03 狩人の耳は猫の耳(1)
「いやー、実に平和だ」
国内の各主要施設の視察を終えて、もはや定位置と化した玉座の元へと戻った妾は心の底からそう口にする。
最近は勇者を急かすために何かと出かける機会が多かったが、妾には国を担う者としての仕事だってあるのだ。内政を投げ出してしまえば、どんなに堅牢な国であろうと内側から瓦解してしまう。
と言っても政治関連はジラルの方がよほど詳しいという理由から殆ど任せっきりになっており、妾に残された仕事といえば直接足を動かして勤勉な国民たちを労うくらいである。
ぶっちゃけこれを仕事と言っていいのか甚だ疑問に思っているが、妾が行くと誰も彼もが咽び泣いて喜ぶのでやらないよりはいいかもしれない。時折変な視線を感じたりするが、まあ気のせいだろう。
それにしても、ここまで国内でのゴタゴタがないというのはとても素晴らしいことだ。流石は識字率ほぼ百パーセントのザハトラーク。五歳から七年間の教育を義務付けた父上の徹底ぶりが伺える。国民の倫理観念もバッチリだ。
とまあそんなわけで、妾は久しぶりの平和な時間を噛みしめている。
ほんと、最近は勇者に泣かされたりネリムに揉みくちゃにされたりと散々だった。
勇者は会うたびに小さいだの貧相だのと、こっちのコンプレックスを平気でつっついてくるから最悪だ。奴の辞書にはデリカシーという言葉はないらしい。こっちからは何を言っても響かないから余計に質が悪い。
ネリムは勇者ほど性悪ではないが、ことあるごとに頭を撫でてこようとしたり抱き着いてこようとしたり胸触ろうとしたり、とにかくスキンシップが激しい。今まで出会ったことがないタイプの人種で、やはり苦手だ。
今朝も最近はすっかり喋り相手になってる女神から、勇者たちが魔王城に向かおうとせず道草三昧してるという話を聞いたけど、しばらくはかまってやらないもんね。
ザハトラークは新生国家だから領土もそれほど広くなく、視察にかかった時間は昼食を挟んでも四時間程度。移動は転移魔法で一瞬だし、各所の責任者に話を聞いた限りでは目立った問題も起きていない。
仕事も残ってないし、今日くらいは自宅で穏やかなひと時を――
「大事件であります殿下ァァァァァァァアアア!!」
「はい平和な時間終了! もー何なんだよ一体!?」
どうやら妾には心の休まらない呪いでもかかっているようだ。
バァーン! と勢いよく開かれた扉からドタドタと入ってきたのは、将軍の地位を示す紋章の刻まれた鎧に身を包む、大柄なライカンスロープの男。
ガリアンのオオカミ面は、目一杯の焦りに満ちていた。
「おや、ジラル翁とミルド嬢のお姿が見えぬでありますな」
「うーんと、確かジラルは執務室で書類の整理。ミルドは午後のティータイムの用意だかで厨房にいるはずだが」
ここへ戻ってくる前に聞いた各人の予定を思い出しつつ伝えると、ガリアンは目を手で覆い隠して大いに嘆いた。
「オォン、何たる間の悪さ! 果たしてこの一大危機に殿下と小官のみで対応できるのか甚だ疑問であります!」
「え、そんな大問題なの!? さっきの視察じゃどこも問題なかったんだけど」
妾は先ほど訪れた工場や公共施設の様子を思い返してみるが、どれをとっても平和そのものだった。
ただ、このガリアンの慌てよう。
こいつはミルドと違って悪戯ができるような性格じゃないし、仮にしたとしても絶対に顔に出るからすぐに嘘だとわかる。
つまり問題はどこかで実際に起きていて、妾が見落としている場所。
見落とし……ま、まさかな。
最悪の可能性に思い至り、いやそれは流石にないだろーと自己否定していると。
「事件はまさにここ、魔王城で起きているであります!」
「うっそだろお前……」
素晴らしいタイミングで事実認定され、妾は痛くなってきた頭を抱える。
そうか、確かに魔王城は視察してなかった。なんたって自宅だ。
帰ってくるときも最上階の玉座の間に直接転移してきたから気づけるはずもない。これが灯台下暗しってやつですかい。
くそっ、無条件で自分の家は安全だと思い込んだ妾のミスなのか。いやでも自宅すら安全ではないってもはやこの世に憩いの場など存在しないのでは? そもそも平穏とは何ぞや?
い、いかん。混乱しすぎて哲学しそうになった。今はそれどころではないだろ。
問題が発覚したのなら、速やかに対応するのが上に立つ者の務めだ。
完全に予定外の仕事だが、魔王の名にかけて解決して見せるとも!
「事態は把握した。で、詳細な場所と実際に起きている問題は何だ?」
「はっ! 現在、魔王城の三階にて――」
「『蟲の間』から大量のモンスターが脱走中! 同フロアは阿鼻叫喚の騒ぎであります!」
「……『蟲の間』かぁ」
説明しよう!
『蟲の間』とは魔王城に存在する対勇者トラップの一つにして、魔王城最大のアンタッチャブルである!
四階へと続く階段を護るその部屋を一言で表すならば、虫系モンスターの大博覧会!
天井・壁・床を覆いつくす大小様々な虫が這いまわる光景は、正に第二の旧大陸!
あまりの気持ち悪さに作った本人たる父上すら管理を放棄した、ザハトラーク国内唯一の無法地帯だ!
