第一幕-8
「わたしは議会に対して、2413年6月13日にガルツ王国と名乗る賊軍から蒙った謂れが無く卑劣な攻撃を以って、ガルツ帝国と賊国とが戦争状態に入った旨の布告を宣言するよう要請します」
明かりの少ない部屋の中にアポロニアの声が響いた。
原稿用紙を角に刺し、左手を胸に置き右手を広げてたった1人の観客に向けると、彼女は目を閉じて満足げな表情を浮かべた。
「まだまだ…だな。前よりは良くなったが、まだたどたどしい。気が弛むと変な訛りが出るが…何でそこまで私って言いたいんだ?なのにchをkで発音したり、sとwは濁らなかったり濁ったり…それと、原稿を角に刺すの止めたら?」
内戦に伴う帝国議会の書類仕事や各方面軍の調整等の仕事で疲れているのか、カイムはクマの深い目頭や眉間をマッサージしかながら言った。
自分では良い出来栄えの予行演説への辛口評価に、アポロニアは涙目になっていた。
「言えない…言えないよ…くたびれた…」
ソファーに倒れるように深く座り込み、彼女は片手で角の原稿をとると、自分の膝を叩いた。
「身振りも勇ましいし…通じるんだからこれで良いと…」
「良い訳無いでしょ!そもそも…あんたが言ったんでしょ!"格調高い言葉は国民にとっても財産だ"って!」
アポロニアは飲み込みこそ早かったが、何十年と話続けた言葉の訛りは、たかだか12日の練習ではそう簡単に取れなかった。
その結果、身振りこそ皇帝その物だが口を開くと微妙な存在と化してしまった。
「それに…私の演説はラジオってヤツで国民も聞くんでしょう?」
頬を赤らめて涙目で呟いた彼女に、大勢の人の前で語る羞恥心を遥か昔に捨てているカイムは、アポロニアの問題への対応を考えた。
「やっぱり…付け焼き刃じゃどうにも成らんな。基本的な発音からゆっくりやって、3ヵ月くらい…」
「そんなにやってたら、どれだけ議会を延期させるのよ!」
「既に指導案の予定が大幅に遅れてるんだがな…」
アポロニアの癇癪にカイムの指導予定の愚痴が刺さると、彼女は頭を抱えながら横に振って原稿をテーブルに軽く放った。
「しかし…本当に内戦なんて…」
彼女が原稿を放り投げ話題を変える時は休憩の合図であり、カイムは原稿をテーブルに置きながらポットのコーヒーをカップに注いだ。
そんな彼にアポロニアは手を突き出し、自分の分も寄越すよう無言で主張した。
「いつぞやも言ったが、遅かれ早かれこうなった。それに、連中がやる気なら話し合いは意味が無い。それとも、アモンみたいな自分を殺したい奴等とまだ交渉したいのか?」
嫌味の混じった愚痴をつい溢してしまったカイムは、顔を反らしながら彼女にコーヒーを渡した。
数日前から指導の報酬として、普段誰にも言えない愚痴をアポロニアに聞いて貰っていた事から、彼は彼女と居ると総統という役職を忘れそうになる癖が付いていた。その癖によって出た無神経な愚痴に、カイムは自己嫌悪しながら頭を抱えた。
「済まない…今のは言い過ぎた」
自分を暗殺しようとしたといっても、南方も同じ魔族であり、彼女からしてみれば大切な国民である。その国民と泥沼の内戦をしなければならない彼女の心境を、カイムは深刻に捉えながらアポロニアに深く頭を下げた。
そんな彼のネガティブ過ぎる行動に、彼女は呆れ半分で下げられた頭を鷲掴みした。
「そんな事で傷付く乙女なら、今頃自殺してますっての!」
アポロニアは鷲掴みしたカイムの頭を上に向かせると、テーブル越しに彼の両肩を叩いた。
「あれだけ毎日愚痴ってるのに、まだその後ろ向きな思考は取れないの?ホントにもう…全く…」
