水族館の人魚
都心から離れた少しだけ田舎の街にある小さな水族館。
私はそこに毎日惜しげもなく通っている。
薄暗い、水槽の照明だけだ頼りの館内を歩く。この水族館は小さいながらもたくさんの魚達が遊泳している。
できた当時は大変繁盛したらしいが、何十年も経ってしまった今では来る人も疎らだ。
ていうか、平日の夕方にくると殆ど人がいないと言ってもいい。こんなに小さな水族館で、客の足も減ってきているここはどうして存続できているかは謎だ。
スタッフも30人いるかどうかだし。と、私はここの水族館の心配をするのだ。
ここの水族館はいくつかの水槽があるわけではない。
一個の巨大な水槽が、円を描くように設置されてあって、丸っと一周することができるのだ。
この設計が好きだと言うのも、ここに通う理由の一つでもある。
一つの水槽にたくさんの魚たちがいて、魚を追いかけるように、ぐるぐる回りながら彼らを眺めるのだ。
疲れたらベンチに座ればいいし、喉が乾いたら缶ジュースを飲めばいい。
休日は都内に遊びいく友人達を見送るように、私はここにきて魚を観る。
6歳の時に家族でこの水族館に来てから以来、10年間通い続けている。
ここの水槽になんの魚がどれくらいいるのか覚えてしまって、ついには名前まで全員につけた。
ここに10年いるスタッフさんの顔と名前は全部覚えているし、顔見知りで仲がいい。
一番古株の長谷川さんには、進路はここにしたらとまで言われた。
…本当にそうしてしまおうか。
進路のことは考えたことがない。
将来のことも考えたことかない。
だってずっと、彼らと一緒にいたし、…考えたくもなかったし。
夢ならある。
私は、できることならば、
『こっちにきたい?』
目を3回擦った。
目の前に、水槽のガラスに隔てられて私に話しかけてきたソレの存在
いま現実にあるものなのだろうかと。
人間がいたいのだ。水槽の中に。
生身の人間が、足ではなく魚ののような尾ひれを動かしながら、私をにっこり見つめている。
上半身は若い男の人だ。
白い肌を晒し、顔は見惚れるほど美しい。
そして下半身は魚だ。
これは俗に言う……
「人魚だ」
誰もいない館内には私のその呟きでさえこだました。
紛れもなく目の前の生物はおとぎ話でよくある人魚の姿をしていた。しかし、男の人魚がいるとは思わなかった。人魚は上半身は美しい女だと言うイメージが濃い。
人魚はニコニコしたまま私を見ている。
「あなたはなんなの?」
訝しげにそう問えば、人魚は楽しそうに目を細める。
「さあなんだろうね?僕は産まれてから僕だし、ずっとここにいたか、そうだね……ここの主とでも言っておこうかな」
「馬鹿にしないで。私は10年ここに通い続けているけれど、あなたはいなかった。今日、初めて見た」
「それは君が僕を今日初めて"視た"んだろう?今まで視えていなかったものが、今日、この瞬間視えるようになったんだ。僕は君のことをもう10年もう見ているからね」
つまり、私や他の人達には見えていないだけで、この人魚はずっとこの水槽に存在し続けてきたモノだということか。
なら、どうして視えるようになってしまったのだろう。
首を傾げた私に合わせて、彼も首を傾かせた。
「それは今日この日で、君がここにきて10周年記念なんだからじゃないかな!」
人魚は首を傾けたまま、嬉しそうに笑って見せた。
そしてその言葉に拍子抜けする。
そうだったのか。
記念日なんてものには興味がないから覚えていなかった。
10年くらいは経ったのだろうなという感覚だったので、今日だということは知らなかった。
「懐かしいなあ!君はお父さんに肩車をしてもらって、目を輝かせながら僕を視ていた。僕は何度も君に話しかけたんだけれど、君はアリエスやタウリスに夢中になってさ、ずっと無視したんだよね。でも、あの頃の君は本当に可愛かった」
