家族だんらん
東京郊外から都心部に向けて一台の車が走っている。車の中は何やらとても賑やかだ。男の笑い声、女の笑い声、子供の声も聞こえる。どうやら家族である。運転席にいるのは田中芳夫、46歳。食品会社に勤めるサラリーマン。助手席に座っているのは和子、39歳。2人は夫婦であった。後ろの座席には2人の子供。姉の明美、中学2年生。そして弟の孝次、小学4年生。家族旅行の帰りだろうか、空はうっすらと青紫色に染まっている。信号機が赤になり前の車と接触するのではないかの至近距離で車を止める。
「いやぁ、混んでるなぁ~この時間では仕方ないか」
「決まってるでしょ、だから寄り道せずに帰ろうって言ったのに」
「あれ?土産売り場に寄りたいって言ってたのは明美じゃなかったっけ?」
「えっ!そうだったかなぁ~」
「そうだよ、お姉ちゃんだよ。あそこに土産屋があるとか言って,父さんがどれどれって気付いて車を止めたんだよね。何を買っていくか決まらなくてさ」
「ええ~でも私はそこに行きたいとかは言ってない気が…」
そう言いながら明美は寄り道した店で買ったぬいぐるみを撫でた。その地に多く生息しているという動物のぬいぐるみだった。その地方にしか売っていないものである。
「まあ、いいじゃないの。いつものことなんだから」
「そうだ、母さんの言うとおりだ。しかし暗くなってきたな。家に着くのは7時半くらいか?」
「もっとかかると思う。8時半くらいかな」
「お姉ちゃんの勘は当たらないから7時半くらいだよ」
「お前いちいち絡むなぁ、家に帰ったらすぐに寝ろよ」
4人家族を乗せた車は渋滞の中、話し声が途切れることなく街中にある家路へと向かった。大通りに差し掛かると芳夫はハンドルを左に切って前を走る車の後ろに付けながら言った。
「この時間はどの道に進んでも混んでるなぁ、4車線でもこのとおりだよ。まいったね」
「ホントだわね。でも、いつものことだから」と和子が疲れ気味の顔で言う。
後部座席にいる明美がぼんやりと景色を眺めながら何か鼻歌を歌っている。孝次はドアに寄りかかっていまにも眠りそうな表情をしていた。空はすっかり暗くなり街のネオンの灯りが強く周辺を照らすようになった。車ばかりが多いわけではない。歩道を急ぎ足で歩く人々も車の窓から見ると衝突せずによく歩けるものだなと思いたくなるほど、多くの人間が空気を切るようにお互いが交差しながら行きかう姿が目に映る。芳夫にとっては見慣れた光景だがいつも不思議に思うのである。
「やれやれ、やっと我が家に着いたぞ、みんなお疲れさん」
「ねぇ、あなた、家の鍵が見つからないの。どこへいったのか…」
「なに言ってるんだ。もう玄関先にいるじゃないか」
「あらほんと。気付かなかったわ」
「母さんしっかりしてよ。幸次も目をつむりながら歩かないの!ちゃんと目を開けて。アレ?付かない」
「ん?どうした明美」
玄関の横にある蛍光灯のスイッチを明美は何度も押すのだが灯りが付かない。
「なんだ。停電か?」
芳夫が明美の手をどけて自分でスイッチを入れようとするがやはり灯りは付かない。
「おかしいなぁ。部屋の中はどうだろ」
そう言って芳夫は玄関から伸びる廊下を渡りキッチン付近の蛍光灯のスイッチを押す。こちらも付かない。次にキッチンの隣にあるリビングの蛍光灯のスイッチを入れてみた。やはり付かない。
「どうやら停電のようだ。まいったね」
「どうしたのかしら。いやだわ、旅行から帰って疲れているのに」
「やだっ!スマホが壊れてる」
「えっ!スマホが?」
明美の手に握られた携帯電話はへし折れたかのように潰れていた。芳夫が咄嗟にポケットから自分の携帯を取り出すと、こちらも明美のものと同様、折れ曲がって使い物にならなくなっていた。
