お試し期間からできること
第204回コバルト短編小説新人賞「もう一歩」に終わった作品です。
「小林……男の好みがとくにないってことなら、俺とつき合ってくれないか?」
私、小林奈緒にとって、人生初となる男子からの告白がこの台詞だった。
高校に入学して間もないころ、クラスの友達には彼氏ができたらいいなとは言ったけど、具体的に誰かとつき合いたかったわけじゃない。異性の好みもなかったし、そのうち実現できればいいなって程度で。
まさか五月を待たずに立候補してくる人がいるなんて夢にも思わなかった。彼は、私とちがうクラスなのに、どうやって私たちの会話を知ったのだろう。私が掃除当番をサボらずに校舎裏の掃き掃除をしてることもだ。他の生徒が寄り付かない木陰は、絶好の告白場所になってしまった。
「最上くんって私のことが好きなの?」
最上くん――最上健吾くんは、背が高くて、おそらく一八〇センチは越えている。落ち着いた雰囲気から大学生にまちがえられてもおかしくない。顔立ちだって、わりと整っている。そんな彼が、私に関心があるとは信じられなかった。
「だから、俺でもいいのかって聞いてるんだよ!」
最上くんは、プイと私から目を逸らした。怒らせてしまっただろうか。っていうか告白しておいて逆ギレ?
「急に言われても、ねぇ……」
驚いたけれど、最上くんの額に浮かぶ大粒の汗を見たら、悪い気はしなかった。誰かに好きと意思表示されるなんて、東京にいたころには考えられなかったから。それを表現してくれたのは、彼が初めてだった。
「最上くんのこと、よく知らないし……お試し期間が欲しいんだけど」
どうして「お試し」なんて口走ったのか、自分でもわからない。
「お試し……それじゃ返事はOKと思っていいんだな!」
真顔で詰め寄ってきた最上くんに、私は反射的に頷いてしまった。
「私、最上くんが思っているような人間じゃないかもしれないよ? つき合っても最上くんを好きになれるか自信がないし」
「そんなの、つき合ってみなきゃわからないだろう!」
直接告白してきたことといい、どうやら彼は果敢な挑戦者タイプらしい。
勢いに押された結果、私に初めて彼氏ができた――お試しだけど。
最上くんから告白された晩、私の報告に両親は対照的な反応を見せた。
「つき合うって、どこの誰と?」
仁パパが、夕飯のカレーライスをよそう手を止めた。目つきが鋭くなっている。いつもはフニャフニャした癒し系キャラなのに。
元々家事が得意だった仁パパは、医者の耀子ママがバリバリ働くために専業主夫として家事を一手に引き受けている。私の得意料理も、すべて仁パパから教わったものばかりだ。
「同じ学校の最上健吾くん。お父さんは普通の会社員で、お母さんは主婦だけど、パートで週三働いているんだって。三人兄弟って言ってた」
最上くんの言う「普通」は、私の家では普通じゃなかった。母親が毎日お弁当を作ってくれるとか、家族で食卓を囲むと兄弟三人でおかずの争奪戦になるとか、家の手伝いをしないとお小遣いがもらえないとか……とにかく、私の家では当てはまらないことだらけだった。
「あらぁ、アットホームなご家族じゃないの。最上くんはイケメンなの?」
珍しく早く帰ってきた耀子ママは、サラダを盛りつけている私の顔を覗き込んできた。
「耀子、男は外見じゃないぞ!」
「でも、見た目がいいに越したことないわよね?」
耀子ママはミーハーなところがあって、勤務先の病院や外出先で自分好みのイケメンを見つけると喜んでいる。はしゃぎ過ぎて、いつも仁パパに大人げないと叱られるほどだ。
だから、仁パパは耀子ママの主張を不満そうに聞いている。
「ウチのことも話したら驚いてたよ」
専業主夫と女医の取り合わせ、男性家事参加型のわが家のシステムは、最上くんの家とは好対照だった。
「東京での話はしたの?」
「まだ。お試し期間だし。別に嘘はついてないから」
