第8幕-7
まるで真冬の吹雪のような冷たい顔のティネケと、砂漠の熱波のような熱く驚く顔のハルとの間に一筋の紅い閃光が走り、聖剣を握る彼女の腕は宙を舞い落ちていった。
その紅い閃光はティネケの掌から放たれたが、2発目は咄嗟にハルの体を操作する聖剣が顔をそらせたことで空を斬ったのである。そのまま聖剣はハルに右足を上げさせ自身を彼女の腕ごと引き寄せさせると、左手に柄を握らせながら間合いを取らせようと後ろへ跳躍させたのだった。
「うぁぁあぁああ!"痛みは止めた!落ち着け、ハル!"」
だが、何とか距離を取ってティネケの魔術の射程から離れたという聖剣の安心は、焼け焦げ付き湯気を上げ炭化した右腕の断面を彼の柄ごと押さえ絶叫するハルによって遮られたのである。
右腕の断面からは脳を焼き切り視界と平衡感覚をかき乱し、背筋が凍らせ内臓を掻き回されるような激痛がハルの神経を駆け巡り、彼女はその場で大粒の涙を落としながら跪いたのであった。
それでも、聖剣の檄と彼によって体を駆け抜ける痛みと不快感が消えると、ハルは未だ聖剣の柄を握りぶら下がる己の右腕の断面を元の場所に強く押し付けた。
だが、ティネケが耳まで裂けているかと思える笑みを浮かべるその視線の先で、ハルの右腕は遂に聖剣の柄から離れて地面に落ちたのである。
「ゆっ……油断した"クソが、断面が焼けてやがる。腕を傷口から繋げられない!あの性悪、どこまで姑息に"聖剣……もういい、腕の一本より生き残ることを考えないと!」
「勝つためなら、手段を選ばないのは戦い常でしょうに……まして、敵を前に"話し合い"?私はねハル、貴女を殺せるならそれ以外はどうでもいいの。私の方が貴女より遥かに優れてることも解ったから……」
自分の体の一部でなくなった右腕を早々に忘れたハルは、聖剣の力強く震える声に首を振って応じると眼の前の敵と相対した。
ハルの眼の前に居るのは、もう彼女にとっては傷だらけになり胸に致命傷とも思える傷を負う姉ではない。それ以上に人でもない何か悍ましく禍々しい何かとさえ思えたのである。
そんな"姉のような何か"となったティネケは、胸から滴り落ちる血に顔を一瞬だけ歪ませながらも潰れた箇所を左手で無理矢理引き上げた。その最中も彼女は胸や右腕、全身から来る痛みから逃れるように静かにハルへ語り続け、その顔を冷たく静かなものにした。
その言葉もハルの耳には殆ど通らず、彼女はただ眼の前のティネケへ利き腕でない左手のみで刃を構える。
刀身は聖剣の補助があっても僅かに揺れ動き、ティネケの視線が月に輝く刃とハルを数回行き来したとき、彼女は最後に軽く微笑んだ。
「そろそろ終わりにしましょう?」
ティネケの一言と共にハルの間合いの中で左右の草が一気に蹴り上げられ、歪む空間が彼女の元へと一直線で迫った。
眼の前にティネケを見定めながらも、ハルは彼女から目を反らさず聖剣から感じる情報に合わせて体を動かしたのである。その波打つような歪みは左右で大きさが異なり、右側は巨大な板のようなものを前にして突き進み、反対側は対して身軽さを重視しつつ両手を腰に当てているように感じた。
突撃のタイミングもほぼ同時ではあるが、僅かにずれがあり板を持つ何かは後に遅れてやってくることを理解したハルはティネケを見据えたまま右から迫る相手の二振りの袈裟斬りを左の剣でいなし、左から来る相手の板に左足で蹴り止めたのである。
その衝撃は辺りの草を吹き払い、迫る影の正体を顕にした。
「嘘でしょ!」
「なっ!防いだたとぉ!」
キュリロス達が与えた姿を隠す布が衝撃で剥ぎ飛ばされると、その内側にいたアルタとクラスの姿が現れた。
大盾を使った突撃により体勢を崩して下段から斬り上げようとしたアルタはハルの蹴りつける足裏で完全に勢いを止められ、まるで壁にぶつかったかのように自分の大盾に勢いよく右肩をぶつけたのである。
一方でクルスは跳躍から勢いに体重を重ねた両手の長剣による斬撃は、左右で時間差をつけることで防御をし難くする意図があった。それさえも見事に防ぎきると、クルスはハルの聖剣を押し込もうとしながらも力なく着地してしまうのだった。
