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線路と暗闇の狭間にて  作者: にのまえ龍一
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終わる〝夢〟

〈注意!〉文字数が約45,000字と多いので、適度に休憩を挟んでお読みになってください。























 奥井と金森が両開きの扉を片方ずつ開き、屋上の床に一歩足を踏み出すと、暗黒に閉ざされた視界を覆い尽くすほどの死人たちで溢れかえっていた。



 二人がすぐにワタシの前に躍り出て迎え撃つ体勢を取るが、死人たちは虚ろな目をこちらに向けるだけで、襲って来る気配はない。彼ら一人ひとりの顔をじっくりと見渡してみて、病室での直感が正しいと分かった。



 背の広いがっしりした男性、赤ん坊の横で幸せそうに横たわっていた母親―――ここにいるのは皆、あの事故で命を落とした人達だ。ワタシ自身もこの中に混じっていてもおかしくはない。よしんば生ける〈ワタシ〉が死せるワタシに出会うことになろうものなら、ゾッとするどころでは済まされない。



「やっと来てくれたね……尾上なち」



 頭の中で、あの〈声〉がした。やはり彼だった。



 真っ直ぐ見据えた視線の先、息も凍るほど幽玄で禍々しい金環の下、屋上の縁で佇む一匹の白猫。またの名を、女乃愛人。最早その名すら怪しい、謎めいた一個の存在。



 彼が〈声〉を発し終えて間もなく、屋上に湛えられた死人の海が彼とワタシを繋ぐ直線に沿って二つに割れた。ワタシは先導する〝恋人〟たちと共に無言で前進した。悦びとも哀しみとも取れる喘ぎ声で、死人たちの無秩序な輪唱が聞こえてくる。



「アンタ今まで何処行ってたの⁉」



 白猫と距離を保ちつつ、いつでも二人に対処してもらえる位置までやってきたワタシは、ざっくばらんに切り込んだ。



 対する彼は、済ました顔と〈声〉で答える。



「何処にも行ってないよ。最初から君と一緒さ」

「こんなふざけたことして、何が目的なの?」



 声に不快な感情が混ざり、今すぐでも彼を八つ裂きにしたい衝動に襲われる。

 白猫は大きく裂けた口をじわりと持ち上げ、〈声〉で答える。



「僕の奪われた時間、いや―――〝俺〟の時間を取り戻すのさ」



 わざわざ言い直してきたこの台詞により、ワタシは白猫の正体を見た。



「おい、あんたの一人芝居にもウンザリしてきたとこだぜ」

「俺達を気絶させたり女に変えたり、本当どうかしてるよ」



 白猫を非難して、彼と関わりがあったことを今一度主張する奥井と金森の二人。ワタシの予想はこれで、九分九厘確定したも同然だった。



 彼は頭上の金環を優雅に仰ぎ見る。



 恍惚の思いに身を浸した白猫は、長くゆっくりと息を吐いた。



「相容れぬ二つの物が一つに交わり合う……この世でもっとも単純明快で、これより美しい現象は他にないだろうねぇ。火と水、風と土、光と影、意識と無意識、男と女、プラスとマイナス。そして、夢と現実……太古の昔から決して混じり合えなかった多くの事物は、今こうして天に浮かぶ陰と陽の融合という完全なる存在を前にして憧れにも似た恐怖を抱くのさ」


「話が見えないんだけど」



 本能か無意識か区別もつかない心のどこかで、彼が危険な存在だと悟った。

 奥井と金森は押し黙って、ワタシの真横で死人たちに睨みを利かせている。



「僕はね、この〝夢〟の世界から抜け出したいってずっと願ってきた。君が暮らす本来の居場所で、僕は確かに生きた証を残してきた。でも僕が自分の人生に満足して死ねるには、時間が足りなさ過ぎたんだ。そこで僕は死を悟るずっと前から、肉体が死滅しても本人の意識だけを〝夢〟というカプセルに保存できないかと試行錯誤し、ある一つの結論に辿り着いた」



 笑みを止めない白猫が、頭をこちらに戻す。両隣の二人も一端、彼の方を向いた。



「それが君の持つタロットと、この日食さ」

「じゃあアンタはタロットと日食で、〝夢〟と現実を統一しようとでも言うの?」



 嘲ったつもりだったのに、彼の顔は変わらない。無意識に任せて左手がタロットのある場所を撫ででいたことに気づき、すぐに手を離す。



「その通り。タロットの完成に必要なファクターはこの場に出揃っている。あとはこの日食を利用して二つの世界を繋ぎ合わせ、俺は自由を取り戻すのさ」



 マリンブルーの目玉に吸い込まれた邪悪な光が、ワタシの心肝を一突きにする。



 日食が織り成す天上の王冠がなお一層の輝きを増し、対照的に白猫の肉体が足元から陰っていく。その間、ワタシのポケットに潜んでいたタロットが共鳴して光り出し、新たな一枚がまた完成していた。



 空からトランペットを吹く大天使が地上へと鋭い光を放ち、棺で眠っていた人間たちを次々と目覚めさせ、彼自身の存在を意識的に受け入れる様子が書き表されている、その一枚。



 タロットの二十番、カード名は『JUDGEMENT』。

 すなわち、〝審判〟。



「神はこの世の創造の始めに〈光あれ〉と言い、昼と夜を作った。二日目には空、三日目には大地と海を作り、植物を生み出した。四日目に太陽と月と星、五日目に魚と鳥、六日目には獣と家畜、そして神の模倣者である人を作った。創造を終えた神は一時の眠りにつき、その日を以て〝世界〟の完成を堂々宣言する」



 白猫が、漆黒に染まりきった。



 彼の身体が影絵の如く、輪郭を不気味に蠢かせて人の姿を作り終えると、バシュッという音がして黒きベールを片っ端から弾き飛ばした。



「―――この、尾上トオジの言葉を以ってなぁ!」 



 両脇で棒立ちしていた死人たちから「お、お、お」と野性的な喝采が上がる。



(尾上トオジ……ありえないよそんなの―――だって、だって、目の前にいるのはどう見たって白猫とか女乃君とかを騙ってきたあのひょろ長くて陰気臭そうな雰囲気出しまくってた×××であって―――小さい頃から色んな遊びを教えてもらって、遠くの場所にも沢山連れて行ってくれて美味しい物もいっぱい食べさせてもらった太陽みたいに明るくて元気で優しい頃の姿でもなくて――――――癌で真っ黒な肌になってまでまだ死ねないんだーって苦しそうに叫んでた姿とは全然違くって―――――――――どうして、どうして―――――――――――)



 分かってても、信じたくなかった。



 叫んで全てがうやむやになってくれれば、それでよかったのだ。




「どうしておじいちゃんが、こんなところで生きてるのよっ‼」




「あっはっは、驚いたろう。うんうん、俺も驚いているよ。十年近く見ない間に自分の孫娘がこんなにも立派に成長していたことにね」



 両腕を組みながら、得意そうな顔でワタシを見下ろす彼。



 おじいちゃんは死んだんだ。



 ワタシがこの目で、最後まで看取ってやったんだ。



「アンタ……誰なのよ?」

「俺は尾上トオジ、孫娘〝尾上なち〟の祖父だよ。ただし肉体は、二十歳前後の時のものを借りているからこの通りだけどね」



 痩躯を惜しげもなく広げ、金環の照らす下でポージングする彼。



 祖父が存命の頃には一緒に病院近くの公園で遊んでもらったことがあって、はしゃぎ回っていたワタシと同じぐらいのバイタリティを持っていたことが思い出された。だからこそ、目の前で凍った踊りを披露する彼を、祖父と同一の存在だと認めるわけにはいかない。



「嘘よ。アンタはおじいちゃんの名を騙った別人に決まってる」

「やはり信じてはくれないか、残念だなぁ」



 彼は大仰に両肩を下ろして項垂れる。

 だがすぐに姿勢を戻してワタシを見ながら言った。



「では折角だから、こうしようか」



 金環が再び大量の光を発し、指向性を持って彼へと降り注いだ。真っ黒に染まったシルエットがゆっくりと確実に輪郭を崩し、新たなカタチに構成されていく。光が止むと同時、シルエットを為していた薄皮は水風船を割ったみたいに弾け、中から現れたのは―――



(え……)



 ワタシのよく知る、生前の尾上トオジだった。



真っ黒なスーツの上からゆったりした白衣をまとい、伊達に年を重ねていない証明のように顔じゅうの皺と袖口から覗く皮の厚い手。拒絶しようにも、目の前にいる人間は細胞レベルでワタシの〈祖父〉だった。



「ほら、なちの知ってる私はここにいるよ?」



 容姿だけではなく、声もあの頃聞いたままの再現ぶり。冗談じゃない。



「認めないっ、アンタが〈アンタ〉である証拠はどこにあるっての⁉」

「あっはっは。なちの目と耳では私を〈私〉と認識できないのか。大層残念なことだな」



 当然だろう。こんな状況で易々と人の言うことが信じられるかってんだ。ワタシの視覚も聴覚もとっくに彼を祖父だと認めているが、〈ワタシ〉だけは頑なに否定してるのだから。



 たとえ五感全てが正しく働いたって、結果は同じだ。



「ならばこちらへきてみなさい。あの時みたいに高い高いをしてあげよう」



〈祖父〉が、両手を伸ばしてワタシを誘おうとする。彼の仕草は憎らしいほどに本人とそっくりだった。



「ふざけんなっ、誰が行くもんか!」

「はっは、嫌か。ならば子守歌の代わりに、私の身の上話でもするとしよう。母校の屋上で話したことだけでは、言葉が足らなかったからな」



〈祖父〉はその場でヨイショと腰を下ろした。まるで医者が患者の容体を問い尋ねるような格好になり、かつての記憶がはからずも浮かんできてしまう。



「尾上さん、騙されちゃダメだよ」

「あの野郎はきっと、最後まで何するか分からねぇだろうしな」



 心情を読まれた二人に、ワタシは「分かってる」とだけ答えた。



 両腕を膝に置き、前屈みになった祖父が口を開いた。



「私はな、子供のころから何でもできた。勉強や運動は当然、他人を喜ばせることだって呼吸とおんなじくらい楽にできた。確かこの話は〝夢〟の中でしたんだったな」

 


「でも子供だった私には将来叶えたい夢がなかった。周りの同級生は皆一流企業の看板部署だの新進気鋭のベンチャー企業だのと、明るく野望のある夢を描いていた。私はというと、高校を出るまで全く夢がなかった。だから大学受験も一度は失敗したのだろうな」



「あの時はなちに少し嘘をついてしまい、すまないと思っている。私は結局、飛び降り自殺なんか出来ずに、自分を奮い立たせて浪人することにしたんだ」



「人生の転機とも呼べる瞬間は、浪人生活を始めて半年ほどたった時だった。あの頃の私は上京していてな、東京の下町を歩くのを趣味としていた。そしてある日、とある裏路地でタロット占いをしていた一人の女性と出会った」



「彼女の持っていた独特の雰囲気に魅かれた私は、これを運命の出会いだと確信した。早速ワタシ自身についてを占ってもらうと、結果出たのは〝愚者〟だった。彼女は私が型にはまらない特別な才能を持っているとズバリ言ってくれた。そこで私は彼女に全幅の信頼を寄せ、彼女も私にその身を委ねてくれた」



「そこから私は一念発起して名門大学の医学部に合格したのち医師免許を取り、彼女と結婚した。彼女を気に入らなかった親とは疎遠になったが、そんなことは私にとって蚊の一刺しに過ぎなかった。そのうち私と彼女の間にも娘が生まれた。つまり、なちのお母さんだ」



「不幸は突然に起きた。娘を産んだ彼女はひどく体力を消耗してみるみる衰弱していき、一週間も経たないうちに亡くなった」



「途方に暮れた私は、残された娘を保育所に預けて本業の外科医に打ち込んだが、手術中に初めて医療事故を起こしてしまった。その時だろうな、人の命は肉体という乗り物でしか動かせないのかと疑問を抱いたのは」



「そしてある日、再び私に転機が訪れた。仕事から帰ってきた私は、すっかり大きくなった娘が、鍵の掛かった私の書斎から変な音がすると言ったんだ。もしやと思った私は、部屋に飾ってあった彼女との記念写真に近づいてみると、形見にしておいた彼女のタロットが不思議な光と共に鐘の音にも似た音を発していたんだ」



「おそるおそるタロットを手にした私は突如、脳内で明確に自分の肉体と意識が離れていく様を感じたんだ。幽体離脱とでも言えばいいだろうな。私の意識はそこで、この世にいるはずのない彼女と再び見えることができたんだ。彼女は相変わらず美しく、そして妖しかった」



「彼女は私にこう言った。貴方は死んでも生まれ変わる、だから自分は貴方がこの世で生きていられる内に精一杯手助けをすると。それだけを残して、彼女は消えてしまった。我に返った私は、彼女からの天啓に導かれたんだ」



「そこで私は動物の意識に関する知識を次々に吸収し、気が付けば神経科学や獣医学の知識さえも習得していた。その頃にはすでに、〈私〉という存在を保ったまま〝夢〟の世界を作り出すためには猫の肉体が適任という奇妙な結論にも辿り着いていた」



 かなりの時間を費やし語った〈祖父〉は、そこで一息ついた。



 何処を見るでもなく、〈祖父〉は浅く息を吸い込み、再び語り出した。




「運命の日は、娘の出産の日にやってきた。彼女が腹を痛めて産んだ子供は奇遇にも双子だった。しかし片方の子はすでに死んでいて、もう片方の子は無事だった。それが私の孫娘、なちだった」



 淀みなく吐き出される証言に、ワタシの意識は〈祖父〉へと一気に集中していく。



〈祖父〉の視線は夜空へと移り、今度は大きくため息をついた。



「しかし私の目的は、もう一方の死産した子の方だった。一度その亡骸を助産師に見せてもらった私は、霊安室の遺体保存場所を教えて貰った後大急ぎで保存されたばかりの赤子にまだ息があるかもしれないと嘘を吐き、霊安室からその子を出してもらった」



「いよいよ、私の〝夢〟への第一歩になる手術が始まった。保健所から拾ってきたオッドアイの黒い野良猫に死んだ子の脳髄と内臓を移植するという大手術だ。誰の侵入も許すまいと手術は私一人で決行し、丸半日は掛かったが、無事成功した」



「術後も男の子を身体を切り開いた跡は残さぬよう綿密に縫合し、結局火葬されるまで発覚することはなかった。そして、黒猫の方も眉間と腹に大きな傷跡は残してしまったが、数日も経てばピンピンとしていた。その黒猫こそが、なちの言うオズなんだよ」



