第三話
どれくらいの時間が過ぎたのだろう?
魔物は、自分の身体を優しく撫でる手の感触で、思わず目を開けていた、こういう風に、自分の身体を撫でてくれる相手の事を、魔物は知っている、まさか……
まさか、昨夜の出来事は全て……
全て、質の悪い夢か何かだったのか? そんな風に思いながら、目を開け、顔を上げる。
だけど、すぐに気づいた。その手の動きが、いつもの主君、つまりは魔王の撫で方とは違っている事に……それに……その手の大きさも、明らかに違っている。潰された目は、残念ながらまだ再生してはいない、そのせいで視界は半分塞がっていたけれど、その手をじっと見てみると、どうやら女性の手らしいという事は解る。視界に映る女性の姿は、随分と汚れた服を着ているらしい、風呂もろくに入っていないのだろう、酷い悪臭がする。
ゆっくりと顔を上げ、そいつの顔をはっきりと見る。ボサボサに乱れてはいるが、艶やかな黒髪、顔にも汚れがあちこちこびりついている、そして……その女の両目には、まるで彼女の存在を否定するかのように、鋭い刃物で斬りつけられた傷が縦に走っている、自分とは違い、彼女はどう見ても普通の人間だ、あの目は……
きっと……
きっと、もう治らないだろう。なんであんな……
無論、それは明らかに誰かによって意図的に付けられたものだろう、一体、誰があんなひどい事を……魔物は黙って、女の顔を見ていた。
年齢は多分、十代の半ば、というところだろう、黒い髪が印象的な、女性、というよりは少女、と呼ぶ方が正しいのだろう。魔物はそう思って、少女の顔を見ていた。
「君、どこから来たのかな?」
少女が問いかける。
ぐる、と。
魔物は唸る。人間の言葉を喋る事は出来るが、この少女が何者か解らない以上、簡単に自分の正体を知られるわけにはいかない、そもそもこの女は人間だ、あの魔王城を襲撃した人間達と同じなのだ、ここが魔王城からどれくらいから離れた場所なのかは知らないが、あの四人の戦士達の仲間だという可能性だってあるんだ。
「もしかして、森の中で暮らしていたのかな?」
少女は自分の身体を撫でながら言う。
魔物は何も答えないで、ただされるがままに撫でられ続けていた。
少女はその間に、自分の身体のあちこちを撫で、潰された目を向けながら、どうにか自分の姿を見ようとしたが、完全に閉じられた両目では、多分見えないだろう。
やがて少女の手は、顔にまで触れる。
「犬、かな? ごめんね、目が見えなくて……」
少女が言う、どうやらそのせいで、自分の正体には気づいていないらしい、ありがたい、魔物だと気づかれたら、何をされるか解らない。
とりあえずは今、この少女の前ではただの犬として振る舞おう。
小さい声で、犬のように鳴いてやると、少女は頷く。
「良かった、貴方全然鳴かないから、もしかしたら具合でも悪いのかもと思ってたの、しかも随分濡れているし……まあ、元気みたいで良かったわ」
少女は穏やかな声で言う。
そのまま少女は、魔物の右目の辺りに手を触れる。
「貴方……目が……」
少女が言い、そこで軽く笑う。
「貴方は私と同じね、ここに来たのは多分偶然なんだろうけど、もしかしたら運命だったのかも知れないわね」
少女は笑うが、その笑いは何処か寂しげだった。
そのまま少女は、魔物をゆっくりと抱き上げる。
「そういえばまだ、名前言ってなかったわよね」
少女が言う。
「私の名前は、リル」
少女が告げる。見えない目で、それでも自分の顔を真っ直ぐに見ながら。
魔物は、黙って少女の顔を見ていた。一体……
一体、いつ以来だろうか? こんな風に、真っ直ぐに、自分の顔を見てくれる相手と出会ったのは、誰も彼も、自分の姿を、その顔を、きちんと見てなどくれなかった。唯一、自分の事を真っ直ぐに見てくれたのは、主君と……
この少女だけだ。
「君は、名前があるのかな?」
少女が言う。
名前。そんなものなど無い、かつて魔王に貰った名はあるけれど……それは名乗れない、この少女が、あの四人と繋がっている、とは思えないが、何処で自分の名前が広まるかは解らない、それがこの少女の耳にまで届いた時、彼女がどういう行動に出るか。
殺されるか、捨てられるか、解らないが、今、力のほとんどを失い、こんな小さく、弱々しい姿になってしまった自分では、簡単に死んでしまうだろ。
魔物は、ぐぅ、と一声鳴いた。
それを聞き、少女は軽く笑った。
「そっか、それじゃあ……」
魔物は少女の顔を見る、目元の傷は痛々しい、だけどその姿も、その顔も、きっと美しいと呼べるものなのだろう。
「それなら君は、今日から……ラッシュ」
魔物はその言葉に、一声吠える。
ラッシュ。
魔王から与えられた名前には、もちろん思い入れがある。だけど……
今は、この少女に与えられた名を名乗ろう。
魔物。
ラッシュは、そう思った。