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華と秘密  作者: 綾稲ふじ子
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secret garden

 第一章


みつが半玉として初めて座敷に上がったのは明治三十八年十一月で、数えで十三歳の時だった。そのたった一日が、彼女の人生を大きく変えてしまった。

 それは櫻澤伯爵の縁者の婚礼披露宴で、行き届いた立派なものであった。みつは粗相のないよう務めるだけで精一杯だった。

ときたま誰かの視線を感じる気がしたが、ただ単に歳若い半玉が珍しいのだろう、としか捉えていなかった。

 櫻澤伯爵家当主の(とおる)から、彼女を引き取りたいという打診があったのは、その披露宴の翌週のことだった。

あまりに急で思いがけない話に、百戦錬磨の置屋の女将でさえ、あっけにとられた。

妾としてではなく養女として迎え入れたいという話であったのも、女将の驚きを更に大きくした。

「お偉い華族様のなさることはよくわからないねえ」

 と嘆息したが、莫大な落籍金を前に断る理由はない。みつは櫻澤家の長女として、正式に養子縁組されることとなった。

 華族が平民を養子にすることは華族令で禁じられていたが、父方の兄弟の子であれば可能であり、融の実弟、(やすし)は、老舗呉服屋の一人娘と結婚する際に華族を外れていた。

 かくしてみつは、いったん泰夫妻と養子縁組したのちに櫻澤家の養女となった。

明治三十九年の四月のことだった。

 

 みつは特別美しいわけではなかった。

肌理の整った抜けるように白い肌や、たっぷりとした黒髪はともかく、目は少し大きすぎ、ぽってりとしたくちびるは少し厚すぎた。

 しかしながら、その大きな黒目は涼やかに透き通ったし、彼女がそのくちびるの両端をあげると、くっきりとしたえくぼができた。

彼女には華があった。それは、亡くなった母から受け継いだものだった。

 母は置屋でいちばんの人気芸妓だった。みつの父でもある、とある商家の若旦那の後添えとなる直前に、流行り病で鬼籍の人となった。みつが五歳になったばかりのことだった。

みつは母のいた置屋に引き取られ、そのまま花街の住人となった。

 そこで様々なことを見てきた。

男女間のいざこざ、男という生き物のずるさや弱さ、女という生き物の儚さや強かさ。情死した若い男女もいた。

そういう日常の中にあっても、みつにはゆるりとした雰囲気があった。花柳界の厳しいしきたりの中でも、常におっとりしていた。

反面、若くして人生を達観しているところもあった。幼くして親を失ったせいかもしれない。

「死ぬまでは生きねばなりませんし、生きるのならば楽しまねばならないと思いまして」

そんなことを姉芸妓に言って、驚かせたこともあった。

櫻澤伯爵の申し出も、浮かれるでも嫌がるでもなく、自然に受け入れた。

いずれは金持ちの囲われ者になるものと思っていたので僅かに驚いたが、それだけだった。男の世話にならない生き方などありえなかった。

養女ということは、やがて他家に嫁ぐのかもしれないが、いずれにしても、さぞ窮屈な生活になるであろうと密かにため息をついた。

みつが櫻澤伯爵家の住人になった日は、散り際の桜花がひらひらと舞い落ちていた。薄墨を溶いたような空に、淡い紅色の花びらはよく映えた。

みつは人力車のうえから大きな瞳を見開いて、その美しくも儚い様をじっと眺めていた。

若い娘にしては地味な装いで、紫がかった濃い藍色の銘仙に山吹色の帯を締めている。

花冷えの厳しい日だったので絹の襟巻きをし、緋毛氈を膝にかけていた。

 出迎えた融は四十一歳で、ゆったりと上背があった。髪には白いものが混じっていたが、風格があり、男ぶりは悪くない。奥二重の細い目元からは知性が感じられた。

 融と顔を合わせるのはこれが二度目だった。歳若い半玉を身請けするなど、よほどの酔狂か好色かと思っていたので、実際の彼を前にして意外であった。

彼は目を伏してたたずむみつを、何かを確かめるかのようにじっと見た。

「よく来たな」

 そして潤いのある声で言った。

「これからは、ここが君の家だ。そう思って気楽に過ごしなさい。気兼ねは要らない」

 柔らかい声音に、みつは少しだけ顔を上げた。視線が交わった。融の眼差しは温かく、強張った心身は少しほぐれた。

融に引き取られて良かった、と思った。

この先の自分を決めるのは、彼になる。

彼の決めたことならば、自分は何でも受け入れられるだろう。そんな気がした。

「ありがとう存じます」

 みつは澄んだ声でそう述べた。


融は三田にある広大な屋敷に、妻の八重、数えで十六歳になる息子の重文、そして多くの使用人たちと住んでいた。

花柳界の娘を養女として迎え入れることに、八重は表立っては反対しなかったという。

しかしそれは受け入れたからではない。融の行動は迅速で止めるいとまもなく、彼女がみつのことを知る頃には、おおよその手続きが整っていた。

自分の意思と関わりなく、どこの馬の骨とも知れぬ娘を我が子として扱うなど考えただけでも腹立たしく、反対することすら、むしろ屈辱だった。みつの存在を黙殺することで、八重は自らを保とうとした。

 そもそも八重には、融との婚姻にも、強い抵抗があった。同じ華族同士とはいえ、八重は由緒正しい公家華族の出であり、対する融は先々代が鉄鋼で財を成したことで華族となった新華族だった。

しかし、格式はあるものの財産の尽きかけていた八重の実家は、成り上がりでも潤沢な財を持つ櫻澤家に娘を嫁がせることでしか体面を守れなかった。

 重文はみつを引き取ることに反対でも賛成でもなかったが、酒も煙草も嗜まず、女遊びすら皆無な物堅い父が、なぜそんなことを言い出したのか測りかねていた。父と息子は親しく語り合う間柄ではないので、真意が解らなかった。

初めてみつと顔を合わせた時も、さほど美しいわけでもなし、何故父はこの娘を養女になど望んだのだろうと、内心首をかしげた。

 重文と対照的だったのは八重の反応だった。

みつと対面するなり、品よく整った瓜実顔は朱に染まり、やがて青白くなった。

すっきりとした切れ長の眼尻はつりあがり、形のいいくちびるが一瞬震えた。鋭い眼差しが融に向けられたが、彼は冷然として何も応えない。

 妻妾同居も珍しくない華族にしては、八重の反応はいささか奇妙に思えたが、みつは丁重に挨拶をし、静かに八重を見つめた。八重は一言もなく、顔をそむけて部屋を出て行った。

まるで忌まわしいなにかを避けるかのように。


 こうして始まった新しい生活は、みつの予想に反し、意外にも快適なものだった。

生活環境の違いは多く、慣れないことや知らないことだらけでも、融のきめ細かい支えがみつを助けた。もちろん、みつ自身の努力も大きかった。

 屋敷に入ると、みつは老女と呼ばれる女中頭から、細かいしきたりや作法、どういう着物をどういうときに着て、どういう振る舞いをするのか、その他にもありとあらゆることを教えられた。

老女はみつに対して丁重であったが、甘やかしはしない。戸惑いながらも、みつはひとつひとつを丁寧に身に付け、新しい環境に少しずつ慣れていった。

花柳界という、ある意味では上流階級よりも難しい環境にいた彼女だからこそ為しえたのかもしれない。

自分を養女に望んだ融のために、みつは努力を惜しまなかった。

 融が家から出すことを嫌ったので、みつは箱入り娘となったが、彼の心配りのおかげで日々は充実していた。

尋常小学校を出ただけのみつのために、融は優秀な家庭教師を招いた。みつが幼少の頃より続けていた筝曲や舞も、月に何回か師を招いて稽古を付けてもらえるよう手配した。

みつが親しみやすいよう、おつきの女中も、なるべく歳の近い娘にした。

ハナというその娘はみつより三つ年上で、人柄がよく、気も利いた。小柄な体をいつもくるくると動かしていて、どんなときでも優しげな微笑を絶やすことはなかった。

垂れた目尻は微笑むとさらに下がり、しもぶくれの頬も相まって、暖かい印象を与えた。

ハナは手先も器用で、髪をきれいに束ねたり髷を結うこともできた。女中仲間はハナの手が空く頃を見計い、丸髷を結い直してもらっていた。

 ハナは、みつの髪を整えながら

「お若いんですから、もう少し華やかなものをお召しになったらいかがですか? 折角おきれいなのに…」

 と言う。みつは微笑んでかぶりを振る。華やかなきものは嫌いではないが、身に合わない気がする。

かつては置屋の女将にも

「お前はいったい何歳なんだい」

 と、嘆かれていた。

 融は口数の多いほうではなかったが、一日の勤めを終えて帰宅すると、必ずみつに

「今日は何をしていた?」

 と尋ねた。そして、訥々と応えるみつの顔をじっと眺めた。

彼は貴族院の議員として忙しく勤めていたが、ときおりちょっとしたものをみつに贈った。それは珍しい砂糖菓子や縮緬の半襟、可憐な花一輪だったりした。

「これをやろう。庭の隅に咲いていたのだが、なかなか良い香りがする」

 と、自ら手折った花を差し出す融は優しげだった。人から物を贈られることは初めてで、嬉しさよりも戸惑いが先にたった。

 融は、瑪瑙が嵌め込まれた繊細な細工のかんざしも買い求めてきた。こっくりとした深い赤は、色白のみつによく映えそうだった。

美しいかざりはもちろん嬉しいが、見るからに高価そうで自分には釣り合わない。みつは俯きながら、かんざしを受け取った。

「お父様、ありがとうございます」

 父と呼ぶのにも、躊躇いがあった。

融の望みに従ってはいるが、縁遠かった父という呼び掛けは、いつまで経っても口に馴染まない。

「気に入らなかったか」

 浮かぬ顔のみつに、融が尋ねた。

「とんでもございません。ただ、わたくしには立派過ぎて、不釣合いな気が致します」

 融は愁眉を開いた。

「そんなことはない」

 そう言うと、みつの手からかんざしをそっと取り上げ、ふっくらと束ねた彼女の髪に差し込んだ。彼の手のひらが僅かに触れた。

「よく似合う」

 融は目を細めた。

触れられたのはそれが初めてだった。なぜだか胸が騒いだが、顔には出さず、みつは丁寧に礼を述べた。

そのかんざしは、みつの宝物になった。

身に着けるのが惜しくて、普段は手箱の中にしまいこんでいた。ときたま取り出して、その美しい細工や瑪瑙に見とれた。


 実子の重文や妻の八重にほとんど関心を示さず冷淡であるのにひきかえ、掌中の珠のようにみつを慈しむ融を見て、使用人の中には

「なぜ旦那様は、みつ様を妾ではなく養女になどしたのだろう」

 と訝しむ者もいた。

しかし、融のみつに対する愛情は男女のものではないようだった。実の娘を愛するように接していた。

 そうした扱いを受けても、みつは驕ることもなく、つねに控えめで物静かだった。

必要とあらば静かに話し、そうでなければいつまででも沈黙を守る。端然とした振る舞いや落ち着いた装いは、重文の目にも好ましく映った。

最初こそ、所詮は花街の娘と思っていたが、おとなしやかで落ち着いた物腰が、重文の先入観を徐々に取り除いていった。父がここまで執心する娘に興味もあった。

「花街と三田ではだいぶ違うだろう。退屈ではないか?」とか

「屋敷の中で迷子にならないか?」

 と、からかい混じりに尋ね、そのたびにみつは穏やかに応じた。

やがて重文は、みつに親しみを覚え始めた。

血縁の者と縁のないみつと愛情の薄い両親を持つ重文は家庭に恵まれない者同士でもあり、語らずとも通じるものがあった。

父と隔たりがあるように、八重との間にも温かい感情はない。生まれてすぐに乳母や子守女に育てられたこともあり、重文にとって八重は血のつながった他人だった。

 八重はみつに対しても、ただただ無関心のようであった。同じ屋敷に住みながら言葉を交わすこともなく、顔を合わせることさえ稀だった。

融が仕事に出掛ける際は家中の者が玄関で見送り、戻ってくると出迎えたが、八重だけはそうしない。朝は化粧部屋で時間をかけて身繕いをし、夕刻も自分の好きなようにすごす。

「昔からそうだ。父を愛しているわけでもないのに、父が自分を愛していないのに我慢がならない。だから父に望まれているみつが妬ましいのだろう」

ある穏やかな晩秋の夕暮れ、重文はみつと中庭を散歩しながら母についてそう評したことがあった。距離があるだけ、重文は父母を冷静に眺めることができる。

融は相変わらずみつを外に出さないが、屋敷や庭は自由に歩きまわれるので、彼女はそれほど閉塞感を覚えずにすんだ。

中庭はそう広くはないが風雅であった。

苔むした岩がところどころに置かれ、小さな池があった。燃えるような色彩の楓や紅葉の落葉が、鮮やかに水面を埋め尽くしていた。

見事な桜の古木が庭の中心にあり、その葉も秋色に染められている。

「わたくしには、お母様はお父様を、お慕いしているように見えます」

 慎ましやかに重文のあとを歩いていたみつは、上背のある後姿を眺めながら言った。がっしりとした体つきは融と似ていた。

 重文が振り返った。眼も融と似て、細い。八重と同じうりざね顔で色が白く、見るからに育ちの良さそうな顔立ちをしている。

「私には全くそうは思えない。何故そう思う?」

 みつは少し視線を落とした。可憐に咲き乱れる、赤や黄色の小菊が目に入った。柔らかく風にそよぐ小菊を見るともなしに眺めながら、みつは初めて八重と対面した日のことを思い出していた。

あのときの八重からは、激しい苛立ちのほかに、深い絶望が感じられた気がした。

しかしそれは、たとえ息子の重文に対しても言ってはいけないことだと思った。

「なぜということもないのですけれど」

 しばらくの沈黙ののち、みつは応えた。

「ふうん」

 重文は池の縁に屈んで、温度を確かめるように指先を水につけた。水面は静かに波紋を描いた。

「父が母を愛していないことは、否定しないんだな」

 あの日の融を思い出した。あの冷淡さから、妻に対する愛情は感じられなかった。

「みつはそれを望んでいるのか」

 重文は立ち上がりながら呟いた。

みつはなにも応えなかった。

重文が、使用人たちと同じように、融と自分の仲を訝しんでいるのは感じていた。

本来なら否定するべきなのだろう。しかしできなかった。

何故なのかはわからない。これほどまでに自分の気持ちが掴みきれないのは、初めてだった。融を思うと、胸が締め付けられる。

 夕暮れの空は穏やかで、淡い紫に染まった小さな雲がいくつか、ぽっかりと浮かび、合間から鋭く尖った白い三日月が覗いていた。

みつも重文も気付かなかった。

冷たげな月にも、八重が息を呑んで、二人を窓越しに見ていたことにも。


「良い縁談があるのですよ」

 うっすらと微笑みながら、八重がみつにそう告げたのは、その翌月のことだった。

年の瀬で何かと忙しく、屋敷の中は閑散としていた。融と重文は出払っていた。

みつは、八重から話しかけられたことにも、話の内容にも戸惑った。

「縁談、でございますか」

 確かめるようにみつが問い返すと、八重は表情を変えずに頷いた。

「仮にもこの家の娘になったのならば、相応の家に嫁がなければ。少し急に感じるでしょうけど、良いお話があったのですよ」

 わかっていたこととはいえ胸が疼き、みつは俯いた。

この家にいつまでもいられないのは仕方がないけれど、融から離れることを思うと心細く、弱い気持ちになった。

この縁談について、融がどう思っているのか知りたかった。彼が決めたことなら、どういう運命も受け入れる。自分の気持ちなど、どうでもいいことだった。

「お父様はなんと……?」

 小さな声でみつは尋ねた。途端に八重の表情は一転した。

「お前の父などここにはいない。本当に華族の娘になったつもりか。図々しい」

 押さえていたものが溢れ出たような、鋭い視線と言葉だった。みつは目を瞠った。八重の気持ちは知っているのに、鋭い悪意は胸を刺した。

「重文にまで色目を使うのはやめなさい。これだから色街の女は。汚らわしい。わざわざ嫁になど出さずとも、お前も鎌倉にでも行ってしまえばよいのだ」

「鎌倉?」

 みつが問い返すと、八重ははっと口を噤み、その場から立ち去った。

取り残されたみつは、呆然と立ち尽くした。

八重に疎まれているのは百も承知だ。

血を分けた息子に、自分のようなものが近づくのを嫌う気持ちも理解できる。

しかし、頭で理解するのと心で理解するのは等しくない。悪し様に罵られたことより、八重の視線がみつを傷つけた。

それは蔑むような哀れむような、同時に傷ついたような視線だった。

涙は出なかったが、しばらくの間そこから動くこともできなかった。

 自室に戻ったみつは、いつもと同じように振舞ったが、顔色は優れなかった。

ハナが気にして紅茶を淹れた。ティーカップの温かさがみつを和ませた。ハナの気遣いが有難かった。縁談がまとまってここをでることになったら、ハナとももう会えなくなるのだろう。

ふと、八重の言葉を思い出した。

なぜ鎌倉なのだろう。そこに誰かが住んでいるのだろうか。ここに住み始めて半年になるが、鎌倉に住んでいる親戚や知人の話は聞いたことがない。

「ハナは、ここにお勤めして、どのくらいになるの」

「二年ほどです。なぜですか」

ハナは不思議そうに聞き返した。

「鎌倉と聞いて、思いつくことはない?」

「そうですねえ……。大仏さまと、海水浴場でしょうか」

 みつは微苦笑した。ハナも何も知らない。

「鎌倉が、どうかしたか」

 不意に男の声がして、みつは振り向いた。学生服姿の重文だった。外は寒かったと見え、色白の頬や鼻先を赤く染めている。融と似た奥二重の奥は、好奇心に染められている。

重文は気軽にみつの部屋に立ち寄って、あれやこれやと話していくようになった。みつはもっぱら聞き役だ。

重文との会話は厭ではない。育ちの良さに基づいた真っ直ぐな人柄は好ましく、本当の兄なら良いのに、と思うこともある。

「お帰りなさいませ。お寒かったでしょう。学校はいかがでしたか」

 丁寧に挨拶をするみつに座るように手で合図をし、重文は手近な椅子に腰掛けた。

「特別どうということもない。それよりも何故、鎌倉などに関心がある?」

「べつに、理由はございません」

 みつは言葉少なに応えた。八重の話は口にしたくなかった。

みつの答えが耳に入ったのかどうか、重文はしばらく考え込んでいた。

「鎌倉か。たしか叔母と従兄弟が住んでいるな。いや、叔母はとうに亡くなっていて、今は従兄弟だけだったか。どちらとも会ったことはないが」

 ハナが手早く淹れた紅茶を飲みながら、重文が言った。

「叔母様と従兄弟ですか」

 多くの華族と同じように、親戚はやたらと多く、付き合いはそれほど密ではない。みつが知らないのは当然かもしれない。

しかし、この家に勤めて短くないハナですら、初めて聞く話だった。

「叔母は、祖父が妾に産ませた、父から見ると異母妹にあたる人だったかな」

 白磁のティーカップを口に運びながら、重文は記憶を辿るように、細い眼をさらに細めた。

「芳しくない噂を聞いたな……。そう、結婚もせず、身分の低い庭師との間に子を儲けるようなふしだらな女だったと、母が言っていた覚えがある」

「そうでしたか」

 八重がそう言っていたのなら、鎌倉とは、おそらく彼らを指していたのだろう。

花街出身の自分も、婚前に子を儲けるような女も、同じように汚らわしく感じるのだろうか。みつはそう思った。

 八重の言葉の本当の意味を知るのは、もう少し後のことだった。


 八重の持ち出した縁談については、誰も何も言わなかった。融や重文も、言い出した八重でさえ、何も口にしなかった。

八重が忘れるとも思えないので沈黙は不気味であったが、みつから八重に、改めて尋ねることなどできなかった。

融や重文に、自分の縁談が伝わっているのか聞くのも躊躇われた。落ち着かない日々が二週間ほど続いた。

新年を目前に控えたある日、来客があった。融と重文は出払っていた。

太鼓腹で見るからに金のかかった装いのその客は、みつより二十歳以上年上の、とある男爵であった。

「今日はお客様がいらっしゃるから、お手伝いなさい」

 と八重に求められたとき奇異に感じたが、断ることなどできなかった。疎んでいる自分の手を借りようなど、どんな良からぬ理由があるのだろうと、物憂く頷いた。

不安を宥めるため、みつは融から貰ったかんざしを初めて挿してみた。融の存在を感じられて、少しだけ心強くなった。

 応接間で男爵を出迎えたみつは全てを悟った。男は目を光らせ、舐めるように値踏みしている。みつはわずかに顔をそむけた。

彼は数ヶ月前に妻を病で亡くしていて、あとに残された子供たちと暮らしていた。

家の外には数人の妾と子供達がある。八重が嫌う成り上がりの新華族でもあった。

「こんなに若くてお美しいお嬢さんができたとは。櫻澤伯爵もお固くみえて、なかなか隅に置けませんなあ。本当に娘さんとして身請け……いえいえ養子縁組なさったのですか」

 男爵はえへらえへらと上機嫌だった。

「もちろんですわ。みつは櫻澤の娘です。縁あってここに来たのですから、男爵のような、ご立派な殿方に添わせられればよいのですが」

 冷ややかに微笑みながら八重は答えた。この面差しの下で、この人は今、いったい何を考えているのだろうと、みつは思った。

「しかしですなあ。私の周りの心無い者たちは、櫻澤伯爵はうまくやったといっているものもおりましてな。娘と言っても、実際のところはどうなのか、わかったものではない、などと。これはまさしく下衆のかんぐりと言うものですなあ」

