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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説

死神とさよならのキスを

 高みの天上から現世界を見下ろせば、呆れるほどの数の人類がうごめいている。

 太陽が隠れた漆黒の闇の中、飽くなき欲望を満たすために自ら光を作りだし、その活動を止めることはない。人目を憚り目的の人物に辿り着くのは神だとて容易な事ではなさそうだ。

 透明になって姿を隠すなんて人間が作り出した空想の能力を神は持たない。

 神も人間と等しく個の産物で、同じ姿形の者は一つとして存在しない。

 人種ならぬ神種は多様だ。


 今まさに人間界を眺めている神も、人間の想像を遥に越えた姿をしているに違いない。

 背中に生えた大きな翼は闇と同じく漆黒をまとっている。外見は人と変わらず頭と胴体で形勢されてはいるが、人と比べると手足が妙に長い。背中を丸めて前傾姿勢で空を浮遊すると青味を帯びた黒髪が雲母のように空間に広がる。胴体と同じ程の長さがありそうな髪の間からは恐ろし気な一角が突き出ている。ふたつの瞳は鋭く金色に光り、下界を悩ましげに見つめている。


「さあ、お仕事、お仕事。俺の担当のJ100506はどこだ~」

 ばさりと翼を広げて異形の神が飛び立つと数個の羽毛が抜け落ち散っていく。

 そうして神の姿は下界に向かっていった。


 


 真昼のようにネオンが光る都会の夜空に、一羽の鵺鳥ぬえどりが旋回している。

 異形の神が人間にその存在を悟られぬように姿を変えて彷徨っているのだ。

 やがて獲物を見つけたのか、くちばしを窄めて一直線に飛んでいく。都会の闇に溶け合うようにその特徴的な黒い斑点を付けた肢体は、とあるビルの中に吸い込まれていく。

 高層ビルの最上階にポツリと明かりの灯るフロアが見える。明かりに導かれるように進んでいけば、重厚な扉は開け放たれた状態で、十分な奥行きの部屋の奥にデスクが置かれている。背には全面ガラス張りの壁が都会の喧騒を映し出している。

 その喧騒をじっと眺める人物を鵺鳥は捉えた。

 反射して写り込む鵺の姿はやがて恐ろしい異形の神へと変貌する。

 何か気配を感じたのか、背広を着たこの部屋の主が振り向くと、小さな鳥は本来の姿に戻っていた。神は己れの姿を見て人間が驚くことを想定して両手で耳を塞いだ。


「……」

 驚いたように目を開いても、恐怖の叫びは聞こえてこない。

 神は拍子抜けして、人間の男の脳に直接話しかけた。


「……ちょっと、ちょっと! 少しは驚いてくれてもいいんじゃないの」


「これは幻覚じゃなくて、現実か?」


「あんたは幻滅するかもしれないけどね」


「その姿からして天使ってわけではなさそうだな」


「俺は天界から来た神。ただし、神は神でもあんたの命を貰いにきた死神だよ」


「……なぜそれを私に告げるんだい。黙って命を奪えばいいだろう」

 心底不思議そうに人間の男は神に問いかける。


「それがそうもいかないんだよ。何事も調和が大事でね。最近の人間はやたらと死にたがったり、頼んでもいないのに殺し合って、天国も地獄も死人で溢れかえってるんだよ。寿命を全うしない奴が多過ぎて定員オーバーで輪廻の歯車が狂い出す始末だ。今度は転生する人間の数が多過ぎて死人の数が足りなくなってね、補充することにしたんだよ。俺たち死神の出番が来たってわけさ。門番の奴がうるさくてさ。早くても遅くても駄目。今からきっちり一週間後に死んでもらう。俺はそれまでの監視役ってこと。死ぬまでに一週間の有余があるからね。この世にやり残したことがあるなら悔いの残らないようにしてよ」


「一週間……それが私に与えられたこの世との時間……」


「まあ、少ないよね。でも、決まりだからさ、勘弁してよ。どうあがいてもあんたは必ず死ぬ。選ばれたんだよ。ごめんね」

 何故この男が選ばれたのか、本当のところは死神も知らない。

 渡されたリストには名前と死ぬ日にち、死因しか記されていない。手抜きの仕事は担当の神のやる気の無さが伺える。これも個性というべきだろう。時間に細かいあの門番の神とは大違いだ。

 