「うーん『蟲の間』かぁ。そういやそんなのあったなぁ」
放っておいても繁殖を続ける虫の量を調整するため、普段は魔法の扱いに長ける母上が週に一度、部屋の外から虫を一掃することで一定の均衡を保っていた。
しかし母上は三週間前から魔王としての任を降りた父上とバカンスの真っ最中。
加えて今は春も半ば。この辺りも温かくなり始め、虫たちの活動も活発になる時期だ。
それを放っとけば、まあこうなるのは当然だよね。
妾自身、あの部屋のことは意図的に記憶から消去してたから予防のしようがないね。
はっはっは、失態失態。
――さて。
「殿下、いかが致すでありますか……!?」
「うーんと、そうだなぁ」
藁にも縋るような表情のガリアンに妾は鷹揚に頷き、
「ちょっと出かけてくるわ」
玉座を降りて長距離転移の魔法陣を展開した。
いや、魔王として城の問題は解決しないと駄目だと妾も思うぞ?
でも虫ってさぁ、話は通じないしすぐに噛んだり粘液出してくるし、仮に妾が出向いたところで平和的な解決は望めないじゃん?
ここは一つ、魔王城に務める者たちへ妾から与える試練ってことで。
よろしく☆
「ちょっ! どこへ行くでありますか殿下ァ!?」
「きゅ、急用を思い出してな。アー魔王ッテイソガシイナー」
「小官らを見捨てるでありますか!?」
「うるせー! お前も将軍なんだから自分で何とかしてみろ!」
「ちょっと下に降りてちゃちゃっと燃やしてしまえば済む話であります!」
「やなこった! フロア一面覆いつくす虫なんておぞましい光景、誰が見てたまるか!!」
うわやべ、想像しただけで鳥肌立ってきた夢に出そう。
背後からガリアンが駆け寄ってくる気配を感じながら、妾はとにかく転移を発動すべくパッと思いついたところに行き先を設定。
グッバーイ、ガリアン。
城のみんなも、頑張ってくれよな!
◇
長距離転移を終えた直後に特有の浮遊感から脱した妾を、昼下がりの木漏れ日が温かく迎えた。
周囲を見渡してみれば、落ち葉の積もった地面から背の高い木々が密度もまばらに生えている。樹木の種類に統一性はなく、いわゆる雑木林というやつだろうか。
事前に得ていた情報から、ここが先日訪れたグレンツェ村から三日ほど歩いたところにある『シルフェの森』という小さな森林地帯であることは把握していた。
名前が示す通り、風の精霊が比較的活発な片田舎の森林。森の木々はそよ風に揺られ、枝葉のこすれ合う静かな音が心を穏やかにさせる。こういう自然音がリラクゼーションに効果的であることは国内の研究でも実証済みだ。
「勇者は……まあ、流石にいないよな」
咄嗟に思いついた「勇者がいたところ」という条件付けでここへ転移してきたわけだが、これはあくまで朝の時点の古い情報である。そろそろ三時のティータイムが始まるこの時間にもなって、勇者たちが同じ場所に留まっている可能性は低い。
付近からは危険な魔獣の類の気配も感じないし、目下妾の平穏を脅かす存在はいなさそうだ。
一通りの安全確認を終えてほっと胸をなでおろしていると、
「ひ、酷いであります、殿下ァ……」
「なんだ、お前もついてきちゃったのか」
息も絶え絶えに泣きごとを漏らすガリアンが、足元でうずくまっているのに気付いた。
ライカンスロープのような獣の性質を持つ種族は総じて感覚器官が優れている反面、転移の際に発生する空間のゆがみを過剰に感知してしまう傾向にある。
要するに、他の種族よりも非常に『転移酔い』しやすい。
「全く、無茶して飛び込んでくるからだぞ」
「だって、殿下が小官を置いて逃げようとしたから……」
「そ、そりゃそうだけど。でもほら、逆に考えろ。無茶したからこそ、お前も一緒に逃げてこれたじゃないか」
あのまま魔王城に留まっていれば、いずれガリアン一人でも事態の収束へ動かざるを得ない状況に陥っていただろう。
妾の転移に巻き込まれたのは事故以外の何物でもないが、悪い話ではあるまい。
「しかし、『蟲の間』の事態はどのようになさるのでありますか?」
「……きっと向こうに残ってるジラルとかミルドとかが何とかしてくれるって」
ジラルは後衛特化の魔導士だし、ミルドに至っては顔色一つ変えず虫どもを叩き潰して見せるに違いない。
こうして逃げ出してしまった以上、別に妾たちが嫌な思いをする必要はないだろう?
