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線路と暗闇の狭間にて  作者: にのまえ龍一
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ワタシの在り方・前編

〈注意!〉文字数が約40,000字と長いので、適度に休憩を挟んでお読みになってください。

















夢と現実の境界―――それはワタシにしか決められないものだ。



楽しかったり興奮できればできるほど、夢と現実の境界は曖昧さを帯びていく。



されど人としての生を全うする以上、時間は限りある長さでしか与えられない。誰しもいつかは夢から現実へと連れ戻され、目が覚める。



世界中の美味しいものを腹一杯食べたり、お金持ちになって世の中を動かしてみたり、憧れのプロスポーツ選手とか歴史に名を刻む学者や芸術家としてちやほやされたり、人並みに家族や友達と水入らずの暮らしを続けたり―――思い通りの人生がそこにあってもいつかは消える。



時間が無限にあったら、と考えるのは無粋だろうか。年端もいかない子供でさえ思いつく考えだが、歳を重ねるにつれ、いつまでも夢を見ていられないことに気づくのが大人だ。夢と現実に境界線を引き、限りある時間をどう使うか選択できるようになったとき、人として一人前になったと言える。



ワタシは、そんな選択肢さえ与えられなかった者の一人だ。



ふとした瞬間光を奪われ、人として生きる喜びも悲しみも失ってしまった。謳歌したはずの人生を限りない時間の中で夢想し、何も得ることのない空虚な反復作業を行うことがいつしか、ワタシの日課になっていた。



ところがある日、ふと一人の女の子を思い出した途端、日課は終わりを告げた。



その子はワタシと別の世界に生きているようで、出逢って間もなく、我が瞳の内側で煌めき弾ける存在となった。ワタシの理想の人格を生き写したように明朗で快活で、時に繊細な一面でさえ見せてくれるのだから、夢中にならない訳がなかった。



やがてワタシは夢と現実に境界線なぞ無くたっていい、という結論に至っていた。何もかも諦めて自棄になったわけではなく、その子に惹かれたが故の帰結でもない。彼女の中に閉じ込められた黒い光を見てしまったからだ。



直視しても眩さすら感じない彼女の内側は、現実という苛烈な白い闇を優しく覆ってくれる。こんな危うい心地よさをどう例えたら良いのか、咄嗟の言葉が浮かばなかった。



それでも一つだけ分かったことがある―――彼女の持つ輝きは、いずれワタシが在るべき場所で生きるために不可欠なものなのだと。



彼女が眠ってしまった後のことを思い出すたび、とうに失ったはずの心臓が突如、意識の片隅で痛み出した。





      ✡





仔猫に驚くワタシ。



すぐ後ろの女の子と男子二人が、ワタシの様子に笑みをこぼす。



何の変哲もない、ありふれた日常の一コマ。



―――たった一つ、それを非日常に変える者がいる。



仔猫の両目。ゴールドとマリンブルーが並ぶ、大玉のオッドアイ。



透徹なガラス細工の双眸が、ギラギラとワタシの瞳を焼き付ける。



眼前の小さな毛物は、本当にワタシを見つめているのだろうか。



答えが否だということは、焦る間もなく辿り着いた。



仔猫の両目が捉えた先は瞳の奥、すなわちワタシという存在の正体である。



―――こんな奴に渡してたまるかと、ワタシは世界を拒絶した。



周囲の喧騒が、たっぷりと水を蓄えたプールに飛び込んだ時のように、実に勢いよく掻き消されていく。



次いで、視界の隅々が瞬きする速さでモノクロームへと変わっていく。ワタシの安らかな現実が脆く儚く崩れ去り、無惨な〝夢〟へと書き換えられていく。



白黒のマーブル模様をした四匹の仔猫は全身を硬直させたかと思うと、パリパリという音と共に皹が頭から尻尾の先まで勢いよく入っていき、あっけなくバラバラと崩れ落ちていった。



後ろにいるクラスメイトの女の子と男子二人の気配は、灯火を吹き消すように一瞬で流れ去っていく。振り返らずとも分かってしまった。



状況を察知するのも束の間、真っ黒な仔猫の口元が、ニヤリと開いた。人の皮をかぶったような、不気味で似つかわしくない口の形だ。



今にもワタシを食らわんばかりに、白く鋭く研ぎ澄まされた牙の一つ一つが、口内から露わになっていく。



ワタシの両目は、冷めきった仔猫の視線から逃れることができなかった。



仔猫の両目が頃合いとばかりに、幼い顔にそぐわない吊り目に変わり、ワタシを睨みつける。



『―――さぁ、僕の所へおいで』



低く響く人の声で、仔猫は確かにそう喋った。



両耳から顔、前足から後足、お尻から尻尾へと―――仔猫の毛皮が、削ったばかりのかき氷のてっぺんからシロップを回しかけていくように、漆黒の毛皮が純白へと染まっていく。



呆気に取られるうち、仔猫の身体は風船を膨らますようにひと回りもふた回りも大きくなり、ワタシの両手をすり抜けながら羽毛のように落下していき、間もなく4本の足を地面へと音もなく着けた。



ほぼ同時、ワタシの意識は現実を受け入れられず、消失した。





      ✡





ワタシの身体を、馴染みのある感覚が包み込む。



無機質で周期的な、疲れた身体を否応なしに眠りへと誘う、その音。



目を開くまでの数分間、その音は続いていた。実際は数時間、あるいは数日間かもしれないが、些末な事だった。どう転んだって、ここに戻ってくることを宿命付けられているのがワタシだから。



満を持して目を開くと、そこはすでに電車の中だった。



よれたスーツのサラリーマン、流行りの話題に熱っぽい学生、ベビーカーを抱えた母親と抱えられる子供、視線を薄く重ねて穏やかに会話する老夫婦など、見慣れた車内の光景だと間もなくして察知する。



車窓からは、これまた見慣れた青田線沿線の中途半端な田園風景が広がっている。小高い丘に聳え立つ白いハコモノ『尾上総合病院』も良く見えた。



ワタシは尾上なち。



尾上総合病院の院長である尾上トオジの孫娘。そのはずだ。



それなのにどうして、ワタシは祖父の顔を思い出せないでいた。×××があんなにも〝夢〟の中で忠実に再現してくれていたのに、粗悪な消しゴムで乱暴に擦られグチャグチャになってしまっているのだ。



(……あっ)



ふとワタシの眼前に、二人のシルエットが現れる。目に映ったのは二人の上半身のみで、影も形も薄かった。



二人の表情はとても固い。固いというよりも感情が欠落した目つきをしていて、墨入れ前の達磨のようであった。



怖くなったワタシは、一度だけ目を瞑ってみる。すると、黒一色になるはずの視界が、目を開けている時のそれと何ら変わり映えしないのだ。



指先で目頭に触れてみると、瞼は確かに左右とも付いている。程なくして瞼を持ち上げてみると、相も変わらず二人はそこに佇んでいた。



いよいよ怖くなってきて、二人のシルエットを振り払うように両手をいい加減に振り回す。



すぐにシルエットは消えた。目を瞑ってみると、黒一色の世界が無事に戻っていた。まったく嫌な妄想をしたものだ。



(違う、問題はそこじゃない)



いったん冷静になってみて、今分かっていることに意識を傾ける。



ワタシはボックスシートに座っていて、傍らには私物のカバンが横たわっている。



向かい側に乗客は居なかったが、代わりに毛むくじゃらの黒い塊が居座っている。



通路を挟んで反対側のボックスシートには、大学生くらいのグループが4人で和気藹々としている。こちらの様子に興味がないのか、見て見ぬふりをしているだけなのか。気になって彼らに視線を投げてみても、誰一人として目を合わせてこなかった。



そんなわけで、ワタシは目の前の黒い毛むくじゃらに再度意識を移す。見た目は生まれたばかりの赤子より一回り大きいくらいだ。



正体は大方分かっていたが、誰かのいたずらではないだろうかと、ワタシは毛むくじゃらに視線を焼き付け訝しんだ。



ひと呼吸間があって、毛むくじゃらの塊全体がモゾっと蠢いた。



息を殺して驚くワタシ。蠢いた塊の中から間もなくピィンと二つ、黒い三角形の突起が飛び出した。



毛むくじゃらはボックスシートの上でゆっくり横に伸びていき、獣のごとき短く太いたくましい四本の足を解放する。後ろ足の付け根より少し上から、黒くて太い尻尾も伸びて来た。



毛むくじゃらは最後に、ワタシに背を向けた状態からゴロンと寝返りを打つと、ブスッとした猫の顔が見えた。



あの黒猫が今、あの暗闇に居た時と同じように、ワタシを見つめている。



黒猫は寝ころんだまま気だるそうに強面の大きな頭を持ち上げ、ワタシに視線を定め直し、薄ら笑いを浮かべながら口を開いた。



「久方ぶりだな、娘っ子」



聞き慣れたハスキーな声が、電車内の四方八方で木霊しながら、ワタシの身に降りかかってくる。耳で聞き取っているはずなのだが、まるで腹の底に住み着いているかのように、身体の内側からも響いてきた。



太く長い左右のひげをピンと伸ばし、フサフサの毛をした両耳をおっ立て、黒猫は薄ら笑いを浮かべている。彼はついでに尻尾でシート座面をペタン、ペタンと機嫌良さそうに叩いていた。



「……オズ君」



黒猫の名はオズ。またの名をトオジ。



彼の方からそう呼べと言われたので、そう呼んでいるだけ。



今更、黒猫が喋ったりすることに特段の驚きはない。



「今度は何するつもり?」



両手の平をシートに付け、両足も肩幅くらい大胆に広げつつ、ワタシは率直にオズへと問い掛けた。



すると彼は小さく平たい桃色の鼻をフンと軽く鳴らし、答える。



「どうだ、面白かったか、これまでやってきた自殺ごっこは?」

「自殺ごっこ?」

「おぅよ」



詳細を語らないばかりか、オズは訳の分からない質問で返してくる。



「何それ」



思わずムッとなって言い返すワタシ。彼は黒い尻尾をしならせてシートを軽く何度か叩いた後、年季の入った溜め息をついた。



「学校の屋上から飛び降りたり、遊園地の観覧車から真っ逆さまに落っこちたり、〝夢〟ん中で散々やってきただろが」



やたら挑発気味にオズは答え続ける。流石に呆れてしょうがないワタシは、シートの背もたれに身体を預けながら言った。



「あれは自殺じゃなくて事故でしょ」

「本当にかぁ?」

「回りくどいんだから」



彼は強面を歪めつつ、知ったような素振りで聞いてくる。



ふと視線を外した隙に、彼はシートを尻尾の先で叩くのをやめ、宙にゆらゆらとくねらせ始めていた。



「んなら俺と一緒に歩っててよ、ふとしたら何もねぇ暗闇に飛び降りようとしたろ?」

「あれは……」

「ありゃ自殺未遂っつっても差し支えねぇだろ?」

「確かにそうだけどさ」



言葉尻を濁すワタシに、彼は猶も尻尾を自由に動かしながら続ける。



「どうしてあん時、飛び降りてぇと思ったよ?」

「ワタシが〈ワタシ〉じゃない感じがしてた……から」

「そんだけの理由でか」

「それだけで十分でしょ」



もちろん理由なんてどうでもよかった。死ぬことに理由を見出す方がどうかしている。



幸せ過ぎて死んじゃいそうとか、これ以上生きていても意味はないから死のうとか、思考の停滞の末に辿り着く先はたいてい死ぬことと決まっている。



死を思い浮かべなくとも今日はもう寝ようとか、何か楽しいことをして気を紛らわせようといった方がよくある考えだが、大げさに言えば生存本能の表れだ。生があるなら死もやってくる、当たり前すぎて忘れがちになっているだけなのだ。



大往生が理想の死に様とは言うものの、病気や事故で死ぬ人の方がはるかに多い。後者は特に死を確信した瞬間に、自らの生を嫌なくらい実感してしまう。



果たしてワタシは今まで、そういう境地に至っただろうか。



そしてこんな安直な考えはワタシの脳が偶然生み出したのか、はたまた赤の他人がワタシにそう考えろと命令しているのか、ハッキリしないからもどかしい。



俯いていたワタシの顔を面白そうに眺めながらオズはくふっ、くふっとお得意の咳き込んだ笑い声を上げた。



「つまりはてめぇを見失いそうになってたワケよな」

「そこまで言ってないってば」



背中はシートに預けっぱなしで、ワタシはオズを睨みつけながらそう言い返した。



「あん時だって、おめぇに忠告してやったろうよ」

「ワタシが誰かに操られてるかなんて分かりっこない、だっけ?」

「あぁ。決めんのはてめぇの心だってな」



彼のいうあの時、ワタシは確かにそんな助言を受けた。



自分から見たワタシと他人から見た〈ワタシ〉は違う。〈ワタシ〉はワタシの中の一側面であり、どちらもかけがえのない存在だと認めるのは可笑しなことではない。



可笑しいのは多くの人がそれに納得できるのに対し、ワタシがちっとも納得できないということだ。



『ワタシをちゃんと見て』と口にした時のワタシは勿論、内面を見て欲しいはずだが、他人が感じ取れるのは〈ワタシ〉の外見と挙動だけだ。ワタシの内面、いわばワタシらしさは〈ワタシ〉を介すことでしか表現できないのだから、ワタシは〈ワタシ〉の奴隷なのだという結論がなぜかしっくり来てしまう。



老いや病、あるいは不慮の事故で肉体が生命活動を止めれば〈ワタシ〉はやがて死に至り、ワタシも消える。ワタシの元を離れ、めでたく自由になった〈ワタシ〉はしかし、もう二度と動かない。だからワタシと〈ワタシ〉は表裏一体である。