私の答えに、仁パパも「そうだね」と頷いた。つき合い始めたとはいえ、相手になんでも打ち明けられるほど私は子供じゃない。
けれど、最上くんは私が東京に住んでいたことを知っていた。
『坂下から聞いたんだけど、小林って東京から転校してきたんだって? アイツ、小林と同じ中学出身だろ』
たしかに坂下くんとは同じクラスだった。正確に言えば、同じ中学に通ったのは一年間だけ。
中学三年に進級した春。私は東京から、電車でも最低二時間はかかる田舎町に引っ越してきた。長閑で平和なところだけど、都会より噂話や詮索好きな人が多い気がする。
『私のこと、他に何か言ってた?』
『頭が良いって。テストは毎回上位三番以内だって聞いた。苦手なこととかないのか?』
駅で別れる直前に、最上くんの質問に答えが用意できなかった。虫は嫌いだし、サラダに入っているキュウリも好きじゃない。でも、最上くんが聞きたかったのはそういうことじゃないはずだ。二人にその話をすると、顔を見合わせて笑いはじめた。
「奈緒、あんた体育の成績は他の教科よりも低いじゃないの!」
たしかに体育はイマイチ。持久走の順位も後ろから数えたほうが早いし、瞬発力もない。
「長所も短所も、自分では気づかないものだからなぁ」
「……あ!」
仁パパの言葉に、最上くんへの答えが思い浮かんだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「自転車に乗れない?」
翌日の昼休み。
最上くんは、私の話を聞いた直後キョトンとしていた。
そう、私は自転車に乗れない。東京では、自転車に乗れなくても不自由しなかった。笑われるかと思ったけど、彼は至って真面目な顔で尋ねてきた。
「なんで? 普通、子供のころに練習するだろう?」
「自転車を買ってもらえなかったから」
「え?」
私は慌てて口を噤んだ。やっぱり最上くんの普通は私のとはちがう。
「……街中じゃ危ないからって、自転車を買ってもらえなかったの。家の近所で練習する場所もなかったし」
「なるほど」
私の言い訳に、最上くんは疑問を持たなかったようだ。
「でも、ここらじゃ自転車に乗れないと不便だろう?」
最上くんの言うとおりだった。。田舎では自動車、自転車の移動が当たり前。都会とちがって一番近いコンビニでも自転車に乗らないと二十分はかかる。
「特訓しよう」
「え?」
予想外の言葉に私は目が点になった。
「何事も、できるまで練習あるのみだ」
最上くんの目が爛々としている。さすが、チャレンジ精神旺盛な人。後から知ったことだけど、彼は中学時代に野球部のキャプテンだった。彼が率いるスポ根チームは、地区大会の決勝まで勝ち進んだという――結果は準優勝だったけど。
「俺の自転車だとタイヤが大きすぎるかもな。小林の家には自転車あるか?」
「親が使ってるのが一台あるけど」
最上くんは私の答えに満足げに頷く。自転車やタイヤの大きさはわからないけれど、早速次の土曜日に自転車の練習をすることになってしまった。場所は私の自宅から一番近い公園。
初めてできた彼氏と自転車の練習なんて……しかも地元で。約束をしてから時間が経つにつれて私は後悔しはじめた。
当日、天気は快晴。最上くんは、約束どおりの時間と場所できちんと待っていた。私が家から押してきた自転車をチェックして、サドルの高さを調整してくれる。私が自分で作業したら、それだけで時間がかかりそうだ。
「足が地面につくよな?」
「うん、大丈夫」
サドルに跨がった私の数メートル先に最上くんは移動した。真正面から向き合うように立ちはだかる。
「それじゃ、足で地面を蹴って俺のところまで来てみろ」
「えっ、支えてくれるんじゃないの?」
私の予想は大きく裏切られた。ドラマで子供が父親にしてもらうみたいに、後ろから支えてくれるとばかり思っていたのに。
「ペダルは漕がなくていいから、ハンドルを握ってまっすぐ進んでこい!」
正面から突っ込めと?
