Y字路の人魚
初めて会ったときあなたは三角になって寝ていた。角地にある夜の閉まった小物店の前の、膝をほとんど上げないでも上れてしまうウエハースみたいな階段のところにもたれていた。あなたはもうなくなっただろうけど、あの黄色いY字路に、僕は未だに迷い込むことがあるんだ。
今となっては、あなたは英語の勉強に夢中だ。日本語の喋れるイギリス人の動画をつけて、口を揃えて必死に文章を繰り返す。いったい英語を覚えて何がしたいのか、目的がなんであろうと僕は応援するし手助けするつもりだけれど、実は最近ちょっと寂しい気もするんだ。この頃、あなたは日本語で冗談を言われるよりも英語でジョークを言われた方がよく笑うね。僕は悔しい。日本語でなにも面白いことを言えない僕は、英語に夢中なあなたにとって単なる邪魔にしかなっていないのじゃないのか。Y字路への道は、ほとんど誘いともいえるあの自室の壁の亀裂は、些細とはいえだからこそ再発してしまったんだろう。今夜も行ってくるよ。
特にメッセージや紙に書き残しておいたわけではない。一応心に、自分に言い聞かせておいたんだ。そうでなければ今夜こそ、あの薄っぺらい階段に佇んでいる、緑色の人魚に食われてしまうかもしれなかった。前から言われていたんだ。フクロウと猫を合わせたような喉鳴りに混ざって、人魚の緑色の口から「食べる、食べる」。言語を話すのは不思議ではなかった。僕も「こんばんは」とか「眩しい」とか、簡単な言葉を教えてみたんだ。そしたら人魚は、まるでインコみたいだった。可愛らしかった。それと同じことを、僕の他にやった奴がいたんだろう。もしかしたら「食べる」を教えたソイツはもう食べられたあとなのかもしれない。勘違いでなければ、緑色の人魚は僕の目よりも顔全体を見渡していた。そして確実に唾液を飲み込む音がした。そろそろ僕は、あの緑色の人魚に食べられることへの興味が抑えきれなかった。破滅的なことに惹かれてしまうのは、それは黄色いY字路にはまったく現実味がなかったためだった。
黄色いY字路は、分かれ道のところで高低差が発生している。入ってきた地点から見て右側が高くなっていて、左側の道は奥に下っていく。その二本の道にはどちらも西洋の家屋がびっしりつまっている。その間、角地にあるのが階段の小物店だ。Y字路の世界は黄色い。血液や油といったドロついた液体の黄色であり、あと少しで水蒸気になってしまいそうな高温の黄色。正直、立体的な認識は厳しい世界だ。それが現実感の欠如へと繋がる。その黄色一色がY字路一面を埋め、不純物のような細かい赤色、茶色、緑色がまばらに混じっていた。緑色の人魚とは黄色いY字路に浮かぶ、ひとつの斑点に過ぎないのかもしれない。もしくは、人魚からは、僕は何色に見えているのだろうか。
緑色の人魚の顔がすぐ目の前まできて、今夜も「食べる、食べる」と言った。いつもなら人魚の肩を押し返すところだった。でも抵抗しないでもよかった。今夜中にこのY字路の斑点になって住み着くことになっても別に悪くなかった。緑色の唇から銀の牙がのぞいた。その瞬間にたまらなく怖くなっただけだった。僕は人魚の肩をどけた。なるべく怒らせないよう優しい力だけで押した。今夜の黄色いY字路での出来事はその程度だった。Y字路から帰って疲れて寝て、次の日起きてもあなたは英語でよく笑っていた。たぶん今夜も行ってくるよ。