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線路と暗闇の狭間にて  作者: にのまえ龍一
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暗闇と黒猫その三、病院の〝夢〟

〈注意!〉文字数が約30,000字と多いので、適度に休憩を挟んでお読みになってください。














 暗闇の中、何かに捕まって揺さぶられている感覚がする。



 ジェットコースターのように乱暴な訳でも、コーヒーカップのように好き勝手に揺られている訳でもない。意識を取り戻した時からただ単純に、ゆるやかな一定のリズムを刻んで身体が上下に動いているのは確かだった。



 一番近いのは、メリーゴーランドのお馬さんに跨って揺さぶられている時の感覚だ。このまま永遠に身を委ねられるような至高の安らぎだった。



(足音が、する)



 だんだんと蘇っていくワタシの五感。聴覚からはまず、そんな推測が可能だった。



 カツン、カツンという乾いた音から、固いもの同士がぶつかって生じる光景を感じ取れた。



(これは背中、かな。広くてしっかりしてる)



 全身の触覚からは、ゴツゴツとした感触を覚えた。幼い頃におんぶしてもらった父の背中にとても良く似ていて、これがきっと心地よさの源なのだと自覚する。



「んん、んっ」



 胸をつっかえたように、喉の奥からくぐもった声が出る。どれだけの間声帯を震わせていなかったのだろうかと不安になるくらいの、ひどい掠れようだった。



 すると、ワタシの耳元でしゃがれた青年の声がした。



「目ェ閉じてろ、娘っ子」



 思わず、命令に反して目を開けそうになる。



 この背中の持ち主は、思い当たる節があった。



「オズ君……なの?」

「〝夢〟から帰ってきたお前がいつまで経っても目ェ覚まさねぇモンだからな、こうしておぶってやってんだよ」



 改まった喋り方と声でようやく、人間の姿をしたオズ君なのだと確信する。ワタシが目を開ければ人の姿を保てないと言われたことを思い出し、ふと気になって尋ねてみる。



「そんなにワタシ、気を失ってたんだ」

「失ってたってモンじゃねえ。戻った途端ぜーぜー言い散らして、えれぇくらい汗が噴き出てたぞ」

「悪夢を……見たからかな」


「悪夢だ?」

「肝心なトコがぼんやりとして思い出せないんだけど、ワタシの前に悪魔が降りてきて、何かとても嫌な思いをさせられた気がする」



 もちろん、うろ覚えなはずがない。あの状況を、どの一コマから切り取っても完全に復元できる自信がある。だからこそ、語り尽くせだなんて死んでも御免だ。



「そうか。ならお前は、しっかりタロットに導かれたってこったな」

「そう、なの?」

「お前に持たせてるタロットを確認したら、新しい一枚が紛れ込んでた。タロットの大アルカナ十五番―――〝悪魔〟がな」



 心臓がキュッ、と締め付けられた。



〝夢〟の中で×××に手渡され、光と共に現れたあの悪魔女が最後に掴もうとしたあのタロットがこうして、ワタシのポケットに潜んでいることに対する反応だ。彼女は夕暮れ時にしか姿を現せないと言っていたから、今はポケットの中で息を潜めているのかもしれない。



 思い返すと尚恐ろしいので、オズ君と話すことで気を紛らわせることにした。



「〝悪魔〟は、人間の内に潜む激しい感情が束縛されてンのと同時に、ちぃとでも気を抜きゃいつでもそいつ等が解放されちまうような危険性を孕んでるってことを象徴してンだ。ざっくり言っちまえば、人間の三大欲求とかな」

「言われてみれば、そんな恰好の奴、いた気がする」



 あの悪魔女の姿を、思い出したくないのに思い出す。



 夕日に照らされた褐色の肌は背筋が凍るほどに妖艶で、角と翼と尻尾を備えた彼女は根っからの悪魔なのだろうか。まだ何も確信は持てていないが、元は人間なのかもしれない。



 もしかすると、タロットに描かれている人と動物、草木と水、天使と悪魔、月と太陽、大地と海、その他諸々の自然現象はすべて、現実の延長線上にあるのかもしれない。



 ―――流石に妄想が行き過ぎたと思い、いよいよ彼女の姿を頭から消し去った。



「どした、気分悪いのか」

「う、ううん。大丈夫だよ」



 オズ君が唐突に気にかけてくれたと思い、ワタシは虚を突かれた。慌てふためく寸前で、どうにか自分を持ち直す。



 もしかしてもしなくても、ワタシの知らないところで只事ではないやり取りが起きていたのかもしれない。呼吸困難になっていたという話が本当であれば、万が一ではあるが〝夢〟の中の事象が〝現実〟と繋がっていた可能性もなくはない。