死ぬ前とその後で、自分を自分たらしめる〝ワタシ〟の立場は変わってくる。オズの言う「この世は二つ以上の区別できる存在が、互いに影響し合って成り立っている」という考えを、ワタシ自身に当てはめることはナンセンスだと分かっている。



何が正しくて何が違うのかではなく、ワタシが〈ワタシ〉どう感じ取るか―――一度は辿り着いた答えにもう一度、向き合わねばならないのだ。



「そんで、だ」



オズは言葉を切ると同時、怠惰そうに四本の足でむくりと立ち上がる。



「もういっぺん、おめぇに訊きてぇんだがよ」



彼はゆったりと真っ黒な身体をワタシの方へしっかりと向き直し、後足を畳んでシートに尻を付け、居住いを正した。



ワタシは聞き返すでもなく、彼の返事を待った。ろくでもない事を言って来るに違いないことは、これまでの旅路で重々承知しているのだが、いつも肝心な事を口にする直前無駄に間を置く彼の所作は気に食わない。



「列車から落っこちんのとてめぇの足で飛び降りんの、どっちがお望みだ?」

「何なのさっきから⁉ 次から次に質問してきてさぁ」



背もたれに弾かれるようにパッと身を起こし、ワタシは目の前の黒猫に苛立ちをぶつける。



結局ワタシだけが未熟な人間のままだ。情動に突き動かされ、逃れようのない現状に喚くことしかできていない。



オズはひげの一本も動かさず、不愛想な教師の如く返事をする。



「答えになってねえぞ」

「答えなんかどうだっていい。なんでワタシがまた死ななきゃいけないの?」



次第に冷静になってきたことを自覚すると、腹に溜まっていた力を抜きつつ、前屈みになっていた上半身を背もたれに付け直す。



通路を挟んで座っている学生たちは、相も変わらず談笑中だ。ワタシ達のボックスシートだけが現実から切り離されていることを、否応なしに実感した瞬間だった。



「簡単なこった。おめぇにもう一度、〝夢〟ん中から抜け出すチャンスを与えてやんだ」

「じゃあ、ワタシはまだ〝夢〟の中にいるんだ?」

「そうだ」

「それでまたワタシに死ねっての?」

「ああ」

「意味分かんない」



彼から遠ざかるように、ワタシはそう言い捨てた。彼も察したように言葉を止め、列車の窓越しの景色を眺める。



列車はまだ市街地の中を走っている。しかし見慣れた風景はそこになく、高層ビルの背丈やマンションの屋上に建付けられた広告のフォントや色味が、ささやかに非日常を形作っていた。



姿勢を崩さず、オズはワタシに向かって牙ばかりの口元を再び開く。



「おめぇが最後にしーちゃんと会ったのは何処だ?」

「病院の屋上、だけど」

「そんで、おめぇは何をしたよ」

「しーちゃんが一枚のタロットに姿を変えて、ワタシがそれを受け取って、院長室の隣部屋にいたもう一人のワタシと一つになった」

「そんだけ覚えてんなら大丈夫だ」



何故だかオズの声は嬉しそうだった。



先の見えない話を進められるのはやはり気に食わないものだ。



「いやいや全然大丈夫じゃないでしょ」

「あん?」

「ワタシはあの列車事故から意識を取り戻したんだよね?」



腹部に力を込めながら黒猫に尋ねると、彼は強面に似つかない寂しげな顔をしながら答えた。



「途中までは上手く行ってたんだがよ……」

「出来なかったの?」

「今まで何度もおめぇを現世に返してやりてぇとは思ってた。だが結果がツイて来ねぇんだ」



この期に及んで彼の言うことを信じるべきか、心は否と言いかけていた。彼を糾弾したい気持ちが追いついてきて、ワタシはまたも感情に支配されていく。



「結果がって、あの病院でオズ君としーちゃんと、それから、タロットを使って元の自分に戻って来れたんだよ。中学だってちゃんと卒業したし、高校にだって入れた。親切に手紙まで書いてくれたじゃん!」

「ああ、そりゃ間違いねぇ」

「なのに、さっきまでワタシといた奥井君も金森君もしーちゃんも、みんないなくなっちゃった。これってオズ君の仕業でしょ?」



オズはしばらく強面を固まらせたままだったが、程なくして口を開いた。



「そうだ」

「そうだ、じゃないよ!」



落ち着かない気持ちを抱えたまま、ワタシは声を大にして言い返した。



すると彼はあからさまに顔を歪ませつつ、悔しそうに答えた。



「俺だって諦めたわけじゃねぇ」

「じゃあ今まで何してきたの」



二人の間にまたも沈黙が割って入る。



列車は市街地を通り越し、まばらに広がる住宅地を一直線に突き進みながら、青く深い色をした川面に建つ鉄橋の片端へと差し掛かり、陸地との継ぎ目を越え、先頭の車輪から次々と乗っかっていった。



ワタシ達を載せた列車が鉄橋の上を走行する間、車内はガシャン、ガシャンと鉄橋特有の些か乱暴なジョイント音の繰り返しに支配されていた。



隣の学生たちの話し声もワントーン上がったようで、程々に騒がしくなる。この列車がいつも通りに自宅の最寄り駅まで辿り着くかなど、今更愚問である。



動じない黒猫の脇腹を突くように、ワタシは刺々しい声で彼を呼んだ。



「ちょっとオズ君、聞いてる」

「人探しだ」

「え?」

「現世におめぇの身体はねぇ。だから代わりが見つかるまでの時間稼ぎをしてんだよ」



彼の口から出た答えが、一字一句漏らさず両耳の内で反響する。



安易に疑うこともせず、反射的に否定の態度を取るワタシ。



「嘘っ。ワタシは意識がないだけで、今もあっちで眠ってるんじゃなかったの?」

「生きていて欲しいんなら、信じるしかねぇよ」

「何言ってんの今更!」

「俺ぁおめぇが肝据わった娘だからこそ、サシで話してやってんだ」

「勝手なこと言わないで。ワタシはただの人間だよ」



そうだ、ワタシは人間だ。



いくら〝夢〟を見ていたって、ここにいるワタシは一人の人間に過ぎないのだ。



「その証拠は何処にある?」

「証拠って……」

「おめぇがごくふつーの娘っ子として過ごしてきた時間は、今じゃ記憶も朧気だ。今となっちゃあ〝尾上なち〟として過ごした記憶の方が鮮明だろ?」

「は?」



この黒猫はまたも不可解なことを言ってきた。ワタシのこれまでの努力を取り消すような言い方である。



「おめぇ、あの列車事故の記憶……つまっとこ、魔のカーブを曲がり切れねぇまま脱線して落っこちる前の記憶はあるか?」



オズは強面を崩さず、自然とワタシを睨み付けるようにして言った。向かい来る視線を細やかに横へと逸らしつつ、頼りない自身の記憶を遡ってみる。



すると見事に、事故を起こすまでの記憶は、五感のどこにも残っていなかった。列車事故が起きたことに気づかないほど、あの時は熟睡していたのだから無理もないか。



代わりに未だ覚えているのは、真っ暗闇に怪しく浮かぶ一輪の金環だけ。あの輪っかが〝悪魔〟の言うジンクスであり、ワタシが〝夢〟で「生きる」理由を示唆していた。



病院の屋上にて〈祖父〉の真後ろで光り続けていた金環は、実に神秘的だった。金環がもたらす光は〈祖父〉の姿を変え、紫月の姿を変え、ワタシが再び一つの存在になろうとするのを待ったかのように崩れていった。



「そういえば、ないね」

「なんせ〝夢〟でしか起こってねぇからな」



オズはゆったりと天井を眺めながら、すっとぼけた顔で答えた。



「ちょっと待って。現実でもワタシは確かに……」

「その現実は誰にとっての現実だ?」

「誰って、ワタシのでしょ」



正直に答えても、彼の強面はちっとも笑わなかった。



一度は現実を認めたワタシだ。しかし、今になってその行為自体が無意味だったのではないかと、自分自身を疑った。



最早何をするのが正解か分からないほど、ワタシの理性は衰弱しているのかもしれない。



全ては目の前の黒猫が悪い、と決めつければ一応納得はできる。だが、寝ても覚めても胸焼けが続くような気持ち悪さが、自分の中から消え去ってくれないのだ。



「証拠はねぇだろ」

「またそれ? 証拠証拠って」

「前に俺が1+1=3の世界があるかもしんねぇ話を忘れちまったか」



オズは嫌味臭く溜め息を吐き、そう聞いてきた。



ワタシはムッとなりながら、反抗的に聞き返す。



「本気で言ってんの?」

「おぅ」

「じゃあワタシは本当に、誰かの現実の中に生きてるってこと?」

「かもしれねぇな」

「オズ君だって証拠持ってないじゃん」

「だから俺はおめぇに〝信じろ〟って言ったじゃねぇか」



ワタシは黙って彼の両目を見ていた。



見飽きる程の苦い表情で、彼もワタシを見返してくる。



沈黙が降りてくるのを実感しつつ、ワタシは病院での出来事を振り返った。



熟年看護婦に声を掛けられ、病室の紫月の所まで向かい一時の会話に心弾ませたと思いきや、薄気味悪いゾンビまがいの集団に追いかけられ、奥井や金森の助けを借りて屋上に向かっていった。



これまでの出来事が〝夢〟であることを心の中で否定したのは、あの時が初めてだった。所詮否定したところで、自分を勇気付けるためのおまじないに過ぎなかったかもしれない。自分の意志でどうにもならないことに立ち向かうだけの勇気が、ただ欲しかったのだ。



屋上へ辿り着いたワタシを待ち受けていたのは白猫で、またの名を×××で、祖父の偽物。



偽物に追い詰められそうになり、すんでのところで〝悪魔〟がやって来て、偽物を始末した。〝悪魔〟はワタシの身体が欲しいと言い放ち襲い掛かるも、〈紫月〉の弓矢に仕留められ、退治された。



〈紫月〉はやがて学生の姿に戻り、ワタシに過去を打ち明けた後、タロットの一部になった。



ワタシは院長室の隠し部屋までオズと向かい、〝悪魔〟に化けた看護婦と満身創痍の祖父の偽物に追われつつも、眠り続けていた本来のワタシと溶け合い、一つになった。



それからワタシは何ら不自由ない生活を送れている。一つの脅威もなく大きな違和感もない、当たり前だけどこれこそ待ち焦がれていた学生生活だ。



―――これ以上、何を望むことがあろうか。



もしもあるとすれば、それはワタシの喉元までせり上がって来ているのかもしれない。



ワタシは黒猫の言うことを曲がりなりにも信じてきた。だからこそこの電車に乗せられるまで、ワタシはワタシなりに〝夢〟との向き合い方を見つけ出せた。



ところが答えに辿り着く寸前、彼は決まってゴール地点をすり替える。〝夢〟から醒めるという本当のゴールは、いつまで経っても見えて来ない。



黙り込むオズに、ワタシは前屈みのままで語気を強めて尋ねた。



「ねぇ、そろそろ答えてよ」



彼はフゥと小さく息を吐き、面白くなさそうに返事をする。



「どんな答えだ」

「分かってるくせに」

「ジジイの正体か?」



オズが本当に彼を知っているのなら知りたくもなる。しかし、ここでイエスと答えてしまう気概はなかった。



「違う」

「俺が何者か、か?」

「違うってば」



紫月が居た病院の一室で、オズはワタシの目の前で初めて人の姿を見せてくれた。あの時偽物が放った銃弾を、彼が身体一つで受け止めたことは今でも驚いている。



どの姿が本来の尾上トオジなのか、記憶の何処にも正解が残っていない今、彼に訊いても意味をなさない。



それでも動かしようがない程の確信は持てる。目の前にいる黒猫こそが、尾上トオジなのだと。



「ワタシ! ワタシが何なのか!」



そうだ、自らの胸を叩いてまで単刀直入に聞きたいのはこれなのだ。



対するオズは茶化すようにくふっ、くふっと笑い出した。



「何が可笑しいの」

「ここまで来たって、気づかねぇか」

「え?」

「いや思い出せねぇのか、の方が正しいか」



彼の言うことは即ち、天使の姿をした〈紫月〉と同じだった。



肝心な事ばかり散々はぐらかされて来たこともあり、今一度自分に正直になって黒猫に問い質す。



「ワタシは人間じゃないの?」

「元人間だ」

「幽霊みたいなもの?」

「どうしてそうなる」

「タロットが人格を持ったもの、なんてのは?」

「正解だ」



即答されて思わずキョトンとなる。オズの返事にではなく、自らの予想が的中してしまったことにだ。



しかし、落ち着いて考えれば滅茶苦茶な話だとすぐ解る。仮にタロットが人格化した存在ならば、病院の屋上で紫月と一緒に光となって消えた筈だ。



不甲斐ない気持ちで一杯になったワタシは、ひざの上に両手を置き、握りしめながら抗議する。



「納得できないって、そんなの」

「手紙に書いたろうよ。お前の〝なち〟っつう名前は『終わりの中に始まりがある』を意味するってよ」

「それがタロットとどう関係するの」

「始まりが〝愚者〟で終わりが〝世界〟だろうがよ」

「余計に分かんないよぉ」

「おめぇがあん時一つになった、つまるとこ始まりと終わりがくっついたんだ」



オズは太くて黒い尻尾で一つの円を作りながら、そう答えた。



彼の言う始まりと終わりを、ワタシは直感で『生の終わり、死の始まり』だと解釈した。



「ワタシは始まりも終わりもない、完璧な存在ってこと?」

「どう取るかはてめぇが決めんだな」



彼の言うことはしょっちゅう相手に責任をなすり付けて来る。それを自由にさせてくれることへの裏返しだと、素直に受け取ることは出来そうにもない。



それでも一旦、彼と距離を取って考え込む時間はある。オズも察したように視線を窓の外へと移し、円を作っていた尻尾もシートにペタンと降ろした。



完全な存在? 余りにも実感の沸かない言葉だ。



完全な存在とは、時間、空間を超越した存在だろうか?



