甘夏時計
名前を呼ばれた気がして目を開けた。
鮮やかに重なり合うゴーヤの葉の隙間から日差しがこぼれてまぶしい。梅雨の雨を浴びて、あっという間にすくすく成長したのだ。
縁側でうたた寝をしていた私は、まだ自分の半分をあっちの世界に置いてきたままで、ゆっくりと起きあがってぼんやりと目をこする。凛の夢をみていた。
「蛍」
もう一度、呼ばれる。軒下から張られた緑のカーテンの向こうからあらわれたのは、彬だった。というか、うちの庭に断りもなく入ってきてなにも違和感がないのは彬とその家族ぐらいだ。
このあたりは田舎ゆえにどこの家の庭も畑も広くて、となりの彬んちもそうで、うちとの境目にある貧相な低い竹垣を乗り越えて、私たちはいともたやすく互いの領域を行き来する。よちよち歩きの頃からそうだった。
「どっか行ってたの?」
ぶっきらぼうに聞くと、彬は、「図書館。勉強しに」と、まっとうな答えを返す。もう高三だし。受験生なわけだし。実にまっとうな休日の過ごし方だ。私は日がなごろごろと無為に過ごすのみだけど。
「帰りに基地に寄ってみた、ひさしぶりに」
私のとなりに腰かけた彬の、投げ出された足が長くて、思わず目をそらす。
「草が綺麗に払われてた。小屋は相変わらずぼろぼろだったけど。それから」
彬は黒いナイロンのリュックをあけてごそごそやっている。と、不意打ちみたいに、ころんとまるい果実が転がり落ちた。
甘夏。
「なってた。けっこうたくさん。また、シロップにする?」
彬の、めがねの奥の目が細くなる。小学生のころに秘密基地にしていた、捨て置かれた農作業小屋の脇に生えている甘夏。はじめて食べた時のことを思い出すと、頬がきゅっとすぼまる。それはあまりに酸っぱくて、ばあちゃんがシロップにしてくれて、やっと食べられるものになったのだ。
「凛が好きだったよね」
つぶやくと、彬が、ちいさくうなずいた。風がふいて、ゴーヤの葉たちがさわさわと揺れた。
皮をむいて実だけにした甘夏と氷砂糖をガラス瓶に閉じ込める。それだけで、一週間もするとシロップができあがる。もう梅雨もすぎてしまったし、美味しく食べられる時期を過ぎているけど……、まあ、食べられないことはないと思う。
炭酸水で割って飲むのが、凛のお気に入りだった。
凛は私の双子の妹だ。一卵性なので、当然、顔はそっくり。だけど私と凛を間違えるひとはいなかった。外を飛び回ってこんがりと日焼けし、髪も邪魔だからとばっさり短くしていた私に対し、ずっと屋内にいる凛は色白で、さらさらの髪は腰まであって、声も小さくて笑顔もどこか儚げだった。間違えようもない。
もとは同じひとつの卵であったはずのふたりなのに、姉の私は風邪ひとつひかない頑丈なからだを持ち、妹の凛はとにかく虚弱だった。はたちになるまで持たないだろうと言われていた、という話はあとになって両親から聞いた。聞かずとも、しょっちゅう入退院を繰りかえし、高熱を出しては苦しそうにあえぐ凛のすがたを見ていたから、常にそういう不安はまとわりついていた。鉛色のもやのように。
七年前の、ちょうど今の時期。五年生だった。長い梅雨が明けて、雨の間閉じこもっていた鬱憤を晴らすべく、私と彬は強い日差しの降りそそぐ午後を、田んぼのあぜ道、川べり、薄暗い林のなかを、毎日ひたすら駆けまわって遊んでいた。
秘密基地は雑木林を抜けたところにある。木でできた粗末な小屋で、中には藁が積まれ、ひどく蒸し暑くてほこりっぽかった。あの基地でやったことといえば、ただ駄菓子を食べて漫画を読んだりゲームをするぐらいだったのに、あんなに心躍ったのはなぜだろう。