 開いた口へ牡丹餅を入れ込まれたも同然のワタシ。前にいる奥井と金森も仰け反ってとばっちりを食らった顔になっているのかもしれない。



〈祖父〉は夜空へ向けていた視線を再び、ワタシ達の方へと戻した。



 底知れぬ緊張感と連動するように、〈祖父〉の顔が一層不気味にニヤついた。



 ワタシの足は、杭で打たれたように動かない。



「オズはとにかく従順だった。野良という肩書きが嘘のように完璧に飼いならせた。だからある日の夜、私はオズに私の夢の中に飛び込んで来いと命令した。すぐに床に就いてみると、オズは言葉通りに夢の中に現れた。しかもまったく予想外なことに、言葉まで喋り出すようになったんだ。文字通りオズは、猫の皮を被った人間になったんだよ」



「それから数年後、ちょうど私が還暦を迎えて三、四年だったかな。オズに孫娘の無意識の中へ飛び込んで来いという命令を出すと、もちろん従ってくれた。従ってくれたはいいんだが、何日経ってもオズは目覚めなかった。息があったから生きていることは分かったのだが、ある朝突然オズが肉体ごと消えていたんだ」



「しばらく家の中でパニックに陥っていた私だったが、折しも何年か振りに彼女は現れた。彼女は、オズが孫娘の心の奥に入り込んでしまったのだと説明してくれた。さらに彼女は、私の命がもうすぐ尽きてしまうことも告げた」



「だが、それも彼女からの天啓だった。私の体内に末期のすい臓がんが見つかる一か月前、ついに猫の身体に私自身の意識を共有させるというほとんど呪術めいた仕組みを発見した。初めは驚いたよ、でも彼女の言う通りだった。死ぬまでの準備は周到に行った」



「そしてとうとう私の命が尽きる日、娘の家族に看取られながら私は静かに息を引き取った。すぐさま私の意識は、新たに保健所から拾い受けた白猫へと転移した。猫に生まれ変わるなんて医者になる前は夢にも思ってなかったが、割と早く馴染んでくれた。一度は保健所に戻された私だったが、幸運にも飼い主が現れてくれたから食い物には困らなかった」



「ところが、不都合なことが起こっていた。度々飼い主の元を抜け出して自宅の様子を調べに行った私は、書斎に置いてあったタロットの一部が真っ白になっていることに気が付いた。またも焦った私だったが、彼女は待ちかねたように姿を現した。そして彼女は短く、時が来れば解決すると言った」



「それからおよそ一年経って、私はあっという間にオズと同じ能力を獲得し、さらにその一年後には〝夢〟の中で好きな姿に変身できることも可能になった。まったく、彼女はとんだ魔法使いだよ。オズの居場所を突き止めるのも時間の問題だった。なんとタロットの絵を消してしまったのはオズだったんだよ。それに、問い詰めたオズの口からはもう一つ、信じられないことを聞き出すことができた……」



〈祖父〉が答え出すより早く、私の胸は嫌な予感を察知した。またしても、左手がポケットの中へと入りそうになってしまう。



 おもむろに立ち上がった彼は、真正面の標的を視線で射抜き、躊躇なく言い放った。




「孫娘のなちが、あの時の事故で昏睡したまま今も眠っていることをな!」




 抱き続けた確信が今、現実に変わった。



 到底受け入れられぬ、悪夢のような現実が。



 ―――やはりワタシは、二年前から目覚めぬままだったのか。



「やがて〝夢〟の中で孫娘を探し当てた私は、オズが逃がしたタロットの一枚〝節制〟に描かれた天使『久池井紫月』を捕まえた。彼女には孫娘の友人としての仮の記憶を、お前に植え付けさせるよう命じた。そしてあの日……二〇一五年二月十四日未明、私自身が女乃愛人としてお前を私の〝夢〟に引きずり込んだのさ。それからはお前が見聞きしたこと全てが、お前にとっての真実だ」



「ワタシがあの後列車に乗り込んで、気が付いたら人の山に埋もれてたのも?」

 彼は口を閉じたまま笑い、何度も頷き返す。



「あれは現実の事故を模倣したのだ。それと、列車の一両目と二両目の境目でお前の手を掴んで引き寄せたのは〈紫月〉だ。あの時一緒にタロットも手渡しただろう。お前がオズと共に失われたタロットの絵柄を取り戻すためにな」



「そう。それじゃ、アンタの人生のどこが不満だっての?」



 ワタシがそう問うと、〈祖父〉はいささか顔を歪めた。機嫌を損ねたというより悲しそうな、あるいは残念そうな面持ちをしていた。



「満足な人生を送ったなんて、そう易々と口にできるものか。幸福は一瞬、苦痛は永遠だ。くどい言い回しだが、成し遂げたいことをするには余りにも時間が短すぎるのだ」



「成し遂げたいことって?」



 ワタシは呆れ半分で、またも〈祖父〉に問うた。



 彼は表情を変えず、ワタシに答えた。



「平たく言ってしまえば、不老不死だよ」

「それならもう、実現できてるんじゃないの。猫にも人にも化けられるんだもの」

「それはあくまでこの〝夢〟の中での話だ」

「ふぅん、そう」



 何も表情に出さず、ワタシはそう答えた。無意識のうちに、既にワタシは〈祖父〉を軽蔑していたのかもしれない。



「私は人として生まれ、人として死んだ。生まれ変わるならもちろん、人として生まれ変わりたい。私は生前、それを延々と続けられるような仕組みを、彼女の力を糧に作り上げることができたんだ」



「生まれ変わるって、いったい誰に? ワタシだって言いたいわけ?」



〈祖父〉は嬉しそうに笑い、穏やかな目をワタシに向けた。



 ワタシの知る祖父はどうして、かくも不実な人間だったと言えようか。



「ああそうだ。何故だか分かるか?」

「分かりたくもない」



 ワタシは勿体振って〈祖父〉の問い掛けを拒絶する。



〈祖父〉は笑顔を崩さず、ワタシの意思に構わず続けた。



「お前は今まで〝夢〟を見る中で男になったり、高い所から落ちて意識を失ったろう」

「それが何なの」

「疑問に思わないのか? 性別が変わっても何度死んでも、お前は〈お前〉として生き返りを果たしているではないか」



〈祖父〉の言うことは間違いなかった。



 間違いないというそれだけのことだ。



「何が言いたいの」

「お前の意識は必ずお前の肉体に戻ってくる。偶然、本当に偶然だが、お前は素晴らしい素質を備えていた」

「でもそれは今のワタシであって、ワタシ本体の素質じゃない。〈ワタシ〉がいくらワタシに戻ったって、ワタシがワタシ本体に戻らなきゃ意味ないじゃん」



〈祖父〉の持論を文字通りに捉え、ワタシは反論を試みる。



 彼は少し笑顔を崩し、ワタシを曖昧な視線を送った。



「言い方が悪かったな。お前の肉体にも同じ素質があったのだよ。私が求めていたのは意識が肉体から離れた時、他の誰かあるいは別の何かに意識が移ってしまわない、磁石の如く己の魂だけを吸い寄せる強い力を持った肉体を欲していたのだ」

「そんなのこじつけだよ」



 彼の言うことが心の奥底から理解できなかったワタシ。



〈祖父〉は鼻で笑い、ワタシの反抗的態度を受け流す。



「お前がそう思うならそうすればいい。お前の肉体に宿る魂がお前自身であるかのように自明な事だからな。しかしタロットの力をもってすれば、その法則を捻じ曲げることができる。お前の身体に〈私〉が入り込むことなど容易いのだよ」



「タロットが、アンタにどう作用するっての」



「私のタロットはいわば物言わぬ魔法の鏡だ。白雪姫に出てくる鏡のようにな。しかし童話の鏡と違ってこちらは従順だ。私が間もなく完成する一枚のタロットを使い、お前の身体をまるで鏡の向こうから引っ張り出すように……いや、鏡を挟んで〈私〉とお前の身体が溶け合うように一体化する力を持つ。そうして私はお前の身体を依り代に暫しの人生を謳歌する」



〈祖父〉は語りを続ける中で、×××の癖を真似るように両手を鏡合わせにしたり、グルングルンと大仰に動かしたりしていた。



 彼の一挙手一投足が、ワタシにはえらく癪に障った。



「そしてお前の肉体が活動を停止した時、私は〝夢〟の中へと意識を移し、お前と同じ体質を持った人間が出てくるまで息を潜めて待つのだ。私はとうに現世で肉体を持たぬ抜け殻だからな、〝夢〟と現世を繋ぐ架け橋となるのが、お前の持つタロットなのだよ」


「だったら抜け殻らしく〝夢〟の中で朽ち果てればいいのに」

「それでは意味がない! 〝夢〟と現世を行き来しなければ、釈迦の教えは理解できぬのだ」



 何と罰当たりな男だろう。歳を食った分、吐き出す戯言も聞くに堪えなかった。



〈祖父〉は前屈みに座った姿勢を崩し、両手を身体の横に突いてリラックスした格好になる。奇しくも、×××が母校の屋上で取っていた姿勢と同じであった。



 表情を柔らかくした〈祖父〉は、細くなった目でワタシを見て言った。



「もう一度聞こうか。お前には将来の夢があるか、なち?」

「ないよ、そんなの」



〈祖父〉の濁った愛情を跳ね返すように答えるワタシ。



 彼はニンマリとしながら、平和ぼけした長閑な声で言った。



「お前がまだ幼稚園に入る前は、私によくお医者さんになるって言ってたのになあ」

「覚えてないってば」

「無理もない。何故と聞いたら、おじいちゃんみたいなお医者さんになりたいから、と答えてくれたんだぞ。私の内面の善悪を抜きにしてな」



 信用の置けない相手に、ワタシは返事を拒否した。



〈祖父〉は残念そうに肩を落とすと、両脇に突いていた手を膝の方へ持って行った。



「まぁいい。当時のお前に善悪を問うのは無意味だからな」

「分かるわけないじゃん、そんなの」

「それでも人は成長するにつれ、物事の善し悪しが分かってくるだろう。ここでいう善悪は道徳的規準での見方、善と悪を対立させた構図だな。仮にだ、この世の人の行いがすべて善、もしくは悪だと定義すれば、道徳は必要か?」



〈祖父〉は本当に他愛のない議論が好きなようだ。



 一応彼の質問を聞き通していたワタシは、気だるげに答える。



「要らないんじゃないの」


「そうだな。相容れぬ二つのものは互いに対立してこその存在だ。二項対立という言葉もあるくらいだ。善と悪は天秤の上で釣り合うような関係だ。警察で溢れかえった世界、犯罪者で溢れかえった世界、どちらも住み心地は決してよろしくないだろう?」


「犯罪者だって、なりたくてなったわけじゃない」


「そうだな。あくまで善かれと思ってしたことが実は悪いことだった……知らなかったでは済まされぬことが世の中ごまんとある。そして間違いを犯した結果、法の裁きを受けるやもしれぬ。しかし間違いを犯したからといえ是即ち悪とみなすのは早計だ。肝要なのは、善悪のものさしの使い方だよ」



 ワタシは奥井と金森の方を見る。



 二人とも、ワタシの心情をつぶさに反映したような苦笑いを浮かべていた。



〈祖父〉は意気揚々と、鼻歌でも歌うように話を続けていく。



「私は外科医として名を馳せたつもりだ。手術に使うメスはな、刃先を素手でなぞるだけで容易く皮膚を切り裂くほどに鋭利だ。しかし一方で、患者の命を救うには欠かせない道具でもある……さて、言いたいことは分かったかな」



 言い終えて、〈祖父〉はワタシを確と見据える。



 両脇の死人の列は、無秩序ながらも規則だったように見え、まじまじと見ると本当に怖い。



 死んだ彼らを弔う訳ではないが、ワタシは答えを口にした。



「患者を生かすも殺すも自分の腕次第ってことでしょ」

「半分正解、といったところか」

「もう半分は何なの?」



 ワタシが訊ねると、彼はこれまでで最も真面目な顔をしながら言った。



「仮に手術が失敗し患者を死なせた或いは後遺症を残してしまった場合そこに善悪はあるか、そして責任を問われるのは誰かということだ」

「如何にも自分が、過去の過ちを認めるみたいな言い方ね」



 ワタシは、この自らの言葉を取り消したかった。



 待ちわびていたかのように、〈祖父〉の口が吊り上がった。



「もしも、お前の友人である久池井紫月が、誰かの医療ミスで後遺症を患ったとしたら……」



〈祖父〉が今の際に放った言葉を受け、鳥肌が立つ。



 やめてくれそれ以上言わないでほしいと、本能が疼き出す。



 彼は言葉に尽くせないほど、下衆だった。



「その責任は一体誰になるのだろうなあ」

「アンタって奴は……!」

「医療ミスは誰にでも起こり得る。私とて過去の失敗を引きずる時もある。さて、先の話の続きといこうか」



〈祖父〉はまた、前屈みの姿勢になった。



 あの恰好は実に不快な気分にさせられる。



「私が患者を手術中に死なせてしまった場合、責任の所在はどこか。それは十中八九、執刀医のワタシであろうな。患者の静脈を傷付け失血死させてしまった場合などは目も当てられん。では、私はこの場合悪とみなされるべきなのか。最善を尽くしたのに最悪の結果を招いてしまっては罰せられて当然だろうか。なちよ、どう思う」


「現場の状況と照らし合わせてみないと、正しく判断できないんじゃないの」


「一理あるな。しかしもっと根本的な、人間の心理に深く根付くものがあるはずだ」



 仰々しく胸に手を当て、回答を要求する〈祖父〉。



 いっそ情動のままに本音を言えたらいいのに、と思いながらワタシは答えた。



「人を殺すのが悪だっていう、思い込みでしょ」


「そうだ。信念、信仰ともいう。そうした信念、信仰が積み重なっていくと、いつか同じ信念を持つ者同士で真理へと変貌してしまうのだよ―――話が逸れてしまったな。結局、善悪は人の信念という色眼鏡でしか見えないものだ。人は自分の信じるものこそ正しいと思いながら生きている。そうしなければ後悔ばかりの空虚な人生になってしまうからな。他人に縋ったところで、それは自分が縋った他人の考えに賛同しているだけの人生だ」



 話しを止めた〈祖父〉が、ワタシだけでなく奥井や金森にも同意を促すように見てくる。



 独りよがりなのは明白だし、理解できても賛成の手を挙げる筈がなかった。



〈祖父〉は残念そうに息を吐いた後、ケロッとした顔でワタシを見直した。



「孫娘なちよ。タロットの〝天使〟は、お前の目には友人の久池井紫月として映っているのだろ?」



 言葉にさえ出さず、自分に言い聞かせるように重く、深く頷くワタシ。



 ワタシはすでに〈紫月〉を理解している。



 ワタシの信じる〈紫月〉は見えなくたってここに居る。



 たとえ一時の迷いがあったとしても、過去を否定しては駄目だ。



 今ここで信念を曲げれば、ワタシは〈ワタシ〉を殺すことになる。



〈紫月〉のおかげでワタシはここまで来れたんだ。信じる心は最後まで見失っちゃダメなんだ。



「じゃあ、アンタは自分のしてる行為が善悪どっちだって自覚はあるの?」



 自信を込めてワタシは〈祖父〉に言った。



 それを聞いた彼は、顔をニタァと歪ませた。



「忘れたか? ここは私の〝夢〟だ。私が善と云えば善、悪と云えば悪なのだよ」



 嫌になるくらい、〈祖父〉はぶれない心の持ち主だった。



 賛辞の意を込め、ワタシは捨て台詞を吐かせてもらった。



「アンタの魂はきっと、どこにも辿り着かずに消えてなくなるよ」

「消える、か」



 そう独りごちた〈祖父〉がフフ、と笑いだす。



「何がおかしいの」


「いや、消えたりはしない。魂の行きつく先を探すことこそ、私という存在のあり方を見つめ直すきっかけとなったのだ、我が孫娘よ」


「意味わかんない」


「先に言った善悪の話を応用すれば、生きる、死ぬという対立する概念にも思い込みはあるだろう? 何を以て生とするか死とするか。この命題に、私は自身の信念を持って一つの答えを導いた」



