第一幕-3
6月18日の帝都は、普段の穏やかさとは全く異なった空気が流れていた。前線の戦勝気分で士気が高まる最中、ブルーノの元にカイムからの召集命令が届いた。その為、彼は息子に指揮を託し帝都へ帰還した。
帝都に居た友人のヨルクに細かい事情を聞こうと国防省へ向かったが、彼がシュトラッサー城に居ると知ったブルーノは、街を徒歩で移動していた。
そんな彼は、街の一角の商店の新聞棚に目を止めた。
「記者連中め…地獄耳か?」
アマデウス率いる宣伝省は、ルーデンドルフ橋の戦闘についてを機密として公表していなかった。兵員的戦力差が未だに縮まない為、下手に勝利を煽る危険性を考慮したカイムとアマデウスの相談の結論だった。
それでも、帝都郊外の工場からの弾薬の輸送増加やニースヴァイセン州の近隣住民の噂が広まり、結果的には南方の奇襲とそれに勝った事が新聞の一面で掲載されてしまっていた。
「火の無い所に煙は立たないか…」
そう言うとブルーノは数種類の新聞を一部づつ土産にして城へ向かった。
「"親衛隊歩兵大隊、30倍の敵戦力に大勝利"…か。こんな物を見れば、市民も戦勝に沸くか」
「新ガルツ新聞は先を越されたな。さすがヴェルト新聞だ。世界と言うだけあるな!」
城の仮設の軍務室で、ヨルクとブルーノがそれぞれ新聞を読んでいた。内容は殆ど事実と違いなく、誰かが情報漏洩させたのではないかと思える程だった。
「こうなると、帝国は正式に宣戦布告…我輩達も軍を率いて戦場へ…か?」
「だろうな。小僧…総統閣下は、牽制のつもりでラインの守り作戦を発動したのだろう。それが存外、敵がやる気と言うならば、戦う他あるまいよ」
将兵2人は、新ガルツ新聞の南方打倒論やヴェルト新聞の和解論、他の新聞の様々な考えを見詰めた。
だが、どの新聞も最終的に総統に一任すると言う締め方に、帝国住人の自発性の低さを改めて理解した。
「そう言えば…戦場視察から総統…カイム君の様子が変なんだ。ブルーノ、何か知ってるか?」
カイムを敢えて総統と呼ばず、彼の知り合いの1人としてヨルクはブルーノに尋ねた。その問いに、彼は新聞をずらして目元を出すと、同じく目元を出していたヨルクと目が合った。
「小僧は…あれだ。新兵がよくかかる病気になったんだ。敵とは言え、多くの戦死者や生き残った捕虜達に当てられたんだよ。全てが悪く見える様になってる」
ブルーノの視線は気まずい物だった。鋭いワシ目が目尻から下がり、瞳には不甲斐無ささえ写していた。
「今回はテンペルホーフの馬鹿の斥候連中だ。たが、本格的な戦闘になれば被害も出る。負ける可能性もある…責務を一人で背負いすぎて、その重圧に自分で潰されかけている」
「本来その重圧を背負うべき老人が、未だに時代に追い付くのに必死とは…我輩事だが情けないよな…」
ヨルクが新聞をテーブルの上に置き、折り目正しく畳むと肩を竦めた。自分達を含めた多くの国防軍の将兵の現状に、ブルーノが溜め息をつきながら別の新聞を手に取った。
「総統は攻勢作戦を立案するかな?」
「私にも解らん。総統は兵の状況を悪く取っている。悲観的に考えて無駄に危機感を感じているだろうな。私は、前線のあの…師団か?あれの5倍や6倍来ても半月持つとも思うが、彼は3、4日と考えてるかも知れん」
「そこまでか?」
「あの類いの男は、一度落ち込むと何処までも落ちるぞ!誰かが何とかしてやらねば、軍さえ信用出来なくかるかも知れん」
カイムの心傷を察したブルーノは明確に断言した。その言葉の説得力は強く、ヨルクでさえ一瞬黙ってしまった。
「それは…」
「経験談だ。お陰で嫌な若い頃を思い出した。妻に尻を引っ叩かれなければ、俺も負け戦でおかしくなっていた」
2人は新しい新聞をテーブルから取ると、静かに読み出した。彼等の思い付く弱った男の治療法は、食事に酒に女だった。だが、カイムの立場上それをすれば悪評が立ちかねなかった。