色々疑問はあるけれど、喋り続ける人魚を遮って、私は言った。
「人魚サン、あなたの名前は」
「スターライトだよ、パールちゃん」
ゴンッ
完璧な笑顔のスターライトの顔に、拳を打ち付けた。
いや、実際はガラスのせいで私が拳を痛めるだけになるだけれど、それでも良かった。
"パール"そう呼ばれると頭に血が上る。
小学校の時、あだ名はパールちゃんねと勝手に決めた女子にビンタした。
もちろん先生に怒られ、友達が減った。
中学校の時、授業中パールとふざけて私を呼んだ先生に向かって辞典を投げて鼻を骨折させた。
怒られた。でも直さない。治せない。
だから今も、水槽のガラスを殴った。思い切りが良すぎたのか、拳から血が流れて、綺麗に磨かれたガラスを伝って流れたが、それどころではない。
私はスターライトを睨みつける。
「私は海野真珠。次そうやって呼んだらお前を活け造りにする」
いつもこんなふうに言ったら、意外と効果はある筈なのに、スターライトはまた完璧な笑顔で私に笑いかける。
「わかったわかった!海野真珠っていうんだね。てっきり、パールって言うのが名前かと思っていたよ」
それもそうだろう。
両親は私のことを、パールと呼んでいたから、水槽の中からそれを見ていた彼は私がパールだと思うだろう。
それでもやっぱり、パールと呼ばれるのは嫌いだった。
閉館までスターライトと他愛もない話をする。
驚いたことに、彼は自分が何なのか本当にわからないらしい。
知りもしないで、私のことをずっと見ていたのだそうだ。
だから私のことはなんでも知っていた。
たまに能天気な彼に怒ってしまいそうになるが、その屈託の無い笑顔に叱る気にはなれない。
それにスターライトは私が名前をつけたすべての魚たちの名前を知っていた。
さっき言っていたアリエスはマンタ。
タウリスはエイの名前で、こっそりつけていた名前をスターライトはきちんと覚えていたのだ。
なんだかそれが恥ずかしくも嬉しくて、それから、毎日私は彼と話すことが新しい日課になった
「自分の名前はどうしてわかるの?」
「みんながつけてくれたのさ」
「もしかして、アリエスやタウリスが?」
「そう!みんな君のことが大好きなんだよ。僕が生まれたあの日も、みんな受け入れてくれたんだ。そうそう、ジェニミ達がさ、君は髪が長い方がいいってさ」
「本当?じゃあ、伸ばそうかな羨ましい、スターライトはみんなと話せて」
スターライトとと出会って、早くも1ヶ月が経とうとしていた。
彼の優しい人柄で、私は彼に心を開いて、学校の悩みなどを話すようにもなっていた。
彼と話すのが新鮮で楽しくて、水族館に向かうときの私の足は速まる。
今日は決めたこともあって、それをスターライトに報告したかった。
お金を払い、チケットを買って館内に入る。
薄暗い館内の中で、長谷川さんやスタッフの人達とあって少し話をしてから水槽に向かう。
「スターライト?」
スターライトを呼べば、いつも泳いでこちら側にくる。はずなのに、今日は彼の姿がない。
ぐるっと一周して水槽の中をくまなく探すが、いない。
長谷川さんたちにスターライトの話はできない。第一、彼女たちにはスターライトの姿は視えないのだ。
そこで私はハッとする。
"スターライトがいなくなってしまったのではなくて、私が視えなくなってしまったんじゃないか"
背筋が凍る。
嫌な汗が吹き出して、走り出してスターライトを探した。呼んだ。
「スターライト!どこなの!?どこにいるの?ねえ、ねえみんな知らない?アリエス!タウリス!ジェミニ!キャンサー!レオ!バルゴ!リゴ!スコーピオ!!サジタリアス、カプリコーン、アクエリアス、ピスケス!!ねえ、ねえったら!!」
息を乱して、その場に座り込む。声を出して、子供みたいに泣きじゃくっていると、長谷川さんがどうしたのと駆け寄ってきた。
