表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
華と秘密  作者: 綾稲ふじ子
2/2

secret garden

第三章


 どう思い返してみても、三田から鎌倉への帰路で、明とみつの様子に変わったところはなかった。朝一番に明に呼ばれ、誤って切ったという傷を手当てしたときは少し奇妙に思ったが、それだけだった。

 二人が初めて結ばれたのが三田の屋敷だったと後に知ったハナは、きよにそう語った。

 最初こそ戸惑っていたハナやきよだったが、三人の様子を見ているうちに、違和感は消え去っていった。

「みつ様はもともと、透様と明様の両方と親しくなさっていましたものね。考えてみれば、今までとそれほど変わりませんわ」

 ハナはそう納得した。

きよはいつしかみつを「奥様」と呼ぶようになった。

ハナの言葉通り、三人の関係は変わっても、みつの日常生活に変わりはなかった。

目に見える変化は、みつ自身だった。

瑞々しさの中に色香を感じさせるようになり、透明感のある肌に艶がでてきた。

透と明は一人の女を共有することで、今まで以上の結びつきを感じるようになった。

みつは明と透のふたりを愛していた。奇妙な夫婦関係であることは百も承知だ。

妻と妾を持つ夫は数あれど、夫を二人持つ妻はいない。通常であれば、不貞を咎められるであろう。

しかし世間とは距離を置いているので、他人は関係ない。みつは明か透のどちらかと常に一緒で、昼間は漢字や外国語を教わったり、庭仕事を手伝ったりした。

 眠りにつくまえは身体を分け合い、指を絡めながら睦言を交わした。二人と愛しあうことが、みつにとって当たり前になった。

 あるとき明が、それにしてもなぜ父はみつをひきとったのだろう、と訊くともなしに呟いた。

愛を交わし合った三人は、けだるく寝台に横たわっていた。夜明け前の身体と頭には、はちみつのようにとろりと甘い疲れがつまっている。

 みつは小さな声で、わたくしはお母様のかわりです、と囁いた。

「お母様? 誰のことだ」

 明の声に、みつはぽつぽつ応じた。

 融とめいの恋物語から始まり、自らの失恋で話は終わった。様々な痛みに満ちた話なのに、口にしてしまえばほんの短い、あっさりとしたものになった。

明はみつの二の腕を撫で、深く息をついた。

「そういえば、みつを見て懐かしいと思ったことがある。あれは、母に似ていたからだったのだろうか」

 寝息を吐き出すようにもったりと言うと、明は目を閉じた。初めてみつの笑顔を見た日が脳裏をよぎった。桜の森へ、みつと行った時のことだ。

だいぶ昔に感じるが、たった数か月前のことだった。

「似ていますか、やはり」

 みつは目を閉じた。ここでも自分はめいの代わりなのかと心が冷えた。

「馬鹿言え。似てないぞ、全然」

 透が寝返りを打ち、右手を伸ばした。肘をみつの胸にのせて、彼女の右頬に触れる。冷たい指だった。

みつはそっと目を開けた。薄闇のなかでも、透がこちらを向いているのがわかった。

「みつはみつで、他の誰でもない」

 硬い指が頬を撫でた。明と比べると庭仕事に荒れて骨ばっている。この武骨な指先は、自分に触れるとき、いつも優しい。

 長い間こころに突き刺さっていた棘が、今ゆっくりと溶けていく。

愛する人から愛されている。自分はこのままでいい。素直にそう思えた瞬間、信じられないほどに満たされた。

嬉しすぎても苦しくて泣きたくなると、みつは初めて知った。

「大体だな、母に似ているという理由で好きになるなんて、まるで乳離れできていない幼子のようではないか。私たちに失敬だ」

 つけつけと言う透の右手に、みつは自らの右手を重ねた。透の指を温めるように包みこむ。

「すみません」

「わかればいい」

 かたわらから明の健やかな寝息が聞こえてきた。みつと透は目くばせをし、こっそりと微笑んだ。

 それからどちらも目を閉じた。


融が亡くなったという知らせが重文から届いたのは、明とみつが三田に行った二か月後、十一月のある日だった。その日は朝から冷たい雨が降っていた。

透と明、そしてみつは、透の部屋の長椅子に腰掛けて、それを読んだ。

 手紙には融の訃報とともに、重文が櫻澤家を継ぐ旨、記されていた。


『兄が二人いると承知の上で櫻澤を継ぐには、躊躇いがありました。

 しかし私は秘密が多く、複雑なこの櫻澤家を、それでも愛しております。

若輩ゆえ、至らぬ所ばかりと存じておりますが、私なりにこの家を守っていこうと決意致しました。

時間ができ次第なるべく早く、鎌倉までご挨拶に伺います』


 誠実な人柄が滲み出る手紙だった。

「重文どのが継ぐのは当然だ」

 明は簡潔に言い、透は

「万が一お前が当主になどなったら、櫻澤家は一代で破産する。私は面倒が嫌いだ。なりたい者がなればいい」

 と頷いた。

 二人に挟まれて座っていたみつは、融の死を冷静に受け止める自分に驚いていた。

 悲しいのは当たり前でも、安堵する気持ちが同じくらいあった。

最後に会った、病み衰えた姿が目に焼き付いている。融の命が遠からず尽きることは、誰の目にも明らかだった。

 融はもう苦しまなくてもよい。恋い焦がれ続けた愛しい女のもとに、ようやく行けた。

 幼い自分が融に抱いていた感情は、男女の愛と似ているようで異なっていた。

 自分を見出してくれた感謝と、庇護してほしいという執着心。それを安直に、恋愛感情に結び付けていただけだ。透と明の妻となった今、違いがはっきりとその違いがわかる。

 それでも、融が大切な人であることに変わりはない。

 融と出会ったのは、ほんの二年前だ。

この年月が自分にもたらしたものは、あまりにも大きい。血の繋がらぬ兄と、二人の夫。どちらも得難く、大切な人たちだった。

「みつ? 大丈夫か」

 手紙に目を落としたまま黙り込んだみつを、明が気遣わしげに覗き込んだ。

「まさか眠っていたんじゃあるまいな? 図太いにもほどがある」

 口は悪くとも、透も自分を案じているのはわかっている。

「わたくしはしあわせだと、そう思っておりました」

 みつは顔を上げて微笑んだ。

「おふたりがいらっしゃらなければ、お父様の死を受け止めきれなかったかもしれません」

透と明も、静かに笑んだ。

 みつの言葉は、そのまま自分たちの言葉だった。もしもみつがいなければ、父を赦せぬまま、一生を終えただろう。

 氷雨が音もなく庭の木々や地面を潤すように、融の死は三人の中に沁み込んでいった。


 穏やかに冬は過ぎ、春が訪れた。

数えで十五歳になったばかりのみつは美しく、女らしくなった。もう、むすめとは呼べない。咲き誇る花のように、甘やかな色香を漂わせている。

透と明は、みつに溺れていた。

みつと関係を結ぶようになってから、明の絵に変化が出てきた。

大胆な筆遣いが柔らかくなった。色遣いは相変わらず独特でも、以前と比べると優しくまろやかだ。温かみのある、見ているだけで心の満たされるような絵になっていた。

 絵は飛ぶように売れ、明の名は異人を中心に知れ渡っていった。

 透は小康状態を保っていた。それがいつまで続くのか、斎藤医師にもわからない。みつを得た気持ちの張りが、透の身体に好影響を及ぼしていることだけは確かだった。

みつの滑らかな肌に触れ、温もりを感じていると、いつまでもこうしていたいと思う。

傍らには明もいる。これ以上は、のぞむべくもない。死ぬまでこうしていたい。透は心からそう願った。

重文から鎌倉を訪れたいという手紙が届いたのは、沈丁花の香るころだった。

 櫻澤を継ぐにあたって様々な雑事があったが、ようやく片付いた。ついては約束通り鎌倉にご挨拶に伺いたい。そう書いてあった。

 明とみつは重文との再会を喜んだ。透も、重文に興味があった。

返事を書いたのはみつだった。皆でお待ちしておりますと、時間をかけて丁寧に書いた。

書かれることのなかった融への返事を、ふいに思った。

 あのとき返事を書いていたとしたら、いったい何をしたためていたのだろう。

今となってはもうわからない。自分は変わってしまった。

 娘として慈しんでくれた自分が愛する息子たちと結ばれたことを、祝福してくれるのか、ふしだらと悲しむのか。それもわからない。

前者であろうと確信するのはおかしいだろうか。そんなことを考えながら、みつは手紙に封をした。

「書けたのか」

 長椅子に横たわりながら、透が尋ねた。

「はい」

「ちょうど明が来たようだ」

 廊下を響く足音に気付き、ふたりは笑みを交わした。

透もみつもあまり足音を立てず静かに歩くが、明は違う。一歩一歩踏みしめるような、しっかりとした足音だ。

「重文どのへの返書はできたか、みつ」

 扉を開けながら明が笑いかけた。

 みつと透も笑った。

「お前が来るのはすぐにわかる」

「そうか? なんでだ」

 透の言葉に、明は首をかしげた。みつはやわらかく目を細め、透と明を眺めた。

 誰にどう思われたとしても、二人と離れることなどできない。自分たちを引き裂くのは死だけだ。そう思いながら。


 重文が鎌倉を訪れたのはそれから間もなく、三月の初旬のことだった。三人は玄関で出迎えた。

この半年で、重文はますます大人びた。

学生服を脱ぎ、上質な羽織と袴に身を包んでいるからではない。十八歳にして家を継ぎ、爵位を守っている重みゆえだろう。

「みつ。元気そうだ」

 そう言って笑うにも、どこか落ち着きが感じられる。みつはそれを好ましく思った。

「はい、重文お兄様。遠路はるばる、お疲れ様でございました」

 そう答えて微笑んだ。

 重文は、すぐにみつの変化を感じとった。

豊かな黒髪も、きめ細かな白い顔も、黒々と澄んだ大きな瞳も変わらない。

変わったのは、身を包む雰囲気だ。

ひっそりと控えめだったむすめは、今やほころぶ花のようだった。これほど美しかったかと、密かに感嘆した。

明はみつに寄り添うように立っていた。

 重文はふと、違和感を覚えた。三田で会ったときと比べて、二人の距離が近すぎる。

「道中はいかがだった」

屈託なく明に問われて、訝しく思いながらも重文は笑んだ。

「とても面白かったです。一人で遠出するのは初めてでしたので」

「そうか。私は画材を買いに、ときたま一人で出かけるが。透も一人歩きはしないな」

 そう言われて、重文は透に目を移した。透は、明とみつから一歩引いたところにいた。

双生児と承知はしていたが、同じ顔ふたつを目前にすると、不思議な気がした。

「お初にお目にかかる、重文どの。ああそれとも、櫻澤伯爵とお呼びするほうがよろしいか」

 皮肉な口調に動じることなく、重文は澄んだ眼で透を見た。

「ようやくお会いできてうれしいです。どうぞ重文とお呼びください」

 心からの言葉なのは明らかで、透の緊張はほっと緩んだ。

 ひと目見たときから、透は重文に好意をもった。

人見知りの激しさは自覚している。無条件に親しみを覚えたのが不思議だった。重文の人柄もあるだろうが、血の繋がりも、無関係ではないだろう。

 数か月前なら、とてもこんなふうに思えなかった。

 すんなり重文を受け入れられたのは、みつのおかげだ。素直にそう思えた。

「とりあえず上がってくれ、重文どの。こんなところで話し込むこともないだろう」

 透の言葉に、重文は品よく笑んだ。

「ありがとうございます。すてきなお住まいですね」

融の遺言に従い、鎌倉の館は正式に双生児とみつの持ち物になった。重文はそれを当然と受け止めていた。

華美なのにどこか空虚さを感じさせる三田の屋敷と違い、小さなこの館には暖かみがある。

建てられてから数十年経っているはずだが、丁寧に手を入れられて、傷んだ様子は見受けられない。隅から隅まで掃除が行き届き、いかにも居心地が良さそうだった。

重文は好もしそうな目で、木目が飴色に光る階段や、玄関ホールの白い壁を眺めた。

 客間へ向かう途中、梱包された細長い箱が幾つか置かれていた。

「あれは、なんですか」

 重文の問いに、明は頷いた。

「明日納品する私の絵だ。重文どのが来るので、早めに準備しておいた」

 明の絵は下男が注文を取りまとめ、指定先に届けていた。最近では手が足りず、きよやハナも手伝っている。

 重文は首をかしげた。

「お二人は、絵をなさるのですか」

「いいえ、明様だけですわ。透様は庭を整えるのが、とてもお上手です」

「そういえば、庭も大変美しかったですね。そうですか。明さんは絵を……」

 そこまで言うと、重文は足を止め、ぽつりと呟いた。

「アキ……?」

 つられて三人も立ち止まった。

「いかにも私の名は明だが、どうかしたか」

 重文はわずかに躊躇ったのち、口を開いた。

「つかぬことをお伺いしますが、明さんは鎌倉の風景画を売られているのですか? ローマ字でAkiという署名を入れて」

「よく御存じだな」

 感心したように答える明の顔を、重文は目を瞬かさせながら、まじまじと眺めた。

「まさか、あなただったとは」

 理由もわからず凝視され、明は居心地悪そうに手のひらで顔をこすった。

「すまないが、重文どの。話が見えない」

 重文はひとつ息をついてから、口を開いた。

「優れた画家が鎌倉に隠れ住んでいると、このあたりに別荘を持つ者や、逗留に訪れる異人たちを中心に噂されているのです。一切の素性は謎で、アキという名だけが知れ渡っています」