「……それもそうでありますな!」
ガリアンも最終的に同じ意見にいきついたのか、これまでとは打って変わって満面の笑みを見せる。
よし、思いがけない共犯者もできたところで今後の方針を練るとしよう。
「ほとぼりが冷めるまでここで暇をつぶしたいが、何かいい案はあるか」
「雑木林でありますからなぁ。ここは童心に帰り、昆虫採集はいかかでありますか?」
「虫から逃げて来たのにそれは本末転倒だろ。却下」
「では木登りはどうであります?」
「妾スカートだから無理」
「オォン、これは中々難しい課題であります……」
ガリアンの言う通り、一口に暇つぶしと言ってもこんな森の中ではできることも限られてくる。
妾もガリアンも、そもそも木登りや昆虫採集とかで楽しめるような歳じゃないし。かといって二人して数時間棒立ちっていうのも時間を浪費してるようで落ち着かない。
……そういえば、ミルドが厨房でお茶の用意をしてたんだったな。何事もなければ玉座の間で午後のティータイムになる予定だったのか。
なんだかんだ言って、ミルドの淹れるお茶と茶菓子は絶品だ。割と高い頻度で苦手なニンニクが混じってるのを差し引いても、一流と言って差し支えない。
あーあ、惜しい機会を逃したものだ。おのれ虫どもめ。
「せめてミルドも一緒に来ていれば森の中でティータイムと洒落込めたのになぁ」
「でありますなぁ」
我ながら、置いて行っておきながら随分と身勝手なことをほざくなぁ妾たちと思いながらも、そう思わずにはいられず二人して溜息をついたときだった。
「ご 注 文 は 私 で す か ?」
「「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!?」」
突然背後から聞こえて来た、地の底から響いてくるような声にビビって。
「「ぶふっ!?」」
二人して前のめりに落ち葉の山へと突っ込んでいった。
「あら、二人して仲が良ろしいようで」
「ミミミ、ミルド!?」
「どうしてミルド嬢がここにいるでありますか!?」
頭に着いた落ち葉を払うことさえ忘れて、妾たちはそこにいる存在に愕然とする。
さっきまで妾たちが立っていたところには、さも当たり前のように置いて来たはずのミルドが佇んでいた。
「大したことでは。厨房にてお茶の準備をしていましたら、玉座の間から長距離転移の反応を感知しましたので」
一度言葉を切り、たおやかな微笑を添えて。
「転移が完成する寸前に、割り込ませていただいただけです。強引な手段だったので、転移座標が若干ずれてここへ来るのに少し時間をかけてしまいましたが」
ただそれだけだと。
術式の編纂者に。
これでも一応最高位の魔導士であることを自負する妾に、一切悟られることなく遠方にいる自分を、遠方から転移対象に書き加えたと。
まるで誇ることなく言い切って見せたミルドに対し、妾はもう――
「ミルドすげー!」
そういう他なかった。
「ところで、何故ルシエル様達はこんな森の中へお越しに?」
「「――!」」
「私やジラル様に無断となると、よほど緊急の用事があったみたいですが」
当然来るであろう質問。
しかもその発信者があのミルドだ。
妾とガリアンの間に緊張が走る。
「ど、どうするでありますか殿下」
「こ、ここは正直に話すか?」
「殺されるでありますよ!」
「ぐぬぬ。でも下手な嘘をつけばもっと酷い目にあうかも……」
「ミルド嬢はどうやら城で起きたこと自体は知っていない様子、今なら誤魔化しきれるであります」
「そ、そうかな……よし」
小声での相談を終え、妾はなるべく毅然とした態度を取り繕ってミルドに向き直る。
「……実は魔王城の『蟲の間』から増えすぎたモンスターが大脱走してな」
「上の階が騒がしかったのはそのせいですか」
「まー妾としては駆除することはやぶさかでなかったのだが、ほら、近ごろ魔王城の空気もたるみ気味であったし? ここは職員一同に一致団結して問題を解決する能力を養ってもらおうと心を鬼にして城を空けたみたいな?」
「なるほど」
おお、素知らぬ顔でもっともらしい理由を急造してみたが、特に疑われている気配は感じないぞ。
このまま押し切れるか……?
ミルドは目を閉じて妾の説明を反芻するように何度か頷き、
「で、それは誰の考えですか?」
「そ、それはもちろん!」
再び開かれた瞳の放つ光に射竦められた妾は生存本能から思わず。
「ガリアンだ」
「ファッ!?」
哀れな子羊を一人、生贄として捧げた。
いやー、狼が羊って皮肉が効いてるよな。
「ちょちょちょちょっとお待ちになるであります殿下! 我先にと逃げ出そうとしたのは殿下じゃないでありますか!?」
「うるさいお前だってついて来たんだから同罪だ!」
「小官は転移に巻き込まれただけであります無実であります!」
「へーそういうこと言うんだー!? さっきまで昆虫採取とか木登りとかしようとしてたくせになぁ!」
ギャーギャーと命惜しさに繰り広げられる、罪の擦り付け合い。
しかし言い争う妾たちの見苦しさに呆れたのかはいざ知らず、嘆息したミルドの眼光がふと弱まり、
「別に、怒っているわけではありませんよ」
「「え?」」
「ただ、あれほど慌ててルシエル様が城を出ていかれそうになっていましたから。よほどの緊急事態だと危惧していただけに、全然大したことがなかったのでむしろ安心しました」
まあ、実際の理由も虫退治が嫌だから逃げたってだけだからな。
本音の部分は言えずに黙っていると、ミルドは慈母の如き優しい笑みを浮かべて。
「キモい虫の駆除はジラル様たちに任せて、私たちはお茶にしましょう。今日のお茶菓子はルシエル様の大好きなドライベリーのスコーンです」
「「か、神様……!」」
どこからともなくテーブルセットを出現させたミルドのあまりの女神っぷりに、二人して彼女に後光が差して見えたと同時に。
――あ、ミルドも虫は嫌いなんだ。
と、一つ新しい知識を得たのだった。
◇
――新しい気配は三つ。
