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第10話『未定義。あるいは、触れてはいけない鍵』

静かな朝は、優しくない。


昨夜、震えを知った手は、

今日もまた「正しさ」を選ぼうとする。


それが守るためか、

失うのが怖いだけなのか――

まだ彼には、分からない。


朝は、容赦なくやってくる。


 割れた窓から差し込む光が、埃を白く浮かび上がらせていた。

 恵麻はまだ眠っている。


 アリアは目を閉じたまま、天井を見ていた。


 眠れなかったわけではない。

 眠る必要があると判断しなかっただけだ。


 だが、それは言い訳に近い。


 


 コンソールの前に座る。


 昨日書いたはずのコードが、見慣れない文字列に見える。


「……遅い」


 処理速度は落ちていない。

 だが、思考のどこかにノイズがある。


 


 背後で衣擦れの音がする。


「おはよ」


 恵麻が伸びをする。


 何事もなかったような顔。


 その無防備さが、妙に刺さる。


 


「街、静かだね」


「ああ」


 短い返事。


 アリアは視線を画面に落としたまま、恵麻の呼吸を無意識に計測しようとする。呼気の間隔、瞳孔の収縮、指先の微振動。


 読める。

 だが、昨日よりも曖昧だ。


 


 その瞬間。


 コンソールの端で、警告灯が小さく瞬いた。


 未定義エラー。


 座標:半径1.3キロ圏内。


 


「……何?」


 恵麻が近づく。


 アリアは一瞬だけ迷う。


 表示を閉じれば、何も知らずに済む。


 だが、開く。


 


 街の一角が、微細に歪んでいる。


 信号が一秒遅れる。

 電子看板の文字が一瞬だけ反転する。

 配送ドローンが、空中でほんのわずかに軌道を外す。


 誰も気づかない程度のズレ。


 


 恵麻が眉を寄せる。


「これ、私?」


 その問いに、アリアの指が止まる。


 即座に因果関係を解析する。

 可能性は高い。


 だが断定はできない。


 


「……まだ分からない」


 嘘ではない。

 だが、全部でもない。


 


 アリアの視界に、別の選択肢が浮かぶ。


 強制制御。

 恵麻の内部アクセス。

 中枢に一時的な制限をかける。


 それをすれば、歪みは止まる。


 今の段階なら、痛みもない。

 彼女は気づかないかもしれない。


 


 指が、キーボードの上に乗る。


 


「おじさん?」


 恵麻の声が、近い。


 


「念のためだ」


 半分、言い訳。

 半分、本音。


 街が壊れる可能性がある。

 それは事実だ。


 


 彼はキーを叩きかける。


 


 そのとき。


 恵麻の手が、そっとアリアの手首に触れた。


「それ、私を止めるやつでしょ」


 怒ってはいない。

 ただ、確かめるような声。


 


 アリアの喉が乾く。


「街が壊れる可能性がある」


「壊れたら、一緒に直せばいいじゃん」


 即答。


 迷いがない。


 


「そういう問題ではない」


「そういう問題だよ」


 


 数秒、沈黙。


 


 アリアの頭の中で、正しさが高速で並ぶ。


 安全。

 最小被害。

 最適化。


 すべて正しい。


 


 だが、手首を掴む小さな体温が、それを邪魔する。


 


「……分からないなら、分からないままでいい」


 恵麻が言う。


「全部分からなくても、隣にいるならそれでいいでしょ」


 


 アリアは、キーから指を離した。


 ゆっくりと。


 


「……今回は、観測に留める」


 苦しい選択。


 だが、自分で選んだ。


 


 警告灯は、まだ小さく瞬いている。


 歪みは消えていない。


 


 恵麻は小さく笑う。


「それでいいよ。おじさんは、見てて」


 


 見ているだけ。


 それは、彼にとって最も難しい役割だった。


 


 アリアはコンソールの電源を落とす。


 画面が暗くなる。


 自分の顔が映る。


 


 その目は、かつての支配者のものではなかった。


 だが、怪物性が消えたわけでもない。


 


 彼は小さく息を吐く。


「……信じる、か」


 まだ、その言葉は重すぎる。


 


 朝の光が、二人の間に落ちていた。

第10話をお読みいただき、ありがとうございます。


正しさは、いつも優しい顔をして近づいてきます。

けれどそれを選ばない勇気は、まだ彼の中で揺れています。


次回、都市に静かな宣言が下されます。

“最適化”という名の、合理的な圧力が。

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