第一幕-5
ヴァレンティーネは激怒した。
かの邪知暴虐の総統秘書を除かねばならぬと決意した。
ヴァレンティーネには遠慮がわからぬ。彼女は元々商人の娘である。だからこそ、彼女は"本当に手に入れるべき物には全力を注げ"という、両親に言われていたことを実行しようとしていた。
「あの雌羊め…今日という今日こそ、叩き潰してやりましてよ…」
グライフ作戦が完了したヴァレンティーネ達は、西方での活動完了と共に素早く撤退した。
アンハルトからの言伝てを受け取った彼女ら工作班は、合流したブリギッタと共に急ぎ帝都へ帰還した。予定より2日早い6月20日の深夜に着いた彼女に待っていたのは、無慈悲な事実だった。
「あの女は…まさか私が居ない間にこんな…卑劣な奴め」
報告書を書き上げ、翌朝21日に親衛隊本部へ向かった彼女に、デルンの街ですれ違った警備係がとある話を伝えたのだった。
「ギラと総統が一線を越えたなんて!あの女、とっちめてやる!」
その話の真相を確かめるため、22日の早朝に、彼女は宿敵を探すために兵員宿舎を出た。普段の口調を忘れて大股で歩き怒りを表す彼女に、街の誰もが驚きながら可哀想な視線を送っていた。
そんな視線が彼女の怒りの炎にガソリンを注いだのか、彼女は本部に向けて走り出した。
「…私は駄目だ…もうおしまいだ…」
駆けて行く彼女の耳に、聞き覚えのある声が聞こえたのは走り出した直ぐの事だった。
「見付けたぞ!この!…糞…女…?」
ギラの声の聞こえた方向に首を向けて、有らん限りの怒りを爆発させたヴァレンティーネの声は、ゆっくりと失速していった。
カフェのテラス席に座るギラは、この世の終わりを知ったような表情をしながら俯いていた。普段は真っ直ぐに整えられた髪も乱れて所々はねていた。彼女の漂わせる暗い雰囲気は、周りの客さえ静かにさせるほどだった。
予想していた姿と全く異なる彼女の姿に、ヴァレンティーネは怒りを忘れ驚きや疑念の解決を優先する事にした。
「ほっ…本当に、私が居ない間に何があったの、この街に…」
やるせなく呟いたヴァレンティーネは、いそいそとカフェに入るとギラの向かいの席に腰掛けた。彼女の姿を見た客達の期待の視線を受けた彼女は、ギラの様子を目の前で観察し始めた。
テーブルを挟んで向かいの席に座ったにも関わらず、ギラは彼女の存在に気付かない。テーブルにおかれたアインシュペナーは、随分前に置かれた物らしい。それは湯気が消え失せている事で直ぐに解った。
そんなコーヒーに手を付ける事なく見つめるギラの視線は焦点が合っておらず、虚ろに見えた。
血の気の失せた肌は、普段の白さを更に病的にさせており、彼女の黒いオーラを増幅させていた。
「ごっ、ご注文は?」
「そうですわね…メランジェをお願いしますわ…」
「畏まりました…少尉殿、頼みますよ。このままじゃ、お客さん帰っちゃいますよ」
注文を取りに来たウェイターの言葉に渋い表情で数回頷くと、ヴァレンティーネはテーブルの上で手を組んだ。
「それで!卑怯な勝者が、何でこんな所で落ち込んでいるんですの?」
暗い静寂を破り、彼女はギラへと質問を投げた。
その言葉に一瞬肩を震わせると、ギラはゆっくりと顔を上げた。俯いてよく見えなかったその表情は、乱れた髪と合わさり彼女を幽霊か何かの様に見せた。
「あらっ…?ヴァレンティーネさん、お久し振りですね?元気でしたか?」
普段の微量の敵意が混じった言葉と違い、ギラの言葉は優しさに溢れていた。
だが、その表情や見た目からヴァレンティーネには恐怖しか感じなかった。
「そっ、そうですわね…えぇ!元気でしたわ!総統に仇成す賊を叩き潰して回りましたわ!」
生唾を飲みつつ、彼女はヴァレンティーネはギラへと自慢をした。その自慢はギラの自分に対する注意をさせて普段の雰囲気に戻そうという考えが含まれていた。
胸を張り瞳を閉じた彼女は、ギラが何時まで経っても何も言わない事を不思議に思い、額の瞳を数個開いた。
「そうね…それは…良かったね…」
目頭から涙を流すギラの表情に、ヴァレンティーネは全ての目を見開いた。普段のギラからは想像も出来ないその涙は、ヴァレンティーネに焦りを与えると共に考えていた流れを忘れさせた。
「貴方は本当に優秀ね…親衛隊の鑑だよ…それに引き換え私は、本当に役立たずで…総統の隣に居る事なんて…」
弱々しい口調で紡がれる言葉は、焦ったヴァレンティーネを冷静にさせると言葉の意味を考えさせた。