闇夜に紛れ透明化した奇襲でありながら見事に防がれたことで、2人はその目を見開いてハルを見つめたのである。
「"クソッタレ、また光学迷彩か!"しつこい!」
一方で片腕がないからこそ反撃と防御を同時に行えないハルはクルスとアルタを抑え込むので精一杯となっていた。それでも眉間にシワを寄せ堪えるハルは眼の前で左手にハルバードを持とうとするティネケを警戒しつつクルスの刃を抑える左腕に力を込めた。
そして、精一杯の悪態を聖剣と共に放つと、ハルは自分の体を大きく捻りクルスをアルタへ叩きつけながら大盾を蹴りつけ2人をティネケの方へ吹き飛ばした。
その一瞬で自分達を吹き飛ばすハルの技を前にした2人は驚く間もなく宙を飛ぶと、アルタは盾を使い着地と共に地面を滑りクルスは何度となく地面を転がった。
「クルス、退いて!ここは私が抑える!」
「アルタ!その大盾じゃアイツには追いつけない、俺がやる!」
ティネケの前で勢いを殺しきったアルタは、空中で異様な動きによって自分達を吹き飛ばしながら既に戦闘態勢に入るハルへ向けて大盾を構えながら身構えた。その後ろでは頭を何度となく振り意識をはっきりさせてたからようやく立ち上がるクルスが剣を構え、ようやく2人はハルに連携して立ち向かえるようになった。
その後ろでは、彼等と同様に透明化してティネケの側に辿り着いたフアニタが治癒魔法を掛けていた。その効果によってはティネケの砕けた右肘や肩、胸の骨や筋肉に内臓は少しずつ元の場所へ戻りそれぞれが結合を始めたのである。それでも治りは遅く、フアニタが青い顔をしながら何度かけ直しても速度に変化はなかったのである。
背後に負傷し治療を受けるネーデルリアの女王がいる限り、クルスとアルタに移動するという選択はなかった。
だからこそ、大盾を持つアルタが前に出ようとするもそれをクルスは睨みつけながら怒鳴って止めたのである。
「でも……」
「良いからまかせろ!」
ハルを前にしながら後ろで僅かにふらつくクルスへ振り返りながらアルタは顔を曇らせた。そのまま彼女は彼へ労りの言葉を掛けつつ前衛後衛を諭そうとしたのである。
それでも、クルスは己の意見を変えることなく突撃し、アルタの横をすり抜けハルの元へと一直線に駆け抜けたのであった。
「いくら剣聖でも、片腕がなきゃあぁぁあ!」
両手の剣を翼のように広げながら駆け抜けるクルスの疾走は早く、草葉を蹴り上げ雄叫びを上げることでより一層加速すると一瞬でハルとの距離が縮まった。
「うぉぉおりゃぁあ!」
そして、下段から両手の剣を一気に斬り上げるように振るクルスは、身動き1つ取らないハルを前に自身の斬撃の必中を確信してほくそ笑んだ。
「げはぁ!」
「"素人が"出しゃばんな!」
だが、クルスの斬撃より早くハルのブーツの足裏がクルスの顔に直撃すると、彼は潰れたカエルのような声を出した。
そして、ハルと聖剣は遅く大振りすぎる動きを前に怒鳴りつけると、こめかみに浮き出た血管を消し去るように追加でクルスを蹴り上げボールのように蹴り飛ばしたのである。
そのままクルスを仕留めようとしたハルだったが、その一歩は聖剣に無理矢理止められると彼女は瞬発的に体を後ろに反らした。
「うっ!"今度は弓矢かよ"なら……」
反らしたハルの横を3本の矢が飛来すると、縦に綺麗に並んで地面に突き刺さった。そのうちの1本は彼女の足先に突き刺さり、身を反らさなければ確実に胸や腰、臀部と体の動きに重要な部分を射抜かれていた程である。
だからこそ、ハルはクルスより森の暗闇の中に見えた一瞬の空間の歪みへ向けて突き進もうとしたのであった。
「させるかぁ!」
ハルの意図に気付いたクルスは地を転がり草を纏いながらもその目を血走らせ、足にあらん限りの力を込めた。その瞬間、踏み込んた地面は深く沈み蹴り出した後には大きな土煙が立ったのである。クルスに呼応するかのようにアルタも大盾を構えて駆け出すと、森の中で狙撃を行うシルビアとハルの間に立つため重装備の騎士とは思えない速度で走り始めたのである。
