幕間
所狭しと本棚の置かれた部屋は、収まりきらなかった本が山の様に床に積まれていた。そんな部屋の窓際の本棚は、中央の棚が空けられていた。その棚にはトナカイの様な角と、小さなペンダントが置かれていた。
角は幾つにも分岐し、大きさからもその角の持ち主が如何に巨体だったか解る程だった。ペンダントは掌程の大きさであり、金色に塗装された左の翼の形をしていた。幾重にも重なる細い金属が、その翼を力強く形作っていた。
「父さん、母さん…ただいま」
その棚の前に立つ長身痩躯の男が、肩を落として呟いた。その声は彼自身が驚く程情けない声であり、更に男は肩を落とした。そんな彼は、片手に持っていた一輪の花を棚の上の小瓶に差した。茎からは、棚の上の角と似たように多くの青い花が枝分かれして咲いていた。
「帝都土産だよ。2人ともデルフィニウム好きだったろ?ここまで青いのは…こんな辺境じゃあんまり見ないだろうからさ…」
普段の気取った口調に戻そうとしても、彼の言葉は暗く、語尾は曖昧に濁ったままだった。
そんな自分の状態に諦めたのか、彼は深く溜息をつくと近くにあった脚立へ力無く腰をおろした。棚の上の花を見ながら彼は垂れた前髪をかき上げた。
「議会に行ってきたよ…だけど相変わらずだよ、うちの老人達の意気地の無さは…」
棚の上のものに語りかける彼の口調は少し前よりは明るく、まるで幼い子供が両親に語るような口調だった。
「だけどね、帝都に面白い奴が現れたんだ!カイムとか言うらしいんだ。そいつときたら、あのザクセンに真っ向から敵対してたんだ!凄いだろ?遂に帝国史上初の内戦だ…」
彼の言葉は最初こそ明るい物だった。
だが、語尾に連れて口調は再び暗くなった。膝の上の握り拳は震え、彼は奥歯を噛み締めた。
「父さんは、言ったよな…強き者は誰かの為にその力を振るうべきだって…なら、それなら、強い奴ってザクセンなんて引きこもり老人じゃないはずだ…それは、民であり部下達であるはずだ」
そう言った彼は目を閉じながら天井を仰ぎ深く息をした。
「母さんは言ったよな…誰かの為に優しくなれない人には、女の子に優しく出来ない人には協力するなって…なら、僕は皇女を殺そうとしたあの髭爺に協力すべきじゃないはずだ…」
そう言った彼は、再び棚に視線を向けると目を見開いた。その瞳は何かを決意した瞳であった。
「何より、彼奴は母さんを…デッサウを侮辱した。そんな奴等に従うなんておかしいよな?」
そう言った彼は軽く吐きながら、脚立から立ち上がった。
「相変わらず、親離れ出来ないんですね。アンハルト=デッサウ卿…ヴォリーアに帰ってきてからあんな事言い出してこの調子じゃ、先が思いやられますよ」
立ち上がった彼の背後から女性の低い声が響いた。その声にアンハルトが慌てて振り返ると、部屋の入り口に見馴れた顔が立っていた。
「何だ、ゾエか。驚きはしないが、礼儀が成ってないんじゃないか?」
「こんな暗い部屋で、独り言言っている人に言われたくないですね」
腕を組み扉へ背を預けるゾエに、アンハルトは慌てて腰に両手を当てて胸を張った。無理やり張った彼の虚勢に溜息をつくと、彼女は床の本の山を避けながらアンハルトの立つ棚の前に立った。
「確かに、貴方はアンハルト殿の息子です。ですが、それと同時にお父上とは別人です。無理に格好付ける必要は無いと思います。正直…似合ってないです」
「そういう問題じゃない。私は…」
「"僕は"?」
呟くように突然言ったゾエの言葉に、アンハルトは反論しようとした。その彼に詰め寄ると、彼女は片手で軽く彼の胸を叩いた。見上げる可能性と顔の距離が近づくと、アンハルトは慌てて顔を背けた。
「僕はな、貴族である前に集団の長でこれからする事の主犯なんだ。それに…」
「格好は、着けようとしなければ着かない…あの父親にしてこの子有りですか…」
「嫌ならさっさと逃げれば良い。今ならまだ知らぬ存ぜぬで済む…」
そう言ったアンハルトの頬に、ゾエが何の前触れも無く口付けをした。その頬に触れた唇の柔らかい感触に、彼は顔を真っ赤にしながら彼女の肩を掴んで距離を取った。頬に少し着いた彼女の唾液が開いた扉のすきま風で冷たく感じると、彼はどうするべきか混乱して動きを止めた。
「嫌ですよ。未来の旦那がやると言っているのに、妻が勝手に逃げ出すなんておかしいですし、私は騎士でもあるんですよ」
無表情ながらいじめっ子が茶化す様に明るく語るゾエは、やたら足音を響かせながら入り口の扉へ向かった。
「皆さん待ってますよ。と言っても、皆さん閣下の親離れ出来て無い事知ってますからもう少しくらいなら…」
「直ぐに行く!」
そう言うと、アンハルトは足早にゾエの後ろ姿を追った。
「閣下こそ、本当に宜しいんですね?」
「勿論だ。僕はやる気だ。前々から準備はしてきたんだ。この機会は逃せない…全ては民の為に…暴君を討つ為に」