第16話 詠唱魔法
「ふん…何の手品かは分かりませんが…私を甘く見ないでもらいたい」
リッシュを掴んでいた手にいっそうの力を込めたグレインがリッシュを床に引き倒す。四つん這いにされたリッシュは暴れるが拘束を解けずにいた。
グレインは権力に胡座をかいた愚か者等では無い。けっして商人が戦えないなんて事は無いのだ。金の集まる場を取り締まる者が荒事に巻き込まれない訳が無い。
たとえリッシュが成人男性の様な力を出したとしても、身体を鍛えている成人男性にかなう道理は無いのだ。
そしてグレインもまた基礎体力だけでは無く戦う為の技能を持っていた。言葉を強化し精霊に命令する技能、詠唱魔法を。
「呼応せよ金の精霊、価値の化身よ。我の価値を以て我に応えよ」
短い詠唱を終えるとグレインの服のポケットが溶けるように穴が空き、銅貨と銀貨が音を立てて床へと落ちる。それと同時に服の穴から出てきたのは黄金色の液体だった。
「彼の物に我の価値を貸し与えん」
黄金色の液体はグレインの腕を這い、リッシュの腕に絡み付くとそのまま硬質化した。そして硬質化した事によりその液体の正体も分かった。金である。
金貨が手枷へと形を変え、リッシュの腕を拘束する。しかしそれだけには留まらない、グレインは詠唱を続ける。
「大地より賜りし価値よ、利子を受け取りたまえ」
リッシュの腕に巻かれた金の手枷は床に引き寄せられ、その一部は完全に床と同化してしまった。床を引き剥がすだけの力が出せない限り抜け出すのは不可能だろう。
「ふ、金の魔法は錬金術の失敗から生まれたものですが、存外役に立つものです」
リッシュの腕に篭っていた熱も次第に抜けていく。その名残りだろうか、腕が日焼け痕の様にヒリヒリと痛んだ。リッシュにはこの熱の正体が分かっていた、これはアイラの炎だ。商館に入る前に口移しで入れてくれたアイラの炎。力を欲したリッシュに応えてくれたのだ。
しかしその力はリッシュの身体には負担の大きい物でもあった。熱とはエネルギーだ、大きな熱、大きなエネルギーを弱い身体に流し込めば当然身体が耐えられない。
細い導線に激電流を流せば焼き切れてしまうのと同じ。加えて言えば無理な力は筋肉を痛め、骨を折る事にも繋がる。
つまりリッシュの身体でも耐えられる力しか得られず、身体の限界が来る前に力が途切れたのだ。リッシュは…それを理解していた。理解して、悔しくて涙が滲んだ。
「私は…何でこんなに…弱いんですの。お姉様の…財宝なのに…」
しかしそれでもリッシュを床に固定してしまったという事実は現状を変えていた。グレインは小さな拳銃を取り出し面倒くさそうにオーバンを睨む。
人質が床に固定されているのだからグレインも人質から離れる事が出来ない。オーバンの方が強い事はグレインも理解しているのだ。リッシュから離れれば殺されるだろう。
かと言って魔法による拘束を解く事も出来ない。リッシュの力の正体が分からない以上グレインはリッシュへの警戒を怠る事が出来なくなってしまっていた。
と…なれば飛び道具しか無いのだが、グレインの持っている拳銃は護身用の小型な物であり、そもそも銃自体が開発段階の珍品だ、バレルの短い拳銃では弾が真っ直ぐ飛ぶのかさえ怪しい。
「まったく…こんな物に頼る事になるとは。新時代の武器らしいですが…まだまだ精度が足りない代物です。とはいえこの距離だ、外す事は無いでしょう」
オーバンの頭に向けた銃口を少し下げ、胸に狙いを付ける。どれだけ精度が低かろうが近距離で体の中心を狙えば外す事は無い。
事実、銃口から飛び出した弾丸はオーバンの脇を捉え、肋骨の砕ける音がした。拳銃から火薬の匂いが漂ったのとオーバンが床に膝を付いたのはほぼ同時。オーバンの黒い執事服では分かり辛いが床に垂れた血が重症である事を示していた。
幸いだったのは肋骨に当たった事だろう。護身用の小さな拳銃では肋骨を貫通し内蔵を破壊する程の力は無く、内蔵へのダメージはまだ回復の見込みがある。