「なんだこりゃ、どうしようもないな」
「どうしたのあなた。まあ、壊れてるじゃない」
「そっちはどうだ」
「ちょっと待って」
和子が着ている上着から取り出した携帯電話は見た目は損傷はないが電波が入らずあきらかに故障しているようだった。
「とりあえず部屋が明るくなるものを探そう。懐中電灯はどこだっけ?」
「物置になかったかしら」
「どれどれ、おお、あったあった。あれ?付かないぞ。電池は入っているのか?ああ、入ってるなぁ。電池切れかぁ?まいったねこりゃあ」
「ねぇ、母さん。幸次を見なかった?さっきまでここにいたと思うんだけど」
「あら、どこ行ったのかしら。暗くてよくわからないわ」
「確かこの戸棚の中にロウソクがあったような…おっ、あったぞ」
芳夫がライターを取り出しロウソクに火を付けようとしたところ、そのライターも付かない。芳夫は何度指で動かそうがまったく反応を示さないライターを見ながら照れ笑いをしてみせた。
「ははっ、どうなってるんだろうね。ライターが付かないよ。これじゃタバコも吸えないじゃないか」
「ちょっと待って。ロウソクをかして」
和子はロウソクを持ってキッチンまで歩き、ガスコンロのある場所まで行くと、コンロのつまみを回してみる。しかし何度つまみを回しても点火しない。和子は首をかしげている。芳夫がどれどれと和子に代わってコンロを回してみる。やはり点火しない。
「おっかしいなぁ~ガスまで使えないなんて。いや…これは一大事だよ」
「えっ?電気もガスも使えないの?どうすんの宿題とかまだぜんぜん手を付けてないし」
「なに明美、宿題やってなかったの?旅行へ出かける前に済ませたとか言っていたくせに」
「だってぇ~やろうとしたけど時間がなくて母さんも忙しそうだし、その時は安心させようと…」
「まあ~いいじゃないか。そんなことよりも今はこの状況を…それにしても孝次はどうした?どこにいるんだ?」
「さっき2階で寝てたわよ、孝次なら」
「おい明美、なんでそんなことわかるんだ、ずっとここに居たくせに」
「うーん、そうなんだけど、なんかわかるのよ」
芳夫はリビングを出てすぐ手前にある階段を上っていった。後ろから明美が付いていく。孝次の部屋まで行くとドアが半開きになっている。そ~っと覗いてみると孝次がベッドに大の字になりスヤスヤと眠っていた。
「なんだ。寝てたのか」
「ねっ、私の言ったとおりでしょ。孝次のことなら何でもわかるんだから」
「ねぇ~あんた達、ちょっと下りてきてぇ」
「ん?母さんの声だ。何だろう?」
2人が暗い中、階段を下りてリビングまで行くと、和子がテレビのリモコンをしきりにいじりまわしていた。何度も何度も電源ボタンを押している。
「なにしてるんだ母さん」
「テレビが付かないのよ。リモコンのスイッチを押しているのにまったく動かないの。反応がないのよ」
「停電なんだから当たり前じゃないか」
「なに言ってるの父さん、リモコンは電池じゃないの。ちょっと貸して」
明美は和子からリモコンを取り上げるとテレビに向けてボタンを押しまくった。その様子を芳夫と孝次が呆れたような顔で見ている。芳夫が自分の隣に孝次がいることに気付いた。
「アレ?孝次、寝ていたんじゃないのか?」
「えっ?僕、ずっとここにいるけど」
「そ、そうか?2階にいたんじゃないのか」
「うーん、あまり憶えてない」
「……」
明美がキョロキョロとまわりを見渡しながら言った。
「ねぇ、母さんは?」
「…母さん?さっきまでここにいたんじゃ…」
「みんなぁ!来てちょうだい、大変なのよ」
和子の声がした。芳夫が声のする方に行ってみるとバスルームに和子がいた。彼女は蛇口を何度も回しながら芳夫に言った。
