どうかそのままで
「うちの家、お化けが出るんですよ」
わたしが営む居酒屋にやって来た四十代前半くらいの女性は、そう言った。彼女の名前は陽子といい、その隣には彼女の夫である芳夫が座っている。ふたりは半年ほど前に、隣街に引っ越してきたらしい。
店内にはわたしと彼女たちの三人しかいなかった。わたしと陽子は同郷ということもあって話が弾み、閉店間際になるまですっかり話し込んでしまっていたのだ。どういう話の流れだったのか、会話はいつの間にか幽霊の話題になっていた。
わたしは驚いてカウンター席に座る陽子の顔を見た。
「出るんですか、お化け?」
「お化けっていうか、芳夫の偽物? っていうのかな」
「それはドッペルゲンガーということでしょうか」
「ああ、そうともいうのかも」
陽子は、俯いたまま黙って煮物をつついている芳夫の方にちらりと目をやる。
「その話、詳しく聞かせていただけませんか」
怖い話が好きで、怪談蒐集が趣味のわたしにとっては棚からぼた餅だった。前のめりになりすぎて相手を警戒させてしまわないよう注意しながら、陽子にお願いする。
「いいですよ」と彼女は頷き、話しはじめた。
*
陽子たちが隣街に引っ越してきたのは、芳夫の勤めていた会社が倒産してしまったことが原因だった。
「もともとそんなにいい会社でもなかったんですよ。自転車操業でなんとかやっているようなところで。で、昨今の不況と物価高のあおりを受けてついに倒産」
当時の陽子は専業主婦だった。夫婦ともに無職になってしまったため、賃貸のマンションを解約し、別の場所に移ろうということになった。
「芳夫の知人の伝手をたどって、格安で住める物件を紹介してもらったんです」
それが隣町にある小さな日本家屋だった。庭もあり駅にも近い。それなのに家賃は前に住んでいたマンションの半分以下だった。
「不動産屋いわく、以前ここに住んでいた男性が風呂場で亡くなっていたそうです」
要するに事故物件というわけだ。事件ではなく事故なので安心してください、と不動産屋は言った。
内覧に行った時には、亡くなった男性の家具などが残ったままだった。それらをほとんど処分してもらってから、陽子たちはその家に引っ越した。正直、人が死んだ家に住むのは気味が悪かったが、そんなことは言っていられない状況だった。
さいわい芳夫は新しい勤め先が決まった。陽子は専業主婦として家のことを請け負っていた。
「引っ越してから二、三週間ほど経った頃ですかね。なんだか視線を感じるようになったんです」
夫は出勤中で家には彼女と、十歳になる娘の優愛しかいない。娘に訊いてみても、そんな視線は感じないという。
でも陽子はたしかに感じていた。彼女の一挙手一投足をじっと見つめ、品定めするような視線を。
はじめのうちは気のせいだと自分に言い聞かせていた。新しい環境へのストレスと、事故物件であるという情報が、そういった思い込みを生み出しているのだと。
「でも視線は日増しに強くなっていきました」
居間や台所にいる時だけでなく、風呂やトイレにいる時でさえ見られているような気がする。それだけではない。明確な気配すら感じるようになった。
居間でテレビを見ていると、台所で食器がカチャカチャと触れ合う音がする。そちらに目を向けるが誰もいない。二階の寝室で本を読んでいると、向かいの芳夫の寝室の中を何者かが歩き回る足音がする。そっと覗いてみるがやはり誰もいない。掃除機をかけていると、風呂場の方から「陽子」と自分の名前を呼ぶ低い男性の声が聞こえる。もちろん誰もいない。
「芳夫にも相談しましたが、気のせいだろうと言われてしまいました。わたし、もうすっかり参ってしまって」
家にいるのが嫌になった陽子は、日中は外で過ごすようになった。とはいえお金がないので図書館で過ごすのがほとんどだった。
そんな日々が続いたある日のこと。
陽子はその日も図書館で時間を潰してから帰宅した。三和土で靴を脱ぐ。玄関から続く廊下の右側には居間があり、左側には台所がある。
居間の入り口の前に来た時、陽子は驚いて足を止めた。