一人はライカンスロープ。この距離からでも感じ取れる犬っぽい魔力。かなり大柄。相当鍛えてる。声も大きい。
的がデカい。お手頃。でも手前の木が邪魔。残念。
向かいのもう一人は……人? ただの人間にしては妙な魔力が混じってる。体格は細め。力は未知数。気配がうまく読み取れない。謎。
あの中では一番強そう。狙ったらバレるかも。危険すぎ。却下。
最後の一人は、ヴァンパイア。ちっちゃい。お子様。魔力量はそこそこ。硬そう。
でもあの中では一番隙だらけ。ねらい目。恰好の的。必中――
全ての確認を終え、得物を構える。
今朝の失敗は屈辱であると同時に、教訓でもあった。
完璧に仕留めたと思った一撃を防ぎ、直後に魔力と気配を喪失したあの二人。
姿こそ見えないが、確実に自分のことを探しているはずだ。
根拠はない。
しかし何よりも信頼のおける、狩人の勘がそう囁いている。
見えない標的の位置を意識して居場所を特定されないよう移動し続け、丁度いいタイミングで餌を見つけた。
必要なのはちょっとした騒動。食べる以外で殺すのは主義に反するが、生命力の高い魔族なら多少射抜いたところでそう死ぬことはない。あれくらいの子供なら、程よく騒いでくれるだろう。
打算もそこそこに、目標へと狙いを定める。
距離は目視可能な範囲の更に外側。
ただし対象が漂わせる魔力と気配は、目で見る以上に物を語ってくれる。
照準完了。
加速魔法展開。
目標、ちびっこ――
「――にゃあ」
攻撃は呼吸すら止めた無音の中で。
最小限の風切り音だけが尾を引いて、寸分の狂いもなく放たれた。
◇
それは、楽しいティータイムの真っただ中。
美味しいお茶とスコーンで完全に精神も表情も緩み切ったところへやってきた。
「ホワァ!?」
スコーン! と決して洒落じゃない快音と共に、妾は額から後頭部へ抜ける衝撃を受けてイスごと仰向けに倒れた。
「でで、殿下ァ!?」
「あら、これはまた見事」
「な、な……」
部下二人が全く対照的な反応を見せる中、妾は。
「なんじゃこりゃぁぁぁぁぁあああ!?」
額に刺さった矢を見て、そう叫ぶほかなかった。
一体どこから飛んで来たのか、一メートル近い長さのそれは真っすぐに妾の脳天ど真ん中をぶち抜き、未だに残った勢いで微振動していた。
貫通こそしてないが、高レベルの魔族である妾の素の防御を抜けてきている時点で相当な威力だ。掴んで軽く力を入れても全然引っこ抜けないし、だいぶ深く刺さっている。
「よかったですね、アンデット系で」
「よかないわ! 妾じゃなきゃ死んでるぞマジで!」
それこそガリアンが食らってたら間違いなく即死だったに違いない。死んですぐなら蘇生魔法でどうにかなるにしても、ぞっとしない話だ。
「まさか、城に一人取り残されたジラル翁の呪い……!?」
「んなわけあるか!」
仮にそうだとしたらガリアンが無事でいいはずがないし、そもそもジラルはそんなことしないって妾信じてる。信じてるからな?
何はともあれ、だ。
「一体誰だぁー! 危ないだろー!?」
額から矢を生やしたまま、矢を射ってきた何者かに対し憤慨していると。
「なんだ、お前だったのか」
「それこっちの台詞ゥゥゥゥウウウ!!」
ガサガサと藪をかき分けてやってきたのは毎度お馴染み、無表情で背中に聖剣引っさげた勇者さんだった。
しかも開幕早々、失望の色を隠さないこの態度。
この口ぶりからして、犯人はこいつか!?
妾は全身のバネで立ち上がり、相変わらず無表情に佇んでいる勇者に詰め寄る。
「勇者貴様、人の急所ぶち抜いておいて『なんだ』とは何だ!? 人としてどーなんだよお前!」
「ん? お前は一体何の話をしている」
「これだよこれ! 頭の矢ー!」
「……斬新なファッションだな」
「んなわけあるか! 本日二度目!」
デコに刺さったまま揺れる矢を見て、微妙に眉間にしわを寄せて後ずさる勇者。
はて、どうにも様子がおかしいな。
こいつとは付き合いが長いとは言わなくとも、ここ最近は頻繁に顔を合わせていただけあって何となく人となりがわかってきている。
例えば、こいつが嘘や冗談を言った後はすぐに白状する。反応さえ確認できれば満足なのか、余韻も減ったくれもなく即ネタばらし。逆に言えば、今回のように何も言わないときは嘘をついていない。
つまり勇者は頭から矢を生やした妾を見て、本気で引いているということ。
……それはそれでムカつくけど、とりあえずこいつ犯人ではないのだろう。
「もう一度聞くが、これはお前がやったんじゃないんだな?」
「違う。俺もネリムも弓は持っていないし、使ったこともない」
言われてみれば、確かに勇者もネリムも弓なんか持っていな……あれ?
ネリムに至っては弓どころか、姿すら見えないんですが。
「おい勇者、ネリムはどうした」
「お前の後ろだ」
「え?」
勇者に指さされるまま後ろを振り返ってみると、そこには。
「いえーい!」
「うええええい!?」
笑顔でダブルピースを決めてるネリムがいて、妾は跳ねるようにその場から飛び退いた。
いつだ、いつから後ろにいた? ていうかどうやって!?
先に言っておくが、頭に矢を貰ってから妾の警戒心は留まることを知らない。今だって探知魔法を常駐させて、全方位の魔力反応を探り続けていた。
この期に及んで、ネリムが転移を使えたとしてもはや驚きはしない。
問題は、この短距離で使われたにもかかわらず一切反応が返ってこなかったことである。
魔力の隠蔽? だがあれは外部へ漏れる魔力を最小限に留める技術。あくまでバレにくくなるだけであって、ここまで完璧に魔力を断つとなると――
「別に魔力の隠蔽はしてないよ?」
「ウワーマタヨマレターってマジでどういうからくりなのそれ!?」
相変わらずこちらの心中を読み取ったかのような発言に。
そういう魔法を使ったのならまだしも、相変わらず魔力反応はゼロだ。
まさかミルドやネリムは魔力に頼らない、第三の力を操っているとでも言うのか!?
