不毛なダイヤモンド
その一、彼はお人好しである。
「なーんか、ムカつかない?こーゆーの」
いろんな言葉を省きまくった私の投げやりなセリフに、それでも相沢くんは穏やかに微笑む。
「たしかに、日直って面倒だよね。放課後に残るなんて、忙しい香崎さんには一大事だ。早く終わらせよっか」
そしてまた日誌に目を落として熱心にいろいろと書き始める相沢くんを「そういうことじゃなくて」とあわてて制す。私としてはさっさと終わらせられるのは都合が悪い。
「相沢くん、今日は日直じゃないしょ。押しつけられたんでしょ、真島に。だから、相沢くんが真面目なのに付け込んで日直押しつけてとっとと帰っちゃうあいつにムカつくよねって、そういう話」
相沢くんは「ああ」と納得したように頷いてから、困ったように笑う。
「いいのいいの。僕が好きで引き受けたんだ。真島、最近彼女出来たの知ってるだろ?一緒に帰るとか、放課後デートとか、させてあげたいじゃん。友だちとして」
とても優しい笑顔だ。
私は、相沢くんのこういう表情を見るたび、「優しさは目に見えない」という言葉を真っ向から否定したくなる。
目に見えないというなら、相沢くんを実際に見てみればいいのだ。そこにすべてがある。
そして私は、相沢くんのこの顔を見ると無性に胸の中がぐるぐるして、体からぐわっと力が湧いてきて、叫びだしたり物を思いっきり投げつけたくなる衝動に駆られる。
この衝動の理由に気付かないフリをするのはとても大変だ。
だから、私は「クラスメイトの男子と談笑する女子高生」の域を出ない気軽さを心がけて言う。本心を悟られないために。
「あー、ヤな言い方。その真島と付き合い始めたのって、私の親友なんですけどー。でもべつに私は菜月と日直代わってあげようとか思わないなー。どーせ私は気の利かない、ケチな子ですよー」
私の理不尽な言いように、それでも相沢くんは微笑みを絶やさない。
「そんなこと言っても、香崎さん、真島と木下さんが付き合い始めたとき、大反対したらしいじゃない。木下さんが大好きな証拠だ。僕はそういうの、良いと思うけどな」
「べつにそういうわけじゃないけど・・・」
私は「大反対した」経緯を思い出して、相沢くんの言葉との落差に居心地が悪くなって目をそらす。
菜月が「真島くんに告白された」と顔を赤らめて私に打ち明けてくれたとき、目の前が真っ白になった。そこまでは覚えている。
恥ずかしさから顔を上げられないでいる菜月の傍を離れ、廊下を歩き、男子トイレから出たばかりの真島を見つけたところまでの記憶が一切ない。
気がついたら真島を絞め上げていたのだ。
「ぐへぇ」というなんともマヌケな真島のうめき声で我に返るまで、私は本当に意識がなかった。
目線の高さまで上がった不自然な私の手首のその先で、私は真島の胸倉を掴みあげていたのだ。ふと左を見ると、菜月が泣きそうな顔で「やめて美紀ちゃん。真島くんが死んじゃう」と私を引きとめようとしていた。まさに修羅場だ。
そのとき私の頭にあった感情は、単純に「怒り」だけだった。
「菜月に告白した真島が許せなかったの。それだけ。相沢くんが思ってるような美しい友情物語なんかじゃないよ」
私の声のトーンが、さっきより一段階下がったことに気付いた相沢くんは、日誌から顔を上げる。
ああ、きっとこういうところだ。
黙って私の変化を見落とすまいと目を凝らす相沢くんを見ながら、私は漠然と考える。
私はきっと、彼のこういうところに惚れたんだろうな。
その二、彼のあだ名はアイアイである。
相沢くんにはあだ名がある。
「君たちにとって一番大事なものは何かな?」
以前、国語の時間に先生が戯れに生徒を順番に当ててそう問いかけたことがあった。
一応、評論文の授業らしく、筆者の主張で「人間にとって一番大事なものは」云々かんぬんというくだりがあり、それになぞらえて実際に考えてみよう、といういきさつがあった。
聞かれた私たち生徒は隣の人間と顔を見合わせたりしながら、順番に答えていく。
「命」
「先立つものはお金ですよね」
「時間。時は金なりってことで」
「家族」
「ヘソクリです。金額はナイショです」
と、調子よく答えが挙がったところで、相沢くんが当てられた。
「愛です」
一瞬、教室が静まり返った。クラス中の人間の目玉が相沢くんに向かって動く音が聞こえそうなほどだった。
誰もが、先生までもが思ったはずだ。
『それって、冗談?』
アイラブユーが大安売りされるこのご時世、返ってその単語は私たちには聞き慣れないものですらあって、相沢くんが発音したようなまっさらな響きで使われることにビビってしまったのだ。
相沢くんはいたって真面目だった。平然としていると言った方が正しいのかもしれない。
ウケ狙いの男子特有の「笑い待ち」の期待が少しも感じられない相沢くんの目は、もともと目が大きいことも手伝ってすごく澄んで見えて、夜中に鏡を覗き込むときによく似た怖さを感じた。
何か得体の知れないものが出てくるんじゃないかという恐怖。そんな自分をバカバカしく思う反動。
教室はその一瞬の沈黙を恥じるかのように、急にそこかしこで笑い声を上げた。
「相沢が愛って」