クルスの瞬間的な加速は風を置き去りにする程であり、油断したハルは彼の接近に反応が遅れ右手の刃は喉元目掛けて突き出されようとした。
しかし、ハルまであと数歩というところで急激にクルスの加速は劇的に遅くなり、アルタは重装備な見た目通りの重い足取りで踏みしめるような足取りとなったのである
「なっ、強化が切れた!」
「フアニタ、何やってんだ!強化魔術を!」
「キュリロス司祭にティネケ陛下も治癒してんのに無理だよ!ワタクシはロヘリオみたいに……クリス、後ろ!」
突然にこれまで羽のように軽かった自分達の体が急激に重くなった感覚を前にしたアルタは、転倒を堪えるため必死に足を動かし続けた。それに対してクルスは、ふらつく足を止めると、その場で立ち尽くしハルから離れるより先にフアニタへ怒鳴りつけたのである。
その怒鳴り声の先にいるフアニタは、ティネケの治療から倒れたままのキュリロスの治療にも取り掛かり始めていた。その手さばきや回復魔法の効きはティネケのときと同様に遅く、むしろ魔術を使えば使うほど彼女の動きが鈍くなるほどであった。
だからこそ、フアニタはクリスの言葉に歯を食いしばるも、震える手からは回復魔術の効力を与える光が消え彼女の口は反論を出したのである。
そのフアニタの反論が叫びに変わったとき、クルスは背後に死を感じた。
「"じゃかあしいんだよ、ガキが!"聖剣、ダメ!」
振り返るクルスの眼の前には聖剣を振り上げるハルの姿があり、吠える聖剣の怒気はまるで熱を帯びているようでありながらその瞳には冷たい殺気が満ち溢れていた。その強烈な寒暖差は彼の神経を強張らせると、クルスの足は強張り両手に持つ剣は激しく震えたのである。
更には意図せぬ剣の腹で打ち付けるだけでも頭蓋を粉砕できる力が聖剣から彼女の腕に込められると、ハルは眼の前で顔を青くし恐怖の前に涙目になるクルスに顔を歪めると聖剣に叫んだ。
「おっ、俺かよ!」
「クルス!」
「クルスぅ!」
聖剣の覇気とハルの叫びに肩を震わせたクルスは迫る刀身を前に涙に潤む目を見開き、アルタとフアニタは彼に振り下ろされる刃を前に叫んだ。
「うぉおぉおいあぁあぁあ!」
2人の叫びを聞いたクルスは遂に堪えていた恐怖の栓が弾け跳ぶと、木の葉さえ飛びそうな叫びを響かせその目を閉じたのである。
だが、クルスの瞼がその閉じる力に震え、彼が意味がないと知りながらその身を守るために両手で振り下ろされる筈の刃を受け止めようとするも、ハルと聖剣の一撃は来なかった。
「"バカハル!何やってる"でも、殺すのはダメだよ!"アホ、今そんなこと……"」
聖剣はハルによって押し止められ、クルスの両腕の前で止まっていた。ハルは必死に聖剣からのクルスを叩き斬らんとする刃を抑え、彼女の腕はそれぞれの相反する意志を前に震え柄や鍔が激しく打ち鳴らされるほどである。
眼前の刃を前にしたクルスは九死に一生を得たことで怯える足は力を失い尻餅をつき、なんとか動く腕てその身を必死に引きずりその場を離れようとした。その姿に聖剣はハルに叫ぶも、彼女は彼の声をかき消す程に叫んだ。
そして、ハルの優しさに腹を立てる聖剣の正論は更に遮られた。
「死ね、ハル!」
「くっ!」
ハルの眼前にハルバードが振り下ろされると、彼女は即座に身を屈め後転すると再び振り下ろされる斬撃を受け止めた。そこにはティネケの姿があり、窪んだ胸や折れた腕は既に回復し使い物にならなくなった鎧が捨て去られたことで彼女の動きは音さえ置き去りにしていると思えるほどである。
何より、ハルの命を消し去らんとするティネケの殺意はそれまでより遥かに高まり、まるで"傷の回復と共に強化された"ように感じられるほどだった。
素早いハルバードによる斬撃は片腕を失ったハルには受け止めきれず、受け流す度に彼女は後ろへ押しやられ必死に体勢を維持しながら独楽のように回るティネケからの次の刃を払い続けた。
「ちっ!」
「"もうあんな動けるのかよ!"この人、本当に姉上なの!」