 がはは、と笑いながら男爵が口にした言葉にみつははっとした。確かに花街出身の自分を引き取ったことを世間から面白おかしく噂されれば、それは融への醜聞につながると、はっきり理解した。

周囲に知られぬよう、できる限りひっそりと養子縁組をしたが、華族階級も平民と同じく村社会だ。身分が高いほど、陰湿な足の引っ張り合いがあることは、自分にもわかる。

妾などは、あっても当たり前だ。

しかし伯爵家の当主が法をかいくぐるように歳若い半玉を養女にし、玩具にしているなどと世間に広まれば、世の人たちはどれほど面白おかしく淫靡な噂を流すだろう。

芸妓と心中を図ったことが宮内庁に知れて、平民に移籍された華族がいると聞いたこともある。

融が望んだこととはいえ、自分は彼にとって危険なものだ。融がそれに気付かなかったのが不思議だった。

「人の口に戸は立てられぬ、とも申しますし。おかしな噂になる前に、良いご縁があればよろしいのですけれども」

 そう応える八重の声を聞きながらみつは、融のために自分はどうすべきなのだろう、と考えをめぐらせていた。

 車夫が融の帰宅を告げたのはその時だった。


いつもよりも大分早い帰りに、八重の表情が強張った。みつも戸惑った。二人の様子にただならぬものを感じたのか、男爵はきょときょとと落ち着きなく視線を彷徨わせた。

「珍しいお客様がお見えのようだ」

 やがて融が悠然と現れた。

口元は笑んでいたが、目の奥は冷たい。

「大変ご無沙汰しております。妻と娘がとんだ失礼をしてしまったようで、申し訳ありません。殊に娘は、まだまだ作法もろくに身についていない不調法者で、お恥ずかしい限りです」

「いえいえとんでもない。こちらこそ図々しく上がりこんでしまって、申し訳ありませんでしたな」

 不穏な空気を感じ取ったのか、男爵は辞意を述べた。引き止めるものはいなかった。

 執事が男爵を玄関まで送った後も、誰も身動きひとつしなかった。最初に口を開いたのは融だった。

「みつ。自分の部屋に戻りなさい」

 穏やかに融が言った。みつは一礼し、二階の自室に戻ろうとした。

「どうして、こんなに早く戻られたのです」

 八重の声の弱々しさに、みつは驚き、一瞬振り向いた。対する透の声は硬い。

「体調が優れなかったので、早目に退けた。そんなことはどうでもいい。それよりもこれはどういうことだ。何故私の留守中に、あんな男を呼びつけた」

 みつは階段を昇る足をとめ、融を見た。確かに顔色が悪い。このところ仕事で多忙だった。過労だろうか、と案じた。

「どこか痛むのですか。医者を呼びますか」

 八重の気遣いを、融は苛立たしげに撥ねつけた。

「私の知らぬ間に、あの下品な男とみつを娶わせるつもりだったのか。出すぎた真似をするな」

 跳ね除けるような強い語調に、八重は唇を噛み、階段の途中にいるみつを睨みつけた。そのとき初めてかんざしに気付いた。八重は切れ長の目を見開いた。

「お前それは!」

 激した視線に、みつは反射的に怯えた。

「どうしてお前がそれをしている。またわたくしを苦しめるのか。どれだけ人を馬鹿にすれば気がすむのだ。身代わりのくせに!」

 八重はほとんど駆け寄るように、みつに迫った。

常の八重からは想像もつかないほど素早く鬼気迫る動きに、みつは一歩も動けなかった。融の制止も間に合わなかった。

八重は行く手を阻むようにみつの前に立ち、無造作にかんざしに手を伸ばした。

 どのようないわれがあるとしても、融から贈られた大切なものだ。みつは身を振りほどき、必死に抗った。もみ合っているうち、みつは足を踏み外した。

全てが、ほんの一瞬のうちに起きた。

階段から宙に投げ出された瞬間、世界が止まったような気がした。

吹き抜けになっている階段からは男爵と面会した大広間が見えた。

そこには鈍く光るロココ調の鏡や優雅な曲線を描く椅子、赤煉瓦の暖炉、螺子巻式で蝶の飾りがくるくる回るオルゴールなど、美しいものがたくさんあった。

そのなかでもみつが一番気に入っていたのは、きらきらと眩いシャンデリアだった。

まだ電気の点く時刻には早く、落ちゆく日の光だけが反射するシャンデリアは、割れたガラスの破片が連なっているように見えた。

凍りついたような瞬間の後、みつは体が砕けるほどの衝撃を覚えた。

世界が暗転した。


 一昼夜たって、ようやくみつは目を覚ました。うっすらと目を開くと、見慣れた自室の天井があった。室内は仄かに明るい。寝台から見える窓に朝日が差し込んでいた。

朝だ、と、ぼんやり思った。無心に体を起こそうとして、激しい痛みに貫かれた。短く呻くと視界の隅に何かが動いた。融だった。みつの寝台の傍に椅子を置き、そこに腰掛けていた。

組み合わせた両手指のうえに額を乗せていたが、みつの気配に気付いて顔を上げた。目が合った。

「気付いたか」

 はい、と答えたかったが、うまく喋れなかった。代わりに乾いた咳が出た。

融は立ち上がって、テーブルの上の水差しからグラスに水を注ぎ、そっとみつに手渡した。グラスを持つだけでも腕が痛んだが、顔には出さなかった。確かに喉も渇いている。

「飲みなさい」

 身を起こして、言われるままに喉を潤す。少し零れて、顎から寝巻きの胸元まで濡らした。

その冷たさが、意識をはっきりさせた。

体の痛む理由が蘇って、あのとき考えていたことも思い出した。

あの瞬間の八重の表情も。

 やはり八重様は、融様を愛しているのですよ、重文様。

 みつは、かさつく唇をゆがめた。

「なぜ、笑う」

 融がぽつりと訊いた。

どうして笑っているのか自分でもよくわからないが、意識ははっきりと冴えていた。みつは融を見上げた。

「お体の具合は、いかがですか」

「え?」

「お体の具合が優れず、早くお仕事を退けてきたと、おっしゃっていました。早くおやすみになってくださいまし」

 全身を強く打って右足首の骨も折れているのにも関わらず自分を案じるみつを前に、融は胸を詰まらせた。

「すまなかった、みつ」

 みつは首を傾げた。

「なにを、謝るのです」

 融は目を逸らした。

その機に乗じ、視線が合っていては聞き辛いことを、みつは尋ねた。

「わたくしは、誰の代わりなのですか」

融はなにも答えず、静かに立ち上がって出て行った。

入れ違いでハナが入ってきた。

「みつ様。お加減はいかがですか?」

 いつも溌溂としているハナが、とても疲れた顔をしていた。瞳は赤く、その周りを濃い隈が縁取っている。出会ってから、笑みの絶えたハナを見るのは初めてだった。

「ずっと、いてくれたの」

 みつが問うと、ハナは小さく首を振った。

「旦那様がずっと、みつ様のおそばにいらっしゃいました。お食事もろくにお摂りにならないで、ここににいらしたのですよ」

「そう」

 みつは短く応じた。どんな顔をしたらいいのかわからなかった。

動けるようになるまで、しばらく時間が掛かった。融は、毎日のようにみつを見舞った。

「具合はどうだ」

 と尋ね、すぐに出てゆく。まるで、何か訊かれるのを恐れるかのように。みつは訊かれたことだけに答えた。

療養中の身でできることは限られていて、時間だけは豊富にある。自然と様々なことへ思いが行った。

あの日の出来事、自分の存在が融に及ぼす影響、自分が誰かの代わりとして融に望まれていたこと。

いったいどうすればいいのだろう。

ずっと考え続けて、ある朝みつはようやく結論を出した。

 

その日、融がいつもの通りに見舞いに来たとき、みつは迷いのない目で言った。

「お願いが、ございます」

 融は不思議そうな顔をした。今までみつが何かを望むことなどなかった。

「言ってご覧」

「わたくしを、手放してください」

 みつは静かにそう告げた。融は目を見開いた。

「手放して、どこか遠くに行かせてください」

 融はみつの前に歩み寄った。みつは横たわったまま、融を見なかった。

ここから出て行く。

融を醜聞から遠ざけるためにも、自分が誰かの身代わりのままでいないためにも。

自分が自分として彼に望まれていないのならここにいてはいけない。それがみつの出した結論だった。

 融はなにも答えずに部屋を出て行った。苦しげな表情だった。

言うべきことは言った、とみつは思った。

胸が激しく痛んだ。自分で決めたことなのに、言った瞬間から後悔していた。

傍にいられるのなら誰かの代わりでも構わない。気持ちが心に淀んでいる。

その日から、融がみつを見舞うことはなくなった。


ハナの献身的な看病のかいあって、みつの身体は少しずつ回復したが、気持ちは傷んだままだった。 

「父はほとんど黙り込んで、何か考え込んでいるようだ。母は何事もなかったように過ごしている」

見舞いに来た重文の言葉に応えず、みつはぼんやりと窓の外を眺めていた。冬枯れの庭には南天の実が赤く色づいている。

みつの口数はさらに少なくなり、食欲も落ちた。ふっくらした少女の肉は削られ、ほっそり華奢な身体になった。

「可哀想にな、みつ」

 重文がぽつりと言った。

「父が何を考えているのかはわからない。だけど、みつが父を待っていることはわかる」

「待ってなど、おりません」

 僅かに間をおき、掠れた声でみつは答えた。

「そうか」

 そう応えながら、重文は引き寄せられるようにみつの顔を見た。研ぎ澄まされた輪郭は大きな瞳を際立たせている。憂いのある面差しは今までのみつにないもので、少女ではなく女の貌だった。

不思議と目が離せなかった。このむすめのこういう表情を見る人間が自分だけならいいのにと思い、そう思った自分に驚いた。

重文は太い指先で、そっとみつの頬を辿った。みつは怪訝そうに重文を仰いだ。

「可哀想に」

 重文は同じ言葉を繰り返した。みつは目を伏せた。黒く濃い睫毛の内側は乾いていた。


 床についたみつを初めて見舞った八重は、冷ややかに笑んだ。あの時のことが思い出されてみつの身体が強張った。八重はそんなみつに、まるで頓着しなかった。

「身体が良くなり次第、鎌倉にある別荘に移ってもらう」

 みつは八重を見上げた。

「わたくしが決めたことではない」

 八重は目を逸らさず淡々と言った。

「嘘だと思うなら誰に訊いてもよい。みな知っている。もっと早くにそうすべきだった」

 藤色の綸子に身を包み、泰然とした様子の八重は、それ以上何も言わなかった。

涼しげな切れ長の瞳は、勝ち誇るような、哀れむような色を浮かべていた。

八重の視線や存在が、みつを息苦しくさせた。しんと静まり返った広い部屋の空気全てに、毒が溶け込んでいるような気がした。

 八重が退室し、ひとりになると、みつはあたりに視線をやった。ここから見えるもの全てを忘れないように。

融が目にする景色を目に焼き付けたかった。涙が流れていなければ、もっとはっきり見えるのにと思いながら、嗚咽を漏らさず静かに泣いた。

自ら望んだことでも、身を引き裂かれるように辛かった。


みつが長い旅に耐えられるまでに回復したのは、年が明けてひと月過ぎたころだ。

鎌倉に出立したのは、冷え込みのきつい二月のことだった。

ハナはみつに付いていくことになった。みつはもちろん、ハナもそう望んだ。融はそれを許した。

ハナは、鎌倉へ移る支度に奔走していた。今も必要なものを買出しに出掛けていて、みつは自室で荷物をまとめていた。

ここに住んだ時間はそう長くはないが、短期間でも私物は増える。荷造りするみつの背後でドアが静かに開いた。

「戻ったの、ハナ?」

 帰ってくるには少し早かったが、振り向かずにみつは問い掛けた。

「私だ」

 その声で振り返った。融だった。

しばらくぶりの姿は痩せて見えた。

やはり身体が悪いのか、とみつは案じた。

「どこか、お加減がお悪いのですか?」

 融は思わず苦笑した。

「それは君のほうだろう」

融と顔を合わせたら何を話せばいいのか、みつはずっと考えていた。思っていたより自然に会話できて安堵した。

二人の間の空気は穏やかだったが、お互い目を合わせることはできない。

「君を、傷つけてしまった」

 融は手近な椅子に腰を掛け、みつにも座るように勧めた。少し離れたところに彼女が座ったあと、融はぽつりと言った。

「ただ幸せにしたかったのに、結局は思い上がりに過ぎなかった」

「違います」

 みつは澄んだ眼差しで答えた。

「短い間でしたが、わたくしは幸せでした」

 心からからそう思えているかはわからない。だけどそういう気持ちが心のなかにあるのは本当だった。

融は低い声で訊いた。

「知りたいか」

 みつは融を見た。視線が交わった。

「私がなぜ君を引き取ったか、誰の代わりなのか、本当に知りたいか」

「はい」

 みつはするりと答えていた。

これから融がする話は、自らを更に傷つけることになるだろう。融も、口にしながら辛い記憶に苦しむのかもしれない。

それでも知りたい。今を逃せば、本当のことを融の口から聞けない気がする。会うことすら、一生叶わなくなるかもしれない。

みつは背筋を伸ばして、静かに融を見た。融はゆったりと椅子に腰掛けて腕を組んだ。

夕暮れまでにはまだ少し間があり、窓の外にはどんよりとした冬空が広がっていた。

薄暗い室内で、物語でも読み解くかのように、融はゆっくりと話し始めた。


「私の父には、母の他に愛する女性がいた」

 融の声は低いが、潤いがあってよく響く。

それほど大きな声でなくとも、離れたところに座っているみつの耳にきちんと届いた。

「父も、成り上がりの新華族のご他聞に漏れず、没落した公家華族の姫を妻とした。丁度、私と八重のようにね。義務として私と弟を儲けた後、二人が睦みあうことなどなかった。父は気位が高く気難しい母を扱いかねていたし、母は父を蔑んでいた。父が本当に愛した女は、やがて娘を生んだ。娘は私よりも二つ年下で、めいと名付けられた。彼女の母が流行り病で亡くなったとき、父は周囲の反対を押し切り、めいを本宅へと迎え入れた。私が英国への洋行を終えて帰国した年のことで、彼女が十四歳のときのことだった」

 融はそこまで一息に話すと、大きく息をついた。みつは一言も聞き漏らすまいと、息さえひそめるように聞き入っていた。

「めいと初めて出会った日のことは、今でもはっきりと覚えている。とても美しいと思った」

 彼はもう一度息をついた。苦しげなのに、甘さを含んだ吐息だった。

「君と、よく似ていた」

 みつは息を呑んだ。自分はその人の代わりだったのかと思った。

「一瞬で強く惹かれた。恋に堕ちるのを止められなかった。濃い血の繋がりさえ歯止めにはならなかった。幸福なことに、めいも私と同じ気持ちだった」

 融は記憶を辿るように目を閉じた。口元には微かな笑みが浮かんでいる。

「めいと出逢えて、本当に幸せだった。二人のことを誰にも知られないように気を配らなければならなかったが、苦にはならなかった。見つめられるだけで胸が熱くなった。触れるといつも満ち足りた」

 そこまで話すと、融は目を開いてみつを見た。みつは黒目がちな目をひたと融にあて、沈黙で話を促した。

「出逢ってから、三年経った頃だった。私たちのことが露見した。めいが、私の子を身篭っていることも。私たちは引き離され、めいは鎌倉へと追いやられた。最後に会うのを許されたとき、私が贈った瑪瑙のかんざしをしていた。あなたが似合うと言ってくださったから、最後はあなたの好きな私を見て欲しかった。そう言っていた」

 鎌倉の叔母とはめいのことだったのかと、静かな気持ちでみつは受け止めた。あのかんざしが、融の記憶の中にいるめいに贈られたものであったことも。

いつしか夕闇が室内を染めていて、親密な空気が生まれていた。薄闇を伝う融の声はどこか遠く、夢の中で聞いているようだった。

なんだかここは現世(うつしよ)ではないみたい。みつはそう思った。

「嗣子である私には、めいを追うことなど許されなかった。両親や親族は醜聞を恐れた。櫻澤の名に傷をつけるようなことがあれば、めいや子供の身柄は保証しない、と言われた。その代わり私が家を継ぎ、義務を果たせば、めいと子供が生活できるよう充分に援助するとも。選択の余地などない。八重を娶り、子を儲けた。めいとその子供は、事情を知っていた出入りの庭師の石井が父親役を申し出てくれた。身分こそ低いが、信頼できる男だ」

 融は静かな声で話を続ける。

「めいが亡くなったのは、鎌倉に移ってから五年後のことだ。もともとあまり丈夫ではなかった。儚くて、繊細な人だった。それなのに、芯はしっかりしていた」

みつは、彼の慰めになる何かを言いたかった。だけど、どんな言葉でもそれは叶わないとわかっていた。

「彼女と私の子供は透明(ゆきあき)と名付けられた。透明は……」

 融がそこまで言ったとき、扉が開いた。廊下の灯りが八重の凍てついた表情を示した。

「出て行きなさい。私は今、みつにめいの話をしている。邪魔は許さない」

 その言葉が聞こえなかったかのように八重は室内に入り、融の傍へ立った。扉は閉ざされ、再び仄暗くなった。

「いつまで、あの女の亡霊に、囚われ続けるのです。見てくれが似ている娘を身近に置くのは、あの女の生まれ変わりとでも、お考えだからなのですか」

 八重は一言一言を区切るように問い掛けた。みつははっきりと八重に哀れみを感じた。

めいは八重を傷つけた。生きていたときも、死んだあともなお。そして今は、自分が八重を傷つけている。

嫁す前は違ったのかもしれない。融を成金華族と侮っていた八重の気持ちが、いつ変化したのかはわからない。みつにわかるのは、八重の愛情と絶望だけだった。

どれほど融を愛しても、受け入れられる日は来ない。めいと一緒にいられなかったのが八重のせいではないと頭でわかっていても、融は八重を許せない。八重の存在は、めいを捨てた自身を思い起させる。