「ギラ殿なら、何とか出来るのでは?」
「駄目だな…ああいう時に要るのは愛だけじゃなく包容力だ。弱い自分を奮い立たせる優しい言葉だ」
「なら適任だろう?我輩は完璧な人選だと思うが?」
新聞を退けて言ったヨルクの問いにブルーノが即答した事で、彼は再び回答者へ疑問を投げた。黙るブルーノの新聞をヨルクが退けると、彼は羽毛だらけの顔を赤くしながら嘴を掻いた。その瞳は恥ずかしさを表し、彼が喋り出すまで時間が掛かった。
「彼女は…言い方が良くないが感情の押し付けだ。お前やお前の奥さんは互いに熱かったから、それで良いかも知れんがな。今の彼には…彼女の愛さえ重いだろうな…お陰で、張れない虚勢を張ろうとしてぎこちない」
「経験談か?」
やっと話は出したブルーノに、ヨルクは即座に質問を投げた。それにぎこちなく頷くと、彼は新聞で顔を隠した。
「彼も…まだ体が若いとはいえ、中身は良い歳の筈だ。婚約者や妻でも居れば、心持ちが変わるだろうに」
「我輩…ローレに縁談を持って行こうかな?」
「お前は馬鹿か!突飛すぎるだろ!そもそも、総統と軍の将兵だ。ローレの出世欲なんて言われかねん!」
中年2人の話題が攻勢作戦からカイムの彼女に話題が移ると、突然扉がノックも無しに開いた。
「ヨルク・フォン・クラウゼヴィッツ大将、ブルーノ・フォン・ペルファル准将!話は聞いた!」
新聞を眺める2人は、入ってきた人物を見ると慌てて新聞をテーブルに投げ、陸軍敬礼をして立ち上がった。
「「アポロニア万歳!」」
軍務室に入ってきたのは、帝国次代皇帝アポロニアだった。
白く装飾の少ない細身の室内用ドレスを纏った彼女は、一件整頓されているようでよく使うテーブルの上を書類で散らかした室内を見回した。
「この部屋には貴方達だけ?」
敬礼に軽く手を上げて答えると、彼女は2人に呟いた。
「はい!アポロニア皇帝陛下!殆どの帝都駐在者は国防省に居ます!ここを使う者は私達ぐらいであります!」
「ヨルク大将…わざとらしくて変ですよ…」
ヨルクは軍人の基本に立ち返った受け答えをしたが、アポロニアの少し引いた表情に衝撃を受けた。
「アポロニアで良いですよ。それで…貴方達も、カイムへの対処にその結論へ至ったのね」
「アポロニア様…それはどういう事で?」
固まるヨルクを無視して言ったアポロニアに、ブルーノは疑問を投げた。その疑問に、彼女は窓の外に見える親衛隊本部を指差した。
「帝国の英雄たるカイムが、戦いの前に苦しむ…なら、それを癒す存在は絶対に必要よ。そして、彼はこの国の象徴の一人。なら、彼を癒せるのは、国旗の両翼よろしくただ一人!」
まるでミュージカルの様な身振りで語り、最後に自分を手で示すと、アポロニアは呆然とする2人を見た。
「陛下…我輩は貴女が何を言いたいのかさっぱり…」
直接的過ぎる彼女の発言に、ヨルクは敢えて返答を誤魔化した。隣のブルーノさえ同じく頷いた。自分達の娘ほどの年頃の彼女が自分達に言いたい事を察した2人は、背中がむず痒くなった。
中年には甘い話は苦しいと、渋い顔をする2人を無視して彼女頭を横に振った。
「カイムの隣に立てるのは私くらいでしょう?だから…その…将兵2人が言うのなら仕方無いから…」
顔を真っ赤にしながら額の角を撫でるアポロニアは、落ち着きなくその場に立っていたが意を決して口を開けた。
「これから…私がアイツの隣に立って慰めてあげる!だから、2人とも手伝って!」
不用意な会話で、いつの間にか全身が痒くなる状態に突入したヨルクとブルーノはお互いを見合わせた。
「今からグライフリーンに居る、我輩の娘を連れて来ようかな?」
「なら、私はホルガーに引き継いでも…」
「返事は!」
「「了解しました…」」
老兵2人は若き女帝から初めての命令を受領した。