最上くんはサッカーのゴールキーパーみたいに少し腰を落として構えている。目が真剣で、反論は許されない雰囲気だ。
私は言われるままに、自転車に乗ったまま右足で大きく地面を蹴った。
「あれ?」
ペダルを漕がなくてもするすると前進する。私の身長で五メートルなんてあっという間だった。すぐに最上くんが間近に迫ってきて、彼は自転車ごと私を受け止めてくれた。スピードが出ていないぶん衝撃も少ない。
「簡単だろ?」
「な、なんで? ペダルも漕いでないのに結構進めたよね?」
普通自転車はペダルを漕ぐのが当たり前だと思っていた。
「キックボードと同じ要領だ。最初勢いをつければ惰性で進む。まずは左右交互に足をついて弾みをつける。そうやって自転車に慣れるんだ」
けれど、三回目に遊具で遊ぶ子供の声に気をとられた。重心が大きくぶれる。
「きゃっ」
大柄な最上くんが前カゴの縁を掴んで、自転車を止めてくれた。自分の前髪に、彼の息がかかったのがわかる。
「あ、りがと……」
私の声は掠れていた。熱中症と思うくらいに全身が熱い。
「な、ちゃんと受け止めるから。集中して、もう一度!」
想像以上に最上くんは徹底していた。私の動きを観察して、ふらつく自転車を受け止めるタイミングを計っている。
大丈夫。また助けてくれる――気を取り直して私は地面を蹴った。
「よし、その調子だ」
同じ工程を何度も繰り返すうちに、自転車に乗る姿勢を維持できるようになった。
風が気持ちいい。
完全じゃなくても、転ばずに移動していると、自転車に「乗っている」ような気がして楽しい。
足で加速をつける回数が減り、気づけば一時間以上が経っていた。
「そろそろ休憩するか」
待ち合わせが十時半。正午まで三十分もなくなっていた。
「近くにコンビニとかないの?」
「ここからだと、自転車で十分くらいかな」
私の答えに、最上くんは「やっぱり自転車が必要じゃないか」と溜息をついた。自転車は一台だけで、二人乗りはルール違反。
「歩こう」
最上くんは私の自転車を押しながら、コンビニまで一緒に歩いてくれた。彼に一人で自転車に乗って買い物してきてもらうことも考えたけれど、すぐに却下されてしまった。
『一緒に行かないと意味がないだろ』
完全に彼のペースに嵌まっている。
軽い食事を買うだけなのに、意外と時間がかかった。最上くんはパンよりも米飯が好きらしい。おにぎりの具材は鮭や梅。私はBLTサンドイッチ。他に鶏の唐揚げとペットボトルのお茶二本を購入。イートインコーナーで食事をしながら他愛ない会話がはじまった。
「自転車の練習ってたくさん転ぶと思ってた。想像していたよりもバランスがとりやすいね」
「後ろで支える方法もあるけど、それだと運転する人間が不安になって後ろを振り返るんだ。ふらついて危ない」
最上くんは、それが転倒する原因のひとつとも教えてくれた。
目の前にいる最上くんを目指すだけだから、私の視線がぶれずに済んだのは確かだ。
「もっとも、この練習方法は、補助係がちゃんと自転車を受け止められないと成立しないんだけどさ。家の人には今日のこと言ったか?」
「うん。自転車を持ち出す理由を話さなきゃいけなかったから」
最初は驚いていたけど、自転車の練習自体は悪いことじゃないからと両親は快く許してくれた。
「最上くんによろしく言っておいてって。燿子ママは、そのうち遊びにきてほしいとも言ってた」
「小林の家に?」
最上くんはギョッと目を見開く。つき合っているとはいえ、相手の親に会うのは重いのかもしれない。でも、最上くんの反応は私の予想に反していた。
「俺、小林の親に嫌がられていないんだな……よかった!」
最上くんは赤面し、その額には汗が噴き出してきた。反応から見て、彼は本気で喜んでいる。
「今日の練習は、俺が親父から教わったときの方法そのままなんだ。兄貴も弟も、同じやり方で自転車に乗れるようになった」
お父さんから最上くんたちに伝えられた自転車の乗り方。私が教えてもらうのは申し訳ないし、妙に気恥ずかしい。
食後、さらに一時間練習すると、ペダルに足を乗せられるまでになった。漕ぎ出すまでにふらついて、この日は完全に乗りこなすことができなかったけど。
「来週には乗れるかもな」
「だったらいいけど。お父さんが教えてくれた方法でも、最上くんの教え方が上手だからだよ」
思ったままを言っただけなのに、最上くんが口ごもる。照れているらしい。
帰り道、彼は私を自宅近くまで送り届けてくれた。私が遠慮したのもあるけれど、帰りの電車の時間に余裕がなかったからだ。それでも、自分が女のコとして扱われていることはわかる。
「じゃあ、月曜日に学校でな!」
私は無意識に手を振り返す。見送る彼の背中はとても広かった。
あれ――?