「水が出ないのよ、蛇口をいっぱいひねっても水が出ないの」
「そりゃおかしいなぁ、停電とか関係ないのに…どれどれ」
「あなたがやっても同じでしょ、ほんとどうかしてるわ、何もかも使えないじゃないの」
「キッチンはどうだ。キッチンの水なら出るんじゃないか」
「水道が止められてるから無理にきまってるでしょ」
「水道が止められてる?」
芳夫はその言葉に頭をかかえた。旅行に行っている間に何が起きたのか?電気、ガス、水道…それぞれ滞納することなく料金はちゃんと払っている。それなのにまったく使えない。こんなことがあるのだろうか、留守の間に何者かに悪戯でもされたのか…芳夫はしだいに慌て始めた。
「ねぇ、ちょっと。孝次がまたいなくなってる」
「どうした明美、なんだ孝次がいないのか。2階で寝てるんじゃないのか」
「そうだといいんだけど」
「孝次のことだ。大丈夫さ。それよりも電気はともかく水が出ないってのは困るなぁ~いやまいったよホントに」
2階から和子が下りてきた。この時、芳夫と明美は和子が2人いるのではないかと錯覚した。
「あれ?母さんさっきまで風呂場にいたんじゃなかったっけ?」
「あら、あなた何言ってるの。2階の様子が見たくて行ってみたのよ。そうしたら孝次がいなかったのよ。何処へ行ったのかしら」
「えっ?孝次がいない?そりゃあ、おかしいじゃないか」
「僕ならここにいるよ」
「ああ、なんだ。いたのか。いるならいるで返事してくれよ」
「僕、いま返事したよ」
「あーそうか。それは悪かった」
「お父さん、ちょっとこれを見て」
「ん?なんだ」
明美が以前、リサイクルショップで買ったゼンマイ式の時計をかざし、それをみんなに見せた。時計の針が19時54分でで止まっている。まわりを見渡すと、リビングの壁に立て掛けた時計もその時間で止まっていた。
「その時計どこにあった?」
「えっ?あ、これ?私が店で買ったのよ。色が好きだったから」
「へー、ゼンマイ式かぁ」
「みんな真っ暗なのによく物が見えるね」
孝次が妙なことを口にすると、他の3人もハッとしたような顔になった。
「そういえばそうよね。私も普通にバスルームの様子や階段を上がって部屋を覗いていたし…」
「慣れたからだろう。ほら、目って暗くなっても、だんだんと見えてくるようになるじゃないか」
「そうよ。孝次はもう寝なよ。明日早いんだから」
明美はそう言って孝次の背中を押しながら2階へ上がっていった。子供2人が2階に上がっていくのを見計らって芳夫と和子はやれやれといった感じでソファーに座った。2人は互いに顔を合わせては息を吐き、平手で頭をさすっては眉をひそめ険しい顔になっていった。先に口を開いたのは芳夫である。
「明日、会社に出勤したら朝一番で電力会社、ガス会社、水道局に電話する。和子は家に居てくれ。さしあたっては電気だ。電気が使えなきゃどうにもならん。それから留守の間、何が起こったか調べる必要があるしなぁ。旅行帰りに散々な目に会わされてしまったものだよ。いや、まいったよ本当に」
「電気よりも水道よ。水が使えないなんて…停電でしょ?なんで水が使えないの?」
「お、おれに聞くなよ。頭の中、こんがらがって…状況がよく分からないんだ」
「そういえば明日、町内会で打ち合わせがあるのよ。どうしようかしら」
「休んでくれ。適当に理由を付けて欠席すればいい。とにかく誰か家に居ないと。まあ、おれが家に居てもいいんだけど電気や水道が使えないとかの理由で会社を休むってのもなぁ」
「あら、それなら町内会も重要よ。どんな話があるか分からないんだから。軽く考えてもらっても困るわ」