居間を入ってすぐのところに芳夫が立っていたのだ。陽子が帰ってきたことに気がついていないのか、芳夫はこちらに背を向けたまま直立している。
その姿に陽子は違和感を抱いた。
何かが違うと思った。どこがどう違うのかと問われると答えに窮してしまう。でも普段の芳夫とは何かが圧倒的に違っているのだ。
「今思い返してみると、AIで出力した似顔絵に似ていた気がします。あれって人にそっくりだけど、髪の毛とか服とか、どこか微妙に違和感があるじゃないですか」
目の前にいる芳夫にはまさにそんな異様さがあった。だが声をかけずにはいられなかった。いつもならまだ会社にいるはずの芳夫が家にいるのだ。何かがあったのではないかとも思った。
「芳夫、こんな時間に何してるの」
芳夫が振り返る。
その瞬間、陽子は声をかけたことを後悔した。
芳夫の動きがあまりにも奇妙だったからだ。錆びついたロボットのようなぎくしゃくした動きで、こちらに顔を向ける。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。不自然なまでに目じりが下がり、引き上げられた口元から歯がのぞいている。
──芳夫じゃない。
陽子は引きつったような悲鳴をあげて台所に飛びこんだ。勢いよく扉を閉め、台所の隅に逃げる。食器棚に肩がぶつかり、食器がガチャンと大きな音を立てた。
扉に目をやる。
芳夫の形をした何かが、すりガラスに額をくっつけるようにして台所の様子を窺っている。その輪郭は歪に潰れてにじみ、より一層不気味さに拍車をかけている。
恐怖が喉元までせり上がってくる。陽子は目をぎゅっと瞑り、床にしゃがみ込んだ。あの男が扉を開けて中に入ってくるところを想像して、全身に鳥肌が立った。
その時だった。
「ママ、どうしたの、ママ?」
優愛の声が居間の方から聞こえた。
陽子は、はっと顔を上げる。いつの間にか、すりガラスの向こうの男は消え失せていた。代わりに台所の扉を心配そうに叩く優愛の姿があった。男のせいで気がつかなかったが、優愛が家にいたらしい。
「優愛」
陽子は慌てて立ちあがり、扉を開ける。周囲を見回すが娘以外には誰の姿もない。もちろん芳夫もまだ帰ってきていないようだ。きょとんとした顔で優愛がこちらを見上げている。
陽子はほっとため息をついて優愛の頬を撫でる。陶器のようにきめ細やかで滑らかな肌。小さな子ども特有の柔らかな髪を梳いているうちに次第に心が落ち着いてきた。
「優愛、今さっきここに誰かいなかった?」
「誰もいないよ? ママがいきなり叫んで台所に駆け込むから、わたしびっくりした」
「ごめんね、ママちょっと気が動転していたみたい。なんでもないのよ」
「でもママ、汗びっしょり」
優愛が宝石のような透き通った瞳で陽子を見上げながら言葉を続ける。
「何か怖いことがあったらわたしに言ってね。わたしがママを守るから」
幼い口から出たその言葉に陽子は泣きそうになった。芳夫は陽子の話を信じてくれなかったが、娘の優愛だけは陽子の異変に気がついて、小さな子どもなりに身を案じてくれていたのだ。
「ありがとう優愛。大好きよ」
陽子は華奢な優愛の体をぎゅっと抱きしめた。愛おしさと同時に後悔が湧き上がってきた。
──本来なら母であるわたしが優愛を守らなくてはいけないのに。
優愛がいることに気がついていなかったとはいえ、陽子は芳夫の偽物を見た恐怖のあまり、優愛を放り出して一人で逃げ出してしまった。そしてたった十歳の女の子にこんな不安そうな顔をさせている。母親として失格だ。
「わたしが優愛を守らないと、と思ったんですが、駄目でした」
その日の夜、陽子は夢を見た。
夢の中で彼女は家の居間にいた。
家中の照明が消えている。障子窓から入ってくる軒先の常夜灯の光が、室内を橙色に淡く照らすばかりだ。周囲のあちこちに闇がわだかまっている。芳夫も優愛もいないようだ。
けれどはっきりと人の気配がする。何かが息を殺して自分を見ているような感覚を覚える。