「出て行きなさい」

 冷たく応える融の声を聞きながら、みつはそう思った。

「いいえ。出て行きません。あなたが、わたくしと一緒に、ここを出ない限り」

 そして八重はみつに振り返った。

「なぜ、わたくしたちのまえに現れた。お前がここにいることが、どれだけわたくしたちを傷つけているか、わからないのか。あの女と同じ顔で、同じような髪飾りをつけて、同じように笑う。お前があの女の代わりとしてここにいれば、この人はあの女を忘れられない。苦しみ続ける」

「出て行け」

 初めて融が声を荒げた。

「おやめください」

 その場を制したのは、みつの小さく澄んだ声だった。

「わたくしはもう、ここを去る身です。この先、お目にかかることもないでしょう」

「その言葉、よく覚えておくように」

 間髪いれず、八重は鋭くそう言い、部屋から出て行った。

二人だけに戻っても、室内の雰囲気は八重が来る以前のものとは変わってしまった。親密だった空気は消え去った。闇はただの闇だった。

「亡き人の面影を、わたくしは、掘り起こしてしまっているのですか? わたくしがいて、お父様は、お苦しかったのですか」

 途切れ途切れにみつは訊いた。涙で声が詰まって、うまく喋ることができなかった。融の前でそんな姿を晒したくないのに、どうしても涙が止まらない。

それでも頭の一部は覚めていた。

融が静かに立ち上がって、こちらへ歩み寄っていることもわかっていた。

融はみつの正面に立ち、少し身を屈めた。両手でみつの頬を包み、涙を拭った。

「違う、みつ」

 この前、重文に触れられたときにはなんとも思わなかったのに、今は違う。触れられた頬が熱い。心臓と同じに脈打っている。真近で見られることに耐えられず、みつは少し顔を逸らした。

 融は手のひらに力をこめて、みつを正面に向かせた。

「確かに私は、君とめいを重ねて見ていた。めいの生まれ変わりのようにも思っていた。二度と失わないよう、家族として末永く結ばれたかった。与えうるものは、全て与えたかった」

 融はみつを抱きしめた。壊れ物でも扱うよう、そっと両腕で包み込む。

「君は、灰色だった日常に、彩りをくれた」

それはほんの数秒のことだった。

みつにとっては永遠のようだった。

今すぐ世界がなくなればいいと思った。そうすれば融と一緒に消えてしまえる。この瞬間、融が抱きしめているのはめいではない。

 だけど本当はわかっていた。

世界はなくなったりしないし、めいがいなければ、融は自分に関心など示さなかっただろう。

「さようなら、みつ。息災で」

 みつから身体を離して、融は静かな足取りで立ち去った。

みつは呆然とした。なんてひどい人なんだろう。自分は一生、融様を忘れられない。

涙が溢れた。しまいには溶けて無くなってしまうのではないかと思うくらい、涙は止まらなかった。


 屋敷を出る朝、重文がみつの部屋を訪れた。多忙な融は、既に勤めに出ていた。

「さみしくなるな」

 重文の口調は短くとも、真情がこもっていた。

「短い間でしたが、大変お世話になりました」

 みつは丁重に頭を下げながら言った。

いまだ気持ちはまとまらず、苦しくて堪らない。それでも、表面上だけは落ち着きを取り戻せていた。

自尊心がそうさせた。見苦しいままでここを立ち去りたくなかった。

「何も世話などしていない。世話をしてくれたのはハナで、私がしたのは邪魔だけだ」

 みつと、傍に控えていたハナは顔を見合わせた。

「お邪魔など、とんでもございません。親しくしていただけて、とても嬉しかったですわ」

 重文は笑んだ。

「そうか。妹ができて、私も嬉しかった」

 やさしい言葉に、みつも自然と笑んだ。笑える自分に満足した。感情に振り回され、涙を零すのはもう厭だった。

「いつか、必ず戻って来い」

 重文はみつの目を見ながら言った。

「そうなれば、いいですわね」

 そんな日は来ないだろうと思いながらも、みつはそう応じた。

もしもここに戻るのならば、めいの身代わりではなく、自分自身として融に望まれたい。そうでなければ、戻ってくるべきではない。

「父は、可哀想な人だな」

 どういうつもりか、不意に重文が漏らした言葉は、みつの心をかき乱した。

融と会えなくなると思うと、強い感情が体中を駆け巡った。

「みつ様。そろそろお時間です」

 ハナがその場の空気を換えるように、いつもどおりの口調で言った。鎌倉までは汽車で行く。出発時間が迫っているのは本当だった。

「それでは、ごきげんよう。どうぞ、お体にお気をつけて、お元気で」

 みつはもう一度、丁寧に頭を下げた。

本当は融にもきちんと別れを告げたかったが、いつもどおりに仕事に出る彼を、皆と一緒に見送ることしかできなかった。融はみつを見なかった。

 当然、八重もみつを見送るはずがない。

立ち去る前にひとこともないというのはあまりに礼を失しているので、恐る恐る八重に辞去の挨拶をしに行った。

足が震えそうになったが、彼女と顔を合わせるのもこれが最後だと自らに言い聞かせた。

八重は身支度を終えて自室にいた。

「今まで、大変お世話になりました」

 身体を強張らせるみつを一瞥もせず、八重は頷いた。

みつが立ち去ろうとしたとき、八重がぽつりと呟いた。

「わたくしを哀れむな。お前はわたくしよりもっと哀れなのだから」

 棘のある言葉ではあったが、聞きようによっては慰めとも取れた。みつは驚いて振り向いた。

八重もみつを見ていた。みつは深々と一礼し、音もなく出て行った。

鎌倉までの道行きの間、みつはほとんど口を利かなかった。融が用意したのは一等車の切符で、他の乗客たちは裕福そうな年配の夫婦や、異人だけだった。

生まれて初めて乗る一等車を、ハナは珍しがった。

みつは汽車に乗るのさえ初めてだったが、車窓を流れる景色を物憂く眺めていた。驚くべき速さで愛する人から離れていくのは辛かった。時間はあまりに正確すぎて、残酷だった。

融のもとにいたのは一年に満たない短い時間だったが、強烈にすぎた。どれほど時が過ぎようと忘れはしまいと確信した。


 第二章


鎌倉は山と相模湾にくるまれた古都だ。

三方を囲む山の標高はいずれも百メートル程度と、そう高くはない。海は穏やかで、海水浴に向いている。

東京医学校の教師として招聘されたドイツ人の医師、エルヴィン・フォン・ベルツが七里ガ浜を「最適の保養地」と推奨したのをきっかけに、鎌倉とその周辺は、保養地や別荘地として注目され始めた。

明治三十二年に御用邸ができると、鎌倉に上流階級で別荘を持つ者が続出した。

そのうちのひとつが櫻澤伯爵家の別荘だった。別荘は小さな山の中腹にあり、海や駅から遠く離れている。

婦女の足ではとても歩けない距離なので、鎌倉駅から別荘までは人力車を使った。

 濃い緑の道筋を人力車は走り、やがて曲がりくねった山道を登り始めた。ハナが不安げにあたりを見渡しだしたころ、車夫が到着を告げた。寒さの残る季節だというのに、若い車夫の顔は赤くほてり、汗にまみれていた。

 最初、そこはただの森にしか見えなかった。石垣の内側には古木が生い茂っている。いずれも見上げるほどに背の高い木々で、堅牢な門を包み込んでいるかのようだった。

「ほんとうに、ここなのでしょうか」

 ハナが呟くと、尻からげにした車夫が汗を拭いながら振り向いた。

「へい、たしかにここでさぁ。ところの者たちはみな、森のお館などと申してます」

 これ以上先は進入が禁じられていると言葉を続け、彼はみつとハナを降ろした。

 二人は門を通り抜け、森の中へ歩を進めた。

外側から見るとただ薄暗く、鬱蒼としているだけかと思われたが、背の高い木々が両脇に立ち並ぶ小径へ踏み入ると様子は一変した。

小径の先は、広々と明るい庭園だった。庭師と思しき男が、熱心に木犀の枝を刈り込んでいる。

 庭園は念入りに整えられていた。つつじやくちなし、夾竹桃の木々が整然と配されている。沈丁花がふわりと香った。優しい香りは、みつの心を和ませた。

「素敵なお庭ですわね」

 みつが声を掛けると、男は動きを止めて振り返った。若い男だった。みつに目をあて、怪訝そうな顔をしている。木綿の着物に兵児帯を締めていた。自分より四・五歳上だろうとみつは推測した。

「それはありがとう。ところで君は誰で、いったいどうしてここにいるのかな?」

 みつは車夫の言葉を思い出した。

「失礼致しました。わたくしは三田の櫻澤家より参りました、みつと申します。恐れ入りますが、透明様にお目通り願います」

「ああ、例の」

 男はなにごとかを測るように、くっきりとした大きな目でみつを凝視し、ついてくるよう、愛想なく告げた。そのまますたすた歩き出す。

館は小造りな、美しい西洋風の建物だった。男は煉瓦でできた短い階段を昇って、花模様の色硝子の嵌められた、木目の美しい扉を開いた。

みつとハナに入るよう促し、館の奥へ入っていく。みつとハナは周囲の様子に目をやった。

玄関ホールの壁は白く、左側には玄関扉と同じ風合いの階段があった。掃除が行き届いていて、木目の床は鈍く光っている。

 やがて、すっきりとした縞のきもの姿の女が現れた。年のころは六十歳前後であろうか。銀髪を形よくまとめている。一瞬目を瞠り、すぐに改まった表情になった。

「遠方よりのお運び、大変お疲れ様でございました」

 女は美しく一礼し、きよと名乗った。みつもハナも丁重に挨拶をした。

きよはここでずっと若い主人に仕えていると語りながら、二人を大広間へと案内した。

「恐れ入りますが、ここでしばらくお待ちくださいませ」

 そう言い残してきよが下がると、みつとハナは目を見交わした。

「それにしても、素敵なお庭でしたわねえ」

 ハナは庭が気に入ったらしく、うっとりとしていた。

「そうね」

 みつも目を和ませながら頷いた。

「花の香りなんて忘れていたわ。沈丁花の香りが春を教えてくれることも」

「生垣の木犀もなかなか見事に咲いて、秋の深まりを教えてくれる」

 ふいに男の声がした。振り向くと、先程の男だった。

さっきよりも表情は柔らかく、厚い唇に笑みを浮かべている。だいぶ着込んだような着物から、冴えた藍の袷に着替えて、角帯をきっちりと締めていた。

手のひらのところどころが鮮やかな塗料のようなものに染まり、今まで嗅いだことのない匂いがした。

「先程の……」

 みつは男を見つめた。なぜ庭師がわざわざ着替えてここにきたのか訝かしんだ。

「それは私だ」

 その時、全く違った方向から声がした。

反射的に声のするほうを見て、みつは唖然とした。先程会った男がいた。

二人は顔も背丈もほぼ同じだった。言葉を失って立ち尽くすみつを前に、男たちは含み笑いをした。

「何も知らないようだな」

「しかし名前は知っていた」

「二人分ということは、知らなかったようだがな」

状況がわからずに、みつはぽかんと二人の会話を聞いていた。

「見ろ、取り残されている」

 庭で会った男が、みつをかえりみて可笑しそうに笑った。

「ああ、これは失礼をした。ふむ、どこから話そうか」

 もう一人の男も、みつを見た。

「私が誰かわかるか」

 続けて彼はみつにそう尋ねた。

「透明様、でございますか?」

 少し考えてから、みつは問い返した。今までの話から察するに、そう考えるのが妥当な気がした。

「正解。では、私の隣にいるのは?」

「……透明様、でございますか?」

 みつは同じ答えを口にした。二人がまるで同じ人間に見えたからだ。

男たちの目が、満足そうに細められた。

「その通り。なかなか聡い」

彼らは顔を見合わせて、くすくすと笑った。

「……双生児」

ハナが小さく呟いた。

 それでようやくみつにも事態が呑み込めた。

その存在自体は知っている。しかし、実際に目にするのは初めてだ。

双生児は忌み嫌われており、万が一生まれた折には、片方の子供を始末するのが通例とされていた。産んだ事実さえ隠蔽された。

母親までも、犬猫のように複数の子を産んだ“畜生腹”と呼ばれ、蔑まれたからだ。

「そう、私たちは双生児だ。透明という、ひとつの名前を分け合って、私は(ゆき)、弟は(あき)と名乗っている。石井透、石井明。それが私たちの名だ」

 庭で出会った男……透が、淡々と自己紹介した。

「石井透様と明様、ですか」

 融がめいを託した庭師の姓が、石井であるのは覚えている。自分たちが櫻澤家の胤だと、透と明は知らないのだろうかと、みつはひそかに思った。

「で、君は」

そう言われてみつは初めて、自分が明には名乗っていないと気付いた。

「これは、大変失礼を致しました。櫻澤みつと申します。これからこちらでお世話になることと相成りました。ご迷惑かとは存じますが、宜しくお願い申し上げます」

丁寧に口上を述べるみつに、二人は口の端を歪めた。造作だけでなく、浮かべる表情までよく似ているとみつは思った。

融とはそれほど似ていない。重文とも受ける印象が違う。

上背があるところは同じだが、透と明のほうが鼻筋がとおって目が大きい。くちびるも厚い。全体的に大造りな顔だちだ。身体つきははほっそりしている。

自分は双生児の母親に似ていると、融が言っていた。それならば、自分は双生児とも似ているのだろうか。

わからない。少なくとも自分の眼には、類似する部分はないように映る。

そうであることをみつは望んだ。融の存在や、自分がめいの身代わりであったと想起させるものは、少なければ少ないほど良い。

「本当に迷惑だな」

 透はそっけなく目を逸らしながら、端的に言った。返す言葉もなく、みつは俯いた。

「まあ、せいぜいうまくやってゆこう」

 明はおおらかにそう言うと、さっさと部屋を出て行った。ハナもきよに呼ばれて退出していった。

後に残されたみつと透は格別に言うこともなく、黙って向き合っていた。透が口火を切った。

「それで? 折角本家の当主に愛でられていたのに、いったいどんな失態をやらかした。寝間での手管をもってしても、繋ぎとめられなかったのか」

 みつはあくまで穏やかに、しかしはっきりと応えた。

「わたくしとお父様は、そういった関係にはありません。そのような言われ様は、大変不愉快です」

 か弱げなむすめの口から出た強い言葉に、透は目を丸くした。そして口元をまた歪めた。

「それは失敬」

 彼の目には面白がるような色が浮かんでいたが、一応は殊勝に謝罪した。

みつは小さく頷いたが、許せたわけではない。融を愛しているからこそ、そのような言われかたに我慢がならない。

 怒りを押し殺すように窓の外に視線をやるみつの横を、透は楽しげに通りすぎて部屋を出て行った。

 一人になったみつは、大きく息を吐いた。

これからの生活を考えると気が滅入った。


 夕暮れは迫っていたが、みつは身の回りのものや、きものをしまうため、与えられた部屋にいた。

そこはもともと客用で、美しい庭園を見渡せるベランダがあった。

クローゼットを挟んだ隣室は角部屋で、透の自室だった。そこからも庭園が臨め、続き部屋の明の自室からは裏庭が臨めると、きよが部屋に案内する際、教えてくれた。

 空気を入れ替えるために窓を開け放つと、緑に清められた風が入った。

「それにしても、気味が悪いほど似ていらっしゃいましたわねえ」

 みつのきものをしまいながら、鎌倉までの道行きや汽車の話に花を咲かせていたハナが、思い出したように言った。

「確かによく似てはいたけど、別に気味悪くはないわ」

 みつは、濃い臙脂の御召を丁寧に納めながら言った。

失礼な発言は許せなかったが、客観的に見ると彼らには品があったし、顔立ちも整っていた。感情や世間の常識に囚われず、そう述べるみつを、ハナは感心したように見た。

「そうですか。私などはどうしても、同じ人間が二人いるなんて、なんだかおかしいような気が致しますけどねえ」

 ハナの考え方が偏っているわけではない。古い因習が、そういう見方を当たり前にしていた。

「わたくしは、少しうらやましいけれど」

 ハナが手を止めてみつを見た。

「それはまた、どうしてですか」

 みつの答えを興味深く聞く人物が、ハナのほかにもう一人いた。透だった。

卑しく盗み聞きをしていたわけではない。窓際の長椅子に寝そべりながら読書をしていたら、開け放した窓から話し声が漏れ聞こえてきた。

窓を閉めようか迷っているうちに、話題が自分たちのことになり、閉めるに閉められなくなってしまった。閉める音で、今まで聞いていたことがばれてしまう。

成り行きまかせに耳を傾けていると、再びみつの声がした。

「もしもわたくしがふたりいたなら、どちらか片方は、お父様のお傍に残れたかもしれないもの。でも、出て行かなければならないほうが気の毒ね」

冗談のような軽い口調で、それともふたりまとめて鎌倉に送られるのかしら、と小首をかしげるみつを、ハナは痛ましく見た。

透はみつに対する興味を深めた。

 線が細く、儚げな姿をしているのに、真っ直ぐな言葉を持っている。そして、双生児である自分たちを気味悪くないと言った。

おまけに、自分たちを……母と弟と自分を捨てた融を慕っているらしい。

 このむすめは面白い、と思った。

接する人間は少なく、歳の近いむすめを身近にするのはこれが初めてだ。

明との、眠ったように穏やかで、退屈な毎日が変わっていく気がした。

我知らず、透は微笑んでいた。


 夕食は一階にある食堂で、三人揃って摂った。食堂はこじんまりとしたこの館に相応しく、簡素で素朴な雰囲気があった。

しかし、テーブルにかけられている布はあくまで白く、皺ひとつない。食卓の中央には白い水仙の花が無造作に活けられていて、清冽な香りを放っていた。

 透と明はみつの正面に並んで座り、美しい所作で食事を始めた。みつも、櫻澤家で教わったとおり、西洋式の作法で料理に取り掛かった。

辺鄙な土地にしては、供される料理は美味だった。こんな状況でもそう感じる自分に呆れつつ、みつは淡々と食事をした。

何も食べずに嘆いていても、融のもとへ戻れるわけではない。

融の傍にいられないなら、いっそ死んでしまいたいという秘めた願いが、心から消えることはない。

だけど、ひとつだけ確かなことがある。

死んでしまえば、融と会うことは二度と叶わない。

来世で一緒になることを夢見て情死する者たちもいるが、死後の世界がどんなものなのか、本当のところはわからない。

生きてさえいれば、どんな形でかはわからないが、融と再び(あい)(まみ)える時もあるかもしれない。

その可能性がある限り、生きていようと思った。

「よく食が進む」

 とりとめのない考えに耽っていると、二人のうちどちらかの声がした。みつが視線を上げると、透の呆れたような眼差しに行き当たった。みつは赤面した。

「食欲があるのはよいことだ。ここの食事が口に合ったのかな?」

 明が屈託なく尋ねたので、みつは頬を染めたまま頷いた。みつと同じく、明の皿も空になっていたが、透は半分以上残していた。

「透様は、もう召し上がらないのですか」

 みつの問いに、透は眉を上げた。

「もしかして、私の分も欲しいなどと言い出すのではあるまいな」

「違います!」

 みつは更に赤面した。

どういうわけか、この二人の前だと調子が狂う。透と明は、同じようにくすくすと笑っていたが、

「透のように好き嫌いばかり多くて、食が細いよりはずっと良い」

 という明の言葉に、透はあからさまに不快な顔をした。

「余計なお世話だ」

 そう言い残すと、透は席を立って食堂から出ていった。

仲違いを始めた二人にみつは戸惑ったが、明は変わらず笑んでいた。

「透は君を気に入ったようだ」

 みつは目を瞬かせた。

「わたくしには、全くそのようには思えませんが」

 明はナプキンで口元を軽く拭った。その指先は細長く繊細なのに、袖口から覗く両腕は透のものより太い。

双生児にも違いはあるのだなと、みつはぼんやり考えた。雰囲気も、透と比べると明はどこか鷹揚だった。

「ああして君と話しているのが何よりの証拠だ。気に入らないと透は全く喋らないし、ましてや一緒に食事など摂らない」

 明は水仙を一輪抜き取って、指先でくるくると回した。

「透は私と同じように産まれてきたのに、身体が弱くて神経質だ。人見知りも激しくて好き嫌いも多い。そう聞くとどれほど我儘な人間かと思うかもしれないが、あれでけっこういいところもある」