「いや、そうは言っても月に何回あるかないかの会合だろ?後で近所の人達に聞いて回ってもいいだろうよ。まずは家のことを考えなきゃ」
「その家は町の中にあるでしょ。自分の家のことばかりではなく、周囲の…近所付き合いのことも大切にしなきゃ」
「そうよお父さん、お母さんだって家のことちゃんと考えてるんだから」
「…そりゃあ~分かっているんだけどさ、とにかく一日も早く元の状態にしないと」
「いいわよ。私、明日はずっと家にいるから。町内会には理由を話して電気会社とか水道局へも私が電話で話をするからあなたは会社にいてちょうだい」
「うーん、それでいいのか?」
「そのかわり早く帰ってきてちょうだいね」
「ああ、分かった。そうするよ」
「僕が学校から帰る頃には電気も付いてるし水も出るようになってるさ」
「ああ、そうかもな。そうなることを祈るよ。ん?アレ?お前たち、寝てたんじゃないのか。いつからここにいるんだ?」
「う~ん、ずっと前からここにいる気がするし、ついさっき、ここに来たような感じもするし」
いつの間にか芳夫の両脇に明美と孝次が座っていた。
「おや?母さんは?さっきまでここに座っていただろう」
「母さん?母さんなら2階で寝てるよ。今日は疲れたからもう寝るとか言って…」
「ええっ!何を言ってるんだ、母さんはさっきまでここに座ってたんだぞ。母さんと2人で明日どうするかについて話をしていたんだ」
「大丈夫だよ。僕が聞いといたから」
「孝次くん偉い!じゃあお父さん、私達もう寝るから」
そう言って明美は孝次の背中を押しながら2階に上がっていった。階段を上がりきった2人は子供部屋まで向かう途中に話し声が聞こえた。子供部屋の隣の部屋からである。
「休んでくれ。適当に理由を付けて欠席すればいい。とにかく誰か家にいないと。まあ、おれが家に居てもいいんだけど電気や水道が使えないとかの理由で会社を休むってのもなぁ」
「あら、それなら町内会も重要よ。どんな話があるか分からないんだから。軽く考えてもらっても困るわ」
「いや、そうは言っても月に何回あるかないかの会合だろ?後で近所の人達に聞いて回ってもいいだろうよ。まずは家のことを考えなきゃ」
「その家は町の中にあるでしょ。自分の家のことばかりではなく、周囲の…近所付き合いのことも大切にしなきゃ」
ここまで聞いて明美は母の味方になりたくなって部屋のドアを開けるやいなや叫んだ。
「そうよお父さん、お母さんだって家のこと考えてるんだから」
明美は自分が発した言葉にハッとなった。それはここに来る前に1階のリビングで言っていた言葉と同じだった。
「どうした明美。もう遅いから寝てなさい」
芳夫がドア付近で1人ポツンと立つ明美に言った。すると2階の奥にある子供部屋から孝次が目をこすりながら出てきた。
「お姉ちゃん、うるさいよ。起きちゃったじゃないかぁ」
「ご、ごめん孝次」
「う、ううん、別にいいけど。もう、起きちゃったから」
「……ところでお父さん、いつからそこにいるの?リビングからどうやってここまで来たの?それから孝次も…さっき私と一緒に階段を上がってきたのに…子供部屋で寝てたわけ?」
「僕…ずっと寝てたよ」
「ずっと寝てたよって…いつから?」
「だから家に帰って来てから……」
「……」
「さあ、母さんとの話し合いはまだ終わってないから2人とも寝なさい」
明美と孝次は子供部屋に入っていった。子供部屋は部屋の真ん中にカーテンが掛けられるようになっており就寝時にはカーテンが閉められる。明美はベッドに横たわり仕切りとなっているカーテンを見ていたが、眠りたいわけでもなければ疲れているわけでもない。柔らかい敷布団に包まれているが感覚がなかった。リビングでは芳夫と和子が雑談を交わしていた。
「あの2人はもう寝たのかな?」