カイムの暗い表情を見ると、アポロニアはテーブルを軽く跨ぐと彼の横に腰掛けた。
「それで、何が心配な訳?」
彼女がカイムの愚痴を聞く時は何故か対面式ではなく横並びで始まる。
カイムは肩が触れ合う程の距離に気まずく感じていたが、この頃は肩どころか腕や太腿が触れ合う程の距離である。
「現状では東方だ…西方は無線機を輸送したし、アンハルト…今はフィデリオ殿か…彼のお陰で西方や南方の現状は解る。だがな、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル大公が帰ってから、東方の現状はさっぱりだ」
部屋の壁にかけられたジークフリート大陸地図を眺めるカイムは、首都であるデルンを内包するニースヴァイセン州の隣にある巨大な山脈を撫でるように右手で空を縦に切った。
「チロル山脈…だっけ?あれのお陰で帝都やニースヴァイセンが守られていたけど…」
「今じゃそれが邪魔くさい…山脈を避ける道しか無いから、情報も何も入らない。そもそも向ける人員が無い…」
十字架の様な形をしているジークフリート大陸は、大陸中央と東部を隔てる様な縦長の山脈があった。その山脈は、ヒト族の侵攻を食い止める天然の要害であり、首都への4回の侵攻はこの山脈によって防がれた。
だが、5回目の侵攻で突破された時に山脈の街道全てが大規模魔法により崩壊し、今では山脈を大きく迂回する道しか無かった。
「奇跡的に、今は目の前の南方の賊軍に集中できる。だが、もし東方の共和勢力がこちらへ侵攻を始めたら…」
「でも、その混乱を鎮圧するために急いで戻ったんでしょ?」
「その本人から全く連絡が無ければ、不安にもなるだろ…」
話せば話すほど気弱になり声に力が無くなるカイムを見て、アポロニアは焦れったくなった。彼女の知っているカイムのイメージはこの頃の愚痴によって崩れ去っていた。
のらりくらりと問題や危機を乗り切り、変に人を納得させる発言で部下達を指揮する総統というのが今までのイメージであった。
それが今では、人前でこそまともだが一度人目が無くなると、面倒臭がりで変に疑り深く、心配性な駄目人間というのがアポロニアのカイムに対するイメージだった。
「あ~~ん、もうっ!面倒な男ね!」
何時までも煮え切らないカイムの態度に、アポロニアは彼の頭を再び鷲掴みにすると胸元で抱き締めた。
「アっ、アポロニア!何やって…」
「うっさいっ!あんたは黙ってなさい!」
突然アポロニアに頭を抱き締められたカイムは、ギラより少し大きな胸の膨らみの感触や抱き締める感触に不思議と安心感を覚えた。
抱き締められる事で感じる側頭部から伸びる角の圧迫感も、今の彼には心地良かった。
「ホントに…上に立つって事は面倒で辛いね…でも、あんたなら大丈夫、大丈夫だから。北方貴族を纏めて西方も併合して、この国を私以上に再建してるんだから…だから、東方の件も何とか出来る!」
顔面だけでなく耳まで真っ赤にしながら、アポロニアは自分の胸の中で抵抗することを止めた頭をゆっくり撫で始めた。
「でも…私には…」
「あんたはこの国の英雄なんだから、あれこれ悪く考え過ぎないの!将軍達も優秀だし、兵の練度も予想より悪くないんでしょ?なら、部下達を信じてあげなさいな」
彼女独特の同情と励ましを混ぜた言葉と、優しく何度も頭を撫でてくるアポロニアに、カイムは彼女の腕の中で船を漕ぎ始めた。
「それに…あんたはこの先、私の隣に立つんだから、愚痴くらいもっと私に言いなさい。皇帝と総統はお互い支え合わなくちゃ。2人揃って…」