恐ろしいものの片鱗を味わった気分になり、戦慄する妾。
それだけに、屈託のない笑顔で告げられた事実をすぐに飲み込むことができなかった。
「魔王ちゃんって、考えてることが全部声に出るタイプだね」
「……え」
何ですと?
ミルドに目を向けると、小さく首を振り。
「ルシエル様、第三の力は流石に無いです」
「ええ?」
おいおい、待ってくれよ。
縋るように勇者を見るが、奴はほんのり呆れの混ざった無表情で。
「お前、今まで散々独り言呟いてたのに気づいてなかったのか?」
えーっと。
つまり、なんだ。
妾はてっきりミルドやネリムが人の心を読み取る化生の類だと推理したわけだが?
実際はそんなことなくて?
むしろ積極的に情報をリークしてたのは妾で?
客観的に見ると、思考をダダ漏れにしときながら勝手に騒いでる、ちょっと痛い子的な?
……うわーお、妾はっずかしー。
「しかし、ではアレク氏とネリム嬢は如何様にして魔力を隠しているでありますか?」
「気配も感じませんね。こんなに近くにいるのに、不思議です」
膝を抱えたまま羞恥心という名の重力でどこまでも腐葉土に沈んでいきそうな妾の頭上で、本来展開されるべきだった議論がなされているがどうでもいい。
そういえば勇者も探知魔法に引っかかってなかったなーと今さらながら気づくがそんなことより地面に潜りたい。
穴があったら埋まりたいというが、正にその心境だ。
「えへへ、実はちょっとズルしててねー」
ちらりと上を見やれば、悪戯っぽく笑うネリムがローブの袖を捲ろうとしてるが、今となってはどうでも――
ガキン! と。
耳の側でけたたましく鳴り響いた金属音。
「――なっ」
視界の端に映ったのは、頬を掠めるように空中を奔る純白の鎖。
鎖に弾かれてくるくると宙を舞う、鋭利な鏃を先端に携えた矢。
そして、
「……してやられたな」
苦々しそうに吐き捨てながら、鎖を手元に引き戻す勇者だった。
え、何、何事?
また矢が妾に向かって飛んできた? しかも勇者に守られた?
「ていうかその鎖何!?」
「復活したか。これは『境界の鎖』だ」
我に返った妾に、勇者は手にした鎖の端を持ち上げて見せる。
鎖を構成する輪の一つ一つに刻印が施されていて、先端には十字架を模したダガーが取り付けられている。
刻印は淡く輝いていて、何かしらの魔法が付与されているとわかる。
「木こりの仕事を引き継いだ時に親父から貰った召喚武装だ。鎖自体が結界として作用して、防御はもちろん、身に着けていれば存在そのものを隠蔽できる」
「何だそのチートアイテム!?」
効果だけ見ても十分反則じみてるのに、召喚武装ときたか。
普段は別空間に格納され、求めに応じて任意の場所から取り出すことができる、魔導具の中でもかなり希少なもの。妾も父上が持っているもの以外で見るのはこれが初めてだ。
よくよく考えてみれば、勇者の父親はあの頭がおかしい「木こり」の前任者であったという。ならば強力な魔導具の一つや二つ持っていてもおかしくはないし、それを勇者が受け継いでいるのもわからない話ではなかった。
むしろ納得がいったくらいだ。聖剣を得る以前から勇者が地獄を生き抜いてこれたのは、ひとえにこの鎖があったからなのだろう。
非戦闘時は存在を隠し、仮に戦いになっても結界による防御や捕縛が可能。入り組んだ森の中では移動や逃走にも使える。
勝利ではなく生存を目的とするならば、鎖は実に合理的な武器と言えた。
「なるほど、その鎖で魔力も気配も同時に隠していたのでありますか」
「ああ。だが鎖が外れると隠蔽効果が保てなくなる上に、しばらく再発動もできない。今のは完全にアウトだな」
言われてみれば、さっきまでうんともすんとも言わなかった探知魔法が勇者の魔力に反応を示している。
先ほど矢を弾いた際に鎖の恩恵が切れてしまったのだろう。
これには罪悪感を感じずにはいられない。
「す、すまん。妾が隙だらけなばっかりに」
「気にするな。お前が色々と駄目そうなのは知ってた」
「人が殊勝に謝ったというのに!」
「いいから離れてろ。巻き添えを食いたくなければな」
勇者は遠ざけるように言うと、前動作なしに腕を素早く振るう。
今度は妾にも辛うじて見えた。
まるで生き物のようにくねりながら空中を疾走する鎖。
その先端で光る刃が全く別々の方向から飛来してきた三本の矢の鏃を寸分違いなく捉え、地面へ叩き落す。
「おお!」
「お見事ですね」
妾との会話を続けながら、飛んでくる矢に一切目もくれることもなく行われた離れ業。
成し遂げたそれに感慨を抱く様子もなく、勇者は嘆息した。
「間髪入れずに追撃とは、呆れた執念だ」
「そういえば先ほど『してやられた』と仰っていましたが、どういうことですか?」
「言葉のままだ。妙な悲鳴が聞こえたもんで様子を見に来たら、まんまと罠にはまったというわけだ」
「……ルシエル様」
「え、妾なの? 悪いの妾なの!? どー考えても悪いのは妾を囮にした奴だと思うんだけど!?」
非難するような視線に妾が抗議している間にも、勇者は再び飛んで来た矢を追撃。
今度は五本同時。前後左右に加えて、真上からもだ。
片手間に対処する勇者も勇者だが、それ以前に矢の飛んでくる方向もでたらめである。ご丁寧に勇者の側にいるネリムや我々を避けてだ。
「オォン! 相手は複数いるでありますか!?」
「いーや、一人だねこれは。矢にちょっとだけ残ってる魔力が全部同じだし」
ガリアンの推測をバッサリと否定したのは、地面に落ちた矢を拾ってひとしきり弄り倒していたネリム。
「相手からはこっちが見えてるのかな?」
「魔王の探知魔法に反応がない以上、よほど目が良くなければ見えないはずだ。もしくは、何らか別の方法で俺たちを判別しているのかもな……ところで、鎖はどうした?」
「ガチャガチャして邪魔だから取っちゃった」
「そこ今気にするところか!?」
命かかってるんだからその程度の不快感は我慢するべきなのでは!?