 死人のリストに載った者を確実にあの世に連れ帰る。

 何とも単純な仕事なのだ。意味も理由も知る必要はない。今までもそうしてきたし、これからだって変わらない。

 本当は目上の神から言われていることがひとつだけあるのだが、人間には秘密にしておく。

 対象者が命乞いをしたら引き上げるように言われている。

 『助けてくれ』と言われたら手を引くことになっているのだ。それくらいの慈悲は死神も神の端くれとして持っているのだが、教えてやる義務もない。

 人間を哀れに思い同情するなんてお神好しではないのだ。

 死に際の人間の諦めの悪さは何度も目にしてきた。最後をどう向かえるかでその人間の品位が知れる。偉そうな説法を説く聖職者でさえが生にしがみつくのだから、凡人は尚更だ。選ばれた今回の人間はどんな最後を見せてくれるのか、死神は密かに期待している。


「君は死神になってどれくらいなんだい」

 そんな死神の思惑など知らぬ男はマイペースに死神に問いかける。


「さあね。気が付いたらこの仕事をやってたからなー。けど、このエリアを任されるようになって100年は経つかな。人間も随分と変わったよ」

 進化する生物の歩みは決して早くない。けれど人間は神も驚くほどのスピードで変化を遂げてきた。

 恐れを知らない好奇心と飽くなき探求心。

 夢を現実に変えてしまう想像力。

 神に近づこうとするその欲望は生死をも支配しようとしている。

 万物の理はその生死にある。

 淘汰されるべきは果たしてどの生き物なのか。

 神の領域を侵す勢いの人間の進化は、やがて、審判の日を迎えるに至るかも知れないと天界はヤキモキとして見守っているのだ。


「全ての死を君たち死神が監視しているのか」

 

「違う。命には期限がある。寿命をまっとうした奴には関わらないし、運命によって命を落とした奴もまた然り。俺が関わるのは死神に選ばれた特別な人間だけだ」

 神は決して全ての命に対して平等ではない。神も万能ではないから、人間の行いを見逃すこともある。有名な小説にある罪人が小さな虫を助ける話はあながち嘘ではない。気まぐれに小さな命を救ったことで罪人は地獄から抜け出すチャンスをもらった。

 神が見ていたか、見ていなかったか。

 ただ、それだけのこと。

 望みが叶えられるのは、ほんの一握りの人間でしかない。


 実はこの人間は刺されて死ぬことになっている。

 身形や余裕のある態度からして、恨みを買う要素は山ほどありそうだから怨恨の可能性は大だ。これまで見てきたターゲットの誰よりも悲惨な死を遂げるかも知れない。


 骨肉の争いにパワハラ、セクハラ、痴情の縺れ。権力争いに仲間の裏切り。

 理由ならいくらでもある。 

 

 沢山の幸運を持って生きてきた男が辿る悲惨な未来。こんな愉快な見世物は地獄以外ではここでしかないだろう。

 死神はなんだか楽しくなってきた。

 

 人間の男について死神が知っていることは多くない。こんな真夜中にひとりでオフィスにいるくらいだから仕事は忙しいらしい。

 壮年期の落ち着いた雰囲気の男は人間社会で言う成功者のひとりに違いない。明日をも知れぬ、運命に逆らう気力もない無力な弱者ではなさそうだ。

 何の因果か死神に取りつかれた男の人生は幕を閉じようとしている。

 運命なんてこんなものだ。

 予定通りに人生を過ごした人間がどれだけいただろう。

 人間はとにかく未来を知りたがる。一分先、一日先のことまで予定を立てて行動する。

 考えるだけ無駄なんだと死神は人間の行動を見て常々感じている。


 例えばオギャアとこの世に生まれた時から育てる親はその子の将来を案じる。大人になってから苦労をしないで済むように高額の教育費をつぎ込んで有名な私立学校に通わせ、子どもの可能性を信じてあらゆる習い事に足を突っ込む。子どもの全てをコントロールして親の見つけた道へ一直線。よそ見をさせる隙も与えない。

 それでも子どもは自分の進むべき道を見つけるのだ。

 親の言いなりの人生を歩まない。

 先回りして障害を全て取り除いても、興味がなければ横道にそれて行く。

 世界はカオスに満ち不調和の中で自らのアイデンティティーを見つけていく。

 それが人間の面白いところで他の生き物と違うところだ。

 