〈祖父〉の表情が、言葉の後に続いて引き締まっていく。



 前屈みの姿勢にすっかり戻った彼が、ぎらつく両目でワタシを見た。



「私の真の目的は不老不死ではない。その先の真理に辿り着くことだ」

「真理……」



 かつて校舎の屋上で、×××が言及していた言葉がそれだ。



 話が抽象的になっていく中、〈祖父〉は視線をふとワタシ達の背後、遥か先へと向ける。視線の先はちょうど、×××と出会った校舎だった。



 彼の挙動を視界の端に捉えつつ、ワタシも同じ方向を流し目に見る。



「母校の屋上でお前に言ったろう。私は死後の体験を通して輪廻転生を繰り返し、最後はこの世の真理に辿り着く」

「真理なんてあるの?」

「きっと存在する。それゆえ私は〈私〉として生き永らえ、解脱を目指し、涅槃寂静を経て真理に近づいていくのだ」



〈祖父〉の視線が、再び病院の屋上へと戻る。



 不穏な空気が漂う中、彼はやはり語り足りない様子で舌を動かす。



「意識……いや心というべきか。心というものは、仏教の教えでは実体を持たないのだ。現世で生きること自体は真理というゴールまでの長い道程に過ぎん。生き死にを繰り返していくと心はいずれ無我の境地へと至る。生きることも死ぬことも止めた状態、とでも換言しようか。そうして私の心が実体を持たなくなり終ぞ不生不滅となったとき、真理へと続く一本道が開けるのだよ」



 両脇の死人たちがざわめき出す。



 垂れ流される高説を聞き続け、流石に頭が痛くなってきたワタシ。



〈祖父〉は頭上の金環を振り仰ぎ、満足気に微笑みながら話を締めくくった。



「私が望む、いや知ることになる真理とは、果てしない無数の宇宙に〈私〉が遍在し、それでいて永遠に滅することのない……いわば〈私〉の究極の在り方がそこにある」


「……」



 無論、言葉を返す気はなかった。



 思い通りにいかない人生はひどく腹立たしいが、自らの意志で決められない人生は、それ以上に腹立たしい。



 後ろに立つ奥井と金森にもきっと、思っていることは伝わっていると思う。二人がたとえ、人生に疲れてしまった存在であったとしても。



 ワタシが敷いたレールの上を走れるのは、〈ワタシ〉だけなんだ。



「まぁ、この場を借りて私が言いたいことはただ一つだ」



 言い終えると、〈祖父〉は膝に両手を突きながら、二本の脚で力強く立ち上がる。



 彼の両手が神託を授かる預言者のように天へと掲げられ、奥井と金森がそれに素早く反応して臨戦態勢を取る。



 彼はワタシ達と死人をひとしきり見回すと、地鳴りのような大声で高々と宣言した。



「我が御心は間もなく新たな御身に宿り、不生不滅への第一歩が始まるのだ!」



〈祖父〉の威勢に、死人からの喝采が轟き渡る。



 彼はざわつく場を降り降ろした両腕で早々に収め、哀れんでいたワタシを逆に憐れむような顔で言った。



「なち、お前は運が悪かったんだ。あの列車事故は実に大量の死者を出したが、お前のように昏睡状態となった人間もいた。かたや今の私は、この病院で未練を残したまま死んだ地縛霊と同類だ。今もこうして薄れゆく意識の中、中途半端に生き残ったお前を利用するしか他に手はなかったんだだよ」



 ワタシには死産した双子がいて、黒猫に生まれ変わった?



 おじいちゃんの魂が猫に乗り移って、今度はワタシに生まれ変わる?



 こんな老人の話し相手の為だけに、ワタシは線路と暗闇の狭間で彷徨っている?



 そんな〝現実〟は、すべて糞喰らえだ。



「ワタシをここで殺す気?」

「お前はただ見ていればよいのだ。〈私〉がお前の肉体に宿った時、お前は間もなく消滅する」



〈祖父〉の顔は、底なしの自信に満ちていた。



 ワタシは口を真一文字に結んで、〈祖父〉を睨み続ける。



「そうか、どうしても認める訳にはいかないか」



 認めてどうする? アンタの夢は、叶いもしない妄想でしょうが。



 ワタシは静かな怒りと共に、熱い頭をひたすら冷やした。



 額に手をやり、落胆の色を滲ませようとする祖父は、途方もなく欲塗れで醜かった。



「ならば致し方ない……やれ」



 彼が額に置いた手を横に振った直後、背中に何かがストンと突き刺さった。痛みはやって来ない。奥井と金森も同様だった。彼らの背中には全長六〇センチ程度の、純白に輝く矢が突き立っていた。おそらくワタシにも同じものが刺さっているはずだ。



 間もなく全身がめまいを起こしたみたいに力を無くし、意地でも二人の後ろに目を遣ると、白鳥の如き一対の翼を生やした一人の少女が優雅に湾曲した弓を構え、細い両足を地面から浮かせていた。



「しー、ちゃんっ」



 ツインテールを解いた長い髪を下ろし真っ白な羽衣に身を包む彼女は、出来のいい能面の如く顔の如何なる部位も凛々しいままでいた。



「スマン、尾上。油断しちまった……」

「君がここで終わる訳には、いかないってのに……」



 片膝を突いて辛そうにする二人の〝恋人〟が、矢の突き立った場所から徐々に白く侵されていく。傷口から溢れる大量の血が、瞬く間に服を染めていく様にそっくりだった。



「二人とも……っつ!」



 苦し紛れに声を出すと、脳内で激しい耳鳴りが起きた。彼らの身は十秒も経たずに、首より下が光に呑まれていく。



「大したこと出来なくてゴメン。でも、絶対に帰って来てよね―――」

「最後まで諦めんなよ。思いっきり、自分を信じて突き進め―――」



 そして全身を蝕まれた二人は編み物の糸が解けていくように、タロットカードが入った私のポケットへと瞬く間に吸い込まれ、ただの絵柄へと還ってしまった。



 彼らはワタシの味方でないと遊園地の〝夢〟で言い捨てたが、下手な嘘だということでたった今訂正をかけた。ただのクラスメイトがワタシを気に掛ける筈もない。ワタシだってチョコを渡す前から全部判っていた。



 彼らがワタシを信じるなら、ワタシはそれに応えるのが義理だから。



「悪く思うなよ、なち。こいつらもまた、お前の内に眠っている最後のアルカナを引きずり出すのに必要な駒なんだよ」



 まるっきり悪人面になった〈祖父〉が、誰かを手でこまねく動作をする。



 開かれたドアの前で静止していた〈紫月〉が飛び立ち、緩やかな放物線を描いて彼の側へと降り立った。



 ワタシの身に関しても、大きな異変が起こった。背中の矢が胸の前まで迫り出してきたかと思いきや、たちまち真っ黒いボウリング玉並みの球体になって抜け落ちた。球体はすぐにしぼんでいって、ワタシがもっとも目にしたくなかった存在を形作った。



「お、オズ、君」

「ちく、しょう」



 ぐったりと地に伏す黒猫は、ハスキーな声を更に掠れさせて呻いていた。そしてワタシは、祖父の発言が事実だと認めざるを得なくなる。そっとオズ君を抱き上げてようとすると、彼は尻尾を振って嫌そうにした。



「良くやってくれた、流石は愛する妻の忘れ形見だ」



〈祖父〉が傍らの少女に向き直り、頭や翼を壊れ物を扱うみたいに撫でていく。〈紫月〉は微動だにしない。



 一方、ワタシの傍らにいるオズ君は覚束ない足取りで地面を踏ん張り、屋上の端に立つ〈祖父〉を執念のこもった双眸で睨み上げた。



「オズよ、この私が情けをかけるとでも思ったか。お前は私に従う振りをしつつ、なちを三度〝夢〟の中へと誘ったついでに孫娘の無意識に潜り込み、隙あらば私を消そうと考えていたのだろう?」



〈祖父〉が、敵意も牙も剥き出しの黒猫を突き放すように鼻で笑う。



「愚かなことだ。しょせん無意識に潜り込んだところで、お前はなちの自意識に語り掛けることすらもできなかったではないか」



 何も言い返せないオズ君。



 それを見た〈祖父〉が、オズ君そっくりに「くふ、くふ」と笑ってみせる。



「お前は猫の癖に人間の心を得ようとした結果、鳴くことを忘れた。それで代わりに覚えたのが、この咳払いだったな。私も早急になるべきだったんだよなぁ、あの時にはもう癌細胞が呼吸器系を十分に浸食していたことに」



 そうだ、確かにおじいちゃんは臨終間近にそのような咳を頻繁にしていたのだった。当時はまだ四つか五つだったから無理もないが、気づいていればこんな悪夢を見ずに済んだのかもしれないのに。



 ここで不動の〈紫月〉が一歩前へ出て、〈祖父〉に告げる。



『そろそろ良いのではないですか。最後のアルカナはいつでも完成出来ますよ?』

「ふ、そうだな……では頼むぞ」



〈祖父〉の言葉に首肯した〈紫月〉が、左手に携えていた弓をワタシとオズ君の前に構える。次の瞬間、目にも止まらぬ速さで彼女の右手が動き、見とれていた隙にワタシの制服の左ポケットが、オズ君の眉間がそれぞれ、針の穴に糸を通すような精度で放たれた光の矢に射抜かれていた。



 一本の矢は命中するとすぐに溶けて内側に浸透していき、オズ君を奥井と金森みたいに白く包んでいった。もう一本はポケットの中身にあるタロット一枚一枚を朧に光らせていき、ワタシの元から勝手に抜け出していったではないか。



 ワタシが叫ぶのも束の間、タロットは空中を蛇行する様に〈祖父〉の元へと飛翔していき、



「オズ君っ!」



 彼の頭上で時計回りに円を描き始めた。オズ君はその過程で先の二人と同じように空白だったタロットへと吸い込まれていく。彼によって蘇った一枚は大アルカナの十二番〝THE HANGED MAN〟―――すなわち〝吊し人〟であった。



 ところが、オズ君の肉体はこの場に残されていた。またも地面に横たわる彼は瞼をどちらとも閉じ、呼吸もしていない様子だった。せめて体温さえ分かればと思い、自分の胸に抱き寄せてみたとて暖かくも冷たくもない、まったく理不尽だった。



「オズ君、オズ君っ、目ぇ覚ましてよ!」



 耳鳴りを気にする暇もなく、声の限りに彼の名を呼ぶ。だがそれも徒労なようだ。今の彼は〈彼〉でなく、ただのモノだった。



「これで私は夢を叶えることができる。現世に還り、若く瑞々しいお前の身体を以て今度こそ……今度こそ悔いのない人生を全うする大きな夢がっ!」



 他方〈祖父〉は満足そうな顔つきで、頭上のタロットが作る光の円環を眺めていた。



 だがもう一人、事の成り行きを冷静に捉えていた天使〈紫月〉が、鉄面皮を僅か歪めながら怪訝な表情で口を開けた。



『お待ちください。何やら不具合があるようです』

「この期に及んで何だ! 私にはもう時間がないのだぞ!」



 ワタシは〈祖父〉がなぜ焦りを見せているのか、何となく分かる気がした。この〝夢〟に突入する寸前、〈紫月〉も時間がないのだと、同じ台詞を口にしていたのだから。



 そんな彼女は、天を仰いで淡々と言った。



『一枚、足りません』

「冗談はよしてくれ。残りの一枚は、なちとお前の身をもってこれから揃うのだろうが!」

『いえ、そうではなくて本当に一枚、カードが足りないんです』



〈祖父〉の頭上を回るタロットは、十九枚だった。



〈紫月〉の身にある一枚、ワタシの身にあるというもう一枚を除き、本当ならば円環を形成するべきタロットの枚数は、全部で二十枚なのだ。ワタシは病室を出る際、確かに二十枚分のカードをポケットに入れておいたはずだ。



「何だと?」



〈祖父〉が、オズ君を抱くワタシを鷹のような目で見定める。怯えてならぬと内なる本能か無意識かがざわつき出し、負けじと彼を見つめて咆えた。



「ワタシは、もう何も持ってない!」

「嘘を付くな! 天使よ、もう一度だ。もう一度なちを目掛けて矢を放て。黒猫も貫いて構わん、とにかく残りの一枚を引きずり出すんだ!」



 彼は再び手を振って、傍らの天使へと指令を下す。



 このままでは〈紫月〉がいずれ放つ光の矢によって、ワタシはいよいよ永遠の眠りに就いてしまうのではないかと辞世の句を決めようとしていた、その時だった。




 ―――あは、あはははははははっ!