 何せ、さきほど二度目の臨死体験をしたばっかりなのだから。



「ねぇ、オズ君」



 吐息交じりの甘えた声で、背中越しの彼に問いかける。彼の背中の感触が、怯え切ったワタシをすっかり安心させてくれているからかもしれない。



 オズ君は大きな反応を見せず、いつもの如く気だるそうに返事をした。



「ん」

「〝夢〟の中でさ、ワタシのこと、呼ばなかった?」

「冗談だろ。俺はこっちでずっとお留守番してたンだからよ」

「―――そっかぁ、気のせいかあ」



 彼の声色は、嘘交じりではないように思えた。



 たとえ不愛想でぶっきらぼうな態度でも、ワタシは彼を信頼し始めているからなのか。ほんの少しだけ彼の背中に顔を埋め、独り言のように尋ねた。



「じゃあさ、ワタシが気を失ってる間に、ワタシに何かした?」

「はぁ? まだ寝ぼけてンのか、お前」

「ふぅん、そう……」



 彼のことは好きになれそうもないのに、心の何処かで残念な気持ちが残る。すぐ後で、そんな感情を抱いてしまった自分を猛烈に恥じた。



(ほんとのところは、どうなのかな)



 実際、もっと詮索してみてもよかった。無一文から成り上がった億万長者の儲け話を前にして、食指の動かぬ人間がどこにいようか。



 だがどうしてもこれ以上、喉から先へと声が抜け出てこなかったのだ。その代替措置として、胸の奥深くから地響きと錯覚してしまうほどの爆音を打ち鳴らし始める。



 言葉にしたいけども、できない。両手と両足のいわれなき震えを無理に抑えようと、彼の背中に頼りだしてしまう。



「なんだどうした、寒いのか」

「え、え、ええ?」

「急に背中が騒がしくなったと思って、な」



 冗談ですか、それは冗談なのですか。



 顔が見えないことも災いし、彼の言動に増々の疑いがかかってきた。鈍感だとか、天然だとか、そんな一言で片づけられてはこちとらたまったモンじゃない。人様をもてあそぶのもいい加減にしろってんだ。



「ちっ、違うし。ワタシじゃない」

「俺が負ぶってるのはお前だけだ。他に誰が居るってンだよ」

「違うったら違うの!」

「何だよ、そんなに嫌な〝夢〟でも見たってのか」


「ちっ、ちがうもん」

「はぁ? ったくワケわかんねぇ奴だな」

「分かんなくていいもん、オズ君のバカネコ!」

「ネコはおめぇだろうが、耳元でビービーギャーギャー盛ンじゃねぇ!」


「ワタシは女! 盛んのはオスネコっ」

「口の減らねぇメスガキにゃ言われたくねぇんだよ、いいから黙れってンだ!」

「あーあーあーうっさいうっさいうっさい!」



 癇癪持ちではない筈の自分だっだが、この時ばかりは完全に取り乱していたことを認めなければなかった。



 自分で自分の言ったことを覚えていないくらいに興奮してたのだから、ヒトの感情が往々にして世の歴史を変えてきたなどとのたまっていた高校のナイスミドル(自称)の与太話が、今になってもっともらしく聞こえてきた。



「おいっ、いい加減にしねぇと振り落すぞ‼」



 苛立ちを矛先に込めたオズ君の檄が、暴れ狂っていたワタシの神経にたちまち響き渡っていった。実に動物的な反応だったが、おかげで腹の虫はすっと体内で溶けていった。



「……ごめんなさい」

「お前には謝られっぱなしだ。いい加減そのクチも聞き飽きてきたとこよ」

「うん、ごめん」

「ほれ、また言ってらぁ」

「あ、あぅ」



 出典は定かではないが、謝罪は日本の伝統芸能だと評した人が居る。ニュースやバラエティを見てるとまさにピッタリの現象が画面の向こうで起きるているのを見てああなるほどなと思ったことは数知れず、しかし時機を逸すると一転して道化へと変わってしまう諸刃の剣でもある。



 なんてことはない、今のワタシがその好例だ。



 狼狽し言い淀むワタシに対し、顔の側でオズ君が鼻で笑った。



「ま、これでちったぁ安心だな」

「っえ?」

「お前が血の冷え切った小娘じゃねぇってことが、よーやくはっきりしたことにだよ」


「あ、当たり前じゃん。ワタシはちゃあんと血の通った人間だもの」

「血くれぇ流れててとーぜんだろがよ、涙はどうした涙は?」

「そんないきなり泣けるかっての。女の涙は無駄遣い出来ませんからね男と違って」

「はっ、言ってろぃ。下手な泣き真似で俺を落とせると思うなよ」


「なんでオズ君を好きになんなきゃいけないの」

「かーっ、ホント可愛くねぇ」

「どーせ可愛くないもん、何度も言わせないでよ」



 減らず口はお互い様だ、ワタシからすればオズ君は猫の癖になまじ知恵の働く奴と見なしているが、彼からすればワタシはとんだ天邪鬼の娘だとか思っているのだろう。



 喧嘩するほど仲が良い、この時ばかりはそんな言葉を恨めしく感じた。



「ねぇ、もうやめようよ。またケンカになっちゃうよ」

「……だな、すまん」



 だから、背負ってくれている彼の耳元で囁くように身を引くと、彼もそれに応じてくれた。オズ君がどれだけの月日を生きてきたか等知る由もなかったが、大人げないと感じる心はちゃんと持ち合わせているあたり、彼への胡散臭さは止まるところを知らなかった。



