心の傷
どれくらいの時間が経ったのか。
迷う己に喝をいれ、彼女の身体をゆっくりと横へずらし、自分の身体をソファーから床へ転がり落ちるようにして避難させる。
寒い。
室内はクーラーが効いており、立ち上がった身体の熱が急速に逃げていくのを感じた。
ソファーで眠る彼女は肩周りが肌を晒しており、このままでは風邪を引くのではないだろうか。いや、そもそも屍者は風邪なんて引くのか。
部屋を見渡してもタオルケットのような気の利いた物はない。そこで悪いとは思いつつも、何かないかと奥にあった扉を開き、壁際にあったパネルに手をかざし照明を灯す。
そこには大きなベッドが二つ並んでおり、その内片方の掛布団をめくりリビングのソファーまで戻り腰を落とす。
「シノさん……すみません」
どうして俺が謝るのか。
先程彼女から指摘をされたばかりなのに、人の顔どころか寝顔まで窺う自分に嫌気がさす。
細い身体を抱き上げる、思った以上に軽い。どうしてこんな体重で俺の身体を抑え込めることができたのか、屍者の身体とは実に不思議だ。
扉を彼女の身体が壁に当たらないように通り抜け、ベッドの前まで進む。
視線を落とすと、そこにはシノさんの無防備な寝顔。眉は細く、鼻筋も通った美人さん。寝顔まで綺麗だなんてズルい人だ。
ベッドに彼女を降ろし、掛布団を肩までかけて一息つく。そして近くにあった一人用のソファーに腰かけて再び天井を仰ぎ、瞼を閉じる。
どうしてこうなった。
さっきまで甘いワインを口にして、甘い時間を過ごしていたはずなのに。いや、そう思っていたのは俺の方だけで、彼女からすれば怒りを抑えながら話をしていたのかもしれない。
しかしそれでは彼女の行動が理解できない。偶然に嫌いな人物と遭遇しても、邪険に扱うか無視をすればいいだろう。この世界で最強と呼ばれる彼女なら許されるはずだ。
瞼を開けてベッドで眠る人を眺める。
静かに寝息をたてる彼女は、夢でもみているのだろうか。
コロス?
俺は殺されかけた。口を片手で掴まれ、頭を叩き割られそうになる程に打ちつけられた。死なない世界だが、殺されるという恐怖はある。
現在のシノさんは無防備だ。その気になれば彼女の頭を叩き割り、仕返しのつもりで殺すこともできる。
だが、俺にそんな選択肢を選ぶつもりなど毛頭ない。
ニゲル?
逃げてどうする。
ここで逃げたとしても状況が好転するわけでもない。それに、このまま彼女を一人にするのはダメだと思った。
オカス?
ありえない。
下心が無かったと言えば嘘になる。彼女に惹かれ、飲みに誘われた時は素直に嬉しかった。
彼女は傷ついている。例えるなら心の傷というやつなんだろうか。
そんな傷ついている人物をさらに痛めつけるような行為は、俺が許さない。
オメデトウ
何がおめでたいんだか。
頭の中に振ってくる言葉を払いのけ、思考に耽る。
『あの世界で長生きした誰もが心に傷を持っている』
先日、小柄な少女が言っていた言葉を思い出す。
どうして気が付かなかったのか。いや、目を逸らしていただけなのか。
ウイルスに感染して生き残った時間が長いほどに屍者の身体能力は向上する。それはつまりこの世界で一番強いと言われる彼女の心には、それだけ深い心の傷があると考えてもいいのではないか。
「はぁ……」と、溜息がこぼれ思考を放棄する。情けないことに俺は傷心しているようだ。
シノさんは錯乱しながらも『どこに、いるんだよ』という言葉を発していた。それはつまり誰かをこの世界で探しているのではないだろうか、ホタルが俺を探していてくれたみたいに。
少しばかり嫉妬する。顔も名前も知らない、彼女から必要とされている誰かに。
****
目を覚ます。
どうやらあのまま眠ってしまったみたいだ。
身体の上にはシノさんに掛けたはずの布団があり、ベッドの上には誰もいなかった。
布団をベッドの上に戻し、扉を開くとキッチンの方からじゅうじゅうと音ともに食欲を誘ういい香りがする。
「よお、起きたか。朝飯つくってるから、そこに座ってろ」と、キッチンのカウンターから顔を覗かせたシノさんは、顎で長机を指定してくる。
なんなんだ、この人。
昨夜は俺を殺しかけておいて、今は朝食をつくってくれるだなんて。
しかしここで逃げる訳にはいかない、どうしても聞きたいことがあるからだ。
準備された朝食はトースト二枚、深めの皿にはサラダが盛られ、その隣にはいい具合に焦げ目がついたベーコンが三枚。
「いただきます」
対面に座るシノさんは行儀よくフォークでサラダを食べ進めていく。
「あの、シノさん――」
「昨日は……悪かったな」
彼女は手を動かすのを止め、こちらを見ることはせずに視線を落としたままでいる。
「酒に酔っていたせいかな、少し乱暴なことを言っちまった。昨日の事は、忘れてくれ」
嘘だ。
昨夜からの彼女の行動と言動は嘘だらけだ。もしかするとこれまで話した内容にも嘘があったのではないかと疑心暗鬼にかられている。
納得がいかない俺の表情を見て、彼女は諭すように語りかけてくる。
「提案がある。フジがP・B・Zに出場するのを諦めれば、私がフジと妹が会うのを手伝うってのはどうだ?」