現世で最早肉体を持たないワタシが、今こうして物事を考えている。これは完全な存在でしか出来ないことなのだろうか?



かつて自らが「ワタシは生きていて、死んでいる」という考えに至ったことは、ある種の真実かもしれない。×××も〝空〟の教えに倣い、己の存在を生き死にを含めて固執しないことが大事だと語っていた。



現世で肉体が、より厳密には脳が生命活動を停止すれば死と判断され、意識も脳の活動停止と一緒に消失するという考えはきわめて自然なことだ。



今ここにいるワタシには意識があり、実体はない。矛盾した存在こそ完全だとでもいうのか。



否、欲しているのはもっとシンプルな結論だ。



「こうして人の身体でいるんだし、実感湧かないよ」

「んなら俺とかジジイはどうなんだよ」

「どうって言われても……」



ひざの上の握り拳を解きながら、呆れた声色で返事らしくない返事をするワタシ。



オズは相変わらず窓の外の景色を眺めていたが、僅かに頭をもたげながら返事をした。



「俺もジジイも、意識をタロットっつう名の檻に閉じ込められたんだからよ」

「本当に?」



ワタシがオズの強面をいっそう疑わし気に見つめると、ようやく金と銀のオッドアイをこちらへ向けながら、誠実そうにも不貞腐れたようにも見える表情で彼は答えた。



「ジジイは消えたが俺はまだここにいる。だからこうして、自我がある内に何かしら成し遂げてぇって思っちまうもんよ」

「例えばワタシを〝夢〟から解放してくれる、とか?」

「厭味のつもりか」



ここぞとばかりに強気で返事をするオズに、ワタシは思わず吹き出してしまった。



「トオジお兄ちゃん、嘘つきなのにね」

「減らず口だなおめぇもよ」



大層つまらなそうな顔でオズはそう言い返してくる。真っ白で鋭い何本もの牙が彼の口からちらついたので、少々ビクつきながらもワタシはむしろ楽しんでいた。



ワタシばかりに意地悪な彼は、たまにからかうくらいが丁度いいのだ。



オズはガス抜きのようにピンクの平べったい鼻をフシュッと鳴らすと、真っ黒な身体をシートに再び横たえた。



「ワタシ、〝夢〟から覚めたあとはどうなるの?」



胡散臭い彼に頼りがちなことを自覚しつつ、膝の上で解いた拳を握り直し、ワタシは弱々しくオズに尋ねた。



彼は四本の逞しい足をワタシの方へ無造作に投げ出し、渋そうな顔をしながら返事をする。



「どーもこーも、てめぇの人生を駆け抜けるだけよ」

「それならもう叶ってるよ」

「後悔するぞ?」

「本当に出来るならね」



オズが何故か不機嫌な態度で聞いてくるので、ワタシも挑戦的な返事で反抗した。対して彼は乗っかってくることもなく、無言でそっぽを向いただけだった。



困っているのはこっちなんだと苛立ちを何とか隠しつつ、ワタシは彼の様子を伺った。



オズは尻尾全体をシートに軽く擦り付けるように動かしつつ、ワタシのお腹あたりを見つめながら改まった態度で口を開いた。



「実はな、一人だけ上手く行けそうな奴がいる」

「誰?」



やんわりとした疑問口調で彼に答えを催促するが、察しは付いていた。



電車の窓から見える風景が知らぬ間に市街地から、田畑や畦道ばかりの緑と雲混じりの青空だけに変わっていた。



ワタシにとってすっかり見慣れた風景なのだが、本当に現実に存在する風景なのか、今になって疑わしくなる。



彼はワタシに倣うように車窓に目を向けた。猫の体格なので青空ばかりを見上げるような恰好でいて、しおれ気味なネコ髭のせいで退屈そうに見えてしまう。



 視線は車窓に向けっぱなしで、彼は口を小さく開いて言った。



「しーちゃんだ」

「やっぱりか」

「知ってたのかよ」



ワタシが抑揚のない返事をすると、オズは多少驚いたように素早く首をこちらに向けた。



間もなく彼は退屈そうに言い捨てた後、今度は首を重たげに動かしつつ車窓に視線を戻した。



ワタシは引き続き平坦な声色で、オズに確認を取るために聞き返した。



「ワタシがしーちゃんの身体を使って意識を取り戻すってこと……だよね」

「そうだ」



彼はワタシから視線を外したまま、短くそう答えた。



―――紫月の身体を以て生まれ変わる。ワタシが紫月になる。



しかし、目覚めたところで何が変わるのだろう。



紫月の両親がまだ生きていれば、泣いて喜ばれるだろう。ワタシも多分、ちょっぴり明るい気持ちになれるだろう。



でもそんな感情はほんの一瞬だ。



ワタシが知る紫月の過去は、ほんのひと欠片しかない。一を百にして、〈紫月〉という人格を作り上げようなどできるものか。



紫月の両親に真実を告げてもきっと信じて貰えない―――〈ワタシ〉と〈紫月〉はイコールで結ばれていないのだから。



オズは相変わらずこちらを向いてくれないので、無理に気を引くこともせず、ワタシはシートに付けていた尻を浮かせ、半身ほど横にずれた後に座り直した。



ナイロンのような革製シートの冷たさが、スカート越しの尻肉から良く伝わってくる。もう一人の自分と一つになった時から「温度」を取り戻してはいたが、これは結局、ワタシが五体満足で暮らしていた現実での死を受け入れることに他ならないのだ。



彼の尻尾を見るように首を少しだけ捻り、ワタシは吐息交じりに言った。



「……しーちゃんに悪いよ、そんなこと」



オズはワタシの方へ黒い頭をグイっと回し、両目を潰れそうなくらいに細めてから言った。



「俺のしてきたことを泡ぶくにするつもりか」

「オズ君に生き返らせてなんて、面と向かって言ったことあったっけ?」



こちらも引き下がるまいと、彼の強面を鋭く見つめて言い返す。



オズも視線を外すことなく、細めた両目を幾らか大きくさせながら、再度尋ねてきた。



「本音はどうなんだよ」

「ちっとも期待してない」

「けっ」



オズは今度こそ視線を横に逸らし、そのままシート下の床を見つめるように首を動かした。



恩を仇で返すわけではないが、彼の努力が実を結ばない以上、今まで通り疑ってかかるほかはないのだ。



ワタシも一旦は視線を床に落とすものの、すかさず聞かなくてはならないことを思い出したので、黙りこくってしまった彼の方を振り向いて率直に訊いた。



「ねぇ。しーちゃんは、紫月は今どこにいるの」



オズは声のした方へと首を捻り、ワタシと視線を合わさないまま返事をした。



「あいつは……」

「もう、二度と会えないの?」



ワタシが弱気な態度で尋ねると、オズは列車の天井を見上げながら言った。



「どこだろうな」

「電車の中?」

「探してみるか」

「いや、途中駅にいるかも」

「確証はねぇだろ」



ふてぶてしい態度を貫く黒猫に対しワタシはだんだんと苛立ってきて、やはり彼を急かすように言った。



「本当は知ってるくせに」



オズは気だるげな顔をしながら、ようやくこちらを向いた。彼の表情を鏡合わせするように、ワタシも不機嫌な顔で相対する。



「おめぇが会いたいと念じりゃあ、必ず会える」

「本当に?」

「あぁ」



紫月と病院の屋上で別れてから、既にひと月は経っている。〝夢〟から醒めた後でさえ、青田駅の駅前広場にて彼女と再会したばかりだ。



明け透けに言えば、ワタシは今まで紫月の姿をした何かと時間を共にしてきた。自分の知らない紫月と会えたことは、ワタシに多くの刺激をもたらしてくれた。



にもかかわらず、ワタシは未だに自分が知りたい紫月に出会えておらず、もどかしさを感じていた。



〝夢〟の住人たるワタシにとって、時間の経過はあってないようなもの。紫月と喋っている時だけは、時が正常に刻まれていく心地がした。



自分の目や耳や肌で記憶してきた紫月、いや「紫月達」は、天使の姿をした彼女も含め、全ては彼女の一部でしかない。改めてそんなふうに捉えてみると、病院の屋上で彼女が語った「現実のアタシ」でさえ、安易にその存在を認めてはならないと思った。



ワタシが探し求める彼女は、時の流れに漂うもっと儚い存在なのかもしれない。



オズは上機嫌な顔でこちらを伺いつつ、期待を込めるように太い尻尾を何度かくねらせて言った。



「折角だからやってみろよ。失敗しても笑ったりしねぇからよ」

「やだ、やらない」

「残念だなぁ」



彼はワタシの返事に対し、引き締めた強面をクシャッと崩しながら笑った。



「笑ってるじゃん」

「最後まで大人しく言うこと聞くべきだぜ、なっちゃん」

「うっさいんだよ猫のくせに」



反抗的な態度を取ったせいか、オズはまたしてもブスッとした顔でワタシを見つめながら言った。



「俺と会えるのもこれで最後だとしたら、どうよ」

「え?」

「おめぇを現世に返せなかったことは謝る。けどよ、どーしてもしーちゃんと会いてぇんなら、俺は力を貸してやるぜ」



こんなことを口にする彼は、暗闇で一緒に歩いていた時よりも胡散臭さが増している。ひょっとすると別人かもしれないと疑ってみるのが道理だ。



「またすぐに消えちゃうんでしょ?」

「らしくもねぇな、寂しいのか?」



疑心暗鬼なワタシに、掠れていても芯の通った声で答えるオズ。



「どっちの意味で聞いてんの?」

「そりゃあてめぇで考えろ」



笑いもせず、しかも突き放すような態度と言葉を掛けるオズ。



「馬鹿にしな……」



ワタシが怒りに任せて言い切ろうとした、まさに直後のこと。



シートに付けていた尻が一瞬浮き上がるくらい強烈な、気持ちの悪い揺れが列車内で起こった。



「えっあっ、何⁉」



不意を突かれたワタシはシートに突いていた両手をパッと放し、胸元に寄せて不安を紛らわせることで精一杯だった。



傍らの学生たちは何食わぬ顔でお菓子や飲み物を口に頬張りつつ、兎に角くつろぎっぱなしだ。この光景を目にしたことで、ここが未だ〝夢〟の中であるということが確定してしまった。



青田線の列車はだだっ広い田園地帯を抜け、両脇を標高百メートルから二百メートル位の山に挟まれる山間部へと突入した。



秘境というほどではないものの、線路の両脇が山脈のように連なって日光を遮り、日中でもトンネル内を走るような錯覚に陥らせる。この列車は三浦方面行きの下りダイヤで、つまりワタシは今、自宅の最寄り駅へと向かっている。



およそ二十秒後、電車全体がガタン、とまたしても縦方向に短く揺れた。



焦るワタシと、焦らない黒猫および周囲の乗客。眼前の現実にとかく気が狂いそうになる。



落ち着き払った彼はやがて、黒い尻尾の動きを止めた。



「もう時間か」

「な、何の?」

「魔のカーブ地点だよ」

「それって……」



彼に聞くまでもない、青田線固有の要注意区間―――魔のカーブ地点。



病院の〝夢〟で紫月のいた部屋のテレビからも事故の惨状が伺えた、地方鉄道の闇を匂わせる死と隣り合わせの一本道。二つのトンネルを繋ぐレールと架橋は、風雨と度重なる列車の往来で老朽化していることは、素人目にも明らかであった。



この列車は間違いなく、過去の惨劇を繰り返そうとしている。



「ねぇ、電車のスピードおかしくない⁉」

「早く止めに言った方がいいだろうな」

「止めるって、ワタシが⁉」



言われるがまま動き出す瞬間を見計らったように、オズが自らすっくと四本の足でシートの上に屹立する。



「一寸先の闇を振り払えんのはてめぇ次第だぜ、なち」



僅かでも期待した自分が愚かなことを認めまいと、ワタシは彼の言葉に食ってかかった。



「オズ君なら何とか出来るでしょ?」

「おめぇじゃなきゃ意味ねぇんだよ」



訳の分からぬことばかりほざく彼に、堂々と反駁するワタシ。



「さっき力を貸してくれるって言ったじゃん⁉」

「ソレとコレは別問題だ」



ここは〝夢〟だ。ワタシが死のうと誰も悲しまないのだ。



それなのにワタシは、今を生き抜こうと躍起になっているのだ。



「あぁくそ訳分かんないっ」



その場で勢いよく立ち上がったワタシ。



隣の学生達に目もくれず、揺れの激しくなる列車内をよろめきながら走り続け、進行方向最前列の運転室へと向かっていく。



乗客の誰もがワタシに注目しない。道中、立ちっぱなしの乗客が幾度か行く手を阻むも、背中合わせの彼らの隙間に両手をねじ込み、こじ開け、突破していく。



やがて一両目と二両目を繋ぐ幌の中をくぐり抜け、ついに運転室の前まで辿り着くワタシ。運転室前のドアは生憎スライド式ではなく、蝶番のついた片方向開きであった。



ワタシはなりふり構わずドアノブに手を掛け、ガチャガチャと上下に激しく揺さぶってみるが、案の定手応えはなかった。



「開けてよ、開けてってばぁ」



腹の底から声を出し、ドアの向こうまで響くように懇願するワタシ。



「ねぇ、返事してよ!」



どれだけ足掻いても、運転室からの返事は一向にやって来ない。何なんだよチクショウ、とワタシはドアノブから手を離しつつ、独り毒づいた。



とことん焦る私の背後で、レールのジョイント音よりも早くタタッ、タタッという小さな足音がこちらへ近づいてくるのを察知する。



勢いに任せて振り返ると、人ごみの足元で俊敏な動きを見せる黒い塊が、ワタシの元へと駆け付けてくる。無論、塊の正体はオズであった。



「ったくしょうがねぇな」

「オズ君⁉」

「下がってろぃ」



オズはこちらへ一直線に駆けながら、ドアの前に佇むワタシを言葉一つで退かせた。



運転室前のドアから片隅へと後ずさった直後、オズはワタシの目線の高さ位までシャアと飛び跳ねた。ふわり宙に浮かぶ彼の眼前に、ドアの蝶番が迫る。



オズは瞬時に体躯を丸め、縦に一回前転する。その終わり際、彼がまるで列車の床に叩き付けられるような速さで落下する最中、ギャイン、ギャインという耳障りな音が火花と共に打ち鳴らされ、上下二つの蝶番が破り壊される。



