第五話
「ラッシュ、危ないから、貴方は逃げて」
リルは言いながら、ラッシュの身体を離してばっ、と走らせようとする。そのままくるりと熊の魔物の方を振り返り、両腕を広げて熊の魔物から自分を庇う。
熊の魔物が、ゆっくりとリルに近づいて行く。
「……ラッシュ……」
リルが小さい声で言うのが聞こえる。魔物の聴覚のおかげで、その小さい声ははっきりと聞こえた。
「貴方だけは……私の側にいてくれたね」
リルが言う。
彼女はそのまま、ゆっくりと振り返る。
潰れた両目で……
それでも彼女は、穏やかに微笑んだ。見えているはずが無いのに。彼女は真っ直ぐに自分を見ていた。
その真っ直ぐな眼差し。
ラッシュは、思い出す。
魔王が自分を見てくれた時の事。
この少女が自分を見てくれた時の事。
自分は、この少女に魔王を。
主君の姿を、見ていた。
違う。
彼女は自分を助けてくれたし、優しくもしてくれた、今だって、自分の為に、見えない目で、それでも食べ物だけを確保しに来てくれたのだ。
そんな彼女を。
自分は、また助けられないのか?
また、守れないのか?
そんな……
自分はそんなにも、情けない奴だったのか?
違う。
自分は……
自分は。
もう二度と。
大切な存在を、失わない。
今度こそ。
今度こそ、守るんだ。
気がつけば、ラッシュは走り出していた。魔力は、まだ少ししか回復していない。
だけど
走りながら、前脚を振り上げ、そこに魔力を込め、前脚だけをかつて魔王の側にいた時と同じ状態に戻す、子犬程度のそれだった前脚は太く、逞しくなり、爪は鋭く伸びる、そのまま跳躍し、熊の魔物の頭に向けて振り下ろす。
ぐしゅり、と鈍い水音がして、そいつの頭が胴体から斬り飛ばされる。ぐるぐると弧を描いて飛んで行く熊の魔物の頭は、そのまま離れた場所にある藪の中にがさり、と音をたてて落ち、見えなくなった。
残った胴体が、どさり、と地面の上に倒れ、斬り落とされた首の部分から、赤黒い血が流れ出す。
ラッシュは、リルの方を振り返る。
「……ラッシュ? いるの? ラッシュ?」
リルが、慌てて両手で近くの地面をまさぐりながら自分の名を呼んでいた。
ラッシュは、リルにゆっくりと近づいて、その手に自分の頭を触れさせた。
「ああ、ラッシュ、大丈夫なの?」
ラッシュは、安心させるように小さく吠えた。
「良かった、ラッシュ……」
ぎゅっ、とリルがラッシュを抱きしめる。
「貴方まで、私の側からいなくならないで……」
リルが小さい声で言う。
側から……
いなくなる?
ラッシュは、自分を抱きしめるリルの頬に自分の頬を押し当て、頬ずりをする。
「……ラッシュ」
リルは、泣きながら言う。ラッシュは、慰める様にリルに頬ずりをしていた。
ややあって。
リルの腕から離れ、ラッシュは倒れている熊の魔物に近づいた。魔力を回復する為に、どうすれば良いのか。それは知っている、ラッシュは熊の魔物に思い切り食らいついて、肉を食いちぎる。久方ぶりに味わう血と肉の味……ラッシュは自分の身体に、力が漲るのを感じていた。
そうだ。
彼女の過去に何があったのかは知らない。
だが……
今、彼女の側には自分しかいないのだ。
ならば……
自分が、彼女を守る。それが……
それが一体、どういう理由なのかは……
まだ、解らないままだ。