知らない人
雨音が微かに聞こえる室内で『シュポンッ!』と景気良さげな音と共にワインのコルクが抜かれる。
シノさんは俺が夕食を食べていないことを知り、簡単なおつまみを用意してくれた。大きなプレートの上にはクラッカーに載せられた色とりどりのチーズや野菜が添えられている。
「すみません、なんか催促したみたいで」
「いいって、私も帰った後に何か食べるつもりだったし。手間が省けた」
彼女はそう言いながら二つのワイングラスに明るい黄金色の液体を注いでいく。
差し出されたグラスを片手にとり背筋を伸ばす。どうもこういった空間には慣れないものだ。
三つあるソファーのうち一つに隣り合って座り、互いに手に持ったグラスを静かに当て乾杯をする。
しかし、困った。ワインの飲み方なんて知らないぞ。昔見たテレビ番組ではグラスを回して香りを堪能したり、天高くグラスを掲げて色を見たりとしていたが、実際のところはどうなんだろう。
そんなどうでもよさそうな事で頭を悩ませていると、隣のシノさんはスッとグラスに口をつけワインを一口。
「飲み方なんてどうでもいいんだよ、レストランでもあるまいし」と、俺の考えを察してか、シノさんはこの場での飲み方を示してくれた。
それに続きグラスに口をつけてみる。すると、
「甘い!? これ、凄く甘いですね!」
口の中に拡がる蜂蜜のような甘味。それでいて果実を口にしたかのような爽やかな酸味とでも言い表せばいいのだろうか。
「ああ、これはキフワインっていってな、その中でもかなり甘味が強い方なんだ」
「キフ? えっ、ギフ? 岐阜で作られたワインってことですか?」
「ハハッ、違う違う。貴腐ワインってのは材料である葡萄を特別な菌で腐らせて、それを醸造したのが貴腐ワインって呼ばれているんだよ」
おい、誰か俺を殺してくれ。いやもう死んでるんだけど。
顔が火照るのを感じつつ、その後はこのワインがどこで造られたものなのか、又はどんな種類があるかなどの話を彼女は楽しそうに話をしてくれた。余程ワインが好きなのだろう、隣に座る彼女の笑顔は無邪気な子供のようであった。
「そうなんですね、このワインも黒酔の『協力者』から?」
「そうだな、昔大型の怪物が暴れててソレを黒酔が処理した事が切っ掛けでな。そのお礼としてこんな風にワインを送ってもらったりしているんだ。そういえば、この前フィオナに会ったらしいな?」
「はい、ルミさんのバーでお会いしました。それで――」
「煙草だろ? フィオナも言ってたと思うけど、別に急ぎでもなんでもないからさ。また今度でいいよ」
その言葉を聞いて安堵する。
ずっと忘れていたことを叱責されるのではないかと危惧していたが、取り越し苦労だったようだ。
「それで、フィオナとはどんな話をしたんだ?」
「え? そうですね、ヴェルクというチームの話とか黒酔の協力者であることくらいですね」
「ふぅん、それで? お前から見てフィオナはどうだった? 女として」
隣に座る彼女はニタニタと笑う。どうやら俺が男として彼女をどう見たか聞きたいようだ。
「綺麗な人だとは思いましたね。けど、その、凄く個性的ですよね。話し方とか、振る舞いとかが」
「……個性的、ねぇ」
異性として彼女を見るのであれば、平々凡々とした俺から見れば彼女は別世界の住人のように感じてしまう。そこに恋心が生まれる訳でもなく、ただ綺麗な人だったなくらいの感想しか浮かばない。
「なぁ、フジ。今フィオナのことを個性的って言ったけどさ、自分には個性が無いと思うか?」
「それは……そうかもしれませんね。俺は昔から特別な何かをしていた訳ではありませんし。世間からみれば個性的とは言えないと思いますよ」
俺は普通だった。
家族がいて、学校に通って、働いて。そんなありふれた普通にしがみつくだけで精一杯な人生を送っていた気がする。
「なるほどね。昔さ、私が劇団にいた頃の話なんだけどな。ドラマのオーディションとか落ちてばかりいた時は私も必死になってさ、個性を出していかなきゃと思ってあれこれ背伸びした演技をしていたんだ。その頃にとある先輩からこんな話をされたことがあるんだ。『個性ってのは自分の言葉で表現するものではない。他人から評価されるものなんだ』ってな」
隣に座るシノさんは語る。役者を志していた時を懐かしむように。
「その先輩の話もわからないでもないんだよな。自分で変わり者ですとか自称してる連中は大抵薄っぺらい、自分に酔っているヤツらばかりだったからな。私の周りにいたのは」
シノさん、何気に厳しいことを言う。
「けどな、面白いのはその話を後輩たちにしていた先輩がさ、途中で劇団を辞めて田舎に帰っちまったことなんだ」
「それは、夢を諦めたってことですか?」
「そうかもな。私みたいな後輩に説教していた先輩は、周りやオーディションなんかで自分の個性を見せつけられずに挫折した。そして自分を個性的だと自称していた人が成り上がったりしてたりな」
少しばかり頭をひねる。
シノさんが言いたいことは理解できるが、この話の着地点が予想できない。
「つまりさ、自分には個性が無いなんて考えなくていいのさ。黙って己を磨こうが、言葉で着飾ろうが、勝手に世間様が判断してくれるんだよ」
「ええっと……それは俺にもちゃんとした個性があると?」