「一つ、聞いていい?」

「何だ、改まって」

「今ここで、目、開けちゃダメ?」


「ダメだ」

「本当に? ウソ、ついてない?」



 もちろん瞼はまだ開かずに、グイッと除き込むように顔を寄せてみると、オズ君は呆れたように息を吐いた。



「そこまで気になンなら、確かめてみろよ」

「いいの?」

「別に見られて死ぬ身じゃねぇ、やるならやれ」



 身を預けていた背中をほれほれと乱暴に揺らされ、不必要に急かされたワタシ。



 意を決して目を開けた途端、彼の背中を通した手応えがフッと消える。



 網膜に仄かな光が差し込んだのも数瞬、ドスンとした落下音が遅れて聞こえ、臀部に猛烈な衝撃が走った。



「~っ、ーっ、~~~っっっ!」



 悶絶すること二十秒余り、猫に戻ったオズ君は今までになく「くふっ、くふっ、くふっ」と笑い通し、呻くワタシを眺め楽しんでいた。



 ちきしょう、覚えてやがれ。



「これで納得したかよ」

「く、悔しいけど認めるしか……ってナニこれっ」



 痛みに堪えながら彼を毒づこうと構えたワタシは、ようやく視界の異変に気が付いた。



「これ、全部オズ君が?」



 渺渺(びょうびょう)たる漆黒が埋め尽くす領域に浮かぶ蛍光色の点と線、無機質な素材で拵えた、上下左右へ自由気ままに絡み合う橋と足場。



 これまでワタシが辿ってきた道程は、彼の軌跡に比べればまるでアリの一歩に過ぎないことを、まざまざと見せつけられた瞬間だった。



「ああ。別にどんだけ歩こうが、疲れなんざ知ったこっちゃねぇからな」



 オズ君の前足を糊代にして、ワタシの身体を後ろに突き抜けていたその赤い軌跡の長さたるや、万里の長城に例えるのも滑稽なくらいの道程であった。



「すごい……」



 余計な言葉はいらないと思った。事実、必要なかった。



 旅の終着地点も知り得ぬ以上、唯一目にすることのできる彼の足跡だけが、時の流れすら死んだこの空間に、時間という概念をしかと結び付けていた。



 しばらく眺めていると、赤い軌跡は不可解な遠回りをして現在地に至っていることが分かってきた。



 オズ君がいたずらに歩いてきたわけではないと信じたかったが、まるで絡まったイヤホンのコードみたいに規則性はちっとも見られなかった。



「オズ君、かなり無駄な回り道してない?」

「急がば回れ、って諺があンだろが。焦ンなくたってお前の身は俺がずっと預かってたンだ、気にするモンじゃねぇよ」

「そう、なのかな……」

「そうったらそーなンだよ。おめぇは俺を喋らせ過ぎだ」



 気だるそうに頭を持ち上げ、針で突くようにワタシを見るオズ君。



「わ、ご、ごめん」



 どうやら怒られたみたいだ。調子に乗ると人のプライバシーにズカズカと立ち入ってしまう悪い癖が、こんなところで露呈してしまった。反省せねば。



「俺は腐っても猫、女乃の野郎は化け猫。それ以上でもそれ以下でもねぇ」



 そう言って、オズ君は後ろ足で自らの顔をムシャクシャと掻き散らす。また怒らせてしまっただろうかと内心オロオロしていたワタシだったが、彼は何も言ってこなかった。



 やはりオズ君はただの化け猫なのだろうか。いや、化け猫に「ただの」とか「おかしな」とかいう形容詞を付けるなんていささか間違いな気もするが。



「そ、そうだっ、女乃君はどうしたの? あれから音沙汰はないの?」



 彼の何気ない言葉からふと、あの白猫の行方が気になり出して、座ったまま前のめりになって尋ねてみる。



 オズ君はゆっくりと背をこちらに向けて、どこを見るでもないような目で言った。



「どっかで道草食ってンのかもな」

