幕間
何もない漆黒が広がる眼前に男は驚愕した。あまりの驚愕に男は声さえ出なかった。
別に男は瞼を閉じていた訳ではない。それでも、目の前には明かりの1つも無いから驚いていたのだ。
(ここは…どこだ…一体何が…)
驚く男は少しでも自分の置かれた状況の情報が欲しいと、体を起こして周りを確認しようとした。
だが、男が体に力を入れても腰から抜けてゆく様に感じると、その体はびくともしなかった。
(なっ!かっ、体が動かない!どういう事だ)
男は慌てると、手足を使って仰向けに倒れる自分の体を寝返らせようとした。だが。それも起き上がろうとした時同様に、両腕と腰から力が抜けると、男体は微動だにしなかった。
(一体…一体何がどうなっているんだ!)
その瞬間、男はさらに驚愕した。
自分は今まで声を上げて喋っていたつもりだった彼は、自分の口から声が出ていない事に今さら気付いた。その事に気付いた男は、自分の声どころか周辺が嫌に静かな事も気になりだした。
(何がどうなっているんだ…声も出ないし周りは静寂過ぎる。ペルファル達との戦闘は激しかった。何より、軍の将が倒れているのに、誰も駆け寄って来ないのか?)
男は自分の置かれた状況に恐怖感を抱くと、何とか動く頭を左右に振った。だが、相変わらず周りは真っ暗であり太陽の光どころか松明の火さえ見えない。
何も判らず動けないという恐怖に男は耐えられなくなると、全身の力を振り絞りもがき始めた。
(だっ、誰か!誰か居ないのか!誰か私を助けろ!私は貴族なんだぞ!私は…!)
声にならない思いを叫んだ男は猛烈な振動に襲われた。それはまるで高い所から投げられる様な感覚であった。
「しかし…1週間半かけてようやく発見か?それより、あれ本当にテンペルホーフなのかよ、マックス?」
「当たり前でしょ。あんな派手な鎧着て、おまけに家紋がデカデカと彫られているんだからさ…」
太陽が照りつける青空の中、額から流れる汗を片手で拭ったツェーザルは荷台に振り返ると疲労感の混ざった息を吐き出して言った。彼の着る湿地帯仕様の親衛隊野戦服も、さすがのエアテリンゲンの暑さには対応しきれず、所々に汗滲みが出来ていた。
そんな太陽の暑さと肌に張り付く湿気で息苦しいエアテリンゲンの密林は、鎮火された火災によって立ち込める煙に満ちていた。草木の燃えカスと炭化した木々から立ち上る煤で視界が狭くなっている密林からはトラックが行き来し、人のものと思われる千切れた手足や無惨な死体がいくつも荷台に積まれていた。
その出てくるトラック達は、開けた平原に設置されたテントやその近くに掘られた穴へ向かい停車していた。
密林から出てくる1台を運転するツェーザルは、ショベルカーで大きく掘られた穴の隣に併設されたテントの前にトラックを止めた。
「ツェーザルですか!どうです、見つかりましたか!」
そのテントの中で書類を確認しながらペンを走らせるブリギッテが、顔を上げると停車したトラックへ歩みより言った。その声は周辺の騒音によって大きく出されていたが、それよりは怒りの感情の方が強かった。
そんなブリギッテに対して、車両から降りてきたツェーザルは、荷台に乗っていた兵に荷を下ろすよう指示した。
「大当たりでした。一体何m吹き飛ばされたんだか、マックスが居なきゃそこらの死体と一緒に焼却処分ですよ」
「この作業もやっと終わりですか。長い様な短い様な…」
「長いでしょ!戦線は当の昔に州2つ先のザクセン=アンラウ。終戦目前なのに、俺達はあんなボンクラの死体探しなんて…総統の身に何か有ったら…」
親指で荷台を差すツェーザルのボヤキに安心した様に反応するブリギッテだったが、それに対して彼は眉をしかめると溜め息をついた。