彬は「理想の秘密基地」の設計図を書いていて、私と凛にだけ見せてくれていた。
「ツリーハウスだよ。夜は満天の星が近くて、昼は町中を見渡せる。リフトでするする登ってくんだよ。降りるときはすべり台だ」
「こんなおっきい木、どこにあんの」
私の、もっともなツッコミに、彬はむっと眉を寄せて、「どっかにあるだろ、どっかに」ともごもご反論した。おかしくて笑った。だけど凛は笑わなかった。
「すてき」って。言った。目をきらきら輝かせて。「すてき、彬くん。凛も行きたい。いつか絶対つくってね」って。そして。
「蛍と彬くんの、いまの基地に連れてって」って、続けたんだ。私と彬は顔を見合わせた。
外の日差しは強いし、あの小屋はお世辞にもクリーンな環境とは言い難いし。なにより凛は退院したばかりで、ずっと家のなかで読書や折り紙をしながら過ごしていたのだ。
「おねがい。どうしても、今行きたい。凛も仲間だもん。ふたりの仲間だもん」
凛は涙目だった。病院通いも、検査も、文句ひとつ言わずに淡々と受け入れる凛なのに。こんなに必死なすがたに心が揺れないはずがない。
この街は温暖で、梅雨明け直後の日差しは真夏のそれと違わないぐらいに強い。つばの広い帽子をかぶった凛は、白すぎる細い手足を懸命に動かして駆けた。林の細道、抜けて、秘密基地の名をつけた粗末な小屋へ。頬を赤く染めて、息をきらした凛は、積み藁にからだを投げ込んで、とたんに咳き込んだ。私はため息をこぼした。
「凛、はしゃぎすぎだよ」
「だってハイジみたいなんだもん。藁っていい匂い。お日様の匂い」
こほこほと咳き込む凛の背中をさする。浮き出た背骨の感触を、いまでも思い出せる。あの時私の中を駆け巡った、不吉な予感も。
請われるままに、木に登って甘夏をもいだ。ここの甘夏を、なぜか凛は気に入っていて、買ってきた風味のいい甘夏でつくったシロップなんてお行儀がよすぎてつまんない、と言っていた。私はだんぜんお店で買った甘夏のほうがおいしいと思っていたけど、凛には言わなかった。
帰り道は彬が凛をおぶってくれた。凛は歩くと言い張ったけど。夕陽が凛の顔を、彬の顔を、朱く染めていた。
その日の夜、凛は熱心に書き物をしていた。きれいな花柄の、鍵付きの日記帳。体調のいい日はいつも何かしら書きこんでいたけど、ふたごの私にも、一度だって見せてくれたことはない。どうしても見たくなって、机に向かっている凛の後ろから、こっそりとのぞきこんだら、さっと日記帳を隠し、「だめっ!」と叫んで、そして、そのまま、つっぷしてしまった。からだに触れると、信じられないぐらい、熱かった。
無理をしすぎたのだ。
なぜ凛を連れ回したのだと、お母さんは私を責めた。
「だって凛が。……凛、とっても楽しそうだった」
家のなかで、ひとりで過ごしているときより、ずっと。
「楽しいかどうかなんて、関係ない。凛は蛍とは違うの。凛は、凛は」
お母さんは、わっと泣きだしてしまった。お父さんは黙ってお母さんの背中を撫でている。私は、そっと、家を出た。
家を出たと言っても。行くところなんてあるわけなく。広い庭をぶらぶらしていたら、となりとの境界の竹垣の際に、彬がいた。
「凛、熱、出したんだって? 大丈夫?」
おじさんかおばさんから聞いたのだろう。いつも、互いの家の事情は筒抜けだ。
「大丈夫、だと思う。きっと、凛は」
「凛じゃなくて。蛍が、だよ」
いきなりそんなことを言うものだから、拍子抜けしてしまって。だけど彬は眉をつりあげて、真面目くさった顔をしていて。つい、ふき出してしまって、ふき出しついでに、泣いてしまった。泣いたっていうか。涙が勝手にこぼれてきたのだ。