 とにかく生きることに無駄が多い。

 なんの得にもならないことをやってみたり仲間のために自らを犠牲にしたりする。

 この男もそうだろう。

 こんな真夜中に仕事を好んでやるもの好きだ。

 十分な休息と安眠は健康のバロメーターだと昔健康オタクの女が訴えていた。健康でも死神に取り憑かれればそれまでなのだけれど、女は最後の日までその生活を止めなかった。


 タバコが止められない男。

 暴飲暴食を繰り返すメタボ予備軍。

 酒が止められないキッチンドリンカーの女。

 借金を繰り返すギャンブル依存症。

 形は違えど、誰しもが何かにこだわり、何かに縋っている。

 言うならこの男は仕事中毒か。

 死ぬときに仕事の功績は勲章にはならない。生まれたときと同じく、ただ丸裸でこの世を去るだけだ。それなのに自分の命を縮めてでも仕事に打ち込む。

 この時死神には人間の男がひどく滑稽に見えた。

 

 翌日もいつもと変わらない様子で仕事場に現れた男は鵺鳥に姿を変えた死神を迎えてくれた。机に積まれた書類に目を通してひたすら考えを廻らす。こんな退屈な時間はないと死神はうんざりする。 

 時間は限られたのだ。

 こんな狭い部屋に篭もっていないで美しい景色を見たり、美味しいものを食べた方が有意義なのではないか。

 死神はお節介ではあるが男に提案してやることにしたが、男はうんと言わない。


「遺産相続の整理をしておかないと後の手継ぎが大変なんだ。株主が混乱の隙をついてクーデターでも起こしたら大事だからね。弁護士に残す書類はすべて私が自筆で提出した方がいいだろうし、今はこっちが最優先だよ」


「泥沼の内部分裂か」


「死神のくせに下世話な話しに食いつくね」


「言っただろう。この仕事について100年だぜ。いろんな奴を見てきたんだ。人間の愚かさは十分承知してる」


「……なるほどね」

 栄華の時が永遠だと思うことほど愚かな考えはない。

 先人が己の過ちを繰り返さないように幾つもの文献を残してくれているのに、行動が伴わない人間は誠に不思議な生き物だ。

 それほどまでに許されない罪は魅力的なのか。

 自ら招いて地獄を味わう罪深い人間が後を絶たないのは、創り出した神の失敗が起因しているのか、それとも後天的に生まれ出たものなのか、謎は深まるばかりだ。


 静かな部屋に扉を叩く音が響き、死神の前に新たな人間の姿が現れた。

 ターゲットの男よりは若く血気盛んな青年期を過ぎた頃の年齢だろう。同じくスーツに身を包み、隙のない足取りで男の方に近づいて来る。そんな突然の訪問者に不快感を表すでもなく男は手を止めると、入口に近いソファーまで自ら歩み寄った。

 気心の知れた相手なのだろう。

 人間がコンタクトの最初に取る握手や礼は一切なしで、座り心地の良さそうなソファーにその体を沈めた。


「元気そうだね。父さん」

 男の第一声に興味を惹かれたのは死神だった。

 ターゲットの男にも家族がいたのだ。

 

 人間が最も大切にする繋がりの一つで、この世に未練を残すのも家族との別れが辛いことがほとんどだ。男が死について死神に問うことはこれまでなかった。

 まるでこの世に未練などひとつもないといわんばかりの態度にがっかりしていたくらいだ。多少のハプニングはクライマックスを盛り上げるスパイスになる。男にとって家族がどれほどの優先順位を占めているのか知る絶好の機会だ。


「父さん、久しぶりに夕食でもどうかな。みんな父さんに会いたがってる」


「今は忙しくて時間が取れないんだ。落ちついたら一緒に食事に行こう。約束する」


「うん。---それじゃ、連絡待ってるよ」

 僅か10分足らずの面会にも関わらず若い男は部屋を後にする。

 死神はお互いに言うべきことが他にあると知りながら、あえて本題には触れないでいるような距離を感じた。踏み込むのをためらう他人行儀なぎこちなさだ。

 それはきっと正解だ。

 死神には二人の間にある決定的な溝が見えていた。


「お前の子どもか?」


「ああ。独立して今は離れて暮らしているせいか、いろいろと心配してくれてね。優しい子なんだ。私がもうすぐ死ぬと知ったら、どんなに心を痛めるだろう」


「いろいろと複雑なんだな」


「どういうことだい」


「あいつとお前はニオイが違う。つまり血縁関係は無いってことだ。お前たち人間にとって血の繋がりとは、とても重要なことなんだろう」


「匂いを嗅ぎ分けられるのか。死神には面白い能力があるんだね。確かに息子と私の間に血縁関係はない。だけどあの子は私の息子に違いないし、とても愛している大切な家族だよ」