 透は鼻で笑って、明の肩を軽く叩いた。

「そんなたいそうな者か、こいつが」

 重文は少し考え込んでから、もう一度口を開いた。

「たとえば、千円です」

「なにがだ」

「つい最近のことですが、友人の父が、明さんの初期の絵を、知人から千円で買い取ったと聞きました」

 みつは目を丸くした。花柳界に身を置いていたころ、公務員の月棒は五十円程度と聞いたことがある。

金銭感覚に乏しい透と明ですら、尋常な額ではないことがわかった。

「いったい何百枚買われたのだ、物好きなその御仁は」

 呆れたような透の声に、重文はおごそかに応じる。

「一枚です。たった一枚で、その値が付くのです。友人の父は、それでも安い買い物だったと喜んでいたそうです」

 さすがの透も、一瞬絶句した。

「……おい、明。お前、いったい幾らで絵を売りつけている」

 唸るように訊かれ、明は戸惑いながらかぶりを振った

「金のことなどさっぱりわからん。気にしたこともない」

 明と透の動揺を前に、重文は落ち着きを取り戻したようだった。淡々と説明を続ける。

「最近では、アキは女性ではないかと噂されています。身分ある方の細君か、その、側室かなにかではないかと」

「こんな女がいるものかよ。何故そんな馬鹿げた噂が流れている」

 げんなりとした表情で透が尋ねた。明は困惑顔で首をひねっている。みつは黙って会話を追っていた。

「画風が変わったからです。今までは大胆な印象でしたが、最近は繊細でやわらかい印象の作品が主流になっているので、実は女性なのではと。あるじ持ちなので、その目をはばかって、こっそりと作品を発表しているのだろう。そうでなければ、これほどの才能が表に出ない理由がわからない。そうも噂されています」

「まったく。暇を持て余した金持ち連中は、想像力も持て余しているのか」

「だがな、透。重文どのの話では、我々も金持ちなはずだぞ」

「きよが着服していなければな」

 透の冗談に、思い出したように明が手を打った。

「そうだ。きよが焼き菓子を作ったと言っていた。お茶はいかがかな、重文どの。長々と立ち話することもない」

「ありがとうございます。いただきます」

明の話は、ひとまずそれで終わった。

四人は客間で薫り高い紅茶と温かい焼き菓子を味わいながら、会話を楽しんだ。

 みつが透と明の妻となったと重文が知ったのもそのときだ。最初は理解できなかった。一夫多妻という言葉はあっても、多夫一妻というのは聞いたことがない。

妻というのは名ばかりで、みつが慰み者になっているのではないかという危惧が、重文の脳裏をよぎった。

疑いはまもなく晴れた。みつを見る透と明の視線には、隠そうとしても溢れ出る愛情があった。

みつが以前よりずっと幸福そうで美しくなったと気づいたとき、世間の常識はどうでもよくなった。

重文の中にあったのは三田にいたときの、物静かで従順なみつだけだったが、透や明と生き生きと話し、軽やかに笑うところも、こころよかった。

今でもみつを好きだった。

好きな女が幸せになったのなら、それを喜ぶべきだろう。ましてやみつは義妹で、透と明は血の繋がった兄だ。家族の慶事を、肉親として祝福する。微かな胸の痛みとともに、重文はそう決めた。


重文は一晩滞在し、翌日の夕刻に三田へ帰って行った。重文と三人の話は尽きることなく、夜更けまで話し込んだ。

 十数年もの間別々の道を歩んできた者同士、お互いの話が新鮮だった。

重文の話す東京での流行や明の絵の話、透の造園に関する知識に興味を惹かれあった。

みつが透と明に語学などの学問を教わっている話も、重文は興味深く聞いた。充実した日々を過ごしていると知って安心した。

透と明は、鎌倉の自然についても話した。

重文が最も関心を示したのは桜の話だった。祖父と父を魅了した桜とはどれほど美しいのかと、重文は帰る直前まで訪れた時期が早すぎたことを残念がった。

桜の開花はひと月以上先だ。それまでのんびりと滞在する時間は、重文にはない。東京帝国大学で学問を修めつつ、櫻澤の家を守っていかなければならない。

「桜の季節に、また来ればいい」

 東京に戻る重文を玄関で見送りながら、透は素っ気なく言った。重文は微笑んだ。

「ありがとうございます。ぜひそうします」

 明はふと、宙を見上げた。それから重文に目をやった。

「すこし時間はあるかな」

 壁の時計を見上げると、まだ余裕はある。重文が頷くと、明はしばらく待つよう言い残して二階に上がっていった。

 数分して戻ってきた明の手には、厚手の風呂敷で大雑把に梱包された絵があった。

「あの桜の絵だ。気にいるかどうかわからないが、良かったら持って帰ってくれ」

 重文は目を息をのんだ。昨晩絵を見せてもらったとき、アキという画家の才能を確信した。血の繋がった実兄であることが誇らしかった。

 彼の絵を貰えるなど望外のことで、示された好意に胸が詰まった。言葉が出なかった。

「迷惑だろうか。かさばるし、長い旅路だ」

 黙り込んだ重文に、明は案じ顔で尋ねた。

「いいえ、いただきます。ありがとうございます。一生の宝に致します」

 重文は素早く答えた。それから物欲しげな自分を恥じて、頬を染めた。

明は重文を微笑ましく見た。常の大人びた様子とちがう年相応の異母弟を、かわいいと思った。

「それはよかった。ではこれを」

 気安く手渡された絵を、重文は丁寧に押し頂いた。

 家路をたどるあいだ、重文は明の絵をずっと大切に抱えていた。屋敷に着くと、真っ先に自室で梱包を解いた。

その瞬間、さらさらと音を立てて光が溢れ出した気がした。感嘆のため息が漏れた。

 清冽な薄紅が、まず目に飛び込んだ。浅黄の空にはところどころ明るい黄が散っている。

暖かく澄みきった絵だった。穏やかな、光に満ちた世界がそこにはあった。夢で見た光景のような美しさだった。これほどの作品を独占するのは、美に対する冒涜と感じた。

重文はその絵を大玄関の一番目立つところに飾らせた。

八重を思うと気が咎めたが、アキが明であることは知らないのだから構わないだろう。

自分をそう納得させ、重文はことあるごとに桜を眺めた。

明の絵に魅せられたのは重文だけではなかった。八重も明の絵に強く惹きつけられた。

八重は人生のほとんどを失意のなかで過ごしてきた。

傾きかけた旧家を建て直すために、望まない男との結婚を決められた日からずっと、満たされたことはない。

ただの政略結婚ならば、なにも珍しくなかった。庶民はともかく、上流階級の婚姻は単なる契約で、個人の感情が差し挟まれる余地などどこにもない。そんなことは八重も当然わきまえていた。

八重が耐え難かったのは、決して振り向いてくれない夫を愛してしまったことだった。

いつから恋情が芽生えたのか、八重自身にもわからない。閨での優しい指先に惹かれた気もするし、いつもなにかに餓えているような、淋しげな眼に惹かれた気もする。

同じ場所にいても手が届かない、もどかしく満たされない焦燥感が恋心だと、あるとき突然気づいてしまった。

それから地獄が始まった。

心を殺し続けて、少しずつ感情が死んでいくのを感じていた。肉体は一度死ねばそれで終わりなのに、心は何度でも死ねる。

 融が亡くなってもそれは終わらなかった。愛した人から一生愛されなかった痛みだけが残った。

 重文がどこからか持ち帰って大玄関に掲げた絵を初めて目にしたとき、そんな痛み疲れた心に、甘く暖かい春の光が優しく染み入るように感じた。

 この作者は痛みを知っていて、それを乗り越えるすべも手に入れた。八重にはそれがわかった。絵画に対する造詣は深くなくとも、本当に美しいものを見分けることはできる。

 眠れない長い夜、八重は手持ちの小さな豆ランプを携え、揺らぐ灯りで桜を眺めるようになった。寝静まった広い屋敷の中、たったひとりで桜の前に立つと、不思議と気持ちが落ち着いた。

 この桜の絵は、八重の心を癒しただけではない。鎌倉の三人の運命をも大きく変えた。


 その年は、みつと透と明の三人だけで桜を見に行った。重文はなにかと忙しく、来ることは叶わなかった。

透の体調を慮って道中はゆっくりだった。清涼な空気は心地よかった。

 一年ぶりの桜を前に、みつはまた言葉を失った。この華麗さに慣れることは、一生ないだろう。

 枝を揺らす風が桜の雨を降らせ、薄紅が視界を占める。みつは、桜に染まる夫二人を、少し離れたところから眺めた。

 こんなに美しい世界に透と明といられて幸福だった。この先も春が来るたびに三人でここに立てるだろうと、信じて疑わなかった。


 五月の終わりに、重文から便りがあった。

 そこには、知人を伴ってそちらに伺っても良いかと書かれてあった。

三人は快諾した。重文ならいつでも歓迎だし、彼の知人であれば構えることもないだろう。それが一致した意見だった。

 六月半ばの梅雨の晴れ間に、重文は訪れた。

「こちらは私が大学で師事しているプレスコット先生です。英国からいらしてます」

 そう言うと、重文は滑らかな英語でプレスコットに三人のことを紹介した。

プレスコットは五十代後半から六十代前半の、恰幅の良い紳士だった。癖のある金髪はきれいに撫でつけられていた。目尻には深いしわが刻まれ、青い眼には温厚そうな光と笑みをたたえている。

 明治時代に入ってから、政府は欧米列強に追いつくため、多くの外国人を招いた。その数は、のべ数千名にのぼった。

 重文の通う東京帝国大学にも、外国人の教師は多数在籍していた。

初めて見る異人にみつは戸惑ったが、明は動じることなく、笑顔でプレスコットに手を差し出した。

融の計らいで、透も明も鎌倉にありながら、きちんとした教育を受けている。米国人の家庭教師についていたので、異人にも英語にも抵抗はない。

「Nice to meet you,ser.My name is Aki.Welcome to our house.」

屈託なく朗らかな明に、プレスコットは笑みを深くした。

「Hello, Aki.Nice to meet you too.I’m big fan of you. I have your pictures」

「プレスコット様は、なんとおっしゃっているのですか?」

 みつは隣にいる透に小声で訊いた。

「明の絵を持っていて、とても気に入っておられるそうだ。珍しい御仁だな」

 同じく小声で返す透を、プレスコットは笑顔で見やって口を開いた。

「イイエ。ワタシ、メズラシイ、チガウ。ハジメマシテ、ユキ、ミツ」

 透は目を瞬かせた。重文は軽く微笑んだ。

「言い忘れておりましたが、プレスコット先生は、来日されて二十年です。ですから日本語の聞き取りは、ほぼ完璧です」

「ハナス、モ、デキル。スコシ」

 補足するように言うと、プレスコットは澄ました顔で片目をつぶった。みつはくすりと笑った。

「重文どのも、存外お人が悪い」

透も苦笑した。

 応接間に移った五名は、きよの焼いたビスケットと紅茶を楽しみながら、英語と日本語を取り混ぜて談笑した。

 プレスコットは著名な建築家で、帝大の工学部で教鞭をとるかたわら、公的な施設や資産家の邸宅の設計もしていた。そのうちのひとつが三田の櫻澤邸だった。

 優秀な教え子との縁を面白く思ったプレスコットは重文からの招待を受け、自らの作品のひとつを見に行った。

 そこで桜の絵を見た。鮮烈な美しさに、呼吸を忘れるほど驚いた。

絵画にも造詣が深く、自らも楽しみに絵筆をとることがあるプレスコットから見ても、明の才能はずば抜けていた。

 明は二階の自室に案内し、壁一面の絵画を示した。プレスコットの喉がごくりと上下した。

「God! How beautiful pictures!」

 それきり言葉を失うプレスコットに、明は笑顔で言った。

「Thank you,ser.If do you want to, I,ll give you.You can choice and take it that」

 プレスコットは目を見開いて、激しく首を振った。

「No no no! I would like to buy those pictures if I can. Can I do that?」

「Of course you can」

 プレスコットは鮮やかに燃える紅葉と、静謐な雪景色の二枚を即座に買い取った。招聘された外国人教師は高額の給与を得ていたし、プレスコットには設計の仕事で得る収入もある。