"抱き締められて愛を囁かれれば、気弱な男は必ず恋に落ちる"というブルーノの言葉を確実に実行する彼女は、自分の胸で動かない事を良い事に、カイムへ気持ちを伝えようとした。
だが、そんな彼女の耳には胸元から寝息をたてる音が聞こえた。
「えっ、ちょっと…カイム?」
彼女は慌てて覗き込むと、カイムは穏やかな顔で眠っていた。
「まぁ、焦らなくて良いかな…それと、そこで見てないで入ってきなさいよ」
一息ついてカイムの頭を再び数回撫でると、アポロニアは部屋の扉に向けて話し掛けた。扉は中を覗ける程度に開いており、そこから1人が部屋に入ってきた。
「やっぱりあんたね、ギラ・フィンケ」
「何で判ったんです?」
「あら?そんな殺意剥き出しだったら、私でも気付くよ」
「殿下…いえ、アポロニア。カイムを利用してどうするつもり?」
アポロニアの腕の中で眠るカイムを見ると、ギラは彼女に敵意の視線を向けた。その視線を受けるアポロニアは、ギラの視線より発言に対して片眉を上げた。
「利用って…私はそんなつもりは…」
「訳の解らない奴だとか何とか言って散々敵視しておいて…助けて貰ったから良くしてあげるなんて、帝国皇女として有り得ないでしょ!何を企んでる?」
「あんたね…私、自分で言うのもあれだけど、騙す騙されるを演じられる程器用じゃないよ。それに尻軽だ何だって言うけど、この気持ちに偽りは無いよ」
ギラの睨む視線を受けながら、アポロニアは瞳を息をつくと眠るカイムに視線を向けた。
「確かに、私はアモンが好きだった…いえ、憧れてたのを勘違いしてたんだと思う。彼には私にはない硬い意志があった。力もあるし私に何も悟らせない器用な人だった」
語る最中、彼女はカイム癖っ毛を撫でた。その動作で、ギラの視線にさらに怒りが混じると、彼女はうっすらと笑った。
「カイムもそうだと思った。私と同じ目的を持っているのに…違う、私に持たされて、それを私以上に上手くやって見せた。敵意じゃなくて、嫉妬ね。私はカイムに嫉妬したの」
語るアポロニアは、カイムを起こさないようにソファーへ横たえるとギラへ向けて歩き出した。
「でも違った。彼はただ必死だっただけ。きっと最初は…アマデウスやブリギッテ、街で苦しむあんた達を救おうと、最善を尽くしただけ。理由までは解らないけど、彼は実際救って見せた。才能も家の力も、誰よりも優れた点も無い凡人だけど、そんな小さな背中でこの国を背負って見せた。私と同じで全然違う。弱いけど、情けないけど逃げないで必死に戦ってる」
ゆっくりと歩を進めギラの前まで来たアポロニアは、彼女と視線を合わせて睨んだ。
「だから…私は彼のそんな弱い所を抱き締めて、何時までも支えてあげたい。救って貰った恩義を恋と勘違いして舞い上がって、彼に無理をさせるようなあんたとは居場所が違う」
「私は…そんなつもりは…」
「じゃあ何で?何で彼はあんたでなく私に言ったの?直接、"内戦なんてしたくない、罪のない人達を死なせたくない"って私に言ったの?彼に英雄を映して人として見てないからでしょ?」
「そんなこと無い!」
目を反らさずに淡々と言葉を紡ぐアポロニアに、ギラは叫ぶ事しか出来なかった。
そんな彼女の叫びに、カイムが反応するように寝返りをうった。その動きに2人は一瞬固まったが、再び寝息を立て始めたらカイムに胸を撫で下ろした。
「今のあんたは…彼のお荷物よ」
そう呟きながら、アポロニアはギラを置いて1人部屋を出て行った。
「私は…そんなんじゃ…」
何とか2人きりになっても、ギラは眠るカイムの顔を見ながら呟くしか出来なかった。