心うらはら
離れが近付くにつれ、大久保は走りたい衝動に駆られる。しかし苦しそうに漏れる吐息が肩から聞こえる度、小さく舌打ちするしかなかった。
「久しぶりね、龍一」
掛けられた声の主が自分の探していた人物だと気づき、大久保は足を止めて小さく会釈をする。
しかしその人は美月の様子を見て、すぐに道を開けた。
「挨拶は後よ。彼女を寝室へ」
大久保は言われた通りに美月を寝室のベッドにそっと横たわらせる。
『ありがとう』と小さく呟いて彼女――栞はベッドの近くに椅子を引き寄せて座った。
「この症状はいつから?」
「朝から。でもだんだん悪くなってる」
「そう。あの子が無理やり連れてきたのね? 当たってる?」
「まぁ……」
溜息をついて笑う栞に、大久保は彼女の言う『あの子』を思い出し眉をひそめた。
(それにしても)
久しぶりに訪れたこの部屋を見渡して、大久保はふーっと長く息を吐き出す。
(相変わらず、吐き気がするくらい空気が澄んでやがる)
大久保は離れに入った時から、身体の軽さを感じていた。しかしそれは昔から大久保にとって、不快なものでしかなかった。
ふと美月を見やると、先程まで息が上がっていたのが嘘みたいに、安定した呼吸を繰り返している。栞がその顔にかかった前髪を梳いてやると、青白かった顔色が一気に戻った。
(……良かった)
「…………ッ」
(良かった? ……何が?)
大久保は安堵していた。
しかしそれが何の安堵なのか分からず、イライラする。
美月の静かな寝息を聞いて、栞はやっと大久保に視線を移した。
「貴方は顔色良さそうね?」
「……おかげさまで」
大久保は嫌味のつもりで言ったのだが、栞は少しも気にせずに不思議そうな顔を向けている。
「貴方が人間に触れられるなんてね?」
昔から大久保をよく知っている栞は、人間の女子が触れても(むしろ大久保自身が担いできた)身体の不調を訴えない所を初めて見て大層驚いたようだった。
その時、大久保はいつの間にか美月を当たり前に受け入れている自分に気付く。
あまりに当たり前で、理由を考える事さえ忘れていた。
(いや、考えないようにしていた……?)
栞が美月の額に手を伸ばす。
「……!」
栞が目を見開き、難しい顔をした。
澄み切っていた部屋の、栞の氣が一瞬歪む。
「彼女を大切にしなさい」
「は?」
突然言われた栞の言葉に、大久保はあからさまに不快な顔を向けた。
それに気付いた栞が苦笑いで答える。
「貴方にとって唯一の人間なのだから」
「それは……」
(言われなくたって分かってる……そんな事)
大久保だって言葉には勿論、態度にこそ出さなかったが、美月の存在が生きていく上で必要だという事は理解していた。
(コイツが利用価値のある人間だって事くらい、俺だって分かってる)
しかし大久保が近付けば、拒否反応を示すのはいつも美月の方だった。
これまで人間を拒否し続けてきた大久保には、難易度の高い相手だ。
「でも」
栞が額から手を離し、大久保を真っ直ぐに見据える。
「近付きすぎてはいけないわ」
大久保はその言葉に思いきり眉間にしわを寄せた。
「……?」
九条と、あと一人。
不意に二つの匂いが大久保の鼻を掠める。
(もう一人は……純血のチビか?)
栞はまるで彼らが来ると分かっていたように、ゆっくり立ち上がると小さく息を吐いて呼吸を整えた。
(そういう事かよ)
その様子を見て大久保は、九条が何故自分や夕樹をだしに使ってまで、無理やり美月を連れてきたのかようやく理解した。
「しばらくここでゆっくり休むといいわ」
そう言い残して、栞は部屋から出て行った。