「何それ。ホントに信用していいの、あの白猫」

「信用もクソもねぇよ。今俺達が出来ることに専念すりゃいいンだよ」



 こちらを振り返ったオズ君が、突き放すような声で言った。



 不機嫌になったワタシだが、数秒待って苛立ちをなんとか鎮める。



「今更だけど、女乃君とは長い付き合いなの?」

「人間の世界の数え方でいやぁ、かれこれ二十七、八年ってところか」

「ワタシが生まれる前からなんだ、大親友じゃん」



 正直に驚いて見せて、すぐにくだらない疑問が浮かんだ。



「あれ、でもネコの寿命的にかなり厳しくない?」

「この俺にネコの常識が通用されてたまるかってんだ。少なくとも俺は、平平凡凡な人間の一生分は暮らしていける自信があンだからな」

「ホントにぃ?」


「信じねぇっつーならもう知らん、ここに置いてっちまうぞ」

「ひどーい、薄情者ぉ」

「いいからお前は、黙って俺の後ろをついて来い」



 文句を垂れるワタシを尻目に、オズ君は早足で橋の上を赤く染める作業を再開した。



 とうとう、もとい鼻っから彼をコントロールすることなど、ワタシには出来そうにもないことがようやく分かった気がした。



 久方ぶりに、どうにも耐え難い静寂が戻ってくる。



 沈黙は日本の文化と呼ばれ、良くも悪くも海外から評価されてはいるらしいが、沈黙以上に語らず伝える手段がこの世にあるとでもいうのか。あったとしたら、それはテレキネシスの類に違いない。



「あ、あのさ、オズ君」



 とはいえ、望まぬ沈黙から会話を始めるのはワタシにとって中々に勇気のいる行為だった。ましてや出会って幾星霜も経たぬ相手では尚更、それでもワタシは、彼の実情を少しでも理解したかった。



「なんだ」



 そっけない返事ばかりのオズ君。もちろん後ろは振り向かない。



「目的地までは、あとどれくらいなの」

「もう少しだ」

「もう少しって言われても分かんないよ、具体的に教えてほしい」



 逸る気持ちが身体と呼応して、オズ君の歩く横を踏み超えそうになってしまう。あたふたと速度を緩めた後に、深呼吸をして彼の返事を待った。



「タロットの絵柄が、全て揃った時だ」



 しかし、返ってきたのは殆ど当たり前の答えだった。



「ウソでしょ」

「ウソじゃねぇ」



 オズ君が、語尾を荒げて言い返してくる。しかし、その言葉に勢いがなかった。



 彼は一端足を止め、ゆっくりと身体の前後を入れ替える。



「お前に渡したタロットは、全部で何枚だ?」

「ええっと、ちょっと待って」



 ワタシは急ぎポケットからタロットを一枚余さず引き抜き、上下の位置もしっかり揃えて確認の準備を始めた。



「番号が振ってある順に読み上げた方がいいかな」

「そうしてくれ」



 さっそく、現時点で判明しているタロットの枚数確認を兼ねた数え上げが始まった。



「ゼロ番〝愚者〟……一番〝魔術師〟……二番〝女教皇〟……三番〝女帝〟……」



 絵柄のタイトルはどれも英語で書かれていたのだが、受験時代に蓄えた知識のおかげでどうにか全て訳せそうだ。



 今ならなんとなくだが、タロット一枚一枚が発するメッセージが感じ取れるような気がした。



「四番〝皇帝〟……五番〝教皇〟……六番〝恋人〟……七番〝戦車〟……八番〝力〟……」



 六番目のカードには、一人の男が両脇の女たちに取り合いされる様子を、空から弓矢を持った天使が眺める構図で描かれていた。



 偶然かもしれないが、先程の〝夢〟の一部はおそらくこの一枚に託けられたのだろう。絵柄の女たち、というよりも少女たちの顔が奥井(♀)と金森(♀)のそれに酷似していることにも頷けた。