月曜になれば会えるのに、最上くんとの距離が開くことに違和感を覚えた。
次の週は、最初にバランスを崩して転びかけたのがまずかった。転倒への不安を引きずり、最後までペダルを漕ぎ出すことができなかった。折角最上くんが練習につき合ってくれているのに……彼も呆れたかもしれない。
けれど、次の月曜日には思いがけないことが押し寄せて、転倒への恐怖などどこかへ行ってしまった。
休み時間に、最上くんのクラスに顔を出すと彼の姿が見当たらなかった。二時限目の授業が終わったばかりだというのに。
「最上くん、今日来てないの?」
彼のクラスの女子には知り合いが少なく、答えてくれたのは中学が同じだった坂下くんだった。最上くんは、私に関する情報の多くを彼から仕入れているらしい。
「小林か。最上は保健室に行ってる」
「保健室? 具合でも悪いの?」
「単純に寝たいだけ。昨夜バイトあがるの遅かったみたいだから」
お小遣いの話は聞いたけれど、アルバイトについては初耳だった。
「バイト……最上くんってバイトしてるの?」
この学校では、アルバイトは禁止のはず。私の意図を察してか、坂下くんも声を潜める。
「大きい声じゃ言えないけどな。あいつン家の近所のラーメン屋に、週末だけ手伝いに入ってるんだよ」
私の自転車の練習も土曜日。バイトも週末だけなら、最上くんのスケジュールを著しく乱している。あの日も、練習の帰りにアルバイトをしていたとしたら――。
私は、三時限目の予鈴が頭の中で反響している錯覚を覚えた。
我に返ったのは、LINEメッセージの着信音が鳴ったせいだ。仁パパからのメッセージ……学校にいる間は、よほどのことがない限り送ってくるはずがない。私は慎重に着信内容を確認した。
「小林、なんか顔色悪いぞ」
坂下くんの声に、私は慌ててスマホをしまい込む。
「帰らなきゃ……あ、職員室にも行かないと」
「どうしたんだよ?」
「親から帰って来いって。最上くんによろしく言っておいて!」
事情を説明している暇はない。私は職員室に直行した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最上くんからのLINEメッセージを確認したのは、三日後のことだった。
『早退したって坂下から聞いたけど、大丈夫か?』『ヒマなときに連絡くれ』『既読ついてないな、具合が悪いとか?』
必要以上にLINEを使わない彼にしては、マメなほうだ。この三日間、私のほうはまったく返信していない。メッセージを読む気にもなれなかったと言ったほうが正しい。彼にだけじゃない。他の友達からの連絡も無視してしまっている。なんとか気力を振り絞って最上くんへの返信を入力した。
『車で東京から帰ってくる途中。明日は学校に行くよ』
車内の時計は十六時を過ぎたばかり。高速を降りたら、自宅まで三、四十分くらいだろう。
「奈緒、ちゃんと休んでおきなさい。ずっと寝てないじゃない」
ルームミラー越しに仁パパの目が見えた。
「大丈夫。眠くなれば、自然に寝られるはずだから」
返事し終わる前に、耀子ママが私の手を握ってきた。いつもは饒舌なのに、無言で私の手を握るだけだった。
二人とも、私に気を遣ってくれているのはわかってる。でも、私はどうやって応えていいのかわからない。