思わず耳を塞いだワタシの目の前で、重たげなドアが慣性でぐらつき、音もなく着地したオズを目掛けて勢いよく倒れ込まんとしている。



「うわっ」



助けに行こうが間に合わないワタシはただ声を上げ、突っ立って両手で目を覆うだけ。直後、バオォンという鈍い轟音と共に運転室のドアは床に突っ伏した。



心配は無用だった。狼狽えるワタシの真横には、倒れ込むドアからこれまた瞬時に飛び退いたオズがいた。



「早よ行け」

「ああっもう」



太くて黒い尻尾が、ワタシのくるぶし辺りを素早くはたく。倒れたばかりのドアを苛立つようにバスン、バスンと踏み鳴らしつつ、不可侵の領域たる運転室へと入り込むワタシ。



「運転手さん何やって……」



運転席に入って左手すぐ、若い青年と思しき運転手は、帽子を被ったまますぐ左横の窓にもたれかかっていた。状況を察するのに時間は一秒と掛からなかった。



「死んでる、の⁉」



運転手の顔を覗き込む。彼はまさしく学校の帰り道でワタシが乗車し、いつしか線路から転落する運命の列車を動かしていた張本人だった。しかも彼は赤の他人ではなく、クラスメイトの一人と同一人物である。



本当に、この男には行く先々で迷惑を掛けられっぱなしだ。



沸々と湧き上がる不満や怒りを募らせるのも今だけのこと。列車はあと三百メートルほどで魔のカーブへ突入しようとしている。



「あぁもうそんなのどうでもいい!」



運転席のレバーが二本、いわゆるツーハンドル型の運転方式だ。



運転手の彼をどかす余裕もなく、立ったままの不安定な姿勢で列車停止作業に取り掛かる。



「ぐっ、えええい」



はるか昔に父からうろ覚えで教わった列車の運転方法に則り、真っ先に左手側の主幹制御器のレバーを掴み、ニュートラルの位置まで戻していく。焦りから想像以上に大きな声を漏らしてしまう。



すぐさま右手側のブレーキレバーを握りしめ、空気圧最大になるよう目一杯回していく。



一呼吸遅れて、車両床下のブレーキディスクが猛回転する車輪の両脇をガッチリと挟み込み、唸りを上げるが如く強烈な摩擦力で暴れ狂う物共を抑えつける。



全身が熱い。背中に溜まった脂汗が滴り落ちる感覚さえ分かってしまうくらいだ。



数秒の後、不安定な姿勢のまま、背後から猛烈な引力が働き、グギギギギィという車輪の軋む音と共に前へつんのめりそうになる。



ここ一番の踏ん張りどころと悟ったワタシは、頼りない両足の靴底を運転席の足元にへばり付かせ、眼前に広がる絶望への入口をしかと見定める。



転落を予感し生まれる恐怖と生存を切望し生まれる期待をない交ぜにしつつ、体中の空気を絞り出し切る勢いで、ワタシは叫んだ。



「止まれえええええっ」



この叫びは誰のためか。



自分のためか、もしくは別れを惜しんだ彼女のためなのか。



この行為に助かる保証なんてない。



それでも今は、正しいと思ったことをするしかない。



車輪が断末魔のような金属音を発し続けながら、魔のカーブ地点へとオーバースピードで突入する。カーブ半径300メートルほどのレールを右に曲がり始めると、遠心力で身体が左に吸い寄せられていく。



傍の運転手に寄り掛かるような姿勢のまま、ワタシはブレーキレバーを握り続けた。



間もなく進行方向正面の景色が、車窓ごと左に傾いていく。車両右側の車輪がレールから離れていることは、すぐに察知できた。



車窓は傾きを更に反時計回りに大きくしていく。死が近づいてくるのを実感し、全身からまたも冷や汗が噴き出してくる。



ここが〝夢〟だとしても、ワタシにとっては紛れもない現実だ。



左斜めになっていく視界のど真ん中、学校の屋上で飛び降りた時よりも、遊園地の観覧車から振り落とされた時よりも鮮烈で不快な感覚がワタシの脳を支配する。



両足の踏ん張りが効かず、肩から上が運転席左脇の小窓に衝突し、ほんの一瞬意識が飛んだ。




〝夢〟なら醒めて欲しいと願うも届かず、車体はレール接地面から左に45度位まで傾いていた。おそらく車内はぐちゃみそになっているだろう。



運転手の膝枕に上半身を預けた姿勢のまま、これ以上はどうすることもできない。息を殺し、手足の筋肉をガチガチに強張らせたまま、今は耐えるしかなかった。



車輪の軋む音は甲高いまま、数秒経ってから小さくなっていった。



「……っ!」



車体左に働いていた遠心力が少しずつ弱まっていくのを、身体の隅で感じ取る。傾いた車体はすぐさま進行方向に対し時計回りに戻っていき、バシャアンと鈍重な衝撃音を響かせながらレールの上に接触した。



ワタシの身体は運転席の右側へと一気に引っ張られ、床に尻餅を着いた。いつしか味わった、笑ってしまいそうな鈍痛が臀部に突き刺さり、言葉もなしにのたうち回る。



意識のない運転手は、ワタシの左横で糸の切れた人形みたいに崩れ落ちていた。



列車はそれからカーブの終端付近まで余力の限り前進し、奇跡的にもレールの上で完全に停止した。



「はあ、はあ」



臀部の痛みを引きずったまま、ワタシはその場を立ち上がる。横たわる運転手を尻目に、ワタシは運転室の出入口へと向かう。



奥まで続く客室の惨状が目に飛び込んでくるのを想像し、ドアのない出入口から客室を覗くいてみる。



見事に予想を裏切られた―――オズはおろか、人っ子一人いないではないか。



「えっ?」



溜め息と共に、ワタシはそんな声を出していた。今までの努力は何だったのだ。誰一人喜ぶ者や安堵する者、激高する者や泣き喚く者でさえここにはいない。



倒れたドアを左右の足で踏み越えながら、無人で、無音で、無風の客室内を、ワタシという存在が掻き乱していく。



「オズ君、どこぉ」



ワタシは当然のように彼の行方を知りたかった。どうしていつも肝心な場面で姿を消してしまうのか、理解に苦しんだ。



ひょっとすると、彼の言う「しーちゃんに会いたいと強く願う」ことを、ワタシが意識していなかったからなのかもしれない。



紫月達とは青田駅で確かに再会できた。その時の喜びでさえ上っ面のものではなかった。気がかりなのは、ワタシが何の疑いもなく彼女らを本人だと認識したことだ。



何故こんな些細事に拘るのかといえば、ワタシが好意的な相手に対して全幅の信頼を寄せてしまうからかもしれない。自分の長所であり、壊滅的欠点でもある。



それでも、紫月にまた会いたいと願う気持ちは死んでいない。オズのほざくことだ、こちらが何をしようが彼の掌(肉球?)の上で転がされるだけである。



(ホントに一人になっちゃった、の?)



視線を左右に泳がせつつ、誰もいない列車後方へ、よろめきながら歩いていく。



何も刺激のない風景に身を晒す内に虚しさが次第に込み上げてきて、とうとうワタシは人一倍孤独が嫌いだという実感に至る。



気が付かぬうちに、歩幅と足音が段々と大きくなっていた。客室通路をズカズカと進んで行き、やがて車両最後尾まで到達する。もちろん、車内の景色は依然変わらぬまま。



あっという間に運転室前の扉の前まで辿り着き、歩みを止める。



乱れた息遣いを整えるため、扉に左手を突き、深呼吸をひたすら繰り返す。自然と頭が俯いて、自らの足元を見つめる体勢になる。



(何やってんだろうな、ワタシ)



オズの言うことを常に信じて行動した結果、ワタシは一人になってしまった。彼はワタシをいつまでも弄んで、何が楽しいのだろうか。



彼はワタシを現世に還す気など更々ないのかもしれない。ならばワタシが真に望むものは何なのかと、顔を上げて運転室の窓に映り込んだ自分自身に、改めて問い直してみる。



(どうしたいんだよ、ワタシ)



窓の向こうのワタシは、乏しい表情でこちらを見つめ返してくるだけ。



今一人だからこそ、納得のいく答えが見つかると思っていた。だが、長考の末に脳内から吐き出された回答はあるがままの自分を受け入れるという、えらく消極的なものだった。



何も望まないことが真の望みだというのか。それほどまで無欲な人間だったのか。否と即答できないことに気づいた時、ワタシは窓の向こうの自分を殺めた。



傍らにあるロングシート型の座席へと腰を下ろそうと、踵を返したその直後のこと。



静寂が張り詰めていた列車内に、大きな空気の乱れが起こった。



ロングシートと対面する視線の横から、人影が矢の如き速さでこちらに飛んで来る。ワタシは人影をしかと捉えるため、運転室前のドアに背を向けるまで身体を捻った。



「っえ?」



臍より上の辺りに、何かが滑り込んでいくような感覚がした。すぐに視線を下にやると、光沢のある扁平な何かが、地面とほぼ水平にワタシの腹へと埋まっていた。



正体がはっきりするまで、一秒と掛からなかった。



ワタシの鳩尾に包丁らしき刃物が、刃渡り半分以上の長さまで突き立っていたのだ。腹部に鋭い痛みと冷たさが、混ぜこぜになって集まっていく。



一方、刺された場所からは赤い液体が沁み出て来なかった。



「どうして……っ」



眼前には、あの運転手。刃物から手を放し、二歩、三歩とワタシから後退していく。



理解の追いつかないワタシの前で、彼は豆粒ほどの大きさで口を開けた。



「ごめん、許してくれ」



腹に力の籠っていない、ガラガラした声で彼はそう言った。



運転手の両目に光は宿っておらず、焦点もどこか遠くに置かれているようだった。



「あ、うぁ」



異常事態を前にまともな言葉が思いつかず、吐息ばかりの喘ぎ声を漏らすしかないワタシ。



彼が発した唯一の言葉に捉われ、一段と訳が分からなくなった。



腹部に出来た不快な感覚を取り除こうと、痺れる両手で刃物に触れようとする。しかし、全身の力が抜け切る方がわずかに早かった。



持ち上げた両腕の感覚が遮断され、両肩の横で力なく垂れ下がる。



膝から崩れ落ち、太ももの内側が列車客室の床にベタっと着いたと思うと、腰から上のバランスを失い、床に引っ張られるようにあお向けに倒れていく。



動きが止んだ時にはもう、列車客室の天井を見上げ、両足を運転手の居る方へ投げ出していた。



頭の中が熱っぽくなる一方で意識は混濁し、呼吸が浅くなり、重たくなっていく身体に反して全身の神経は抵抗を続けていた。



聴覚はやけにはっきりしていて、必死に脈打つ心音のほか、運転手の靴音が段々と近づいてくる様子が耳の中で反響しまくっている。



ワタシは間もなく()()のだろうが、こんなにジワジワと時間を掛けて死んだことはない。



ここは〝夢〟だ、どうせまた生き返る―――少し前のワタシならそうやって惰性で考えていた。



しかしどうしてか、死の瞬間を誰にも気づいてもらえないことに、今はひどい悔しさと恐ろしさを感じる。



(こんなのいやだよ)



左右の瞼は重くなるのに視界は寧ろ澄んでいき、鋭敏なはずの両耳は用済みとばかりに遠くなっていく。五感が奪われていくこの感覚は、もう一人のワタシと重なった時よりも遥かに冷たく、寂しかった。



死にたくないと願ったことは、おそらくこれが初めてかもしれない。



なぜなら、遮る事の出来ない視界に映りこんだ運転手の顔は見知った者ではなく、本能的におぞましいと感じる者の顔へと変貌していたからだ。



列車天井に付く蛍光灯の逆光を味方に、運転手は帽子のつばで目元を隠し、無力なワタシを見下ろしながら愉しそうに口元を歪めていた。



人が人を殺めようと思い至った時、殺す者の背中越しに殺される者を見つめ、気付いて貰った印にとびっきりの微笑みを突きつける―――それが〝死神〟って奴なのだ。



眼前の不快な光景が幾秒も続くのかと思うと、突如、運転手の帽子だけが風もないのに後方へすっ飛び、帽子の下から無表情な青年の顔が露わになった。



青年は自我を取り戻す暇もなく、かろうじて聞き取れる小さな呻き声と共に身体を仰け反らせると、先ほどの帽子が床に落ち切るのとほぼ同時、膝から崩れ落ちながらバッタリと倒れ込んだのだった。