そのツェーザルの言葉にブリギッテは黙って頷くと、積み荷を下ろす作業を確認するためにトラックの荷台へ向かった。
「ゆっくり下ろせ!まだ息があるんだ。ここで死なれちゃ困る!」
マックスに指揮された兵達は、大きな荷物をゆっくりと荷台から下ろし始めた。
彼等が慎重に下ろしている物は、鎧の胸甲の様に見えた。肩当ても革紐で繋げられたそれは、金銀で装飾された豪華な物と考えられた。だが、無数の傷とへこみ、千切れた金属や焦げた塗装で見る影も無い者となっていた。
そしてその胸甲は腹部から腰、肩から腕に繋がる鎖帷子がヒモできつく縛られていた。その縛られた箇所は黒く変色し赤黒い液体が垂れていた。さらに、その胸甲には頭があり兜を被っていた。
「憐れですね。これが嘗ての貴族…テンペルホーフ家当主の姿とは…」
荷台から地面に下ろされた鎧を見たブリギッテは、汚物を見る視線で胸元からハンカチを取り出すと口許を覆った。
地面に物の様に置かれたテンペルホーフは、虫の息にも関わらず未だにもがいていた。
もがく腕の鎖帷子の結び目から漏れる血が近くの地面を汚す彼は、腰元から下と両腕が吹き飛んでおり、顔面に至っては原形を留めておらず両目と喉元が裂けていた。両耳からは血が垂れており、彼が光と音に声を失った事は明らかだった。
「こんな屑の為に何人が徴兵され何人の無実の民が私達に殺されたか…」
そう呟いたブリギッテは、待機していた公報班を片手で手招きした。
呼ばれた彼等は、テンペルホーフを見るとブリギッテ同様に不快な表情を浮かべた。中には思わず吐きそうになる者も居ると、ブリギッテは同情の表情と共に場を離れる様に促した。
「大佐殿…こんな汚物を撮るんですか?公報用の写真と動画ですよ?子供の教育にはよろしく無いですよ?」
「安心てください。勿論、制限や規制、修正は掛けますよ。ただ、これが公開されらたら戦後の王国派の残党への牽制になる。"王とその愚鈍な家臣はこの世から消えた。帝国の敵になればどうなるか"と…」
語るブリギッテの言葉には普段の様な優しさはまるで無く、冷たい刃物の様な視線で腰の拳銃を取り出した。
「魔族の悲しい現実ですね。無駄に生命力があるから、深傷や致命傷を負ってもなかなか死ねない」
そういったブリギッテは、テンペルホーフの鎧の左胸に狙いを付けたが、眉をひそめて奥歯を噛み締めると右胸に狙いを定めると容赦なく引き金を引いた。
響く銃声と宙を舞う薬莢に全員がブリギッテて視線を向けると、彼女の足元ではテンペルホーフが体中から血を噴き出してもがき苦しみだした。
「撮影が完了しましたら確認用の写真と映像を下さい」
もがくテンペルホーフの脇に蹴りを入れると、ブリギッテは公報部隊の隊長のトロールの男に一礼を入れツェーザルの乗るトラックへ向かった。その表情は穏やかであり、少し前までの殺意に満ちた雰囲気との違いにトロールは身を震わせた。
「ブリギッテ大佐ってあんな人だっけ?」
「昔からそうでしょ?"狂犬"ギラとかヴァレンティーネ大尉を黙らせる親衛隊の一角。遠視が出来る魔眼持ちの親衛隊一の狙撃手。"飛矢を落とす女"、"魔眼の射手"だぞ?」
「そうですよ、隊長?あの人、酔うと皇帝陛下か総統の話ばかりだそうですし。むしろ、あれだけ敵に冷酷になれる愛国者は他にいませんよ!憧れちゃうな~!」
トロールの言葉に写真撮影を始めるミノタウロスが呆れ半分で答え、ハッグの少女は頬を赤くしながら手を組んで言った。彼女の言葉に、部隊の多くの者が共感したのか頷いていた。そんな部下の反応に彼は首をかしげた。
「まぁ、戦争だもんな。嫌でも人は変わるか…いや、変わらない奴は死んだ奴か?こいつみたいな」
トロールは諦めた様に呟くと、担いでいた動画用のカメラを三脚に固定してテンペルホーフの撮影を始めた。