私は何も言えず、ずっと涙を流して、首を振るばかりで、長谷川さんは私の手にカントリーマームとキットカットをおいて、元気をだしてと言ってからいなくなった。
気を使ってくれたのだろう。
それでも涙は止まらなかった。
水槽にすがりついて、みんなの名前を全て呼ぶ。
『姫』
『我らが姫』
『どうか顔をあげて』
『真実をお教えしましょう、姫』
声が聞こえてきて、涙を流したまま顔をあげた。
すると、目の前に水槽の全部の魚たちが私を見ていたのである。
優しい目で、私に何かを訴えるかのように、全員私のところに集まってきていた。
「みんな……!!アリエス、ねえ、彼は、スターライトはどこに行ってしまったの?教えてちょうだい!」
マンタのアリエスに向かって懇願する。反射で、顔を涙でぐしゃぐしゃにした私が見えた。
『姫、彼はここにいるのです。あなたが見えないだけで、私の隣にいるのですよ』
アリエスは口をパクパクさせて、目を横にやる。
そこには何もいない。
だけど、その空間を一つ開けた隣にタウリスがいるのはわかる。
タウリスとアリエスの間に、今私が手をつけているこのガラスの向こうに、スターライトがいるというのか。
その時、目の前にピンクの貝殻が差し出された。
差し出された、というのはわからないが、貝殻が私に向かって浮いている。
きっと、スターライトが私に向かって差し出しているのだ。
私はまた、うめき声をあげた。
「どう、して…どうして視えなくなってしまったの?私、私、あなたとまだ1ヶ月しか会ってないの。でも、スターライト。私、あなたのことが…………
好きなのよ。
」
ポロリと落ちてしまった言葉は、彼の元に届いただろうか。
地面に落ちてしまわなかっただろうか。
人魚に恋した人間の女。
愚かな人間の女。
やっぱり、ハッピーエンドじゃないんだ。
人魚姫だって、バッドエンドだものね。
『スターライトの存在は、我々にもわかりません。ですが、彼はもう消えかかっています。我々にも見えにくくなってしまっているのです』
私は首を振った。
そんなこと聞きたいわけじゃなかった。
私はスターライトに会いたかっただけ。
もう彼に会えないことを聞きたかったわけじゃない。
『いずれ彼は、消えてしまうでしょう』
こんなの嘘だ。
夢だ。
でもこれを夢にしてしまったら、スターライトの存在まで否定したことになってしまう。
『姫、スターライトはまた会えると言っています。だから…』
アリエスの言葉を遮って、水槽を叩いた。
『また会えるって根拠はどこにあるの!?馬鹿!スターライトの馬鹿!どうして消えるって直接言ってくれなかったの!そしたら、今日いきなりお別れすることなんてなかったのに!!』
消えるなんて、いなくなるなんて、昨日で会ったのが最後になるだなんて、昨日の私は知らなかった。今日の私も知らなかった。
知っていたら、さよならが言えたのに。
お父さんにも、お母さんにも、さよならが言えたのに。
「お父さんはね、お母さんが食べちゃった」
口の周りに赤がベットリと張り付いたお母さんが、小学校から帰ってきた私を出迎えてこう言った。
お母さんは所々に赤が散りばめられていて、薄気味悪く笑っている
小学二年生の私は、お母さんとこの状況が理解できず、ただ玄関で突っ立ってるだけだった。
単純に言えば、全身血だらけの母親が恐ろしかったのだろう。
楽しそうにお父さんを食べたというお母さんは別人なんじゃないのかと夢想までしたけれど、残念ながらそうではない。
「お父さんは…?」
口の中がカラカラで、辛うじてその言葉が出た。
心のどこかで逃げなければと思っているのに、逃げたら殺されるとも思っていた。
どちらにせよ、殺されていたかもしれないが。
「お父さんはお母さんよりパールが好きなんだって。お父さんはお母さんよりパールを愛してるんだって。お父さんはお母さんにもう恋してないの。お父さんはパールに恋してるの。だからお母さんはお父さんを殺さなくちゃと思ったの。そうしないとお父さんはお母さんの物じゃなくなる。お父さんはパールの物になる。そんなのダメ。お母さんが一番、お父さんを愛してるのに!!!!」
