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第9話『余熱。あるいは、触れられない距離』

神話が終わったあとの夜は、思ったより静かだ。


世界を支配できるはずだった男は、

初めて自分の手の震えに気づく。


それは敗北ではない。

ただ、余熱のような、不安のはじまり。

夜は、思っていたよりも静かだった。


 廃ビルの最上階。割れた窓から吹き込む風が、錆びたブラインドを小さく鳴らしている。遠くで鳴るサイレンも、今はどこか他人事のように聞こえた。


 アリアはコンソールの前に座っていた。


 画面には、意味のないコードが並んでいる。

 一行打って、消す。

 また打って、消す。


 指先が、ほんのわずかに遅れる。


「……違う」


 誰に向けた言葉でもない。


 以前なら、思考より先に手が動いた。

 今は、手が考えようとするたびに、どこかで引っかかる。


 理解できない。


 いや――


 理解できない“自分”がいる。


 


 階段を上る足音が近づいた。


「おじさん」


 恵麻が、ビニール袋を提げて戻ってくる。パンと、水と、どこかの店で拾ってきたらしい古びたマフラー。


「ちゃんと食べないと死ぬよ。神様でも」


「私は神ではない」


 反射的に返してから、アリアは一瞬だけ言葉に詰まった。


 “では何だ”と、続けられなかった。


 


 恵麻は床に座り込み、袋からパンを取り出す。ちぎって、アリアのほうに差し出した。


「ほら」


「自分で食べられる」


「うん。でも、今の顔、たぶん無理」


 アリアは彼女を見る。


 視線が、わずかに遅れる。


 以前なら、彼女の呼吸の乱れや脈拍の微細な変化から感情を読み取れた。今は――


 読めない。


 何を考えているのか、分からない。


 それが、思った以上に、怖い。


 


 恵麻は、ふと笑った。


「なに?」


「……いや」


 アリアは視線を逸らす。


 “分からない”と口にすることが、ひどく不安定に思えた。


 


 恵麻は窓辺に立ち、街を見下ろす。


 その横顔が、アリアには妙に遠く見えた。


 数歩の距離なのに。


 


 そのとき、下の通りから子どもの笑い声が聞こえた。

 恵麻がつられて、小さく笑う。


 アリアの胸の奥で、何かが引っかかる。


 理由は分からない。


 ただ、胸がざわつく。


「……楽しそうだな」


「うん」


 それだけの会話。


 なのに、アリアは無意識にコンソールへ手を伸ばしていた。


 恵麻の位置情報。生体データ。

 アクセスすれば、全部見える。


 見えるはずだ。


 ――止まる。


 指先が、キーの上で止まった。


 それをすれば、安心できる。


 だが同時に、それは――


 


「おじさん?」


 恵麻が振り向く。


 アリアは、ゆっくりと手を下ろした。


「……いや。何でもない」


 


 夜は深まる。


 恵麻は壁にもたれて眠り始めた。

 小さな寝息。


 アリアは少し離れた場所に座る。


 近づけば触れられる距離。

 だが、触れない。


 


 彼は静かに立ち上がり、数歩だけ近づいた。


 指先が、彼女の袖に触れかけて――止まる。


 自分の手を見つめる。


 この手は、支配できる。


 制御できる。


 書き換えられる。


 だが今、震えている。


 


 アリアは、そっと袖を掴んだ。


 ほんの少しだけ。


 眠っている彼女は気づかない。


 


 小さく、息を吐く。


 声にならないほど小さく。


「……離れるな」


 


 その言葉は、誰にも届かない。


 だが確かに、彼の中で何かが変わり始めていた。

第9話をお読みいただき、ありがとうございます。


再誕のあとに残るのは、静かな違和感です。

支配できることと、支配しないことは違う。

まだ彼は、その違いを言葉にできていません。


次回、わずかな亀裂が形を持ちはじめます。

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