彼のあっけない一部始終をワタシはおぼろげに見聞きしつつ、後は抵抗虚しく弱っていくだけだった。



(いや、だ……)



列車の中で人知れず、ワタシは孤独に息絶えた。





      ✡





死について考えたことはあっても、死を看取られることについては流石に考えたことがなかった。



運転手に刃物で刺され、愉悦の表情で見下ろされながら死に往くまでのひと時が、為す術もなくワタシの中に記憶として残ってしまっている故、ほんの少しだけ物思いに耽る。



大往生を遂げた人を前に、親族は皆悲しげな顔で接するのが理想だろうが、中には彼もしくは彼女の死を心待ちにしていた者だってきっといる。現実はきっと綺麗な事ばかりではないのだろう。



誰に答えを言い渡す訳でもなく、そうやっていい加減に結論付けた途端、ワタシはいつも通りに意識を叩き起こされていた。



浅い眠りから程よく冷めた頭を働かせ、蘇っていく視力を駆使し、現状を把握する。



腹部に刺さっていた刃物は、痛みと共に跡形もなく消え去っていた。刺突による制服の破れもなく、運転手に刺されたという記憶だけが残っている。



どうやらワタシは列車のクロスシートに何事もなかったように座ったまま、無事でいたみたいだ。



車窓の景色はというと、エメラルドグリーンに映える長大な川が真っ先に目に飛び込んできた。頼りない記憶の限りでは、列車はすでに魔のカーブ地点を通過し、狭かった山あいを抜けたところだ。



先の鬱蒼とした雰囲気は鳴りを潜め、遠くなっていく山々を置き去りにするように、列車は小高い土手の上を軽やかに走行している。緩やかに蛇行する河川は流れも穏やかに昼下がりの太陽で翡翠色の水面を煌めかせ、見下ろす乗客の心象に興奮と安らぎを与えてくれる。



通路を挟んで反対側には、相変わらず談笑の止まらない学生達の姿。



ただ一つ、黒猫のオズだけが目の前に居ないことだけが異なっていた。



願いが届いたのかは知らないが、今ワタシは呼吸をし、自我を持ち、生前の記憶を保ちながらここに存在している。



数々の〝夢〟を経て当たり前に肉体と意識を取り戻していたワタシは今、何度目かの生還を果たして不思議と動揺している。つまり、生き返ったという事実を受け入れるのに何故か時間を要しているのだ。



違和感の正体は、おおよそ見当がついている。



〝夢〟で意識をなくしたワタシをいつも呼び戻していたのはオズで、またの名を尾上トオジという。彼の声や挙動が引き金となり、ワタシは文字通りに目覚めることができた。



此度は一体誰が引き金を弾いたのか、すぐに見当がつかなかった。



「あっ」



視線を右斜め上に動かした途端、思わず間の抜けた声を漏らす。



「また会えたね、なっちゃん」



見慣れた制服姿の彼女が、こちらを見つめてニコリと顔を明るくさせる。二言目はなく、サラリとした髪質のツインテ―ルを小刻みに揺らしながら、ワタシの座る場所へと歩み寄っていく。



彼女の名前は久池井紫月。可憐で小柄ながら、確かな存在感のある子だ。



ワタシが気を取られている間にも動きを止めず、隣の陽気な学生たちを横目に、ワタシの座るシートの対面までやって来た。座席の前に立つと、こなれた様子でスカートの後ろ半分を太腿の裏側へと引き寄せる。



早すぎる彼女との再会に心が落ち着かなくなるものの、彼女がロングシートの対面に腰かけるまでにはどうにか、言いたいことは決まった。



「オズ君はどこ?」

「えっ?」



紫月はシートに尻を付けるか付けないかのタイミングで動きを止め、目を丸くしつつ、ワタシの顔を覗き込む。



だがそれも刹那に終わった。彼女は落ち着き払って微笑むと、今度こそシート座面にスッと腰を下ろした。



「黒猫さんのこと?」



ワタシは無言で頷く。すると紫月はおもむろに窓の外に視線をいったん移してから、列車の中をグルリと見回した。



ワタシは尚も無言で彼女の答えを待つ。再び視線が合ったところで、紫月は俯いて小さく息を吐き、もう一度ワタシを見上げてから言った。



「ごめん、ちょっと分からない」

「えぇ?」



彼女の意味深長な挙動から、過剰な期待をしてしまった自分に後悔する。



「じゃあ、女乃君も?」

「うん」

「青田駅のホームで一緒だったでしょ」

「ごめん、よく覚えてないの」



少し間を置いて視線を股下へ落とし、申し訳なさそうにする紫月。ワタシは頭を振って彼女の返事に答える。



「もしかして、〈声〉を聞かされてたから?」

「〈声〉?」



記憶の片隅に引っかかっていた女乃の言動を思い出し、身体の横に両手を突きながら紫月に問いかける。



彼女は先に視線だけを上げ、僅かに遅れて頭部を持ち上げながらワタシを見た。



「ほら、深夜にテレビで白猫が言ってたでしょ。僕の所へおいで、って」

「確かに言ってたね」

「あれは催眠術みたいなもので、しーちゃんは白猫の姿をした女乃君の言いなりになってたんだよ」



紫月は一瞬だけ、目を丸く大きくさせながら驚いた。すぐに冷静に戻った彼女は、スカート越しの太腿の上に小さな両手を置き、目線を下に向けて呟いた。



「全然気づかなかった」

「大丈夫、ワタシだって気づいたところで大したことできなかったし」



ワタシが言葉を返すと、紫月はこちらを見ながら賛同するように微笑んだ。



「でもね……」



彼女が言葉を切らしたので、小さく相槌を打って応える。紫月は右手を軽く握って顎にやりながら、過去を確かめるように答えた。



()()()()()()()はそんな姑息なこと、しないと思うな」



今度はワタシの方が驚き、眉毛が動くほど両目を大きくなったのが分かった。



女乃愛人は実に掴みどころのない人間である。たとえ空想の人物であったとしても、誰かの心に棲み付き生き永らえていると考えるのは、支離滅裂だろうか。



ワタシは教室でおしゃべりする時と同じように、力の抜けた表情で紫月に聞いてみる。



「女乃君って結局何なんだろうね」

「きっと、アタシ達と何かしらの縁はある人だよ」

「そう思いたいよ、ホントにね」



首を前に軽く傾けながら、ワタシは彼女に同意した。



考えることに少々疲れてきたせいか、無理に作った態度が容易く揺らいでしまった。紫月はそれでも特段嫌な顔をせず、しばし口を閉ざした。



紫月の言葉はごもっともだ。おそらく女乃と最も近しい距離にあった彼女でさえ判らないのだから、そのように結論付けたい気持ちだって理解できる。



きっと、紫月の方も置かれた現状から来る不安と闘っているのだろう。



自分なりの気遣いにしては雑な気もするが、肝心なことを思い出した時のように、頭をシャキッと持ち上げて彼女の気を引きつつ、聞いてみた。



「ねぇ、しーちゃんはどうしてまた、ワタシのところに戻ってきたの?」



紫月は何秒か考え込んでみたものの、ツインテールの髪を左右に何度か揺らしながら答えた。



「何か理由はあるはずだけど、正直よく分かんない」

「しーちゃんの〝夢〟はもう、終わっちゃったんだよね」

「その筈なんだけど……」



彼女にばかり考えさせるのも段々と酷に思い、これ以上の追及は止めにした。代わりといっては不自然だが、彼女が興味を惹きそうな話題を振ってみる。



「あれからオズ君と……トオジお兄ちゃんと何も連絡ないの?」

「え、今、トオジって言った?」



予想通り、紫月は食いついてくれた。ワタシは病院の〝夢〟から醒めた後のあれこれを彼女に



「しーちゃん、知らなかったの」

「なっちゃんが遊園地の〝夢〟に入ったあと、黒猫さんとは確かにあの場所でお話ししたよ。でもそんなこと覚えてないの」

「まったくあの猫畜生め、いたいけなしーちゃんを弄びやがって」



悪態をつくワタシに、紫月が堪らず吹き出した。



「だってアタシ、もう天使じゃないんだもん」



彼女の無邪気な反応を見て、目の前にいる女の子はワタシの知る紫月なんだと改めて実感したのは良いが、肝心の二人(二匹?)が行方知れずなことには相変わらず不満が残る。



そこで目の前の彼女に一つ余計な質問をすることで、気を紛らわすことにした。



「しーちゃん、トオジお兄ちゃんにもう一度会いたい、よね」

「もちろんっ」

「会えたら最初に何て言うの」



期待を寄せながらそう訊ねると、紫月はしばし眉を寄せて考え込んだ後、諦めたように答えた。



「……特に決めてない。その場で自然に出て来るよ」

「そっちの方がしーちゃんらしいね」



彼女を励ますように、締まりのない笑顔で応えるワタシ。



我ながら気さくな態度で話せてると自画自賛したところで、どういう訳か、列車内の何かがガラッと変わる瞬間を、ワタシは全身で感じ取った。



(……あれ?)



その違和感に気付いたのは、紫月も同じだった。二人そろって、首を同じ方向へと捻る。



学生たちの方から、聞き慣れた笑い声がする。今までただの雑音として意識せず聞き流していただけだったが、知らず知らずのうちに違和感が浮き彫りになっていく。



確かに()()しかいなかったはずの彼らから、()()()の笑い声が聞こえてくる。両耳を疑うことは無理もなかった。



ワタシが一度紫月の方に向き直ると、彼女もすぐに気付いてこちらに振り返った。言葉は交わさないが、二人の間で「もしや」という予感が駆け巡る。



列車のクロスシートに腰掛けていた四人のうち、隣り合わせに座る二人ずつの身体が半透明に薄まった後、互いに重なり合うように平行移動していく。



二人のシルエットが身体の芯でピタリと一致すると、各々が淡く黄色に発光しながら本体を隠していき、輝き終えた後には、大層見慣れた制服姿の男子二人が居座っていた。



「二人ともっ」

「よう」「元気そうだね」



毎日教室で顔合わせするように、二人はワタシと紫月の方を向いて手を振っている。



彼らの登場は唐突に見えて、あまりにもタイミングが良すぎていた。ひょっとすると紫月もワタシと同様の印象を抱いたに違いない。



彼らは前置きも充分とばかりに席を立ち、こちらの返事も待たずに悠々と歩み寄ってくる。二メートル足らずの僅かな距離を歩き、向かい合せのワタシ達の前で立ち止まる2人。



「どうぞ」



紫月が短い言葉と共にスルリと立ち上がり、ワタシの座るロングシートへと狙いを定める。



彼女の行動に無言で応じるため、尻を浮かせて席の端へススッと身を移動させると、紫月は落ち着いた所作で一人分空いたシートへと腰を下ろした。予期せぬ来訪者を前にする割にこなれている彼女に対し、感心よりも驚きの方が勝っていた。



紫月の身体や制服から漂う甘く爽やかな香りがそっと風に乗り、ワタシの鼻腔をくすぐってくる。親近感のある良い匂いだと思いつつ、嗅ぎ続けると落ち着かなくなるのはどうしてだろう。