片腕が斬られたことでバランスが取りにくくなったハルは、完全にティネケの斬撃範囲に捕らえられた。斬撃はそれまでの動きと同じく独楽のような回転から放たれる斬撃ではあった。されど、その速度はそれまでより圧倒的に早く、ハルの目に斬撃の瞬間は刃の煌めきしか見えなかった程である。
それでも、聖剣の予測とハルの反射神経によって刃は受け流され、ハルの皮膚や既に破れ血まみれの服を引き裂くのみであった。致命打を与えられないティネケは舌打ち、反撃の糸口を得られないハルと聖剣は眼の前の猛攻から逃れる術を考え続けた。
「てりゃぁあぁあぁあ!」
「うぉおぉおぉおおお!」
その渦中、アルタとクルスは再びハルの元へと大盾や双剣を構えて突撃した。その速度はハルの反撃を受けたことでの消耗や強化がないこと、何よりティネケの斬撃の合間を縫うことを考えすぎたことで圧倒的に遅かった。
しかし、ティネケの斬撃に対応することへ額に汗を流し地につけた足の踵が少しずつ土を押し上げめり込むハルからすれば、背後から来る増援は厄介以外の何物でもない。
だからこそ、ハルは先に2人を対処しようとティネケの斬撃を聖剣の腹で受けたのである。
「だからしつこい!」
「うごはっ!」
「ぐぅぅっ!」
ティネケの斬撃を受け止めた瞬間、ハルはその場で足を浮かし敢えて吹き飛ばされた。その勢いは一瞬でアルタとクルスとの距離を縮められる程である。
そして、ハルは聖剣からの補助に従い空中で回転しながら矢のごとく足を突き出しクルスの顔面に蹴りを入れようとした。
しかし、ハルの覇気と直撃が決まる瞬間にアルタがクルスの脇腹を蹴り飛ばすと、大盾によって彼女の一撃を受け止めたのである。その力は大盾を凹ませ、遂には中央から横一線にヒビを入れると真っ二つに割砕いた。
大盾を砕くほどの衝撃はその場での爆発すると、反対側に立っていたアルタを地面に叩きつけるだけでなくハルの跳躍の勢いを殺し切ってしまった。
「貰った……」
「しっ……"しまった!"」
もろに腹から倒れるクルスは息を吐き出し藻掻き、背中から倒れ込んだアルタは剣さえ落とし動きを止めた。それと同じく、ハルも着地したことで一瞬動きを止めてしまったのである。
ティネケは当然その瞬間を見逃さず、ハルバードを構えその切っ先をハルに定めた。彼女の冷笑が頬を裂き見開かれた瞳が着地の衝撃を逃がしながら振り向こうとするハルを捉えると、ティネケは全身に駆け抜ける魔力を宝玉の一点に送り込んだ。宝玉の輝きは炎のような橙を青白い光が抱き込み、夜空を昼のように照らすほどである。
ティネケの笑みが消え去り彼女が必中を確信し、ハルはクルスとアルタを一瞥しながら次に来る魔術攻撃に身構えた。
「MagicArrows!」
「嘘でしょ!」
「おい、俺達がまだいんだぞ!」
「"なっ!"そっちの味方がいるんだぞ!」
爆音と共にティネケを足を踏ん張らせるだけでなく、彼女を後方に押し出しよろけさせながら撃ち出された魔力の塊は一直線にハルの元へと駆け出した。その青白くも紅蓮に光る魔力は光の尾を真っ直ぐに曳くと、無数に弾け光の華を辺りに散らしたのである。
そして、舞い散った光の華は更に無数の光線となってハル達の元へと殺到した。ティネケの魔術は彼女の回避や逃走を防ぎ必殺を前提とした広範囲攻撃である。落とした剣を慌てて拾おうとするアルタもようやく息を戻し立ち上がろうとするクルスさえ、ティネケには見えていなかった。彼女にはハルの姿しか見えておらず、ティネケはハルに己の魔術が当たることのみ考えていた。
だからこそ、目を見開くアルタや涙目のクルスの叫びも聞かず、驚愕に顔を歪ませるハルと聖剣の怒声も無視してティネケは闇夜を照らす己の魔術を見つめ続けたのだった。
「"クソゴミ共がぁ!"」
聖剣は叫び、ハルは空かさず足元に広がる大盾の破片を魔術の光に蹴りつけた。大小様々な破片は無数に夜闇の中へ広がり迫る魔術の矢を砕き、その流れを四方に散らした。それでも残るうち漏らしは聖剣を地に突き刺しその腹を向け、彼女は盾のように構えその身を隠したのである。