「そうか。じゃあ次からは腰にでも巻いておけ」
「いえっさー!」
「軽っ!?」
兄共々命が脅かされているという状況にもかかわらず、この緊張感のなさ!
こうしている間にも姿の見えない襲撃者による狙撃は散発的に行われていて、いずれも例外なく勇者の操る鎖に叩き落されている。
一見すると危なげないようだが、相手の攻撃も徐々に激しさを増しているのだ。もう少し危機感を持って行動をしたほうがいいんじゃないだろうか。
「魔王、何をそわそわしてる」
「べ、別にそわそわしてないが!?」
「心配なら無用だ。防御には自信があるし、相手に殺意はない」
「だ、だから心配なんてしてな……いや殺意あるだろ。むしろマシマシだろ!? 見ろよこの頭の矢!?」
「まだぶら下げてたのかそれ。もしかして気に入ったのか?」
「んなわけあるか! 二度あることは三度ォ!」
叫びながら妾は頭の矢を即刻引き抜き、全力で地面に叩きつけた。
あーすっきりした。
で、殺意がないだって?
御冗談を。相手はいきなりヘッドショット決めてくるような極悪非道だぞ。
「これだけ複雑な攻撃ができる奴に殺意があるなら、最初からそうしている。どうせこれくらい防げると思ってるんだろう。事実、今朝森に入ったときに貰った一発目は急所を外していた」
「朝に貰ったって……じゃあ、やっぱお前ら朝からずっとこの森にいたのか?」
「ああ。実は宿泊していた近隣の村で、三日ほど前から森に入った猟師が例外なく全裸に剥かれて森の外に放り出されるっていう話を聞いたんだ」
「全裸で追放!? 妾の仕掛けたダンジョンにもそんなエグいトラップ置いてないぞ」
いつぞやの『磔刑の森』とまではいかないが、随分と物騒じゃないか。
何が『シルフェの森』だ如何にも優しげな名前しやがって。こんな森で心が穏やかでいられるか。『追剥の森』に改名しろ。
「勇者ってもんだから解決してくれと懇願されてな。仕方なく森に入ったら、不覚にも先制攻撃を食らった。以降は結界で身を隠しながら犯人を捜し続けて、気づけば昼過ぎだ。諦めかけていたところに妙な物音が聞こえて、ようやく見つけたかと思ったんだが」
「殿下だったでありますな」
「わ、悪かったな妾で!」
だから茂みから出てきたとき、露骨にがっかりしていたのか。
まあ半日も鬼ごっこを続け、捕まえたと思いきやハズレを引かされたとなれば確かに気落ちするのも無理はないだろう。
理由がわかったところで、ハズレ扱いされたことに関してムカつくことには変わりないけどな!
「そういうわけだ。そして位置がばれている以上、もうここに留まっている意味もない」
割り切れない感情を視線に乗せていると、不意に勇者が踵を返す。
「お前らもさっさと帰るんだな。行くぞネリム」
「へいへいほー」
もう話すことは話したとばかりに立ち去ろうとする兄妹。
一切の迷いのない足取りで遠ざかっていく背中を見て、妾は咄嗟に。
「ちょ、ちょっと待て!」
「何だ」
「……ちょっと待って」
つい声をかけてしまったが、どうしてだろう。
いや、ほんと何で自分でも呼び止めたのかわからない。反射的で突発的なあれだ。
やべー何も思いつかない。どうしようこれ。
ここで答えないと独り言のことも相まって完全に痛い子だ。ほら、すぐに答えないもんだから勇者の目に不信感が募ってるような気がする。
何か理由、理由は……!
「……そういえば。どうして勇者様は先ほど、自分の居場所をバラしてまでルシエル様をお守りになったのですか?」
「それだー!」
答えに窮していたところへ、傍観していたミルドのナイスフォロー。
こういう本気で困っているときには助けてくれるからこそ、普段の行いにも寛容になるというものだ。やはり持つべきは優秀な部下だな!