「そうね。明日、早いですもんね。それにしても何も使えないのでは暇で仕方ないわよねぇ」
「まあね。でも明日になれば何もかも解決するさ。今だけだよ、こんな何もできない夜は」
「ちょっとお茶を入れてくるわ」
和子はソファーから立ち上がってキッチンへ向かった。
「電気もガスも使えないぞ。冷蔵庫にペットボトルの茶はあるだろうけどな。あ、そうだ、アイスコーヒーとかまだ残ってるだろう、お前の好きなトマトジュースでもいいよ」
芳夫がそう言いながらキッチンの方に目をやるとそこに和子の姿はなかった。冷蔵庫は開けっ放しでカウンターテーブルの上に2つのコップが置かれている。
(何処へ行ったんだ和子は…)
芳夫は立ち上がり、キッチンを見て回ったあと玄関へと続く廊下を歩いていくと浴室の扉が半分ほど開いているのを発見し、覗いてみると浴槽の中に裸体でしゃがみこんでいる和子の姿があった。和子の体にはあちこちに紫色の痣があった。
「おい、どうした和子!何があったんだ」
芳夫がびっくりしているその背後から声がした。
「ねぇ、お父さん」
振り向くと頭から血を流している明美が立っていた。
「……明美」
「孝次が2階にいないの。いくら捜してもいないの」
「そ、それより明美、その傷は…」
「お父さんだって人のこと言えないわ。鏡で見てみなよ」
芳夫は洗面所の鏡に向かい自分の顔を覗いてみた。右目が飛び出してぶらぶらと垂れ下がっている。鼻はへし折れて顎がなくなっていた。頭部と胸部の間にあるはずの首の部分が確認できないほど無くなっている。頭のてっぺんは潰れて平らになっていた。よく見ると耳から白い泡状のものが噴出している。脳である。脳が耳の穴といい鼻の穴といい口からといい、いたるところから吹き出して無くなっていた。
「ねぇ~孝次を捜そうよ、ほんとに見つからないんだから」
「いや、でも母さんも大変なんだ。今だって風呂桶の中で、アレ?」
「どうしたの?」
「母さんがいない。さっきまで風呂場にいたんだ」
「お母さんなら2階にいるわよ。お父さんと話していたじゃない、忘れたの?」
「そ、そ、そうだっけ?」
「お父さんは脳みそが全部どっかへ飛んじゃったから物事を考えられなくなってるだけ。私に任せて。とりあえずお母さんは後回し。孝次を捜そう」
「わ、わ、わ、分かった。そうしよう~」
芳夫と明美は廊下を渡ってキッチンを通ってリビングまで行き、ふと窓から外の景色を眺め上のほうに目をやると男の子を発見した。孝次である。隣の家の屋根に直立不動の姿勢で立っている。夜風に吹かれながら屋根のてっぺんでいきり立つその姿は勇ましいようであり、それでいて危なげな雰囲気をも漂わせていた。
「孝次のやつ、あんなところで何やってるんだぁ!」
「あっ、待ってお父さん!」
芳夫はそう言うと急いで玄関のほうに向かい外に出た。傍にあるガレージに目を向けるとそこには車がなかった。芳夫は呆然とした。
(車がない?では我々家族はどうやって家まで到着したというのだろう…)
リビングでは明美が窓から孝次を眺めている。ふと目を下に向けると1人の女の子が隣の家の裏庭からこちらを見ていた。それもかなり驚いている表情でじっと見つめている。明美と同い年の筒井京子がいつの間にかそこにいたのだ。明美と京子は同じ中学に通う同級生であった。田中家と筒井家は隣同士であり、もちろん、近所付き合いも以前からある。京子の母、佑子は和子と共に町内会ではさまざまなイベントの運営を任されており、よく顔を合わせる間柄である。明美は精一杯、笑顔を浮かべながら京子に手を振った。しかし反応がない。もう一度大きく手を振ってみるが京子は表情を変えなかった。
(京子…気付かないの?)