いつもいつもいつもいつも。両親に構われている妹と、放置されている自分。凛の背骨に触れたとき、私のなかを駆け巡った不安。はしゃいでいた凛の、まっしろな笑顔。ぜんぶがないまぜになって、私は、泣いた。
ほんとうは、わかっていた。凛が、全然大丈夫なんかじゃないってこと。
たったひとりの妹は、夏を、越すことができなかった。
学校は、可もなく不可もなく。三年生になってから一気に受験モードになって、皆がぴりぴりしだしたのが鬱陶しいぐらい。
担任との面談を終えて、長い坂道を自転車で帰る。日差しに焼かれてくらくらする。
と、私の真横をすっと通り抜けていく自転車があった。彬だ。追い越して、すぐにブレーキをかけて、彬は私を振り返った。
「蛍。一緒に帰ろう」
別に拒否する理由もない。となり合って自転車をこぎ、勾配がきつくなる手前で、降りて押した。こうして並んでいると、いつの間に、こんなに背が伸びたんだろうと思う。男子の成長期は女子のそれより遅れてやってくるみたいで、彬は高校生になってから筍みたいにするする伸びていって、今では、見上げていると首が痛くなるほどだ。
「どした? 俺の顔になんかついてる?」
べつに、と、顔をそらした。声も低くなったし。だけど、やわらかい、落ち着いた話し方は、変わらない。
「彬、どうだった? この間の模試」
「ん。まずまず。今のとこ、B判定」
「すごいじゃん」
素直に褒めると、彬はなんだか、浮かない顔をした。
「蛍はこっちの短大に行くんだろ?」
「……うん」
彬は東京の大学を第一志望にしている。遠い。田んぼとみかん畑しかない、辺鄙な西の田舎町からは、あらゆる意味で遠い。
私は地元に残る。一応進学希望だけど、とくに、やりたいこととか、勉強したいこととか、取りたい資格があるわけじゃない。
十七歳の「今」を燃やすものも、将来の夢も、計画も、そんなものは持っていない。ただ、目の前にある選択肢から、無難なものを選んでいくだけ。
それでいいと思っている。そうすべきだと、思っている。
「あんたとの腐れ縁も、あと半年ちょっとでおしまいか」
おどけた調子でそう言って、笑う。彬は自転車を止めた。
「彬?」
「俺はおしまいにする気はないけど。卒業するまでの時間も。それからの時間も」
「彬。どしたの? シリアスな顔しちゃって」
「もともとこういう顔なんだよ、知ってるだろ? 蛍こそ、気づかないふり、するなよ」
「何を……?」
風が吹いて、田んぼの青い匂いが私たちの間をすり抜けていく。彬は耳たぶまで赤くなっていて、眼鏡の奥の瞳には、これまで見たことのない熱がこもっている。
それきり彬は、口をつぐんでしまった。私も。何も、言わなかった。
甘夏は、まだ浸かりきってない。ほんの少しの上澄みをすくって、炭酸水で割った。甘くて、酸っぱくて、少し、苦い。
飲むと時間が巻き戻る。七年前の、夏が蘇る。凛。
秘密基地へ連れ出した日の二日後に、凛の熱は下がった。風通しのいいお座敷に寝かされて、育っていくゴーヤのカーテンの緑を、じっと見つめていた。
請われて、凛のちいさな手のひらを握りしめた、夕暮れ。お座敷には、姉妹ふたりだけ。
「蛍。蛍は、好きなひと……、いる?」
まさか、凛がそんな話をしてくるなんて思わなくて。一瞬固まった私を見て、凛は握っている手にきゅっと力をこめて、ふわっと、笑った。
どきりと、した。凛が。大人に、見えたのだ。それで直感した。凛には……、いるんだ。