お母さんが叫んだ瞬間、私は走り出した。
玄関のドアを開けて、走った。
走って走って走って、後ろは振り向かなかった。
なにか聞こえたけど、振り返れなかった。
気がついたら水族館に来ていて、お金も払わず駆け込んだ。
スタッフのお姉さんが私にどうしたのかと尋ねて、私は震えて、涙が止まらなくて、ただ、
「お母さんに、食べられちゃう」
と何度も訴えた。
スタッフのお姉さんはただ事じゃないと気づいてくれて、私を力強く抱きしめて、
「大丈夫、大丈夫だよ。」
と頭を撫でてくれた。
お母さんは追いかけて来なかった。
お母さんはそのまま警察に捕まり、お父さんが死んだことがわかった。
お母さんにもお父さんにもさよならが言えなかった。
「だからスターハルトには、さよならが言いたい!!」
その瞬間。ボゥッと水中が輝いたと思ったら、スターハルトの姿がはっきりと視えた。
困った顔して私を見たまま、
「ありがとう、真珠。さよなら」
と笑った。あの、いつも私に見せてくれる完璧な笑顔だった。
だから私も笑った。
「さよなら、スターハルト。私と出会ってくれて、ありがとう」
もう悲しくはない。
さよならが言えたから。
スターハルトは、もういない。
そしてその後、スターハルトがいなくなった日はお母さんがお父さんを殺した日だと気づいた。
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『姫、今日のご飯はいつですか?』
「レオ、さっき食べたでしょう?次のご飯は閉館後の夜7時。わかった?」
床の掃除をしながら、相変わらず人は少ないのに私が小さい頃からずっと続いている町の小さな水族館の魚たちと他愛もない話をする。
あれから4年の月日が流れた。
高校卒業後、この水族館に就職した私は、資格取得の勉強に励みながら日々魚たちの世話に追われている。
スターライトがいなくなった代わりに、私は魚たちみんなと言葉を交わせるようになった。
10年以上の友達なので随分と仲がいい。未だに誰一人欠けずにいる。
時々スターライトが現れないかと、くまなく水槽をチェックすることがある。
でも、やっぱり彼はいないのだ。
さて、もうそろそろ閉館時間だ。
と、清掃道具を片付けていると、もう40代のベテランの長谷川さんが走ってやってきた。
「なにかあったんですか?」
その慌て用に驚いて尋ねると、長谷川さんは興奮したように、
「それがね!この水族館の援助をしてくれていた会社の社長の息子さんがいらしたのよ!なんでも、その息子さんのお陰でここの水族館潰れずにここまでやってこれたらしいわ!」
早口でまくし立てた。
私は納得する。そうか、だからここの水族館はお客がいなくてもやってこれたんだ。その御曹司のお陰だったんだ。
私の心の拠り所のここを守ってくれた御曹司に、是非お礼を言いたい。
そう思って、長谷川さんに居場所を訪ねようとすると、革靴の音が聴こえていた。
そのうち質のいいストライプのスーツを着た男の人が現れたが、顔はまだ薄暗くて見えない。
後少しで見える、と思ったところで男の人は立ち止まった。
「あの人よ!森野グループの御曹司、森野星さん!」
長谷川さんが私に耳打ちする。
魚たちがそれに合わせるように騒ぎ出した。
私は立ち止まっててはいけないと、その森野さんに近づき、挨拶をしようとした時、彼の顔が見えた。
『スターライトだ!スターライトが帰ってきた!』
固まる。これが現実なのか、自分の頬をつねった。
痛い。
目の前の美しい青年は、私に屈託のない笑顔を見せ、手を差し出す。
「こっちにおいでよ、パールちゃん」
涙が頬を伝ったと同時に、彼の胸に飛び込んだ。