家に着くころには、日が沈みかけて薄暗くなっていた。
「あの子……奈緒の知り合い?」
三日間留守にしていた家の前に、最上くんが立っていた。車のライトに照らされた彼は、まぶしげに目を細める。彼の口の動きで「小林」と呼ばれたのがわかった。
私は仁パパに頼んで先に車から降りた。ある物を抱えたまま。
「最上くん」
「小林! 急に押しかけてゴメン。でも、全然連絡がとれなくて、妙な胸騒ぎがしたっていうか。帰ってくるって言ってたから……」
最上くんは、私が抱えている物に目に留めると言葉に詰まった。
白いカバーを被せられたそれは、見た目以上に重かった。日ごろ縁がない物でも、彼は気づいたらしい。中身が骨壺だと。
「それ……」
「私の、生みのお母さん」
「お母さん?」
最上くんは、眉を顰めたまま鸚鵡返しに尋ねてきた。骨壺の中身は、昼間 荼毘に付した私の実の母親の遺骨だ。
私は庭に移動しようと彼を促した。ウッドデッキに腰を下ろして、今度は私が最上くんに話しかける。
「私を産んだ母はね、見栄っ張りな人で、贅沢なブランド品ばかり買い漁っては、まわりの人間に自慢していたの。子供より自分の楽しみにお金をかけるタイプ」
家事なんてほとんどしない人だった。私は家事を手伝ってもお小遣いはもらえないし、服だってバーゲンで買ったものや、母親のおさがり。自転車なんて買ってもらえるはずがなかった。
父は、そんな母に愛想を尽かして家を出て行ったまま。何年も別居生活が続き、一昨年正式に離婚が成立した。生活態度を改めない母を見かねて、伯母が私を引き取ってくれたのだ。
「今の母は、私の伯母にあたる人なの」
耀子ママは、母のお姉さん。
「私は小林家の養女なんだ」
一年前。私一人が、燿子ママたちの暮らす町に引っ越してきた。最初は戸惑いもしたけど、新しい生活に慣れるのに時間はかからなかった。家事を手伝わなくても叱られないし、お小遣いをもらうのにいちいち言い訳を考えなくても済む。
『これからは、たくさん勉強して、たくさん遊んで。心も体も成長させることが子供の仕事なんだよ』
引っ越してきた最初の日に、仁パパにそう言われて涙が出た。無条件に守ってくれる親。安心して熟睡できる家。その日から、毎日が楽しかった。
「坂下が言ってた。中学のとき、大人の事情で小林がこの家に引き取られたらしいって」
大人の事情って……子供のいない夫婦のもとに中学生がやってくれば、誰だって詮索したくもなるか。
「だけど、小林は小林だし。必要があれば、今みたいに自分から話してくれるだろ?」
私と同級生なのに、冷静な最上くんがとても大人に見える。
「母は、自宅で倒れていたんだって――心臓麻痺で」
無断欠勤が続いたため、不審に思った上司が住まいを訪問。警察まで呼ぶ事態に発展したらしい。
「連絡を受けたときに、ショックじゃない自分にへこんだの」
仁パパからのメッセージを「ふーん」なんて他人事みたいに読んでいる自分にゾッとした。実の母の名前に嫌悪感を覚えた自分自身にも。
「悲しいって気持ちが湧かなかった。自分がよければ、人のことはどうでもいいのかって……あの人と同じじゃないかって」
お腹を痛めて産んだ子供に無関心だった母親。そんな母に、私も似てしまったんじゃないか?
