博多の夏
百五十万都市、福岡・博多には、七百年以上も続く伝統的な祭りがある。
毎年、七月一日から七月十五日にかけて行われる、博多祇園山笠である。
博多祇園山笠の起こりは、諸説あるものの、一般に広く知られているのは、一二四一年(仁治二年)に博多で疫病が流行。そこで、宋からうどんや羊羹などを持ち帰り、伝えたことで知られる承天寺の開祖で住職の正一国師(円爾)が施餓鬼棚に乗り、祈祷水と呼ばれる甘露水を撒いて街を清め、疫病退散を祈祷したのが始まりだという。これが災厄除去の祇園信仰に繋がり、山笠神事に発展したのだ。
その後、山笠は博多の歴史と共に歩んでいく。
安土桃山時代、博多は大陸との貿易の拠点となり栄える。一方、それまで九州を支配していた島津氏と、全国統一を目論む豊臣氏の戦乱に巻き込まれ、博多の町は荒廃。山笠もこの博多の荒廃に左右される。
その後、豊臣秀吉が博多の町を区画別にグループ分けをし、復興を図る太閤町割りが行われた。その自治組織は「流」と呼ばれ、今の山笠にも受け継がれる。
それから数百年、真珠湾攻撃を経て太平洋戦争が開戦。日本は専ら戦争に趨る。日本全国でそうであったように、博多の人々の生活は貧しくなる。しかし、山笠は規模を縮めながらも続けたのだ。博多の人々は、山笠へ並みならぬ思いを抱いていた。しかし、その思い空しく、福岡は一九四五年(昭和二〇年)六月十九日から二十日にかけて、その頃全国で相次いでいた、アメリカ軍による空襲攻撃を受ける。福岡大空襲と呼ばれるその空襲で、山笠の法被等が焼失し、中止を強いられる。
その二ヶ月後、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えた。国民は、やっとの事で食べ繋ぎ、まさに日々を生きていくのがやっとだった。そんな中でも博多の人々は、山笠を忘れない。山笠(神輿)はベニヤ板で作った代物ではあったが、その山笠には秀吉の姿が描かれ、子供が担ぎ、焼け野原ではあるが博多を舁き回った。豊臣秀吉の姿が描かれたのは、かつて戦乱に巻き込まれ、荒廃した博多を復興に導いた英雄として、当時の様な復興を再びという思いからだろうか。山笠が本格的に復活するのは、一九四八年(昭和二三年)だった。
戦前も波乱があった。一八九八年(明治三一年)、福岡県知事から山笠行事の中止を求められた。時は、文明開化と呼ばれる時代。勿論、福岡も例外ではなく、電気が普及し、博多の町には電線が張り巡らされた。一方、当時の山笠は高さが十メートルもあり、町のどこからでも確認できるほどだった。電線は、山笠に配慮し張り巡らされたが、十メートルもある山笠はやはり接触し、切断に至ったこともあり、危険と判断されたのだ。そこで、今までの十メートルの山笠は「飾り山」とし、街を舁き回る為の山笠として、高さ三メートルほどの「舁き山」と呼ばれる山笠を用いることにした。一九一〇年(明治四三年)に路面電車(西鉄福岡市内線)が開通すると、飾り山と舁き山の区別は鮮明になる。その後、一九七九年(昭和五四年)に西鉄福岡市内線が廃止されると、規制は緩くなり、四・五メートルの舁き山が現在も用いられる。
このように、博多祇園山笠は博多と共に進化し、時に退化し、変化を遂げた。そして、二〇一六年(平成二八年)には、ユネスコの無形文化遺産にも認定される。
警視庁捜査一課の城戸警部は、少々ではあるが、山笠に触れた事が有る。城戸は、熊本に生まれ、上京まで両親の元に留まっていた。城戸の従兄弟が福岡に住んでいて、休みになると、たまに遊びに行っていた。城戸が小学校四年生の時、いつものように福岡の従兄弟の元にいる時、「山笠を見てみないか」と誘われた。その日は七月十五日で、山笠の見せ場ともいわれる「追い山」の日だった。
追い山とは、四時五十九分に、大太鼓の合図と共に、一番山笠が博多の総鎮守である櫛田神社に入る「櫛田入り」をした後、夜の明けた博多へと繰り出すという山笠の有終の美を飾るイベントだ。これが始まったのは、江戸時代に遡る。一六八七年(貞享四年)、それまでの様に山笠の華美を競っていたところに事件が起こる。石堂流(現在の恵比須流)が、東長寺で休憩していた土居流を追い越したのだ。そして、二つの流による 熱い駆け引きを繰り広げたのだが、これが町人の評判になり、華美だけでなく速さを競う追い山に発展した。以来、戦後の一部を除くが、この熱いクライマックスに多くの観衆が集まった。
