第1話
「君、何をぼさっとしているんだいね?」
年配男性の声に耳朶を打たれ、あたしは覚醒したかのように、ハッと目を開けた。
え……、何ですかコレ?
今いるのは、何でかよく分からないけど、高級感漂う教室。しかも立っているのは、黒板の前。そして、目の前に広がるのは黒い詰襟を着た男子生徒たち。全員がこちらに注目してる。
「早く自己紹介をして下さいな」
丸メガネをかけた五十代のちっこいおじさんが横でそう促す。
あたしは口元を引きつらせたまま、ゆっくりと首を捻って黒板を見た。そこには、白いチョークで書かれた〝西條遥〟の文字。
ファンメモの主人公?
自分の服に目をやった。学ラン。髪に手を当てる。超ショート。
「え……」
今度は思ってることが口を突いて出た。それから、恐る恐る体を戻す。早くしろよ、というオーラが教室全体に広がり始めていた。
あれ? さっきまであたし、自分の部屋でファンメモ読んでたんだよね? で、遥がCIAにスカウトされたっていう、前提の部分の話を読み終わって本編に入ろうとしていたところでママに呼ばれて……。じゃあ、これは一体……。
夢?
だったら、思う存分楽しんじゃえ! ということで。
「あた……おれ、西條遥と言います。宜しくお願いします」
それだけ言うと、教室にパラパラと拍手が起こった。
「西條くんはですねー、お父さんの仕事の都合でアメリカにいたんですが、日本に戻ってきたんですよ。みんな、仲良くしてやって下さいよー」
え、そうなの? ……ってそうか。西條遥は父親の仕事の都合で日本に戻ることになり、日本で諜報員の仕事に加わるように指令が出たんだっけ。
「西條くん、あそこに座りなさいよ」
「はい!」
あたしは元気よく声を張り上げる。
はいはいはい、来ました!
お約束その一。主人公の席の隣は相手役。つまり! あたしの隣の席は、藤堂雅のはず!
あたしが鼻歌交じりに指定された席に向かおうと歩き出すと、急に頭にありもしない記憶が流れ込んできた。
アメリカから帰国し、税関を通ってすぐ、トイレに行くと言ってスーツケースを持ったまま両親と思われる人物から離れたあたし。その言葉通り、あたしはトイレに向かい、帽子を深々と被った一人の清掃員に話しかけた。小太りのおばさんという感じだった。
「すみません、スーツケースの鍵を落としてしまったようなのですが、トイレに落ちてませんでしたか? キーホルダーが付いているんですが」
あたしが話しかけると、その清掃員はモップを持っていた手を休めた。
「そういえば見ましたよ。ええと……、そのキーホルダーの色は何色だったかしら?」
清掃員の台詞に満足したように、言葉を続けるあたし。
「黄色です」
「そう、黄色だったわね」
清掃員は思い出したように微笑んだ。
「あ、このことは誰にも言わないで下さいね。スーツケースの鍵を落としたなんて知られたら、あたし、シャーロック・ホームズを目指してるなんて恥ずかしくて言えなくなっちゃいますから」
あたしが言い終えると、清掃員はポケットから黄色いキーホルダーの付いた鍵を取り出し、それを手渡した。
「今度はもう落とさないことね。ホームズの見習いさん」
清掃員から手渡された鍵には、数字が書いてあった。
「ありがとう」
あたしはお礼だけ言って、トイレを後にした。そして、近くのコインロッカーへ行って、鍵と同じ番号のロッカーの前に来た。監視カメラから最も見えにくい位置にある。
鍵を差し込み、ロックを解除する。そして、開いた。
そこには、中に何かが詰まった、服を買った時に入れてくれるような、どこかのブランドの袋が一つ入っていた。袋の中を覗くと、袋と同じブランドと思しき服、学ラン、それに少し大きなシルバークロスのネックレスが入っていた。
あたしは袋ごとスーツケースに仕舞う。そして何食わぬ顔で、両親の元へ戻った。
リムジンバスに揺られながら自宅に戻り、あたしは自分の部屋にあったノートパソコンの電源を入れた。そして、イヤフォンをパソコンに接続し、シルバークロスのネックレスを取り出す。クロスの中心に埋め込まれた青い石を押しながら先端を引っ張ると、そのネックレスの正体が明らかになった。なんと、そのネックレスはUSBだった。
あたしはイヤフォンを装着し、USBに入った音声データを再生した。低い男の声が流れる。
『はじめまして、恋さん。早速、今回の君の仕事について説明させてもらおう。今回の仕事は藤堂グループ社長、藤堂猛の贈賄事件の真偽を確かめること。君も知っているだろう。最近、世界にその名を轟かせている藤堂グループが、政界に自己の意見を反映させるために贈賄しているという噂を。藤堂グループはアメリカでも猛威を振るっている大企業だから、あまりにも勝手な行動を取られるとこちらとしても困るわけだ。――というわけで、贈賄の真偽を確かめるために、君には藤堂猛の息子である藤堂雅の通う全寮制男子校に通って情報を集めてもらう。しかしながら、君の名前はあまりに女性らしい。なので、こちらで偽名を用意させてもらった。〝西條遥〟だ。君が〝恋〟であることは決して悟られないように。なお、このデータは再生が終わると自動的に消去される。コピーも不可能なので、くれぐれも変な気を起こさないように。それでは幸運を祈る。Good Luck』
あたしは、ハッと我に返った。
何今のプレイバック!? っていうか、最後の方の台詞ってスパ○大作戦のパクリでしょ!
「西條くん、どうしたんかいね? 急に立ち止まって」
ちっこいおじさんが訊いてくるのを、大丈夫です、と答えて歩き出した。
ファンメモの主人公、西條遥は本名だったはず。マンガにない設定が織り込まれてる……?
まあ、夢だしね。
そう納得して、指定の席の前に辿り着いた。教壇から見て、一番右奥。窓側の席。あたしはその席に座り、胸を高鳴らせながら右を見た。
整った顔立ち、優雅に漂う気品。利発そうで、リーダーシップもありそうで、何とも言えない強いオーラを放つ高校二年生。
彼はまさしく、藤堂雅だった。
まさにプリンス! 白馬に乗ってない王子!! ああ、なんて神々しいの!!
あたしは思わず口元を手で覆った。感動のあまり瞳が湿る。鼻血出そう……。
そんなあたしに気付いて、藤堂雅は綺麗な瞳をこちらへ向ける。
そんなに見つめないで……!
ドキドキしているあたしに、藤堂雅が美しい顔を崩して一言。
「お前……、キモい」
ガーン!!
落雷に打たれたかのような衝撃が全身を駆け巡った。
いきなり『キモい』って、そりゃないよ! ……あたしのファーストインプレッション最悪。
と、そこであたしは思い出す。藤堂雅のキャラ設定を。
金持ち貴族――かと思いきや、家柄のせいで恨みを買うことも多く、喧嘩が強い。そんな境遇のせいか、若干性格が歪んでる。……正しい表現をすると、歪んでるというか、ツンデレのデレがほとんどない人みたいな。ツンです、ツンくんです。先生とか自分の親とか、上の人にはそんな素振りは一切見せず、立ち回りが上手い。
「フフ……、フフフフフ」
突然、隣から漏れ聞こえてきた声に、藤堂雅は体を強張らせた。
ツンくんなら、キモい発言されても仕方ない。寧ろ、藤堂雅と証明するような発言だわ!
あたしがそんなことを思っている横で、藤堂雅はというと――
こいつ……! 目がイってる!!
そんなことを思っていたのでした。