少なくとも今日一日の彼の言動からは、とてもそうは思えなかった。

疑わしげな顔つきのみつに、明はちらりと笑いかけた。

「きっとそのうち君にもわかる。さて、私もこれで失礼しよう。この花は君に」

 そう言うと明は手を伸ばして、みつに花を手渡した。その何気ない仕草は、かつて自分に花一輪を贈ってくれた融を思い出させた。

造作はあまり似ていないし、共に暮らしたこともないはずなのに、些細な表情や動きに確かな血の繋がりを感じる。胸の奥が苦しくなった。

「水仙は嫌いか」

 みつの表情を目にして、立ち上がりかけていた明は、もう一度腰を下ろした。

「いいえ」

 みつはなんとか微笑んだ。この感情を口にするつもりはなかった。やすやすと語れることではないし、ましてや明は融の息子だ。

「とても良い香りです。あのお庭に咲いていたものですか」

 明もにこりとして頷いた。

「透が丹精して、先程ここに活けた。普段はこんなことはしないのに。きっと君のためだろう」

「透様が、お庭のお手入れをなさっているのですか」

 不思議に思ってみつは尋ねた。これほどの館に、庭師が入らないとは考えにくい。

よほど困窮していれば話は別だろうが、暮らし向きには余裕が感じられる。

「そうだ。あの庭は、透が私のために手入れをしてくれているようなものだ。画材としてね」

 ひねくれているから彼は絶対に認めないだろうけど、と明は笑いながら答えた。

「がざい?」

「絵画の題材だよ。私は絵を描くのが好きなんだ。外へ出て写生もするが、そう度々出るのも億劫でね。そう言ったら、透が庭を整えてくれた。なるべく外の空気を浴びるよう医者に言われているから、庭いじりは彼にとっても丁度良かったのだろう。父が庭師だから、もちろんその影響もあるのだろうが」

 明の言葉でみつは、融がめいと双生児を託したのは庭師だったと思い出した。

「お父様は、いま……?」

 明は視線を宙にさまよわせた。

「ここを出て行ったのは何年前だったかな。今はこの近くで新しい妻子と居を構えている。ときたま子を連れて会いに来る。仕事やらなんやらで忙しいらしく、なかなか来ないがな。まったく、薄情な親だ」

 不満げな言葉でも、口調は温かく優しい。愛情が染み出るようだった。

「まあ、そんなこんなで、本を読んだり父や異国人に造園を教わりながら、透が色々と試した結果、ああなった。おかげで私は描くものに困らない」

 あの見事な庭にも、明の手が汚れていたのにも得心がいった。鮮やかな色彩や奇妙な匂いの正体は、絵の具だったのだろう。

「異人さんがいらっしゃるのですか、ここに」

「ああ。こんな田舎だからこそ、異人達が保養に訪れる。華族連中の別荘も多い。ここ自体、櫻澤伯爵の別荘だったわけだし」

 その名前は、またみつの胸を締め付けた。

「本家の当主とは、いったいどんな男だ」

痛むように歪んだみつの顔をどう取ったのか、ふいに明が尋ねた。いつのまにか笑みは消えていた。

透と明は、自らが融の息子だと知っているのだろうかと、みつは一瞬考えた。明は頬杖をつきながら呟いた。

「よくわからないな」

「なにがです」

 問い返されて、明は口の端を上げた。

「私の思い違いでなければ、君は本家の当主に気まぐれに拾われたり捨てられたりしたのに、恨むどころか慕っているようだ。どうして赦せる」

率直な問い掛けに、みつは笑んだ。

「あのかたが、優しいおかただからです」

 そして、弱くてずるいおかたです。みつは心の中でそう続けた。

「優しい?」

 明は攻撃的に笑った。

「君の言う優しさとは何だ。血の繋がった妹を手折り、子を孕んだら出入りの庭師に下げ渡し、こんな僻地に打ち捨てる。それからは一度もここに来ない。過去を忘れてぬくぬく暮らし、実の娘ほど歳の離れた少女をかまいつけ、飽きたらまた捨てる。教えてくれ。そんな男の一体どこが優しいというのだ」

 明は自らの出生を知っていた。実父について語る声は穏やかでも、眼の色は燃えるようだった。噴き出すような怒りが感じられた。

 明の見解は、ある意味では正しい。確かに融は身勝手なのかもしれない。

しかし融の苦悩を聞いたみつには、それだけとは思えなかった。

どういう言葉でそれを伝えればいいのかわからない。賢しげに何かを言ったところで、聞き入れられる気もしない。

 静かな眼差しを向けられた明は、しばらくすると、ほっとため息を吐いた。

「君にそんなことを言っても仕方がないな。疲れたろう。早く休みなさい」

「はい」

 みつはそっと立ち上がって部屋へ戻った。寝具は既に整えられていた。

水仙は、ハナが寝台の傍に活けてくれた。

瑞々しい香りに包まれながら、みつは寝仕度をして目を閉じた。

別れと出会いの交錯した一日は、こうして幕を閉じた。


 目覚めたとき、みつは自分がどこにいるのか把握できなかった。仄かに漂う水仙と窓の外の風景が、記憶を蘇らせた。

そっと身を起こしてあたりを見回すと、澄んだ朝陽が室内を満たしている。壁掛け時計の針は七時半を指していた。窓越しに見える庭園は、緑に輝いて美しかった。

 身支度を整えて部屋を出ると、ちょうどハナときよがこちらに向かってきた。

どうやらハナは、この館での仕事を教わっているようだった。二人はすぐにみつに気付き、足早に近づいてきた。

「もうお目覚めでしたか。おはようございます。まだ旅の疲れが残っておいでではないですか? もっとゆっくりお休みになられれば宜しかったのに」

 きよは親しげにそう言った。ハナは持ち前の適応力を活かし、すっかりきよの隣に馴染んでいた。

「おはようございます。一晩眠ったら、疲れはすっかりとれましたわ。それにしても、お部屋から見る庭園はまた格別ですわね。透様がお手入れをなさっていると伺いましたが」

 みつがそう返すと、きよは微笑んだ。

「透様は今朝もお庭に出ておいでです。明様もご一緒です。外はお寒いでしょうに、朝食までには戻るとおっしゃったきりです。朝食の準備は、とっくに整っておりますのにね」

 そう言うと、何かを思いついたように、一瞬言葉を切った。

「あの、お嬢様にこのようなことをお願いするのは失礼かと存じますが、もしお厭でなければお庭まで二人をお迎えに行って頂けませんか。外は冷えますが、この時間のお庭には昼間とはまた違った趣がございます」

 みつは躊躇したが、けっきょくその申し出を受けた。

青磁の袷にショールを羽織り、みつは外へ出た。手にはきよに持たされた、透と明のマントがある。

 もう二月も半ばなのに、朝の空気はきりりと冷えていて背筋が伸びる。吐き出す息はたちまち白くなった。

昨日歩いた小径を辿っても、二人の姿はない。爪先が冷えて、右足が少し痛む。

三田の屋敷とは比べるべくもないが、この館も充分広い。

簡単に見つかると思っていたのに、この庭園はまるで迷路のようだった。

早朝の庭は夜露と新鮮な光に洗われ清浄で、昼下がりとはまた異なる様相だった。

 大きく息を吸い込むと心の中に留まり続ける痛みが少しだけ和らぐ気がした。

融様にもこの澄んだ朝や、仄かに漂う花の香りを届けて差し上げられたらよいのに、と思いながら歩いているうちに、使用人のための裏玄関に着いてしまった。二人の姿はまだない。

行き違いにでもなったかと来た道を戻ろうとしたとき、裏玄関の向こうにある細い道に気付いた。そっと踏み入ると、立ち並ぶ卯の花の木々の先に裏庭が現れた。

 そこには表の整然とした庭よりも、ずっと親密な雰囲気があった。裏庭の先には蓮の葉に覆われた小さな池があり、その畔には白い水仙が群生していた。池の向こうでは、椿が無数の白い花をつけている。

 裏庭を包み隠すように梅の木々と満開の雪柳が重なって生い茂り、その手前には藤棚があった。藤棚の下は東屋になっていて、簡素な木の机と椅子が置かれている。

 明は藤棚の下、凛と咲く水仙を前に、絵筆を走らせていた。透はこちらを背にして梅の木々をじっと眺めていた。

静かな光の中にいる二人は、それぞれの世界に没頭して、一言も喋らない。言葉を交わす必要もないほど、お互いの存在を自然に感じ取って、認め合っているのだろう、とみつは思った。

それを淋しく感じるのはなぜだろう。

外の人間から身を隠すため、閉ざされた世界に引きこもり、呼吸さえひっそりとしているようだからだろうか。

「いつまでそこに突っ立っているつもりかな。できればその手に持っているマントを、まず透に渡してもらえるとありがたい」

 明の言葉に、みつは我に返った。

「申し訳ありません。きよがこれを持たせてくれました。朝食の仕度も整っています」

「どうも」

 つっけんどんにそう言うと、透は差し出されたマントを羽織った。顔色は青白く、今にも消えてしまいそうで、みつは心配になった。

「透に見惚れていないで、私にもマントをもらえると、更にありがたい」

 赤面しながら、みつは明にもマントを手渡した。明の顔には自然な赤みが差していた。同じ造作でもやはり違う、とみつはまた思った。

すたすた歩き出す二人を追って、みつも屋内に入った。ショールを脱いでいると、きよが来てそれを受け取った。

「お寒かったでしょう。透様と明様にマントを持って行って頂いて、ありがとうございました。お庭はいかがでしたか?」

 微笑みながらきよが尋ねた。

「この季節の、このお時間のお庭が、これほどまでに美しいとは、存じませんでした」

 頬を染めながらみつは答えた。

「透様にそうおっしゃれば、きっとお喜びですよ。ご熱心に丹精なさってますから」

 そう言いながらきよはみつのために食堂の扉を開けた。透と明は既に席に着いていた。

食卓には今日も花が飾られていた。

昨夜と同じ席に腰掛けながら、みつは透を見た。

「あのお庭は透様がお手入れなさっているそうですわね。本当に素敵なお庭ですわ」

 透は気のない様子でこめかみのあたりを掻いた。

「それは昨日も聞いた」

 言い方はそっけないがどこか嬉しそうで、みつはこっそりと笑んだ。

 明は昨夜とは打って変わって寡黙に朝食を摂り「すまないが、失礼する」と、食堂をそそくさと出て行った。

「明様は、どうかなさったのですか?」

 透はちぎったパンを皿に置きながら、つまらなさそうに答えた。

「いつものことだ。ほとんど病気だな」

「ご病気、でございますか」

 みつが問い返すと、透は指先をナプキンで神経質に拭いながら「絵だ」と答えた。

「たぶん今頃、裏庭に出ている。そろそろ椿が終わるから、あの辺で描いているはずだ」

 確かに朝露に洗われた白椿は、清らかに美しかった、とみつは思った。

温かい紅茶を口に運びながら、透は窓の外を見やった。

「明は午前中ずっと外で下絵を描いて、午後は自室で彩色する。私は午後から梅の剪定をする。この時期はだいたいそうやって過ごしている」

 それで昨日も透は庭にいたのか、とみつは得心した。

「それでお前はこれから何をする? 三田に戻れるように祈るか、それとも涙に暮れて過ごすのか」

 どうしてこの人はこういう言い方をするのだろう。みつはため息を吐いた。

「泣いて物事が変わることなど、期待してはおりません」

 どういうわけか、透に対しては常の自分らしからぬ話し方をしてしまう。

最初から印象が悪すぎたので、無意識に身構えているのだろう。頭の隅でみつはそう分析した。

透は面白そうに目を細めた。

「一生本家に戻れずに、ここに骨を埋めることになっても構わないのか」

 問われてみつは、昨日まで自分がいた場所を思い返した。

壮麗で広大なあの屋敷に未練はない。

一年近く住んでいたのに、造りを全て覚えることは、ついにできなかった。

何をするにも家従や女中たちの目があり、細かいしきたりや、仰々しい振る舞いに縛られていた。八重もいた。

心安くしてくれた重文と話していても、気兼ねがあった。くつろげることはなかった。融と接するときは、いちばん緊張した。

 融様。

融様は今、何をしているのだろう。

いつもどおり、家中の者に見送られて仕事に出て、今頃忙しく勤めているのだろうか。

 これ以上融の傍にいてはいけないと知っている。

自分がいれば融はめいを忘れられず、自分は融を慕い続けることになる。融のためにできることは、遠ざかって忘れることだけだった。

「わたくしは、戻らぬほうがよいのです」

 たとえ、自分の気持ちがどうであっても。

心の中だけでそう続けたが、その言葉まで、透に届いてしまったようだった。彼はしばらく黙っていた。

「早く飲まないと、紅茶が冷める」

 やがてぼそりと呟いて、透は席を立った。

その言葉に従って口にした紅茶は、すでに冷めきっていた。

 自室に戻ったみつは、椅子に腰掛けてぼんやりと外を眺めていた。

よく眠れたはずなのに、妙に疲れていた。

花街の住人であったころを、懐かしく思い出した。

あのころは様々な稽古事や芸妓たちの世話に追われて、忙しくしていた。今の自分には、やるべきこともしたいこともない。

三田の生活ですら恋しくなった。快適さからは程遠い、息苦しい日々でも、あそこには融がいた。

できるものなら融のもとへ戻りたい。叶うはずもなく、望むことすら許されない願いが心の奥から湧き出して渦巻き、胸を締め付けた。

感情などなければいい。

なにも感じず、誰も愛さず、死ぬまで平穏に生きていられれば、どれほど楽だろう。どうして自らの気持ちすら自由にできないのか恨めしかった。

激しい感情は痛みにも似ていて、涙がでそうになった。泣いたところで、物事は何ひとつ変わらない。せいぜい透に笑われるだけだ。みつはきつく目を閉じた。

 そうやって、どれほどの時間がたったのだろう。ふいに扉を叩く音がした。

目を開くと陽は高く登っている。これほど長い時間、全く無為に過ごしていたと気付き、みつは驚いた。

「どうぞ」

 みつが応じると、きよが入ってきた。

「三田から、お嬢様に宛てた郵便が届いております」

「わたくしに? いったいどなたからです」

「本家の大旦那様です」

 みつは立ち上がった。受け取って見ると、確かに融の筆跡だった。

丁寧に頭を下げてきよが退室すると、みつは慌ただしく封を切った。

中には便箋が二枚入っていた。


『みつへ

 鎌倉へは無事に着いただろうか。

これを書いているのは、君が鎌倉に立つ前日で、透と明の事を話しそびれてしまったので、筆を取った次第だ。

彼らにはもう会っているだろう。

双生児だったので、驚いただろうか。

 私は一度だけ、ふたりを抱いたことがある。

めいや透明と二度と会わないという条件と引き換えに彼らを守ることにしたが、めいの具合が優れないと、きよから連絡があり、矢も盾もたまらず、鎌倉へ行った。

 めいは病床にありながら、私を叱った。

私はもうあなたを忘れた。あなたも私を忘れて、ここには二度と来ないように、と。

めいが何故そんなことを言ったのか、その時の私にはわからなかった。

なんと愚かだったのだろう。


透と明を抱いたのは、それが最初で最後だった。

その時、私は誓った。彼らのためにできることは、なんでもしてやろうと。

たとえ会うことは一生叶わなくとも、彼らを愛している。君が、私の大切な息子たちとうまくやっていけるよう、祈っている。


 とは言え、君がいなくなるなど、私は未だ実感できない。

君の望みを叶えるため鎌倉へ寄越したが、戻りたくなったら必ず言うように。

 帰りを待っている。

              融 』


尋常小学校を出たきりなので、みつは漢字があまり読めない。何度も読み返し、なんとか内容を理解した。

微かに震える手で、手紙をしまおうと手箱を開けたとき、融から貰ったかんざしが目に入った。

その瞬間、名状しがたい感情に囚われた。そこまでは覚えている。

 気が付くと庭に出ていた。

どうして外に出たのか、覚えていない。どこからどうやって出たのかすら忘れた。

足が冷えて、足袋しか履いていないことに気付いたが、頓着しなかった。

人目につかない、誰も来ない場所を求めて、ふらふらと歩き続けた。

やがて紫陽花の茂みの間に、人ひとり座れるほどの隙間を見つけた。かたわらに古びた馬小屋のようなものがあったが、生き物の気配はない。

みつはそこにぺたりと座り込んだ。

待ちかねていたように、涙が出てきた。抑えることは、もうできない。

全身が冷えてゆくのにも構わずに、声を上げて泣いた。呆れるほどに、涙は止まらなかった。


「……何をしている」

どれほどの時が経ったのだろう。紫陽花の茂みの向こうに、双生児のどちらかがいた。手にしている画材から、明であろうとみつは判断した。

明は、驚いたように無防備に見開かれたみつの瞳が、赤く潤んでいるのを認めた。

 しばらく立ち尽くしていたが、やがてみつに近づき、屈みこんで彼女の手を取った。みつは為されるがままだった。

白い手は凍え、涙に湿っている。あまりの冷たさに、明は眉を顰めた。

「一体いつからここにいた」

尋ねながら、きれいに畳んだ手拭を懐から出し、みつに渡した。

みつが涙を拭くと、明は彼女を立たせて、土に汚れた着物を手ではたいてやった。

みつの足元に目をやり、舌打ちする。

「何故、足袋しか履いていない。……歩けるか?」

 みつが視線を上げると、案じるような明の顔があった。

「歩けなければおぶるが、歩けるか」

 みつは小さく頷き、明に手を引かれながら緑の小径をとぼとぼ歩いた。

傷めた足は少し疼いたが、できる限り、明に悟られないように注意した。

 玄関を入ると明はきよを呼び、新しい足袋を持ってこさせた。きよは何も聞かずに新しい足袋を持ってくると、すぐに下がった。

明は玄関の脇の階段にみつを座らせて、手際よく足袋を脱がせた。爪先は赤くかじかんでいる。明の両手のひらで包みこまれると体温が沁みた。

「外に出るなら、草履ぐらい履きなさい」

「はい」

 悄然とうなだれるみつは、今にも折れてしまいそうに細く、頼りなげだった。

その姿を、明は憐れ深く見た。

彼のなかに、病弱な兄を気遣うのと、似ているようで、どこか違う感情が芽生えた。

彼はもう一度みつの手を取った。

「昼食まで少し間がある。私の部屋でも案内しよう」

 大量の涙がひどい疲労を招き、全身が脱力していた。

歩くのも億劫だったが、断る気力もなく、みつは手を引かれるままについていった。

 階段を昇りきると、明は一度立ち止まった。

「右手側に書斎がある。以前は櫻澤伯爵が使っていたそうだ」

 左手はみつと繋いだまま、明は右手で書斎の扉を開けた。

重厚なつくりのその扉の中には、壁一面の書物と書き物机があった。室内には小さな窓がひとつあるきりで薄暗く、すこし黴臭い。立派な革張りの本がずらりと立ち並ぶ様は、威圧感すら感じられた。

