第8話
夜、隼に誘われて一緒に食堂で晩御飯。
「何だか、遥には大変なことになっちまったな」
肉じゃがを口に運びながら、苦笑する隼。
「いいよ別に。気にしないで。それより、隼ってスポーツ全般得意なんでしょ? どうして運動部に所属しないの?」
「確かに俺はスポーツ好きだけど、どれか一つのスポーツって限定できないんだよな。部活に入っちまうと高校三年間ずっとソレって限定されるし、練習だの試合だので他のスポーツをする時間が取れねぇ。だから俺は、好きな時に好きなことをするっていう、自由の身でいたいんだ」
「なるほどね……」
「そういえば、遥ってずっとアメリカいたんじゃねぇの? 今日廊下でバケツ持ってたのって、英語の問題解けなかったからだろ? そんな難しい問題出されたのか?」
それはその……。何て答えればいいんだよ!
「えーっと、それはアレですよ、アレ!」
「アレ?」
「そう……、き、記憶障害? というやつでして」
「記憶障害!?」
隼が大声を上げた。食堂が刹那静寂に包まれる。咳払いをして、中腰になって席から立ち上がっていた体を元に戻す隼。
「……ごめん。つーか、記憶障害って、え? 何で? 何か強い衝撃でも喰らったのか?」
「さ、さあ? よく覚えてなくて」
苦笑するあたし。何だか嫌な予感がする。
隼が若干俯きながら、そうだよな、とぽつりと呟く。それから、何かに閃いたように目を輝かせた。
「そうだ! だったら、うちの病院で検査しろよ! 俺の実家、高崎総合病院なんだ。友達から料金なんて取らねぇから心配すんな! 思い立ったが吉日! 食べ終わったら、すぐに行ってみようぜ!」
嫌な予感的中。当たり前だけどそんな展開、原作にはないよ。ていうか、病院ってヤバくない? 女だってバレちゃうかもしれないじゃん!
「い、いや、遠慮しとくよ。隼の家に迷惑かけるわけにいかないし、記憶なんてきっとすぐ戻るし」
「いや! 診てもらった方がいい! 大丈夫だ。俺の父親に頼むわけじゃなくて、もっと適任の人がいるんだ。父親に黙っててくれそうな医者がな。早く食べて行くぞ!」
これ完全に病院行く流れだ。もう知らん!
あたしは観念の溜息を深くついた。
高崎総合病院は、秀麗学院から車で十五分の所にあった。タクシー代は隼持ち。
「ここ!?」
あたしは病院を見上げて息を呑んだ。近代的な造りで、かなり大きい。夜のため、病院がライトアップされていた。医○とかのドラマに出てきそうな病院だった。
「もう連絡はしてあるんだ。行くぞ」
ICカードをかざして従業員専用と思われる扉から中に入り、エレベーターに乗ってそのまま八階へ。そこは病院というよりも、どこかの研究室といった感じだった。
「こっちだ」
隼は突き当り左の部屋の前に立つと、三回ノックをした。
「入れ」
中から声が聞こえると、扉をスライドさせて中に入った。
そこにいたのは、白衣を着た女性だった。三十歳手前くらいで、色素の薄い髪の毛は肩より長くボサッとしていて、手入れされていないのが丸わかり。研究以外に興味がなく、それに没頭して人生を過ごしてきた、といった感じの人。失礼だが、どっちかと言うと、見た目が暗っぽい。
「月影先生、突然すみません。こいつがさっき話した友達の西條遥です。帰国子女なのに英語が上手く話せないみたいで」
隼があたしを月影先生の前に押し出す。彼女はあたしをじっと見つめてから、椅子に座るように促した。
「西條と言ったか。君は、英語以外の記憶は全て持っているのだな?」
「まあ、一応……」
英語以外というか、脳は正常そのものですが。
「何年間アメリカにいたんだ?」
「えっと……、五年くらい?」
そんなの知るか!
「で、日本に戻ってきたら英語が上手く喋れないと?」
「……はい」
「日本語はきちんと話せるのに、か?」
彼女があたしの顔を覗き込む。
「………………。おれ、英語元々苦手なんです。そのせいで、きっと日本に戻って来て早々英語の話し方忘れちゃったんですよ! そうです、きっとそうに違いない! 実際、全く英語が話せないってわけじゃないので。心配ご無用です。それでは失礼しました!」
あたしは立ち上がり隼の腕を引っ張って、無理やり部屋の外へ出た。
「おい! 全く解決してねーじゃねぇか」
エレベーターに足早で向かうあたしに、隼も速度を揃える。
「今の先生と何で親しいの!?」
あたしはエレベーターのボタンを押した。
「は?」
「いや、だから! 他にも沢山お医者さんいるのに、どうしてあの人なのかって訊いてんの!」
エレベーターに二人で乗り込む。一階を押すと、自然と扉が閉まった。
「あ、ああ。あの先生、実は医者じゃなくて研究者なんだ。俺も詳しくは知らねーんだけど、研究室にいた時にこの病院からスカウトされて、研究を医療の分野に生かしてるらしい。非常勤だからいつもいるってわけじゃねぇけど、あの先生は口が堅いし、正直何考えてるか分かんねーから、何か大丈夫な気がするんだ」
それって本当に大丈夫なんですか。
一階に着き、病院を出た。生暖かい風が通り抜ける。
「おっと、忘れるとこだった! お前、俺の質問に答えてねぇじゃん!」
あたしが首を傾げると、隼は溜息を漏らした。
「だから! お前の記憶障害は大丈夫かって訊いてんだよ!」
「ああ!」
あたしは両手をぱちんと合わせて、隼に笑顔を向けた。
「ありがとな、心配してくれて。でも、大丈夫だ。何か記憶戻ってきた気がする!」
「本当か?」
懐疑の目を向ける隼。
「マジだって! 英語はただ苦手なだけだ! 帰国子女でもおれはセンスないから喋れないだけで、記憶は全く関係ねぇよ」
「……ならいいけどよ」
隼が溜息交じりに笑顔を溢した。
隼って素直で真っ直ぐで、いい子だなぁ。
ふっと笑みが零れたが、すぐにあたしの表情は引き締まった。月影先生のあの瞳を思い出したからだ。
あたしは、とにかくあの部屋から出たかった。月影先生は、何だか全てを見透かしているような、あたしをそんな感覚に陥れる目をしていた。
「おい、何ボーっとしてんだよ。さっさと寮に戻るぞ」
「う、うん」
病院前に停まっていたタクシーに乗って、あたしたちは寮に戻った。
無機質な蛍光灯に晒された、薬品の臭いが混じる個室。
「〝西條遥〟か。隼もピンポイントで面白い子を連れて来たもんだな」
月影朔夜は、ノートパソコンの画面に映し出されるカルテを前に〝西條遥〟とキーボードを叩く。それから一通り必要項目を入力し、データを保存して電源を切った。
「そろそろ帰るか」
彼女は独り言を呟いて、窓を開けてベランダに出る。
下に目を向けると、先ほどこの場にいた二人がタクシーに乗り込むところだった。
風が髪を乱れさせる。朔夜はなびく髪を右耳にかけて組んだ腕を柵に乗せた。
「帰国子女の女の子か」
朔夜はタクシーが病院から遠ざかるのを目で追いながら不敵な笑みを零した。