私はその時、どんな顔をしていたんだろう。凛に置いてけぼりにされたみたいで、淋しくて、綱渡りで辛うじて生きている凛が、それでも恋をしていることが、懸命に命を燃やしているみたいで切なくて。そして。その相手が誰なのかも、私は理解してしまっていた。
「私はいないよ、好きなひとなんて。たぶん一生、だれのことも好きにならないよ」
だって男子ってバカじゃん、って、笑っておどけてみせた。凛は、淋しげに笑った。
凛の笑顔をみたのは、それが最後だった。つぎの日の朝、凛はふたたび熱を出した。細い脛には草で切ったような細かいすり傷があって、玄関には凛の靴が脱ぎ捨てられていたし、パジャマの裾には泥がついていた。夜のあいだ、こっそり抜け出してどこかに行っていたみたいなのだ。両親は私を問い詰めたけど、ほんとうに何も知らない私をそれ以上追及することはなく。しんどい体をひきずってまでどこへ何をしに行っていたのか、今でもそれは謎のままだ。
熱は下がらず、体力の消耗がひどくて、凛は入院した。そして、二度と家に帰ってくることはなかった。
喉の奥で果実の苦みがはじける。空になったグラスを流しに置いて、私は洗面所に向かった。相変わらずばっさりと短い私の髪を、そっとつまんでみる。
鏡をじっと見つめると、ぼんやりと、もうひとつの影が浮かび上がってくる。私の、妹。
夢の中に出てくる凛は、髪が長い。腰まである。まっすぐな髪を、すとんと下ろしたまんま。時おり、ささっと後ろでひとつにくくる。あらわになったうなじは白くて、ふたごなのに、私のそれとはまったく違う。
凛は。教室の片隅で本なんて読んでて、クラスメイトがばかみたいなことで騒いでいても、輪の外から、くすくす笑って愉しげにそれを見守っているのだ。
いまだにツリーハウスへの憧れを持ち続けている彬が、夢中になってその魅力を語り倒すすがたを。頬を染めて、目を細めて、時折相づちを打ちながら、見つめている。
大切なひとは、ずっと、心の中で生き続けている。比喩ではなく、本当にそうなのだ。夜、眠ると、もうひとつの世界が開けていて、そこでは凛はきちんと成長して呼吸している。この家で一緒に過ごして、同じ高校へ通っている。
時々。現実がどっちなのかわからなくなるときがある。家族にも、彬にも、そんな話はしない。凛とともに生き続けている、この感覚は、きっとだれにも理解されないだろう。
放課後。散々だった英語の構文テストのやり直しを命じられて、私はひとり残ってこなしていた。 三階にある教室の、窓際、ちょうど真ん中が私の席だ。開け放たれた窓からぬるい風が吹きこんで、テキストがぱらぱらめくれる。慌てて押さえた。
「何やってんだよ、蛍」
彬だ。ひと睨みして、ノートに視線を落とす。
彬は私の前の席の椅子を借りて、腰かけた。私の机に頬杖をついて、じっと、こっちを見ている。
「あんた、何しに来たわけ?」
「別に。蛍が終わるまで待ってようと思って」
「待っててどうすんの」
一緒に帰る。と、彬は言った。その首すじが、赤く染まってる。私は目をそらす。目の前の英語構文に、集中しようとするけど、どうしてもできない。
沈黙が痛くて、息が苦しい。最近、彬はへんだ。
「これから、毎日。蛍と一緒に帰るつもりだから」
シャープペンシルの芯が。ぽきりと、折れた。
「蛍。ここ、間違ってる」
「うるさい」
うるさい。余計なことばかり言って、惑わせないでほしい。お願いだから。
帰り道。彬は、神社に寄りたいと言った。結局、流されるようにして、私は彬と連れだって自転車をこいでいる。昼間は晴れていた空には、雲が広がりつつある。
通っていた小学校の裏手にある神社は、小さいけれど古い森を残している。なかでもとりわけ立派な楠の幹に手をかけて、彬はつぶやいた。