「明様は、この本を全て読まれたのですか」

「まさか」

 明は室内を見渡し、片手で本を一冊抜き取った。

書き物机に広げて頁を手繰ると、美しい色刷りの絵画が現れた。文字は全て異国の言葉でつづられている。

「私が読むのは絵画に関するものだけだ。透は色々と読んでいるようだが」

「異国の言葉がわかるのですか」

「英国人の教師に教わっていたので、大体は」

 みつは目をしばたかせた。

「わたくしには、まるでなにかの模様のように見えます」

 明は小さく笑んだ。みつは本棚にそっと手を伸ばし、融が読んだかもしれない本の背表紙を、そっと指で辿った。薄く埃が積もっている。触れた跡がうっすらと残った。

「読みたかったら持って行っても良い。好きなときにここに来なさい」

 みつは黙って頷いた。

書斎の隣は透と明の寝室だった。

「二人ともほかに自室は持っているが、夜はここで休む。母が使っていた部屋だ」

 みつの心臓が弾んだ。

ここが、融様の愛したひとのお部屋。

無意識のうちに繋いだ指先に力がこもった。明は不思議そうにみつを見た。

「どうかしたか」

「いいえ」

「ふうん」

 怪訝そうに答えながら、明は扉を開けた。

室内には大きな寝台がひとつと、窓際に置かれた長椅子以外にほとんど家具はなく、がらんとしていた。窓からの景色だけが室内に彩りを添えていた。

「……なにもない、お部屋ですわね」

 みつは小さく呟いた。めいが亡くなってから随分経っている。彼女の息吹を感じることは、もうできない。

「今は私たちが眠るためだけの部屋だ。母の私物は、きよが蔵に納めた」

 融が贈ったかんざしは、その蔵にあるのだろうか。それともめいとともに葬られたのだろうか。

おそらく後者であろう。少なくとも自分なら、死出の旅路は愛しい人との思い出とともにありたい。

そう考えて、みつは息苦しくなった。

ここには融とめいを感じさせるものが、あまりに多すぎる。

「絵画でも飾れば、雰囲気が変わるのではありませんか」

「絵画か」

 気を変えようと口にしたみつのひとことに、今度は明の指先がぴくりと反応した。

「どうかなさいましたか」

 みつの問いに答えず、明は寝室を出た。

「寝室と私の部屋の間は浴室だ。昨夜つかったから知っているな」

「はい」

「私の部屋はここだ」

 そう言って明が扉を開けると、そこには鮮やかな色に満ちていた。

家具は、部屋の中央あたりに置かれた画架と椅子、絵の具等の置かれた小さな机と棚しかない。

色彩を放っているのは、壁一面に掛けられた無数の絵画だった。大きいものも小さいものもあった。

「全て描かれたのですか、これを」

「そうだ」

 明はあっさりと頷いた。みつは一枚一枚の絵画に目を走らせた。緑の稜線や湖沼のほとり、そして庭園内の木々や花。

大胆な筆遣いと、独特な色合いだった。

ただの風景画なのに、激しくほとばしる熱を秘めている。

絵画のことはまるでわからなくとも、明の絵が特別であることだけはわかった。

魅入られたようなみつに、明はほっとした。彼女の気を紛らわそうと部屋を案内したが、うまくいったようで満足だった。自分の絵を熱心に眺めてくれるのも嬉しかった。

「気に入ったものがあれば差しあげよう」

 弾かれたように、みつは明を見た。

「よろしいのですか」

「よろしいもなにも、これだけあるんだ。何枚でも持っていけ」

 そう言われて、みつは改めて絵画を見た。どれも美しく、決め難かった。

「申し訳ございません。決められません」

 明は困り顔のみつに微笑みかけた。

「決まったら言いなさい。ここも、好きなときに入っていい」

 その時、二人が入ってきたのとは違う扉が開いて、のっそりと透が現れた。

「あ、そうそう。私と透はこの扉でお互いの部屋を行き来している」

「行き来はしていない。お前が勝手に来て、私の長椅子で昼寝していくだけだ」

 不機嫌な顔で透が応じた。

「そういえば、お前は絵の具の匂いが耐えられないと言って、あまり来ないな」

「ここにきてもくつろげない。することもない」

「お望みなら、肖像でも描いてやる」

「お断りだ。どうしても描きたければ鏡でも見て描け。どうせ同じ顔だ」

 二人が喋るのを黙って見ていたみつを、透は不意にかえりみた。

「それで? お前は伯爵の代わりに、明をたぶらかしているのか」

 透の視線がみつと明の指先に注がれ、それでみつはようやく、繋いだままの手に気付いた。慌てて指を振りほどく。

明は動じずににんまりとした。

「うらやましいだろう」

「馬鹿も休み休み言え。昼飯の時間だ」

 明は笑いをかみ殺しながら、くるりと背を向けた透を追った。みつもそれに倣った。

昼食時も会話を交わすのは透と明だけだったし、みつはほとんど食べなかった。明は素早く食事を終え、食堂を出て行った。

絵を描く時間を奪ってしまったと、みつはふいに気付いた。

「なぜ今日は食べない」

 ひっそりと自己嫌悪に陥るみつに、透はぶっきらぼうに尋ねた。みつは黙って透を見た。

「なぜ泣いた」

「わたくしが泣いたと、どうしてご存知なのです」

「ご存知も何も顔に書いてある。そんな泣き腫らした目をして、わからないわけがないだろ」

 呆れたように透は言い、一瞬言いよどんでから、さらに問いを重ねた。

「櫻澤伯爵からの手紙には、いったいなんと書いてあった」

「それも顔に書いてありましたか」

 皮肉げに問い返すみつに、透は「まさか」と苦笑した。

「生憎そこまでは解読できん。伯爵からお前あてに手紙があったと、きよから聞いた」

 みつは沈黙で応じ、透はため息をついた。

「まったく、女は面倒だな。めそめそ泣いたりむっつりしたり。何もしていないから余計気が滅入るのだ。どうせなら何か役に立つことでもすればいい」

「いまのわたくしには、するべきことも、したいことも、何ひとつないのです」

 透は視点を宙に定めて考え込んだ。

「するべきことならたくさんあるぞ。そろそろ雑草の生えてくる時期だから、草むしりをしなければならない。梅の剪定も、まだ終わっていない。暇なら手伝え」

 みつは唖然とした。その様子を見て、透はにやりと笑った。

「冗談だ。お前にそんなことが出来ないことぐらい、わかっている」

 馬鹿にしたようなその口調に、みつはむっとした。鬱屈した感情には、容易く火が付いた。

「梅の剪定は難しいでしょうが、草むしりくらいならできます」

「とてもそうは思えんな。そんな生っちろい手で、土いじりなどできるものか」

 決め付けられて、みつは何が何でもやる気になった。

置屋にいたころはもちろん、三田にいたころにも土など触ったことはない。しかし、このまま透に馬鹿にされるのは耐えられなかった。

「それでは透様は、生まれたときから剪定をしていたのですか。やったことがなくともできないとは限りません。できるかどうか、やってみてから判断すれば良いではありませんか」

 透は目を丸くしてみつを眺め、それから少し笑った。

「そうだな。それではお手並み拝見といこう」

 どうしてこんなことになったのだろう。

内心深く後悔しながら、みつはナプキンで口元を拭った。


 昼下がりの庭園は肌寒いが、耐えられないほどではなかった。たすき掛けをしたみつは、透に言われた通り、玄関周辺の雑草をむしり始めた。

早春のこの季節でも、細かい雑草はそこここに生えている。土いじりをするのは初めてだったが、予想よりずっと面白かった。

最初こそ手が汚れないように草を取っていたが、むしったところがきれいになると嬉しくなった。透は裏庭の梅の木を剪定していて辺りには誰もいない。聞こえてくるのは鳥の囀りだけだ。

ときたま、うぐいすの声も聞こえた。

 一人で草をむしっていると、無心になれた。頭を空っぽにして黙々と没頭していると、心が穏やかになった。

「休憩するぞ」

 声を掛けられて初めて、透が傍に来たことを知った。驚いて立ち上がろうとしたが、身体が冷えて、足が痛む。いつの間にか、かなりの時間が過ぎていたようだった。

足を押さえるみつに、透は手を伸ばした。

「立てるか」

「はい」

 差し出された手を掴み、透はまじまじと眺めた。

「随分汚れたな」

 確かに、ひどく泥だらけだった。

記憶にある限り、これほど手を汚したことはない。置屋や三田にいた頃なら、きっと大目玉を食らったことだろう。

「洗えば落ちますでしょ」

 みつにそう言われて、透は苦笑した。

「気の強い女だ」

 その声は呆れたようでも、面白がっているようでもあった。

彼はみつの汚れた手を引いて、使用人たちの使う裏玄関まで行った。

 きよが桶にぬるま湯を張って待っていた。

みつは丁寧に手を洗った。冷えた指先に、ぬるま湯は心地よかった。

 透が差し出した手拭で手を拭くと、みつはまた無造作に手を掴まれた。手を引かれるままに裏庭に行くと、藤棚の下に明がいた。

テーブルの上には華奢なティーカップが三脚とティーポットがある。

「なんだ。お前もたぶらかされたのか」

 からかうような明の声に、透はみつの手をぱっと離した。

「馬鹿なことを」

 そっぽを向きながらつっけんどんに言う透の耳が赤くなっているのに気付いて、みつは少し笑った。透は憮然としながらも、三名分の紅茶を注いだ。

「絵は描き終えたのですか」

 みつがそう訊くと、明はかぶりを振った。

「一枚仕上がっても、すぐに新たな作品を描きたくなる。そういう意味では、死ぬまで描き終えることはないのかもしれない」

 湯気の立つティーカップに手を伸ばしながら、明は遠い目をした。

「私はともかく、お前は当分死なないだろ」

 何気ない透の言葉に、明はほんの一瞬、どこかが痛むような顔をした。それに気付いたのかどうか、透も紅茶に手を伸ばしながら言葉をつづけた。

「たくさん描いて、たくさん売ってくれ。それがお前の画材代と、私の植木代になる」

「売ってしまうのですか、あれを」

 双生児は平然と頷いた。

「客は主に異国人だ。口伝てに明の絵を買い求めに来る。物好きが多い」

「趣味が良いの間違いだろ。言われてみれば、確かに異国人が多いな」

「ところの者たちは、ここには寄り付かないしな」

 あれほど美しい絵を売ってしまうのは惜しいような気がしたが、美しいからこそ売れるのだろう。

そんなことをぼんやりと考えていたみつを、透はかえりみた。

「お前、明から英語かフランス語でも習ったらどうだ」

「なぜわたくしが異国の言葉など。無理です」

思いがけない提案に、みつは首を振った。

「おや。できるかどうかはやってみなければわからない、などと言っていたのは誰だ」

 透は意地悪く笑った。

「わたくしです。ですが、日本語もままならないのに、異国の言葉など……」

「なに。日本語がままならないだと。一体どこの国の人間だ、お前は」

「間違いなく日本人です。女は勉強しすぎてはいけないと言われて、尋常小学校しか行っておりませんので、かなはともかく、漢字は不得手なのです」

「言い訳は得手のようだがな」

 舌戦は、穏やかな声に遮られた。

「いやいや、二人とも仲良くなって何よりだ」

 にこにこしながら紅茶を飲む明を、透は睨み付けた。

「何を他人事のように。決めた。明、お前、この娘に英語を教え込め。わかったか」

「勝手にわたくしの予定を決めないでください」

「できるものなら、言い訳だけが得手ではないと証明してみろ。それとも、やはりできないのか」

「できます」

 答えた瞬間みつは後悔したが、いったん口から出た言葉は、もう戻らない。

「しかしな、透。私だけが教えるのも不公平だとは思わないか」

明は鷹揚そうな笑顔を浮かべながら言葉を続けた。

「よろしい、私がみつに英語を教えよう。代わりにお前はみつに漢字でも教えてやれ」

 みつは呆れて明を見た。

思わぬ反撃に、透も明を忌々しげに見てからみつに言った。

「良かったな。するべきことが沢山できたぞ。うれしいだろう」


それにしても、とみつは思った。

何の因果でこんなことになったのだろう。

ここに来てから、ひと月すぎた。三田にいた頃と、生活は一変してしまった。

みつはほとんどいつも双生児のどちらかと一緒にいて、勉強を教わっていた。一人になっても、復習していると、あっという間に時は過ぎる。

学んだところで何の役にもたたないけれど、透に馬鹿にされたくない一心で真面目にやった。

「みつ様は鎌倉に来てから、随分お元気になられましたわね」

 と、ハナは喜んだ。自分がこれほど負けん気の強い女とは思わなかったと、みつは苦笑した。

流れるように日々が過ぎていっても、融を忘れることはなかった。

その日、透は体調が優れず自室で休んでいて、明は絵の仕上げに追われていた。

いつも一緒にいるハナも、風邪で寝込んでいた。環境の違いによる疲れが出たのだろうか、とみつは案じたが、窓を開け放したまま眠ったのが原因だと、ハナは言い張った。

珍しく一人になったみつの足は、書斎へと向かっていた。

書き物机の椅子に腰掛けてぼんやりあたりを見回す。かつてここに融がいたと思うと、黴臭く薄暗い室内に親しみがわいた。

物音ひとつしない室内は時の流れから切り離されたようで、若かりし頃の融が扉を開けてここに入ってくる気配を感じる。

 融からの手紙は、瑪瑙のかんざしと一緒に手箱にしまったきり、一度も読んでいない。

何度か返事を書こうとして、結局やめた。なにを書けばいいのかわからなかった。

融様は今、何をしているのだろう。

みつは目を閉じて思いを馳せた。


「起きろ」

 呼びかけられて、みつは目を覚ました。いつの間にか、机に突っ伏すようにして眠っていた。のろのろと体を起こすと、開け放した扉の傍に透が立っていた。

みつはもう、透と明を見誤ることはない。

どこがどう違うと説明はできないが、感覚でわかる。

「……すみません。すっかり眠ってしまいました」

「何故ここにいる」

 透は不機嫌そうに訊いた。

「理由などありません」

「ここは櫻澤伯爵が使っていた部屋だな。明から聞いたのか」

 壁にもたれかかりながら、透はみつに視線をあてた。

「愚かだな、お前は。あんな不人情なろくでなしを、今でも慕い続けているのか」

 みつは腰かけたまま、透を見あげた。

「あんな男が実父と思うと、死にたくなる。望まれない生ほど無意味なものはない」

 吐き捨てるようなその言葉で、透も自らの出生を知っていたと、みつは思った。

「ならば、どうして生きているのです」

 寝起きの頭からは、無神経なほど率直な問いしかでてこない。透は口元を歪めた。

「明のためだ。彼は私とは全く逆の考えで、少しでも長く生きることが本家に対してできる最大の嫌がらせだと思っている。だから何があっても生きて、いつか何らかの形で見返すそうだ。私は明を一人にできない。だからこうやってずるずる生きている」

 自嘲する透を、みつは直視した。

「それでよいではありませんか。わたくしも明様のお考えに賛成ですわ。死んでしまえば全てが終わりです。生きてさえいれば、どんなことでも起こり得るのです」

 みつは机の上に、そっと両手のひらを置いた。融はきっと、ここで本を読んだり、勉学に励みながら、めいを想っていたのだろう。

そう考えると、いまだに胸が疼く。涙はもう出ない。

融への思慕が生きている限り心に留まり続けるのだとしても、時間と距離は胸を塞いでいた感情を薄めてくれた。

出会いは幸せばかりをもたらしたわけではない。辛いことのほうが多かった。

それでも会えてよかった。

お互い生きていれば、きっといつかまた会える。行き場のない気持ちが出口を見つける日も、やがては訪れるのかもしれない。

透は少し目を細めた。

「死んだら全てが終わりか。それなら、長く生きられない私はどうすればいい。どうせ早死にするなら、自死でもしたほうが良いのか。そうすればあんな男でも、多少は良心の呵責を覚えるかな」

 その言葉にみつは、徹に対する透の屈折した愛情を感じた。

「もしも復讐をお考えなら、少しでも長く、幸せに生きるべきです。お父様が本当に透様のおっしゃるようなかたであれば、自死なさったところで、何も感じないでしょう」

 融の望みが双生児の幸せであると知っているからこそ、みつはあえてそう言った。

透は呆気にとられたように黙り込んだ。

みつはさらに言葉を連ねた。

「それに、自死などなさる必要はありません。人は必ず死ぬのです。どんなに若く健康な者でも、いつの日にか確実に。もっとも、透様は長生きなさるでしょうが」

「何故だ」

「憎まれっ子は世にはばかるという、ことわざがございますので」

 澄ましてそう言い放ったみつの顔を、透はまじまじと眺め、やがて笑い出した。自室で絵を描いていた明が、驚いて書斎に入ってくるくらい、盛大な笑い声だった。

「なんだなんだ、一体何があった。何がそんなに面白いのだ」

「なんでもない」

 絵筆を持ったままの明の肩をぽんと叩き、透は笑い涙を拭いながら書斎から出て行った。

明はみつに尊敬の眼差しを向けた。

「お前はすごいな、みつ。あんなに笑った透など初めて見た。一体何を言ったのだ」

「特別なことはなにも」

 明は不思議そうに首を傾げたが、みつはそれ以上答えなかった。

 透は笑いをかみ殺しながら自室に戻った。

あのむすめは面白い、と改めて思った。

自分たちの出生を知る者は、多かれ少なかれ憐れむし、自分がそう長くは生きられないと知る者は、腫れ物に触るように接する。

明ですら、自分に気兼ねしていると感じるときがある。

みつは違う。慰めではなく単なる事実として、誰でもいつか必ず死ぬ、と、あっさり言った。まったく、そのとおりだ。

この体はきっと、そう長くは保たない。

特別どこが悪いというわけではないが、疲れやすく、よく高熱が出る。食欲もほとんどない。亡き母も腺病質だった。それを受け継いでしまったのだろう。

確かに生きてさえいれば、どんなことでも起こり得る。生きているから、みつとも出会えた。

みつといる時はいつも、今まで感じたことのない心の張りと高揚感がある。

残された、そう長くはないであろう時間を幸せに過ごす為には、みつが必要だった。

みつなら、どんな状況にあっても、あっけらかんと

「大丈夫ですわ、透様」

 と言ってくれそうだし、自分はそれを信じられる。みつに、ずっと傍にいて欲しいと思った。


「そろそろ桜が終わるな。一緒に見に行かないか、透?」

 思い出したように明が言ったのは、その日の夕食時だった。透は、香ばしく焦げ目の付いた魚を、フォークの先でつついた。

「来年行こう」

「去年も同じ言葉を聞いた」

「来年もそう言うつもりだ。それまで私が生きていればの話だが」

「来年の話をすると鬼が笑う」

 後半は聞こえなかったように、明は透に応じた。

「鬼なら私の目の前に座っている。べつに笑ってない」

 透の正面に座っていたみつは顔を上げた。

「鬼はわたくしの目の前にいるようですが」

 視線を鋭くしあう透とみつを前に、明が含み笑いをした。

「相変わらず仲が良くて、大変結構」

「いったいどこをどう見れば、私とこの鬼娘が仲良く見える。お前の目は節穴か」

「画家の目を持っていると、自負しているんだがな」

「明様は素晴らしい画家だと、わたくしも思います」

 本心からみつがいうと、透はフォークを転がした。

「ならばお前が画伯先生の伴をすればいい。私は御免だ」

 肩をいからせながら食堂を出ていく透を、明は表情を緩めながら見送った。

「みつが来てから、透は毎日楽しそうだ」

 みつは眉をひそめた。

「失礼ですが、明様は何か思い違いをなさっておられるのでは」

 明はナイフとフォークを静かに置くと、左腕で頬杖をついた。おなじみの姿勢だ。上品とは言い難い仕草なのに、明がすると洗練されて見える。透の出て行った扉を眺めながら、明は低い声で呟いた。