 白猫が発していた〈声〉のように頭の中で響くのではなく、屋上一帯の空気を凍り付かせる高笑いが木霊した。敵を欺ききった後の圧倒的な優越感に浸れるような、いかにも勝利を匂わせる笑い方であった。



「馬鹿な、この声はっ」



 声の持ち主はどうやら、〈祖父〉にも聞き覚えがあるようだった。無意識にだろう、わなわなと竦み出す両足を必死に抑えようと、前後左右へ身体をよろめかせている。



 笑い声がピタリと止んだ瞬間、ワタシのすぐ前を黒い物体が、弾丸の如き速度で飛んでいった。猛烈な追い風が尾を引いてワタシの髪と服を暴れさせたかと思いきや、再度その物体を視認する頃には、〈祖父〉の首から大量の鮮血が噴出していたのだ。



「お前、どう、して―――」



 彼は口の端から血のあぶくを吐きつつ、失神したような目つきで物体を見続けながら後ろに仰け反り、ついに屋上から真っ逆さまに落ちていった。



 すると、死人たちが〈祖父〉の後を追うようにして一人二人と屋上から飛び立っていく。黄金に輝き続ける金環の下を、翼もない彼らは自らが飛べるという自己暗示にかかったかのように、生前の姿からは想像もつかない跳躍力で屋上の端を踏み切っていく。



 悲しいかな、宙を数秒だけもがいた彼らはもれなく固いアスファルトの地面から生えた見えざる手によって加速度的に下へと引き寄せられ、ドサッバサッグチャッという断末魔代わりの無秩序な旋律を奏でて堕ちていくしかなかった。わざわざ端まで行って見下ろしたくもない、人間の好奇心を削いでいくような不協和音であった。



 この光景の一部始終を、〈紫月〉から少し離れた空中で見物していた物体は、牛の角に蝙蝠の翼をそれぞれ生やしたあの悪魔女であった。



 彼女は右手の爪をナイフのように伸ばし、輝度の高い血液を滴らせている。



「これでようやく、貴方に〝ありがとう〟が言えたわ」



 悪魔はそう言うと右手を振るい、爪の先から滴る血液を一挙に払った。伸びきっていた五本の爪は、瞬きのような速さで彼女の指先まで引っ込んだ。



 金環の真下で佇む悪魔は深紅の双眸を細め、あの時と同じようにワタシを嗜虐的な目で挑発してくる。



「久しぶりだね、悪魔さん」

「また会ったわね、尾上なち」

「夜なら×××……おじいちゃんに会えるって言ってたの、本当だったんだ」

「ええ。この日食なら夜っていっても、間違いではないでしょう?」



 どうやら、彼女の方はあの〝夢〟のことをしっかりと覚えていたようだ。



 宙に浮く悪魔はそよ風に運ばれるように屋上へと羽ばたき、直前に〈祖父〉が立っていた場所へと優雅に着地する。



「今度こそ、ワタシを捕まえに来たんでしょ」

「そうね。今が絶好のチャンスかしら」



 彼女の言葉を真に受け取ったワタシは、思わず身構える。



 対して悪魔は襲ってくる様子もなく、その場で腕組みをしながら鼻で息を吐いた。



「―――と言いたいところなんだけど」



 彼女は歯切れの悪い言葉を残しながら、ワタシと彼女自身のほぼ真ん中に位置する〈紫月〉に目をやった。



〈紫月〉は悪魔から視線を背けるように、ふわりと夜空に舞い上がったかと思うと、ワタシの元へと飛来してきた。反射的に身構えたものの、彼女は敵意もなくワタシの背後へスッと舞い降りた。



「まあ、あなたはそっちに付くでしょうね」



『当然です。わたしは〝節制〟のアルカナ。如何なる時も公平な立場を取るよう努めなければなりません。今はこちら側に付くのが最適と判断したまでです』



 悪魔は腕組みを崩さず、あごに手を当ててつまらなそうに〈紫月〉を見た。



「そう……ま、いいわ。余計な手間が一つ増えただけだし」

「ところでさ、何でおじいちゃんを殺したの」



 ワタシのおじいちゃんとは即ちあの白猫であり、女乃君であり、そして×××こと尾上トオジである。この〝夢〟の世界の創造主たる、いわば神とも呼べる存在を、悪魔の姿をした彼女は己の爪で切り裂いたのだ。



 悪魔は問いかけに応じ、ワタシの方に視線を向けた。



 白光を脈動させるタロットの円環は彼女の意志に引き寄せられるように背後へ向かっていき、後光が彼女の陰影を深くする。



「あなたがわざわざ運んできてくれたタロットは、元々あたしのものなの。尾上トオジが使ったところで望み通りの結果なんて出ないし、夢を叶えるなんて尚更よ」



 悪魔の言葉が事実ならば、〈祖父〉の野望はそもそもなかったことになってしまう。



 タロットに導かれた〈祖父〉の行く末は、徒労に終わるのが必定だったのだ。



「じゃあ、あんたがおじいちゃんに言おうとしてたお礼って……」

「ええ。『あたしの為にタロットを集めてくれてありがとう』って意味よ」



 たしかに悪魔はあの時、遊園地の〝夢〟の中でワタシが所持していたタロットを欲しがっていた。事情を理解した今、彼女の方がタロットを取り返しに来ているのだ。



 残念ながら、お人好しなワタシはここにはいない。



「根っからの悪女だね、あんた」

「あなたがそれを言える立場?」

「どうだろうね」



 言い終えて、悪魔が空中をゆったり漂いながらこちらと距離を詰める。



 ワタシはオズ君だったモノを脇にそっと置き、無力ながらに腰を据えて構え直す。



「さて、尾上なち。あなたの本体は今、どこで眠ってると思う?」



 この病院のどこかってことは、とっくに予想がついていた。加えて、ワタシ自身が入ったこともない場所にあるとなった場合、最悪取り返しがつかなくなるということも。



「どこなの」

「……知りたい?」

「勿体ぶんないでよ」



 両肩で笑う悪魔は、答えを言った。



「それがね、院長室なのよ。旦那ってばあなたの身体を欲しい余りに、生前自分が使っていた部屋の奥に本体を匿っているのよね。ホント、どうしようもない男よ」

「旦那ってまさか、あんたがワタシのっ⁉」

「お察しの通りよ。でも、バアさん呼ばわりは気分が良くないわね」



 ワタシの祖母は〈祖父〉が語った通り、ワタシの母を産んで間もなく亡くなった。深く考えなくたって、〈祖父〉よりずっと未練があるに違いない。



〈紫月〉が背後にいてくれることで安堵できたせいか、ワタシはちょっぴり背筋を正し、目の前の〈祖母〉に対峙する。



「あんたも、ワタシの身体を使って生まれ変わりたいってこと?」



 悪魔は、嬉々とした顔で答えた。



「ご名答。アタシも一応この病院で息を引き取った身だから、旦那と似たような立場なの。この身で延々とここで過ごすのも有りかと一時は思ったわよ? でもねぇ、流石に飽きが来ちゃうのよ。だって〝夢〟の中じゃいっくら他人と身体を重ねたって体温を感じられないし、生きてる心地がしないの何のって」



 そうか、彼女も()()だったのか。



 ここまで辿り着いてようやく、ワタシは〈ワタシ〉が仮の肉体で生かされていることに実感を得た。



 ワタシと〈ワタシ〉は離れ離れ、ワタシは死んで、〈ワタシ〉は生きているのだ。



「だからあなたの若くてきれいな身体で、温もりを感じたいの」



 空気を抱くように、悪魔は自らの両腕を前に出した。



 あんたなんかに渡してたまるか。



 口には出さず、咎めるような視線だけで反抗するワタシ。悪魔は敵意を理解しきったような情け深いルビーの瞳で、ワタシを見下ろしていた。



「さて、念力も催眠術も迂闊に使えないとなると、どうしたものかしらね」



 悪魔は祖父の立っていた場所から一歩、ワタシと〈紫月〉の方へ近づいた。彼女が二つ目の〝夢〟で奥井と金森、そしてワタシに行使した超能力は、〈紫月〉を前にしては隙が出来てしまうようだ。



もっとも悪魔の言うことだ、信じる訳にはいかなかった。



「下手に歯向かわない方がいいわよ」

「断るって言ったら?」

「あなたを真っ赤に染めてあげるわ」



 悪魔が再び、右手に殺伐の刃を生やす。



 危機が迫っていることは最早明白だった。彼女は〈祖父〉にしたのと同じようにワタシの喉元を切り裂き、確実に息の根を止めるのだろう。



 すると、悪魔は不意に微笑んだ。



「あっ」



 ワタシが鳴き、足元に注意を向けた瞬間、オズ君の体は悪魔の元へと飛んで行った。



 悪魔は爪を伸ばしていない左の手で、オズ君の首根っこを掴んでいた。



「こうでもしなくちゃ、面白くないわよねぇ」

「最低だよ、あんた」

「どうとでも言いなさいな」



 頭に血が上るとは、まさにこの状況を指してのことだった。



 オズ君は手足も尻尾もダラリとしたまま、ひげの一本も動かない。



「どうしよう、しーちゃん」

『……』



〈紫月〉は、返事をくれなかった。



 彼女の方を振り返りたいが、隙を見せればオズ君は奈落へ真っ逆さま。そしてワタシも〝夢〟から醒めなくなるだろう。



 肝心な時にどうしてワタシは、こうも冷静になれないのか。



「っは、っは、っは、っはあ」



 極めつけに、この過呼吸だ。



 肺が水で満たされていくような、吐き気に近い感覚が込み上げてくる。意地でも呼吸を浅く繰り返していくが、症状は軽くなっていかない。



 コンピュータプログラムがフリーズを起こしたように、頭の中はどん詰まりだ。現状を両の目で捉えることで精一杯のワタシは、過ぎ行く時間に見放されていくだけだ。



『―・・・― ・・―・ ―― ―――― ・―・ ―・―― ・―・―― ―・ ・―・・・ ――― ・―・―― ・―・―・』



〈紫月〉はワタシの脳内で〈声〉にも似た信号を送ってきた。なぜだろう、そちら方面の知識が無いワタシでも、彼女の言わんとすることがはっきりと伝わった。



「っはあ、っはあ、っっっはあああ、はあっ」



 文字通り息も絶え絶えに、ワタシは痺れる手足に力を込める。



 前傾姿勢を取り、同時に右手を腰だめに構える。



 これを見た彼女の表情が、一気に曇った。



 漆黒の双翼を轟と拡げ、悪魔が狩りの体勢に入る。



「やる気なの? さっきのあたしを見て怖気ついたかと思ったのに」



 もちろん怖いに決まっている。怖いからこそ、ワタシはこれに賭けるしかないのだ。



 屋上に暫しの陣風が吹き付け、急かすように左から右へと過ぎ去っていく。



 それが止んだ瞬間、ワタシは動いた。



 寸毫の差で、悪魔が猛然と躍り出る。



 彼女の背後では、オズ君が落下を始めていた。



 ポケットから掴んだチョコレートを、宙へと放り投げる。同時にワタシは自身の身体を、重心のある骨盤からストンと真下に落として仰向けに倒れ込んだ。



 意表を突かれたのか、浮き上がったワタシの前髪の先を鮮やかに切り落とす悪魔の視線が、刹那の間だけ上下にブレる。



〈紫月〉は、この間隙を突いた。



 一射目。



 光の矢が放たれる。矢は〝悪魔〟の頭上を掠め去り、落下間もないオズ君の後ろまでいったん通過、立ちどころに向きを入れ替えて今度こそ彼の体を貫いた。勢いの衰えぬ矢はオズ君を貫いたまま、屋上にいるワタシの元へと連れ戻した。光の矢は役目を終えると霧散し、後にはオズ君だけが残っていた。



 二射目。



 投げ上げたチョコレートとワタシの間から瞬時に番えた矢を放つ。赤黒いナイフのような悪魔の爪先が〈紫月〉の眉間までわずか一センチメートル、悪魔の眉間を彼女の矢が先に力強く射抜き、矢一本とは思えぬ運動量で跳ね返した。



 砲弾のように吹き飛んだ悪魔を待っていたのは、真後ろに位置するタロットの円環だった。まるでそこに蜘蛛の巣があるかのように獲物を受け止めると、隣り合った各カードが光の線で繋がっていき、内側に巨大な十字架を発生させて彼女を手足諸共、見事に磔にしたのだ。



「はああっ、はああっ、はああっ」



 過呼吸が和らいできたのを感じ、ワタシは尻餅をついたまま、呆然と目の前の光景を眺めていた。

 悪魔は全く理解できぬという驚きの表情をしながら、抜け出すことは叶わない十字架の元で何度も唸りを上げている。



「くそっ、どうしてあたしに逆らうの、お前たちっ」



 悪魔のいう〝お前たち〟とは、おそらくタロットを指してのことだ。

 矢を放ち終えた〈紫月〉が、矢と同じく光る弓をサッと光そのものに戻し、ろうそくの火を吹き消すが如く虚空に消し去った。



『まだ分からないのですか』

「何が起きてるのよ、いったい⁉」



『貴女を縛り付けるそれは、貴女自身のタロットではありません』

「意味が分からないわ。どうなってるのよ」



〈紫月〉は、おもむろに両腕を肩幅ほどまで開く。



 すると間もなくして彼女の両腕の間には、〝夢〟の外にあるあの暗闇で見た時と同じく、オズ君が歩いてできた赤い光とは正反対の、青白い光が発せられた。青白い光は数秒ほど発光が続き、光が収まっていった時にはひとまとまりのカードの束が、青白い光を薄く残したまま彼女の両手に収まっていたのだ。



『本物は、こちらです』

「何ですって⁉」

『わたしが尾上なちに持たせたタロットは、わたしが魔法で瓜二つに作った偽物。あなたが尾上なちをつけ狙っていることは、あなたが尾上トオジの〝夢〟に紛れ込んでいた時から察知していました』



〈紫月〉は両腕を身体の横に戻すと、ワタシの横を音もなく通り過ぎ、眼前の悪魔の元へとむかっていった。カードの束は持ち主の手から離れると、落下せずにフヨフヨとその場に浮き続けている。



 悪魔の顔が、嫌な相手に出くわした時のように崩れた。



「あの時、観覧車を襲撃したのは、あんたね?」

『左様です』


「ならどうして、あたしはニセモンのタロットから自由に出入りできてるのよ」

『偽物だからこそです』


「はぁ?」

『本物のタロットにそんな魔法は備わっておりません。貴女が尾上トオジの〝夢〟に勝手に紛れ込み、タロットが夢を叶えるという情報を掴んだ貴女が勝手にそう思い込み、魔法を行使して〝悪魔〟に化け、勝手に行動した結果です』



 結果として滑稽なことだが、悪魔女もとい〈祖母〉は遊園地の〝夢〟の中で×××からワタシに手渡された瞬間でさえも、むろん今に至るまでも、偽物にすり替えられたタロットに潜伏し続け、大願成就の時を待ちかねていたということだ。



「ふざけるんじゃないわよ! その魔法を教えたのは一体誰だと……」

『タロットも、時には持ち主に嘘を付くものです』



 さぞかし悔しそうに、悪魔は憎悪たっぷりの視線で天使を凝視した。

 悪魔は幾度も身体をくねらせるが、依然、十字架はびくともしない。



〈紫月〉は渋い顔をして、最後の最後まであがく悪魔に向き合う。



『訂正します。タロットは貴女を見放したのです』

「なんて顔すんのよ。どうせアタシから離れられて清々してるんでしょう?」



〈紫月〉は無言で悪魔の眉間に刺さった矢をぶっこ抜き、地に投げ捨てる。悪魔に刺さっていた矢だけは光となって消えず、矢じりを黒く染めていた。



 傷口から肌の色より大分黒々とした血液が流れ落ちる様を目にしつつ、彼女はおもむろに右手を振りかざし、タロットの持ち主であった彼女を容赦なく引っ叩く。



 ピシャンという乾いた音が、夜空に生まれてあっけなく消えた。



『いいえ、それ以上にわたしは憤りを感じています。生涯の伴侶として尾上トオジと結ばれたというのに、貴女は毎晩の如く裏路地で行きずりの男を誑かしてばかり。少しも家庭を顧みようとしなかったではありませんか。だからわたしはタロットの一枚である以上に一人の人間としてあなたを軽蔑し、罰を与えたのです』