全身がじっとりと汗ばんでいる。逃げないと、と思うのに陽子の体は動かない。体は死んでいるのに脳だけが生きているような感覚だった。
ずっ。ずずっ……。
何かが這いずるような音が聞こえた。廊下の奥からだ。なぜかはわからないが、それは風呂場から出てきたのだと直感した。
ずずっ、ずずっ、ずっ……。
音は次第に近づいてくる。
陽子の心臓の鼓動が速くなる。呼吸が荒くなる。けれど指一本、動かすことができない。
やがてそれは姿を現した。
大きな蛇だった。体長二メートルはあるだろうか。墨で塗りつぶしたような真っ黒な皮膚は、ぬらぬらと妖しい光沢を放っている。
生臭いにおいが鼻をついた。
蛇は陽子の足元まで這いずってくると、ゆっくりと彼女の体に巻き付いてきた。ぬめった鱗が肌を擦り、生理的な嫌悪感を覚える。叫ぼうとするが喉に何かがつっかえたように声が出ない。あまりの臭気に吐き気を覚える。
蛇が鎌首をもたげ、陽子の顔の前で二つに割れた真っ赤な舌をちろちろと動かす。
そこで陽子は目を覚ました。
天井にぶら下がった蛍光灯が橙色の光を投げかけている。薄暗い部屋の中で荒い息をつく。まだ心臓がドクドクいっている。
夢だったのかと、ほっとして寝返りを打とうとして、体が動かないことに気がついた。金縛りだ。
目だけを動かして周囲を見回す。さっきの蛇がいたらどうしよう、とまた恐ろしさが湧き上がってくる。隣では優愛が静かに瞳を閉じている。陽子の異変に気がついてくれそうにない。
金縛りにあった時は、全身の力を込めて一気に体を動かせばいいと聞いたのを思い出した。陽子が体に力を込めて起き上がろうとした途端。
ぎっ。
寝室の扉の向こうで音がした。
階段を上ってくる足音だ。と同時に水滴のようなものが、ぽたぽたと落ちる音も聞こえる。
ぎっ、ぽたぽたぽた。ぎっ、ぽたぽたぽた……。
全身に冷たい水をかけられたような感覚に襲われた。気味の悪い夢から解放されたと思ったのに、今度はあの男──芳夫の偽物──が来たのだ。陽子は寝室の扉を見つめる。扉の上部にはすりガラスがはまっている。
そこに男の顔が、ぬっと現れた。
芳夫であって芳夫でない何者か。それが昼間と同じように、すりガラスに額をぴたりとくっつけて寝室を覗いている。
その間もぽたぽたと水が滴る音が聞こえる。前の家主が風呂場で溺死していた、と不動産屋から聞いたことを思い出した。そんな男が、芳夫のふりをしてわたしにつきまとう理由がわからない。理不尽な恐怖に涙がにじむ。
わたしには何もできません、どうか成仏してください、と必死に祈る。うろ覚えの念仏を唱える。
どのくらい経っただろうか。
「ママ、ママ」
優愛の声で我に返った。
目を開けると照明の消えた蛍光灯が目に入った。陽子は明かりがあると眠れないので、いつも部屋を真っ暗にして眠るのだ。時計の針は午前二時過ぎを指している。ということは先ほどの一連の怪異はすべて夢だったのだろうか。
「ママ怖い夢見たの? すごくうなされてたよ」
優愛が寝そべったまま陽子を心配そうに見つめる。またこの子に助けられた。陽子は優愛の体を抱きしめる。優愛の髪に鼻をうずめると、シャンプーのいい香りがした。
「うん、すごく怖い夢を見たの。でももう大丈夫よ、優愛が助けてくれたから。ありがとうね」
「ママはわたしが守るって言ったでしょ。だってわたしのママだもん」
優愛が誇らしげな顔でにっこりと笑う。
*
「それからも度々、芳夫の偽物は現れます」
ウーロン杯を飲みつつ陽子は言う。
「最初の方は芳夫と間違えて声をかけてしまうことも多かったですね。でも最近はちゃんと見分けられるようになってきましたよ」
「偽物が現れた時はどうしているんですか」
わたしは訊いた。
「無視して優愛と一緒に別の部屋に避難するようにしています。数十分もすればいなくなるので。うっかり声をかけて、あの気持ちの悪い夢を見たくもないですしね」
「声をかけてしまうと必ず蛇の夢を見るんですか」
「ええ。でも優愛がうなされているわたしを助けてくれるので、もうそこまで怖いとも思わなくなってきました」