「俺、この木が一番好きだな。枝の張り出しかたも、幹の太さも、高さも理想的」
「ほんと好きだよね」
苦笑してしまう。中学生の時から、ミニチュアのツリーハウスの模型をつくっては見せてくれていた。ひとつ、私にもくれた。彬はにいっと笑う。
「いつか絶対に本物をつくる。そしたらさ、一緒に住もうよ、蛍」
「ええっ? 住むの? まじで? 木に、だよ?」
まじで。と答えて、彬は私のそばに寄った。
「蛍には。何にも、ないの? やりたいこと」
「ないよ」
夢も。未来も。恋だって。いらない。
彬は私のほっぺを、むにっとつまんだ。
「前から言おうと思ってたけど。凛はさ。蛍に、もっと、自由に飛んでほしいって思ってるよ、きっと」
つままれた頬が、熱い。なにも答えずにいると、彬はさらに続けた。
「凛が死んだのは、蛍のせいじゃない」
昔から。彬は私の、本当の気持ちを見透かしてしまう。彬の手を、そっと、引きはがす。
「私のせいだよ。一卵性双生児なんだよ? どうして凛だけが、あんなに病弱に生まれてきたの? 私が、おなかのなかで、凛のぶんのいのちも吸い取ってたんだよ。だから」
「蛍」
彬が私の腕をとって引き寄せる。そのまま、私は彬の胸のなかにうもれてしまう。
「泣いても、いいから」
「泣いてなんて」
自分の放った言葉とは裏腹に、鼻の奥がつんとして、目の奥が熱くなる。ぎゅっ、と。彬が私を抱きしめる。
「はなして」
「嫌だよ。蛍が、好きなんだ」
「彬」
「子供のころから、ずっと。蛍が、好きなんだ」
そんなことを言われたって、私が、うんって言えるわけないじゃない。からだをよじって彬の腕の中から逃れようとするけど、彬の鼓動の音とか、シャツ越しに感じるぬくもりとか、そういうもろもろに、頭がくらくらする。
だけど。
「やめてよ! バカ!」
思いっきり押しのける。
「だって離れ離れになるんだよ! 卒業したら、おれはここを出てくんだよ! だからそれまで、蛍と、ずっと、一緒に居たいんだよ」
彬がわたしの腕をふたたび引いた。
「これまでとは、ちがう意味で。一緒に、居たい。特別に、なりたい」
彬のことばに熱がこもる。渾身のちからで、振りほどく。きつく睨みつけると、彬はうなだれて、ごめん、と、つぶやいた。
「……蛍も。おなじ気持ちだって思ってた。ばかだな、俺」
どうしていいかわからなくなって、私は、彬に背をむけた。駆けた。鳥居をくぐって、止めていた自転車のスタンドを蹴って、必死で漕いだ。
私を抱きしめた彬の、その腕の力の強さが、感触が、消えない。だって離れ離れになるんだよ、という彬のせつなげな叫びが、耳の奥に貼りついて消えない。
わかってる。でも。
彬だけは、だめなんだ。だって。彬は。凛の。
凛。……ごめん。
夕暮れを待たずに、雨がぽつぽつと降り出して。みるみるうちに激しさを増して、家に着いた時には、私はずぶ濡れになっていた。彬も傘は持っていなかった。今頃、あいつも濡れねずみになっているんだろうか。だめだ。彬のことを考えちゃ、だめ。
庭のタチアオイも、ばあちゃんが育てている、トマトや胡瓜たちも。雨を浴びてうなだれている。
私はその晩、熱を出した。熱い息を吐きながら、眠りに落ちる。
ふと、目を開けたとき。雨の音はまだ続いていて、あたりは真っ暗だった。縁側に面したお座敷、家のなかで一番風が通る場所。凛がいつも寝ていた場所。
私のそばにいた影が、すっと動いて、ひんやりとした手が私の額に触れた。
「よかった。下がってる」