「わかりません。どうやって俺とナオが再会するのをシノさんが手助けをするんですか?」
「そこまで難しくもないさ。黒酔には世界中に協力者がいるからな、コレクトの本拠地を見つけ出すこともできるだろうさ。そしてコレクトを壊滅させてお前の妹を連れてくればいいだけの話だ」
「壊滅!? 二千万人いるチームですよ?」
「数は問題じゃない、それにコレクトの大半は非戦闘員って話だ。私から黒酔のメンバーに頭を下げて手伝って貰えば一日で片が付くだろう」
彼女からの提案には違和感しか感じない。昨夜は脅迫案で、そして今のは譲歩案といったところか。
「シノさんがそこまでしてくれる理由がわかりません。それにどうして俺をP・B・Zから遠ざけようとするんですか?」
「そんな警戒するなよ、昨日のことは謝ってるだろ?」
「警戒をしろと言ったのはシノさんですよ」
「はぁ……あんまり説明は得意じゃないんだけどな」
そう言いながら彼女は観念したかのようにフォークを皿の上に置く。
俺だって引けない、このまま彼女を誤解したままでいたくないんだ。
「屍者の身体ってのはさ、身体能力が向上するだけじゃなくて五感の一部も強化されるんだよ」
「それは知っています、聴覚とか普通の人間以上に聞こえたりできるのは。それが何の関係が?」
「最後まで聞けって。その五感もさ、生存していた時間によって感覚の鋭さに差があるんだよ。例えば今フジが言った聴覚なんかは一年以上生存していなきゃ常人と変わりないんだ。それで問題は嗅覚のほうでな、匂うんだよ、お前が」
え、やだ、俺そんな臭いの?
自分のシャツをつまみクンクンと匂いを嗅いでみる。確かに昨日はシャワーも浴びていないし着替えもしていないから多少は匂うかもしれないが。
「体臭の方じゃなくてだな、何て言えばいいかな……探偵もののドラマなんかで事件の匂いがするってあるだろ。あんな感じでさ、長く生き残ったやつは匂いでなんとなくわかったりするんだよ」
「それはつまり、俺が長く生き残っていたと?」
「そう、トウコなんかは後で気づいたみたいだけどな。私は喫茶店で初めてフジを見た時にわかったよ。これは私の経験則だが、長く生き残ってまともなヤツはいない。しかしホタルと行動を共にしていたってんなら様子を見ようと思ってな」
「それがP・B・Zに出場しないことに関係が?」
「大ありだ。あの大会で強さを示すってことは世界中の注目を集めるってことだ。お前も見ただろ、黒酔に闘いを挑んでくる馬鹿共を。もしかしたらあいつらの矛先が、今度はお前に向くかもしれないって……わかるだろ?」と、最後の方は拗ねるようにしてこちらを窺うように彼女は言葉を紡ぐ。
やっと理解できた、彼女の思惑が。遠回しに俺のことを守ろうとしてくれていたんだ。
不器用な人、なんて言ったら怒られるだろうか。
「勘違いするな。私はこの街が気に入っている、これ以上厄介ごとを増やしたくないってだけだ。それで、そっちの返答は?」
背筋を伸ばす。俺はちゃんとこの人に向き合わなければならない。
「シノさんの考えはわかりました。俺なんかの為にありがたい申し出だとは思います。ですが、やはりP・B・Zには出ようと思います。これは我が儘、いえ俺の意地です。もしもナオが無理やり俺の前に連れてこられた場合は悲しむと思います。妹を守れなかった、迎えにいけなかった情けない兄のままでいたくはありません」
譲れない思いを正直に話す。器用な生き方なんて知らない、意地を張ると決めたのだ。
「それと、もしこの街にいて迷惑をかけるようなら別の場所へ行きます。ですから――」
「ああ、もういいわかったよ……ったく別にどっか行けなんて言ってないだろ」と、彼女は愚痴を溢しつつフォークを掴み取り「冷めるから、さっさと食えよ」と俺に向かって吐き捨てた。
そんな仕草を見て思わず頬が緩む。
安心した、ホタルが信じた人は紛れもない善人だった。
そしてシノさんと二人で無言の朝食を済ませる。そして食後のコーヒーを飲みつつ穏やかな時間を味わっていた頃に、シノさんから別の提案が持ち掛けられる。
「なあ、フジ。一つ私と賭けをしないか」
「賭けって何を賭けるんですか?」
「P・B・Zでフジが私に勝てば、いうことをなんでも一つ聞いてやる」
なんでも? 今なんでもって言いましたかこの人。
「それでは、俺が負けた場合は?」
「そうだな……屍者の身体は改造できるって知ってるか?」
「はい、整形できたり翻訳機能を埋め込んだりすることですよね」
「ああ。その改造をする装置のメニューに性別を変える項目があるんだ。それでフジが負けたら女になって黒酔に入れ」
「お断りします!」
「フフッ、せいぜい頑張れよ。フジ子ちゃん」
****
朝日が昇る中、帰路につく。
昨夜降っていた雨も上がり、道のあちこちにある水溜まりを避けつつ歩道を進む。
疲れた、色々と考えすぎて頭も回らない。
すっかり見慣れてしまった人のいない街並みを見つつ、ふと昔見たテレビ番組を思い出す。
バラエティ番組にゲストで呼ばれた何かのカウンセラーは『心の傷を癒すには時間が必要』だと言っていた。
だとすれば、俺が時間が止まったような世界だと感じたこの場所で、彼女の心の傷が癒える日はくるのだろうか。