だが、聖剣の刀身はハルの全身を隠すには細く、雨のように細く細かく突き進む魔術の矢を防ぐには限界があった。左肩を聖剣に押し付け着弾の衝撃を押し殺そうとするハルの僅かにはみ出した左足や右肩、背中や腹は光が駆け抜ける度に貫き引き裂かれ、焼ける血肉が煙を上げると彼女の神経を焼き背筋を凍りつかせ脳を激しく揺さぶった。吹き出す汗は切り傷から流れる血と共に服を汚し、巻き上がる不快感は彼女の嗚咽を止め処なく起こさせたのである。
聖剣が必死に痛覚を止めても削られる体力は着実にハルの動きを鈍らせ、筋肉を停滞させた。
その緩慢になったハルの体はティネケの魔術の嵐が去った直ぐには動かず、その隙に彼女の左肩は聖剣を巻き込むほどの衝撃に襲われたのだった。
「キリリりリアらリラあらァラア!」
「つっ、次から次に!"糞が!"」
千切れた服はそのままなれど、聖剣を構え無数の刺突をハルに叩き込むキュリロスの全身は既に元通りとなっていた。聖剣により無理矢理に動かされている筈の彼の体はその動きを確実に再現し、刃先は音を超え剣戟の光さえ忘れたようにハルへと濁流のように打ち込まれるのである。
聖剣を左手で掴み直したハルだったが、その腕は彼に補助されても震えだしキュリロスの刺突を受け入れなかった。急所以外の刺突はかすり傷から刺し傷へ変わり、彼女の剣は遂にキュリロスの刺突に追いつかなくなった。
「あっ……"バカ!"」
そして、遂にハルはその身をよろけさせ後へ倒れかけた。その体勢が崩れる瞬間に彼女は跳ねるように左足を出してしまい、遅れた右足はまるで不格好な蹴りのように空中を漂ったのである。
自分の動きに思わず声を漏らしたハルを聖剣が怒鳴りつけたときにはもう遅かった。
「貰ったよ」
ハルはキュリロスの刺突を右太腿にもろに受けると、その足を無理矢理地面に下ろさせた。貫いた刀身と足の接地による傷口への衝撃は殆どの痛覚を聖剣によって止められたハルには感じることはなかった。
だからこそ、ハルは敢えてそのままキュリロスの突撃を受けつつ彼をはたき飛ばし意識を刈り取ろうとしたのである。
そのとき、ハルのすぐ横の空間が歪み弾けると、十字架のような剣を振り上げる黒と白のシスター服に胸甲を着けたダフネが現れた。自身の直ぐ側から伏兵が現れたことに目を見張ったハルと聖剣だったが、2人はそれ以上に何もできなかった。
ハルの右足は鈍い音と共に引き裂かれ、草葉の音と共に倒れた
「うっ……ぐぁぁぁあ!"ハル、動け!とにかく逃げろ!"」
「させるわけない」
右足を失った瞬間、聖剣はその後の動きを演算するために己の能力の大半使っていたハルの痛覚を戻してしまった。その判断はハルの脳を揺さぶるだけでなくその身を硬直させるだけでなく、絶叫によって発散させたのである。
聖剣が演算を停止させて痛覚を再び止めても、急激な痛みのぶり返しはより一層ハルの動きを止めさせた。聖剣の檄でも彼女は多少跳ねるだけであり、全く距離を取れなかった。
そこにティネケが飛び込んでくると、彼女はハルの首を掴み持ち上げた。
「片手片足で私から逃げられる訳ないでしょ、ハル?」
「ティ……ネケ……」
細腕からは想像できないティネケの握力と腕力はハルの首筋を締め上げ、彼女は抑えつけられた息と血流に顔を赤くしながら藻掻いた。
だが、ハルが聖剣の柄を腕に叩きつけ左足で脇腹を蹴り上げてもティネケはびくともしなかった。それはハルの右腕右足がなくなったことで体が上手く動かないからだけでない。
ダフネに強化を施されたティネケは、単純な鍛錬と聖剣で強化されたハルの筋力を凌駕していたのである。
「くっそぉぉお!"ハル、よせ!"」
慈しみを体現したような穏やかにして温かい笑みを浮かべるティネケは、息を詰められ遂に顔を青くするハルの首を折ろうと一層力を込めた。その圧迫に耐えられなくなったハルは聖剣が止めるのを無視して残る力を振り絞りティネケの腕を膝蹴りすると左手の聖剣を振り上げた。
「オイタの罰よ」