凛はやわらかくほほ笑んだ。私と、同じ顔。毎日鏡で見ている顔。読みかけの本を膝の上に置いている。長い髪がさらりと揺れる。
凛が着ている、みずいろの格子柄のワンピースは、子どものころ、お揃いで買ってもらったものだ。凛は気に入ってしょっちゅう着ていたけど、私は、どうにも自分のキャラじゃない気がして、恥ずかしくて、着られなかった。十七歳の姿になっても。凛には、よく似合う。
「蛍も着たらいいのに。ワンピースも、スカートも」
「似合わないし」
「凛に似合うなら、蛍にだって似合うでしょ」
くすくすと、笑う。
「彬くんだって。似合うって言うと思うよ」
凛の口から、彬の名前がこぼれ出て。心臓がつくんと痛んだ。
「蛍」
凛の細い指が、私の頬をなぞる。氷に撫でられてるみたいに、冷たい。
「蛍、お願い。凛を、消して」
「凛……?」
「凛は、本当は、もう居ないの。だから、消して」
凛の輪郭がどんどんぼやけていって。不安になって触れようとした瞬間、
「あまなつ」
かぼそい声が聞こえた。そして、私はほんとうに、目を覚ました。
座敷ではない。ここは二階の、自分の部屋だ。そっと身を起こし、窓を開けてみる。雨はあがって、熱のひいたからだに、ひんやりとした風が心地いい。携帯を見ると、ちょうど日付が変わったところだ。彬からの着信が何件も入っていて、胸が苦しくなる。
ずっと、凛とふたりで使っていた部屋。凛の学習机は、未だ残されたまま。そっと、なぞる。引き出しの中には、凛が集めていた綺麗な千代紙や、ビーズや、ノートがそのまま在る。七年前の夏のまま、時が止まっているのだ。
ふと、何かがきらりと光って、目を留めた。鍵、だ。ちいさな、銀の鍵。
「日記帳、の……?」
青い花柄の、凛が大事に書きつづっていた日記帳。凛が亡くなったあと、気になってずいぶん探したけど、どこにもなかったのだ。きっと、凛があの世に持って行ってしまったのだろうと思っていた。だけど、鍵は、ある。
夏のはじめの夜、風が吹きこみ、薄い雲の切れ目から月の光が射しこむ。私は部屋を出た。寝間着のまま。七年前の、凛のことを思い出していた。あのとき彼女は、どこへ行っていたのだろう。
家族はみんな寝静まっている。ひっそりと、外へ。懐中電灯を片手に、反対の手には、小さな銀色の鍵を握りしめて。庭へ出て隣の家を見上げると、二階にある彬の部屋には、灯りがついている。勉強してるんだろうか。それとも。
と、がらりと窓が開いた。気づかれる。私は慌てて駆け出した。
狭い道路を横切り、ビーサンをつっかけて、ひた走る。坂道を下り、暗い林のなかへ。下草が夕方の雨で濡れていて、私の足も濡れた。あのときの凛は、きっと。
凛を、消して。
耳の奥で、夢のなかの凛のことばがひびいている。消えた日記帳、見つけてしまった鍵。
木々が途切れて、視界が開ける。いまにも朽ち果てそうな、かつての秘密基地。寄り添うように生えている甘夏の木。まるい黄色い果実が、だれにも収穫されずに、控えめな月の光を浴びている。
あまなつ。と、凛はつぶやいた。私はそっと、木の根元の土に触れた。雨のせいで緩んでいる。何かに取り憑かれたみたいに、素手で土を掘り起こす。まるで、だれかのお墓をあばいているみたいだ。だれかの。凛の。ひっそりと葬った、秘密を。
爪に、かちりと、なにか固いものが当たった。にぶい銀色をしている。アルミの、四角い、大きな缶だ。親戚がお土産によくくれる煎餅屋のもので、空き缶をもらって、姉妹それぞれ、色々なものを貯めるのにつかっていた。お菓子のおまけのおもちゃのジュエル、シールやカード。友達からの手紙。どんぐりに、貝がら。