その追い山を、城戸は従兄弟に連れられて、櫛田神社で見物した。先述の通り、一番山笠が櫛田入りするのは、明朝五時近くである。小学四年生の城戸は、目をこすりながら櫛田入りを待っていた。しかし、眠気は一気に覚める。櫛田神社に響く櫛田入りの合図の大太鼓、それに負けぬ山笠を担ぎ、駆ける男たちの大きな掛け声。山笠を止めた男たちは、「博多祝い唄」を大合唱した。大合唱を終えた男たちは、再び「おっしょい」の掛け声と共に、夜明けの町へと消え去った。
城戸は、山笠の「追い山」を見て、迫力満点で、人々は活気に溢れていて、こんなにも素晴らしい祭りがあるのか、と子供ながらに感動した。当時、城戸の住んでいた熊本市には、山笠のような類の祭りがなかったので、新鮮だった。その後も、福岡への出張が山笠の期間と被ると、飾り山を見るために設置場所に足を運んだりした。そのくらい子供の時に見た追い山に魅力を感じ、思い出として焼き付いているのだ。すっかり山笠の虜となってしまった。
しかし、今は山笠とは疎遠になってしまった。福岡に行っても、山笠の期間中でないことは多く、そもそも、福岡に行く機会が減ってしまったのである。だが、城戸は思わぬ形ではあるが、山笠と再会を果たす事になる。今、あの活気に溢れていた祭りの裏で、権力に縋り、富を追い求め独占し、殺人に至るなど、城戸は知る由もないのである。
年が明け、暫く経って一月二十日の午後七時頃、城戸は、その年初めて殺人事件の知らせを受け、川上刑事、山西刑事、門川刑事、椎葉刑事を連れ、現場に向かう。現場は、上野公園内のトイレで、そこで男の死体が見つかった。
警視庁から上野公園まで向かう道中の東京は、すっかりお正月気分も抜け、普段通りの日々に変わりなかった。
現場に着くと、帰宅途中のサラリーマン達が、野次馬となって群がっていた。
城戸は、その野次馬をかき分けて、黄色の規制線をくぐり、事件現場へと向かった。事件現場は、上野公園内の大噴水近くのトイレである。先に現場に到着していた、南条刑事と小国刑事が、死体の見つかった多目的トイレへと城戸を案内した。
現場には、一人の男が血を流し、仰向けに倒れていた。城戸が、腹部にある二つの傷を確認すると、
「傷は、腹部にあるこの二つのみです」
と南条が言った。
「死亡推定時刻は?」
と城戸が言うと、近くにいた検死官が、
「今のところ、死後三十分というところだから、六時半頃あたりかと」
と答えた。
城戸は、今一度死体を見た。すると、被害者は法被を着ていて、それには「博多祇園山笠 西流」と書かれている。
「被害者の所持品から、身元は佐々木康平、五十歳。住まいは、福岡県福岡市です」
と、被害者の免許証を見ながら、小国が言った。
「この法被、博多祇園山笠と書いてあるが、何かわかっているか?」
城戸がそう質問し、南条が答えた。
「博多祇園山笠というのは、福岡の博多で毎年七月に行われる、伝統的なお祭りで、今日はこの上野公園の噴水広場で、『全国お祭り博覧会』というイベントが開催されていて、そこに博多祇園山笠のブースがあります。被害者の佐々木康平は、そこに参加していたと思われます」
「それなら、そのイベントで山笠のブースに出ていた人間を、全て抑えておいてくれ」
「それが、イベントは五時までで、そのブースは既に片付けられていました。なので、他の人間の行方は分かりません」
「そうか。まあ、取り敢えず、福岡県警に被害者の身辺捜査の依頼をしておこう」
城戸がそう言うと、門川が一枚の紙を持ち、城戸に渡した。
「警部、被害者が右手に握っていた紙なんですが、中を見て下さい」
そう言われた城戸が、四分の一の大きさになった紙を開くと、中身は新聞紙の切り抜きで作られた、所謂怪文書と呼ばれるものだった。内容は、次の様なものだ。
〈俺は、博多祇園山笠振興会の弱音を握っている。バラされたくなかったら、三百万を支え。 山笠を恨む男より〉
「これ、何なんですかね?」
門川が、城戸に尋ねる。が、城戸も詳しいことを知るはずもないので、「わからん」と答えるしかなかった。取り敢えず、警視庁に持ち帰ることにした。