 その日の夕刻、重文とプレスコットは東京へと帰って行ったが、その後もプレスコットは足しげく鎌倉に足を運ぶようになった。

そのうち、妻の吉野玉も伴うようになった。

「宅の主人は先生に夢中でね。あたしは最初、浮気を疑ったくらいですよ」

 初めて鎌倉の三人を訪れたとき、玉は歯切れのよい江戸弁でそう言うと、からからと笑った。

花柳界から落籍された彼女は、朗らかで気風が良い。四十路に入っても闊達で若々しく、大島紬を粋に着こなしている。

異人の妻となった日本人女性はラシャメンと呼ばれて蔑まれていたが、玉はそんなことは一向に気にかけなかった。横浜の屋敷でプレスコットと二人、睦まじく暮らしていた。

プレスコットは明の画才にのみ関心がある。双生児とみつとの関係などはどうでもよく、ただ明の次作に興味があった。

玉は重文と面識があるが、込み入った話をする仲ではない。

たとえ親しい間柄だったとしても、身内の秘事を軽々しく口にするほど、重文は愚かではなかった。

みつと双生児の関係を、玉は独自の嗅覚で見抜いた。男女の機微に通じた彼女には、どのような秘密も通用しない。

「みつ様はよろしいですね。お二方から大切にされて」

 嫣然と玉は微笑んだ。

 たやすく言い当てられて、みつだけでなく双生児も身を固くした。自分たちの関係が尋常でないことはわきまえている。

玉は、好意的に接してくれる身内の重文とは違う。どう思われるのかわからない。

 玉は、強張った表情の三人を笑い飛ばした。

「殿方なんて、あっちこっちに女をこさえてよろしくやってるんですよ。そう考えれば、夫が二人いるなんて、たいしたことじゃありませんよ」

 そう言って玉は、みつに夫が二人いることをあっさりと受け入れた。

「プレスコット卿にも、あちらこちらに女性がいらっしゃるのか」

 緊張の解けた透が皮肉気に尋ねると、玉はまなじりを引き締めた。

「浮気なんてしたら! 殿方のお宝を引き抜いてやります」

「まあ」

 傍で聞いていたみつは頬を赤らめた。透と明は震えあがった。

「大和撫子からは程遠い発言だな」

「なんと恐ろしい奥方だ」

そうやって三人は、プレスコット夫妻と親睦を深めていった。

みつと玉も、すぐに親しくなった。

みつの実母が芸妓で、みつ自身も花柳界に身を置いていたと知ってからは、玉はさらにみつへ親しみを覚えたようだった。

年若い妹を気にかけるように、みつに接し、鎌倉を訪れるときには、東京で人気の菓子や、気に入りの役者絵を携えてきた。

みつは玉の好意がありがたく思った。

天涯孤独の身の上なのに、兄や夫だけでなく、姉までできたようで嬉しかった。

初対面からふた月後、プレスコットは鎌倉の館からほど近い七里ガ浜に家を借りた。

 外出嫌いな透が訪れることはなかったが、明はしばしば足を運び、あれこれ話し込むようになった。

プレスコットが語る西洋美術の話は興味深かった。それを生み出す芸術家たちの生活は刺激的で、子どものように憧れた。

ときたまみつも同伴した。玉はみつを歓迎し、女同士で四方山話に花を咲かせた。

 プレスコットから思いがけない誘いがもたらされたのは、その七里ガ浜の借家でだった。

 それは避暑や海水浴目当ての遊覧客が減り、鎌倉が静かになる九月の初めのことだ。

海を臨めるベランダで、プレスコットは明に、ある提案をした。

「Aki. Would you like to go to England with us?」

「Pardon?」

 手すりにもたれて水平線を眺めていた明は、プレスコットに視線をあてて、首をかしげた。

 プレスコットはおよそ一年後の来年の秋ごろ、英国に戻ると決めていた。日本を愛してはいるが、晩年は生まれ育った母国で過ごしたかった。

 着いてきてほしいというプレスコットの願いに、玉は即座に頷いた。

 彼女には、プレスコット以外に家族はいない。友人は数多くいても、ひとりで日本に残ることなど考えられなかった。

 プレスコットは、明も英国に連れていくつもりでいた。

明を広い世界に連れ出し、様々な知識を吸収させ、さらに優れた絵画を描いてほしかった。そして世界に明の才能を示したかった。

プレスコットはひそかに根回しを始めた。

まず重文に文を送り、自らの希望を伝えた。

プレスコットの望みを知った重文は喜んだ。明を陽の当たる世界に出して、才能を更に伸ばしてほしいと心から願った。そのためなら櫻澤にどのような咎が下ったとしても構わなかった。

明がいままで日陰の身に甘んじなけれなならなかったのは自分たちのせいだ。たとえ当主失格とそしられようとも、長年の借りは返さねばならない。

重文はひとり、横浜のプレスコット邸まで赴いた。

今までは双生児のことを、ただの義理の兄弟であると伝えていたが、複雑な事情を初めて打ち明けた。

第三者に話すのはこれが初めてだったが、そうすることが明のためと信じて、全てを話した

話を聞き終えたプレスコットは、深いため息を吐いた。

突出した才能が、本人には何の責任もない出自のせいで、日の目を浴びず消えてしまう。そんな愚かしいことがあってはならない。

そう思い、明を連れていく決意を更に強めた。

唯一の障害は八重だったが、ことのほか、物事はすんなりと運んだ。桜の絵の作者に、八重がすっかり魅せられていたからだ。

 作者が融とめいの息子であると重文に伝えられたときは驚きを隠せす、さすがに不快な顔をした。

それでも、美しい絵に対する愛が勝った。

 あの作者が新しい文化に触れて、また美しく心慰める作品を生み出してくれるのならば、どんなことでも許せる気がした。

 融は最期まで自分を愛してくれなかった。その痛みを、息子である明の絵画が癒してくれた。八重は運命を感じた。

明は憎い女の息子であると同時に、愛した男の忘れ形見であると、そのとき初めて思えた。

今では八重も明の渡英をゆるしていた。

 プレスコットはそういう話を余さず伝えた。八重の話を聞いて明は意外そうに片眉を上げたが、話が進むにつれて、次第に表情を曇らせていった。

「Thank you, Mr prescott.But I can not go to anyplace」

「Why not? You must see new world.I want to show you another life.I can do that.」

「I don’t want so.」

 明は静かに笑んだ。それ以上なにも言わず、熱心なプレスコットの誘いに首を横に振り続けた。

「プレスコット様と、なにを話されていたのですか」

 その日の帰り道、みつに聞かれたときも、黙って首を振った。

 気温や湿度は高いままでも、日の落ちる時間は早まって、夏の終わりを感じさせる。

 夕暮れの薄暗く生暖かい空気のなか、長い影を引きずりながら、みつはぽつりと尋ねた。

「透様を置いてはいけないから、洋行を断ったのですか」

「プレスコットは三人一緒に来ればいいと言っている」

 無意識に答えてから、明は足を止めた。

「存じております。わたくしも先ほど、玉さんから聞きました。ですが、透様に、長旅は無理です」

 みつも立ち止まった。ちらりと振り返った明は、愛妻のひたむきな視線に、少し目元を和らげた。

「そうだな。英国で療養すれば、透はもっと良くなるのではないかとも言っていたが。行きつくまでが大変だ」

 明はまた歩き始めた。みつは後を追った。

「明様は、本当は行きたいのではありませんか」

 明が西洋美術に強い関心を持っていると、みつは知っている。明なら、世界のどこに行っても大丈夫だと思う。

透は違う。何十日も続く船旅に、彼の身体は耐えられない。連れ出すのは不可能だ。

明が洋行をするというのは、二人が離れ離れになることを意味する。

透が明の為だけに生きてきたように、明も透がいなくては生きていけない。それもわかっていた。みつ自身、どちらかひとりを選ぶことなど考えもつかない。

 明からの答えは得られぬまま、二人は黙って帰路に着いた。

 透にこの話をしてはいけないのは当たり前にわかっていて、みつも明もいつも通りにふるまった。


 明はプレスコットにも口止めをしていたので、透が渡英の話を知ったのは十一月に入る少し前、木犀の香りが甘く溶け込む季節のことだった。

そのとき明は、ひとりでふらりとプレスコットを訪ねていた。

七里ガ浜には、プレスコットの知己や教え子たちがよく訪れるようになっていた。プレスコットは気軽に彼らを引き合わせた。

明はこの交流を喜んでいた。

人好きする明は、どんな人間ともたちまち親しくなれた。明は、プレスコットと会うことと同じくらい、未知の人々との触れ合いを楽しんでいた。

自らをこの近所に住むただの絵画好きと紹介し、画学生たちの熱気溢れる会話に混ざったりもした。

 その日、弾む足取りで戸を叩いた明を出迎えたのは、満面の笑みを浮かべたプレスコットと思いがけない客だった。

 その男は四十路半ばに見えた。血色の良い福々しい丸顔で、頭髪は少なめだ。代わりというわけでもないだろうが、口の上にちょび髭が乗っている。邪気のない生き生きとした目のせいか、脂ぎった印象は一切ない。

「白根輝生です。プレスコットから、お話は伺ってます」

 プレスコットに並ぶ男の口から出た名に、明はあんぐりと口を開けた。

「白根画伯、ですか……」

 喘ぐように呼吸しながら、明は目前の男をまじまじと見た。

「おや。私をご存じとは、光栄ですね」

白根はつやつやした顔を品よくほころばせた。ようやく明も笑顔を浮かべた。

「悪いご冗談です。白根先生を存じ上げない絵画好きなど、この日本にはおりません」

「Are you surprised,Aki?」

「Of course」

プレスコットは白根の肩を軽く叩いた。

「He is my friend and your fan」

 明は言葉を失った。

白根輝生は日本を代表する西洋画家だ。

いまから三十年前、白根は絵画を学びに単身フランスに旅立った。二十歳になったばかりの頃だ。厳しくも恵まれた環境のなか、彼は生来の才能をぐんぐん伸ばしていった。

フランスのサロンで何枚もの絵を入選させ、実力にふさわしく、欧州でも名を広めた。

 二十年前に帰国してからは絵筆をとるかたわら、後進の育成にも努めた。

明治二十九年に新設された東京美術学校では教授職にも就いた。

現在は第一線を退いて、妻と静かな生活を送っている。鎌倉の材木座近くに別邸を構え、気が向けば妻や、庭の木々を描いた。

「プレスコットから君の絵を見せてもらいました。痛いほど清い雪景色と、煌めく紅葉です」

 何ごとにも物おじしない明ですら頬が熱くなり、後頭部や背中に冷や汗を感じた。思わずうつむいた。

「それは、お目汚しを致しました」

 耳まで赤く染まった明を見て、白根は微笑した。

「私は好きです」

 明は顔を上げ、肉付きの良い頬に浮かぶえくぼを認めた。

「君の作品には強さと暖かさがある。痛む心を和らげ、凍える感情を癒すような、そういうものです。まるで赦しを与えるひかりのようだと思います」

 雲上人ともいえる、敬愛すべき人からの丁寧で過分な評価に、明はほとんど震えた。

「これから拙宅に友人たちが来ます。明君もいかがですか」

「ワタシモ、イク」

 間髪入れず言葉を挟むプレスコットに、白根は苦笑した。

「私が君を独占するのを、プレスコットは快く思わないようですな」

 明は誘われるまま白根の別邸を訪れることにした。この機を逃せば白根と会うこともないだろうと思った。

材木座には白根の愛弟子である画家の藤江雄二と、画商の松本和樹がすでに訪れていた。白根が明を紹介すると、二人は信じられないもののようにまじまじと見た。

「私の画廊に来られるお得意様にも、石井先生の絵を持っている方が数名おります。もしよろしければ、うちにも何点か置かせていただけないでしょうか」

挨拶を交わすと、松本はすぐに明の手を取るようにして迫った。

 松本の画廊は銀座の一等地にある。父から継いだ画廊を守り、大きくすることに、松本は心血を注いでいた。

三十路に入ったばかりで、情熱のままに動ける若さがある。七三に分けた髪は櫛目が通り、洋装が良く似合っていた。

 明は黙って微笑んだ。自分の身辺が騒がしくなれば、透やみつにどんな影響が出るかもしれない。才能を誇示するより、大切なものを守るため、諦めるのが彼の生き方だった。

「松本君。せっかく石井先生が来てくれたんだ。そうガツガツするものではない」

 藤江はたしなめるように言うと、親しげに明に微笑みかけた。

「君の色彩感覚は素晴らしいね。ただし構図の甘い絵が何枚かあった。正式に師事したことはないのかな」

「はい。ほんの楽しみに描いてきました」

「それは惜しい。広い世界に出てもっと学べば、さらに先まで行けるのに」

「さすが藤江君。文展で入賞した画家は、言うことが違う」

 揶揄するような白根の言葉に、藤江は飄々と応じた。

「白根先生は私に票を投じなかったと聞きました」

 白根が文展の審査員になったのは今回からで、彼が推したのは線は荒いが瑞々しく若い印象のある絵だった。新鮮な色遣いが目を引いた。どこか明の絵に似ていた。

他の審査員たちの意見で、重厚で深味のある藤江の絵が選ばれたが、翌年どちらも出展するのなら、次回はどうなるのかわからない。藤江自身、それはわかっていた。

「君にはまだまだ精進が必要だからな」

「先生は手厳しい」

 苦笑する藤江を白根は暖かい眼差しで見た。

 隔たりなく語り合う師弟を、明は眩しいもののように感じた。導く師や研鑽しあえる仲間がいれば、表現する世界も変わってくるのだろうかと密かに羨んだ。

 白根の妻と下女が夕餉を整え、そのまま宴席へと流れ込んだ。

酒食を交わしながらも、明の素性については誰もなにも触れない。なんらかの事情があることはわかっていても、くだくだ尋ねる者はなかった。ただ才能ある、将来有望な若い画家として扱った。