掘り起こして、瓶にまとわりついた湿った土をぬぐうと、ぼろぼろになったうさぎのシールがあらわれた。凛が、自分の缶に張っていた、めじるし。
うるさいぐらいに鼓動が高鳴る。ふたに手をかける。土の中で長い歳月を経たとは思えないほどにあっさりと、ふたは開いた。
みずいろの、花柄の。日記帳。凛の秘密。
小四の秋から始まっていた日記は、日付が飛び飛びで、一か月ほど開いているところもあった。凛の体調の上がり下がりを如実にあらわしていた。一行だけようやっと書いている日もあれば、二ページにわたってぎっしりと書き連ねてある日もある。
早熟で聡明だった、私の、妹。
家のなかに閉じこもらざるを得なかった凛は、それでも、縁側から見る、季節ごとに変わる庭の植物を、風のにおいを、つぶさに、かたちのいい字で丁寧に綴っていた。
わたしのことも。彬の、ことも。
蛍が羨ましいとも、彬が好きだとも、ひとことだって書かれていない。
懐中電灯で照らしながら、懸命に文字をひろって読むけれど、どこにも書かれていない。ただ、彬が髪を切ったとか、宿泊学習から帰ってきた彬は少し日に焼けているとか、彬の夢が叶うといいなとか。ちょこちょこと彬は現れる。
そして。
――7月14日。きょうはからだの調子がよかった。
最後のページは、そんなふうにはじまっている。せがまれて、秘密基地に連れて行った日のこと。凛の文字がこころなしか跳ねている。
――彬と蛍の秘密基地。おとなになったら、ふたりでほんものの家を建てて住むのかな。
どきりと、した。おとなに、なったら……?
――わたしはおとなになれない。
そこで文章は途切れている。
永遠に、つづきが綴られることは、ない。
背後で、かさりと音がした。
「凛?」
反射的に、振り返る。凛じゃ、ない。
「彬……」
かぼそい月のひかりを浴びて立っているのは、彬だった。やっぱりあのとき、気づかれてしまっていたんだ。
「つけてきたの……?」
「ごめん。どうしても気になって」
彬はそっとわたしのそばに寄って、しゃがんだ。
息苦しいのは、草の、緑の、青いにおいのせい。これから訪れる夏の、ひかりをあびて、どこまでも伸びていくであろう緑の、息遣いのせい。けっして、夕方のことが蘇ったせいじゃ、ない。
「凛が」
わたしの声はかすれていた。
おとなに、なれない。
だれよりも、凛が自分の運命をわかっていた。誰にも見られないように、命が途切れるその前に、唯一吐き出した本音のことばたちを、ここに埋めたんだ。
「おとなに、なりたかったね」
凛。
わたしの手に、ひとまわり大きな手が重なった。もうわたしは、振り払うことはしなかった。
わたしだけおとなになっていく。ごめんね。凛の時間は止まったのに、わたしの時間だけは続いていく。いつまでも、そのことを受け入れられなかった。想像の世界のなかで、わたしは勝手に凛の時間をすすめていた。
「わたしが、間違っていたの?」
凛が答えてくれるはずはない。だって、もう。
凛を消して、だなんて。言わせてしまってごめん。
……ごめんね。
「凛は、もう、居ないんだね」
わたしのつぶやきは、夏のはじめの夜の、濃密ないのちのにおいのなかに、溶けて消えていく。わたしは「わたし」を生きる勇気が、どうしても、持てなかった。意気地なしだったんだ。
「わたしね。凛のために、自分の気持ちを、殺してた」
「知ってた」
彬がそっと、ことばを置いた。知ってた。つないだ手が発する熱は消えない。どきどきしている。わたしの心臓は、休むことなく拍動しつづける。いつか凛の眠る場所に行くその日まで、ずっと。
私は彬に、ほんとうの想いを、告げた。