「そんなことはない!」
最上くんは、はっきり否定してくれたうえにこう続けた。
「小林は、まわりに気を遣い過ぎだ。入試のとき、具合の悪い生徒のことを心配してただろ? 別の中学の生徒なのに」
「え……」
少し間が空いたのは、高校受験の当日まで振り返ったせいだ。彼が言っているのは、私の隣の席に座った女子生徒のことにちがいない。風邪気味だったらしく、午前中ずっと苦しげに咳込んでいた。周囲の視線も痛かっただろう。
「俺も同じ教室にいた。あの子と同じ学校からの受験だったんだ」
最上くんは、足を投げ出すような姿勢をとる。
「正直、咳の音が耳障りだった。でも、休憩時間に小林がその子に声をかけてやってるのを聞いて、自分の心の狭さを反省した」
女の子があまりにつらそうだったから、薬を飲んできたのか聞いてみた。病院から処方された薬を持っているけど、食後にしか飲めないから昼食まで我慢するって……あのとき、最上くんに見られていたのか。
「高校に入って、すぐに小林に気がついた。ちがうクラスだったけど、気になったから、同じ中学出身の坂下から色々聞き出したんだよ」
私のどこに興味があったのか、不思議で仕方なかったけど、今ようやく納得できた気がした。
「だから気にするな。お袋さんが死んで悲しむべきだって思う気持ちがあるなら、やっぱり小林は優しい。自分を責めるなよ」
自分を責めるな――その言葉に目が潤む。東京にいたころは、自分が母親のお荷物としか思えなかった。今は、私のままでいいと言ってくれる人がいる。
「入試のときから、私のことを知ってたんだね。どうして、もっと早く声をかけてくれなかったの?」
「それは……普通、いきなり知らないヤツに言い寄られたら警戒するんじゃないか?」
慌てて繰り出した最上くんの言葉はたしかに正論だ。
「じゃあ、もう一つ質問。どうしてアルバイトのこと、私に黙ってたの?」
最上くんが目を瞠る。私が何も知らないと思っていたようだ。
「坂下に聞いたのか? バイトは校則で禁止だからな。バイト先の店長ってのが、親父の中学時代の同級生なんだ。人手が足りないときだけ手伝いに行くことになっててさ」
でも、自転車の練習も土日なのだから、話題にのぼらないのは不自然だと私は訴えた。
「バイトのことを話したら、小林のことだから、遠慮して自転車に乗れなくても構わないとか言い出すに決まってる、絶対」
「ウッ……」
最上くんは「絶対」という部分を強調した。私の性格をすっかり読まれている。
「そんな遠慮をされたら困る。折角の週末デートが台無しだろ」
「デー……」
思いも寄らない答えに、私の顔がじわじわ熱くなっていく。
「私、最上くんに迷惑かけてない?」
「迷惑じゃなくて、心配はかけてる」
学校以外の場所で、彼に会えるのが楽しかった。最上くんも同じ気持ちなら、もっと嬉しい。
「ありがとう」
「何が?」
私が口走った言葉に、彼は目を丸くしている。
私のことを、好きになってくれてありがとう。
そこまで言うのは恥ずかしくて、「わざわざ会いにきてくれて」としか言えなかった。
「自転車を完全マスターしたら、T公園に行こう。あそこにはサイクリングコースがあるんだ」
「うん」
最上くんの爽やかな笑顔に、私は素直に頷いた。
T公園は、この地域では一番のアミューズメントテーマパーク。ジェットコースターや観覧車といった乗り物もあれば、園内で季節ごとに植え変えられる花々も見物できるため、老若男女問わず来場者が多い。
本当にデートにぴったりの場所。
「それじゃ、今度の土曜日も練習?」
「当たり前だろ。目標ができたからには、達成できるまで努力あるのみ! バイトのほうも土曜日の昼間は休めるように交渉済みだ」
彼のスケジュールは調整済みで、私に反論の余地はなさそうだ。
「わかった。目指せ、T公園だね」
「おう、その意気だ!」
どちらからともなく笑ってしまった。
ウッドデッキに繋がるリビング側のサッシが開く。顔を出したのは耀子ママだった。まさか、ずっと聞いてた?
「奈緒、お茶を淹れたから中に入ってもらいなさいよ。えぇと……最上くんで、いいのよね? 玄関にまわって上がってきて」
「はい!」
立ち上がった最上くんは、耀子ママにお辞儀する。私には、二人が同じタイプの人間に思えた。
最上くんと耀子ママ。それに仁パパも。
私を受け入れて、包み込んでくれる人たち。この人たちに囲まれて、私は幸せになりたい。
みんなを幸せにしたい。
まずは、伝えることからはじめよう。
「私、最上くんのことが好きになれそう」
「今更っていうか……ここで言うか?」
呆れた口調で返す最上くんの頬は、やっぱり赤くなっている。彼の額の汗を見て、私は妙に嬉しくなった。
私は最上くんを連れて、玄関の扉へと歩きはじめた。
終