「あんなふうに大声で笑ったり、感情をあらわにすることなど、今までなかった。ああ見えて、なにもかも溜めこむ男だ」

 そこまで言って、初めてみつへと視線を走らせた。優しい眼だった。

「みつに、感謝している」

 みつは戸惑って明を見た。透と明は全く同じ造作なのに、明のほうが融を感じさせる。

「明日、一緒に桜を見に行かないか? この山の頂だから、婦女の足でもそうきつくない。 あれには一見の価値がある」

みつはわずかに逡巡した。

それほど見事なら、ぜひ見てみたい。

しかし、未婚の男女が連れ立って歩くようなふしだらが人目につけば、どのような噂になるか、知れたものではない。

明は小首を傾げた。

「私と出掛けるのは、厭かな」

「いいえ。ですが、めおとでもない男女が、一緒に外出するのは……」

 明は愁眉を開いた。

「この山は私有地だ。勝手に立ち寄る者などいない。それによく考えてみろ、みつ。お前は櫻澤伯爵家の御令嬢だな?」

 みつは少し考えた。おそらく籍を外れてはいないはずだから、未だに名字は櫻澤のままだろう。

「一応、そういうことになってはおります」

「そして私は一応、櫻澤伯爵の御令息様だ。兄妹が連れ立って歩いて何が悪い」

「兄妹……」

 その言葉で、重文の顔が脳裏をよぎった。親しんでくれて、自分を妹と呼んでくれた。そういえば彼ともよく、三田の庭園を歩いた。

最後に桜を見たのは一年前、櫻澤伯爵家へと向かう車上でだった。

あれから桜は、融との出会いを思い起こさせる。

あの日の儚い桜花を忘れられるのなら、険しい山道を行くのも悪くない。

「本当に、わたくしでも大丈夫でしょうか」

 その答えに、明の表情が明るんだ。窓の外の月は薄くかさをかぶり、霞んでいた。


 翌日、朝食を摂ってから、二人は連れ立って館を出た。

透は皮肉な口調で山猿に襲われぬようせいぜい気を付けろ、と言い残し、早々に自室に引っ込んでしまった。

 空はぼんやりとやわらかい浅黄色で、かぐわしい空気は暖かかった。

館から桜の咲く山の頂までは、女の足でも一時間半程度の道のりだ。

明は木綿の着物に角帯をきっちりと締め、矢立てと紙、それからきよの持たせた弁当を風呂敷に包んで持っている。

みつは銘仙に海老茶の袴という、まるで女学生のような装いだった。

「疲れたか?」

 館を出てそれほど経たないうちに、明はみつを振り返った。

一歩あとを歩いていたみつは首を振った。足は完治しているので、痛みはもうない。

「からだだけは丈夫ですから」

「それは頼もしい。私が歩けなくなったら、担いでもらおう。透も担いできてもらえば良かったかな」

 明は笑い声で応じた。

 天気に恵まれたせいもあり、道中は心地よかった。もともと二人とも、口数はそう多くない。だいたい歩くことに専念していた。

それでもお互い、気まずさを感じることはなかった。飛び交う鳥の囀りや、可憐な野草について、ときたま話した。それだけで充分だった。

明といると気持ちが落ち着く。そう思いながらみつは、大きな背中を追った。

明もみつと同じだった。年若い娘と出掛けるのは初めてなのに、気構えることなく、透といるときのように自然でいられた。

 景色や濃厚な緑の香を楽しみながら、ゆっくりと歩を進めたので、山の頂に着くのに二時間かかった。

 そこは桜の森だった。


 開けた山の頂は薄紅の花だけで贅沢に染まっていた。ここにたどり着くまでの山道に、桜は一本もなかった。見る人を驚かせるため、密かに咲き乱れているのかと思った。

 言葉を失って立ち尽くすみつを、明は笑みを含んだ目で振り返った。

「先代の櫻澤伯爵がこの山を買ったのは、この桜のためだった」

 そう言いながら明は、桜の古木の前で立ち止まった。桜花が滝のように流れている。今まで見たどの桜より華麗で妖艶であり、この世のものとも思えない。

 微かな風にたなびく様は、優雅な舞のようだった。花びらが淡く降り注ぎ、薄紅の絨毯が地面を覆っている。

あと一日でも遅ければ、ほとんど散ってしまっただろう。今も微風に揺られ、さらさら花が降っている。

「当時、櫻澤家に出入りしていた庭師が山窩から聞いて、先代の伯爵はこの桜を知ったそうだ。どれほどのものかと冷やかし半分でここまで来て、帰るときにはこの山を買うと決めた。あれ以外にも桜は幾らか生えていたが、彼によってさらに増やされて、これほどになった」

 確かに、他の桜は幾分若く、幹はすんなりと細い。若木に包まれるようにして佇む古木には風格があった。

「櫻澤伯爵と私の母はこの桜の下で結ばれたそうだ」

 静かな声で、明は言った。

「亡くなる少し前、母が言っていた。あなたたちは、あの桜の木の下で授かった、と。幸せそうな顔だった」

豪奢な桜に見守られながら結ばれた、若き日の融とめいを思った。

それは息をのむほど美しく儚いひとときの夢のようで、みつの胸は切なく締めつけられた。

 黙りこんだみつを覗き込み、明は彼女の涙に気付いた。嗚咽はない。澄んだ水だけが、次から次へと溢れ出る。

「なぜ泣く」

 明は戸惑って、みつの涙をぬぐった。

「わかりません」

 頼りない声で、みつは答えた。涙は勝手に溢れ出る。懐紙で押さえても拭いきれない。

「お前、よく泣くな」

 明はいつかと同じように、きれいに畳まれた手拭いを懐から出して渡した。

「どうしてでしょう。明様の前でばかり、泣いている気がします」

 受け取りながら、みつは首を傾げた。

「もともと泣き虫なんだろう」

「いいえ。実の母が亡くなっても、人前では泣きませんでした」

「何歳の時だ」

「五歳になったころです。流行り病で、あっという間でした」

 目元を押さえながら、みつは答えた。話しているうちに、気が静まってきた。

「すみませんでした。もう大丈夫です」

「そうか」

 ほっとしたようにみつを見ると、明はちらりと桜を仰いだ。桜がまた揺らめいてこぼれた。

「しばらく描いてもいいか?」

「そのおつもりで来たのでしょう?」

 眼を潤ませたままで、みつは微笑んだ。初めて目にするみつの笑顔に、明の胸の奥が弾けた。

こういう優しい顔をいつかどこかで見たことがある気がして、明はみつのえくぼをまじまじと眺めた。不思議そうなみつの視線に気付くと、慌てて目を逸らした。

 腰かけるのにちょうどいい石が幾つかあった。明はみつのために、そのうちの一つに手拭いを敷いた。それから自分も他の手ごろな石に腰を掛け、矢立から筆を出した。

みつは手拭いの上にそっと座った。

目に入るのは桜の木々と明だけで、風のそよぎや鳥のさえずり以外、なにも聞こえない。

目を閉じると、桜のほのかな香りを感じた。


「眠っているのか」

 右肩に触れる指を感じて、みつはゆっくり目をあけた。微かに身動きした拍子に、降り積もった花びらがひらひら落ちた。

「いいえ。桜を感じておりました」

 どれほどの時間がたったのかと空を見上げると、太陽は頭上にあった。幾分雲が出て、空気が湿っていた。

「弁当をつかって戻ろう。雨になるかもしれない」

「絵は終わったのですか?」

「あとは彩色だけだ」

 そう言いながら明はみつの横に腰掛け、手早く竹の皮に包んだ握り飯を出した。

外で食べると、素朴な食事も美味に感じられる。並んで二人でほおばる間にも、花は惜しみなく降り注いでいる。

たった二人で眺めるには、あまりにも美しすぎると、みつは思った。

「透様もいらっしゃればよかったのに」

 みつの言葉に、三つめの握り飯に手を伸ばしながら、明が桜を見上げた。

「私と同じくらいこの桜に思い入れがあるはずだから、本当は来たかったのだろうがな。かなり体調が優れないようだ」

 透の心中を慮って、みつはため息をついた。

透自身がそう信じているうちは、命を永らえるのは難しい。

「透もこの景色を見たかっただろうな。桜を一本折って持って帰るか」

「木を傷つけたりしたら、透様はご立腹されると思います。それに、こんな見事な桜を傷つけたくありません」

 明の提案を、みつは一蹴した。

「そうか。そうだな。そんなことをしたら、透は火を噴くように怒るだろうな」

 しみじみとした明の言葉に、みつは頷いた。視線の先に、花びらの絨毯があった。

「明様。透様には、他のお土産を持って帰りましょう」

「他の土産?」

 頷きながら、みつは微笑んだ。


 帰路に着いたのは午後二時を回る少し前だったが、天気が崩れて薄暗くなってきた。明は画材、みつは透への土産を大切に抱え、急ぎ足で歩を進めた。

 半分ほど来たところで霧がかかってきた。それほど高くないとはいえ、一応は山だ。春先はとくに気候が変わりやすい。

煙のように霧が立ち込め、視界を阻んだ。

「こんな霧は初めてだ」

 歩を緩めることなく、明が呟いた。

「こういう状態を、五里霧中というのでしょうか」

 遅れることなく、みつは明の背を追った。

「難しい言葉を、よく知っているな」

「この間、透様に教えていただきました」

「そうか。なかなか優秀な生徒だ」

 明は振り返って、みつの手を握った。

力をこめれば砕けてしまいそうに華奢な手のひらは、驚くほどやわらかだった。明の胸は甘く痺れた。

「私なら目をつぶっても帰れる。心配しなくていい」

「はい」

 包みこむ手は大きく暖かで、みつの身体から余計な力が抜けた。なにも恐れることはない。このまま明についてゆけばいい。自然にそう安堵できた。

「この山で遭難して死んだりしたら、葬式で透に何を言われるか知れたものではない」

 明の手に、少し力が入った。

「透より先に死ぬわけにはいかない」

 この人は弟を見送って、ひとりきりになる覚悟をしている。胸が詰まって、みつは暖かな手を握り返した。

 それから手を繋いだまま、黙々と歩いた。降り出したのは、館に入ってすぐのことだった。

「やれやれ。何とか間に合った」

「絵が濡れなくてよかったです」

「我々も濡れないでよかった」

 ふたりが玄関で顔を見合わせて笑っていると、きよが急ぎ足でやってきた。

「まあまあ。おかえりなさいませ。雨は大丈夫でしたか」

「ああ。雨雲よりも先に着いたぞ」

 安心させるように、明はきよに笑いかけた。

「それはようございました。お嬢様、桜はいかがでしたか」

「あんなに見事な桜は初めてです」

 頬を上気させるみつを、きよは自分の娘を見るかのような眼で見た。

「透は?」

 明の問いに、きよはわずかに眉を寄せた。

「お加減が優れないようで、横になっておいでです」

「そうか。みつ、行こう」

「はい」

「どちらへ?」

 きよに問われ、明とみつは同時に顔をほころばせた。

「透へ、見舞いと土産だ」


 二人が戻るまで、雨にならなければいい。

 透は寝台に横たわったまま、窓の外を見た。

気候のせいか微熱のせいか、身体はけだるく重い。身動きするのも億劫で、うとうとと目を閉じた。瞼の裏に薄紅が散った。

 あの桜を初めて見たのは、母が亡くなる少し前だった。あのときの母はきっと、死期を悟っていた。だから無理を押して、幼子二人と山を登ったのだろう。いまの透にはそれがわかる。

 母を思うと胸が痛む。不人情なろくでなしを愛したがために、打ち捨てられるようにこの地に住むことになった。

 それなのに母は桜の下で、えも言われぬ微笑を浮かべていた。どうしてなのか、今でもわからない。

「いま戻ったぞ。加減はどうだ? 透」

 聞き慣れた声に、透は薄目を開けた。明とみつが、明るんだ表情で立っていた。

「あのな。良さそうに見えるか」

「いいえ。悪そうに見えます」

 率直なみつの答えに、透は眉をひそめた。

「わかってるなら訊くなよ」

「訊いたのは私だよ、透。お前に土産がある」

「土産?」

 さらに眉をひそめる透の頭上で、明はふっくらとふくらんだ風呂敷包みを広げた。

 直後、桜が降った。透の髪や浴衣や寝台に花びらがふわりと積もる。

「これは……?」

 寝台に散る薄紅を、透は指先でもてあそんだ。

「あの桜だ。落ちた花びらのきれいなところを、二人で拾い集めてきた。あまりに見事に咲いていたので、お前にも見てほしいと、みつが思いついた」

 透はみつを見た。みつは悪戯が成功した子どものように、満足そうな顔だった。

「来年は一緒に行くお約束です。早く治してください」

「お前とは約束してない。明とした」

「そうだったな。じゃあ来年は、みつと三人で行こう」

 不覚にも目頭が熱くなって、透は戸惑った。人前で涙するなど、自尊心が許さない。慌てて顔をそむけた。

「花びらを無理に落として、桜を傷つけたりしなかっただろうな」

 透は、普段通りの皮肉な口調を心がけて言った。二人に礼を言うのは、最期の一回だけでいい。

「大丈夫だ。枝を揺らせばもっと花びらが落ちるのではないかと提案したが、みつに止められた。最初、桜を折って持って帰ろうと提案した時も、即座に却下された。お前が立腹するだろうと」

 透は一気に表情を険しくした。

「当たり前だ。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と言うだろう。それ以前に、木を折るなんて、そんな野蛮な真似をだな……」

「わかってるわかってる。結局しなかったのだから良いだろう」

 宥めるようにして明が透の非難を遮っていると、扉をノックする音が室内に響いた。

「まあ。これがお土産ですか」

 入室してきたきよが、目をみはる。

「見ろ、この有様を。この二人を野放しにしておいたら、何をされるかわからないぞ」

 険しい口調でも、透の目は笑っている。

「またまた。本当は嬉しかったくせに」

「透様は素直じゃありませんものね」

「お三人とも仲がおよろしいのは、よく分かりました。斎藤先生がお見えです」

 三人の会話を、きよが遮った。

「ああ、先生が見えたのか。すぐにお通ししてくれ。私たちは遠慮しよう」

 明の言葉にみつは頷いた。

退室するとき、小柄な男性とすれ違った。白髪交じりの髪は短く刈られ、温和な顔だちをしている。歳は六十歳半ばに見えた。仕立ての良い洋装で、大きな皮鞄をぶら下げていた。