「それであたしは娘を産んで、すぐに死んだっていうわけ?」



 打たれた悪魔は顔に黒い血液を飛び散らせ、天使を睨みつけた。



 悪魔の周囲を廻るタロットを一瞥し、天使は応える。



『ええ。知らず知らずの内に自覚を無くしたのでしょうが、このタロット達を束ねるのはこのわたしです。路頭で日々生死を分けていた貴女に救いの手を差し伸べたことは、何よりの過ちでした。お人好しな自らを恥ずべきだと学んだ次第です』

「何がお人好しよ。用が済んだらさっさと手の平返した癖に」



 血が目に流れ込んだのか、悪魔の顔がわずかに歪む。



〈紫月〉は彼女から一歩引き、表情乏しく、しかし凛とした声で言った。



『わたしは貴女にチャンスを手渡したまでです。しかし貴女の欲望は止まるところを知らず、結果として尾上トオジという一人の男の人生を狂わせました。これ以上、貴女に人の夢を潰すような真似はさせません』



〈紫月〉が右手を前に翳すと、悪魔の肢体が光で紡がれる絹糸により繭を作っていく。



 彼女はいっさい憎々しい目つきをせず、むしろ不敵に笑っていた。



「夢を潰すだなんて人聞きの悪い。アタシは人様の〝夢〟を搾り取って糧にしてきただけ。あんたみたいにね、しみったれた現実しか認めない冷血女とは違うのよ!」



 そんな彼女の挑発にも眉一つ動かさず、〈紫月〉が事の経過を透徹の眼差しで見届ける。



 天使の毅然な態度に、悪魔は笑みを止めた。



『あなたに流れるその血潮は、誰かを温められますか?』

「くたばれクソガキ」

『左様ですか。ならば、異存はありませんね』



〈紫月〉が、右手に更なる力を込める。



「う、くああぁ」



 除霊を受ける物憑きのように、悪魔は声にならない声を上げた。



 彼女を覆う光の繭がゆっくり膨張していき、顎下、口元、鼻先、目元、額、頭頂、そして牛のような角を余すところなく呑み込んでいく。



『タロットの導くまま往きなさい、色に溺れし惰弱な女よ』



 全身一切を覆われたサキュバスは光の繭と共にみるみる縮んでいき、一点で収束したのち、無数の光の粒となって闇夜に掻き消えていった。



 悪魔は去り、天使が残った。



 一仕事終えた彼女が、こちらを振り返って言う。



『尾上なち、そのチョコレートを黒猫の口に入れてください』



 傍らにすっかり落ちていたそれを、ワタシは手にした。



「猫ってチョコ食べさせたらダメじゃないの?」

『心配ありません。チョコだけにちょこっと細工がしてありますから』



〈紫月〉がそう言って微笑んだ。茶目っ気を含んだ彼女の顔は、ワタシの良く知る紫月のそれにほとんど近づいていた。



 我を忘れている場合ではない。腰を上げたワタシは、チョコレートの銀紙を取り去って中身を二本指で摘み、オズ君の下顎を動かして口を開けさせる。立派な牙の並んだ奥にあるザラザラした舌の上にチョコレートを乗せ、すぐに閉じて戻す。



 しばらく経っても何も起こらず、オズ君と〈紫月〉を交互に見やっていたが、ついに彼の方から進展があった。



「んっ、んぐ、んんんんんっ」



 目は閉じたままで、左右に幾度も寝返りを打つようにジタバタと暴れ出すオズ君。ややあって、四本の足全てを天に突き上げた状態でチョコを嚥下させると、一気に脱力した。



「オズ君、オズ君だよねっ」

「てめぇ、俺を殺す気か」



 オッドアイを薄く開いて、黒猫は毒づいた。この減らず口は間違いなくオズ君だ。



「しーちゃんがね、オズ君を起こしてくれたんだよ」

「しー、ちゃん? ああ、そこにいる小娘のことか」



 寝起きのおっさんみたいに、オズ君がもっさりとした動作で身を起こす。直後にケホッケホッと乾いた咳をして、口内の残り香を紛らわせた。



〈紫月〉はオズ君を真っ直ぐに見つめ、無表情のままで言った。



『この場をお借りして、お二人には謝罪と弁明の言葉を申し上げます。尾上トオジが作り出した〝夢〟の外、つまりあの宇宙にも似た場所は、尾上なちの脳内に構築された、貴女がオズと呼ぶ黒猫が生んだ空間だったのです。言い換えれば、昏睡している貴女の分離した意識と、尾上トオジの〝夢〟を隔離するシェルターでしょうか。あの場所だけは尾上トオジの意識が干渉できぬ唯一の空間でしたから、わたしは彼に偵察と称して潜入を試みました。当初は黒猫しかいないと思い込んでいたところに貴女がいたことに驚き、わたしは思わず来ないでと叫んでしまいました。情けない限りです』



 表情だけで納得したワタシを見、〈紫月〉は続ける。



『それから落ち着きを取り戻したわたしは、今度は尾上なちの意識を甦らせるためにあの空間において、あなたが健常者でいた時のイメージに極力近づけながら、青い光で意識を繋いでいったのです。黒猫のオズ、あなたも同様の目的であの場所を歩いていたのでしょう?』


「ああ、そうだ」


『そして我々は再び会い見え、この〝夢〟の中に尾上なちを誘い込んだ。黒猫のあなたが警戒していたのは、わたしが尾上トオジの協力者だと察知したからですか?』


「大方あってるな。だがそれだけじゃねぇ」



〈紫月〉が怪訝な顔をすると、オズ君は明後日の方向を見て「くふっ」と笑った。


「おめぇが現世でとっくに死んでっと思ったからよぉ」

『……なるほど。そういうことでしたか』



 呆れるように笑った〈紫月〉は、ワタシ達に背を向けてから言った。



『尾上なち。院長室から本体を運び出したら、303号室に向かいなさい。わたしが横になっていたあの場所は本来、現世で貴女が眠っている場所ですから』

「分かった」

『ではわたしも、タロットへと還ります。万が一、貴女の記憶からわたしに関わる事項が一切抜け落ちたとしても、わたしは貴女を忘れません。尾上なち……貴女の〝世界〟は、未来永劫貴女だけのものです』

「うん」



 返事をした途端、ワタシは心残りを感じた。



 ここで伝えないと、絶対に後悔すると思った。



 最後の〝夢〟に入る前に〈紫月〉に分かって貰いたかったこと―――この身にまとわりつくたった一つの感情だ。



「待って、しーちゃん」



 振り返ろうとする〈紫月〉を、ワタシは一歩踏み出して呼び止める。



『何ですか』

「しーちゃんなら知ってると思うんだけど、ね」



 視線を落として、ワタシはいったん言葉を切った。



〈紫月〉は、ワタシを覗き込むようにして言った。



『だから、何ですか』



 直前の返事よりもわずかに、〈紫月〉の声が揺れた。



 意を決し、視線を上げて彼女に問いかける。



「ワタシはどうして、二年間も眠ってなきゃだめだったの」

『日食を待つしかなかったからでは、ないのですか』



 さして間を置かず、〈紫月〉は答えた。

 傍らのオズ君は四つ足のまま、口も体も動かそうとしない。



「ちがうよ。そうじゃなくって」

『何を言って』

「だってさ、〝夢〟ん中の時間って、あってないようなものじゃん。おじいちゃん言ってたでしょ。ワタシの記憶はしーちゃんから教え込まれたものだ、って」



 彼女の返事を遮り、ワタシは疑問をぶつけていく。



 それでも、〈紫月〉の態度は変わらない。



『わたしは、あくまで尾上トオジに従うふりをしたまでです』



 仏頂面をして、紫月はきっぱりと答えた。



「じゃあ、どうしておじいちゃんの命令に従っていたの」

『わたし一人の力では尾上トオジを仕留めることが不可能だからです』


「嘘だよ、それ。さっきあの悪魔にタロットを纏めているのはわたしだ、って言ってたじゃん。それにしーちゃん、あんな目にも止まらない早さで矢を撃てるんだよ? おじいちゃんをやっつけられないなんて、不可能じゃないよ」

『……』



〈紫月〉はだんまりを決め込んだ。



 自身満々に言っては見たものの、根拠なんか何処にもない。



 ひょっとしたら、全然見当違いだったかもしれない。



「もし違ってたら、ごめん」



 ワタシは彼女に謝っていた。



 彼女は言葉を返さなかった。



 オズ君は、ワタシ達をただ見つめていた。



 温度を感じない、恐らく冷たく突き刺すような風が一陣、二人の間を抜けていく。



 ワタシの髪が揺れ、〈紫月〉の髪も夜空に尾を引いてなびく。風は間もなくして吹き止み、何も変わり映えのない空間に、見えない変化をもたらしていた。



 オズ君は、真っ黒な尻尾を夜空に溶かすように、ゆらゆらと動かしていた。



『わたしが……アタシ、が』

「え?」



 彼女の小さな肩が、わなわなと震え出した。



 背中に生えた純白の二枚羽から一本また一本と、羽毛が初雪のようにハラリハラリと抜け落ちていく。羽毛はしだいに数えきれない早さで抜け落ちていき、彼女が纏っていた薄絹の白衣すらも、桜吹雪の如く襟元から足元へ向かい宵闇へと散っていった。



 ワタシの見てきた〈紫月〉は、すでにそこにはいなかった。



「―――アタシがなっちゃんとずっと一緒にいたいからだよっ」



 彼女は叫んだ。



 彼女を纏う偽善という名の濡れ衣は、やっとの思いで取り払われたのだ。



 ワタシの前には、制服姿の紫月が立っていた。



「アタシずっと怖かった! わけわかんないまま〝夢〟に連れてこられて、気が付いたら知らない学校の生徒になってて、あんなジジイやババアにこき使われて、ほんとの〈アタシ〉はこんな……こんな〝夢〟なんか見たくないもん!」



