第9話
「ただいまー」
寮に戻ってくると、雅も帰って来ていた。ソファに座りながら、片手でネクタイを緩めているところだった。会社に行くときは、流石にスーツのようだ。チャコールグレーのスーツに細身のネクタイがめちゃくちゃ似合っている。
「西條、今日遅かったな」
美しいと見惚れていたあたしに、雅が目を向ける。
「うん。隼のところの病院行ってたんだ」
「病院?」
「そう。何かね、俺が帰国子女なのに英語が話せないのは記憶障害だって言ったら、すぐに診てもらえって、病院に連れて行ってくれたんだ」
あたしがそう言うと、雅は鼻で笑った。
「記憶障害ぃ? そんなわけねぇだろ。お前はただの似非帰国子女だ」
何だそれ。似非帰国子女って、帰国子女なのかそうじゃないのか、どっちだよ。
「そういえばお前、明日料理するんだって? 麗から聞いた」
「うん。何か、そんなことになっちゃいまして……」
「俺は明日も会社行くから部には顔出せないが、まあせいぜい食材を無駄にしないように頑張れよ」
手をひらひらさせ、雅はお風呂に行ってしまった。バタンッとドアが閉まる。
「…………………」
くっそー! あたしだって一応女の子なんだし、料理くらいしてやらぁー!!
翌日。
放課後、調理室に雅を除く王子部員が集合。
「何これ……」
幾つも床に置かれた段ボールやら発砲スチロールやらには数えきれないほどの食材。調理台には種類の違う包丁がずらりと、まるでコレクションを展示するかのように並べられていた。他にお玉や菜箸、フライパンや中華鍋など、ありとあらゆる調理器具が置かれている。
「先輩、エプロンです」
奏に笑顔で差し出されたエプロンを首からかけ、後ろで結ぶ。
「それではお題を発表するね」
手を洗い、調理台の前に立つと、麗が微笑んだ。
「今日西條くんに作ってもらうのは……」
あたしは唾を呑み込んだ。カレー、うどん、カレー、うどん、カレーうどん……。
「――ギリシャ料理です」
……ギリシャ!? カレーうどんとか、そういうレベルじゃないの!?
「ちょ、ちょっと先輩、待って下さい!」
あたしは慌てて麗に叫んだ。
「ギリシャって随分アバウトじゃないですか! そんなんで勝負なんてできるんですか!? 料理なんて好みもあると思いますし」
つーか、ギリシャ料理ってどんな料理だよ!
「確かにそうだね。だけど、アバウトにすればするほど、料理人のセンスが現れるんだ。審査するのは五人の美食家。きっと彼らは生徒がどんな料理を作ってくれるのか、楽しみにしているんだろうね」
麗が優しく説明する。
優しさは有難いが、ギリシャというお題から何か禍々しいものを感じる……。どんな料理なのか全く想像がつかないのに、食材を無駄にするなんてあたしにはできない! きちんと料理は無理だってはっきり言おう!
「あ、あの――」
「先輩、早く作らないと! 学校閉まっちゃいますよ?」
あたしの言葉を遮って、奏が急かす。
「えっ、いや、あの――」
「まさか、こんなに沢山食材を用意したのに、やる前から作れないとか言うわけないですよね?」
チーン。
仏壇の前で聞こえてきそうな音が脳内で木霊した。
……くっ! あたしが言おうと思っていたことを先読みするなんて、こいつなかなかできるな……!
「……も、勿論だよ。ギリシャ料理なんて朝飯前さ。アハハ、アハハハハ」
「それは凄く楽しみだよ」
「西條、笑うほどギリシャ料理得意なんだな!」
麗先輩、あたしの目尻に薄らと涙溜まってるの見えてます? 隼、これは笑い涙じゃないよ。
後に引けなくなったあたしは、教室の壁側に並べられた段ボールや発泡スチロールの中身を物色し始めた。
*
「今日はもう帰って大丈夫だよ」
国定戒は、パソコンの前に座る藤堂雅に声をかけた。雅は、ふーっと息を吐く。
「じゃあ、すみませんが今日はもう帰らせてもらいます」
雅はデータを保存して、パソコンの電源を落とした。
「随分頑張ってたみたいだけど、今日何かあるの?」
戒は帰り支度を整える雅に笑顔を向ける。
「いえ、別に。ただ……」
「ただ?」
「いつもよりお腹が空いただけです」
雅は、失礼します、と言って会社を後にした。
「雅くんって意外と顔に出やすいからなぁ」
国定戒は柔和な笑みを浮かべた。
タクシーを使い、走って学校へ戻る。まだ六時半。もしかしたら、まだいるかもしれない。
雅は調理室に向かった。
「明かりが点いてる……」
まだ彼らは帰っていなかったのだ。雅は調理室のドアに手をかける。
「会社が早く終わってよ、暇だから部の活動見に来てやっ――」
ドアをスライドさせ、言い終わる前に雅の言葉は失われた。
「!?」
直後、雅は素早く腕を口元に当てる。
「うっ……」
何とも言えない毒々しく禍々しい異臭。
片目を細く開ける。少ない視界から入ってきた光景に、思わず両目を開けて瞠目した。
空気に色がついている。
紫。
中心には大きな鍋。
幾つかの窓は開けられ、その近くに人が倒れていた。麗、隼、奏だ。彼らの手がまるで助けを求めるかのように窓に向かって伸びている。西條は鍋の近くで倒れていた。
「何だこれは……」
雅は呼吸を止めて、窓とドアを全て開け、換気扇もフル稼働させた。
次は人間の救出だ。彼らは海水を失った魚のようにピクピクと痙攣していた。
毒ガスにでもやられたのか……?
まずは出口に近い西條から。と思って鍋の前を通り過ぎようとした雅。
「!!?」
鍋からはドロッとした濃い紫色の液体が溢れ出し、火も点いていないのに底からはボッコンボッコンと大きな泡が湧き上がり、中には目が充血した魚が口を開いて埋まっていた。
一体どうやったらこんなものが!?
雅は余計なことは考えないようにして、被害者の救出に専念した。