「それは心強い。優愛さんには悪いものを追い払う不思議な力があるのかもしれませんね」
わたしの言葉に陽子は嬉しそうにうなずいた。それから彼女は「ちょっとお手洗いをお借りします」と言って席を立った。
残された芳夫にわたしは話しかける。
「それにしても怖い話でしたね。芳夫さんはご自身の偽物を見たことはあるんですか」
「一度もありません」
芳夫は持っていた焼酎をカウンターに置いて、さらに言った。
「というか、僕たちに娘なんかいませんよ」
予想外の言葉にわたしは「えっ」と声を上げる。先ほど聞いた陽子の話の中には優愛という名の娘が頻繁に登場していたではないか。
「優愛は人形です。陽子が家に内覧に行った時に、前の家主の物が残されていたと言っていたでしょう。残置物の一つが“優愛”でした。十歳くらいの少女を模したラブドールです」
「つまり、陽子さんはラブドールを娘だと思い込んでいるということですか」
「内覧の時からすでに魅入られていたんでしょうね。あの人形だけは処分しないでくれと、頑として譲りませんでしたから」
わたしは絶句する。使い古しのラブドールを愛娘としてかわいがる陽子の姿を想像し、肌が粟立つ。けれどこちらも客商売としてやっている以上、それは気味の悪い話ですね、などとあけすけな感想を述べるわけにもいかない。なんとかフォローしようと、わたしは言った。
「でもその人形は悪いものではなさそうですね。風呂場で亡くなった家主の幽霊から陽子さんを守ってくれているみたいですし」
芳夫は口元を歪め、「どうでしょうね」と笑った。
「そういえば陽子は、前の家主がどんな死に方をしていたのか、あなたに話していませんでしたね」
「どんな死に方だったんですか」
「風呂場の洗い場に膝をついて、湯船に顔を突っ込んで溺死していたそうです」
発見者は隣人の夫婦だったらしい。異臭に気がついて男性の家を訪ねたところ、家の鍵が開いていた。そして風呂場で亡くなっている男性を発見した。
はじめ夫婦は風呂場で男女が二人死んでいると思ったそうだ。
家主の男性の隣に、まったく同じ格好で湯船に顔を沈めているラブドールがあったから。そのラブドールは成人女性を模して作られたものだった。
“優愛”は風呂場の惨事など知らないかのように、居間の机の前にお行儀よく座っていた。
わたしはぞっとする。それではまるで優愛が二人を殺したみたいではないか。
「僕は優愛の自作自演じゃないかと思っています。僕の偽物も蛇の夢もすべて」
「どうしてですか」
「自分に依存させるためじゃないですか。どんなに怖いことがあっても優愛が守ってくれる。優愛さえいれば大丈夫。そう思い込ませたいんでしょう。実際、陽子は、優愛は自分の守り神だ、とか言って毎日かわいがっていますから」
そうして優愛は自分を欲求のはけ口として使う男を捨て、母親のように愛してくれる陽子を手に入れたのだ、とわたしは思った。でも、それは歪んでいる。陽子から優愛に向けられるものは、洗脳めいたものによって生み出された偽物の愛情にすぎない。
「お祓いをした方がいいのではないですか」
「必要ありません」
芳夫は皮肉めいた表情を浮かべ、言葉を続ける。
「陽子は面倒な女でね。すぐにヒステリーを起こすし、僕が失業した時でさえ専業主婦のままでいたいと言って働こうともしなかった。でも優愛と出会って彼女は変わった。情緒が安定し、家事も完璧にこなすようになった。最近では優愛に不自由させたくないからと、働きに出るようになりました。おかしな話ですが、事故物件に住み始めたおかげで家庭がうまくいっている。だから陽子には余計なことは言わないでください」
どうかそのままにさせておいてください、と芳夫は釘を刺すようにわたしを見上げた。
ちょうどそこへ陽子がお手洗いから戻ってきた。彼女は明るい声で言った。
「そういえば優愛の写真を見せていませんでしたね。これが優愛です。かわいいでしょう」
陽子がスマートフォンの画面をわたしに向けてくる。
そこには、椅子に座って微笑む少女のラブドールが映っていた。
(了)