 紫月の両肩は、浅くなった呼吸と共に上下していた。



 ワタシはしっかり、紫月の大きな両目を見つめていた。



 なんということだ。ワタシが伝えようとしたことは、紫月が全部抱え込んでいたのだ。



 どこまで鈍感なんだ、ワタシってやつは。



 傍らのオズ君が、四つ足で立っていたその場に腰を下ろした。



「……でも、ね」



 呼吸の深くなった紫月が、小さな口を開いた。



「学校にはなっちゃんが居てくれた。なっちゃんはアタシと仲良くなってくれた」

「うん」


「なっちゃんはアタシの占いに付き合ってくれた。なっちゃんといるのが楽しかった」

「うん」


「なっちゃんはアタシの見舞いに来てくれた。なっちゃんに会えてうれしかった」

「うん」


「アタシが病院で話したこと、なっちゃんは覚えてないかもしれないけど……アタシはぜぇんぶ、ちゃんと覚えてるからっ」

「うん、うん」


「きついこと言っちゃってごめん、ずっと待たせちゃってごめん、苦しい思い一杯させちゃって……ホント、ごめん」

「うん、うんっ」



 二つ返事をするだけで、その時は精一杯だった。



 オズ君は黒い頭を持ち上げ、何食わぬ顔でワタシを見ていた。



「アタシね、なっちゃんがあの列車事故に巻き込まれたってこともね、分かってたんだ」

「どうして、分かったの」

「そこにいる黒猫さんが教えてくれたの」

「オズ君が⁉」

「そうなの」



 当然、ワタシは目を丸くしながらオズ君に顔を向けた。



「ちょっとオズ君、聞いてないよそんなことっ」

「悪かったな、黙ってて」



 オズ君は真に申し訳なさそうに、素早くそっぽを向いて言った。ゆらゆらさせていた黒い尻尾が動きを止め、彼の体に巻き付くように動いていった。



「いつ、しーちゃんに話したの」

「お前が二つ目の〝夢〟に飛び込ンだ後だ」

「結構前じゃん、それ⁉」



 上ずる声のワタシに、オズ君は微かに首をひっこめた。



「流石によ、隠し通すのは無理だと思ったからよ」

「じゃあなに、二人してワタシを騙してたってわけ?」

「騙しちゃいねえよ。俺も小娘もお前の意識を取り戻すっちゅう、大仕事の真っ最中だったンだからよ」

「はーぁ」

「俺が悪かった」

「もういいよ、やめてってば」



 オズ君を制止すると、彼の尻尾はだらりと床に広がった。



 ワタシと紫月が切っても切れぬ関係ということを彼の口から証明してもらったところで、改めて彼女に向き直った。



 紫月も清々しい顔をして、ワタシを見ていた。



「ワタシ達って結局、あの日から繋がっていたんだね」

「そうだね」

「で、そのきっかけを作ってくれたのはオズ君、でいいんだよね」

「そりゃあのジジイだろ」

「オズ君空気読んで」



 ワタシは機嫌を悪くして、オズ君をジト目で見る。



 首を引っ込めた彼をしばし見て、ワタシは可笑しくなって噴き出した。今度は彼が機嫌を悪くしたみたいだ。



「ワタシ達って、どうして出会えたんだろね」

「タロットが導いてくれたからだと思うよ、アタシは」

「ま、そのしーちゃんとやらにはタロットでまんまと一杯食わされた訳だが」



 再び四つ足で立ったオズ君は、満を持したように「くふ、くふ」と笑った。



 ワタシは何度も耳にしたその笑い声に、はっきりとした親密感を感じていた。



「オズ君」

「あ?」


「ちょっと抱っこさせて」

「ああん?」



 返事を待たず、ワタシはオズ君の体を両手で抱きかかえた。



「お、おいっ」



 彼は声こそ出すも逃げはせず、無闇な抵抗もしなかった。



 これ幸いとばかりにワタシはオズ君を抱き寄せ、彼の鼻先にそっと口を付けた。



 オズ君の顔が見えるくらいに体を放すと、彼はオッドアイを真ん丸にしてキョトンとした表情を見せた。すかさず今度はおでこ同士をくっ付け、嬉しさいっぱいに思いを伝えた。



「ありがとね」

「んんんんんん」



 オズ君を壊れ物のように地面にそっと戻してやると、彼はその場でくるくる回ったり、見えない猫じゃらしで遊ぶようにのたうち回っていた。その時の彼が、一番愛らしかった。



 紫月はワタシとオズ君の様子を見つめ、やがて視線を横に投げて言った。



「もうこれで、アタシの役目も終わるのかな」

「しーちゃんが、もう〝天使〟じゃなくていいってこと?」

「それもそうなんだけどさ……」



 紫月は流し目でワタシを見てくる。

 彼女らしくない歯切れの悪い返事に、ワタシは単刀直入に言ってやった。



「〝夢〟から醒めて、ワタシとお別れするってこと?」



 紫月は、ようやくワタシをまっすぐ見た。



 落ち着きを取り戻したオズ君が状況を察したのか、彼女を見て表情を暗くする。



「勘違いしないでね、なっちゃん。アタシは〝夢〟から醒めたって、元気でいられる保証はないんだよ。なっちゃんと違ってさ」



 とてつもなく嫌な予感がした。



 彼女の口から、話の続きを聞かされたくなかった。脳が怯えて鼓動を早くする様子が、胸の奥から痛いくらいに理解できた。



「それって下半身不随……」

「ううん。ずーっと植物状態なの、アタシ」



 ここまで良い思いをしておいて、やってくる現実はこれである。



 この〝夢〟で共有した紫月とのやり取りが、ひどく生ぬるい出来事に思えた。



 呆然とするのも癪なので、ワタシはか細い声を振り絞った。



「ワタシのおじいちゃんが、やったんでしょ」

「違うよ。看護婦さんの不手際なの」

「まさかと思うけど、しーちゃんの包帯を取り換えたあの人?」

「そうなの」

「信じられない」



 こんな言葉を口にしつつも、彼女の言葉を信じるほかはなかった。



 紫月は〈祖父〉が落ちていった方向に目を向け、静かに息を吐いた。



「なっちゃんのおじいさん……トオジさんは、むしろ凄い人なんだよ」

「どういうこと?」

「アタシは元々腰骨の辺りに悪性腫瘍、平たくいえば癌があったの。しかも末期のね」

「末期の⁉ 酷すぎない?」

「もちろんショックだったよ。でもトオジさんはアタシを見捨てなかった」

「手術、したんだね」



 ワタシが答えると、紫月が向き直って頷いた。



「うん。放射線治療も普及してなかった時代に、トオジさんはメス一本でアタシの腫瘍を取り除いたんだよ」

「全身麻酔とか、もちろんやったんだよね?」

「うん。その麻酔が、アタシの人生を終わらせちゃったけどね」



 聞き捨てならない言葉に、ワタシは耳を疑った。



 中年看護婦の早口でまくし立てる様を思い出し、あの振る舞いが紫月の植物状態を招く前と後で変わった結果の産物だとしたら、何故だか同情したくなった。



「あの看護婦さん、何をやらかしたの」

「全身麻酔の後って自発的な呼吸ができなくなるから呼吸器を付けて貰うんだけど、看護婦さんは麻酔科医の指示を受けて間違えずにやってたと思うよ」



 経験したことはないが、全身麻酔を打たれた後の感覚を想像してみる。



 最初に手足の感覚がなくなって自由に動かせなくなる。腰、腹、胸の辺りの感覚もなくなっていき、それから眠気を感じて何も見えず、聞こえず、全ての感覚が消え去っていく。



 否、まったくの見当はずれかもしれない。綿飴みたいに全ての感覚が一挙に消えてなくなるのかもしれない。実体験がなくては想像のしようがなかった。それに近い体験ならば、〝夢〟の中で起きていた。母校の屋上から飛び降り地面に激突するまで×××と共有していた感覚、観覧車のゴンドラから転落し固いアスファルトの上に背中から叩きつけられるまでの宙に浮かぶ感覚。



 あの時、ワタシは死を覚悟していた。



 覚悟したと同時、諦めに似た解放感もあった。



 ワタシが〈ワタシ〉でなくなる感覚は、正にあの時に集約されていた。



 昏睡のようなとても深い眠りと死の間に決定的な違いを見いだせたとしたら、それは自分の中に存在していると思いたい。



 麻酔で意識を失う中で、夢を見たり幽体離脱をすることがあるのだろうか。もしあったとしたら、麻酔を打たれるのが怖くなってしまうのではないか。故に人生で一度も打たれず逝きたいと、妄想の果てにワタシはそう願った。



 我に返ると、紫月は目を閉じながら当時を思い出すように話を続けた。



「麻酔から覚めた後アタシの意識はまだぼやーっとしてて、呼吸は殆どできなくて、身体を動かすこともできなかった。誰の声もしない病室で、アタシは独りだった」


「看護婦さんが、別の手術の応援に行っちゃったの?」


「多分それ。看護婦さんが駆け付けた時にはもう、アタシの意識は朦朧としてた。うろ覚えなんだけどね、アタシの舌が喉まで下りたか痰が絡まったのが原因で、気道が塞がれちゃったんだと思う」


「ひどい……」


「でも看護婦さんを悪者にしないで。当事者全員で最善は尽くしたと思うから」



 話の後で、紫月の顔が暗くなる。頭上の金環の逆光によるものではなく、彼女の表情自体が暗いのがワタシには見えた。



 胸の内がまだモヤモヤしていたが、我慢して彼女と会話することに決めた。



「後はもう、分かるでしょ」

「分かるけどさ、やっぱり報われないのは嫌だよ」


「いいの。アタシは普通の人生送れないって、手術前から知ってたから」

「おじいちゃんの手術でも、ダメだったの」


「だから手術は成功したんだって。その代償に脊髄も犠牲にするしかなかったの」

「それで下半身不随に……」



 言った後で、胸と腰にズシリとした重さを感じたワタシ。



 紫月はしかし毅然とした面持ちをしていた。



「さっきまでここにいたトオジさんはきっと、アタシの知らない〈トオジさん〉だった」

「しーちゃんも、そう思ってたんだね」


「ホントかどうかは確かめられないよ? 〝悪魔〟をタロットに封じ込めるまで、アタシは〝天使〟としての使命を果たしていなかったから」

「結局、どうしてしーちゃんは〝天使〟でいるしかなかったの?」


「あの〝悪魔〟、つまりなっちゃんの〈おばあちゃん〉から生前授かった魔法に掛かっていたから……だと思う」

「はっきりしないね」


「アタシがタロットに出逢ったのはね、元はと言えばトオジさんの影響なの」

「えっ、またおじいちゃん⁉」


「また、は余計だよ。病院で寝たっきりのアタシにね、妻の忘れ形見だって手渡されたのがきっかけ。他にやることもなかったから家族にタロット占いの本を買ってきて貰って、そこから夢中になったの」

「そうだったんだ」


「それでタロットに詳しくなっていく内にね、夢の中で〝悪魔〟に……なっちゃんのおばあちゃんに出逢えたの」



 紫月がそっと目を伏せた。



 彼女の瞳をこじ開けるような勢いで、ワタシは全身を前に揺らして言った。



「その話、もっと聞かせて」

「もちろん。〝悪魔〟は若くしてこの世を去ったって話は、〈トオジさん〉が言ってたよね」

「うん、言ってた」


「夢の中で〝悪魔〟はアタシに言ったの。『あたしのタロットに関わると不幸になる』って」

「どういうこと、それ」

「『あたしが占った相手は不幸な結末を辿るのよ』って〝悪魔〟が言ってたのね。それから『あたしは〝天使〟の顔した〝悪魔〟に殺された。タロットからも見放されては占い師失格だ』とも言ってた」


「色々、奥が深そうな言葉だね」

「これはアタシの推測なんだけどね、彼女が言う〝悪魔〟はなっちゃんのおばあちゃんじゃなくて、彼女を早死にさせた病気を擬人化した存在だと思うの。それでなっちゃんのおばあちゃんが〝天使〟になって〝悪魔〟をやっつけたかったんじゃないかな」


「話が飛びすぎですよしーちゃんセンセ」

「ごめんごめん。真相は彼女にしか分からない。でもアタシはそうやって自分を信じ込ませてきたから、〝天使〟の役目を終えられたんだと思う。実際、映画の主人公みたいで楽しかったし。何より、なっちゃんを助けられて良かった」



 落ち着き払い、紫月はふんわりとした顔で笑った。



 連られてワタシも笑いながら、彼女との話を総括する。



「何ていうか、おばあちゃんのタロットが全ての始まりで、元凶なんだね」

「それでなっちゃんはもうすぐ、タロットに助けられる立場になるんだよ」



 澄んだ両目でワタシを見る紫月。



 溜め息を出すよりも早く、今の気持ちが言葉になって出ていった。



「ほんと凄いね、しーちゃんは」

「何が?」

「現実が残酷なのに、〝夢〟の中でさえ不自由な身だってのに、そこまで前向きに考えられるのは、正直凄いとしか言えないよ」


「それもこれも、あの人のおかげだよ」

「あの人?」



 ワタシはまたしても自らの鈍感さを恥じることになる。



 まつ毛の綺麗な目を細め、紫月は静かにその言葉を口にした。



「トオジさんに恋してたから」

「うええっ、おじいちゃんのどこに惚れたの⁉」

「そりゃもう、優しくてあったかいところ」



 一体祖父がいくつくらいの時だろうと考えが頭を巡り、野暮な気がしてすぐ止めた。



 紫月は目線を合わせぬまま、後ろを振り返るように呟いた。



「だからかな、女乃君が〝夢〟に現れた時にトオジさんの面影を感じたのは」

「そんなまさかあ」

「ホントだって! じゃなきゃ〝夢〟でもあんなに夢中になれなかったもん」

「そうなんだ、ゴメン」

「謝んなくていいって。ね、黒猫さん」



 オズ君は寝起きみたいにブスッとした顔で紫月を見上げた。



「あンで俺に話を振るんだよ」

「だって人生経験豊富そうだからさぁ。猫だけど」

「意味不明だ」



 若者みたいにオズ君が返答する。



 紫月は実に嬉しそうだ。ワタシも自然と笑みがこぼれていた。



「アタシ駅の中でさ、女乃君と……くっついてたじゃん?」

「えーと、そうだったかも」

「わざわざメールまでして祝ってくれたくせにぃ」



 紫月は小柄な身体を大きく見せるように、勝ち誇った顔をしている。



 彼女の記憶の引き出しの多さに敗北感が募った。



「うわ、しーちゃん覚えてたの?」

「何でそこで引くのぉ?」

「びっくりさせるつもりはなかったよ。ただ、その、ちょっと妬けたっていうか」

「なっちゃんも乙女ですなぁ」

「うっさい」



 顔が火傷寸前まで赤くなっている、と温度を感じない身体で感じるワタシ。



 紫月は無邪気に笑っていた。



 傍らのオズ君までもが愉快に笑っていた。



「まあ〝夢〟でもトオジさんを想ってたことは譲れないよ、なっちゃん」

「ワタシはそれでいいと思うよ、しーちゃん」



 叶わぬ恋と分かっているが、だからこそ私は彼女を支えてあげたかった。



 小さく笑い返す紫月。



「ありがとう」

「ワタシ思ったんだけどさ、この世界は〈おじいちゃん〉が作った〝夢〟なんだから、きっと何処かに本物の彼がいるんじゃないかな」



 当てずっぽうもいいところだが、ワタシはそう推測して言った。



 紫月はすぐに首を横に振った。



「ううん、この世界は〈トオジさん〉が作った〝夢〟なんかじゃないよ」

「えっ⁉」

「アタシの〝夢〟だから」

「なんか、ほんともう……頭の中ぐっちゃぐちゃだ」



 彼女の言うことが上っ面の口の端でないことは重々承知している。



 理解してはいけないのか、とワタシは独り煩悶する。



「〝夢〟って一度は現実に絶望して、それでも挫けない強い意志を持った人じゃないと見れないと思うの。流石に死んじゃったら元も子もないから、アタシみたいにまだ現実で息があることも大事。今アタシがこうして〝夢〟を見れているのは、トオジさんへの未練が色濃く残っちゃってるからだよ、きっと」


「ひょっとして、ワタシの〝夢〟と混ざってたりしない?」


「確かにそうだね。なっちゃんがこっちの世界で電車から落ちていくまでは、なっちゃん自身の〝夢〟とごちゃ混ぜになってた。もしかしてなっちゃん、電車から落ちるまで温かい感じとか冷たい感じとか、まだしてたでしょ?」


「うんっ」



 彼女の投げた言葉を、思わず力んだ返事で受け取ってしまったワタシ。



 列車から転落し〝夢〟に迷い込んでから、頭の片隅で気にかけていたこと。それがまさしく温度を感じないことだった。



 ワタシの返事を聞くと、紫月は目線を胸元まで落としてから言った。



「やっぱりそうなんだ」

「え、どうかしたの」

「もしかしたら向こうのなっちゃん、ううん、院長室で眠ってるなっちゃん自身が……」

「嘘でしょやめて、死んだっていうの⁉」



 思わず両手で口を覆ってしまうワタシ。



 奥井と金森の言っていたことが、現実になってしまったというのか。



 だが紫月は細い首を横に何度も振り、力強く否定する。



「まだ分からない。最後の決め手は、なっちゃんのおばあちゃんがくれたタロットだよ」

「タロットが? どういうこと?」


「タロットに導かれた者が辿り着く場所……っていったら大げさだけど、おばあちゃんが持ってたタロットは、アタシみたいな未練の強い人間と関係する人を、時間を超えてこの〝夢〟に結び付ける役目があるんだよ。それがアタシの言う魔法ってわけ」


「しーちゃんは、タロットがなくなっても平気なの?」

「平気。むしろ、なくなってくれた方がアタシのためになる」



 紫月はきっぱりと言い切ってみせた。



 対するワタシの脳内は、またしてもモヤモヤし始める。



「どういうこと?」

「タロットの魔法はね、見方を変えれば呪いでもあるの。アタシとなっちゃんみたいに、生きてるか死んでるか曖昧なままの二人を結び付けて、助かるのはどちらか一人だけっていう現実を突きつけて来る―――それが、タロットの呪いだよ」

「それならどうして、しーちゃんは自分が助かりたいって思わないの?」



 紫月が呆れたように細く長い溜め息を吐く。



 ワタシはどうやら、言葉の裏を読み損ねたようだ。

 


「アタシがあっちに戻ったとしても、トオジさんとお喋りできないもの」

「あっ」

「それに、アタシは普通の人よりずっと他人の助けが必要だったし、これからもそうなる。アタシはもう十分、自分の人生を生きたつもりだよ」



 図らずして不幸になってしまった二人のうち、一人を幸せにしてくれる。



 祖母のタロットは客観的に見れば社会的に()()()()をしてくれている。だが倫理的にはどうなのだろう。〝夢〟の中で仲良くなれたのに、現実では無常な喪失感ばかりが残ってしまうのではないか。



 紫月はワタシが考えることも全て見越した上で、ワタシを助けてくれるというのか。



 今のワタシは全てに納得が行かないままでいることには違いなかった。

 