「おい、京子!何してるんだこんな真夜中に。風邪ひくだろう」
「あ、お父さん」
「とにかく家に入りなさい。明日は学校だろう、遅刻するぞ」
「ああ、ごめん。なんか気になることがあって…」
「気になること?気になることってなんだ?」
「隣の明美の家から物音がするの。話し声とか、何か…スイッチをカチカチ押しているような音…」
「何を言ってるんだ。隣は真っ暗で電気付いてないだろう、まだ帰ってきてないんだよ」
「そ、それは分かってるけど」
「さあ家に入りなさい」
利彦は娘を家の中に入れると、チラッと隣の家を怪訝な表情で見つめ、その後、自分も家の中に入りドアを閉め鍵を掛けた。京子は2階に上がり自分の部屋に戻ると、すぐさまベッドに横たわり布団を頭から被った。
次の朝、京子が階段から降りてくると祐子が朝食をテーブルに置きエプロンで手を拭きながら京子に言った。
「あら、寝坊よ、さっさと朝ごはん済ませてちょうだい。お母さんこれから歯医者に行ってくるから」
「ハーイ、いただきま~す」
洗面所から利彦がネクタイを締めながら歩いてきて、コップに汲んだ牛乳を飲み干すと急ぎ早に椅子の上にあったカバンを持って玄関に向かった。祐子が追いかけるように玄関に向かう。
「じゃあ、行ってくるから」
「気をつけて」
「あ、それから昨日の夜、何かおかしなこととか、妙なこととか、起こらなかったか?」
「ええ~、別に。何もないわよ」
「そうか。…ならいいんだ。それじゃ」
「いってらっしゃい」
利彦は通勤列車の中で考え事をしていた。あの夜、実は利彦にも聞こえていたのだ。誰もいないはずの隣の家からさまざまな物音やら話し声が…。しかし妻の祐子は何も聞こえてなかった。聞こえる人と聞こえない人がいる……利彦はそれを知っている。彼は子供の頃から霊感が強かった。昨日の夜のような体験は初めてではない。高校の修学旅行では5人ひと組で旅館の部屋に泊まり、部屋の右奥の壁からハア~ハア~とかすかに息を吐く音が利彦にだけ聞こえていた。大学卒業後、営業の外回りである会社の倉庫で待たされたおりには、高く積まれたパレットとパレットの間から悲痛なうめき声が聞こえた。結婚後、京子が生まれてまもない頃、家族3人で神社に行った際は、木造建築の柱の付近でトントンと何かを打ち付けるような音がした。そして昨日の夜、娘の京子にも隣の田中宅の家から物音が聞こえたということは、自分と同じ霊感を持っているということなのか。遺伝だろうか…。そんなことを列車の中で利彦は考えていた。
「おはようっ!」
「よっ、おはよう」
「今日も午前中から外回りだよ、そっちはどうだい」
「ああ、今日はそっちとペアで行動することになるなぁ、よろしく」
同僚の武田とは同期で入社し、営業や挨拶回りでは共に行動を取ることもある。この日は正午までに2件の取引先を回らなければならなかった。筒井利彦は武田と共にまずは自社の近くにあるY社に行き、外に出ると急いで日本橋にあるD社を尋ねた。D社を出る頃には昼の休憩時になり2人揃って腹を空かせていた。
「前にこの道沿いにある食堂で食べた定食があってさ、安いし、結構、美味かったんだよ。生姜焼きとかおすすめかな?行ってみるか」
「よし、そこに行こう。武田はよくこの辺りに行くのかい?」
「ああ、仕事上、取引先が何件かあって、だいたいこの辺の店は知っている」
店に入ると2人はそれぞれ注文し、やや疲れた表情でコップの水を飲んだ。カウンターの奥にあるテレビから正午のニュースが流れる。
『昨夜。7時50分頃、○○区○○町付近にて、9名の死者、15名の重軽傷者を出した道路側に面した建設現場による資材落下事故において…』
筒井はニュースを何気に眺めていたが、表示された死亡者の名前を見て愕然とした。隣の家に住む田中家の家族4人の名前が記されていたのである。箸が止まり、体全体が硬直していた。その姿を見た武田が声をかけた。
