第一番 Prelude
「あつーい……」
空を見上げると、ジリジリと肌に照りつける太陽が眩しい。
汗と一緒にずり落ちたケースをもう一度背負い直した。
まさか夏休みになってまでこんな風に毎日学校に通うなんて思ってもいなかった。
大会まであと一ヶ月半。
――〜♪
「あ……」
校門をくぐると聞こえてくるいつもの音色。
(駆くんもう来てる!)
あたしは音に誘われるように、音楽室へ急いだ。
「おはようございます。さやか先輩」
「お、おはよ」
ドアを開けると、ピアニストが振り向いて微笑んだ。
こんな暑い日にも爽やかな笑顔。
身体が熱くなるのは夏のせいだと、自分に言い聞かせた。
「また窓開けっ放し〜」
窓を閉めながら言うと、駆くんも慌てて閉めに来た。
隣に並ぶとスラリと背が高くて、鍵をかける指がやっぱりすごく綺麗。
「外まで聞こえてたよ?」
「さやか先輩に聞こえるかなぁ、って思って」
「じゃあ、さやか先輩が来たから閉めますよ〜」
駆くんは冗談をまるで冗談じゃないみたいに言う人だと思う。
あまりにさらりと言うから、時々ドキッとしてしまう。それを隠すようにあえて冗談っぽく返した。
駆くんは小さく笑ってピアノの前に戻った。
(年下のくせに……)
何をドキドキしてるんだろう。
きっと司が言わないような事こんなにも簡単に言うせいだ。
「これ、嶋田先生が音源持ってきた」
「嶋ちゃんが?」
それはコンクールの課題曲であるフィルウッズの『ソナタ』第一楽章の音源だった。
「かっちょえー」
(こんなん弾けるのか……?)
胸に一抹の不安が過る。
そんな心の声が聞こえたのか、駆くんは『大丈夫ですよ』と笑った。
「何が大丈夫なんだよー!」
「先輩なら大丈夫です」
またそうやって、真面目な顔で言う。
でもそんなに自信を持って言われると心強い。
「なんか大丈夫な気がしてきた!」
「あはは! 先輩可愛いすね」
(……ちょっと、それは反則)
だからそういう事言うのは、身体が熱くなるからやめてほしい。
「あ、あと二曲決めなきゃ……」
「そうすねー」
今回のコンクールは一次予選と二次予選が課題曲。
そしてそれを勝ち抜いて本選に進むと自由曲を二曲、計三曲を弾く事になる。
「候補曲持ってきた?」
「はい、一応」
まずはあたしから。
選んできた曲目の楽譜を鞄から取り出して並べた。
「ショパンのノクターンに英雄? さやか先輩ショパン好きなんすか?」
「うん」
「意外すね」
「そう?」
「でも先輩の音に合ってると思います」
「え?」
「とりあえず弾いてみますか?」
「え、初見で?」
「雰囲気見るだけですから、気楽に」
所々つっかかりながら、それでも駆くんの音に必死についていく。
弾いていると彼の方が年下だなんて忘れてしまうくらい、それは圧倒的な旋律。
候補曲を一通り弾き終えて、駆くんが楽譜を漁る。
「やっぱこれかな?」
「あ、あたしも! それいいと思った!」
「じゃあ英雄で」
一番しっくりきた曲が一緒で嬉しい。
「そういえば駆くんの候補は?」
「俺は……これ」
駆くんが楽譜を差し出す。
「手書き!?」
「歌曲の楽譜しか見つからなくて……ちょっと直しました」
「フォーレの『愛の夢』? リストじゃなくて?」
ニッコリ笑うと駆くんは、静かにピアノを弾き始めた。
まるで歌うように美しいメロディが音楽室を包む。
でもどこか悲しげで、憂いを帯びて切ない。駆くんはそんな音色を奏でる。
「さやか先輩……?」
駆くんに名前を呼ばれるまで、演奏が終わっていた事に気付かなかった。
そしてその指が頬に触れて、自分が泣いていた事を知った。
「大丈夫すか?」
「これはあたしの涙じゃない」
「え……?」
駆くんの手をぎゅうっと握る。
(ねぇ知ってる? 君の音楽はあたしの心を強く揺り動かす)
もう一つの候補曲が決まった。