ごほんっ。
では改めて、勇者に問うとする。
「一応妾はお前らの敵だぞ。なのに何故危険を冒してまで助けたんだ?」
今でこそ様式美に則り魔王城以外で戦う意思のない妾だが、長い目で見れば勇者にとってはラスボス的存在と言っても過言ではない。
加えて妾は不死属性を持つアンデット系種族の中でも最上位。こんな矢一本や二本喰らったくらいじゃ少しだけ痛い程度で済む話であり、妾がそういう存在であることも奴は重々承知のはず。
逆の立場であれば、自分の命を危険に曝してまで助けようとは思わない。
「別に大した理由はない」
しかしさんざん悩みぬいた妾とは対照的に、勇者は即答する。
「手の届く場所にいたなら、守るのは当然だろう。それが友人なら尚更だ」
「用がないならもう行くが?」
「――っあ、ああ……」
「じゃあ、またな」
「またねー」
自失していた妾を尻目に、勇者たちは今度こそ元来た茂みを分け入って妾たちの前から姿を消した。
落ち葉を踏みしめる音が聞こえなくなる頃になっても妾は無言で立ち尽くしていたが、ふと耳を済ませれば、散発的な戦闘音が微かに届いてくる。
恐らく、本格的な鬼ごっこが始まったのだろう。発動したままの探知魔法から勇者たちの反応があっという間にロストし、奴らが魔法の効果範囲外まで離れたこともわかった。
それを確認して、ようやく妾は大きなため息をついた。
肺の中で澱み切った空気を全て吐き出さなければ、言葉の重みで心が潰されそうだった。
「ミルド、ガリアン」
二人の部下に呼びかける声も、震えないように振る舞うのが精一杯なほど弱々しい。
「何でしょう?」
「何でありますか?」
「妾は……小さいな」
頭の中では奴の言葉と自分の考えがごちゃ混ぜになって、ぐるぐる回っている。
情報の整理がつかず混乱している今、そう漏らすのが関の山だった。
「まあ、そうでありますな」
「ええ。でもそれは仕方がないことです」
「……そう言ってくれると、少し救われる」
こんな言葉足らずの意思を拾い、慰めてくれるとは。
やはり、この二人はいい部下だ。
私には勿体ないくらいの――
「心配しなくても、ルシエル様はまだ成長期ですから」
「これからもっと大きくなられるであります!」
「そっちじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええ!!」
「「え?」」
そーだった。
こいつらはこういう奴らだった!
肝心な時にハズしちゃう系の部下共だったー!!
「体が小さいことを気にしていたのでは?」
「気にしてないって言ったら嘘になるけどさぁ!? あの状況から小さいっていったら器の方だろ普通!」
「いやしかし、殿下は器などと一言も」
「察してくれよぉ! 妾たちもう何年の付き合いになるんだよ生まれてすぐだから一七年だよ一七年! 少しは意思が通じ合ってもいい頃合いじゃないかなぁ!?」
必死に訴えるが、二人の部下は仲良く困惑するばかり。
ああもう畜生こん畜生、ここまで心に隔たりがあるとは思わなかった!
ショックのあまり、さっきまで悩んでたこととかしがらみとか色々吹き飛んだ。もうごちゃごちゃ考えるのも面倒くさい。
「妾たちも行くぞ」
「と言いますと、どちらへ?」
「決まってるだろ! 妾にヘッドショット決めてくれた下手人を踏ん捕まえにだよ!」
「しかし、アレク氏はさっさと帰れと――」
「どーせ帰ってもまだ虫だらけだよ! 地獄よりかこっちの方がマシだろ!?」
「「ああ、それは確かに」」
どこか遠い空で、笑顔のジラルがピースしている気がするが恐らく気のせいだ。
何にせよ虫退治よりはマシだと判断した二人を連れて、妾は勇者たちが向かっていったであろう方向へと進軍を開始する。
心が苦しくなったのも、部下の察しが悪いのも、ついでに魔王城が虫パニックになったのも、たぶん恐らくきっとアイツのせいに違いない。
全部終わらせてから、絶対に改めて文句を言ってやる。
「魔王が勇者に借りを残したまま引き下がれるか! 耳を揃えてきっちり返してくれる!」
建前を高らかに叫びながら、勢いのまま妾は目の前の茂みを薙ぎ払った。
◇
「……やっぱり、強い」
木から木へと飛び移りながら、ぽつりと呟く。
今までは標的の一人が使用する探知魔法を避けるように動いていたが、位置がバレたことに気づいたらしい相手が本気で捕まえに来た今となっては捕捉されるのも時間の問題。
ならばこちらから積極的に効果範囲へと踏み込み、その上で速度を持って翻弄する。
そのつもりで敢えて距離を詰めたが、少々考えが甘かったかもしれない。
――魔力反応、四つ!
背筋を突き抜けるような直感に従い、枝を蹴る。
間を空けずして、宙に出現した四つの魔法陣から飛び出した白い輝きが、直前までいた枝を雁字搦めに縛り付けた。一瞬でも判断が遅れていたら、あの場に束縛されていただろう。
空間を超えて出現する鎖。現れるその瞬間まで存在を感知できない攻撃は探知魔法の効果範囲に踏み込んだ瞬間から絶え間なく繰り返されており、徐々にその精度も増してきている。相手からも自分の姿は見えていないだろうに、大したものだと感心せざるを得ない。
しかし、まだ余裕を失う場面でもない。
「まだ、距離はある。しばらく安全」
自分には武器がいくつもある。
弓の腕は故郷でも右に出る者はいない。身体能力においても同様だ。大体のことは一度見ただけで覚えられる記憶力を持ち、魔力の感知にも長けていた。
極め付けは、生まれつきの体質である【狩人の目】。
飛翔する矢が止まった棒に見えるほどの動体視力に、数百メートル先の人物を目視判別可能な遠視能力。更に一度捕捉した気配と魔力を視界内で追い続ける追跡視。