話は尽きることなく、明とプレスコットは外泊することになった。白根の妻から連絡を受けた玉は、みつと透にそれを知らせに来た。夜はすでに更けつつあった。

「申し訳ありませんが、一晩だけ先生をお借りします」

「好きなだけお貸ししよう」

 応対に出た透の言葉に、玉はほっとしたようだった。

「宅の主人は先生に振られて年甲斐もなくしょげ込んでおりましたが、お陰さまで今日は楽しくしております」

「振られた?」

透は怪訝な顔をした。

 傍に控えていたみつが止めるいとまもなく、玉は巻き舌の江戸弁で続けた。

「振られて当たり前ですよ、英国に連れて行きたいなんて我儘。先生にもご都合がおありでしょうし、ましてや慣れない異国の地など、そうおいそれとは……」

 みつは玉の手に触れ、小さくかぶりを振った。玉は言葉を切ったが、それほど重大なこととは思い及ばなかった。別宅に戻ってからも、そのことを誰にも伝えなかった。

 玉が去ってみつと二人きりになると、透は静かな声で尋ねた。

「さっきの話はなんだ」

 みつはそろりと透を見た。

「プレスコットは、明も連れていくつもりだったのか」

「そのお話は、明様が戻ったら……」

 凝視され、みつは目を逸らした。透は構わず問いを続けた。

「明はそれを断ったのか」

 透はみつの華奢な両肩を強く掴んだ。

「私のせいか」

 みつは透を見上げた。透の眼は激情に満ちていた。

 常日頃から怒りっぽく、あれやこれやと文句をつけるが、今日の透はそれと違う。

鎌倉に来た初日、明が融を評したときのことを思いだした。あのとき明が示した感情は蒼い炎のようだった。一見静かなようで、その実、骨をも溶かす高熱のような怒りを秘めていた。

今この瞬間の透からは、あのときよりもさらに激しいものが感じられた。

 透は黙って見つめ返すみつを払いのけた。大股で通り過ぎ、激しい音を立てて自室の扉を閉めた。

 後を追ったみつは、閉ざされた扉の前に立ちすくんだ。ドアノブを開こうとする手が、強張って動かない。

取り返しのつかないなにかが起きてしまいそうで、みつは何か恐ろしい物のように、目前の扉を眺めた。


 翌朝八時過ぎに上機嫌で帰ってきた明は、出迎えたみつの顔色に不審な顔をした。

「どうした。なにがあった」

 みつは口早に事情を語った。明はわずかに眉をひそめた。

「それで透はどうしている」

「自室に籠ったきり、一度も出てきません」

 悄然と答えるみつの細い肩を、明は慰めるように軽く撫でた。

「そうか。変に隠し立てせず、透に教えるべきだったな」

 明は足音を立てながら階段を小走りで昇り、勢いよく透の部屋の扉を開いた。

 窓際の長椅子に寝転がっていた透は、気だるげに身を起こした。

空は薄暗く曇っている。風が窓を揺らした。まだ十月の末なのに、木枯らしを思わせる強い風だった。

「隠し事をしたのは確かに悪かった。しかし私は行かないのだから、そんなに拗ねることはないだろう」

「行かない、だと」

 透は冷笑を浮かべた。

「行けない、の間違いだろう。いくら絵が売れているといっても、買うのは金余りの道楽者だけだ。そもそも鎌倉すらろくに出たことのないお前が渡英など無理に決まっている。所詮お遊びの落書きだ」

「ひどい言い草だ」

 決めつけられ、さすがに明は不快な表情を浮かべた。

 透の嘲りは止まることがなかった。

「本当のことだ。まさかお前、自分が世界に通用するなどと、本気で思っているのか」 

「白根輝生画伯に、私の絵を認められた」

 明の反論に透は括目し、語気を荒げた。

「いつの間にそんなことに。お前はいつもそうだ。健康で、絵を描くこともでき、どこへでも行ける。気に入った女もさっさと抱く。好きなように生きられる。私には病んだこの身体しかない。ここ以外、どこへも行けない。お前はいつも、心の中で私を憐れんでいた。それはそうだろう。幸福なのだから」

 胸をつかれ、明は一瞬言葉を失った。

「憐れんでなど……。それに、みつは私だけの妻ではないだろう?」

 ようやく追いついたみつの姿を認めると、透はまた口元を歪めた。

「伯爵様から下げ渡された女の身体に関心があったからな。あの女の価値は、そのくらいしかない」

 あからさまな蔑みに、みつは蒼ざめた。透が自分をどう思っているのか聞いたことはない。気持ちは通じあっていると、無防備に信じていた。

「なんてことを! みつは父と関係など持っていない」

 明は憤慨した。みつが純潔であったと、明が一番知っている。

透は可笑しそうに声を立てた。

「花街の娘に惑わされるなど、まったくお前らしい。本当に愚かだな。平然と私たち二人と寝るような女だぞ? 誰とでも寝るに決まっている。父でもお前でも私でも誰とでも。重文どのやプレスコットとも寝ているのかもしれん」

 みつの瞳が潤み、涙があふれた。透の言葉が突き刺さって、呼吸が苦しくなった。

「謝れ、みつに」

 明は透に歩み寄って力任せに胸倉を掴み、思い切り頬を打った。透は抗うことなく、されるがままだった。投げ捨てられるように振り払われると、長椅子にもたれて手の甲で口元を拭うと低く笑った。

「本当のことを言って、なぜ謝らなければならない。私を殴ったところでなにも変わらないぞ。その女が汚れきっているのは、どうしようもない」

 明の手がもう一度硬く握りしめられるのを見て、ようやくみつは動けた。

「もう、おやめください、明様」

みつは明の背に縋り付いた。激情に、明の広い背が激しく上下している。

「行くぞ」

 明は体の向きを変え、乱暴にみつの手を取った。そのまま手を引いて、部屋から出ていった。

 引きずられるようにして、みつも部屋を出た。廊下の空気は冷えていて身体が震えた。振り返ると透と視線がかち合った。

「透様。本当に……」

 わたくしのことを、ずっとそのように思ってらしたのですか? お二人と寝るわたくしは、汚れた女なのでしょうか?

みつの問いかけは、最後まで発せられることはなかった。

明に強引に連れだされ、みつの視界から透が消えた。

透は虚ろに扉を眺めた。

これでいい。これで二人は自分を捨てて英国へ旅立てる。自分のために明の可能性を奪うことなど、できるはずもない。

せめてみつには傍にいてほしかったが、慣れない異国の地へ、明を一人で行かせたくない。

みつがいれば明も心強いだろう。そのためなら、自分が憎まれ役になるのも辞さない。

こうなることは、もともと覚悟していた。

みつと明が三田で結ばれたあとに起こるはずだったことが、現実になっただけだ。

 そう思おうとしても、明を激怒させ、みつを傷つけた自分が疎ましかった。

殴られた頬よりも、心無い言葉を吐いた舌が痺れて痛むような気がした。いっそこのまま爛れて腐り落ちてしまえばいい。

長いため息をつきながら、透は再び長椅子に横たわった。


「Mr prescott.Could you please take us to England?」

 明が火を噴く勢いで歩を進め、みつと共にプレスコットの別邸を訪れたのは、午前十時をまわった頃だった。

あまりにも早い明の再訪を訝っていたプレスコットは、思いがけない言葉に狂喜した。

 透のことをわきまえれば、明を連れていくのは不可能と納得はしていた。白根に引き合わせたのも、べつに明を懐柔するつもりではなく、白根が望んだからだ。

 明の気が変わった理由を聞いて申し訳なく思う一方、才能を更に開花させられることに誇らしさすら覚えた。

 はしゃぐプレスコットに引き換え、みつは悲しみから放心していた。

事情を知った玉は、おずおずとみつに近寄った。

「知らなかったとはいえ、あたしったらなんてことを」

 みつは玉の顔へ、ゆっくりと焦点を合わせた。

「いいえ、玉さんのせいではありません。わたくしが……」

 そこまで言うと、とまっていた涙がまたこぼれた。

いま泣いているのは、わたくしを汚れていると、透様が思っておられたからです。

声にならない思いは涙となって、ほろほろ溢れ出す。

「泣かなくてもいい、みつ。大丈夫だ。私がいるだろう」

 憤った表情を浮かべながらも、明はゆっくりとみつの背を撫でた。

 そうしながら、透との決裂は避けられないことを悟った。みつを傷つける者は、たとえ片割れであろうと赦せない。

 透の本心も知ってしまった。

 確かに自分は心のどこかで、いつも透を憚っていた。

それで透が傷ついていたのだとしたら、もう一緒にはいられない。これ以上、透を傷つけたくない。みつも傷つけたくない。

三人で愛し合う幸福な日々は、無残に崩れ果てた。もう元に戻ることはない。

 透に対する憤りと愛情、憐憫。自己嫌悪、半身を失う痛み。様々な感情が渦巻いて、明は大きく息をついた。

 こういうかたちで決別することになるとは、想像だにしていなかった。

 嗚咽を漏らすことなく、みつは静かに泣き続けていた。

 透はいなくとも、明はここにいて、自分を愛してくれている。それだけでも充分なはずなのに、どうして涙は止まらないのだろう。

 明の呼吸が髪に触れるのを感じながら、そう思った。


 プレスコットは明とみつを横浜の屋敷に連れて帰り、迅速に渡英の手続きを行った。

 白根は埋もれていた才能を広く世間に知らしめるべく、東京で展覧会を開くことも提案した。

「優れた芸術は、多くの人の眼に触れさせるべきです」

 明を訪れた白根は、紅茶に口をつけながら言った。明とみつが横浜に来てから三日後のことだ。

「君の絵も然り。今まではごく一部にしか知られていなかったが、これからは違う。もちろん厳しい評価を下す者も出てくるでしょう。しかしそれ以上に君の絵の世界を愛し、共有し、美しい夢を見られる者が増える」

「そうでしょうか。そうは思えません」

 明は手つかずの紅茶に目を落とした。

鎌倉を出てから気持ちは沈んだまま、白根と向かい合っても弾むことはない。

 薄く繊細な白磁のティーカップのなかに映るのは、透と同じ顔だ。生まれてからずっと傍にいて、お互い知り尽くしているはずだった。それなのに、心も身体も遠くなってしまった。

透よりみつを取ることになってしまった。

後悔はしていない。みつはなにより愛おしい、一生添い遂げたい妻だった。

みつは未だ気鬱でふさぎ込んでいる。彼女を傷つけるものは、なんであろうと許せない。

 それでも、血肉を分けた半身を忘れるのは不可能だった。

「明君。君が誰と仲違いしても構いません。しかしそのせいで投げやりになるのは、私が許さない。与えられた才能を活かさないというのは、芸術に対する裏切りだ」

 初めて耳にする、白根の厳しい口調だった。明は顔を上げた。真摯な眼差しに行き当たって、はっとする。

「君には才能がある。私にはそれがわかる。意識せずに日々を漫然と過ごしていれば、それは腐り果て、干からびてしまう。君が成すべきことは落ち込むことでも卑屈になることでもない。磨き上げ、研ぎ澄ませ、先に進むことです」