 合わせた手を固く握り締めながら、男は口元に運ぶと目を閉じた。何かを必死に耐えようとしている男の言葉に嘘はなさそうだ。

 大切な存在だからこそ今回の宣告を告げられないのだろう。

 恐怖に耐えきれずに家族に打ち明け、狂人扱いを受けた人間を見たことがある。地下牢に閉じ込められ、生き地獄を味わい死んでいった者もいた。

 人間は自分の理解の及ばない現象に恐怖する。

 その現象に相応しい答えを欲する。

 そうしなければ不安を解消できないからだ。そうして時には信じられないような愚かな結論を導き出す。彼の地で起きた魔女狩りや悪魔伝説も、人間の恐怖が作り出した妄信といえる。

 死神は男の判断は正しいと考えた。


「失礼します」

 客の湯飲みを下げに男の部下が顔をのぞかせる。

 訝しげに部屋を覗いた女もまた不安気なオーラを放っている。ここ最近の男の変化に気付いているのか、疑うような視線をなげる。


「何? どうかした?」


「あの……話声が聞こえたもので---。他に誰かお部屋にいらっしゃるのでしょうか」


「まさか。独り言だよ」


「それなら宜しいのですが---社長の体調管理にはくれぐれも気を付けるように部長から言われておりますので」

 

「溜まった書類の整理をしているんだよ。心配には及ばないよ」

 男の前に現れる人間は皆、男を気使うばかりで、不穏な空気を纏った人物は登場しない。怨恨の線で死を予想していた死神はすっかり当てが外れてしまった。

 このままでは天変地異でも起こらない限り男が不自然なく死ぬ場面は来ないのではないだろうか。或は街中にゾンビが蔓延り暴走して人類を襲わない限り永遠に平和な日常が続くように思われた。

 それくらいに男の一日は単調で予定通りに終わっていく。

 時には仕事の流れで夜の街に繰り出し、華やかな蝶の舞う楽園に羽を休めることもあったのだが、男が理性を手放し、欲に溺れる姿を見せることはなかった。

 死を恐れない無垢な子どものように心が安定している。

 男は、死神の言葉を信じていないのではと、死神は疑い出していた。

 男が最後の時を迎えるまで残り24時間を過ぎた。


 その日は満月に照らされた夜だった。

 夜空にぽっかりと浮かぶ月が雲の間から覗いている。南から流れる風に街路樹が揺れている。生ぬるい風は都会の淀んだ臭いを運んできて、決して気持ちの良い夜だとは言えない。雲の流れは早く、見る見るうちに雨雲を運んでくる。せっかくの満月も顔を隠してしまった夜道を男はひとり歩いている。


「たまには夜の散歩も良いだろう。君には見慣れた風景かな」

 

 男の肩にとまって散歩に付き合う死神は少しだけ楽しそうに答えた。


「人間がこんなに活動してなけりゃ俺も気楽に飛べるんだけどな」


「そうか。昔とはずいぶん変わったんだろうね」


「騒がしいと夜が泣いてるよ」


「おっさん、洒落たスーツ着てんな。ちょっと金出せよ」

 先ほどから後をつけてきたのだろう。人目の少ない路地を過ぎた辺りで声を掛けてきたのは派手なジャンパーを着た青年だった。


「……今何て言った?」


「金を出せって、言ってんだよ!!」


「お前にタダでくれてやるものはひとつもない。後悔する前に消えろ」


「偉そうに説教垂れんなジジイ!」

 人間の青年の手元にバタフライナイフが光る。それでも怯まない男は青年を真直ぐ見つめ返した。


「自分が何をしようとしているのか分かっているのか? ここに来るまでに何台の防犯カメラにその姿を晒したか数えたか? まさかコンビニに寄ってカードで買い物なんてしてないよな。次の日には指名手配だぞ。お前の家族も、友達も、恋人も、全員の人生が滅茶苦茶だ。わずかな金欲しさに哀れな末路だな」


「黙れ! 黙れ! 黙れ!」


 ドスン、と鈍い音がする。

 折り重なるように地面に倒れ込んで、上になった青年がそっと起き上がると、ナイフを持っていたはずの手は赤く染まっていた。ヌルリとした感触と生温かいそれは、男が流した血だ。腹に突き刺さったナイフを見て、青年は悲鳴を上げる。