「どうした?」
「い、いや……」
武田が後ろを振り向いてテレビに目を向け、すぐさま筒井に言った。
「大変な事故が起きたものだな。建設中の資材?かなり高いところから崩れ落ちたようだ」
「おれもあそこの道は何度か通ったことがあるけどな…」
筒井の青ざめた表情を見て取った武田が心配そうに話しかける。
「この事故になにかあるんだな」
「……そうなんだ。今日、仕事終わったら……いいか?」
「ああ、付き合うよ。話を聞こう」
午後の社内における雑務を終え、筒井と武田は2人が仕事の帰りによく行く喫茶店に入った。実は武田も過去にさまざまな不可解な体験をしてきた。ただ、武田はそれを霊的なものとは捉えず、科学的な反応による現象だと考えている。筒井は武田に昨夜に起きた建設用資材落下事故の犠牲者の中に隣近所の家族が巻き込まれていたこと、その家から不可解な物音がするのを自分と娘が聞いていることなどを話した。武田はその話を聞いてしばらく考え込んでいたが、ふと、堰を切るように筒井に話し始めた。
「肉体と精神が分離する臨死体験というものは、以外にも多くの人々が経験していることだと聞いているよ。例えば人間は死ぬとき、あー、自分はこれで死ぬんだなぁというような心の準備ができている場合とそうではない場合…何か突発的な出来事があって自分の身に何が起きたのかを精神で認識できなかった場合などに起きるさまざまな化学的反応…この場合の『科』は化けるの『化』だよ」
「武田らしい意見だとは思うが、それは化学と言えるのだろうか?」
「そうだな。俺はそう考えているんだよ。ただ、この説だと精神を物質として捉えられるかどうかなんだけど、今の科学では規格外というか、専門分野でも把握しきれない未知の領域の話になってしまうけどな」
「おれと娘が隣の家で聞いた音というのは、肉体を離れた精神が死んでいることに気付けず家に帰り、それによって生じたということなのだろう。それは霊的現象として捉えられないだろうか?」
「精神によってもたらされた衝動は、同じ精神で受けることしかできない。物体は動いてなくても精神では心理として活発に動いているのだ。目に見えるものばかりが動いているとは限らない。やっぱりね…こういうことも化学として考えたくなるんだよね俺は…」
「おれの女房には聞こえなかったんだ。これをどう考える?」
「……そこなんだよな。そこで行き詰まるんだよ。これからの課題かな?」
しばらく2人は会話が途絶えた。店の外を見るとすっかり暗くなっていた。
「あの家族は…ずっとあの家にいるのだろうか?」
「…わからない。残像のようにしばらくすると消えて無くなるのかもしれない。でも、その時は家族全員が自分達はこの世の者ではないと悟ったときなのだろう。その家族に限らず、彷徨い続ける精神というのがたくさんあって、さまざまな化学反応を起こしながら漂っている」
「…空き家でも廃墟でも精神だけが漂い続けているということか…」
「そうだな。ただ、聞こえない人…つまり感じ取れない人がいるというのも極めて精神的な現象だと思うよ。肉体の機能だけに囚われていると何も感じられないのだろう」
筒井は思った。昨日の夜…自分と娘の京子はその姿は見えずとも声を聞いていた。その声は空気を伝わって届くというよりも、家の方角からなにか耳元でささやくように聞こえてきた。心の中で聞いていたのかも知れない。だからそういった事に心を通わせようとしない妻には聞こえなかった。自分よりもはるかに霊感の強い人間であれば、もしかしたら聞こえるだけでなく、目の中に映るのではないか…視覚として、いや、心の眼として捉えることができるのではないか?では、さらにもっと霊感の強い人だったら?
何でも科学的に分析しようとする武田にはあまり強く言えないことだが、筒井はそんなことを考えながら、店の窓からすっかり暗くなった外の景色を眺めた。
了