 そこまで言うと、白根は表情をすこし和らげた。

「悩むのはいつでもできる。やるだけのことをやってからでも遅くはない。違いますか」

 頬を叩かれた思いで、明は白根に目をあてた。

「君の絵を、世間に知らしめましょう。狭い世界から飛び出して色々なものを吸収し、新しいものを生み出すのです」

「はい」

 ようやく言葉がこぼれた。正しい道を示す者を師と呼ぶのなら、自分にとってそれは白根だと思った。

明は展覧会を開くことを決意した。


松本は喜んで画廊を貸すと申し出た。

描きためた絵画を取りに行く必要があったが、明は鎌倉に戻ることを拒んだ。

みつが戻ることも許さなかった。代わりにプレスコットが赴いた。明とみつが鎌倉を出てからちょうど一週間後の、十一月初めだ。

透は自室に籠ったきりで出てこなかったと、プレスコットは表情を曇らせながら言った。明は黙って頷いた。透はそうするだろうと、考えなくともわかる。

展覧会は、十二月の半ばから一週間、銀座の画廊で行われることになった。

白根は連載している新聞の批評記事で明の絵を扱った。

 もともとアキという画家を知っていた者はもちろん、知らなかった人々も、白根がこれほど推す画家はどれほどのものかと足を運んだ。こじんまりとした画廊は人であふれかえり、その様も話題になった。

 明の絵は熱狂的に受けいれられた。

 初めて彼の絵に触れた者は、非凡な色の洪水に圧倒された。

既に明の絵を知っていた者も、そこに広がる多様な絵画から、改めてその才能を思い知らされた。

謎に包まれていた画家は若く、容姿も優れていたので、絵画に興味のない者たちも、明の一挙一動を噂した。

明は時の人になった。それを鼻にかけることもなく、まったくいつも通りに彼はすごしていた。どんなに晴れがましい場面でも淡々とふるまった。

みつは展覧会の最終日、画廊に足を運んだ。外出する気にはなかなかなれなかったが、夫の晴れ舞台だ。

明はみつを誘って、会場内を回った。

「素晴らしい展覧会ですわ。あなたの絵が、この会場を染めています」

「そうか」

 会話はそれで途切れた。

 明とみつの口数は、ぐんと減っていた。

ふたりでいるとどうしても、ここにいるべき、もうひとりへと意識が飛ぶ。

 この場に透がいたら、と考えてしまう。

 ほんの二ヶ月間、鎌倉と横浜という、ごく近くに離れているだけなのに、取り返しのつかない距離を感じる。

隣にいる夫に気付かれないよう、みつは微かなため息をついた。

明に不満はない。いつも優しく自分をいたわり、気遣ってくれる。

それでも三人でいた頃が懐かしかった。

 明が許さないのなら、透に会いに行くことなどできない。仲違いの原因は自分にある。透に会いにいけば、明の気持ちを踏みにじってしまう。そう思っていた。

「透がここにいたら、なんと言うだろうな」

 だから明がそう尋ねたとき、みつは驚いた。

 それ以上の問いも答えもなく会話は終わったが、その問いかけは、みつの胸に大きくしこった。

その夜、身じろぎひとつせず寝息を立てる夫の横で、みつは何度も寝返りを打った。

 透の気持ちを知りたい。

離れてからずっと、心の底に押し込めていた願いだった。

 本当に自分を蔑んでいたのか、愛情など欠片もなかったのか、真実を訊きたい。

透の本心を聞けるのなら、傷つけられても構わない。

 夜明けの少し前、みつはそっと起き上った。薄暗い部屋で、音をたてないように見繕いをして、静かに扉を開ける。

 闇に慣れた目が、明がこちらを向いているのを教えている。引き留める声はない。

 部屋を出ていくとき、みつは明に深々と頭を下げた。

 妻の背が消えた数分後、明は身を起こした。

 おそらくみつは、もう戻ってこない。

 展覧会で自分が無意識に口にした言葉が引き金となったのだとしても、みつがずっと透に会いたがっているのは感じていた。

酷い言葉を投げつけられても、みつは変わらずに透を愛している。

それは明も同じだった。透を考えない日は一日もなかった。

 あるとき、ふいに理解した。

 透が、自分とみつに見限られるために、あんな言葉を放ったことを。

透と決裂しなければ、自分は渡英を諦めていただろう。

 そうとわかっても鎌倉に戻れなかったのは、みつを失うのを恐れたからだ。何もかも手に入れようとする強欲さを、抑えることができなかった。

 みつが自らの意思で透のもとに行くのなら、引き留めることなどできない。

透とみつを引き裂かないことが、自分にできる唯一のことだ。

 失う痛みを忘れようと明は目を閉じたが、望む眠りは訪れない。

 三十分後、明はおもむろに起き上がった。

 日本を離れる前に透に会いたい。

 怒りも意地も迷いも、どうでもよくなった。

 単純で素直な欲求に突き動かされるように寝台を降りて、身支度を整えはじめた。


 プレスコット邸の女主人である玉の朝は早い。毎日下女たちよりも早く床をあげ、朝食の支度をする。

 その朝も、玉はいつも通り一人で台所に立っていた。

「玉さん」

 澄んだ声に振り向くと、身支度を整えたみつの姿があった。最近では目にしたことのない、すっきりとした表情だ。

「どうしたの、こんな時間に」

 みそ汁の具にする長ねぎを手にしながら、玉は尋ねた。

「これから一人で鎌倉に戻ります。今まで、大変お世話になりました。プレスコット様にも、よろしくお伝えください」

「え、今から? 一人で行くのかい」

「はい」

 長ねぎを取り落としたのも気付かず、玉はみつに歩み寄った。

「はいって……。先生はどうするんだい」

 明を案じる玉に、みつは黙って微笑むと、深々と頭を下げた。

「ああ、ちょっと待ちな。まだ行くんじゃないよ。ここで待ってな。いいね?」

 立ち去ろうとするみつを引きとめて、玉は小走りで台所を出て行った。

 みつは小首を傾げながらも素直に待った。

 数分のち、玉は封筒を手にして戻ってきた。無造作にみつに手渡す。

「少ないけどこれ、路銀の足しにおし」

 みつはやんわりと拒んだ。

「持ち合わせがありますから、鎌倉までは戻れます。お気持ちだけで……」

 封筒を玉の手に戻してから、みつはそっと玉を抱きしめた。

「わたくしはずっと、天涯孤独でした。でも今は、主人や兄のほかに、姉までもできた気がしております」

 そう言うと、身体を離した。

「もしも二度と会えなくなったとしても、玉さんのことをお姉さまと、そう思っていてもいいでしょうか」

 真っ直ぐ見つめられて、玉は一瞬ぽかんとした。三十秒ほどして、大粒の涙を零した。

みつが日本に残るのならば、これが今生の別れとなる。そんな可能性に気付いてしまった。

「よしとくれよ、当たり前じゃないか。そうだよ、アンタはあたしの妹だよ」

 慌てて涙をぬぐう玉に、にっこりと笑いかけ、みつは今度こそ出ていこうとした。

「あ、ちょっと待っておくれ。うちの下男と一緒に駅までお行き。切符の手配もしてもらうんだよ」

「でも……」

 玉はみつの背を豪快に叩いた。

「でももヘチマもあるもんかい。姉の言うことを聞けないなんて、困った妹だよ」

 からりと笑う玉に、みつは愁眉を開いた。

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます、玉姉さん」

 微笑みながらそう応じた。


澄み切った冷たい空気に、山茶花の香りが甘く溶け込んでいる。年の瀬を迎える館は静まり返って、人の気配もない。

朝一番の列車に乗れたので、八時過ぎには鎌倉に着いた。横浜から鎌倉まで一時間もかからない。駅から駕籠に揺られて屋敷に向かった。

館を前に、みつは立ちすくんでいた。

二年近くまえ、初めてここを訪れた時よりずっと、立ち入るのに躊躇いがあった。

 透と出会ったときのことを思い出した。あのときから、ずいぶん遠いところまで来てしまった気がした。

「奥様。こんなところで、どうなさいました」

 不意に背中から声をかけられた。振り返ると斎藤医師がいた。温厚な顔は相変わらずで、みつは力を抜いた。

「ご無沙汰しております。朝早くから、お世話をおかけします」

 斎藤は何か言いかけ、口をつぐんだ。それから黙って首を振った。

みつは斎藤の隣に並んで、自然に玄関をくぐっていた。

斎藤を待っていたきよは、息をのんだ。

「おかえりなさいませ」

 みつは無言で頷いた。なにを言えばいいのか、わからなかった。

「透様は眠っておいでです。お二人がいなくなってからは、ろくにお食事も摂らず、横になってばかりで」

 斎藤は気遣わしげな視線を向けた。きよはひとまわり痩せ、一気に十歳ほど老け込んだようだった。

双生児とみつが決裂したことを、斎藤はきよから聞いている。三人を我が子のように愛おしんでいた彼女にとって、現状は我が身を裂かれるように辛いのだろうと案じた。

「あなたまで参ってしまってはいけない。少し休まなければ」

「こんなときに、私が休むわけにはまいりません」

 きよと斎藤に背を向けると、みつはひとり歩き出した。吸い寄せられるように寝室の前に辿りつく。大きく息を吐き、ドアノブに手をかけた。


 扉の向こうは陽光に満たされていた。寝台に眠る透の顔は青白い。

 みつは静かに歩み寄り、枕元に立った。

そっと透の額に触れる。いつもより体温が高い。こうやって当たり前に触れていたのが、はるか昔のように感じられた。

指先で透の頬を辿る。すっかり肉が落ち、無精ひげがまばらにあった。

透がうっすらと目を開けた。

「……なぜ、お前が、ここにいる」

 透は身じろぎもせず、かすれた声で尋ねた。

「これは、夢か」

みつは黙って首を振った。

透はみつの背後をちらりと視線をやり、すぐに戻した。それだけでわかった。透は明を待っている。

「そんな、死人を見るような眼で、私を見るな。まだ、死んでない」

 いつもどおりの同じ皮肉な口調に、みつは微笑した。

「透様は、当分死んだりしません」

「また、憎まれっ子がどうとか、減らず口を叩く気か」

「よく、おわかりですね」

「夫婦だから、そのくらいわかる。……お前、痩せたな」

「そのお言葉、そっくりそのままお返しいたします」

 透は薄く笑い、ゆっくりと目を閉じた。

こんなに僅かな会話ですら、消耗したようだった。みつはもう一度、透の頬に触れた。

その指先を、ことのほか強い力で透が握った。

「お前、私を好きだろう」

「はい」

 かんたんな返事に迷いはない。

「それならひとつだけ、願いをきいてくれ」

 目を閉じたまま、透は言葉を連ねる。

「私を、殺してくれないか」

 みつの黒々とした瞳が、驚きに揺らいだ。

「……なんとおっしゃいましたか」

手のひらを握り返しながら、みつは問い返した。

「本当に好きなら、もしも私を愛しているのなら、殺してくれ。お前の手で死ねれば、これほど幸せなことはない」

「馬鹿なこと、おっしゃらないでください。できません、そんなこと」

 表面上は平静を保てた。本当は感情むき出しに泣きたかった。愛する人のこんな言葉に耐えられるはずもない。

「私だって、できない。お前と明を失って生きていくことも、二人の可能性を奪うことも。それなら、このままいなくなるしかない」

 閉じたままの目から、涙が一筋流れた。透が初めて露わにした弱さだった。

その瞬間、自分がどうするべきか、みつにははっきりとわかった。今までの迷いは溶けて消えた。

「透様は、思い違いをなさっています」

 透は薄く目を開いた。みつは晴れやかに微笑み、透の涙を指先で拭い去った。

「わたくしを厄介払いしようとなさっても無駄ですよ。ずっと、そばに居座りますので」

「……なんだと?」

「わたくしは異国になど参りません。ずっと透様のおそばにおります。一緒に、明様のお帰りを待ちます」

「馬鹿は、お前だ。明はもう、ここには戻らない」

 吐き捨てるような透の言葉にも、みつの笑みは崩れなかった。

「わたくしがここに来ると、明様は気付いておいででした。それを止めなかったのがどういうことか、おわかりでしょう?」

 明の名を聞いた瞬間、透はきつく眉を寄せ、どこか痛むような表情を浮かべた。

今の透と明は、半身を引き裂かれたようなものだから仕方がない。それを治すことができるのは、二人の妻である自分だけだと、みつはようやくわかった。

離れ離れになってから初めて、心が晴れた。

「あなたが心配なのに、意地を張って会いにこられないから、わたくしに行ってほしかったのです。だけど遠からず、明様もここにいらっしゃると思います。賭けても構いません」