「わ、名前にもあるじゃん、愛」
「それは名字だろ」
「すげー。さすが相沢。自分の名前にも愛をしのばせるとは」
アイラブユーが大安売りされるご時世において、「愛」という単語はブランド物なんかよりよっぽど嫌味に映るほどの超高級品で、だからこそ私たちはそれにケチをつけることで自分の貧乏性から目を逸らそうとしたんだろう。
相沢くんの「愛」という言葉には、私たちの短い人生で使ってきたどの「愛」よりもきれいで、ひたすらにまぶしかった。
自分がガラス玉しか持っていないからこそ、ダイヤモンドを無造作につけている人は目につく。
そのときの私たちは、初めて見たダイアモンドの輝きから目を守ることに必死だったのだ。
「愛が大事な相沢、略してアイアイ」
誰かが高らかに宣言して、そのまま定着した。
あとで「アイアイ」を調べたところ、大きな目が印象的なサルだということがわかった。
私はアイアイの写真を眺めながら、相沢くんの大きくて澄んだ眼を思い浮かべて、なかなか悪くないと思った。
見つめられた人間が言葉を失くしてしまうほどの力を持った目。
彼にぴったりじゃないか。
その三、彼は博愛主義者である。
相沢くんと目が合ったのは、時間に直せば2秒足らずだった。よく目をそらさずにいられたものだと自分に感心してしまう。真夏の太陽と同じくらいの威力を、その二つの目は発しているのだから。
その光を帯びた目が、ふいに私から離れた。
窓の外からの声へと引き寄せられたのだ。
「・・・ほら、あれ、真島と木下さん。新しいカップルのお帰りだ」
「へぇ、手なんてつないじゃって。ラブラブじゃん」
「あの二人を見てると、相思相愛ほど美しいものはないって思い知らされるよ」
相沢くんの横顔は、捨て猫をいたわる少年に似た清らかさを滲ませて、ひたすらきれいだった。
まただ。また、破壊衝動のようなとてつもない流れが自分のなかを巡っていくのを感じた。
私は、相沢くんがそうしているように、「微笑ましい恋人たちに幸せを分けてもらっています」という純度100パーセントの日だまりのような笑みを浮かべられない。
気に入らない。壊してやりたい。私の手で。
「こういうの、略奪愛って言うんだよね」
とうとう漏れた、私の黒々と醜い衝動。
相沢くんは少しだけ長いまばたきをしただけで、それ以外のリアクションをしなかった。優しい笑みは、まだその顔に留まり続けている。
「こういうのって?」
「真島と菜月が付き合ってること」
「略奪って、奪うって意味でしょ?彼らが何か悪いことをした覚えはないけど」
「失恋って、恋を失うって書くでしょ?真島は相沢くんの恋を奪ったって言っても、おかしくないじゃない」
相沢くんは、今度は長いまばたきをした。まばたきと言うよりは、目を閉じてそこから何も悟られまいとしているように見えた。
「気付いてたんだね、香崎さん。これでもけっこう、ちゃんと隠していたつもりだったんだけどな」
「わかるよ、ずっと見てたでしょ」
そのときの相沢くんのまなざしの温かさに私がどれだけ胸をかき乱され、視線の先に私がいないことを悔しく思ったことか。この様子じゃ、相沢くんはまるで気付いちゃいない。
「真島が木下さんに告白したときは、まぁ、ぼくも二人の気持ちには気付いてたからね。来るべきときが来たんだなと、すんなり頷けたよ。好きだけど、仕方ない。恋愛は、一人じゃ出来ない。ぼくの一方通行じゃ成り立たないことに、もっと早くから納得するべきだったんだろうけど」
それがなかなか難しくてね、と相沢くんは笑った。
目には見えないという「優しさ」という名前の何かが、相沢くんのすべてから放たれているように見えて仕方ない。
その長いまつ毛がまばたきで揺れる瞬間や、握りこもうとした手を無理に止めようとしたその動きや、窓から差し込む光に薄められた茶色の瞳の穏やかさのすべてから、相沢くんがあの二人に向ける非の打ちどころのない優しさを感じて、私の破壊衝動はどんどん加速していく。
「ねぇ、なんでそんな、すんなり受け入れちゃうの?好きなんでしょ?苦しくないの?悔しくないの?どうして温かく見守ろうって結論になっちゃうの?」
「苦しくないわけではなかったし、悔しくないわけでもなかったよ。でも、不可抗力だ。真島が告白して、木下さんはそれを受け入れた。ぼくに入りこむ余地はないし、そんな気もない。誰も喜んだりしないからね。ぼく自身を含めても」
「不可抗力だったら、自分の気持ちもなかったことにしちゃうの?わかんないよ、理解出来ない」
私のこの止めようのない衝動が、果たして何を壊そうとしているのか、それすらもわからずに、私は苛立ちを隠しもせずにひたすら相沢くんの優しさそのものを否定した。
真島が菜月に告白したとき、私のなかに湧きあがってきたのが怒りだったのも、考えてみればおかしな話だ。
あの二人がくっついてくれた方が、相沢くんを好きな私としては好都合なはずなのに。
許せなかったのだ、単純に。
菜月に告白した真島に、OKした菜月に、結局その2人を止められなかった自分に、腹が立って仕方ない。
相沢くんに優しさを強いるすべてを壊せたら、相沢くんは少しだけでも楽になれるだろうか?
