも壊れたのか、それは筏の遅さに業を煮やしたアイラが少し強めにオールを漕いだからだったりする。加速した筏は風圧で持ち上がり、ウィリーに耐えられる構造をしていない筏はいとも容易く分解を開始したのだ。
「楽しかったねー。また二人で筏作ろうね」
「し…しばらくは…もう…こりごり…ですわぁ……」
「リッシュ?…リッシュ!?………寝てる」
不眠で緊張と戦い続けたリッシュはもうとうに限界だった。陸に降り立ったという安堵が深い眠りへと誘うのであった。
ネッシーの登場です!今回は実際に有力視されているネッシーの正体はウナギ説を採用。
この作品的に言えばウナギから収斂進化したシーサーペントタイプの竜ですね。
ネッシーとの戦闘を楽しみにしてた方いましたらもうしわけないです。