「わりぃな」

「失礼」



奥井と金森は紫月の後に続くように、向かいのシートにドカッと腰を下ろした。男子二人が割り込んでくるだけで、足の置き場が一気に狭まった。



彼らなりの気遣いなのか、無造作に着席した後すぐに上体を背もたれになるべくピタリとくっつけ、両足をワタシ達の方へ投げ出さないようにしてくれている。



「二人とも無事だったんだ」



単刀直入に、思ったことを口にしたワタシ。



「おかげさまで」と奥井。「何とかな」と金森。



彼らは病院の屋上にて〈紫月〉に光の矢で貫かれ、タロットの中に戻っていったはずだ。



〝夢〟の中で辻褄合わせをするのはナンセンスだと分かっていながら、性分のせいで疑い深くなるのは避けられなかった。



「ここでまた会えたのも、何かの縁?」



〝何故〟という言葉を選ばず、あえて前向きなフレーズで彼らに問うワタシ。二人は自信満々な態度を面に出しながら、それぞれ答えた。



「当たり前だろ、尾上は神様になったんだからよ」と金森。



「本気で言ってるの?」



「本気だよ」と奥井。



紫月に目配せをしてみると、二人を信じようよ、と言いそうな目つきをされた。



ワタシの正面に陣取る奥井が、シートから伸びる肘掛けに片肘を突き、足元を軽く交差させてから言う。



「尾上さんがなんで暴走した列車を止められたか、分かる?」

「運転席まで走って急ブレーキ掛けて、間に合ったからでしょ」



事実を率直に申し上げると、今度は金森が可笑しそうにワタシを見て言った。



「違うんだなこれが」

「どういうこと?」

「尾上さんが列車を止めようと決めた段階で、列車は止まると決まったんだ」



仮にそう信じるならば、ワタシがこの列車に連れてこられた時点で何だって思い通りだったはずだ。



紫月は特に驚く様子もなく、隣で静かに聞き入っている。



「はぁ……」

「信じてねぇな」



息を漏らしたワタシに呼応し、金森も大きく溜め息を吐いた。



彼は寄り掛かっていた上体を拳ひとつ分ほど起こし、両肘を膝の上に置き、顔の前で両手を組みながら言った。



「そんなら、列車よ反対方向に動けって念じてみ?」

「えぇ」

「いいからほらっ尾上さん」

「むぅ……」



男子二人が雑に急かしてきて、ワタシは渋々目を瞑り、金森の発した言葉を脳内で呟き返した。



十秒満たないうちに背中がシートから離れる感覚が急激に強まっていき、ゴトンという鈍く籠った短い音と共に列車は完全に停止した。



慣性から解放され上半身がシートに張り付けられる感覚に翻弄される一方で、皆は涼しい顔をしながら、間もなく次に起こる出来事を待っている。



ワタシは意地悪く心の中で全く逆のこと、つまり「列車よ動くな」と念じていた。



ところが、床下からゴトゴトという音が聞こえたと思うと、絵画のように止まっていた車窓が右から左へゆっくりと動き出し、列車はあっさりと進行方向を反転させた。



「ホントだね」



素直に返事をするワタシに、彼らは得意げな顔をしていた。



「どっかのお偉い学者さんが言ってたろ。神はサイコロを振らねぇって」

「つまりは尾上さんの思い通りなんだよ」



そんなことなかったけど、と反論したい気になったが、少しは成熟した自分を見せたい気持ちが勝り、固く口を閉ざすことにした。



「ちょっと二人とも、なっちゃんが困ってるでしょ」



紫月が身を乗り出しながら、親と子の立場であるように奥井と金森を窘める。



「お、おぅ、スマン」

「ごめん」



水をかけられた綿菓子のように、彼らの態度は忽ち小さくなっていった。



紫月の援護もあり、ワタシは得体の知れない二人に改めて呼びかける。



「奥井君、金森君」



視線の先の二人を見据えると、彼らもすぐにこちらに注意を向けた。



「ワタシの思い通りになるんなら、こんなこと言っても嘘じゃないよね?」



弱々しくなった彼らは即座にワタシの方を向き直し、表面上は平然としながらそれぞれ返事をしてきた。



「どんなだ?」

「言ってみてよ」



ちょっぴり緊張気味な自分に気づき、視線をいったん下に落として呼吸を整える。横目に見た紫月は綺麗に背筋を伸ばし、ワタシの言葉を待っている。



車窓から見える太陽が雲間に隠れ、川面に影を作り始めたタイミングで二度、三度咳き込んでからゆっくりと答えた。



「奥井君の正体は女乃君、それで金森君の正体はオズ君ってのは」



俯瞰すればなんてことない日常の列車内が、真夜中の台所の如く静まり返る。



傍らの紫月は、小ぶりな口元をポカンと開けて静止していた。



奥井と金森も彼女に倣うように口元をだらしなく開け、「あ」もしくは「え」という声を小さく漏らした。



正解か不正解か、いずれにしても突拍子もない事を口にしたと思うが、時の進みゆくままに彼らの返答を待った。



先に変化があったのは、奥井の方だった。男子にしては割と愛嬌のある目元が細くなった瞬間を見逃さなかった。



一瞬遅れて金森も奥井に続く。切れ長の両目を弓の弦みたいに細め、緩ませていた口元を一気に吊り上げていった。



「あっはっはっはっ」



しおれていた彼らは、時を巻き戻すように直前の威勢を取り戻した。



列車内に雑音が戻ってくるのと同時、彼らの全身を白い光が包み込む。ちょうど〈紫月〉が彼らを射抜いた時と変わらない質感の光る繭は、数秒の後、ワタシと紫月の眼前で破裂するように散っていった。



微かに残った光の糸くずの中から現れたのは、一匹の黒猫と一匹の白猫。もはや言うまでもなかった。



「こりゃあ参ったね」

「やるじゃねぇか」



広さを取り戻したクロスシートの反対側で、二匹が今にも喜びで飛び掛からんばかりに全身を揺らしている。



紫月は実に驚いたと言わんばかりに、両手で胸元を抑えながら、黒猫と白猫を交互に見ている。



彼女はいささか落ち着いた頃合いで、胸元の両手を片方だけ膝の上に戻し、小さな声で黒猫に問う。



「本当に、トオジさん、なの」

「おぅ」

「声は別人みたいだし、全然気づかなかったよ」

「おめぇは声も背格好も、あん時のまんまだな」



黒猫、もといオズは相変わらずのハスキーな声色で、これまで通りに紫月とやり取りをする。彼がこうして〝神様〟たるワタシの前に再度現れたことに理由を求めても、もはや仕方がないように思えた。



「アタシ現世じゃ眠ったままだし、トオジさんに迷惑かけっ放しでゴメンね」

「何謝ってんだ」

「だって好きだから! 最期まで傍にいたいって思うのは当たり前でしょ?」



前のめりに黒猫を凝視する紫月。横から見ても分かるほど、彼女の頬は紅潮している。



病院の屋上以来、久しぶりに紫月が取り乱す様を目の当たりにする。言い切った彼女は暫くしてから我に返り、すごすごと引き下がっていった。



「ご、ごめんなさい。興奮しちゃった」



白猫、もとい女乃は細く毛並みの良い尻尾をゆらゆらさせながら、熱を持ったままの紫月を喜ばしそうに見て言った。



「本当に一途なんだね、紫月さんは」

「う、うん」



これまた恥ずかしそうに答える紫月を横目に、ワタシは一つの違和感に気が付いた。それを確かめるため、目の前の白猫に話を振ってやる。



「女乃君も、そろそろ教えてくれていいんじゃない?」

「え、僕が? 何を?」



やはり気のせいではなかった。ワタシは内心動揺しながらも、彼に悟られまいと不敵な笑みで追撃を行う。



「分かってるくせに」

「そうだぞアイト。分かってるくせによ」



オズがワタシの後に続く。紫月も無言ながら、固唾をのんで女乃の答えを待つ。どうやらワタシが望むものは見事に一致していた。



女乃はマリンブルーの両目をヒタッと閉じ、口元は格好つけたままで暫く静止する。列車内に点在する乗客のざわつきと、床下のジョイント音だけが耳の中で反響する。



太陽を隠す雲間から僅かに日差しが差し込んだ後、女乃は口をおもむろに開いた。



「僕は君の親父さ」

「は?」



瞳孔を全開にして驚くワタシ。まったく予想外な返答だった。納得がいかないワタシは、固い表情で白猫に反論する。



「お父さんはまだ生きてるでしょ」

「ああ、そうだね」



女乃は余裕の佇まいでワタシの言い分を認める。



「ならどうしてここにいるわけ?」

「……」

「お父さんの本名は? 生年月日は? 趣味は何?」

「……」

「本物だったら、すぐ答えられるでしょ?」

「……簡単には信じて貰えないよね」



彼は少しだけ沈黙してから、尻尾と同じくらいしなやかなヒゲを力なく垂らし、残念そうに返事をする。



「どういうこと?」

「今は言いたくない」



黒猫だけでなくこいつも同類か、と呆れがちになってきたワタシは素っ気ない彼を叱るように言った。



「そこはハッキリ答えてよ、お父さんなんでしょ」



女乃はそれでも気が乗らないのか、目線を外したままで呟くように返答した。



「すぐに分かるさ」

「何なの、意味わかんない」



彼はワタシが不満をぶつけたきり、口を閉ざしてしまった。



不甲斐ない思いのまま、こちらも余計な口を挟むことなくそっぽを向く。オズと紫月の二人は、我関せずの態度で宙を眺めていた。



列車は反対方向へと通常運行を続けていて、車窓は依然として川面を見下ろす風景のままである。



あと何分すれば再び暗い山あいへと戻るのだろうか、と恐らく杞憂な事を考えていると、鉛色をした分厚い雲が太陽の顔を覆い、川面に届いていた光の帯をブツリと断ち切った。



女乃は空が暗くなる頃合いを見計らっていたように、今度は紫月の方を向いて問い掛ける。



「改めて聞きたいんだけど、紫月さんは尾上さんと友達……なんだよね」



彼があまりに礼を欠いていたので、ワタシが紫月に先走って問い返す。



「なんで質問口調なの?」

「紫月さんが決めることだからさ」



女乃は彼女の方を向いたまま、気障ったらしく答えた。対する紫月は膝の上の両手をキュッと握り締め、見上げる白猫をしっかり見定めて答えた。



「当たり前でしょ。ねっ、なっちゃん」

「う、うんっ」



気迫充分の彼女に同意を求められ、ワタシは即座に頷き返した。女乃は「そっか」とえらく味気ない返答をした。



すると沈黙を貫いていたオズが、黒くて太い尻尾の毛並みを逆立てた後、シートへパタンッと強めに振り降ろすのが見えた。



否応なしに彼へと注意を向けたワタシを、強面の黒猫が逃がしはしなかった。



「……おめぇがしーちゃんと一緒に病院の屋上から飛び降りたとしてもか?」

「っ⁉」



そして、黒猫からの無慈悲な一言が、ワタシの息を詰まらせたのだった。即座に反応した紫月は黒猫をキッと睨み付け、見えない非難の矢を放った。



「トオジさんの馬鹿!」

「もう隠すこたぁねぇだろ」



紫月の頬を染めていた桜色が深紅へと変わる。対するオズの方は微動だにせず、迫り来る矢を難なく弾き返す。



「そうだけど……」



情動のままに動いた紫月はその場で項垂れ、誰とも視線を合わせようとしなかった。



突然の場面転換に一番困惑しているのは、もちろんワタシだ。不穏な空気が色濃くなりつつある列車内で窒息すまいと、とにかく助けを呼びかける。



「どうなってるの? ねぇどういうことなの?」



白猫も黒猫も、傍らのクラスメイトでさえ反応がない。あまつさえ通路の反対側にまで視線を向けてみるも、すでに隣のクロスシートはもぬけの殻である。



「ねぇ答えてよオズ君……しーちゃんも女乃君も、何か答えてよ」



歩み寄ろうとするほどに、彼らの視線は天敵から逃げる小魚の如く、どこか遠くへ向かっていく。



ワタシは現世でとうに死んでいるんだ。こんなことを思い悩む必要なんか、これっぽっちもないんだ。



幾度となく我が存在を無へ引きずり込もうとする何かが、意識の何処かで今も生き続けていることを久方ぶりに思い出した、その直後のこと。



「なっちゃん、あのね」



最初にワタシの方へ戻って来てくれたのは、紫月だった。最も答えて欲しくなかった彼女から話しかけられ、頭の後ろをビリビリと不快な感覚に見舞われる。



「しーちゃんが目覚めないのはワタシの……ワタシの所為なの?」



紫月は、微塵の迷いもなく頷いた。



「そんな、嘘でしょ……」



確と見定める紫月の表情は、冷たくも温かくもなかった。



病院の屋上で紫月が口にしたことを信じ切っていたワタシは裏切られたというより、彼女の嘘が理解できないという気持ちで一杯になっていた。



「だけど、直接の原因は尾上さんじゃない」

「へ?」



女乃が突如、事情を総て知った風に口を利かせるので、腹に力が籠らず間抜けな声を出してしまったワタシ。



真横で剥製のように固まっていたオズの方へと首を捻り、女乃は静かに続ける。



「あれは事故……だったそうだね、トオジ?」

「おぅ」



オズは女乃の方を振り返ることなく、声だけで返事をする。



ワタシも女乃に続き、怠惰な黒猫に確認を取るように話しかけた。



「オズ君は、全部、知ってるんだね」



オズはいつしか二人で歩いた暗闇を思い出すように、気だるそうに尻尾をゆらゆらとさせながら、金と銀のオッドアイをこちらに何となく向けた。



「良いんだな、洗いざらい吐いちまって」



首を縦に振ろうとした直前、目の前に紫月の手が伸びてワタシを固まらせた。



「……待って」

「しーちゃん?」



彼女の方に視線を向き直すと、紫月は大きな二つの瞳を艶めかせ、引き締まった表情で言った。



「アタシから直接、なっちゃんに伝えたいの」



彼女に根負けしたのか定かではないものの、オズはピンクの鼻を軽く鳴らし、車窓の方に視線を持って行きながら答える。



「なら頼んたぜ」

「うんっ。なっちゃん、目を瞑って」

「わ、わかった」



突然の指示に慌てふためく暇もなく、ワタシは素直に瞼を下ろした。



瞼の裏に焼き付く光をしばし感じながら、目の前がたちまち黒一色の景色に変わっていく。



「そのまま、ね」



目を閉じたワタシの視界は、夜明けを早回しするように真っ暗闇から次第に灰色へと変わっていく。この時点で目を開けようと思っても、瞼の上下が縫い付けられたようにくっついてしまい、叶わなかった。



やがて手足の感覚が薄れていき、首から上だけの感覚になる。その後、雲に覆われたような灰色の視界は風に運ばれる砂塵の如く横へ横へと流れていき、気が付けば濃い空色へと変わっていった。



いつもの流れだとワタシは一旦意識を失い、目覚めた先の〝夢〟の中で自由に行動ができていた。



ところが此度は事情が違うようで、端的に言えば「金縛り」にあっていた。目を閉じたままもう一人の自分に操られるような文字通りの夢を今、ワタシは見ている。



再び両目が明く時まで、事の成り行きを語る役目は、彼女にしばし任せることにした。




      ✡




アタシがあの子と出会って、今日でちょうど二年が経つ。



思い返せば早いものだ。歩けぬ身で無為な時を過ごす筈だったアタシは、あの子に足代わりとなってもらい、生まれ育った街を新鮮な気持ちで巡ることができたからだ。



時には主治医の反対もあったが、あの子がいつも手助けしてくれた。何故かは知らないがアタシの腫瘍を取り除いてくれた恩人たる医師は、あの子に頭が上がらないらしい。



医師の名前は尾上トオジ、あの子の名前は、尾上なち。



二月も半ばを過ぎて寒さ和らぐ頃、なちと初めて出会った時は心底驚いた。何を話すにしても言葉乏しく、無感動で無関心という第一印象を中々拭うことができなかったからだ。



肌身離さず持ち歩くタロットカードだけが、あの子に近づくための最良で唯一の手段だった。こんな不遇の身ゆえに占いなぞ信じるものか、と頑なだったアタシにとってタロットカードを使った占いは新鮮で、むしろ自らあの子に学ぶほど夢中になった。