 ここまでは順調だったが、見慣れない名前が途中にあった。



「この九番の〝THE HERMIT〟っていうのは?」

「隠れる者、って書いて〝隠者〟だ。」



 オズ君が即答してきたので、納得して作業を再開する。そういえば以前、紫月に占ってもらった時にもこのカードが出てきたことを思い出した。



「十番〝運命の輪〟……十一番〝正義〟……十二番は真っ白、十三番が〝死神〟……っと」



 ここでチラリとオズ君に目配せをしたが、彼は無反応だった。



「十四番は真っ白、十五番〝悪魔〟……十六番〝塔〟……十七番〝星〟……十八番は真っ白……十九番も真っ白……で、二十番も真っ白、と」



 番号はそこで途切れた。まっさらな状態の十二番、十四番、十八番、十九番、そして二十番を除き、あとは絵の描かれたカードばかりが手元に残る。



 それらを含めてタロットの合計を数えてみると―――



「二十一枚……これで全部じゃないの、オズ君」



 正直に言うと、タロットの枚数を数えている時から嫌な予感はしていた。オズ君はこれまでになく両目を左右に泳がせ、息の詰まりそうな目つきで、ワタシを見上げて言った。



「今、何枚っつった」

「二十一枚、だけど」

「うそだろ……」



 苦虫を食い潰したように、真っ黒な顔を歪めたオズ君。



「どう、したの」

「一枚足りねぇじゃねーか」



 オズ君の身体が寒さに凍えるように縮こまっていく様子が、とても頼りなげであった。



 彼はいかにもかじかんだような口元から、信じがたい言葉を発した。



「お前、もしかしたらここから一生出られねぇかもな」

「な、なんでよっ」



 ここに来て初めて、純粋な絶望感を覚えた。



 彼に対する怒りよりも、この世界からいよいよ出られなくなるかもしれないという根源的な不安が、ワタシの意識を覆い尽くしていた。



「あ……あのさ、このタロットってそもそも誰のものなの?」

「女乃の野郎に決まってンだろ。あの列車ン中でお前に手渡したはずだ」



 しかし、どれだけ記憶の枝葉を伸ばして探っても、そのような事実には行き付かなかった。



 首を真横に数回振って、彼に否定の意を示す。



「そんなこと、なかったよ。女乃君が運転席から出てった途端、何もしないでワタシより先に列車の二両目に行っちゃったし」

「何ぃ?」

「ワタシが目を覚ました時は列車の二両目で、その後オズ君に指摘されるまでポケットの中にタロットがあるなんて知らなかったもん」


「なんでだ? あいつは二両目で待機していた俺に向かって『確かに彼女に渡した』と言ったンだぞ」

「いっとくけどワタシ、ウソついてないからね」

「んなこた分かってる。あの野郎、いってぇ何しやがったンだ」



 両目を右斜め上に向け、オズ君が黙り込む。ワタシは先程まで伸ばしっぱなしだった記憶の枝葉を少し枯らせてみた途端、不可解な点が残っていることに気づいた。



「あっ、そういえば」

「ん?」


「ワタシが一両目から二両目に移る時、連結部分が真っ白に光ってた。そんで、誰かの手に引っ張られた時にはもう、ワタシは二両目で仰向けになってたんだ」

「誰かに、引っ張られた?」



 黄金色の片目をキュッと細め、やたら訝しんだ顔をするオズ君。



「あれって、オズ君じゃなかったの?」

「ンなことした覚えはねぇ。どうなってンだ一体」

「女乃君じゃ、ないよね」

「あいつは俺と一緒にお前を待ってた。有り得ねぇ話だな」



 次から次へと可能性の芽を摘み取られていき、そろそろワタシにも我慢の限界がやってきたようだ。本音を余さず彼にぶつけることで、僅かでも揺らぐ心を抑えようとする。



「ワタシ、このまま〝夢〟から醒めないで、どうなっちゃうんだろ……」

「今もグースカ寝息立てて、おねんね出来てンじゃねえのか」

「だとしても、ワタシ自身が確かめることなんか出来ないじゃん」

「もう一人のお前は、夢ン中閉じ込められてンだから当然だろう」

「だから、それが信用出来ないって言ってるのっ‼」



 腹の底から声を出したのは、いつ以来だろう。



 幼稚園に入るまでは自分でも覚えていない程に、やんちゃで所構わず大騒ぎしていたという母の思い出話が薄ぼんやりと蘇ってきて、懐かしさと同時に恥ずかしさも込み上げてくる。



 それらを通り越し、なりふり構わず、ワタシはオズ君に向かって叫んでいた。



「意識だろうが無意識だろうが、今ここにいるワタシは一人しかいないじゃん! もう一人のワタシってなんだよ、二重人格って言いたいの? ワタシをワタシと名乗れるのは、ワタシしかいないんじゃないの? ワタシの身体は一つだけ、魂もこの世に一つだけ、かけがえのない存在だって証明してよっ!」



 俺は俺。お前はお前。



 オズ君は、コウモリの気持ちについて話をしていて、そんなことを言っていた。



 わたしはわたし。あなたはあなた。



 ワタシの知らない〈紫月〉も、初めて出会った時に、そんなことを言っていた。



 こんなに分かり切ったことなのに、証明できる人はおそらくいない。



「……」



 オズ君は、返事をしなかった。



 言うだけ言ってみた後で、目元から頬にかけて落ちていくものがあった。一部が口に入ってくると、結構塩辛い味がした。でも、温度は感じなかった。



「何なら、ここで諦めるか」

「……え?」



 明後日の方向を見て、彼がさりげなく聞いてくる。



「ここに居ればな、お前は年も取らねぇし、病気で死ぬこともねぇ。お前の言う現実で暮らしている『お前』が寿命を全うした時、こっちの〈お前〉も一緒に消えるだけだ」

「それ、本当なんだよね?」

「信じるのはてめぇの勝手だ。俺がとやかく言える立場じゃねぇ」


「ワタシが今ここで死ぬっていったら、オズ君はどうする?」

「助けてやる、とでも言って欲しいのか」



 笑わないオズ君は、怖かった。



〝夢〟はいつか醒めるから〝夢〟だ。醒めない夢は、きっと死だ。



 今のワタシは死んだも同然、この世界で暖かさや冷たさを感じていないのは、全き死への第一歩なのではないか。



「俺ぁお前が死んだって、別にどうとも思わねぇ。駄弁って暇をつぶせる相手が居なくなるだけだ。静かにここを散歩できンのにはちげぇねぇな」

「それなら、どうしてあの時ワタシを助けたの?」

「あの時のお前は、まだ諦めたくないってツラしてたからよ」



 オズ君は躊躇なく返答するが、ワタシはすぐに言葉を返せなかった。



〈紫月〉に初めて会い、最悪な印象を与えたまま彼女が去ってしまった時のことだ。ワタシはオズ君の前を通り過ぎようとして崩れる足場を踏み外し、真っ暗闇へと落下しそうになった。



