Etude
それは高二のあたしに訪れた一生忘れる事のない、特別な夏休み。
雪花学園は終業式を迎え、夏休みに突入しようとしていた。
「チッ……なんだよ、さやの奴」
「何? どうした?」
「今日も一緒に帰れねーって」
「あ、お前またなんかしたんだろ?」
「ちっげーよ! アイツにも色々あんの」
「…………」
「何だよ、その顔……」
「いや、なんか珍しいなって思って」
「うるせーよ。置いてくぞ」
「あ、待てって」
藤代は珍しく、三日ほど彼女からお預けを食らっていた――というのも、紗弥加に大事な用事が出来てしばらく会えないと言うのだ。
いつも以上にイライラして、舌打ちの嵐が止まらない。
こうして終業式の今日も仕方なく篠宮と帰る羽目になるのだった。
***
「はぁ……早く司と会いたい」
「もう! 何言ってるの、さやちゃん! こんなチャンスめったにないって言ってたじゃん」
「ひろちゃん……うん、頑張る!」
「偉い偉い! 頑張ってきてね」
「うん。行ってきまーす」
手を振ると、ひろちゃんは笑顔で送り出してくれた。
でも、司と会えなくて寂しいの半分。ウキウキ半分な自分もいる。
「あ……」
不意に耳をかすめる音色に胸が高鳴った。
一気に旧校舎の階段を駆け上がると、誰もいない廊下。ピアノの音だけが静かにあたしの元に届いた。
音楽室へと向かう足取りは軽く跳ねる。
始まりはそう、一週間前。
***
「え? あたしが!?」
「そう。アルトサックスのコンクール珍しいから、どうかと思って」
嶋ちゃんはヘラリと笑って、軽くとんでもない事を言った。
文化祭の日。いつもの調子で『アルサク頼むわ』と言われて、定演会のソロパートの話しだろうと軽い気持ちでOKしたのだが……そんな単純な話ではなかったらしい。
「あたし、そんな大会とか出た事ないし! まず目指した事ないし!」
「でも、もう、伴奏のピアニスト頼んじゃったもん」
「ええ!? 嶋ちゃんこんな時ばっか仕事早い!」
「出来る先生だろー? うちのクラスの生徒だから頼みやすくて」
「え、誰!?」
「あぁ、そういえば音楽室に呼び出してるから、行って」
「はい?」
「待たせてるから、ほら、早く!」
「え、あ? ……えッ?」
(そんないきなり言われても……伴奏って誰だよ〜。気難しい子とかだったら、ヤダなぁ〜)
色々な事が頭を駆け巡る。それでも仕方なく音楽室へと向かった。
「……ッ、?」
窓が開いているのだろうか?
防音完備の音楽室から微かに漏れるピアノの音。
「嘘……」
(このピアノ、まさか……!?)
あたしは音楽室へと続く階段を一気に駆け上がった。
遅刻した新学期の日。
体育館への近道。
裏庭からテニスコートの角を曲がった。
始業式はとっくに始まっている時間。
誰もいるはずのない校舎から、不意にそのピアノの音色は届いた。
それ以来聞く事のなかったピアノ。
ずっと……気になっていた。
一体どんな人が、弾いていたのか、って。
何故かあたしの心に、引っ掛かって消えなかった。
(あの時のピアノだ……!)
音色を聞いて、すぐに分かった。
高鳴る鼓動を抑えられないまま、音楽室のドアに手をかける。
弾む息を整えるように大きく深呼吸をして、思い切りそのドアを開けた。
***
直接耳に届いたそのピアノは、今もあたしの心を震わせる。
「なんだ、さやか先輩。いたなら言ってくださいよ」
「駆くん……」
不意に止まる演奏。
まさかあの時のピアノを弾いていたのが駆くんだなんて、思わなかった。
駆くんの長い指が鍵盤を撫でる。
(もっと聞いていたかったのに……残念)
「好きなの?」
「え?」
「その曲、いつも弾いてる」
出逢った時も、弾いていた。
「あー、んーまぁ、そんなトコ」
駆くんは曖昧に、そう答えると笑って目を伏せた。
ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』
駆くんの弾くその曲は、いつだって涙が出そうになるくらい切なくて。
胸が引き裂かれそうになるくらい苦しい。
そんなピアノは初めて聞いた。
そして、こんなに心を掴まれたピアノも、初めてだった。
「さやか先輩?」
「……え?」
「練習、始めますか」
「うん!」
こうしてあたしの永くて短い夏休みが始まった。