「斎藤先生。いつもご面倒をかけます」

 明はぺこりと頭を下げた。みつも丁寧にお辞儀をした。顔を合わせるのは初めてだが、透の主治医の名が斎藤であることは、きよからきいていた。

「おや、明様。お元気そうで何よりですな。そちらのかたが……?」

 やわらかい声に、みつは顔を上げた。声と同じ優しい表情に行き当たり、みつも表情を和らげた。

「はい。お初にお目にかかります。みつと申します」

 もう一度お辞儀するみつに会釈を返すと、斎藤は入室していった。

彼が一瞬振り返ってみつを見たことに気付いたのは、きよだけだった。


「それにしても、あれほどまでに似ていらっしゃるとは」

 診察を終えて館を出るとき、見送りに出たきよに斎藤は小声で呟いた。

「初めてお会いしたときには、わたくしも驚きました」

 きよも囁いた。それから示し合わせたように、階上を見上げた。

「あれから何年になるのでしたか」

「めい様がここに初めていらしたのは、もう二十年以上前でございます」

「そんなに経ちましたか」

 しみじみと答え、斎藤はため息をついた。

 二人はしばらくの間、それぞれの思いに沈んだ。

「めい様のぶんも、透様と明様がお幸せになれればよいのですが」

 きよが漏らした言葉に、斎藤は深く頷いた。脳裏には、透と明を取り上げた日のことが蘇っていた。

 斎藤が鎌倉で診療所を開業してから三十年経つ。様々な患者を診てきたが、双生児とその母は、最も印象深い患者だった。

「めいと、私の息子たちを、宜しくお願い致します」

 そう言って深々と頭を下げた融の姿を、斎藤は今もはっきりと思い出すことができる。めいが出産した直後のことだ。

 引き裂かれた家族を痛ましく思い、それから常に気をかけてきた。透が、めいと同じく蒲柳の質だったせいもある。

 双生児はいつのまにか大きくなり、立派に成人した。明は画才にも恵まれた。

それでもずっと気にかけていた。二人がこれからどうなるのか、いまでも行く末を案じている。

 彼らの母とよく似た面差しの娘が救いになることを、祈らずにはいられなかった。


「ありがとう」

 明の唐突な言葉に、台所へ向かおうとしていたみつが振り返った。彼女の手には、花びらを持ち帰った風呂敷がある。もともと弁当を包んでいたものだ。

 明は自室の手前に立ち、みつを見ていた。優しい眼をしていた。

「みつのおかげで、透はうれしそうだった。泣く一歩手前だったぞ、あれは」

 みつは微笑んだ。

「透様が泣くところなど、想像もつきません」

 明も少し笑った。

「鬼の目にも涙というだろう」

 みつの笑みが濃くなった。

「わたくしも、お礼を申し上げます。あんなに綺麗な、お二人にとって大切な場所に連れて行って下さって、本当にありがとうございました」

 そう言って丁寧に頭を下げてから、ゆっくりと階段を下りていった。

 立ち去るみつの背を、明はじっと眺めていた。礼を言いたいのは自分だった。

 あの桜はいつも、母を連想させた。

 初めてあの場所に行った日のことを、いまでもたまに思い出す。

身体の弱かった母が、あの日は確かな足取りで、山の頂まで歩ききった。そして桜の古木の下で、柔らかく満ち足りたような笑みを浮かべた。

幼かった自分は、そんな母の表情に嬉しくなった。いつもどこか悲しげだった母が、心から幸せそうだったからだ。

歳を重ねてからは、あの日の母を憐れむようになった。

捨てた男を慕い続けて、思い出の中でしか微笑めなかった母が不憫だった。

魔的な美しさに魅せられ、毎年のように足を運んでいたが、無心に花に酔うことはできなかった。若くして亡くなった母を悼み、父を恨んだ。

 これからは違う。

母を忘れることはもちろんない。

それでも、あの桜を前にしたとき、自分はまず、みつを思い出すだろう。

 降り注ぐ薄紅のなか、声もなく涙を流すみつや、髪や肩に花を積もらせながらまどろむみつ。地面を埋め尽くす花びらを熱心に拾いあつめる、子供のようなみつ。

 あの華奢な手のひらに、もう一度触れたい。

 明は深くため息をついた。


「それにしても、漢字って不思議ですねえ、透様」

九月の空は青く晴れ渡っていた。

みつは藤棚の下で、透から教わった漢字の復習をしていた。昼下がりの庭は心地良い。

「藪から棒になんだ」

 透は裏庭の木を剪定しながら応じた。

春先は体調を崩していた透だが、蒸し暑い夏を乗り越えて秋を迎えた今は、だいぶ持ち直していた。

爽やかな気候のせいか気分も良い。昼食もいつもより食べられた。

「ひらがなと違って、漢字は、何通りもの読み方ができますでしょう? そう思うと、不思議ではありませんか」

 丁寧に漢字の書き取りをしながら、みつはゆっくりと答えた。

「まあな。木という漢字も、もく、ぼくと読めるし、空も、くう、から、などと読めるな」

 枝ぶりを眺めながら、透は答えた。

「それに、透明というこの名も、とうめい、と読み換えることができる。存在を抹消された私たちに似合いの名だ」

 みつは透に視線を当てた。

「とうめい?」

「透き通って、目に見えないもののことだ」

 そう言われてみつは、透明、と紙に書いてみた。

「良いお名前ですね」

「どこがだ」

 透は苛立たしげに振り返った。

みつは他意のないおっとりとした顔で、自らの書いた文字を眺めていた。

「融様のとう、めい様のめい。お二人のお名前を組み合わせてできたお名前ですわ」

 なにを言われたのかわからなかった。思考をさまよわせて、みつの言葉を理解した。

「偶然だろう。当て字もいいところだ。だいたい融とめいからとったのなら、とおめい、という名になる」

 ありえないことと、透は鼻で笑った。

「そうでしょうか」

 みつが小首を傾げていると、きよが急ぎ足で来た。

「お邪魔をしてすみません。お嬢様あてに、お手紙が届いております」

 自分に手紙を送ってくる相手は限られている。融の顔が浮かんだ。

「重文様からです。封筒に至急、と書いてございます」

 きよに礼を言いながら、みつは内心首を傾げた。親しくしてくれていたとはいえ、名ばかりの義兄が、自分に手紙を書く理由が思いつかなかった。

透はきよの声が聞こえていないかのように作業を続けている。きよは静かに立ち去った。

 手触りの良い封筒に、流れるような文字で、宛先とみつの名が書いてあった。裏面には重文の署名が記されている。 

きよの言うとおり、表面の一番目立つところに、赤い文字で至急と書いてある。言い様のない不安を覚えて、みつはもどかしく封筒を破った。

みつが手紙を読む間も透はなにも尋ねず、無関心を装った。

自分たちを捨てた父や、父の庇護を受けている異母弟などと関わりたくない。規則的に手を動かした。

手紙を読み終えたみつの横顔が、蒼く強張っているのを見ても声をかけなかった。なにが書いてあろうとも、自分に関係のないことと割り切りたかった。

張りつめた空気を破ったのは、能天気な明の声だった。

「そろそろ茶でも飲まないか。ハナがうまそうな焼き菓子をこしらえたぞ。おや、なにを読んでる、みつ? 透からの恋文か」

 透はがっくりと脱力した。

「こんな至近距離にいて、なんでわざわざ文なぞしたためねばならんのだ。言いたいことがあれば直接言うわ」

「ははあ。これから直接求愛するところだったのか。邪魔をしてすまなかった。邪魔者は焼き菓子を食ったのち、すみやかに馬に蹴られてくる」

「今すぐ蹴られてこい」

 いつもなら会話に加わるであろうみつは、相変わらず硬直している。ようやく異変に気付いた明は、表情を少し改めた。

「どうした、みつ? なにかあったのか」

 大股でみつに近寄って、屈みこむ。みつはなにも答えない。握りしめた便箋に皺が寄っているのを見咎めて、明は紙上に目を走らせた。

 読み終えた明の顔に、皮肉気な表情が浮かんだ。

「透。我々のお父上が危篤だそうだぞ」

 みつの背が、ぴくりと震えた。


「父? 誰のことだ」

 冷ややかな声で透は答えた。顔つきも、それに見合ったものだった。

「櫻澤伯爵だよ、もちろん。我々の弟君にして次期櫻澤伯爵殿が、我々に会いに来いと言っている」

 明は立ち上がって、透の傍へ歩み寄った。

「とんだ戯言だ。私にはお前以外に血縁の者などいない。なぜわざわざ他人に会いに東京くんだりまで行かねばならんのだ」

 吐き捨てるように言いながら、透は手にしていた剪定鋏を地面に叩きつけた。

明は宥めるように、油絵具で汚れた手で透の肩を叩いた。

「物にあたるな。鋏に罪はない。それに誰が行くと言った。行くわけないだろう」

「……いらっしゃらないのですか」

 みつの口から、ぽつりと問いがこぼれた。透と明はみつに視線を走らせた。みつも血の気の失せた顔を緩慢に上げて、二人を見ていた。

「いらっしゃらないに決まってるだろ。なにを考えているんだお前は」

「みつが行きたいのなら止めない。ただし、透も私も行かない。行くのなら、ハナを連れて行きなさい」

 透と明の答えに、みつはぼんやりと問いを重ねる。

「どうして、いらっしゃらないのですか」

 透と明は揃って呆れた顔をした。

「秘密裏に処理された私と明が、のこのこ顔を出せると思うか。お前と同じくらい愚かな次期ご当主様がなにを血迷ったのかは知らないが、現伯爵様だって、我々に会うつもりなど毛頭ないだろう。我々だって願い下げだ」

 一息にそう言い、透は呼吸を荒くした。色白な顔は朱に染まっている。

「……愚かなのは、透様と明様です」

 あまりに静かな反論に、透と明は怒るよりも呆気にとられた。みつはゆらりと立ち上がった。

「お二人に、お目に掛けたいものがございます」

 そう言って、滑るように歩き出した。

透と明は訝しく視線を交わしたあと、みつの背を追った。


 みつが現在使っている部屋は透や明の部屋の傍にあるが、二人が入ってくるのは初めてだった。明も透も、自らの住まいとはいえ、婦女の部屋にずかずか入っていく気はしなかった。

みつも二人を招きはしなかった。私的な領域に踏み込まれるようで厭だった。

そんなこだわりはどうでもいい。なにをおいても、今は融の気持ちを二人に伝えなければならない。

重文の手紙には融が胃病で倒れたこと、症状はかなり重く、いつ何が起こってもおかしくないと医師に言われたことが、まず綴られていた。

最後に融と向き合った時、確かにめっきり痩せていた。あれは過労や心労のせいだけではなく、病のためだったのだろうか。そう案じた。

病の床にある融が重文にめいと双生児のことを告げたのは、医師の診断があった日のことだったそうだ。

大きな驚きをもって事実を受け止めた重文だが『やはり、と腑に落ちた』とも、したためられていた。冷淡な夫婦を一番間近に見ていた重文は、薄々なにかを感じとっていたのだろう。


『父は、透さんと明さんに会いたがっている。無論みつとも。

知らなかったとはいえ、お二人の犠牲の上に甘んじていた自分が願えることでないと、百も承知だ。

それでも父の望みを叶えたい。

みつからご両名にそう伝えて下さるよう、御願い申し上げる』


 重文の文を思い返しつつ、みつは手箱をあけた。瑪瑙のかんざしが視界に飛び込んで、息苦しくなった。涙がこぼれそうなほど心配だった。

今は感情に振り回されている場合ではない。自らをそう叱咤しながら、みつは融からの手紙を取り出した。指先が微かに震えているのに、そのとき気付いた。

 部屋の入口に所在なく立ち尽くしている透と明に無言で手紙を差し出すと、みつはその横をすり抜け出て行った。

融の気持ちをどう受け止めるのかは、透と明に委ねるべきだ。

融の気持ちがどうであれ、彼らが味わってきた孤独や悲しみは想像に余りある。二人がどういう結論に達しても、自分はそれを受け入れるしかない。

そう考えながら、みつは足早に階下に降りて、至急東京へ旅立つ旨、きよに伝えた。


 きよは素早かった。その日の午後四時に鎌倉を立つ電車の切符を手配し、人力車を呼んだ。ハナも、急な旅立ちの準備に追われた。

 あと三十分でここを出なければならない。みつは足早に階段を上った。

自室に戻ると、明が立ち尽くしていた。透の姿はない。

 着替えを見繕って風呂敷に包みながら、みつは声をかけた。

「まだ、ここにいらしたのですか」

 手を動かしたまま振り向きもしないみつの背に、明は問い掛けた。

「櫻澤伯爵からの手紙は、いつ届いた」

「わたくしがここにきてから、すぐ」

「どうして黙っていた」

「なにをです」

 みつはようやく手を止めて振り返った。

明はみつから一メートルほど離れたところで立ち止まった。明と目線を合わせるように、みつとすっと立ち上がった。

「なにもかもだ。どうして母は、なにも言わずに逝ってしまったんだ」

 自分たちが父に疎まれて捨てられたわけではないことも、愛されていたことも、守られていたことも。

 ずっと知らなかった。母を含め、そんなことは誰も言わなかった。

「黙って身を引くことが、めい様にとっての愛だったからではありませんか」

 静かな声でみつは言った。

自分とめいは同じだった。違う人間でも、同じ答えに辿りついた。めいの気持ちを代弁できるのは自分だけと確信していた。

「お父様がめい様を愛するのと同じくらい、めい様はお父様を愛しておられました。めい様が傍にいれば、お父様は全てを失うことになったでしょう。自分のせいでそんなことになるのは耐えられない。それならば自分も子も、愛しい人の人生から消えるべきだ。そうご判断されたのだと、わたくしは思います」

 明はみつの両腕を掴んで目を覗き込んだ。

怖いほど真剣な表情で尋ねる。

「父は、母を本当に愛していたのか? 遊びや一時の戯れではなく」

 ひるむことなく、みつは明を見返した。

 透と明は十九歳で、年が明ければ成年に達する。五つも年下の自分が差し出がましい口を利くことなど、出過ぎたことかもしれない。

それでも答えを躊躇わなかった。

「はい」

 短い答えだったが、それで充分だった。明は深く眉を寄せた。

「色々なことが、あまりに急すぎる。父を赦せるかどうか、わからない」

「お会いになれば、わかるかもしれません」

 見つめ返す黒々とした瞳に、自分が映っていた。ゆっくりと頷く自分を、明はみつの瞳の中に見てとった。


「私は行かない」

 支度を済ませた明とみつを前に、透は短く答えた。自室の長椅子に寝そべったまま、どちらとも視線を合わせようともしない。

「だけどな、透。今を逃せば、もう二度と会えなくなるかもしれないんだぞ。一度くらい……」

 そこまで言って、明ははっとした。融を慕うみつの前で、死を匂わせるようなことを言うべきでないと自省した。

「くどい。行かないものは行かない。お前と私が、二人揃ってなど行けるものか」

 透は面倒臭そうに言った。

じっと黙って透を見ていたみつは、透と明が気付かないほど微かに、息をのんだ。

「そろそろ出ないと時間がないぞ。それとも行くのをやめるのか」

 透の言葉に、明がなにか返そうとした。それを遮るように、みつが口を開いた。

「いいえ。それでは、わたくしと明様で、透様のぶんも、お見舞いして参ります。なるべく早くに戻ります」

 あっさりとそう述べて、小さく頭を下げる。

「さ、明様。参りましょう」

振り返りもせず、みつは足早に部屋を出て行った。

「あ、ああ」

 促されるまま、明も歩き出した。透は微動だにしなかった。

「いいのか、みつ」

「はい」

 みつは短く答えた。表情をひとつも見落とすまいと透に目を注いでいて、わかった気がした。

 融とめいが、異腹とはいえ実の兄妹というだけでも、充分な醜聞だ。

そのうえ産まれた児が双生児だったとなれば、櫻澤伯爵家にどのような影響があるとも知れない。

 密かに処理した子とその親が対面することなど、通常ならあり得ない。秘密が漏れれば爵位を取り消される危険すらある。 

疎んじていると言っても、実父だ。透は心のどこかで無意識に父を、そして櫻澤家を案じたのではないか。

この推測を口に出せば、透に気兼ねして、明も行くのを止めてしまうだろう。せめて明だけでも融に会わせたい。

みつは口を噤んだまま、三田へ戻った。


「みつ。鎌倉に帰ろう」

 三田の屋敷に着いて人力車を降りた直後、明が呟いた。みつは目をむいた。

「なにをおっしゃっているのですか。ここまで来たのですよ。あとはこの門と玄関をくぐるだけです」

「くぐるだけって、それが大変なんだ」

 珍しく弱音を吐いて、明は下を向いた。

藍の袷と同系色の羽織は、きよによって折り目正しく丁寧に手入れされているが、豪邸を前にするとみすぼらしく感じられた。

 屋敷はみつが最後に見た時と変わらない。豪華絢爛でよそよそしかった。到着は午後九時を回っていたが、広い屋敷は煌々とした灯りに照らされている。

短い時間でも、かつてはここに身を置いていた。それなのに、みつの胸にはなんの感慨もなかった。

いつしか透と明のいる鎌倉が、自分の住処になっていた。そう思いながらみつは、俯く明の手を取った。

「大丈夫ですわ。わたくしがおります」

 励ますように、ほんの一瞬だけ強く握りしめる。すぐに離れたのに、手のひらの上にお互いの体温が残った。

 明はみつの瞳を覗き込んだ。みつは黙って頷いた。

本当はみつ自身、躊躇いがある。

豊かな黒髪に瑪瑙のかんざしはない。めいの代わりでなく、自分自身としてここに来た。それで良かったのかどうかわからない。

「さあ、参りましょう」

 それでもみつは、真っ直ぐに歩き始めた。


大玄関では、重文が二人を待ち構えていた。最後に会った時より、背が伸びていた。

「みつ。元気そうだ」

 重文は顔をほころばせた。

 別れたときの憔悴しきった姿が心に残っていて、ずっとみつを案じていた。

七か月ぶりのみつの顔には、融を案じる気持ちゆえか憂いがある。それでも表情からは生気があった。

重文の暖かい笑みにつられて、みつも微笑んだ。

「ただいま戻りました。重文お兄様もお元気そうですね」

「ああ。それよりみつ。こちらの方が……?」

重文は明に視線を投げかけた。明の表情は硬い。ぺこりと頭を下げた。

「はい。明様です。透様は体調が優れず、ご一緒できませんでした」

「夜分に申し訳ない。石井明です」

 明とみつは不思議なほど調和している。まるで一対の雛人形のようだ。大きな目や、肉感的な厚いくちびるなど、どことなく造作が似かよっているからだろうか。

そんなことを考えながら重文は、透と明に対面したらまず言おうと決めていた言葉を、ゆっくりと口にした。

「あなたは、櫻澤明と名乗るべきです。私の兄なのですから」

 不遇の兄たちの話を聞いたとき、重文は彼らを受け入れることにした。

 愛情の薄い両親とはいえ、自分には家族がいて、好きなように生きることができた。

行きたい場所に行き、学びたいことを学べた。数多くの、良き友人たちにも恵まれた。

それと引き換え透と明は、十数年間も幽閉されているような日々を送らざるを得なかった。

これから一生かけて、彼らの助けになろう。そう決意していた。

明は重文をまじまじと見た。

招かれたとはいえ、こんな言葉で出迎えられるとは思ってもみないことだった。

道中みつから、重文は自分より二つ年下と聞いた。この上品な男も自分の弟であると思うと、不思議だった。

 みつは表情を和らげた。重文の人柄はよく知っている。いかにも彼らしいと思った。

「いらした早々で申し訳ないのですが、父が待っています。さ、こちらへ」

 みつと明は、一度ゆるめた表情をまた引き締めた。みつはただ、融を案じていた。少しでも軽い症状であることを祈った。

 明は、意識的には初めて対面する実の父に、期待と恐れを抱いていた。

どういう期待で、なにを恐れているのか、自分でもよくわからない。

 それぞれの感情を胸に、二人は重文に案内されるまま、融の寝室へと向かった。


 みつの願いとうらはらに、融の状態は深刻だった。

 寝台に横たわる体は最後に見た時よりさらにやせ細り、ひとまわり小さくなったようだった。肌はかさかさと艶がない。顔色も悪く、頬の肉がこけていた。

「みつ。戻ったか」

 口を開くと、胃を病んだ者独特の臭気があった。

「はい。戻りました、お父様」

 それだけ言うのが精一杯だった。なんとか笑顔をつくった。予想以上に弱った融を前にして、本当は泣きだしたかった。

「さ、明さん」

 重文にそう言われて、明は一歩踏み出し、融に近寄った。

目の前の男は弱々しく、そして優しい眼差しで自分を見ている。寝台に横たわる痩せこけたこの男と、憎み続けた男は、頭の中で一致しない。

 自分たちを捨てた冷酷な男を憎んできた。事実を知った今でも、わだかまりはとけない。

そう思った直後、融の両眼から涙があふれた。明は戸惑いながら融を見つめた。

「二人きりにしてやろう」

 重文はみつに囁いた。

「はい」

ずっと会いたいと願っていた。もっとそばにいたい。

そう思いながらも、みつは重文と一緒に部屋を出た。扉を閉める瞬間ちらりと振り向くと、融が明の手を取るのが見えた。

そして明の頬にも、透明なしずくのこぼれる瞬間を見た。


 重文とみつは、かつてみつの使っていた部屋の長椅子に並んで座った。

一年近く住んでいた部屋は懐かしかった。今夜はここに泊まる。明には、この向かいにある客間が用意されていた。

「父と会って驚いただろう」

 重文が独り言のように呟いた。

「みつが鎌倉に行ってすぐ、体調を崩した。本人の希望で知らせなかったが、最近になって透さんと明さんに会いたいと言い出した。そのとき、全てを聞いた。鎌倉の叔母のことも、なにもかも」

「そうでしたか」

 みつはぼんやりと答えた。様々な感情が渦巻いて、思考がまとまらない。

「すべてを知って、父と母を赦せた」

 みつは重文に目をあてた。

「お母様は、今どちらへ?」

「自室にこもっている。同じ屋敷にいても、かたくなに父を見舞わない。おそらく、最期まで拒まれるのが怖いのだ」

 みつを見返しながら、重文は言葉を連ねた。

「みつは正しかったな。母はずっと、報われない愛に苦しんできたのだろう。父も母も憐れだ」

 重文は変わった、とみつは思った。ほんの半年離れていただけなのに、ひどく大人びた。

みつにとって重文は、家族の情に恵まれず、同じような喪失感を知る、実兄同然に大切な人だった。

 みつは重文の手に、自分の手のひらをそっと重ねた。

「お母様を、お大切になさってください」

 重文は、この白く小さな手のひらを強く握って、二度と離さずにいたいと思った。

みつに対して抱く淡い感情がなにか、今の重文は自覚している。同時に、それを叶えてはいけないことも。

自分は櫻澤を継ぎ、この家も、爵位も守らねばならない。二十数年前の父の気持ちが、誰よりも理解できた。

父が守ってきたものを自分も守ってゆく。それが自らに課せられた運命だ。誰も傷つけることのないよう、みつとは家族として結ばれよう。そう決めていた。

扉を叩く音に、みつの手は自然に離れた。

「みつ様。旦那様がお呼びです」

 現れたハナにうながされ、みつは立ち上がった。立ち去る細い背を、重文は黙って見送った。


 融の寝室に明の姿はなかった。融は寝台に上半身を起こし、みつに視線を注いでいる。

「無理をなさらないで、横になってお休みください、お父様」

 静かに扉を閉めながら、みつは言った。

「みつに、礼を言わなければな」

 二人きりの空間に、融の微かな声が響いた。みつは枕元に歩み寄って、両膝をついた。

「どうしてですか」

 優しく尋ねると、融は指先をみつの頬にあてた。

「会いに来てくれて、明まで、連れてきてくれた。透にも会いたかったが、私には、そこまで望めない。充分だ」

「透様も、本当はここに来たかったのだと思います」

「そうか」

 融はみつの頬を軽く撫でた。その手は痩せて筋張っている。胸が締めつけられたが、みつはなんとか微笑みを作った。

「お父様。教えて頂きたいことがあるのです」

「なんだ」

「透明様のお名前は、融様のとお、めい様のめい。お二人の名前から取ったのですか?」

 病み衰えた融の顔が、ふわりと和らいだ。

「その通り。私が付けた。鎌倉の、桜の森で、めいに伝えた。あのときは、まさか双生児が生まれてくるなど、思いもつかなかったが。私とめいの血が二人分も残って、嬉しかった」

「そうですか」

 みつの顔も、自然にほころんだ。帰ったら必ず透に伝えよう。そう思った。

「ひとつだけ、願いをきいてもらえないか」

 薄く目を開いて、融が呟いた。

「もう一度だけでいい。融様と呼んでくれ」

 みつは胸を突かれる気がした。

おそらくめいが、融をそう呼んでいたのだろう。

やはり自分は身代わりでしかなかった。そう悟った。

「わかりました」

 それでもみつは、穏やかな声で応じた。融は閉じかけた目を、もう一度開いた。

「……融様」

 微かな囁きに、融の顔が明るんだ。

自分の顔に誰を見ているのかわかっていても、みつの眼差しは優しいままだった。

「ありがとう」

 もう一度そう言うと、融はゆっくりと瞼を閉じた。みつは音もなく断ちあがると、静かに退室した。


 自室に戻ろうとしたとき、向かいの部屋から重文が出てきた。今晩明が泊まる部屋だ。明が見送るように扉の傍に立った。

「お二人で、お話をなさっていたのですか」

 みつの問いに、重文は頷いた。

「妹のほかに、思いがけず兄もできたのだからな。挨拶をしていた」

 そう言うと、明に微笑みかけた。

「今度、鎌倉を訪ねてもよいですか。もうお一人の兄上にも、ご挨拶したいのです」

 明は打ち解けた笑顔で応じた。

「透は気難しいところもあるが、重文どののことはきっと気に入るだろう。ぜひいらしてくれ」

 互いに親しみを覚えている様子に、みつは出会いの不思議を感じた。

「そうさせていただきます。長々とお邪魔しました。失礼します。みつも早く休みなさい」

「はい。おやすみなさいませ、重文お兄様。ハナも早く休んで。疲れたでしょう」

 みつの言葉に、重文は軽く頷いて立ち去った。脇に控えていたハナも、よほど疲れていたらしく、素直に下がった。

 残された明とみつは顔を見合わせた。明は嘆息した。

「今日は色々なことがありすぎた。一瞬のうちに、一年くらいは過ぎた気がする」

「はい」

 みつはため息まじりに同意した。

尋常に目覚めた朝から今この瞬間まで、あまりに濃密に過ぎた。

「すこし話をしたい。疲れているだろうから、無理にとは言わないが」

「大丈夫です」

長くめまぐるしい一日に身体は疲れているが、気が高ぶっている。横になっても、すぐには眠れそうにない。明も同じなのだろう。みつはそう思った。

招き入れられた客間は広く、贅を尽くしたつくりだった。所どころに金の装飾が施され、天井には舶来のタイルが芸術的に嵌め込まれている。華やかな室内を、曲線的なフォルムのランプが鈍く照らしていた。