 確かにあの時のワタシは本能的に落ちたくない、まだ生きたいと思っていた。



 なのに今のワタシはオズ君の言葉を真に受けて、自分を見失いそうになっている。



 ワタシはオズ君の後ろ姿をぼんやりと見ながら、呟くように尋ねた。



「オズ君なら、知ってるんだよね?」

「あン? 何がだよ」

「ここから落っこちた先に何があるのか、だよ」



 オズ君がフンッ、と大きく鼻を鳴らした。



 こちらを振り返らず、彼は黒い尻尾を揺らしながら言葉を返す。



「なンもねぇよ。お前が消えてなくなるだけだ」

「消えるって、身体が? それともワタシの意識が?」

「さぁ、どっちだろうな」



 消えるんならどっちだっていいんじゃないの、とは言い返さなかった。



 少しの間だけ落ち着いてから、もう一度オズ君にはっきりと尋ねてみる。



「ねぇ、もしかしてオズ君が代わりに落っこちても結果は同じだったりしない?」

「あンだって?」



 今度はオズ君がワタシに向かい、素早く振り向いた。



 顔は不機嫌そうにしているが、特段怒っている訳でもなさそうだ。



「だって今ここに居るのはワタシとオズ君だけ。オズ君がワタシの代わりに消えちゃったら、変わり映えしないこの空間で〈ワタシ〉を認識できるのはワタシだけになっちゃうじゃん。〈ワタシ〉だけになっちゃったら、ワタシの存在意義はあるのかな?」

「……さぁな」



 オズ君が呆れたようにため息交じりで短く答える。



 実際のところ、彼の好意的返答には期待していなかった。



 その時のワタシはただ、自分の頭の中に溜まっていた鬱憤を吐き出したかっただけかもしれない。



「オズ君はここから飛び降りた先に何もないってこと、知ってるんでしょ。それならオズ君はどうして消えてなくならないの?」

「何言ってんだお前」

「根拠がないのは分かってる。でもワタシの目の前にいる〈オズ君〉は本当にオズ君なのか、ワタシには分からないもの」



 ワタシが言いたいことを言い終えると、オズ君は黙りこくってしまった。



「もちろん、ワタシは自分の目と耳で認識している〈オズ君〉をオズ君だと信じたい。ワタシがオズ君の目の前で消えてなくなって、万が一オズ君がまたワタシに会えたとして、オズ君は〈ワタシ〉をワタシだと信じてくれる?」

「大丈夫かよ、お前」

「ううん。自分でも、訳分からなくなってるかも」



 オズ君は怪訝そうにワタシをしばし見つめると、やがて大きく息を吐き、そっぽを向きながら気だるげに口を開いた。



「助言になるかは分からンが、俺の考えを言ってやる。この世は二つ以上の区別できる存在が、互いに影響し合って成り立っているとする考え方だ。ちょうど俺とお前の関係のように、一方がもう一方の存在を認知することで初めてこの世に存在する意味が与えられる。お前が俺を好意的に捉えようが否定的に捉えようが全く関係なしにだ」