ハルが振り下ろすより早くティネケは右手のハルバードを振った。手首の最低限の動きながら刃が遠心力から鋭く回り地面を抉ると、その勢いはハルの手首を叩き落とすだけでなく余った勢いで肘から下さえ切り落としたのである。
取れた手から聖剣が滑り落ち地に突き刺さり、ハルの体から完全に離れたことで完全に彼の彼女に対する補助は完全に切れた。それはハルの痛覚が一気に回復することを意味し、彼女は目から涙を流し全身の傷口は出血を再開するとともに彼女の神経を痛みで引き裂かんと荒れ狂い出した。嵐のような全身の痛みはハルの脳の処理をとうに超えていたため、彼女は血涙に鼻血さえも流し始めると、静かに痙攣するだけであった。
「いや、少し足りないね。追加」
「はっ……」
ハルの血涙と鼻血は頬や口を垂れ、ティネケの白い手を赤く染めた。その瞬間、ティネケの奥歯が砕ける音を立て彼女はハルの首から手を離した。すると、直にティネケはその手を何度となく払いながら無詠唱により回復魔法の薄緑の光をその手に放ちながら両頬に手を添えた。
その頬にまだ残っていたハルの血が付くと、ティネケは静かに深呼吸した。そして、まるで悪戯をした子供を叱るような優しくも凛々しい口振りでハルに話しかけると、ハルバードを振り上げその刃を彼女の左足に振り下ろしたのである。
刃はハルの股関節から深々と臀部の筋を引き千切り、骨を砕いて弾けさせると神経を裂き血管をもぎながら、ティネケは満面の笑みを浮かべた。
「あぁぁあぁああゔぁあぃあぁああいたぁあ!」
「あらあら、随分といい声。そうそう、こういうのを見たかったの」
乱雑にハルバードを引き抜いたことで目の前を飛び上がる自身の左足を見たハルは、眼の前の現状に一瞬だけ反応できなかった。
それでも、地面に足が落ちる音と共に傷口から吹き上げる痛みが全身の傷口と共に脳を駆け抜け、ハルの瞳は瞼どころか瞳孔さえも開き切り絶叫した。その痛みは体のあらゆる筋肉の制御を失わせ、彼女はただない手足から血を吹き出させながら体液と尿の混ざった血溜まりでのた打ち回らせたのである。
ハルの姿を見下ろすティネケは、爪先で彼女を何度となく蹴りつけながら恍惚と笑い、その度に振り上げる力はハルに鈍い音を立てさせ振り下ろす足裏は彼女を地面に沈めたのだった。
「はっ……あうぁ……うぅ……」
「痛いでしょ、苦しいでしょ!普通、手足を切り落されたらそう反応するものよ!涙から何からと流して、悲痛に叫んでこそでしょ!聖剣使いだからって、それが正しいの!」
ハルはティネケに対して何もできなかった。彼女はティネケに蹴られればその度に嗚咽をならし、踏みつけられる度に沈み込み、ただされるがままだった。
そのことに、ティネケは顔を上気させると遂にハルの腹の上に飛び乗り、まるでオペラ歌手のように天を仰ぎながら高らかに叫んだ。
「泣け!苦しめ!私からお父様を奪う泥棒猫め!穢らしい汚れた血め!お父様はお前みたいな薄汚れた女が近寄って良い人じゃない!私のような高貴で選ばれた者こそ!お父様の愛を受け取るに相応しい!だから、私は今、貴女に勝ったの!これが世の摂理!正しさ!」
ティネケが踏みつける度にハルの肋骨は砕け、彼女が蹴り上げる度に内臓は潰れ始めた。ハルは臓物の欠片の混ざらせ吐血を始め、その姿にティネケは背筋を震わせ瞳を閉じて己の身を抱きしめたのである。
「あぁ、お父様!私は遂に成し遂げました!貴方を蝕む悍ましい寄生虫を私は退治しました!お父様、どうか私を褒めてくださいましね!」
ティネケは己の完全勝利にハルヘ馬乗りになると、彼女の顔を殴打し始めた。それはただ彼女のハルに対する悪意の発散であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
だからこそ、ティネケはハルの折れた歯や鼻から血が飛び散り己の体を汚しても、もう気になることはなかった。
ティネケは、ただ悪意の塊となったのである。
「これは……なかなか派手ですね……」