それが功を奏したのか、あの子の口数は日に日に増えていった。あんな性格で学校でちゃんとやれているのかと親心よろしく心配する日も少なくなかった。それも心配無用となり、アタシが人工透析を受ける日は決まって病室まで来てくれて、学校での土産話に花咲かせてくれた。



時を重ねて段々打ち解けるうち、あの子はアタシと根っこが似ている気がした。



ある日、いつも通りに人工透析を終えると、病室の入口であの子―――なちが待っていた。アタシが笑顔で応えると、なちは鉄仮面のまま右手を肩の辺りまで持ち上げ、簡単な挨拶を済ませる。



いつものように外で話がしたくて、アタシは尾上総合病院の屋上へと続くスロープ坂を乗り越えるため、車椅子の手押し部分になちの両手が添えられる。



何度もして貰っているはずなのに、今日のなちはいつもより力強くアタシの背中を押している。言葉に出すのは「ありがとね」の一言だけで、十分だった。



「うわ、風つよっ」



屋内と外部を隔てる引き戸をずらした途端、なちは開口一番にそう言った。



毎日なちに結って貰っているツインテールを風に遊ばせながら、アタシは能天気に空を斜めに見上げて声を漏らす。



「今日は春一番だからねぇ」

「二月も下旬だし、暖かくなってきたよね」



車椅子のアタシを屋上へと完全に押し出し、強風でガタガタ揺れる引き戸を閉じながら、なちは当たり障りのない返事をする。



「こんなに風があると、ちょっと怖いかも」

「戻った方がいいんじゃない?」



なちの方を見上げ、か弱い素振りをするアタシ。流石に二年も顔を合わせているからか、あっさり見透かされて撤退を勧められる。



車椅子の取っ手を通し、身体が意に反して後退していくのを瞬時に認識したアタシは、頭部をブンブンと振って力の限り抵抗する。



「だぁめ、押して押して」



なちはアタシに甘い子だ。溜め息こそつくものの結局は車椅子をゆっくりと前進させ、テニスコート四面分すっぽり収まりそうな、費用の掛かったアスファルトの上を歩いて行く。



風は依然として強く吹きすさぶものの、立ち止まってしまう程ではなさそうだ。アタシの一番心地良いと感じる速度で、なちは今日も車椅子を押してくれている。



次第に気分が乗ってきたアタシは、春めく陽気に身を委ねつつ鼻歌で『さくらさくら』を唄い上げる。なちは車椅子を変わらぬペースで押し続けながら、アタシがひとしきり唄い終わるまで、しっぽり聞き入っていた。



「しーちゃんが唄うと色っぽいね」

「お粗末様です」



鼻歌を満足げに終えたアタシが酔いしれる中、なちはもう数メートル進むと車椅子を押す速度を緩め、屋上のふちからあと二メートル程のところでピタリと足を止めた。



「ねぇ、もっと端っこまで行こうよ」

「危ないよ」

「こういう日だからじゃないと見れない景色もあるでしょ」

「そうだけど」



なちが迷う素振りを見せようが、お構いなし。身体を少し捻じり、片手をそっとなちの手の上に乗せてあげると、たちまち困った顔をしてくれるからやめられない。



「しょうがないなぁ」

「持つべきものは、なっちゃんだね」

「今回だけだよ」

「はぁい」



なちは車椅子の取っ手に力を込め、アタシを乗せながらゆるりと前進していく。およそ十秒かけて屋上の縁へたどり着いたアタシ達は、花粉か何かで若干黄ばんだ空模様が気になっていた。



「う~ん、埃っぽいね」

「そうだねぇ」



なちは淡々としながらアタシに同意する。別にそれで構わない。



決して快適と言えない屋上の向こうから、白い無数の何かがひらめきながらこちらに向かってくる様子を、アタシはすぐに察知する。



遠くの山肌は、すでに薄赤く染まり始めていた。



「あっ、あれ見て。桜の花びらじゃない?」

「本当だ、綺麗」



なちは再び淡々とアタシに同意する。別にそれで構わない。



「ね、屋上来て正解だったでしょ」

「かもね」



なちは三度淡々とアタシに同意する。別にそれで構わない。



「そこは素直に認めてよ、未来の占星術師なっちゃんセンセ」

「その前書きは余計だってば」



なちは淡々と拗ねてみせる。予想通りの反応だからこそ面白い。



豪快な花吹雪を前に、二人はしばし黙り込む。耳元の風切り音のほかに、目下を走る青田線の列車がレールを通過する音なども、この静寂だからこそ良く聞こえていた。



列車の輪郭が線から点になっていく頃、アタシは前を向いたままでなちに話しかける。



「アタシね、こんな身体だから考えて見たことがあるの」

「へぇ、聞かせてよ」

「夢の中だと昔みたいに立って歩けるのは何でだろうって」

「面白そうだね、その話」



なちにしては珍しい反応だったと思う。嬉しくなったアタシは車椅子の車輪脇にあるハンドリムの片方を握り、なちのいる方へ方向転換しようとする。



その必要はないと言わんばかりに、なちはアタシのすぐ横まで移動してくれた。ありがと、と照れ臭く言った後、目線を合わさずに遠くを見ながら話しを続ける。



「病院の人達、忙しいからって真剣に聞いてくれないの」

「多分、しーちゃんの脳味噌が関係してるんじゃない?」

「夢の中で脳がアタシの両足に歩け歩け~、って信号を送り続けてるのかな」



アタシが動かない両足の替わりに上半身を左右に揺らしながら話すと、なちは「夢の中ならあり得るかも」と抑揚なく答えた。



「でも現実だとそうはならないんだよね」

「そうなの。変だよねぇ」



身体を左右に揺らす勢いを弱めていき、止まったところでなちを横目でちらりと見ると、どうやら真剣に考え込んでいるようだった。



風に運ばれた一枚の花びらが顔の横を撫でていった後、なちはアタシの方をゆっくりと向いてから淡々と答えた。



「もしかして……明晰夢ってやつじゃないかな」

「めいせきむ?」

「自分は今夢の中にいる、って自覚できる夢だよ」



知識の数でいえば、なちはアタシよりずっと物知りだ。だからといって覚えたての知識をひけらかすような幼稚さはなく、空気を読んで小出ししてくれるので、変な所で大人びているなあと思う。



「あ、それ何か分かる。アタシ夢を見てるとよくそうなるもん」

「すごい、ワタシはすぐ夢から醒めちゃうのに」



声色だけでなく、こちらに顔をしっかり向けて答えるなち。表情は未だ乏しいものの、退屈そうな雰囲気は全然出していなかった。



「納得できた。なっちゃんありがとう」

「こっちこそ」



上半身を浮かせたアタシを見て、なちの両目が微かに細くなるのが見えた。こんなに好意的ななちの反応は、偶然ではないようだ。



嬉しい事は確かだが、なちの言う明晰夢に改めて思い当たる節があったため、目線を一度遠くの山へと戻す。両目を閉じて夢の中にいるイメージを作り、アタシの隣で風に吹かれるなちを感じながら、明晰夢を見る上での悩みを告白してみた。



「でも夢の中で歩くって言ってもね、いつも真っ暗闇なの。自分の手足が見えないくらい真っ暗で、どこか平らな場所に両足を着けて歩いている感覚しかしないの」

「いつもどのあたりで目が覚めるの」

「夢の中を歩いてるとね、だんだん腰の辺りがズキズキ痛んでくるの。それでどんどん足取りも悪くなってその場に疼くまる頃にはもう、目が覚めてるの」

「え、思ったより楽しくない夢なんだ」



なちは抑揚を殆ど付けず、やはり淡々と感想を漏らした。



時折こんな率直な感想を口にするのが、玉に瑕というもの。表情が薄いせいで冗談なのか本気なのか分からないことも多々あった。



「アタシだって好きて見てるわけじゃないよ」

「ごめん、変なこと言って」

「怒ってないから大丈夫」



溜め息を吐いて反論すると、なちは焦った様子で謝罪をした。



こちらから揺さぶりを掛けるとすぐ委縮するので、アタシの目には不器用に映っているだけかもしれない。



暫く口を休めていると、なちは話しかけて来なくなった。アタシに言われたことを引きずっているのかもしれない。



なちの元気がなくなることに比例して、屋上に吹き付ける風が少しだけ弱まったように感じる。こちらに向かって来る花びらの数も減ってきて、いつも通りの風景に戻りつつあった。



「……もしかしたらだけどさぁ」



静かにしていたなちは、唐突にアタシを見てそう言ってきた。今度は驚きに上半身を飛び上がらせ、慌てふためきながら返事をした。



「な、何?」

「しーちゃんの脳みそが痛みを全く感じなくなったら、夢の中でずっと歩けるんじゃない?」

「どうやってやるの、そんなの」



落ち着きが戻り切らないアタシはきわめて常識的に聞き返し、なちの答えを待った。するとなちは再び遠くを見直し、穏やかな春風に髪をなびかせてから、いつもの調子で答えた。



「ごめん、そこまでは考えてなかった」



期待はせずとも遣りきれない気持ちになったので、アタシは過去の経験からそれっぽい提案を持ちかけた。



「全身麻酔とか?」

「危なくないかな、それ」



アタシの提案を冗談と捉えているのか定かではないが、なちの反応が気になってしまい、もう一歩詰め寄ってみる。



「せめて腰回りだけでも麻酔すれば行けるかな」

「でも脊髄の神経って一回傷ついたら治らないんでしょ。そこまでして歩きたいの?」



麻酔に頼るなんてもっての外だが、なちはアタシの話を真面目に聞いてくれていたようだ。嬉しい事ではあるのだが、自由に歩けない自分が改めて嫌になりそうだった。



こちらを見つめる視線を振り切り、自分の手元に視線を落としてから、アタシは傍らの友人に請うように呟いた。



「……歩きたいよ」

「しーちゃん……」



淋しそうに呟き返したなちが一歩、アタシの方に寄って来るのが見えた。拒まずに受け入れるとなちは無言で身体を屈め、アタシの傍で体育座りの恰好になる。



なちを見下ろす立場に変わり、可笑しな気分になりながら今の心情を吐露する。



「アタシ、家族や病院の先生の前では諦めてるフリしてるけどね、歩きたいに決まってるじゃん。時間が経てば考えも変わるかもしれないけど、みんなに迷惑ばっかし掛けるのは嫌なの」

「何か、トオジお兄ちゃんに掛け合ってみようか」



座り込むなちが、こちらを見上げて言った。アタシはツインテールの髪を何度か揺らしながら、即座に回答した。



「やめて、トオジさんには言わないで。命の恩人なんだから」

「分かった」



なちは、ただ短くそう答えた。



屋上の風は、今日初めて来たときよりも大分治まって来た。春の嵐が止むには早いので、小休止に入ったところだろう。



さっきまでいい景色が見れて満足しているアタシは、なちに病室へ戻ろうと声を掛けようとした。



「しーちゃんは学校の先生になりたいんだっけ?」



ところがすんでのところで、思わぬ問い掛けに阻まれてしまう。さっぱり悪気のない双眸が、むしろ興味深そうにアタシを確と捉えていた。



調子が狂いつつも、いつもこちらの愚痴ばかり聞かされていることもあり、快く話に付き合うことにした。



「うん。ちゃんと立って歩けたらね」

「車椅子使ってでも、先生にはなれるよね?」

「それだと周りに迷惑かけちゃうから、絶対ヤダ」

「それじゃあ一生かかってもなれないよ?」

「だからアタシの夢なの」

「理解が追い付かないです」



なちがこれまた珍しく、眉間に皺を寄せている。悩んでいる時によく見られる、後頭部をボリボリと掻く仕草も付いてきた。



長時間考えさせるのは可哀想だったので、キリのいい所で解説を入れてあげた。



「夢は叶えるためにある、ってよく言うけどね。例えばフランスに行って本場のフレンチを食べたいとか、やろうと思えば叶う夢って人生で一つの目標だよね」

「あ、それなら分かる」

「でもそれだと、叶っちゃったら御仕舞いでしょ」

「うん、確かに」



頭を何度も動かし、非常に納得した様子のなち。勢いに乗ったまま、自分の夢を語っていった。



「アタシが言う『学校の先生になりたい』ってのも一つの目標だけど、ただの通過点なの。先生になれたら次は理想の先生をイメージする。そうやってスタートとゴールを繰り返し決めていくの」

「プロのアスリートみたいだね」

「そのイメージだよ」

「たまに幼稚園児が『消防車になりたい』とかめちゃくちゃなこと言うのは? 消防士さんじゃないのかって、突っ込みたくなるようなやつ」



返答に困る質問であったため、アタシは少々悩んでから自分の意見を述べた。



「子供の言うことだから理解できないって決めつけちゃ、ダメだと思うな」

「消防車みたいに頭の上でランプをクルクル光らせたり、口からドバーって水が沢山勢いよく出せるわけないでしょ、みたいに?」

「そうそう。年を重ねて大きくなれば、いつかは自分が消防車にはなれないって気づく時が来る。遅かれ早かれ、ね」



言ってみたあとで、お前はもう大人になったのかと突っ込まれる覚悟はあった。なちはというと相も変わらず頷くだけで、口に出す事すらなかった。



無駄な体力を消耗した気がして、車椅子の背もたれに頭を預けていると、なちは小首を傾げながら純粋な眼差しで聞いてくるのだった。



「しーちゃん的理想の先生は、立って歩ける先生なの?」

「うん。でも叶えることはできない」

「それでも諦めたくはないんだよね」



頭を起こし、強く首肯するアタシ。



なちの居る方へ身体を捻ると、心の中で燻ぶっていたもの全てを燃やさんばかりに声を張って伝える。



「アタシね、夢を途中で変えるのは全然恥ずかしくないって思ってる」

「夢が叶わないって分かったら、普通、変えたくなるもんね」

「だからアタシ、〝夢〟の中でこそ理想の先生になりたいの」

「えっ、それでいいんだ?」



なちは瞳孔をわずかに拡大させ、驚いた様子を見せた。



アタシは得意げに笑ってから、両目を閉じて理想の教師になったつもりで答えた。



「いいの。今はまだ暗闇の中でしか歩けてないけど、いつかは現実と同じように教室があって、沢山の教え子の前で授業したり、悩みを聞いてあげたりできる先生になれるって、信じてるの」

