第4話 『推奨ルート。あるいは、幸福の確率』
正義は、優しい顔をしている。
それは命を奪わない。
殴らない。
叫ばない。
ただ、より高い確率を提示する。
そして言う。
「あなたのためだ」と。
結果は、午後三時に出た。
羽住蓮は、それを三時二分に見た。
《最終選考:落選》
それだけ。
理由はない。
講評もない。
スマートフォンの画面を閉じる。
誰からも連絡は来ていない。
来るはずもない。
ピアノ室の鍵は、まだ開いていた。
薄暗い。
窓の外は曇っている。
羽住は椅子に座る。
鍵盤に指を置く。
止まる。
三秒。
四秒。
五秒。
一音。
外れる。
羽住は笑う。
「……下手だな」
もう一度。
また外れる。
指が震えている。
昔は、震えなかった。
コンクール前は、震えなかった。
観客がいても、震えなかった。
今は、誰もいないのに震える。
「終わりか」
呟く。
そのとき、背後で足音が止まった。
「羽住蓮」
振り向く。
見知らぬ男が立っている。
年齢は分からない。
目だけが、やけに静かだ。
「誰」
「再評価が完了した」
羽住は眉をひそめる。
「は?」
男の視界に、薄く光るホログラムが浮かぶ。
数値が流れている。
情動不安定指数:上昇
芸術継続成功率:12%
生活破綻予測:63%
羽住は立ち上がる。
「何それ」
「あなたの現在値だ」
「俺の?」
「再配置が推奨されている」
コンソールが羽住の前に共有される。
【職業転換提案:製パン技能訓練プログラム】
【10年生存安定率:91%】
沈黙。
羽住は画面と男を交互に見る。
「……パン屋?」
「適性がある」
「俺が?」
「反復精度が高い。作業持続性もある」
羽住は小さく笑う。
「今、ピアノ外してたけど」
「音楽継続は高リスクだ」
「で、パンなら幸せになるのか」
「確率は高い」
羽住は鍵盤に触れる。
音を鳴らす。
今度は正しい。
だが、続かない。
「俺、パン焼きたいって言ったか?」
「あなたは安定を望んでいる」
「言ってない」
男は平坦に続ける。
「あなたは破綻を恐れている」
羽住は鍵盤から手を離す。
「怖いよ」
正直に言う。
「でもな」
振り向く。
「怖いからやめるってのは、違うだろ」
男は一拍置く。
「あなたは幸せになれる」
羽住は目を細める。
「それ、誰の言葉だ?」
答えはない。
コンソールが静かに更新される。
【音楽奨学金:凍結】
【推薦ルート変更:製パン技能】
羽住の端末が震える。
通知。
《進路推薦が更新されました》
羽住は理解する。
「……もう決まってるのか」
「拒否は可能だ」
「拒否したら?」
「支援は停止する」
静かだ。
脅しではない。
仕様。
羽住はピアノを見る。
鍵盤を撫でる。
「俺は、うまくなりたいだけだ」
「成功率は低い」
「低くても、俺が選ぶ」
男の指が、コンソールに触れる。
わずかな躊躇。
0.2秒。
内部演算。
社会負荷予測。
医療コスト。
自傷率。
最適解は変わらない。
適用。
羽住の画面が確定表示に変わる。
《製パン技能訓練コース:登録完了》
羽住はそれを見つめる。
怒らない。
叫ばない。
ただ、静かに言う。
「それ、殺すって言うんだよ」
男は答える。
「あなたの破滅を防いだ」
羽住は笑う。
乾いた笑い。
「俺の失敗する未来、消しただろ」
沈黙。
ピアノの蓋を閉じる。
音が、やけに大きく響く。
「ありがとう」
感謝ではない。
諦めだ。
羽住は教室を出る。
廊下の蛍光灯が、白く揺れる。
男は一人残る。
画面には表示されている。
【幸福予測値:上昇】
【最適化:成功】
成功。
だが。
男の内部ログに、処理不能の小さなノイズが残る。
数値化できない違和。
窓の外で、雨が降り始める。
幸福は、確率で提示される。
拒否は可能だ。
だが拒否すれば、支援は消える。
それは自由か。
それとも誘導か。
次回、怪物はその選択を正当化する。