「なにを、賭ける」

「お望みならば命でも」

 微笑するみつにつられたように、透も表情を崩した。ぎこちなさは残るものの、それは確かに笑みだった。

「お前の命などいらない。お前と一緒の生がほしい」

 透の告白に、みつは笑みを濃くした。

「それでは賭けになりません。わたくしは、あなたとともに生きると、とっくに決めております。それにほら、聞こえませんか?」

「……聞こえる」

 二人の耳に、聞き慣れた音が響いた。廊下を一歩一歩踏みしめるような足音。いつもよりも急ぎ足だ。

「あと五秒で、そこが開く」

 透も今ははっきりと笑んでいた。

「はい」

 みつと透は揃って扉を眺めた。予告通り、それから五秒後に扉が開き、明が現れた。

 その夜はみつを挟んで、三人は同じ寝台で寝た。身体は交えることなく、ただ手をつないで眠った。

頑健な明の身体と病み衰えた透の身体は、みつで結ばれてひとつになる。

自分を通じてつながる熱を、みつは愛おしく思った。どちらが欠けてもいけない。二人とも愛すべき夫だった。

そして明は一人で英国へと旅立った。

みつが、自らの中に芽生えた新しい命に気付いたのは、明が旅立ってから、ひと月が過ぎたころのことだった。


 第四章


「アキ。日本からの手紙、間違ってうちに届いてた」

数回のノックのあと、栗色の巻き毛の少年が姿を現した。アパルトマンの大家の息子、トマだ。襟巻を巻いているが、コートは着ていない。トマの住まいはこのアパルトマンの一階で、明は三階に住んでいる。厚着する必要はないと思ったのだろう。

十月に入ったばかりでも、朝晩は冷える。陽が落ちかけたこの時間帯には軽装すぎたようで、暖かい部屋に入ると身震いした。

 ここに越してきた日、明はトマをさらりとスケッチした。そのときから、小さくとも熱烈なファンがひとり増えた。

なにかにつけて、トマは明の部屋を訪れる。まだ十歳になったばかりでも、明のよい話し相手だった。

「ありがとう」

キッチンでモデルのリリーとコーヒーを飲んでいた明は、手紙を受け取りながらフランス語で礼を言った。発音がひどいのは自覚している。意味さえ通じればそれでいいと割り切っていた。

 明はイギリスへ渡ったのち、欧州の様々な国を渡り歩いた。狭い世界に押し込められていた反動のように、異なる文化に触れ、多種多様な人々と出会った。

そうして日本に一度も戻らぬまま、十五年が過ぎた。

フランスに流れついたのは五年前だ。二年前からパリに住んでいる。

引越すたびに新たな住所から手紙を送っているので、みつからの便りが絶えたことはない。

細々とした日常を綴る手紙が主だったが、愛娘ひかりの写真が送られてきたこともある。彼女が五歳の頃だ。

ほんの息抜きに写真を始めた重文が、鎌倉を訪れた際に撮影したもので、ひかりはみつと透の間に立ち、緊張した面持ちで映っていた。

大きな瞳とふっくらとした頬がみつとよく似て愛らしかった。

重文はまもなく勤めが忙しくなり、写真から遠ざかってしまった。

そのため、ひかりの写真はその一枚きりしかない。

しかし、どれだけ忙しくなろうとも、重文と鎌倉の交流が絶えることはなかった。

重文が妻帯し、子を得たのちも、家族ぐるみでの付き合いが続いているようだった。

明あてに、重文からの手紙が届くこともある。

透からの手紙は稀だった。最後に届いたのは数か月前で、自分がこれほど生き長らえると思っていなかった、と書かれていた。

読みながら明は、ひとり頷いた。

一緒にいる頃は、透が自分を置いてひとりで逝ってしまうのではないかと、心のどこかで、いつも恐れていた。


『みつは私の弱さを知っている。

 そのうえで、全てを受け入れてくれた。

彼女が傍にいると、守られていると感じる。今もこうして生きていられるのは、みつがいるからだ。

 私は彼女のためにも、できる限り、長く生きなくてはならない。

もしもなにかあれば、私は命に代えてもみつを守るだろう』


不思議なものだ、と明は思った。

 生まれてからずっと透と一緒にいて、みつと出逢い、恋をした。

泣いているみつを前にするたび、守りたいと思った。

 それなのに透は、みつに守られていると感じていた。正反対の部分に惹かれていた。

 同じ女を愛することで、自分と透は違う人間だと、初めて理解できた気がする。

透は今でも体調をよく崩し、寝込むこともあるという。致命的な症状に及ばないのは、みつのおかげだろう。みつがいる限り、透は強くいられる。

一人娘のひかりからも、手紙が届く。

ひかりは数えで十四歳になり、いまは鎌倉の女学院に通っている。

幼いころはたどたどしい絵や意味を成さぬ文字の羅列だったが、今では女学校での話が主だ。

何度も見返してぼろぼろになった写真と家族からの手紙を、明はなによりも大切にしていた。

「どういたしまして。珍しいね。今日は描いてないの」

「アキは絵よりも、あたしのほうが良いんだって」

 細いシガーを咥えながら、リリーは気だるげにマッチを擦った。肢体と同じように、指先は細く美しい。冬の海のように澄んだ青い瞳で、髪は春の日差しの淡い金だ。

男のように短く刈られた髪が薄い耳たぶや華奢な首筋を強調して、逆に女らしさを感じさせる。薄くそばかすの散る顔は、端正だった。

「リリーは私よりもミシェルが良いんだろ」

「そうね」

 澄まして答えるリリーに、明は苦笑した。

画学生のミシェルと彼女はこの場所で知り合い、付き合いが始まった。

明のアパルトマンに来客の絶えることはない。画家仲間や明に心酔する画学生のほか、風景画を好む画家と知っても、モデルを志願する若い娘も訪れる。パリに滞在する日本人もときたま訪れた。

才能を頼りに渡仏し、零落する日本人画家が多いなか、明は成功を収めていた。

フランスのサロンでは、何度も入選を果たしている。その回数は白根よりも多い。

「リリーを描いてるの」

 わずかに咎める口調で、トマが尋ねた。

「いいや。緑、花、水、空気、光。いま描いているのはそういうものだ」 

明は手紙を持った手の甲で、ざらりとした顎を撫でた。最近は髭にまで白髪が混ざってきている。

もう三十六歳になるのだからやむを得ないが、気付いたときには少なからず驚いた。そして、透も同じように年を重ねているのだろうかと思った。

「空気と光? そんな目に見えないもの、どう描くの」

 トマは利発そうなとび色の眼を瞬かせた。「そうだなあ。それが私のテーマだ」

 明は封筒に目を落とした。差出人は重文だった。

九月の初め、東京で大きな地震が発生したという知らせを聞いた。

アメリカやイギリスを筆頭とする欧米諸国は九月半ばまでに救援物資や金銭を続々と送り、日本を支援しているとも伝えられた。

日本が沈没する規模の災害であったと報じる新聞もあった。

しかし明は信じなかった。

欧州の地図には、日本は載っていない。

日本がどこにあって、どの程度の規模の国なのか、本当に記者たちは知っているのだろうかと苦笑した。

欧州大陸と比べれば微々たるものとはいえ、そんなに簡単に日本列島が沈没するわけがない。どうせ大げさに書き立てたのだろうと思った。

フランスで知り合った日本人の幾名かは、知らせを聞いてすぐに帰国していったが、明は安否を確かめるための手紙を、鎌倉と三田にあてて書いただけだった。

きっとこれは、日本に残してきた者たちの無事を知らせる便りだ。明は手近なペインティングナイフで封を切った。

透やみつ、それからひかりに、どんな災いも降りかかるはずなどない。

みつは透から離れないだろうし、透がみつを置いていくはずはない。今は娘もいる。

透とみつが簡単に死ぬわけがない。無条件にそう信じられた。

それでも甚大な被害があったと聞けば、無事を確認せずにはいられない。

「ふうん。でもまたそのうち僕を描いてよ。約束したよね」

「そのうちまた描こう。ここにいるうちに」

「ここにいるうちって、どこかに行っちゃうの? イギリスに戻るとか」

 トマはしかめ面になった。明は封筒から手紙を取り出しながら答えた。

「イギリスか。そうだな、また寄らねばな。しかし、戻るところは他にある」

 プレスコットはいまだ存命で、ロンドンの郊外に住んでいた。

明はときたま彼の家を訪ねる。パリとロンドンは電車で数時間と、ごく近い。

老いて足が利かなくなったと嘆きながらも、プレスコットは若き建築家たちの指導を行っている。

その傍らには、今も玉がいた。イギリスは彼女の終の棲家になるだろう。

最近の玉は日本語を忘れがちで、寝言すら英語になってきたと、プレスコットは笑う。

「日本とかいう国?」

「そうだ。そこに弟と妻と娘がいる。いずれは戻らなければな。最近、無性にそう思うんだ。日本で地震があったと聞いたからか、それとも単に私が歳をとっただけか」

「地震ってなに」

「地面が揺れることだ。フランスではあまり起こらないのかな」

 トマに答えながら、明は手紙を広げた。

 リリーは紫煙を吐きながら、ぼんやりと明を眺めていた。

 名も知れぬ小さな島国から来た男は、今やフランスで最も注目されている画家だった。

パリのサロンで入選した風景画は、エキゾチックな色味と確かな技術に裏打ちされた、不思議な存在感を持つ作品だった。

 リリーが明を好ましく感じるのは、そういう華やかな経歴ではない。控えめなのに、人を引き付ける明るさだ。

 モデルとみれば果実を摘むように手を出す画家の多いなか、明はモデルを一人の人間として扱った。誰に対しても気さくで誠実だった。

 妻子がいると知らなければ、そして家族を深く愛していると思えなければ、リリーは明を手に入れようとしていただろう。十歳以上年が離れていようが国籍が異なろうが、そんなことはたいした問題ではない。

 手紙を読み進める横顔が蒼白に歪んだ。指先が激しく震えて、手紙がかさりと落ちた。リリーはシガーを揉み消した。

「どうしたの、アキ? 何が書いてあったの」

 明は荒い呼吸を繰り返し、きつく両目を閉じた。

「透とみつが……。弟と妻が、亡くなった、と」

 トマとリリーは言葉を失い、互いに顔を見合わせた。

「東京での大地震と聞いて、重文どのになにかなかったか、案じていたが。どうして透とみつが……」

 リリーは日本語を呟く明の手を取った。乾いて荒れた、大きな手の震えは止まらない。包み込む細い指も一緒に震えた。

「弟さんと奥さんも、トウキョウに住んでいたの」

「いや。鎌倉という、海と山に囲まれた、小さな町だ。そこも、やられた、と」

 ゆっくりと問い掛けるリリーに、明はフランス語で、切れ切れに応じた。

「トマ。なにかお酒を持ってきて。なんでもいい、強いやつ」

 立ちすくんでいたトマは、リリーの指示で慌ただしく動き出した。

明が酒を嗜まないので買い置きはない。

誰かが置いていった酒瓶の中身が、半分ほど残っていた。トマは蓋を開け、強い香りに顔をしかめた。

「これでいい?」

 リリーは酒の注がれたグラスを受け取った。

「ええ、いいわ。ご苦労様。あなたはもう、お帰りなさい」

「僕だってアキが心配だ。傍にいる」

 抗議するトマに、リリーは嫣然と微笑んだ。

「子供は家に帰る時間よ。それに、傷ついた男を慰められるのは、女だけなの」

 トマは憮然とした。

「トマ、リリーの言うとおりだ。帰りなさい。リリー、君もだ」

 目を閉じたまま、明は静かに言った。トマは渋々と従ったが、リリーは残った。

 手を握り、身体を支えるようにして酒を飲ませた。明の震えはなかなか収まらなかったが、やさしい言葉をささやきながら、辛抱強く抱きしめ続けた。

 夜が更ける頃、明はふいに声を上げた。傷ついた獣の咆哮のようだった。

熱い涙がリリーのブラウスを濡らした。

ちぎれそうなほど強い力でしがみつかれても、彼女はずっと傍にいた。

ミシェルと明は違う所にいた。ミシェルは同列で明は特別だった。

妻を亡くした明に付け入るつもりはない。ただこの瞬間だけ妻の代わりとなって、愛する男を癒したいだけだった。

 明を抱きしめながら、リリーは誰かの死によって歓びを感じてしまう自分の、女の業について思った。

それでも、女に生まれついたことを感謝した。

 明の身体が崩れてしまう気がして、しっかりと抱きとめながら、リリーは窓の外に目をやった。

薄暗い陽の光のなかに落葉したマロニエ並木が見えた。

 鈍い灰色の朝に染められた街を眺めながら、こうやって新しい一日を迎えるのは、これが最初で最後だと悟った。


 できる限り早く帰国の手続きを取っても、明が戻ってこられたのは、十一月も半ばになったころだ。

異国で認められた画家の帰還なのに、出迎える者はない。誰にも知らせず戻った為だ。

朝一番で横浜港に着くと、明は休む間もなく鎌倉へと赴いた。

大地震により破壊しつくされた鉄道各線は、来援した工兵隊によって、九月中にはほぼ全線が復旧していた。

鎌倉駅に着くと、明は懐かしい景色に目を細めた。

鎌倉の駅舎は駅員たちの尽力により、延焼を免れていた。しかし傷跡はそこここに、生々しく残っている。

破壊しつくされた町は、地震から二ヶ月が過ぎても異臭が漂っていた。十五年ぶりの故郷の惨状に、明はただただ愕然とした。

 東京と同じく火の海になったうえ、鎌倉には津波も押し寄せた。数万人が家を失い、家族を失い、命を失った。

空は冬のように灰色に濁り、空気は薄暗く凍てついている。

冷たい風が強く吹き付けたが、寒さなど感じられなかった。

 明は蹌踉とした足取りで瓦礫の残る町並みを抜けて、館を目指した。

すれ違う人の中には、病人を見るような眼差しを明に投げかける者もあった。

訃報を受けてから、闊達な明から表情が消えた。心が麻痺し、痛みも悲しみも、なにひとつ感じられない。鉛のようにどろりと重苦しいものが、明の胸を占めている。

みつと透は崩れた館の下敷きになった。

 煉瓦造りの洋館は崩れやすい。異人が多く住む横浜でも多くの人間が圧死したと、重文からの知らせにあった。

透がみつに覆いかぶさるように、折り重なって発見された。最期の瞬間、透はみつを守ろうとしたのだろう。

 自分が鎌倉を離れなければ、離れたとしても十数年間も家を空けなければ、二人は死なずにいたのかもしれない。

地震の直後その場にいれば、救うことができたのかもしれない。そんな自責の念が明を蝕んだ。

透とみつの遺体は荼毘に付されていた。ひかりは三田の櫻澤邸にいる。重文の手紙にはそうも書かれていた。

本来なら、真っ先に三田へと向かうべきだろう。しかし透とみつの死が、明はどうしても信じられなかった。山深い細道を抜けて緑にくるまれた館に戻れば、二人は自分を待っているはずだった。