「そっか」



素っ気ない返事をする友達。それでもアタシは嬉しく思った。



一方、なちに対してへそ曲がりな態度で接してみる。



「……馬鹿にしてる?」

「してないよ。立派だなぁって思った」

「やっぱりしてるでしょ」

「だからしてないってば」



不機嫌そうな顔を前にしても、アタシにはお見通しだ。



なちはあえなく降参して舌をチョロッと出したので、吹き出してしまった。あの子がどんなにぶっきらぼうでも、喜怒哀楽を見せる瞬間はいつでも心に刺さって来るのだ。



「あのね、なっちゃん」

「なぁに?」



それでも容易くブレないのがなちという人間だ。気が付けばいつもの淡白な顔つきに戻り、アタシの様子を伺っていた。



捻じっていた上体を正面に戻し、気になることを遠慮がちに訊いてみる。



「今じゃなくてもいいんだけどね、いつかアタシに……」

「しーちゃんに?」

「なっちゃんが()()に来るまでのこと、話してほしいな」



頼み込んではみたものの、やはり乗り気ではないようだった。



二人で居るには広すぎるこの屋上に、何度目かの静寂が通り過ぎていく。



なちが宙に視線を泳がせている様がはっきり見て取れたので、意図的に間を開けてから答えた。



「ごめん、まだ気持ちの整理がついてなくて」

「今すぐじゃなくていいから」

「いつか、ね」



このやり取りも何十回と繰り返して、一度も上手くいく試しがなかった。向こうから何かしら意思表示をしてくれれば潔く諦めることもできたのに、なちは決まって答えを先延ばしにする。



喧騒から程遠い心地よい静けさの中で、深呼吸を一つ。すると、至極単純なアイデアが頭の中に浮かび上がってきた。



大人しくなったなちの方へ再び身体を捩り、迷いを殺した声でもう一度訊ねてみる。



「その代わり、なっちゃんの未来が知りたいな」



なちは首から上だけを回転させ、キョトンとした顔でこちらを凝視していた。



「ワタシの?」

「なっちゃんは、どんな占い師になりたいの」

「どんな、って言われてもなぁ」



少々乱暴な聞き方をしたと思い、アタシは反省のつもりで先の質問の補足をする。



「例えば的中率99%とか、インパクトある肩書きを持つ占い師とか、かっこいいよね」



なちは視線を外すように首を前に曲げ、うぅん、と小さく唸りながら考え込んでいる。それから、十秒としないうちに答えが返ってきた。



「逆に胡散臭いよ」

「でもお客さんだって将来に不安があるんだから、ちょっとでも信用できる占い師に占ってもらうんでしょ」



話しは聞くが、目を合わせてくれないなち。長い付き合いの中で、それほど不機嫌でない時の態度だとすぐに気付いた。



「確かにそうだけど……」

「だけど?」

「占いはあくまで結果に過ぎないし、結果から今後どうやって行動しようか、お客さんの悩みをちゃんと聞いて、的確なアドバイスをしてあげられるようになりたい……かな」



とんでもない答えを出してくるかと思いきや、想定内のものだったので、今度はアタシがキョトンとなってしまいそうだった。



一呼吸おいて納得が行ったので、声を濁らせずに返事をする。



「当たり前だけど、難しそうだね」

「うん、きっと難しい」



なちからの同意に安堵するアタシ。



「なっちゃんの考え、アタシのなりたい先生と似てるかも」

「そうかな?」



控え目に聞き返すなちに、アタシは「そうだよ」と即答してやる。



「例えばさ、一年だけ嫌な仕事を担当すれば死ぬまで面倒見ますよって言われたら、殆どの人は乗り切れる思う。だけど現実は逆さまで、割に合わない仕事を何年何十年って続けて、死ぬまで安泰かも分からない……ってトオジさんが言ってた」

「トオジお兄ちゃんも、病院の先生だしね」

「アタシの腫瘍を綺麗にできるくらい凄腕なのに、可笑しいよね」



トオジさんは有能ゆえに日々多忙で、まともに話が出来たのは腰の腫瘍摘出手術が終わって、麻酔から醒めて最初の検診の時だけだった。



調子はどうだとか、痛むところはないかとか、最初はありきたりな事しか聞いてこなかった。アタシが自分の今後をどうしたらいいか悩みふけっていることを打ち明けたら、トオジさんは「俺だってつれぇんだ」と漏らした。



トオジさんは働き盛りの今も独身で、結婚も諦めたという。人生やり直せるなら中学生くらいまで戻りたい、と言っていた。医師ではない全く別の進路で人並みに明るい家庭を築きたい、とのことだ。



人並みだなんてらしくない言葉を使う、とその時は軽く受け止めていた。ところが時間が経つにつれ、手術で歩けなくなった自分の無力さ口惜しさに苛立っていた時、トオジさんの苦しみを理解し、痛感せざるを得なかった。



トオジさんがなちを初めて病室に通してくれた時、まさか彼に隠し子がいたのかと裏切られた気分にさせられたのはここだけの話だ。なちはアタシと同級生なこともあり、第一印象と相まって、しばらくは傍にいて欲しくない日が続いていた。



だが、なちがアタシの話を黙って聞いてくれることが心地よく、今ではどのクラスメイトよりもお喋りできている。面と向かって感謝の言葉を伝えるのは、まだまだこっぱずかしくて叶わないが。



少しだけ、風が強く吹き返して来た。



なちはアタシと目を合わさず、見えない何かを見るような険しい顔つきで言った。



「苦しい思いをしながら働く人、何年経っても消えないかもね」

「だからこそ、迷える人に夢を持たせてあげるのも、立派な夢だと思わない?」



なちからの返事はない。アタシの声が横風に攫われ、なちの耳にうまく届かなかったのだろうか。



自らの意見を押し付けるようで、悪い気分にさせてしまったかもしれない。アタシが口にしたことは、なちがとうの昔に気づいていたかもしれない。会話が弾むときほど、なちが傷つきやすい子だということを忘れてしまう。



何を言おうか内心慌ただしくなっているところ、なちの視線は折り曲げた自分の膝に移り、数秒経ってようやくこちらを向いた時には、何かを諦めたような顔をしていた。



「当たり障りのないことを言って納得させる方が、現実的かな」



遅れてやってきた答えは、アタシでさえも納得しかける素直なものだった。



嗚呼、これでは駄目だ。



頭を振ってツインテールを鞭のようにしならせ、アタシはなちを叱りつけるように言い放った。



「そんな占い師になったら、アタシ泣いちゃうよ?」

「冗談だってば」



なちはそう言い終えた後に視線を逸らし、くふっ、と咳き込むように笑った。初めて見聞きする仕草ではないにせよ、稲光の後の轟音のような独特の間があったせいで心底驚いている。



こちらも少々を間を置いて考えると、何を言ってやるべきかは自明だった。



「今の笑い方、トオジさんそっくり」

「確かにっ」



からかってやると、なちはまたもくふっ、くふっと笑い出した。



アタシはなちが上手く笑えないことを知っている。



だからこそなちが「くふっ」と笑う時は、心の底から楽しいんだと思うことにした。なちは長いことトオジさんを慕っているし、トオジさんはなちをアタシの善き遊び相手として感謝していると言った。



感謝されるほどのことをしたつもりは、これっぽっちもない。二人に礼を伝えるべきは、むしろこのアタシなのだ。



「じゃあさ、占ってあげよっか」



なちはそう言うと上半身に勢いをつけ、床面に付けていた尻をヒョイと浮かせて立ち上がった。



「占う? アタシのこと?」

「これからしーちゃんが、自分自身とどう向き合っていくのかをね」



こちらを見つめるなちの両目は、太陽に負けじとやる気に満ちて爛々と輝いている。まるで野良猫のように、気まぐれに振る舞っているようにも見えた。



「タロット、部屋に置きっぱなしじゃ……」



なちは少しだけ口角を吊り上げながら制服のポケットに右手を差し込むと、六芒星の描かれた背黒のカードを束にして滑らかに取り出し、アタシに見せつけた。



「持ってきちゃった」

「いつの間に」



一見するとタロットはアタシの持ち物のようだが、実はなちの物だ。なちが遊びに来た時にいつでも占ってもらえるよう、タロットは病室の枕元に整えて置くことにしているのだ。



アタシはちょっぴり呆れてみせた後、なちの熱い思いに応えることにした。



「今日は風も出てるし、シンプルに一枚だけで占うね」

「うん」



アタシは頷きながらハンドリムの片方を握り、車椅子をおよそ九〇度旋回させ、なちと向き合う形をとった。



「しーちゃんの好きなタイミングで合図してね」

「お願いします」



返事をすると、なちは両手でゆっくりとタロットの束を切り混ぜていった。自分の呼吸二つ分くらいのゆったりした間を置いてからストップと口に出した。



なちの両手はタロットの束を包み込みながら、アタシの胸元までそっと持ってくる。うっかり風に飛ばされぬよう、なちは一番上のタロットをギリギリめくれるほどに両手を持ち替えた。



「どうぞ、裏返してみて」

「うん」



なちは静かに、されども心躍るようにアタシを促してくる。快く返事をして、なちの方へと手を伸ばす。



いつもの遊び、いつもの日常。アタシとなちの濃密な時間。裏返されたタロットをめくるこの瞬間が、たまらなく心地よい。



鼓動の激しくなる心臓を御するように、か細い自分の指先をカードの上に乗せ、感触をじっくりと確かめる。



決して急かすことのないなちの優しさは、アタシだけが知っているのだ。



「おめぇら何やってやがる!」

「トオジさん⁉」



屋上に轟いた怒声が、時の流れを変えていく。



眠るように動かなかった二人は、声のする方へと意識を持っていかれる。



直後、身体の横から、物凄い勢いで温かい空気の塊がぶつかってくる。まさに春の嵐と呼ぶにふさわしい、全てを巻き上げていく突風だった。



「あっ⁉」



なちが叫んだ頃、両手に乗せたタロット達は持ち主から引き剥がされるように、容易く風に運ばれていった。アタシがめくるはずだった一枚は、すでにどれだか見分けが付かなくなってしまった。



それだけではない。なちは屋上の縁へと足を掛け、宙を舞うタロットを掴もうと、屋上から跳び出さん勢いで身を乗り出していた。



無茶をしているのは明らかで、案の定、なちは屋上から転落しそうになっていた。



「だめっ、なっちゃん」



火事場の馬鹿力なのかアタシの両足に一瞬力がこもり、なちの腰回りに抱き着くようにして、転落を阻止していた。



「ぐっ……う」

「アタシだけじゃ、むりぃ」



ワナワナと震え出す自分の両腕。なちの上半身は空中に躍り出し、そして、片手には一枚のタロットが握られていた。あいにく、絵柄を確認することはできなかった。



「今行くからじっとしてろ!」



トオジさんが、風をも追い越す勢いでこちらへ駆けつけてくる。しかし、ひとたび狂い出した歯車はもう、二度と噛み合うことはなかった。



両腕が痺れて来るにつれ、互いの制服から衣擦れの音が大きくなっていく。体内時計の秒針は脱進機を外れ、加速していく時間は目の前の現実をスローモーションにさせていく。



「もう、だめっ」

「しーちゃん、これ……」



絶体絶命だというこのタイミングで、ほぼ逆さ吊りのなちはアタシの顔の前まで腕を曲げ、手に持ったタロットを見せてくる。不都合にも日の光が反射して絵柄をぼんやりとしか捉えられず、正位置か逆位置かすら判別できなかった。



だからアタシは、自分の望む絵柄が出たのだと思うようにした。



「お、おいっ……」



トオジさんが車椅子の近くまで辿り着く。だが、彼の思い通りになる筈もなかった。



アタシの両足は屋上から一挙に離れていき、数秒遅れてトオジさんの手が空を掴む。



アタシはなちにしがみついたまま、真っ逆さまに落ちていく。



みるみる遠ざかっていく屋上から、逆光に翳るトオジさんの顔が見える。驚いてるような、呆然とするような、しかめっ面のような、どんな風にも取れる不思議な表情だった。



腫瘍の摘出手術以来、まじまじと見たトオジさんの顔は、まるで強面の黒猫そっくりだった。



なちは落下の加速力に逆らい空中で器用に身を丸めると、間もなく迫り来る地面との激突から護るように、アタシの頭をギュッと抱え込んだ。



何も見えなくなったアタシは、冷えた空気となちの温もりを交互に感じ取りながら、重力という名の凶器にこの身全てを預けた。



心に余裕が少し生まれた瞬間、アタシの身体は前後に強く揺さぶられ、首元あたりで鈍い音が続き、意識が瞬く間に世界と切り離された。





アタシという存在は、その時から白い輝きを隠すようになった。



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