「じゃあオズ君は、ワタシを気に掛けてくれるんだね」


「そこまでは言ってねぇ。だがよ、お前が〈お前〉を認知するとなると話は変わってくる。お前と〈お前〉は区別できる存在か?」



 ほんの少し迷った後、ワタシはきっぱりと答えた。



「区別なんてできないよ」

「そンなら、お前の発した疑問に答えンのは簡単だよな?」

「ワタシがこの世でかけがえのない存在だって証明すること?」

「ああ。お前と〈お前〉を区別できないンなら、お前はかけがえのねぇ存在だって、自分で証明できンだろ?」

「理解はできるけど、同感はできないよ」



 我ながら失礼なことを口に出してしまったと思った。



 しかしオズ君は不機嫌そうではなかった。



 オズ君は尚もワタシを見ることなく、鋭い牙を持つ口を小さく開けながら言った。



「けどよ、こういう考え方もできる」

「どんな?」

「他人から見たお前と、お前が自覚する〈お前〉は普通、100パーセント同一の特徴は持ってないよな?」

「そうだね」

「そンならお前と〈お前〉は一転して、この世で区別できる存在だ」

「それだとワタシと〈ワタシ〉、どっちがかけがえのない存在になるの?」



 ワタシはオズ君に振り回されているだけかもしれない。



 そんな自覚を持ちつつも、一先ずの答えが欲しかった。



 彼はワタシの挙動を深く気にする様子もなく、ただワタシを見上げながら答えた。



「それはテメェ自身で決めろ。今のお前はテメェの意志で動いてるのか、テメェじゃねぇ誰かの意志で動いてんのか、俺にだって分からねぇンだからよ」

「……うん、そうだよね」



 ワタシはオズ君から目線を逸らし、自信なさげにそう返した。



 結局、答えが出たところでワタシの悩みは深くなるだけだった。



 今いる位置から最も近い足場までトボトボと引き返し、両足の先を足場の縁から半分くらい闇の拡がる方へと置いてみる。



 別に何も起こらない。だとしても、落ちればきっと助からない。



 闇はいつ何時も、影より暗く手足を伸ばして人が死ぬのを待ち続けているのだ。死に甘んじた者へ享楽の〝夢〟を与えつつ、自らが苦痛を受けているとも知覚させずにジワリジワリと底なしの無へ引きずり込んでいくのが彼らの仕事。



 現世の光が我々の意識を照らして出来る影をこの空間と位置付けるのならば、無意識の眠る先はきっと、この空間のどこでもない闇の中にあるのかもしれない。



 闇と影の瀬戸際に立つ今のワタシなら、どこまで落ちていけるだろうか。



「飛び降りンのか」

「最初に見た〝夢〟の中でね、お兄さんが今のワタシみたいに言ったんだ。燃え尽きたらまた灰になって、不死鳥の如く生まれ変わればいいってさ。でもワタシはここで燃え尽きても、きっと灰すら残らないと思う」

「どうなっても知らねぇぞ」



 オズ君が離れたところから、最後通牒のように言いつける。



「やっぱり心配してくれるんだね。ありがとね」



 ああ、遙か遠来から煌めく何かがやって来る。



 青白く輝く無数のつぶてが、点と線の組み合わせの中からたった一通りの経路を選択し、ワタシを彼岸へ導くように押し寄せて来る。



 どうしよう、楽になれる道がもう一本やって来ちゃったみたい。



「お、おい娘っ子。あれ、見えるか?」

「オズ君にも、見えるの?」



 はじめのうちの数秒は、ただの幻覚だと思った。しかし傍にいるオズ君がしかとその眼で捕えているのだから事実であることに変わりはなかった。



 蛍光色に灯る無数の点と線の中を一筋、真昼の太陽に照らされた海の色とそっくりの青が、ホースの中を流れる透明でサラサラとした水の如く、彼方からの勾配に沿って流れてくる。



 何人をも安寧の境地へと誘うそれは、まさしく清き一条の行路のようで―――



「こっちに向かって来るね」

「侵入者かもしンねぇ。下がってろ」



 四本の足を突っ立て、オズ君が真っ向から身構える。



 迫り来る青の軌跡は、ワタシ達が辿ってきた赤のそれを探るようにこちらへどんどん伸びていき、見とれている合間にオズ君の足元までやってきた。危機を察知したのか、彼はその場から飛び退いてワタシの足元に移動した。



 そしてワタシ達の目の前で、二つの軌跡が折り重なった。



 次の瞬間、結合を為した箇所からポウっと真っ白な光球が浮かび上がったと思いきやガラス細工のようにグニャリグニャグニャと変形を繰り返し、見覚えのある人の姿を取った。



「しーちゃん……」



 ツインテールを解いた髪を下ろし、穢れなき薄絹の衣に身を包む少女の名は、久池井(くちい)紫月(しづき)



 ワタシのクラスメイトで、おそらくワタシの一番の理解者。



 ワタシはまだ、誰かに必要とされているのか。だから彼女はこうして、虚無へと魅入られそうになる自分を救いに来たのだろうか。



 でもあの時、彼女はワタシを遠ざけた。それなのに、今度は逆にワタシを求めるようにやってきた。彼女がワタシと同じくこの世界に関わっている可能性が、「かもしれない」から「違いない」に変わっていく。



 入学式後の教室で初めて出会って以来、常日頃から不愛想なワタシに近づいてはタロット占いを口実に切っても切れぬ関係へと発展していき、気づけばすっかり姉妹のようにじゃれあっていたワタシ達。



 よくよく思い返せば、彼女がワタシ以外の誰かを占っている光景を、ワタシは一度も目にしたことが無かった。それだけではない、クラスメイトから誰一人として、彼女に占ってもらった話を耳にしたことさえなかった。