どれほど距離があって、どんなに時間が過ぎたとしても、三人を結ぶ糸が途切れるはずはない。

万が一、透とみつになにかあれば、自分には必ずわかると信じていた。

小さなトランク片手に、明は息を切らしながら歩を進めた。変わり果てた町並みとは対照的に、木々は変わりなく生い茂っている。

館に着いたのは震災のあった時刻とほぼ同じ、正午ごろだった。

門扉は無事だった。石垣の一部が崩れているくらいで、全壊は免れている。

透によって整えられた庭は、変わらず美しかった。終わりかけた木犀の花が甘い匂いを放ち、山茶花がつぼみをつけている。

それに引き換え、館は無残な状態にあった。

崩れた柱や梁、外壁がまず目についた。

剥がれ落ちた漆喰が地面に散らばっている。壊れた家屋は瓦礫と名を変えると明は知った。

櫻澤伯爵家の別荘としてここが建てられたのは四十年近く昔のことだ。長い年月が土台を蝕んでいたのだろう。

明は微動だにせず、かつて館であったものを眺めていた。半身と妻を殺した石の塊は、冷たく静まり返っている。

居心地良く、温もりのあったあの空間はもう、この世のどこにもない。二人を道連れにして消え去ってしまった。

長く戻らなかったのは鎌倉を捨てたからではなかった。待っている人がいて、戻るべき場所があるからこそ、旅を続けられた。

それが永遠に失われることなど、想像すらできなかった。あまりにも暢気すぎた。

東京に大きな地震があったと聞いても、持ち前の楽観主義を発揮して、何事も起こるはずはないと信じてしまった。

できることなら透とみつの後を追いたい。二人を失って、この先ずっと生きていくことなど、考えもつかない。

しかし、ひかりがいる。一度も顔を合わせたことのない、最愛の娘だ。父と母を同時に失った娘を残して、自死という甘えが許されるはずもない。

明はのろのろと歩き出した。

振り返ることはなかった。

自分はこの先、ここに足を踏み入れることはないだろう。かけがえのないものを失ったと思い知らされるこの場所には、二度と戻りたくない。

自分に残されたのは、ひかりだけだった。

会いに行ったら、ひかりはどんな反応をするのだろうと、ふいに不安になった。

ひかりはもう、写真の中の幼子ではない。

十四歳ともなれば、大体のことはわかる。

彼女が生まれてから一度も帰郷することなく、異国をふらふら漂っていた。そんな自分を、身勝手で我儘な男と恨んでいるのではないだろうか。

送られてくる手紙は、誰か別の者が代筆しているのかもしれない。そんな疑念すら起こった。

気温はさらに下がって、明は身を震わせた。

足取りは重くおぼつかない。それでも歩を進めた。愛する人たちの残した、愛する娘を守るために。


 三田の屋敷に着いたのは午後四時を回ったころだった。

 十数年前に父を見舞ったとき、ここに来るのはこれが最初で最後だと思った。

父が守ってきたものを傷つけないためだったが、あのときと今とでは、状況が違う。

今であれば、自分の存在が重文の立場を妨げることなどないだろう。

そんなことを考えながら、明は門番に重文への面会を申し出た。

 胡散臭げに明の風体を眺めまわしていた門番は、名を聞くと納得した顔になり、それから神妙に頭を垂れた。

「このたびは、とんでもないことで」

「三田は無事で何よりです」

 明の言葉に門番は頭を振った。

「お屋敷は幸いにして無傷でしたが、ほんの少し行ったところでは、大勢が焼けて死にました。私の父も、まだみつかっておりません」

「そうでしたか」

 明は目を伏せた。未曾有の大災害で東京の広範囲は崩れ落ち、焼け爛れた。

水を求めた人々の亡骸が、あらゆる水辺に浮いていた。

遺体の多くは、引き取り手もないまま無縁仏として葬られたと話している男が、列車の中にいた。

 遺体を手厚く葬ってもらえた透とみつは、まだ幸運だったのかもしれない。

広大な庭を歩きながら、明はそう思おうとした。しかし愛する者を失った慰めにはならない。

 煉瓦の張られた歩道を歩き、大玄関まであと半分というところで、明は頭上からこずえのかしぐ音に気付いた。

 大邸宅に相応しい庭園には、枝ぶりも見事な大木が何本も植えられている。

小鳥か猫でもいるのだろうかと、明は大木を仰いだ。娘が降ってきた。


 娘は黒地に白い花柄の銘仙を着ていた。

しりもちをついて顔をゆがめている。

リリーほど短くはないが断髪で、ようやく肩に付くほどの長さだ。

斜めに分けた前髪の下の顔は、出会った頃のみつとよく似ていた。

「ひかり、だな?」

 呆気にとられながら明は尋ねた。

写真が撮られてから十年経っているとはいえ、あまりに印象が違う。あの頃のひかりは、長い髪をおさげに結っていた。

 当然のことながら、みつや透の手紙に、ひかりはしばしば登場していた。

歯が抜けて、またすぐに生えてきたとか、好き嫌いなくなんでも食べるせいか背丈が一年で五寸伸びたとか、毎日楽しそうに学校に通っているとか、そういったことがこまごま綴られていた。

透の整えた庭や館の建つ山を好み、日が暮れるまで帰ってこないこともあると、みつの手紙に書かれていたこともあった。

しかし趣味が木登りとは書いてはいなかったし、断髪のことなど書いていなかった。

 思い返せば人柄や性格について、みつも透も、ほとんど触れていなかった気がする。

 よくよく考えてみれば奇妙なことだ。

 ひかりの手紙もごく尋常で、最後に届いたものは、みつと透と三人で、桜の森へ行った時のことが書いてあったくらいだ。

明がしげしげと眺めていると、娘は顔をあげた。黒目がちな瞳が、みつと同じだった。

「はい、ひかりです。おかえりなさいませ。そして初めまして、明お父様」

みつより幾分細い頬に、淡いえくぼが浮かんだ。

「うむ、ただいま。よく私がわかったな」

 ひかりは微かに眉を曇らせた。しかしそれは一瞬のことで、再びえくぼを浮かべた。

「透お父様と同じお顔です。もっとも髪形も装いも、全く違いますが」

 明は無意識に、伸びた前髪を触った。フランス仕立ての洋装は生粋の舶来物だが、だいぶ草臥れてきている。

「それでひかりは、そんなところでいったい何をしているのかな」

「手を滑らせて、木から落ちました」

 はきはきと明朗なひかりに巻き込まれて、明は一瞬悲しみを忘れかけた。

「そうか。それは難儀だったな。大丈夫か」

「おかげさまで」

我が子との初めての対面なのに、呆気にとられて感慨を抱くいとますらなかった。

 両親を亡くしたにしては、あまりに飄々としすぎている。嘆きも悲しみも、表情には一切現れていない。

血を分けた我が子のはずなのに、何を考えているのか全くわからない。

 戸惑う明とひかりの間を、女の声が遮った。

「ひかり様、また木から落ちたのですか。お怪我は……」

その女がハナであることは、ひと目でわかった。

歳月は彼女の上にも降り積もっているが、控えめで、優しい雰囲気は変わっていない。

 ハナも明に気付いた。

 凍りついたように動きを止め、明をじっと眺めた。数秒ののち、垂れた目尻から大粒の涙がこぼれおちた。

 明はハナに歩み寄り、いたわるように肩を軽く叩いた。

「長いこと留守にした。ずっと、ひかりを見ていてくれたのか」

 ハナは頷き、ようやく声を絞り出した。

「申し訳も、ございません。みつ様を、お守りできませんでした」

 明は黙って頭を振った。

 ハナを責める言葉など、出ようわけもない。

 三田の屋敷で出会ってから、みつとハナが離れ離れになったのは、みつが明とともに鎌倉を離れた数か月だけだ。

長い間献身的に仕えてきたハナにとって、みつは身内以上の存在であったと、想像するに難くない。

心根の優しいハナは、みつを失ってどれほど悲しみ、自分を責めた事だろう。そう思うと痛ましかった。

 震災のあった日、ひかりの通っていた女学校はまだ夏休み中だった。

新学期を控え、ひかりはハナとともに学用品を買いに出ていて難を逃れた。

きよは三年前に病没している。

みつと透の亡きあと、ハナはひかりと三田へと戻って、気丈にひかりの世話をしていた。

「重文様はお勤めに出ておいでですが、明様がお見えになったら、必ずここに泊まって頂くよう、申し付かっております」

 目尻に涙を残しながらも、ハナは自らの仕事に徹した。重文からの伝言を明に伝えると、思い出したように厳しい表情を浮かべた。

「ひかり様。逃げ隠れしないで、早く謝っておいでなさい」

「おばあさまは、まだお怒りなの」

「もちろんです」

 ひかりは深いため息を吐いた。明にちらりと目をやってから、とぼとぼ歩き出す。

明はその背を見送った。感動の対面とは、あまりにかけ離れている。そう思いながら、首を傾げた。

「おばあさま?」

「八重様のことです。旦那様……重文様が、震災後ここに来られたひかり様に、明様が戻るまで、自分のことを父と思うようにとおっしゃって。それなら八重様はおばあさまになると、ひかり様が」

 明は目を丸くした。

「重文どのはともかく、八重どのがそれを許したのか」

 ハナは苦笑した。

「許すもなにも。こう申し上げてはなんですが、ひかり様は無茶苦茶です。あまりのことに、誰もが毒気を抜かれてしまうのです」

「たとえば、どんなことをするのかな」

 恐る恐る尋ねる明に、ハナは、そうですねえ、と視線を宙に定めた。

「素足で鎌倉の山を駆け回って、すり傷だらけになって帰ってきたり、これからの女性はもっと活動的になるべきだ、そのために長い髪は邪魔になると一席ぶったあと、ご自分で鋏を入れて、あのような髪形になったり……」

「ははあ」

 明は嘆息した。

「さきほどは、八重様の肖像画に落書きをなさいました」

「落書き?」

「鼻毛を、描き加えました」

 笑いをこらえ、ハナはあくまで真顔のまま答えた。明は思わず噴き出した。

 もしかしたらみつや、あの透でさえ、あまりに破天荒なひかりの行状を筆にのせるのを躊躇ったのかもしれない。

そう思うと、なおさら笑えた。

 数瞬後、最愛の妻と弟を失って笑える自分に驚きと嫌悪を覚えたが、ハナも微笑んでいた。

「万事がそういう感じでございます。重文様のご息女、しづか様とさやか様は、どちらも上品な、それはたおやかなお嬢様がたなのですが……。私の育て方に、なにか間違いでもあったのでしょうか」