「なんで、なかったことにしちゃうの」
こぼれ出た言葉が、私の衝動のすべてだった。
たくさんの矛盾が、正しいはけ口を見つけ出せずに怒りにだけ変換されていくなかで、このやるせなさだけがくっきりと形を持って出口を目指している。
「相沢くん、好きだったんでしょ?なのに2人が仲良くしてるの聖母みたいな顔で受け入れちゃって、ダメだったから仕方ないって、自分の気持ちを守ってくれるのは自分しかいないんだよ。本人まで見捨てて、それでいいはずないじゃん」
私の一方的なまでの批難にも、相沢くんの穏やかな表情は少しも揺るがなかった。
でも、さっきよりずっと悲しそうに見えた。捨て犬を家に連れて帰れないことがわかっている少年のように。
「ぼく、この世で一番大切なのは愛だと思うんだ」
愛、という単語の登場には、ちょっと怯んだ。やっぱり相沢くんが使うとまぶしい。
「それはさ、好きな人をこっちに振り向かせるものじゃなくて、もっとどうしようもなく無力なものだと思うんだ。持つぶんには、ホントに、何の役にも立ちゃしない」
ふふっと漏れたその笑みには「自嘲」という単語がはっきり見えて、相沢くんが少しも「綺麗に取り繕おう」と思っていないことが窺えた。
「誰か他の人が持つことで初めて意味があるんだ。真夜中に航海するとき、明かりが必要なのは舟の上にじゃない。岸で灯台として道しるべになるか、空の上で星として導いてやるかしないといけないみたいにさ」
「だから相沢くんは愛を持つ側になろうってこと?」
「そう」
「不毛だよ」
「そうじゃないと愛とは言えない」
「ばっかみたい」
小さく小さく、私はつぶやいた。
「そんなことしても、真島は気付いたりしないのにさ」
その四、彼は同性愛者である。
相沢くんと私には一つだけ似たところがあった。
それは他でもない、アイアイの名を良しとするその目だ。
正確に言えば、目線。まなざし。
私が相沢くんに向ける目線を、相沢くんは真島に向けていたのだ。
それに気がついたとき、頭を抱えたい気持ちにならなかったかといえばそれは大嘘。どうすりゃいいの、と泣きたい気持ちになったものだった。
でも、私は相沢くんの日だまりのようなまなざしを好きになったのだ。そこだけはどうあっても否定出来ないし、なくならない。
だからこそ、相沢くんにはその気持ちを手放してほしくないのだ。
「真島はバカだよ」
「うん。的を射た意見だと思う」
「でも、相沢くんはもっとバカ」
「はは、鋭い」
「ねぇ、そんなバカを好きな人間って、手の施しようのないバカだと思わない?」
相沢くんは否定も肯定もしなかった。
優しさで出来た笑みをさびしそうに浮かべただけだった。
「バカにはなりたくない?」
意地悪な質問だ。たやすい、という意味ではやさしくはあるけれど。
「もう手遅れ。私は大バカなんですからね」
不毛に輝きを放つ「愛」とやらを、どうやら私もこの先ずっと抱き続けるだろうから。
恋愛には「諦め」がつきものですが、「好きな人が付き合い始めちゃったから・・・」と弱弱しく笑って受け入れていく友人たちを見ると無性に悲しく、やるせないです。そんな気持ちを前面に押し出して書きました。ここまで付き合ってくださってありがとうございました。