「ああ、そうだよ。ホタルから聞いたけど、フジは生存者グループでもリーダー格だったらしいじゃないか。凄いと思うぜ? 自分に関係の無い人を助ける、正義漢っていう損ばかりしてそうな個性だけどな」
「あはは、別に損なんてしてませんよ」
グラスに口をつけ照れを誤魔化す。
どうも茶化されているようにも感じるが、彼女からは侮蔑をするような視線を向けられている訳でもない。どちらかと言えば、こちらの反応を楽しんでいるようだ。
そこでふと疑問が浮かぶ。俺の隣にいる新世界最強などと謡われる彼女はどうやってあの世界で生き残ったのかと。
「シノさんはあの世界でどうやって生き残ったんですか? 家族とか、他に協力して生き残った人とかは?」と、俺の言葉を聞いてピタリと彼女の動きが止まる。
一瞬、不味いことを聞いてしまったかと思ったが、彼女はワインをグラスに注ぎながら軽く答えた。
「私は一人で生き残ったよ。途中幾つかのグループで生活をしていたこともあったけどさ、大抵男連中が鬱陶しくてな。集団生活に嫌気がさして夜中に一人で逃げ出したよ。それに私に家族なんていない。母親はいたけど東京に出てから、ろくに連絡もとってなかったからな」
迂闊な発言だった。
彼女はこの新世界では強者だが、昔は普通の女の子だったはずだ。きっと俺なんかでは想像もできないほどの苦労をしていたのではないだろうか。
「すみません、変なことを聞いて……」
「別に、謝ることじゃないだろ」
彼女はそう言いつつクラッカーに手をつける。
そしてクラッカーが運ばれていく彼女の唇に目を奪われ、胸が動悸するのを感じる。本当に綺麗な人だ。
特に今夜は黒いワンピースを身に纏い、腰まで真っ直ぐに伸びた金髪がいつもより一層女性らしさを際立たせている。シノさんは会うたびに機嫌が良かったり悪かったりしていたが、今日の彼女はいつになく上機嫌だ。そんな人の隣で、酒を飲める俺は幸せ者ではないだろうか。
「なあ、フジ。お前ってさ」
「はい?」
「やっぱムカつくわ」
え?
今、何を言われた?
隣に座る彼女の表情は以前と変わらない。笑っている。
でも、どうしてこんなにも、今は、不気味に見えるんだ?
「え、あの、どういう――」
「言葉通りさ。さっき自販機の前でも思ったよ、こいつ正気か? ってな。お前さ、自分が男だから女の手伝いをしなくちゃとでも考えてるんだろ? とんだフェミニストだよ、ハハッ!」
頭が真っ白になっていく。
俺はただ困っているように見えたから、手を貸そうと思っただけなのに。
「それにな、妹に会うためにP・B・Zに出るんだっけ? そんなの放っておけばそのうち向こうから会いにくるだろ。ホタルの話では妹もお前を探してたんだろう?」
「そ、それは、そうかもしれませんが! でも――」
「自分が兄だから、か? トウコの言った通りだな、そんなプライドはさっさと捨てろよ。それにな、その馬鹿みたいな丁寧語もどき、はっきり言って腹が立つんだよ。他人の顔色を窺いながら話してるのがバレバレなんだよ」
少しずつ怒気を帯びていく口調に気圧され、息を吞む。
もしかすると、今までずっと彼女は俺に対してこんな風に苛立っていたのか?
「あとさ、私も一応P・B・Zに参加予定なんだぜ? だとしたら敵だろ。そんな敵からの誘いに何の警戒もなくここで酒を飲むなんて、不用心ってやつだろ」
「敵だなんて……! そんな風には考えていませんよ!」
「そうか……じゃあわからせてやるよ」
一瞬だった。
彼女から手が伸びたと思った瞬間、俺の身体はソファーへ押し倒されていた。片手で口元を押さえつけられ、腹の上に膝が乗せられ瞬く間に身体の自由を奪われる。
「どうだ、女に力づくで上に乗られる気分は!? このまま頭から順番に骨ごと砕いてやろうか!」
頭部を宙に持ち上げられ、ソファーに向かって叩き付けられる。何度も、何度も自身の頭が浮かび上がり沈められていく。そのたびにソファーは軋み、脳を揺らしていく。
「おら、抵抗してみろよ! そんなんじゃ誰も守ってやれねぇぞ!」
「ッ……!! クッ……!」
息が、できない。
残された呼吸器官の鼻から空気を吸い上げ、全力で抵抗している。しかし先日大男を投げ飛ばした両腕も、彼女の細腕の前では無力だった。
「ハハッ、ハハハハハハハッ!!」
どうして、こんなことに。
理解が追いつかない。なんとか彼女の手から逃れようとしていた時に様子が一変する。
「ハハハ、ハア――ハア――なんで、なんでだよ……」
万力のように俺の口元を掴んでいた彼女の手は緩み、俺は口呼吸で大量の酸素を肺へ送り込む。
そして彼女はソファーの背もたれに顔を埋め、小さく呟く。
「なんで、どこに……どこに、いるんだよ――」
「……シノ、さん?」
「アアアァ! アア、ウッ、ウウ……」
彼女は泣いていた。
瞳を強く閉じ、声を上げ、手で自らの髪をかき乱して。
そして意識を失ったかのように俺の胸元へ倒れこんできた。
俺は訳がわからず、そのまま天井を仰ぎ見る。
胸元に倒れ込んだ彼女の髪は乱れ、今は死体のように動かない。
河崎シノはこの世界で一番強くて、凛々しくて、気さくな人だと思い込んでいた。でもそれは俺の勘違いで、泣きじゃくる彼女は知らない人だった。
冷静さを取り戻していく中で、一つ一つの状況を確認していこうとするが頭が回らない。唯一理解できたのは、先程まで火のような激情を吐き出していた彼女は、泣き疲れた子供のように眠ってしまったということだけだった。