「ぎゃーあああああっ」

 一目散に逃げる青年が消えていく。

 罰を与える必要もないだろうと死神は見逃した。

 沢山の遺留品を残してどこに逃げたのだろう。逃げ場所などこの世にある訳もない。誰も見ていなくとも青年自身が真実を知っている。逃れようのない真実が青年を追い詰めていく。罪に染まったその身に枷を背負って生きていくのだ。当然死んでも苦しみは終わらない。地獄が手招きをして待ち構えている。 


 赤く芳醇な血のにおいが死神の鼻腔をくすぐる。

 男の命と引きかえに鮮血の花が男の腹に咲き誇る。

 大人しく財布を差し出せば刺されることはなかったはずだ。抵抗をしないで言われるままに全てを差し出せば、或は免れたかも知れない。

 

 死が男に迫っていると警告した。

 それなのに---。


「何故だ」


「ゲホッ---私が…望んだ…からさ」


「死を待っていたのか」


「ああ……感謝します。神よ」


 神は存在して、男の願いを聞き入れてくれた。

 

 これでやっと肩の荷が下りるのだと男は安堵の息をこぼす。

 毎晩寂しいと妻の写真に縋って涙を流すのは昨日で最後だ。

 男を残し、あっけなくこの世を去った妻をどれだけ恨んでも、妻は化けて出てくるどころか、夢にも現れない。

 妻を失った男の落胆振りは周りの人々も不安になるほどだった。

 悲しみの中に憤りを含み、無情な運命に抗う彼の心に誰も近づくことは許されなかった。

 

 男が願ったのは、自分の命を神に差し出し、妻の元に帰ることだった。

 

 終わりの日に、後を追うなと言い残した天国の妻はきっと許してくれるだろう。


 言いつけ通り、子どもたちを見守り、会社を盛り立て、精一杯生きた。

 けれど、妻を失った喪失感を埋めるものはこの世に何もなかった。

 誰も、

 何も、

 妻の代わりになれるものは見つけられなかった。

 恋しいのはただひとり。


 沢山の贅沢と我儘をしてきた男が見てきたこの世は妻の死と共に色を失くしてしまったのだ。


 吐く息が浅くなって意識が遠退いていく。

 横たえた体を一ミリも動かせない。

 こんな惨めな死を誰が想像しただろう。

 あらゆる幸福を手にした男が物取りに刺されて路上に転がっている。都会の片隅で誰にも知られず、ひっそりと息を引き取る。


 スキャンダラスに翌日の新聞の紙面に掲載されるだろう。

 運命だと言うのならそれも悪くない。

 男はこの世に未練など何もないのだ。


「さあ、私を…連れて行けっ……死神」

 掠れる声は最後の気力で死神に届いた。

 まんまと騙されたのは死神の方だった。楽しみを奪った男の望みを叶えるのは癪に障るが仕方ない。死神は儀式の言葉を唱えた。


「お前の魂をその体から引きずり出す。死の世界に送り出そう」

 男を抱き起して死神は男の唇に口付けた。

 ピクリと男の指先が痙攣してだらりと力が抜ける。


 やがて空中に男の離脱した魂が靄を作る。

 いつの間にか降りだした雨粒にその身が濡れそぼっている。赤い花は雨に薄められ溝に流れて消えていく。死んでいるのが嘘のように目は見開かれ天を仰いでいた。


 痛み、

 後悔、

 無念、

 怒り、

 悲しみを纏う表情はない。

 まるで天使に出会ったかの様な穏やかな瞳を讃えている。


「惨めな死にざまだな」


「そうでもないさ。散々好き勝手して生きてきたんだ。私には相応しい死にざまだよ」


「息子との約束はいいのか」


「大切なのは結果じゃない。約束をした事実だよ。最後の晩餐なんて、あの子に辛い思い出は必要ない。この世は生きている者のために存在するんだ」

 

 死神が人助けなんて、可笑しな経験をしたものだ。

 愛する者との別れに生きる気力を失くした男はすでに死んでいたも同然と言うことか。

 面白い。

 人間は面白い。

 だからこの仕事を辞められないのだと死神はほくそ笑む。

 

 死神は男を先導しながら天界へ上っていく。

 けたたましいサイレンの音を最後に聞きながらこの世を去っていく。

 死を願った男が下界を振り返ることは一度もなかった。



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