「ものすごい家だな、ここは」

 苦笑しながら、明は手近な椅子に座った。みつもそれにならった。

「一年近くここにおりましたが、ずっと馴染めませんでした。わたくしがいるべきところではない気がして」

 窓の外に視線を投げかけながら、みつは呟いた。三田で過ごした日々を思い出す。

あの頃はいつも、美しいけれども身の丈に合わない着物を身に着けているような心もちでいた。

もしも何ごともなく、ずっとここにいたとしたら、自分は幸せだったのだろうか。

「みつ」

 静かな呼びかけで、みつは我に返った。

「今日のことは、一生忘れない。みつがいなければ、こんな気持ちになれなかった」

 はにかんだ表情で、明は軽く頭を下げた。

「ありがとう」

 奇しくもそれは、先ほど融の口から出たのと同じ言葉だった。それが引き金になった。

みつの中に、様々な感情が溢れだした。融を案じる気持ちや、叶わない恋情、身代わりにしかなれないかなしみ。

把握しきれない、数多くの激情に翻弄された。

 あとからあとから涙があふれた。抑えようにも抑えきれない。呼吸は嗚咽になりそうだ。

 みつは立ち上がった。こんな姿は誰にも見せられない。足早に立ち去ろうとして手を掴まれた。

振り返ると、明はどこか痛むような表情を浮かべていた。そのまま抱きしめられた。

強く抱き寄せる腕を、みつは本能的に恐れた。野生のけもののようにもがき、逃れようとした。

「一人で泣くな」

 痛いほど強く抱きしめているのに、明の声は優しい。

「ここでなら、いい」

 そう言うと力を緩めて、子をあやすようにみつの背を撫でた。

 二人の背は、頭ひとつぶん違う。いつしかみつは抗うのをやめて、明の肩に顔をうずめていた。

丁寧に手入れされていても、明のきものには絵の具の匂いが染みついている。嗅ぎ慣れた香りを感じながら、みつは明に身をゆだねるように、もたれかかった。

 生活を共にして、決して短くはない時間が過ぎた。その間、明が自分を傷つけたことは一度もない。そう気付いたとき、全身から力が抜けた。

全てを投げ出しても受け止めてくれそうな頑健な身体から、衣服を通して暖かさが伝わってくる。

明の体温に包まれたまま、みつは涙を零し続けた。思い出したように嗚咽が漏れた。

身を震わせて泣きじゃくるみつを、明は黙って抱きしめた。

やがて泣き疲れた身体をいたわるように、明は指先やくちびるで、優しくみつに触れた。

欲望の行為というより、癒しを与える儀式のようだった。静まり返った密室に、衣擦れの音と二人の息遣いだけが響いた。

 その夜、みつと明は交わった。

どちらにとっても初めてのことで、手探りでお互いを確かめ合った。二人で桜を見に行ったあの日、濃い霧の中を歩いた時と同じように。

みつは最後まで明を拒まなかった。病んだ融と同じ屋根の下で結ばれるのを、罪深いとも、不謹慎とも思わない。

泣き濡れた顔も、もう恥ではない。明に泣き顔を晒すのは、これで三度目だ。みつはぼんやりそう思った。

明に抱く感情は、融に対するものとは違う。全てをさらけだしても、包み込まれる安心感がある。誰かの代わりではなく、自分のままでいられる。

融への恋情が過去になり、明に対する新しい感情が生まれるのを感じた。

全身で明に触れ、温かく鋭い痛みを受け入れるとき、抑えきれない悲鳴が漏れた。両腕で明の身体にしがみつく。

ふいに透を想った。自分が今、明とこうしているのを知ったら、透はどう受け止めるのだろう。

思考を保てたのはそこまでだった。みつは明の激しい熱に溶かされて、なにも考えられなくなった。


 窓から差し込む朝陽は澄み切っている。明は目を細めながら寝台から起き上がった。

明るんだ室内にみつの姿はない。薄闇が残るうちに部屋に戻った。

 着物を身に着けながら、明はみつを想った。

最初から抱くつもりで、彼女を招いたわけではない。ただ、父や異母弟と引き合わせてくれた礼を言おうと引き留めただけだった。

抑え込んでいた感情が弾けたのは、みつの涙のせいだ。

みつは特別だった。自分と透に親しく接してくれた、初めてのひとだった。

最初に会ったときから、不思議な懐かしさを感じていた。知っていくほど惹かれた。

みつが実父を慕っているとわかっていても、それは変わらなった。透も同じ気持ちだと気付いていても、それすら歯止めにならなかった。

予想していた拒絶はなかった。みつは全てを受け入れてくれた。

抱きしめた体は白くしなやかで、甘い香りがした。巻きつく腕の感触が、今でも鮮明に残っている。

明は寝台の上に目をやった。白いシーツに、乾きかけの真紅が数滴散らばっている。みつの純潔の証だ。

人に見られたくない。かといって洗い流すことはできない。かえって人目に付いてしまう。

しばらく考えて思いついた。消し去れないのなら、塗りつぶしてしまえばいい。

明は室内を探り、書き物机の中からペーパーナイフを見つけた。

左手をシーツの上にかざすと、手の甲に刃を当てて、素早く引く。浅い傷口から血が滲み出した。

この血の半分は、やがて死にゆく融から受け継いだものだと、ふと思った。

実父の死を目前に、みつと生を確かめ合ったことを、間違いだったとは思わない。

たとえそれが彼女にとって、過ちだったのだとしても。

濁った赤いしずくが滴り落ちる。みつの痕跡に自らの血を重ねて、明は秘密を塗りつぶした。


 みつと明は翌朝出立した。

融や重文は認めてくれても、所詮は日陰の身だ。人目に付いてはいけない。

二人に好意を持ったからこそ、明は冷静にそう判断した。

櫻澤明と名乗ることは、生涯ありえない。今までどおり石井明として生きていく。そう決めた。

みつも出立に同意した。明との一夜があっても、融を案じる気持ちに変わりはない。

できることならずっと傍にいたいけれど、自分は融にとって良いものではない。

八重のこともある。めいを連想させる自分と、めいと融の間に生まれた明が、これ以上ここにいてはいけない。

明とみつは客用の食堂で朝食を摂ったのち、辞去の挨拶を述べに、融の部屋に行くことにした。

みつはいつもより時間をかけて身支度をした。後悔はしていないけれど、数時間前まで交わっていた相手と、どんな顔で会えばいいのかわからない。

昨夜のことが現実とは思えなかったが、夢でないことは身体が覚えていた。

明は食堂でみつを待っていた。すでに腰を掛けて、ナプキンを膝に広げている。傍に控えている給仕が、みつの椅子を引いた。

「おはよう、みつ。食堂もすごいな、この屋敷は。いったいどんな朝食が出るんだ」

 明は屈託なく食堂を見回した。

 脚に細かい彫刻が施された重厚な木のテーブルに、純白のテーブルクロスがかかっている。金糸で刺繍がされていて、見るからに高価そうだ。

高い天井からはシャンデリアがぶら下がり、壁際には煉瓦の暖炉まである。

「おはようございます。朝食はきっと鎌倉と同じですよ。紅茶とトーストか、オートミールだと思います」

 腰を下ろしながら、みつは微笑んだ。なにごともなかったかのような、普段通りの明が有難かった。おかげで自分も、いつもと同じでいられる。

 向かい合って、包帯に気付いた。

「その手は、どうなさったのです」

 眉を寄せるみつに、明はこともなげに笑いかけた。

「寝ぼけて怪我をしてしまった。朝から、ハナの手を煩わせてしまった」

使用人が朝食を運んできた。温かい紅茶が白く華奢なカップに注がれる。

それから明とみつは秘密を飲み干すように、紅茶に口をつけた。


 出立を告げる明とみつに、融は静かな眼差しを向けた。

室内には三人だけしかいない。重文も、融の望みで遠ざけられている。

融の顔色は優れないまでも、昨夜とは表情が全く違う。痩せた頬に、やさしい笑みが浮かんでいた。

「気を付けて帰りなさい。透にも、宜しく伝えてくれ」

 穏やかにそう言った。

「はい、お父さん。必ず」

 明はそう答えて、小さく一礼した。

みつは、融と明の間に流れた時間を思った。

昨日の夜、二人が何を話し合ったのかはわからない。知る必要もない。父と子の関係に、自分が踏み込むべきではない。

「みつも、気を付けて」

 融の言葉に、みつも頭を下げた。

「お父様も、どうぞご自愛ください」

「ああ」

 朝の光にも、融に根差した重い病の影を拭い去ることはできない。今度こそ、もう二度と会えなくなる気がした。

悲しい予感を振り払うように、みつは静かに微笑んだ。

 退室したあと、知らずにため息が漏れた。恋情は消え去っても、融が大切な人であるのに変わりはない。

「どうした」

 明の気遣わしげな顔に気付き、みつは再び口の端を上げた。

「いえ。なんでも」

「身体が痛むのか」

 質問をとらえかねて、みつは明の目を覗き込んだ。意味を理解したあと、顔を赤く染めた。

「いえ。大丈夫です、それは」

 小さな声で、珍しく口早に答えるみつに、明は少し笑って見せた。

「昨夜のことは、どうすればいい」

「え?」

「忘れたほうが良いのなら、難しいが、そうする」

 笑顔のまま、明は尋ねた。目の奥は真剣だった。

みつは少し考えた。

どうすればいいのか、前もって決めていたわけではない。それでも答えはすぐに出た。今度はゆっくりと答えた。

「忘れなくて、いいです」

 明の眼が、ほっとゆるんだ。

「わかった」

 たったそれだけの会話でも、これから新たな関係が築かれていくことは、どちらにもわかっていた。

明とみつの短い滞在を、重文は残念がった。

「せめてもう一泊なされば良いのに。せっかくこうして会えたのですから」

 大玄関で二人を見送る段になっても、別れを惜しんだ。

「今度は鎌倉でお会いしよう。汽車に乗れば三時間ちょっとで来られる」

 明は笑顔で応じた。さりげなく言葉をつなぐ。

「このさき父に何かあっても、知らせなくて良い。私はもうここには来ない」

 重文は怪訝そうに眉を寄せた。明はさらに言った。

「父とは一生分話した。あとは全て重文どのにお任せしたい」

明の後ろに控えていたみつには、明の心情がわかる気がした。

嫡子でなくとも、現当主の血を継ぐ人間がうろつくことは、誰の為にもならない。

櫻澤を憎んでいた時であれば、この家を引っ掻き回す良い機会であったかもしれない。

しかし明はもう、融を赦している。

重文にも、明の気持ちは伝わったようだった。表情を改め、真摯な眼差しで明を見た。

「わかりました。そうさせて頂きます。兄上もみつも、お元気で。いつか必ず、鎌倉までご挨拶に伺います」

「わかった」

「重文お兄様も、どうぞお体に気を付けて。ごきげんよう」

 三人は笑顔で別れた。

家族としての始まりを予感させるような、和やかな別れだった。


鎌倉の館に着いたのは昼どきを少し過ぎたころで、透は昼食を摂り終え、部屋で休んでいた。明とみつが揃って部屋に入ると、じろりと見た。

「早く戻るとは言っていたが、それにしてもずいぶん早いお帰りだな。どうせ追い出されたんだろ」

 明は透に笑いかけた。

「違う。自分から帰ると決めた。あそこに長くとどまるのは、父や重文どのにも、私たちにとっても良くない」

 透は怪訝な顔をした。

「父?」

「櫻澤伯爵は、ずっと苦しんできた。私は彼を、父を赦す」

 透の表情が険しくなるのを、みつは静かに見守った。

「なんだと」

 唸るように呟く透に、明は笑いかけた。

「話は後だ。とにかく腹が減った。なにか食べてくる」

 明は飄々とみつを振り返った。

「みつも腹が減ったのではないか?」

「いいえ。わたくしは大丈夫です」

 どんなときでも自らのペースを保つ明に感心しながら、みつは答えた。普通ならこの状況で、食事を優先しない。

「そうか。では、私は食堂に行って来る」

 部屋を出る明の手が、みつの手に触れた。生々しい体温が昨夜の秘め事を思い出させて、みつははっとした。

「明と、何かあったな」

たったそれだけのことだったのに、扉が閉まった瞬間、透はそう決めつけた。

 みつの薄い耳たぶが朱に染まった。隠すつもりはなかったが、これほど早く悟られるとは予想外だった。

「透様。そのお話をする前に、ひとつだけ、よろしいでしょうか」

 内心の動揺を抑えつつ、みつは口を開いた。今は一番大切なことを伝えたい。明とのことは、そのあとでもいい。

「なんだ」

 えぐれるように痛む胸を無視して、透は平坦な声で応じた。

いつかはこんな日が来るとわかっていた。

みつと明は、おそらく昨日結ばれた。

自分と同じように、明がみつに特別な感情を持っているのは、わかっていた。みつが自分を選ばないであろうことも。

自分には病んだ身体のほか、なにもない。

明は健康なうえ、画才もある。人を寛がせる明るさもある。名は体を表すという好例だ。

明と一緒にいるとき、みつはいつもよりほんのすこし幼く見える。明に気をゆるしているせいだろう。明がみつに注ぐ眼差しは、どんなときでも優しく甘い。

誰よりも大切な明とみつが結ばれたときには、祝福するつもりでいた。

それなのに、実際にそうなってみると、叫びだしたい衝動にかられた。胸の奥が焼け焦げ、呼吸すら苦しい。

見苦しく動揺しないよう、透はみつの話に意識を集中させた。

「わたくしたちが昨日話したことを、覚えておいでですか」

 透の心中に気付くこともなく、みつは静かな声で話し始めた。

重文からの手紙を受け取ったのが、たった一日前のこととは思えなかった。この僅かな時間で、目には見えない様々なことが変化した。

今にして思えば、昨日あんな話をしたのは妙に暗示的だった。頭の隅でそう考えながら、みつは慎重に言葉を続ける。

「透様と明様のお名前の話です。昨夜、お父様に伺いました」

 透の推し量るような目に、みつは微笑みかけた。

「思ったとおりでした。お二人のお名前は、お父様と、めい様からとったもの。はっきりとそうおっしゃいました」

「そんな戯言、私が信じるとでも?」

 透は嘲笑おうとした。わずかに引っかかる感覚が、それを妨げた。

「戯言ではありません」

 みつは寝台の端に腰掛けた。透と目の高さを合わせ、ゆっくりと言う。

「名を考えた時には双生児とは思わなかったが、二人も生まれてきて嬉しかった。そうもおっしゃっていました」

「馬鹿か。出まかせに決まっているだろ、そんなの」

 荒々しい透の口調にも、みつは一歩も引かなかった。

「ではなぜ明様が赦したのだとお思いですか。お父様を信じたからこそではありませんか」

 透はその言葉に、はっとした。

櫻澤伯爵の人となりなど、知りようもない。ただし明のことは、誰より知っている。

直情型で単純なところはあるが、決して愚かではない。人を見る目もある。透はようやく、みつの正しさを悟った。

「わたくしを信じられなくとも、お父様のことは、どうか信じてください。お願い致します」

 深々と頭を下げるみつの豊かな黒髪を、透は呆然と眺めた。

 長い間、実父に抱いてきた激情が、行き場を失くしている。

昨日目にした父の手紙。あれが本当に、本心からのものだったとでもいうのだろうか。

軽く眩暈がした。もつれた糸が解ける瞬間は、あまりにあっけなかった。

「大丈夫ですか、透様」

 知らぬ間に透は、指でこめかみを押さえていた。視線を上げると、気遣わしそうなみつのの顔があった。長い睫毛が際立って美しかった。

初めてまともにみつを見た気がした。

 みつの細い指先が自らの頬に触れた。涙を拭われて、泣いていることに気付いた。物心ついてから、明の前でも涙を見せたことなどない。

慌てて顔をそむける透を、みつはそっと抱きしめた。

「……なにをしている」

 みつは答えず力を強めた。

明はこうやって癒してくれた。今度は自分の番だ。

やがて透が、戸惑ったようにおずおずと、自分の背に手をまわすのを感じた。

 明がしたように、みつはくちびるを重ねた。それはふしだらでも、明に対する不貞でもない。明から愛されるのも透を愛するのも、みつにとっては当然だった。

明と結ばれる瞬間に想ったのは、透のことだった。

自分の気持ちを、みつは不思議なほど素直に受け入れていた。

 初対面の印象は最低だったのに、いつしか惹かれていた。明のおおらかさや包容力を、透の不器用さや隠れた弱さを、自然に愛していた。

「だけどお前、明と……?」

 くちびるが離れて、透からそう尋ねられた時も、みつはむしろ晴れやかに頷いた。

「はい。昨夜」

透はみつから身を引きはがした。

「馬鹿者。私と明を間違えるな」

 みつは小首を傾げた。

「間違えようがありません。透様は明様と違って、口が悪くて、不器用で、好き嫌いが多くて……」

「人の欠点を、いちいち丁寧に並び立てなくてよろしい」

 憮然とする透に、みつは優しく続けた。

「だけど本当は、繊細で優しくて、かわいい人です。そういうところに惹かれました」

「あのな。それじゃあ明はどうなる」

「それは私もぜひ聞きたい」

 第三の声に、みつと透は揃って振り返った。

いつのまにか明が戻ってきていた。みつも透も、扉が開いたことにすら気づかなかった。

透は顔をこわばらせた。自分のせいで明を傷つけたくない。みつが明に責められ、諍いを起こすことも望まない。

「みつ。きよが昼食を整えて待っているぞ。でもその前に、続きを聞かせてもらえると有難い。気になって仕方がない」

 明はそう言うと、にこりと笑った。

不貞を押さえられたと緊迫していた透は、思いがけない笑顔に毒気を抜かれた。

そして、この状態でも動じない弟に、呆れるのを通り越して敬意すら覚えた。

みつも落ち着き払っていた。

「明様には全てをさらけ出せます。おそばにいると、安心できます。お二人とも、同じくらいにお慕いしています。それではいけませんか」

いけないに決まっていると透は思った。

しかしこう堂々と宣言されると、みつが正しいような気すらしてくる。

「私は構わない。透はどうだ」

 あくまで泰然と構える明を、透は珍しい生き物を前にしたときのような目で見た。

「お前がいいなら、私もそれでいい」

「それは良かった。さて、絵の続きでも描くかな」

のんびりとそう言うと、明はふらりと出て行った。

「わたくしはちょっと失礼して、食堂へ行って参ります。せっかくきよが用意してくれているので」

 みつもするりと出て行った。

失う覚悟をしていた愛する女を、あきらめなくてもよい。思いがけない歓びに、胸が震えた。

生きてさえいれば、どんなことも起こりうると、かつてみつは口にした。本当にその通りだった。

 自分と明は、透明というひとつの名を分け合って名乗っている。ひとりの女を分け合って愛するのも、もしかしたら自然の成り行きなのかもしれない。

ひとり笑みをたたえながら、透はそんなことを考えた。

その日を境に、みつは明と透の事実上の妻となった。今まで二人が眠っていた寝室に、みつも加わった。



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