桜井桃華は諦めない!
「え、今日の数学ってテストだったっけ……?」
あたしの頬を、一粒の汗がつたい落ちる。
「昨日、小テストあるよって言ったけど。覚えてないの?」
「聞いてないもなにも、あたしずっと寝てたじゃん!」
「あんたが授業中ずっと寝てたから、私が起こして伝えたんだけど……」
「え」
「あーはいはい、聞いてなかったのね。桜井のことだし、そうだろうと思ったよ」
「冷たいよ杏奈! 思ったんだったら、夜にもメールするとかさ!」
「そこまで面倒見切れるかって。ほら、先生来たよ」
「どうしよう!? どうしたらいいと思う!?」
「人事を尽くして天命を待て」
「それ運任せってことじゃん!」
そうこうしているうちに、テスト用紙があたしの手元に配られた。
「はい、では時間は今から四十分とします。始め!」
絶体絶命の状況。でも……あたしは諦めない!
もしかしたら問題を見たら、簡単に分かっちゃうかもしれないし!
一問目。見たことはある……けど、解き方が思い出せない。次。
二問目。あ、これ先週やった問題だ! 答えは分からないけど。次。
三問目。見たことすらない! 次!
四問目。次!
――そして全ての問題を見た私は、成果として一つの結論を得た。
(分かる問題が、一つもない!)
……え、どうするの? これ、さっそく詰んでない?
ぐぬぬ……数学だから、選択肢あてずっぽう戦法も使えない……。
こうなったら、最後の手段だ。
(桜井桃華、カンニングを決行します!)
仕方ないよね! だって分かんないんだもん!
でも、あたしはカンニングペーパーを用意してるわけじゃない。
つまり、誰かの解答を覗き見るしかないわけなんだけど……。
ここで大事なのは、その標的だ。
先生が前にいる以上、後ろを振り向くことはできない。あまりにもバレバレすぎる。
となると、候補としては……
一、前の席、平々凡々を極めたギャルゲー主人公、宮崎徹。
二、右の席、文武両道容姿端麗の完璧超人お嬢様、蓮宮恋華。
三、左の席、赤点スレスレ低空飛行の陸上部主将、鮎川翔子。
(さて、どうするか……)
普通に考えたら、成績がいい蓮宮一択だ。
でも蓮宮は頭が良い。それは勉強ができるってことだけじゃなくて、頭の回転が早いし勘も冴えてる。解答を覗き見た本人にバレる可能性が一番高いのは、彼女だ。
宮崎はどうだろう。赤点を避けるだけだったら問題ない成績をしてるんだけど、いかんせん位置が悪い。前の席だと、背中が邪魔して見える範囲は限られてくる。
鮎川はあたしに負けず劣らずのバカだけど、だからこそカンニングしてもバレないだろう。でも鮎川の解答をパクったところで、テストの点数は良くなるのか?
迫る時間。追い立てるような時計の針。白紙の解答。
孤立無援の戦場の真ん中で、あたしはついに決意を固めた。
(――よし、宮崎にしよう!)
鮎川は論外。どうせあたしと同じく白紙だろうから、見ても意味がない。
蓮宮とは悩んだけど、カンニングがバレないことが第一だ。もしバレたら、白紙解答の方がマシなほどの目に遭うだろう。
そう考えると、左右の席は覗き見るのに不自然な行動を取らなきゃいけない分だけ危険だ。
あたしは先生の動向をチェックしながら、隙を見て身を乗り出した!
そして、あたしの目に入ってきたものは――
(白紙、だと……?)
その瞬間、あたしは目の前が真っ暗になった。
なんで? どうして? 宮崎は成績は中の中、こんなに数学ができないはずは――
(いや、本当にそうだったか?)
確かに宮崎の成績は、クラス平均とほとんど同じだ。けどそれは、総合成績の話。
じゃあ……得意科目はなんだった? 苦手科目は?
あたしは宮崎と親しくないから、そんなことは知らなかった。だけど、目の前に広がる圧倒的な白は、何よりも雄弁にその残酷な事実をあたしに告げていた。
つまり。
(宮崎、数学できなかったんだ……)
あたしは前傾いた体重を支える力を失って、前のめりに机に倒れ伏した。
そして――あたしの戦いは、無残な敗北で終わったのだった。
「で、どうだったの? 鉛筆は転がした?」
「数学で鉛筆転がして、何になるってのよー……」
あたしは顔を上げずに答える。
「ま、これに懲りたら次は頑張ることだね」
「そうだね……。まずは、視力検査でトレーニングしようと思う!」
「……は? どういうこと?」
「桜井さーん、ちょっと来てもらえる?」
と、先生の声が私を呼んだ。
「はい! どうしましたか、洋子先生?」
「ちょっとね? お話したいことがあるの。面談室まで来てもらえる?」
「お話ですか? いいですけど、職員室ではなく?」
「そうね。職員室だと誰か来るかもしれないし、そっちの方がいいかな」
面談室じゃないと話せないこと。先生に呼び出されるようなこと。このタイミング。
……まさか。
「あの、その……で、出来心だったんです……」
「うん、そのあたりも面談室で話すから、とりあえず来て?」
その顔に浮かべた満面の笑みとは裏腹に、あたしの腕を掴む力は強い。
「お、鬼! 悪魔!」
「ふーん、そういうこと言うんだ。じゃあ、ここで全部言っちゃおうかな?」
「うっ……」
教室で全部バラされたりなんかしたら、あたしの尊厳が……
「あー、視力検査ってそういう……」
「杏奈! か弱い私を助けてください」
「自業自得でしょ。たっぷり絞られてきな」
「そんなぁー!」
洋子先生に引きずられるようにして、教室を後にするあたし。
一つだけ、訂正しなきゃいけないことがある。
それは、あたしの戦いなんて、最初から成立してなかったんだってこと。
だって――あたしには始まる前から、負けしか用意されてなかったんだから!