「経典に反し人の理から離れた獣です。今の彼女は"人の言葉を話す野獣"です。だからこそ、人間社会に害をなす前に"駆除"しないと」
ティネケの姿は既に死体蹴りにも等しかった。しかも、その凄惨さは奇襲という卑怯な手段かつ下手な剣術なりにも上手くハルの足を痛み少なく切り落とそうとしたダフネの額に汗の玉を浮かせるほどである。
その傍ら、聖剣を納刀したことで正気に戻ったキュリロスはティネケの姿に何度となく頷き、彼なりの持論と共に拍手を送ったのである。
そのキュリロスの論に頷くダフネは輝く笑みを浮かべると、最後には彼と同様に拍手を持ってティネケの行為を讃えたのであった。
「クっ……クルス!これはたとえ魔族と内通してるとはいえ、人間相手にして良いことじゃない!止めさせよう!」
「バカ、アルタ!そんなこと言ってると、私達まで魔族として討伐される!」
「シルビア、これはもう戦いでもなんでもない!抵抗できない相手を嬲り殺しているだけだ!こんなこと、相手が悪党であっても許されるわけがない!」
一方、ティネケから自分達さえ気にせずハルヘ放たれた魔術により巻き添えを食ったアルタとクルスは、その場に伏せることで直撃はなんとかさせることができた。それでも、2人は流れ弾に数発あたりフアニタに治療されることでなんとか立ち上がれる程度にはなった。
それでも、アルタは自分達味方の巻き添えを意に介さず攻撃し、既に虫の息となるハルを打擲し続けるティネケとそれを称賛するキュリロス達は異常でしかなかった。そのことをクルス達に言っても、アルタの意見は合流してきたシルビアの睨む視線と刺すような口調によって止められそうになった。
だが、アルタは止まらず、ハルの姿を見つめるクルスの背中へ駆け寄るとその肩を掴み彼へ語りかけたのである。
しかし、アルタの手は直ぐにクルスの手によって払われた。
「アルタ、それ以上何も言うな」
「クルス、貴方だって勇者でしょうに!義によって戦う私達が……」
「だとしてもだ!」
アルタへ振り向くクルスは、ただ俯き彼女の両肩を掴むと呟いた。力ない口調はおおよそ勇者とかけ離れたものであり、弱々しい少年そのものなのである。
アルタの正義はクルスという少年には重く、そして正しすぎた。
「協力すれば俺達の株が上がる。今まで"アイツ"がいなくなってから俺達を馬鹿にしていた本国の連中だって、グイリアから感謝状を貰う俺達を見直す筈だ。組合だって……」
「クルス……」
「だから、アルタ……お前は黙ってろ!」
アルタの肩を振り彼女の目を見据えて話すクルスの瞳は震えていた。それは戦場の恐怖でもなんでもない、彼自身の劣等感である。クルスはとうに正義でもなんでもない承認欲求に従って動いているだけなのである。
アルタはそれでも正しさを口にしようとしたが、眼の前の少年を前に開きかけた口を閉ざすと彼の手を力強く払いながら腰に差していた剣を放り捨てながら背を向けた。
「変わったな……みんな……変わってしまった……」
アルタはこれ以上その場にいることができなかった。彼女なりの正しさや世界の正義、人のためを想い盾を突き出し剣を振るうつもりであった。人々の生活に必要だと信じたからこそ、アルタは剣聖ハルと戦う覚悟をしたのである。
「いや、私もか……」
アルタは、正しさを説きながら眼の前の悪に立ち向かえない己に下唇を噛みしめると、流れる血の味と共に歩き出した。
「それで、これからどうします?キュリロス様?」
「そうですね、先ずは一旦ここから運び出して……」
そんなクルス達のことなどまるで元から居ないかのように気にしないティネケは、ようやくハルを殴ることに飽きたのか彼女の上から立ち上がった。上気していた肌はいつの間にか白く、二転三転していた彼女の表情はいつの間にか氷のように冷やかなものとなっていたのである。それだけでなく、気にしていなかったハルの血を被ったていたことを前にティネケは直ぐに飛び散った血を拭き始め帰り支度さえ始めたのである。