「悔しいですけど、総統とは上手くいったのでしょう?一体何があったのでして?」
考えた上で敢えて直接的な疑問を投げた彼女だったが、ギラの表情が更に暗くなり両手で顔を覆うと、自分の失言に後悔した。
「皇女が…いえ次代皇帝が私を総統秘書の職務に暇を出したの!その間にあいつは総統と…カイムと何かをしている…きっと、カイムを自分の物にしようと企んでいるんだきっとそうだ!」
不自然に大きな声で事情と自分の考えを述べると、ギラは両手をテーブルに叩き付けた。
いつの間にか置かれていたメランジェのカップが音を立てると、ギラの怒りの表情にヴァレンティーネは思わず身を反らした。
「あの尻軽女…散々カイムを蔑ろにしておいて、婚約者に殺されかけて優しくされて掌を返すなんて!きっと総統を皇帝権限で脅してるだそうに決まってる!だけど…私には何も出来ない…」
激怒の声を上げていたギラだが、その勢いは一気に弱々しくなった。自分のライバルの変わり果てた姿に、ヴァレンティーネは頭を抱えて振りつつ状況を理解した。
「つまり…秘書官を排してアポロニア殿下は総統と何かをしている…それは総統を我が物にしようとする策略だと?」
彼女の確認のための質問に、ギラはゆっくりと頷いた。その目が据わっている事で、ギラが至って真面目に発言している事が解り、ヴァレンティーネは再び両手を頭を抱えた。
「ギラさん…貴方はお馬鹿さんなのでして?」
冷静な言葉でヴァレンティーネがギラに呟いた。
「何ですって!」
「"何ですって!"って…当たり前ですわ!総統はあの女とまともな仕事をすると思いまして?無いですわ、絶対に。あの女は変に人を惹き付ける力は有っても、そもそも事務能力が低いですし。第一、総統の好みは聞き上手な人でしてよ。少なくとも…貴方や私みたいな…自分で言うのも虚しいですが、特殊な女性でない限り命を賭けるまで本気にはなりませんわ。そして、あの女は話したがりの普通の女性…つまり」
「あの女にはそもそも勝ち目がない…と?」
口を挟ませないヴァレンティーネよマシンガントークに、ギラは納得したように呟いた。それに呼応してヴァレンティーネも頷くと、ギラの虚ろな瞳に光が戻り暗い雰囲気が消えた。
「そうだよ!総統を変な人みたいに言う表現は納得出来ませんけど、その通りだよね!」
「そのうち、皇帝も諦めて別の人を探しますわよ。それに、総統も言っていたでしょう?"権力の一極化は危険性が高い"って。なら、例え色仕掛けされても…そう言えば貴方!総統と一線越えたっていう噂!本当なのでして?」
「あら?どうだったかしら?まぁ、貴方には知るよしも…」
空気の明るくなったギラの発言に、ヴァレンティーネが本来の目的を思い出して問いただした。その反応に、ギラが口元の笑みを片手で隠しつつ答えようとしたが、その言葉は途中で止まった。
「ギラ中尉!ヴァレンティーネ少尉も、本部に居ないから探しましたよ!」
軍用車両がテラス席に近づくと、運転席からブリギッテ姿を現した。
最前線から帝都へ戻っていた彼女がテラス席に駆け寄ると、席に座る2人は緊張走る穏やかな空気を仕事の空気に変えた。
「総統からの命令です。帝都郊外にある…空港でしたっけ?そこに私も含めて出頭せよとの事です」
親衛隊敬礼をする2人に彼女も敬礼を返すと手早く命令を伝えた。彼女の伝えた命令の"空港"という部分に、ギラとヴァレンティーネは疑問を抱いた。
「少佐殿、デルン空港は形だけの平地では?」
「噂の空軍どころか飛行機という物でさえ…もしかして!」
ヴァレンティーネの疑問から、ギラが予測を呟くとブリギッテが頷いた。
「その飛行機で、北方の高官方が来るんですよ。出迎えるから同行しろとの事です。総統と皇帝は既に向かってますから…」
ブリギッテの口から皇帝という言葉が出ると、顔を見合わせたギラのヴァレンティーネはテーブルのコーヒーを一気に飲み干した。
「「御釣りは要りません!」」
素早く財布から代金を取り出しテーブルに置くと、2人は急いで車両に向かった。
そんな2人の肩をブリギッテが掴んで止めた。
「2人共…時間には余裕が有りますから、口元を拭いて」
両手で2人の口元を指差すと、彼女はツインテールをはためかせて車両に向かった。
そんな彼女の姿に、出会った頃とのギャップを感じながら、2人はいそいそとテーブルに戻り口元をナプキンで拭いた。
「あの…御釣りは?」
そんな2人にウェイターが御釣りを持って現れると、顔を赤くした彼女達は俯き黙って頷いた。