「そんなことはない」

 表情を改めて、明は断言した。

たとえ世間の枠組みに収まりきらなくとも、自分はひかりを好きだった。

「そんなことは、ない」

 同じ言葉を繰り返す。

 ひかりは沈み込んだ暗い世界に、その名の通り、一筋の光を与えてくれた。

ひかりのなかに、みつと透は確かに息づいている。明の顔に再び笑顔が浮かんだ。


重文の妻、いず美に招かれて、明は応接間のソファに向かい合って座っていた。

三田の屋敷は十数年前と変わらず豪奢で、応接間には無数の花をかたどったシャンデリアが輝いていた。

優美な舶来の家具のなかにある自らの絵に、明は目を留めた。今はもう失ってしまった、鎌倉の館を描いたものだった。

おそらく透が重文に与えたのだろう。大玄関にも重文に贈った桜の絵があったことを思い出した。

それから目前に座る女に視線を戻した。

いず美は指先を上品にそろえて組み、目を伏せている。

臈たけた、美しい女だった。

きれいにまとめられた髪から純白の足袋の先まで、一目で品の良さが感じられる。淡い萌黄のきものが、色白の肌を引き立てていた。

瞳はつぶらで、ぷっくりしたくちびるは柔らかそうだ。全体的に小作りな顔には、童女のように無垢な雰囲気がある。実際、重文より十歳若い。

こんな状況にあっても無意識のうちに画家の眼でいず美を眺めていることに気付いて、明は自嘲した。

「主人から、明様のことは、つねづね伺っておりました。こんな場合ではございますが、お会いできて、うれしく存じます」

 耳に心地よいゆるゆるとした声で、いず美はそう述べた。それから声を震わせ、言い添えた。

「透様とみつ様には、親しくして頂いておりました。このようなことになって、なんと申し上げればよいのか……」

 そこまで言うと、一瞬言葉を詰まらせた。

「お悔やみを、申し上げます」

 明は口の端を上げた。ひかりによって戻ったまだ笑顔はぎこちない。それでも笑みは笑みだった。

「妻も弟も、良い友人を得て幸せでした。誰に似たのか、ひかりはとんでもないお転婆のようですが」

 いず美も微かに笑った。

「ひかりさんを嫌う者など、誰ひとりおりません。娘たちもひかりさんを慕っておりますし、気難しい義母ですら、ひかりさんには弱いのです」

「肖像画に落書きをしたと、伺いました」

 明の問いに、いず美の笑みは濃くなった。

「ええ。義母がひかりさんに、年頃の娘が化粧のひとつもしないなど、見苦しいにもほどがある。ただでさえそんなひどい髪形なのに、と申しまして。ぷいと出ていかれたと思ったら、その、肖像画に……」

「ハナから聞きました。鼻毛、ですね」

 二人は顔を見合わせ、同時に噴き出した。

「さぞお怒りでしょう」

「ええ、とても。ですが、ひかりさんとのやりとりを、楽しんでいる節も見受けられるのです。年齢を重ねて、丸くなったのもあるのでしょうか」

「余計なお世話です。それにわたくしは、あのような躾の悪いむすめなど、大嫌いです」

 おっとりとやわらかい声に、凛とした声が重なった。

 明は振り向いた。応接の続きの間から、すっとした立ち姿の銀髪の老女が音もなく現れた。

うりざね顔の面差しには深い皺が刻まれているが、気品があり、端正で美しい。

 八重であることは、誰に教えられなくともわかった。


 いず美が頬を引きつらせながら退室したあと、八重は杖をつきながらゆっくりと歩き、いず美の座っていたところに腰を下ろした。

 明は腰を浮かせかけたが、八重は手で制した。端然としたその佇まいは、純白の百合のように張りつめている。

 いくばくかの沈黙のあと、八重が口を開いた。

「あなたがあの女の腹から生まれ落ちたことは、一生赦せないでしょう。あの女とよく似た娘がようやくいなくなったかと思えば、こんどはその子どもまで、ここに住みついて。本当に迷惑しています」

 妾腹の子を疎んじるのは、本妻であれば当然だ。明は黙って八重の言葉に耳を傾けた。

父を赦した以上、どんな恨み言や罵声も受け入れるつもりだった。

「ですが、桜の絵……」

「さくら?」

 予想外の言葉に、明は思わず声を漏らした。

「大玄関の桜の絵。あれはあなたが描いたものですか」

「はい」

「それには、感謝しています」

 明は耳を疑った。問い返す明の眼を、八重は見つめ返した。不思議に穏やかなまなざしだった。

「皮肉なものですね。わたくしは、あの絵に救われた。長年の痛みが完全に消えることはなくとも、和らげてくれた」

 独り言のように呟くと、八重は立ち上がった。

 部屋を後にする小柄な背に、明は黙って頭を下げた。

 長い歳月のもたらすものがもしも赦しであるのなら、人は誰かを赦すために生きていくのかもしれない。そんなことを考えながら。


八重と明の対面が終わるのとほとんど入れ違いに、重文が帰宅した。

家従から明の訪問を告げられ、着替えもせずに明のいる応接間の扉を開けた。

「……歳を取られましたね、明兄さん」

そう言いながら、明の隣に腰を掛けた。

重文は恰幅が良くなり、貫録が出てきていた。撫でつけられた髪の生え際は、確実に後退している。

「十五年も、無沙汰をしてしまいました」

改まった明の言葉に、重文は苦笑した。

「そんなに経ちましたか。わたしも、すっかり老けてしまいました」

長い年月も、重文の品の良さや優しさを変えることはなかった。明を覗き込む両の眼は昔のままに穏やかで、暖かみがある。

造作はそれほど似ていないが、醸し出す雰囲気が父を思い出させる。

ほんのわずかな時間しか一緒にいられなかったが、父を忘れたことはない。

「透とみつのことで、大変お世話をかけました。ひかりのことも、とても感謝しています」

 かつてない丁重さで、明は礼を述べた。

重文は沈痛な表情を浮かべた。

「当然のことをしたまでです。どちらも私の兄妹で、ひかりは姪ですから」

血の繋がった兄と血の繋がりのない妹を一度に失い、重文も苦しんできた。

しかし、目の前のこの人の苦しみには遠く及ばない。明は自らの半身と妻を失ってしまった。重文は痛ましげな視線を投げかけた。

 明は、すこしだけ笑ってみせた。

「透もみつも、こんなに早く逝ってしまって薄情だ。私は置き去りにされてしまった。ずっと日本を顧みず、家族を放っておいた罰なのだろうか」

「そんなことはありません」

 重文は即座に否定した。視線をまっすぐ据えながら、再び口を開く。

「あなたはただ、あなたの人生を生きただけだ。透兄さんもみつも、それを喜んでいた。ですからどうか、誤った罪悪感など持たないでください」

 そう言うと、明の手を取った。冷えきった手に、重文の体温が伝わった。

「ひかりと一緒に、いつまででも、好きなだけここにいてください。あなたがずっとここにいてくだされば、私は嬉しい」

 立ち上がりながら手を離し、重文は明に微笑みかけた。

「パリのサロンで入賞したという話は、こちらの新聞の一面に載りました。おめでとうございます。あとでそのお話を聞かせて頂けませんか」

「もちろん」

明は半分血の繋がった弟の顔を眺めながら、もしも父が生きていれば、やはり喜んでくれたのだろうかと思った。

透とみつは今、父と同じ所にいる。

父と対面したら、透はどう振る舞って、なにを言うのだろう。そんなことも考えた。


明に与えられたのは融を見舞ったときと同じ客間で、豪奢な室内は記憶のままだった。

金のシャンデリアは優美な曲線を描き、繊細な細工の家具を照らしている。

 重文との対面を終えると、明は部屋に戻った。服のまま寝台に倒れ込む。長い旅で、心身ともに疲弊しきっていた。

 明は天井のタイルをぼんやりと見上げながら、この部屋で、初めてみつを抱いたときを思いだしていた。長く恨み続けた実父を赦せた日のことだ。

あれから自分は、本当の意味で生き始めた。

みつを愛し、みつに愛され、透と三人で愛を分かち合った。あの幸福な日々は、もう二度と戻らない。

きつく目を閉じて、込み上げる涙を押さえた。

自分には泣く権利などない。

重文がどう言おうと、この罪悪感を拭い去ることはできない。

 どれほどの時間、そうしていたのだろう。

扉を叩く音に明は目を開けた。

「入ってもよろしいですか、明お父様」

 声もみつに似ている。そう思いながら半身を起こした。

 寝台のふちに腰掛けると、いつからか降り出した小雨を街灯が照らしているのが、窓越しに見えた。

「ああ」

 返答と同時に扉が開き、ひかりが顔を覗かせた。

「お食事の用意が整いました」

 もうすこしふっくらしていて、髪を結い上げていれば、まぎれもなくみつだった。

明は首を振った。

「結構だ。今日はもう休みたい」

 ひかりは小首を傾げながら入室した。

短い髪が、むすめの形よい耳にさらりとかかった。

「明お父様も、透お父様とお母様のところへ行きたいのですか」

「なに?」

「一人残されて、わたくしは何度も、透お父様とお母様のところへ行きたいと願いました。地震に巻き込まれなくとも、食べなければ人は死にます。震災の後しばらく、食べ物が喉を通りませんでした。あのままだったら、わたくしは今頃きっと、透お父様とお母様のところにいたはずです」

初対面の印象とはずいぶん違う。いかなる感情も感じさせない、淡々とした声だった。

「ですが、わたくしの身体は憎らしいほど頑丈で、精神は軟弱です。結局は空腹を覚えて食事を摂り、ずるずると生き長らえてしまいました」

静かな言葉に、明は胸をつかれた。

ひかりは扉の前に立って、明をじっと見ていた。そこには、どんな表情も浮かんでいない。

無意識のうちに、嘆きも悲しみも絶望も、心の奥に封じ込めてしまったのだろう。

そうしなければひかりはきっと、自分を守れなかった。

いつでも、どんな出来事にも立ち向かえるほど、人間は強くない。

鎌倉から三田へ訪れたのはひかりのためだったと、今更ながらに思い出した。

「長く一人にしてすまなかった。辛い思いをさせてしまったな。私を恨んでいるだろう」

「いいえ。わたくしは、明お父様を誇りに思っております。透お父様も、お母様も、そうおっしゃっていました」

 答える声は、わずかに震えていた。封じ込めていた感情が緩んだようだった。

「透とみつは、私のことをなんと……?」

 明の問いかけに、ひかりは顔を歪ませた。

「お母様は、明お父様は世界に通用する才能をお持ちだから、中途半端に戻ってきてほしくない。納得のいくまで道を究めてほしい、と。透お父様は……」

 そこまで言うと、ひかりは泣いているような、笑っているような顔をした。

「お前はまるで明の女版だ。明とお前が二人揃ったら、さぞ騒々しいだろうな。そうおっしゃっていました」

 透の皮肉な口調が聞こえるようで、明は口元をほころばせた。

「そうか。ひかりは私に似ているのか」

感じやすい年頃のむすめが、愛する両親を失ってどれほど悲しみ苦しんだか、想像に余りある。

どんな慰めの言葉をもってしても、ひかりを癒すことなどできないだろう。

ひかりの気持ちをわかるのは自分だけだ。

これからはずっとひかりの傍にいようと心に誓った。

 みつが融と出会ったのは、ちょうど今のひかりくらいの年頃だったと、ふいに気が付いた。融も、今の自分と同年代だったはずだ。

 歴史は繰り返すという。まさにその通りだ。自分は今、実父と酷似した状況にいる。

 愛する女と同じ顔をした娘と出会って、実父がなにを感じたのかはわからない。

 今この胸を占めるのは、ひかりを守りたいという強い想いだった。それは、みつに対する感情とは違う。

みつは自分のもので、死ぬまで一緒にいたいと願っていた。

ひかりは自分のものではない。どれだけ愛しても、いずれこの手を離れていく。それでいい。そうでなくてはいけない。

 ふいに、以前トマに見せてもらった絵本を思い出した。

数百年前にフランスのある宮廷画家によって書かれたその寓話には、妃を亡くしたのち、実の娘である姫に想い寄せる王がいた。

 姫は王から逃げ出し、ロバの皮をかぶって身を隠す。やがて自らの伴侶と出会う。

 自分は愛しむ感情を見誤らずに、ひかりを育てていく。

 ひかりがこの先どういう人生を歩むとしても、自分は傍にいて、彼女を見守り、助けになる。

いつの日か、彼女が伴侶と結ばれる日まで、ひかりの支えとなろう。

与えうる全ての愛情を注ごう。

心は自然と決まった。

そのために、自分は強くあらねばならない。そうでなければ、最期までみつを守ろうとした透に顔向けできない。

「夕食は、もう済ませたのか」

 唐突な問いかけに、ひかりは目を瞬かせた。

「まだです」

「それはいかん。食べなければ人は死ぬ」

「明お父様。わたくしの言葉を真似するのは、やめてください」

 頬を膨らませるひかりに、明は微笑みかけた。

「食堂へ行こう。お互い、なにか腹にいれなくてはな」

 そう言って、寝台から立ち上がる。

 愛した女と生き写しの娘を前に、これからどのように生きていくべきか、明は思いを巡らせていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