「ふむ、もう一発撃っておきましょうか」
拳銃を折り曲げるようにして開き、中に弾を込め、再び閉じようとしたが銃身が熱かったのかグレインはややしかめっ面になっていた。
「もう…もう…やめてくださいまし…もう一発当たったら…オーバンが…死んで…しまいますわ。私は抵抗しませんわ…だから…オーバンの手当を」
リッシュは身内の死を明確に感じ取り、ようやく負けを理解した。しかし事態は既にそんな段階をとうに過ぎている。グレインにやめる気など有りはしなかった。
そんなグレインを見てリッシュは自分の言葉など届いていない無力感に駆られ目を伏せる。そして見た、伏せた先にあった自分を拘束している金の手枷を。
「精霊様…魔法…」
かつてクライヌ家は地魔法の名門だった。今魔法が使えれば枷を外して逆転の一手が打てるのではないか?そんな考えがリッシュの脳裏を過ぎる。
もちろんそれが絵空事である事は理解していた。今まで一度も成功していないのだ、成功するビジョンなんて見えるはずもない。
それにアイラが言っていた。そもそも詠唱魔法は間違っていると。本来会話の出来ない精霊に一方的に命令する邪法だと。
でも…今は、今のリッシュにはそれしか縋るものが無かった。
「こ…呼応せよ……んーん、違う。まずは、聞いて…くださいまし」
それは魔力を込めたただけの言葉。込められた魔力は多ければ多い程大きな声として精霊に届く。そしてリッシュは自分でも気付いていない、アイラのくれたエネルギーが自分の声をより大きな物へと増幅している事に。
人間には聞こえていないだろう小さな声、しかしそれは犬笛の様に精霊の耳には届き、関心を集めていた。
「今まで…詠唱魔法の練習で失礼な命令をして…もうしわけありませんの。お爺様の代まで続けてきた土壌改良もやめてしまいましたわ。もう十分だと…切り上げてしまいましたの。こんな事言っても精霊様には関係の無い事だとは思いますわ。でも…でも今だけ、私に力をお貸しくださいまし!」
顔を上げたリッシュはグレインを睨みつける。しかしグレインは構わず銃口をオーバンへと向けた。勝負はついたのだ、今更勝敗は変わらないと決めつけていた。
そんなグレインの顔色が変わったのは…リッシュが詠唱を始めた時だった。
「呼応せよ地の精霊!世界を支える礎よ!彼の者の足を拒め!」
詠唱を終えた瞬間、グレインの足元の床が砕け、砂となり流れ、グレインの足を飲み込んでいく。それと同時にリッシュの手枷と同化していた床も砂となりリッシュを解放した。
魔法が使えた、しかし安堵する時間など有りはしない。早まる心臓の鼓動を抑え込む様に次の言葉を吐き出す。
「重ねて申す!狂い咲け!鋼の花弁!」
床に亀裂が入り、地面から生えてきたのは剣の切っ先、地面から突き上げる数多の巨大なクレイモア。足場を失ったグレインへと刃が咲き乱れる。
が…しかし、そのどれもがグレインの体を切り裂く事は無かった。グレインを囲むようにして群生したブレイドはさながら鉄格子といったところだろう。
「これは…どういう事ですか。私に情けをかけたおつもりか」
「そ…そんなの…では…」
勝負に勝ったはずのリッシュの足はガクガクと震え、立つのがやっとといった状態だった。怪我などしていない、これは殺しに対する恐怖だ。
少し間違えば自分が人殺しになっていた。自分の手で人の命を奪うところだったのだ、怖くて怖くて堪らない。
こんな恐ろしい事を平然と行える人というのはどんな経験をしてきたのだろうか、リッシュにはまだその壁を越える事は出来なかった。
それでも今回勝利を納めたのは間違いなくリッシュであった。
これにてグレイン戦はひとまず決着です。
次回はオオノヅチ戦の続きになりますね。
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