「なっちゃんは落ち込まなくていいんだって。アタシに任せてっ」

「ワタシはしーちゃんがここからいなくなっても、すぐに死んだりしないよね?」



 自分を可愛いと思う気持ちが、ここ一番で強まっていくのをワタシは感じた。



 紫月はやはり力強く頷き、ワタシの憂慮を即刻吹き飛ばした。



「アタシ自身の魔法で、なっちゃんを死なせはしない」



 言霊というものは、確かに存在していた。



 喉の奥から何かを声に出したがっていたワタシはしかし、我慢してそれを呑み込んだ。代わりとして、彼女に直近で聞きたいことだけを尋ねた。



「さっきの〝夢〟についてだけど……おじいちゃんの偽物が作った〝夢〟も、オズ君と歩いてきた終わりのない道もぜーんぶ、しーちゃんの〝夢〟ってことでいいの?」



 今度は重々しい雰囲気もなく、軽快な動作で紫月が頷く。



「黒猫さんのを除いて、ね」

「そうなの、オズ君?」

「ああ。あの場所だけは俺のテリトリーだ」



 オズ君は特に不機嫌でもなく、淡々と返事をした。



 ここまで来ると、ワタシでも彼の人となり(猫となり?)を分かっていたつもりだ。



「ワタシが〝夢〟から醒めるまでのお留守番を、オズ君はやってくれたんだよね?」

「そういうことにしといてやる」

「もう何それぇ」



 そっぽを向いて言葉を切ったオズ君。彼がいくらぶっきらぼうでも、ワタシはとうに満足していた。



 それから、ワタシは屋上入口の扉を見て、ふと思ったことを口にした。



「トオジおじいちゃん、何かやり残したことあるのかな」

「それならなっちゃんの方が詳しいでしょ」

「って言われてもほんとに小さい時の話だよ?」

「何か話、聞かされたんじゃないの」

「うーん……あっ」



 遥か彼方の記憶を辿り、割とすんなり目当ての物を掘り出すことができたワタシ。〈祖父〉と対峙していた時は全く思い出せなかったのは幸か不幸か。



 紫月が前のめりになり、身体を寄せてきた。



「思い出した?」

「確かトオジおじいちゃん、昔手術で失敗して悔やんでた話してたよ」

「それ絶対アタシのことだよ!」



 紫月の大きな瞳が爛爛と輝く。



 応えるようにワタシもしっかり頷いた。



「おじいちゃん、あの手術の後で一度は医者を止めようかと思ったって言ってた。被害者家族にも散々罵倒されて、正に人生のどん底とも言ってたかな」

「そっか。トオジさん、相当ショックだったんだね」


「でも、最後はいつもこう言ってた。私は最善を尽くした、いつか彼女が〝夢〟から醒めてくれると私は心から信じているって」

「トオジさん……」



 紫月が祖父の名を呟き、苦しさよりも嬉しさを多分に孕んだ胸を掴んだ。



 反対に胸が締め付けられる気持ちで、ワタシは自らの身体に手を置いた。



「だとしたらワタシ、トオジおじいちゃんに非道いこと言っちゃったかも」

「大きくなったらお医者さんになる、って?」



 紫月に小さく「うん」と返事をするワタシ。



「子供だったから仕方ないけど、子供だからこそ無責任なことも言えちゃうんだよね」

「自分を責めちゃ駄目だよなっちゃん。昔から立派な夢、持ってるじゃん」



 彼女がワタシの手を取り、力強く握ってくる。



 ちょっぴり驚いて、ワタシも彼女の小さな手を握り返した。



「ありがと。しーちゃんは優しいね」

「アタシは人生の大先輩だぞ……あっ」



 ワタシ達の視界の端が、柔らかく光った。



 存在をないがしろにしていた紫月のタロット達が、青白い光を輝かせながら来るべき時の知らせを告げていた。



 お互いそっと手を放し、宙に浮かぶそれに目をやる。



「アタシの〝夢〟……もうすぐ終わっちゃうんだね」

「どうして判るの?」



 一度タロットに向けた視線を外し、紫月は力なさげにそう言った。



 ワタシは間もなく彼女の言葉の真意を問う。



 紫月はその場で翻り、ワタシから背を向けた。



「アタシは天使の役目を果たしたし、なっちゃんのためにも最善を尽くした。あとはもう、〝夢〟と現実の両方で消えてなくなるのを待つだけだよ」



 彼女がふと、寂しそうな声でそう言った。



 自らの意思に逆らえないワタシは、込み上げてくる感情に流される。



「ダメ、やっぱりこんなの嫌だよっ」

「わがままいわないで」

「しーちゃんは、ワタシを助ける義務なんてないよね?」

「なっちゃんは、アタシが助からない方が嫌だっての?」



 紫月の細い眉が、どちらとも吊り上がった気がした。今なら許してあげなくもないという彼女なりのサインが、その時はっきりと感じられた。



 それなのにワタシの心は理解することを拒み、震え上がった声になって吐き出された。



「ぜったい嫌だっ、ワタシの代わりにしーちゃんが戻ってほしいよ」

「馬鹿言わないで! アタシが何のために頑張ってきたってのよ!」



 猛烈な速さで踵を返した紫月が、ワタシを鎮めた。



 彼女は、あの暗闇の中で言ったことを繰り返した。



 彼女の顔が、彫刻刀で模様を刻むようにワタシの脳裏に焼き付いていく。



 彼女の声が、冷や水を被せるようにワタシの心の臓へと染み込んでいく。



「しーちゃん……」

「ごめん。ちょっと言い過ぎた」



 こんなワタシでも他人のために熱くなれるんだ。



 地面に落ちた何滴かの雫が瞬く間にシミを作り、泣いていたことに気付かされるワタシ。



「うん」

「なっちゃんは〈なっちゃん〉にもどらなくちゃ、ダメなんだよ」



 制服の袖で乱暴に涙を拭い、ぐちゃぐちゃの顔で彼女に答えてやる。



「わかった」



 紫月の顔は、とうの昔に覚悟が決まっていた。彼女はワタシが思っていたよりずっと、芯が強くてたくましい子だった。



 揺らいでいたワタシの心も、とうに落ち着きを取り戻していた。



「ホントはね、なっちゃんとずっと一緒にここにいたいの、アタシ」

「うん。ハッキリ言ってくれたもんね」


「でもね、時の流れは残酷なの。なっちゃんの目に映ってるアタシは子供だけど、心だけは何十年も歳を取っちゃってるの」

「しーちゃん、やっぱり無理して……」



 ワタシが言いかけると、紫月は首を大きく何度も横に振った。



 サラサラした髪先が夜風と共に揺れ、彼女の顔を掠めてすぐにストンと落ちていく。



「なっちゃん分かってないよ。何にもっ」

「えっ?」

「アタシは最初っから、自分にできることをやってきたんだよ?」



 この言葉は、〈紫月〉も確かに口にしていたものだ。



 紫月の声は張り詰めているが、怒りや焦りは微塵も感じられない。

 


「しーちゃんに、できること?」

「トオジさんから私に孫ができたって話を聞かされた時ね、とっても嬉しかったの」



 ワタシは紫月の言葉に対し、首を真っすぐ縦に振った。



 なんとなくだが、彼女がこの後言いたいことが分かった気がした。



「ワタシと友達になってくれたのは、それが一番の理由?」



 しかし、紫月はまたも首を横に大きく振った。



「違うよぉ。最後まで話を聞いてってば」

「ご、ごめん」



 思わず肩を竦めたワタシ。



 紫月は意地悪そうに口元を綻ばせた。



「なっちゃんが女の子だってこと」

「……へ?」



 声が裏返ったのを自覚するワタシ。



 紫月は可笑しそうな顔を続けている。



「アタシも早とちりしちゃってさ、最初はなっちゃんのこと男の子かと思ってた」

「ま、孫ができたって言われたら、そうなるかもね」

「でもね、それで良かったの」

「う、うぅん?」



 話が見えないまま、ワタシは紫月に合わせるばかり。



 紫月の表情はいつの間にか、少しだけ固くなっていた。

 


「もしなっちゃんが男の子だったらアタシ、絶対恋煩いして嫌な思いさせちゃったもん。トオジさんへの未練たらたらで、みっともないでしょ」



 嗚呼そういうことか、と口に出すのをすんでのところで止めるワタシ。



 彼女の経緯を知ってしまった以上、軽はずみな返事はできなかった。



 その代わりと言ってはなんだが、ワタシは紫月に向かって微笑んだ。



 すると彼女も察したのか、いつもの楽しげな顔に戻ってくれた。



「ワタシは女乃君の代わりになれないからね、しーちゃん」



 紫月は「分かってるよそんなこと」と返しつつ、赤らめた顔を横に向けた。



 しーちゃんだって、心はうら若き乙女のままなのだ。



「なっちゃんはアタシと同じ女の子だから、応援してあげようって決めたの」

「しーちゃんがワタシに出来ることは全部、今の言葉に詰まってるんだよね」



 横向きのまま返事をした紫月にワタシが確かめるように問いかけると、彼女はこちらを振り返り、小さく頷いた。

 


「学校で過ごしたこととか、外で一緒に遊んだこととか、思い出させてあげられないのは悔しいけど、過去の事ばかり気にしてちゃお互いのためにならないからね」



 紫月はそう言いながら両手を後ろに組みつつ、澄ました顔になっていた。



 彼女が満足してくれれば、この約二年間は無駄ではなかったのかもしれない。



 紫月が後ろ手に組みながら、上半身だけを少し前に傾けてワタシに告げた。



「なっちゃんは()()()()んだから、もっといっぱい悩まなくっちゃ駄目なんだよ」

「悩まなくっちゃ、駄目?」

「悩んで悩んで悩み抜いて、自分の夢と向き合うのっ」



 ―――夢か。



 将来の夢は未だに見つかっていないワタシ。



 夢が見つからないのは、夢に対して悩み足りないからなのだろうか。



 ワタシはワタシ自身の人生と、これまで真剣に向き合って来なかったから、夢が見つからないままでいるのだろうか。



 ワタシの脳内堂々巡りに痺れを切らすように紫月がスッと近づき、小さな両手でワタシの顔をグイと持ち上げた。



 当然、ワタシは驚きながら彼女と目を合わせた。

 


「もう、どうしてそうやって深く考え込んじゃうの?」

「そ、そんな風に見えるの、ワタシ?」

「見てないようでちゃんと見てるからね、なっちゃんの悪い癖」



 思わず問い返したワタシに、紫月は溜め息を吐きながら両手を取り下げた。



 一歩ワタシの後ろに身を引き、彼女はしんどそうに片手で頭を抱える。 



「あー、こんなことならもっと真面目に話しておけば良かったかなぁ」

「な、何を?」



 絶え間なく表情を変える紫月に、ワタシはまたも付いていくのがやっとだった。



 ワタシの再びの問い掛けに、彼女は頭をゆっくり持ち上げてから言った。



「将来の夢について、だよっ」

「将来の夢……」



 言葉を繰り返すまでもなかった。



 紫月はワタシが思うよりずっとワタシの事を考え、行動してくれていた。



 彼女はその場でクルッと背を向け、夜空の金環に向かうようにしてワタシに言った。



「アタシの将来の夢って、何だったと思う?」

「何だろう……」



 正直なところ、思い当たる節がなかった。



 掴みどころのない彼女のことだから、どんな夢でも可笑しくはなさそうだったからだ。



 暫くすると紫月は振り返り、またも考え込んでいたワタシを愉快そうに眺めつつ、答えを口にした。



「学校の先生だよ」

「へえぇ、どうして?」



 驚き半分、納得半分で紫月を見返しながら聞き返すワタシ。



 すると彼女は両目を細めながら、今度は落ち着いた声色で答えた。



「悩める生徒に手を差し伸べるのがアタシの夢……だったからかな」

「それ、いいと思うよ」

「ホント? ありがと、なっちゃんっ」



 喜びのままに、紫月はワタシの手を取ってお礼を言ってきた。



 両手を伝わる彼女の暖かみはやはり感じ取れないものの、たおやかながらもしっかりした手つきは、ひとたび握れば誰でも信用させそうな不思議な魔力があった。



「本音を言うとね、アタシもなっちゃんくらいの年の頃はね、将来の夢なんて浮かばなかったの」

「流石にガンを患ってたら、無理ないよね」

「ううん。そんなの気にしてなかった。むしろいっぱいありすぎて、一つに絞れなかったの」

「へぇ、そうだったんだあ」

「あ、疑ってるなぁその顔」

「んな訳ないでしょこのこのっ」

「ちょっとやめてってばぁ」



 小柄な彼女を取り込むように、ワタシは紫月の頭をワシワシと撫でまわした。



 満更でもない様子で、紫月はワタシから離れようともがき続けた。



 暫くして満足したワタシは、紫月からゆっくりと離れていった。



 乱れた髪を両手で軽く流し整えると、紫月は割と穏やかな目つきでワタシに言った。



「先生になるためにはさ、人生経験豊富じゃないと生徒たちに良いアドバイスできないでしょ?」

「そうだね」

「でも結局、アタシには十分な時間が与えられなかったからなぁ」



 人生は短い―――彼女の運命を共有したワタシに重くのしかかってくる言葉だ。



 それでもワタシは、今を全力で生き抜いた結果として、この言葉を前向きに捉えた。



 それが、紫月にとっての救いとなるなら本望だ。



「それじゃあワタシが最初で最後の生徒だね、しーちゃんセンセ」

「実は狙ってたんじゃない、その呼び方?」

「えぇ~まっさかぁ」



 紫月はワタシを〝夢〟から醒めさせるため、きっと長い回り道をしながら頑張ってきた。



 ワタシは最後まで、彼女に何もしてあげられなかった。



 彼女の未来を変えられないのは、一人の友として胸を締め付けられた。



 それを認めることでしか前に進めないのなら、彼女が歩めなかった分の時間まで悩みまくって、将来の夢に向き合うのがワタシにとっての恩返しになりそうだ。



「ワタシは親友としてのしーちゃんに感謝と敬意を込めて、そう呼ばせて貰ってるんですっ」

「まあ、それもそれで悪い気はしないけど」

「しーちゃんも素直じゃないですねぇ」

「うっさい」



 こうやってバカやれるのも今の内だけだと思うと、現実に戻った時が少し不安になった。



 こんな時だからこそ、ワタシは自身の行く先を示してくれる何かを求めていた。



 幸いなことに、その何かはワタシの鼻先三寸に出揃っている。



 視界の端でしきりに自己主張するそれらに目を遣りつつ、ワタシはしっかりした声で言った。



「ねぇしーちゃん、最後にワタシのこと占ってよ」

「えっ?」

「タロットなら、まだそこにあるでしょ」



 未だワタシの横で宙に浮いたままのタロットの束を指差し、ワタシはそう言った。



 本心で占って欲しいと思っていたのに、紫月はクスっと笑った。



「もう答えなら出てるよ、なっちゃん」

「どういうこと?」



 皆目見当もつかなかった。



 小首を傾げるワタシを尻目に紫月は背後に回り込み、本物のタロットがある方へと背中を押した。もたつく足元に目もくれず、小柄な彼女はワタシをグイグイ動かしていく。



「ほらもう時間がないよ。急がないと」

「わっ、ちょっとしーちゃんてば」



 為すがまま、ワタシは青白く光るタロットの束を、両手で掬い上げるように取った。どこか懐かしい感触のするタロットの束を見て、そっと鼻先を近づけてみる。



「教室の匂い……それに、チョコの匂いもする」

「懐かしい?」

「うん……」



 往時の雰囲気を想起させる芳醇な香りに、ワタシはしばし両目を閉じた。たった二年間、いずれは泡沫となって消えてしまう二年間を今この瞬間だけでもと、ゆっくり息を吸っては吐き出し、甘くて苦い思い出だけを取り込んでいく。