その姿を前に、ダフネは血塗れになり顔を殴打で誰だか分からなくなるほどに顔を腫れ上がらせたハルの脇腹を足先で小突きながらキュリロスに尋ねた。
それに応えるキュリロスだったが、手に何重にも布を巻き付け地に刺さる聖剣を掴もうとしたとき、彼の足に違和感が走った。
「くっ……がぐぅぁ……」
「ほう……なるほど……」
ハルは聖剣に手を伸ばそうとするキュリロスの足に噛みついていた。必死に地面を藻掻きながら進んだのか、地面は虫が這ったかのように草が沈み、体液の跡が付いている。更に彼女の前歯は殆どティネケに殴り折られ、舌に破片が刺さり歯茎からも血が噴き出していながら、ハルは彼が聖剣に触れるのを止めようとしたのである。
開いた瞳孔は既に思考ではない本能による行動をキュリロスに悟らせ、彼はもう心身共に死の淵に立つハルを蹴り払った。
「ダフネさん、燃やしなさい」
「はい、キュリロス様」
キュリロスはハルを見下げて呟いた。その瞳はゴミを見るようなものであり、ハルが噛んだアキレス腱辺りを軽く払うと早々に彼女から離れたのである。
キュリロスの指示に従いハルのそばに寄ったダフネは、十字架のような剣の柄から手を離しその刃の部分を握り直したのである。握る手が刃に食い込み掌の皮を裂いて血肉を切り裂くと、滴る彼女の血は十字の重なる部分に埋め込まれた赤い水晶に辿り着いた。
「よろしいですね、ティネケ陛下?」
「あぁ……お父様……」
血の流れを確認したキュリロスは、少し前まで帰り支度を始めていたティネケへと声をかけつつ振り返った。そこには、鎧の潰れて使い物にならなくなった部分を脱ぎ捨てハルバードの柄を地面に突き刺すティネケの姿があった。既に彼女の中でハルは死んだものとして扱われており、ティネケの胸中には死体の今後などどうでもよかったのである。
ただ、ティネケは国にいる国王である父のこと以外考えられなかった。
「なるほど、主は許されたようです」
「では、汚物は消毒ですね」
大きく深く恭しく頷くキュリロスがダフネへも同様に頷くと、彼女は刀身を握る力を更に強めた。
すると、十字架の剣の宝玉が深紅に輝きながら絵の先へ血を送り始めた。その血の流れは柄尻の部分に殺到すると小さな雫を作りだしたのである。その雫は柄の先から落ちることなく大きくなり、林檎のような大きさにまで膨れ上がった。
ダフネが軽く剣を振り、その雫が柄からハルの元へと真っ逆さまに落ちた。
「がぁあぁぁあぁぁぁあぁあぁあ!」
ダフネの血が集まりできた雫がハルの背中に落ちた瞬間、ハルの背中は紫に輝く炎に燃え上がったのである。その炎はどこから見ても紫一色に燃え輝く異様なものであり、背中に落ちた筈の炎は一瞬でハルの全身を包み彼女の全てを焼き払おうと燃え上がった。
生きながらにその身を焼かれるハルは、その熱と痛みに叫んだ。夜闇の森に響き渡り、鳥達さえも眠りから覚め飛び上がりそうなその叫びは彼女の声帯を引き裂きそうな程である。
しかし、その叫びも口の中にさえ入り込む炎がかき消すと、身を焼かれる痛みに身を捩り苦しむハルは動かなくなったのであった。
「良かったですね、キュリロス様。他の方々が山のように去っていってしまいましたが、これだけの戦力で対応しきれるとは」
「これも主の導きがあったからこそです。そして、皆さんの努力がこの獣の愚かさを祓ったのですよ」
「主の偉大さ故ですね」
「しかし、獣の焼ける臭いというのは相変わらず不愉快になるものですね。鼻を刺すのがなんとも不愉快ですよ」
ハルの耳にキュリロスとダフネの楽しげな声が僅かに聞こえ、彼女の瞳が自分を汚物のように見下ろす2人の姿を一瞬だけ映した。
だが、直ぐに焼け落ちた鼓膜は外界の音を拾うことを止め、熱により膨れ上がり視神経が焼け焦げ溶け落ちかける瞳はハルに外の景色を見せることを諦めたのである。
もう、ハルには何も感じることができなかった。
「せ……い……け……ん……」
何も見えず、何も聞こえず、痛みだけが支配する暗闇の中で、ハルはただ一人の理解者であり戦友であるたった一振りの聖剣を想いながらその意識を閉じたのだった。