対象を複数に定めるほど精度は落ちるが、単一目標に絞ればこの森のどこにいようと正確に位置を把握できる。
その力を持ってして標的との距離を測ってみれば、少しずつ詰められてはいるものの姿を完全に捕捉されるまではだいぶ猶予がある。いい加減相手の攻撃のリズムにも慣れ、余裕も生まれて来た。
そして、正確な位置さえわかれば。
「にゃあ」
自らを束縛せんとする複数の鎖の隙間をかいくぐりながら手にした弓へ一度に三本の矢をつがえ、同時に射放った。予め矢に仕込んでおいた誘導魔法は現在進行形で追跡中の標的に紐づけ済みで、加速魔法を通過した矢は稲妻のような軌道と速度で森を疾走する。
四日前に入ったこの森の全体像は、一日かけて何処にどんな木が生えているかに至るまで頭に叩き込んであった。だからこそ直接視認せずとも遮蔽物の存在に気づけたし、その気になれば眼を閉じていたって木から木へ飛び移るのに不自由しない。
実際、逃走の最中に次の回避先へ目を向けたことなんて一度もなかった。視覚のリソースは全て標的の位置の把握につぎ込んでおり、移動は記憶を頼りに、鎖の回避は自前の感知能力に任せてどうにかなっている。
程なくして矢が標的の元まで届いたのか、鎖による攻撃がピタリと止まる。
三本同時であれば一蹴されて終わりだが、加速魔法の強さには敢えて差をつけた。異なる方向からバラバラのタイミングで迫り来る矢に個別対応をすれば、攻撃の手が止まるのは必然。
一度隙さえ作ってしまえば、こちらのものだった。
今度は一度に四本。
同時に持てる最大数の矢を、文字どり矢継ぎ早に放つ。放ってから数秒で着弾する矢の殆どは叩き落されるだろうと踏んでいたが、一発でも掠りさえすれば勝利は揺るぎないものとなるだろう。
矢には加速と誘導に加えて麻痺効果も付与した。本来は矢だけで仕留めきれない大型の魔獣の動きを止めるために習得したもので、効果は絶大。人間に使うには少々威力過剰だが、命に別状がないことは実証済みだ。
最初から使わなかったのは、三重の効果付与は魔力の消費が激しいため。
だが居場所を完全に特定し一か所に縫い止めた今、出し惜しみは無用。一撃必殺の応酬で一気にケリをつける。
その予定だったのだが、どうにも上手くいかない。
「しぶとい、硬い、通らない……!」
侮ってはなかったが、まさかこうも完璧に防ぎきるとは。
三六〇度全方位からの時間差攻撃。時には加速に任せて地面の中を掘り進め、わざと空中で矢を衝突させてイレギュラーを演出して見せたりもした。
しかし標的はそれらすべてに対応し、虎視眈々と攻撃を再開する機会を伺っている。
そもそもの話、こんな周囲が障害物だらけの森で鎖のような長物を自由に振り回している時点で頭がおかしい。【狩人の目】と違い、距離が離れるほどタイムラグが発生する探知魔法での位置情報のみを頼りにした攻撃があそこまでの精度を出していたのも含めてだ。
森林というホームグラウンドでは苦戦などあり得ないと高を括っていたが、故郷以外にこれほど森での戦闘に卓越した人間がいるのだから世界は広い。次からは気を引き締める必要があるだろう。
そう、次からはだ。
ここで終わりではない。
確かに相手は強敵。
それでも。
「ミーの勝ちは揺るがない。当然」
幾重にも渡る攻防の末、先に勝機を掴んだのは自分だ。
何も無為に矢を消費していた訳ではない。逃走中に相手の攻撃の癖を掴んだのと同様に、あらゆるパターンの攻撃によって相手の防御の癖も解析していた。
実を結ぶまでには予想よりも時間がかかったが、今となっては相手が次に取るであろう行動がまるで見てきたことであるかのように目に浮かぶ。
攻撃に使う鎖は常に三つ以上であるのに対し、防御に使うのは手元にある一つ。
たった一本の鎖でこれまでの狙撃に対処していたという事実は称賛に値するが、鎖はその性質上一八〇度の反転はできない。どうあがいても方向転換の際に弧を描く。それは矢を一本通すには十分すぎる隙間だ。
後は理想的な位置に隙間が発生するよう、それとなく誘導してやれば終わり。
楽しい時間も、それで終わり。
「……にゃぁ」
名残惜しい気持ちを抑え、残された最後の矢を手にする。
誘導用の一本と、本命の一本。
計二本の矢をつがえ、弓を引き絞ろうとして。
「あら、随分と可愛らしい狩人さんですね」
「――っ!?」
突然背後からかかってきた声へ向かい、振り向きざまに矢を放つ。
咄嗟に加速魔法を重ねがけした矢は付与されていた誘導魔法すら振り切り、一直線に声の発生源を射抜かんと空を裂く。
「いい反応です……おや?」
しかしそれは相手に届く前に、そっと差し出された細い指でいとも簡単に掴み取られ。
「【パラライザー】……成程、エンチャントですか。まあ、私には少々弱すぎますが」
「なっ……!?」
あまつさえ大型の魔獣すら卒倒する麻痺魔法を少し眉根を寄せるだけで済ませ、矢をぞんざいに放り捨てるという光景に、初めて驚愕の声が漏れた。
目の前にいる人物。仕立ての良いメイド服を着た長身の女。
見覚えはないが、この気配は忘れる筈もない。
標的を再び発見した後、忽然と気配を消した三人の一人だ。
しかもよりによって、最も危険視していたあいつだ。
おかしい。いくら気配と魔力を殺していたとしても、ここまで近づかれれば気づけないわけがない。
なのに何故――
「どうして気づけなかった? とでも言いたげな目ですね」
「っ!」
「別にあなたが気を抜いていたからではありませんよ。言葉を借りるのであれば、ちょっとしたズルをしていまして。ついでに言うと、種を明かすつもりはありません」
全てを見透かすような目でこちらを見ていたメイドが、不敵に笑い。
「どうせ、あなたはここで終わりですから」
次の瞬間には、爆発的に高まった魔力と気配が眼前に迫っていた。