 紫月の大事なタロットは、ワタシにとっても大事なものだったのだ。



 ゆっくり目を開けたワタシの前には、先と変わらぬ紫月が微笑んでいる。



「最後に気づいてくれてありがとね、なっちゃん」

「しーちゃんがもう天使じゃなくてもいいってこと?」

「うん」



 小さく頷き返す紫月。



 ワタシは彼女を見つめることが、少しばかり辛く感じていた。



「ワタシもね、本当はしーちゃんとここでずっと、友達でいたい」

「なっちゃん……」

「でもしーちゃんの言う通り、時の流れがそれを許してくれない。ずっと続くと思ってたこの世界の〝夢〟だってもう少しで醒めて、現実に戻っていくんだもんね」

「……うん」



 紫月の返事は、さっきよりも弱々しかった。



 しかし不安気な様子は最早感じず、ワタシの気持ちをその身に受け止めた上での短い返事だった。



「向こうの世界に戻ったらワタシ、自分の夢にちゃんと向き合うよ。夢と現実はバラバラじゃない。ワタシの中で一つに繋がってるから」

「応援してるからね、なっちゃん」

「ありがとね、しーちゃん」



 ワタシは、紫月の目線よりもほんの少しだけ下を見ながらそう言った。



 彼女の方も察してくれたのか、ワタシを無理に見つめようとはしなかった。



「ワタシたち、また会えるよね」

「アタシもそうしたいな」


「おじいちゃん繋がりで出会えたんだし、案外ご近所さんかもね」

「そうかもね」


「しーちゃんって、向こうだといくつなの?」

「たぶん、なっちゃんよりずっと婆さんだね」


「それじゃもしかして、ワタシのお母さんより年上?」

「えー? それは秘密だよ」

「ひどーい。意地悪だなぁ」



 二人して、その場で楽しく笑い合う。



 ワタシ達はもう、クラスメイトではなくなった。



「それじゃ、これで本当にお別れ」

「……うん」

「タロット、上に投げてみて」



 無言でタロットの束を宙へと放り出す。



 舞い上がったタロット達は独りでに空中で静止したのち、カードに書かれた番号順に並んでワタシ達の頭上に小さな円環を形作る。



 紫月は口を結んだまま、タロットの元へと音もなく歩を進めていく。



 遥か頭上の金環とタロットの円環が、ワタシの視線から一直線に重なる。



 その直線上に立ち入った紫月が、ワタシの方を振り返った。



「短い間だったけど……こんな〝夢〟の中でしか会えなかったけど……アタシの友達でいてくれて、ありがと」



 彼女の涙を見たのは、その時が初めてだったかもしれない。



 紫月は再び背を向いて顔だけをこちらに向け、次の一言を残し、空白の一枚を埋めた。



『「バイバイ、なっちゃん」』



 タロットの一枚一枚が円環を崩しつつ一点で重なっていき、一段と強く発光した後で自動的にワタシの手元へと向かってきた。完成されたその一枚にはローマ数字で「21」と表記され「THE WORLD」―――〝世界〟の文字が銘打たれていた。



 つまるところ、これが占いの結果である。



 大アルカナ最後の一枚に相応しい壮麗なデザインに心奪われていると、ワタシの脳裏に名前の思い出せない男子二人と女子一人の笑った顔がぼんやりと浮かび、さざ波に運ばれるように海の一部へと還っていった。



「じゃあ、ワタシ達も行こっか」

「ああ」



 複雑な想いは胸に留めたまま、ワタシ達は病院の屋上を後にする。




      ✡




 ひっそりした院内を少しだけ彷徨って、院長室の前までたどり着いたワタシ達。ドアノブを回してみると鍵は掛かっておらず、そのまま扉を押して中に侵入した。



 モンワリとした煙草の臭いに辟易しつつ、数歩前に出て室内に人気がないことを確認する。子供の頃にちょっとだけここにお邪魔したことがあったが、当時の記憶とはかなり様変わりしていた。



 床に敷かれた高級そうな絨毯、室内中央の来客用ソファ、天井近くから突き出たカモシカやヘラジカの頭部はく製、ガラスのショーケースに容れられたトロフィーの数々―――が一切なくなっており、残っていたのは奥にある院長用の特製デスクと、そのすぐ後ろにある大きなガラス窓と、座高の高い黒の回転椅子が背を向けているだけだった。



「ワタシの本体は、あの部屋の中だね」

「おそらくな」



 先導するオズ君に、ワタシは歩幅を小さくして後を追う。デスクの横に取り付けられた控えめなドアまでやってくる際に椅子の方を見たが、誰も座っていなかった。



「どうだ、鍵開いてるか」

「待って……あ、大丈夫みたい」



 未だ金環日食の影響で真っ暗な室内を、入口付近のスイッチを押して灯りを点ける。部屋は十畳ほどの大きさで、中央に清潔感のある真っ白なベッドが置かれていた。その脇には車椅子があり、点滴用具一式もある。



(見つけた)



 そしてベッドの上で眠っているのが、本当のワタシである。今のワタシよりも顔は骨ばって頬はこけ、肩までしかなかった髪はシーツからはみ出る程に伸びていた。掛け布団が上下していることから、自発的な呼吸はしているみたいだ。



 まだ息がある、それだけで本当によかった。



 昏睡状態なのに呼吸器は必要ないのかと困惑したが、〝夢〟と現実が如何ほど混ざり合っているのか気にしている暇は生憎なかった。



 別に再会できて感動するわけでもない。今ワタシの目の前に〈ワタシ〉がいる。ただそれだけの緊張感があった。



「とっとと片付けちまうぞ」

「う、うんっ。分かってるってば」



 掛け布団を払い、彼女の背中と太ももの下に指を滑らせる。



 パジャマ姿のワタシは、意外とズッシリしていた。お姫様抱っこで持ち上げてから車椅子に乗せるまでに足元が何度もふらついてしまったが、あとはこれを押して303号室まで運んで寝かせて、仕上げにタロットの力で何とかなるだろう。



 トントン拍子で事が進んでいく中、オズ君と一緒に部屋を出てドアを閉めると、何やら血痕のような赤い斑点が廊下に何滴も落ちているのが見えた。



 院長室の入口へと本物のワタシを乗せて車椅子を押していくと、開きっぱなしのドアから見える窓ガラスがバシャアンと割れ、忘れかけていたあの女性が乱入してきた。一度口を開けば止まってくれない、七面倒な中年看護婦その人であった。



 それに、現実の紫月を実際に殺めてしまった本人でもある。



 急停止させた車椅子が慣性力に従い、座する者の頭と髪をカクンと揺らす。



「まだよ、あたしは諦めないからねぇ」



 しかし中身は〈祖母〉だった。最早〈祖母〉かどうかも怪しいが。



 タロットへと還る寸前に魂だけを憑依させたのか、看護婦の瞳は真っ赤に揺らいでいた。余計な口を挟まず彼女は襲い掛かって来る。



 心配は杞憂だった。目の前にいたオズ君が彼女の数倍早く動いて、迫る彼女の顔面をバッテンの形に引っ掻いたのだ。



 中年女性らしい年季の入った呻き声を上げ、〈祖母〉はうずくまる。



「走れ、娘っ子!」



 彼の目を見て大きく頷いたワタシは、院長室を飛び出した。同階303号室までのおよそ三百メートルを、非常灯の緑色に照らされながら無我夢中で走り抜ける。その間、本物のワタシを乗せた車椅子の取っ手近くに貼られていたシールを見て、これが303号室の物だと気が付いた。



 それともう一点、院長室から続く血痕がワタシ達と全く一緒の道程を辿っていたのだ。尋常でない予感に、胸騒ぎがした。



 廊下の窓から見上げる空は墨色になっていた。



 非常灯の明りが、血痕が303号室までの道程を錆色に汚す様を克明にする。ドアは先の一件で室内側に倒れ込んで段差になっていたので、車椅子での侵入が困難になっていた。



 だが、弱音を吐く猶予は与えられていない。



 ここ一番の力を両腕に込め、車輪を段差の上に乗せることにどうにか成功する。勢いを殺さず紫月が寝ていたベッドまで車椅子を押し寄せ、首の座らない本体を抱き上げてベッドに寝かせ終えた、次の刹那だった。



 パーン、と風船の割れるような音と共に、頭のすぐ上を豆粒ほどの何かが掠めた。



「おっと外したか。だが次は無いぞ、なち」



 音のした方を振り返ってみると、〈祖父〉がいた。悪魔に襲われた首の横からおびただしい出血で白衣を真っ赤に染めているにも関わらず、入口付近の壁に寄りかかって身体を支えながら拳銃の口をこちらに向け、次弾発射に備えて撃鉄を起こしていた。



「まだ、息があったんだね」

「戯言を。私は抜け殻だ。生まれ変わる為の器を取り戻しに、来たのだ」



〈祖父〉が銃口を本物のワタシへと移す。先の一発目は単に次は外さんという宣告だろうか、それとも射撃の腕前を披露したかっただけなのだろうか。狂気に取り付かれた人間の性ゆえにそもそも理性的判断すら危ういように思えた。



 一方のワタシは、制服の内側に挟んでおいた一枚のカードを抜き取り、左右上端を両手の指先で摘んでみせる。



「このカードがどうなってもいいの」

「賢しい真似をするな。そいつを破壊すれば、お前もこの世を延々彷徨うのだぞ」



〈祖父〉が、銃を構え直す。



 とかく時間稼ぎをしなくてはと、ここは法螺を一つ吹いてみる。



「おばあちゃん言ってたよ、このタロットは選ばれた人間にしかまともに扱えないって。アンタが使ったって、逆にタロットに飲み込まれるだけだって!」

「何を抜かすかっ、孫娘とて容赦はせんぞ!」

「アンタなんかおじいちゃんじゃない!」



 目元を歪ませ激昂した〈祖父〉が銃を両手で構え、一触即発の状態に突入する。



 虚勢を見抜かれ、カードを持つ手がプレッシャーに屈して震え出すのを懸命にこらえるワタシ。双方無言のまま、時は何も語らず過ぎていった。



 黒い空に浮かぶ金環が、形象を崩していく。



 凄烈に漏れ出した陽光が病室の前後から差し込んでくる―――場の空気が、揺らいだ。



 眩さに目を手で覆うワタシ。



 引き金を弾いて弾丸を発射させる〈祖父〉。



 ワタシと〈祖父〉の間に割り込んできた黒い影。



 全てが同時進行だった。




 目を開けば三人目のワタシがワタシを庇っていて、向こうの〈祖父〉は射撃直後のまま固まっていた。




「間に合ったな」



 大の字で立ち、胸部ど真ん中に赤いシミを作る影の正体は、ハスキーな声の青年だった。



「オズ君っ⁉」



 青年は返事をせず、撃たれたばかりの身を燃やさんばかりの勢いで、茫然とする〈祖父〉へと突進していった。〈祖父〉が我に返る頃には撃鉄を起こすも間に合わず、青年に壁際で組み付かれることとなる。



「娘っ子、タロットをそいつの上に置いて覆い被されっ」



 青年が〈祖父〉を押さえつけながら、こちらを振り返って叫ぶ。



 放せ放せと猛獣のように暴れながら、バァンバァンと当てずっぽうに打ち出される弾丸が部屋中に炸裂する。銃口が吠えるたび怯むワタシに、振り返った青年からの怒声が飛んでくる。



「あくしろってンだ、なちっ‼」



 彼の素顔は、遊園地の〝夢〟で性転換したあの時のワタシだった。



 なぜなのだろう。その時は疑問に起こす余裕もなく、タロットを本体の心臓辺りに置き、自らの心臓と重ね合わせるようにして密着した。



 投げ出された両手に指を絡め組み従え、あとは―――キスか? 



 だとすれば、ファーストキスは自分自身だ。ナルキッソスも叶えられなかった夢を、ワタシは臆せず実現させる。



 わき道逸れず、額から鼻先へと順繰りにひっつけて、彼女と僅かに異なる色合いの唇をそっと落とした。ワタシの全身が、失いかけていた感覚に狂喜する。



 代わりに光が、消えていく。


 代わりに音が、消えていく。


 代わりに風味が、消えていく。


 代わりに匂いが、消えていく。



 二年の歳月で過ごした仮初めの現実が、急峻な勾配を下る瀑布の如くワタシの意識を飲み込もうとする。



 気を抜けばたちどころに〈ワタシ〉を見失いそうになる中、二人の自分の違えた道が一つになっていく充足感が、際限もなく増していく。自らの尾に噛み付くヘビみたいに始まりと終わりを結ぶのではない。



〝夢〟で生きてきたワタシから、あるべき場所で待ちわびていたワタシへと意識のリレーが行われるのだ。



 ワタシがワタシの中へと溶けていき、文字通り一体化する。

 


 お互いの細胞が拒絶し合うこともなく、肌と肌の隙間が熱を帯びて境界を曖昧にしていく。二色の絵の具を混ぜて新しい色を作るように〈ワタシ〉だけが〈ワタシ〉として、〈ワタシ〉の温度を感じるだけだった。





 ただいま〈ワタシ〉。



 おかえり〈ワタシ〉。



 欠けていたあんたの時間は〈ワタシ〉が持ってきたよ。



 なに、やっと来たのか遅いんだよって?



 勘弁してよ、アンタ自身がせっかちなのがいけないんでしょうが。



 お父さんとお母さん、すっごいショック受けてるの?



 特にお母さんなんか、家事すらまともに出来ないくらいノイローゼだったって?



 分かるわソレ、お父さんもよくあんなピーキーな人と結婚できたよね。



 コレ、本人には内緒だからね。



 どうせアンタは〈ワタシ〉に戻るんだから出来ない?



 いけねっ、忘れてた。



 えっ、あの看護婦には絶対お礼を言っとけって? どうして?



 ―――〈ワタシ〉が眠ってる間にちょくちょくお世話をしてくれた?



 あーそっか、昏睡状態って本当に何もできないんだね。



 それじゃ目が覚めたら看護婦さんの愚痴、夜通し聞いてあげなきゃだね。



 中学の時の同級生、お見舞いの品いっぱい持ってきてくれてるの?



 色紙、千羽鶴、ぬいぐるみ……それからチョコも?



 一体だれが持ってきたの? 動けないんじゃ食べられないよ。



 チョコ持ってきたの、ツインテールの小っちゃい子?



 クラスにいたかなぁそんな子。



 ん、今度は〈ワタシ〉の方から色々聞かせて欲しいって?



 よーし、じゃあアンタの身体に〈ワタシ〉が馴染むまでたっぷり聞かせてやるから覚悟しとけよ~?



 まずは第一志望の受験が終わって家に帰ったところから?



 それってのっけからじゃん、自信ないよぉ……






 偽りの夜が明けた二〇一五年未明―――〈ワタシ〉が、再起動した。

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