 ひょっとしたらワタシは、致命的な何かを見落としているんじゃないか。



「しーちゃん、どうしてまた会いに来たの?」



 返事を貰えない怖さに声が震えたが、勇気を振り絞り〈紫月〉に近づくワタシ。



 白磁のように透き通る肌をした彼女は、すぐには答えない。ワタシは益々怖くなって勝手に声が漏れていった。



「どうしてワタシを遠ざけたの? しーちゃんの口から、ちゃんと話してほしいよ」



 空気が全て〈紫月〉の所有物であるかのように、息の詰まる思いにさせられる。



 傍らのオズ君は、ひたすら渋い顔をしていた。



 言い切って十数秒後、〈紫月〉の口がとうとう開いた。



『やはり自覚がないのですね』



 顔には表出していないものの、聞いて間もなく理解できるくらい、彼女の声は憂いを帯びていた。



 堪らず一歩踏み出して、苦しさを紛らわせようとするワタシ。



「どういう意味? しーちゃんの言ってること、よく分かんない」

『尾上なち』



〈紫月〉が、ワタシを確と見て言った。



 聞き覚えのない彼女の声色に、左右の頬をピシャリとはたかれたようだ。



『いい加減に目を覚ましてください。貴女の真の目的は何ですか』



〈紫月〉の声の一瞬一瞬が、ワタシを着実に急かしていく。



「真の目的って言われても……」

『わたしがこうして、あなたの前に現れた意味が分からないのですか』



 視線を逸らせないほどの凄みでワタシを捉える〈紫月〉。



 彼女を理解しようとすることは、ワタシの知る紫月を理解することよりも生易しくはないようだった。



 いつもみたいに落ち着いて考えられれば良いのだけれど、〈紫月〉を前にすると何故だか居てもたってもいられないくらい落ち着かない。



「ワタシどうすればいいの? 女乃君が帰ってくるまで待っていればいいの? それともオズ君と一緒に、タロットの絵柄を集めていけばいいの?」



 今のワタシには、〈紫月〉の望む返事がさっぱり思いつかなかった。彼女に初めて邂逅した時から、ワタシの脳裏には恐怖のイメージが強くこびりついていた。



 白衣の彼女は、戸惑うワタシを黙して見据えている。



 傍らのオズ君は、腰を下ろして虚空を見ていた。



『彼は帰って来ません。タロットの絵柄集めも貴女の真の目的ではありません』

「じゃあ何すればいいの、教えてよ、しーちゃん」



 答えはとうの昔に出ている。



 その前に、ワタシは目の前の彼女に分かって貰いたかった―――この身にまとわりつくたった一つの感情を。



「ねえってば、しーちゃ」

『貴女はこんなところをほっつき歩いている場合ではない!』

「ひっ⁉」



〈紫月〉の形相が瞬く間に変わり、ワタシの両目を貫くような視線で叫んだ。



 はからずも初対面で見せられた、あの凄まじい表情と変わりはしなかった。



 ワタシはようやく、彼女が苛立っていることを怯えながら察知した。彼女が何に対して苛立っているのかさえも、分かった気がした。



 傍らのオズ君は、何も動きを見せなかった。



『わたしがどれほどの時間を費やし、貴女に尽くして来たと思っているのですか⁉』



〈紫月〉の声が、鼓膜を食い破らん勢いで流れ込んでくる。



 気を失いそうな彼女の悲鳴に、すんでのところで持ちこたえるワタシ。



「ワタシ、アンタがしてきたことなんて分からないよ」

『そんなことはあり得ません! 貴女が思い出せないでいるだけです!』

「だったらこの場ではっきり教えてよ」

『ここで答えてしまっては意味がないのです!』



 彼女の声は、明らかに熱っぽさを帯びている。



 対して、ワタシの心臓は鼓動を段々と遅らせていった。



 心にわずかな余裕が生まれた隙に〈紫月〉を直視すると、哀しげな感情を初めて顔に出していた。未だ不安定な心情ながら、ワタシは連られて哀しくなった。



「なんか、その、ごめんなさい」

『謝罪の言葉は不要です』

「……うん」

『それよりも……貴女の真の目的には気づかれましたか』



 彼女はまたもワタシを急かすように告げるが、先の威圧感は微塵も感じない。



 オズ君がワタシの方を振り返り、目つきの悪い顔を持ち上げた。



「ずっと前から気付いてたよ」

『それは何ですか』

「ワタシがこの〝夢〟から抜け出す事、でしょ?」



 心はぐらついたままだが、ワタシは自信を持って答えた。



 視線を逸らした〈紫月〉は、人間臭く溜め息をついた。



『非道いですね。初めから伝えてくだされば良いものを』

「ほんとごめんね」

『ですから謝罪の言葉は不要です』

「そもそもアンタが回りくどいのがいけないんだよ」

『何ですかその言い訳は』



 目を合わせてくれた〈紫月〉が、呆れたような表情に変わった。



 今度はワタシの方から、思いの丈をぶちまけた。



「ワタシね、アンタが本当のしーちゃんじゃないとか、しーちゃんのふりをしているだけとかなんてどうでもよくなった。今ここにいるしーちゃんも、もう一人のしーちゃんだって分かったの」

『わたしはわたしですよ』


「そう。アンタは久池井紫月で、ワタシの知ってるしーちゃんの名前も久池井紫月。本物とか偽物とか、どうだってよかったんだよね」

『意味が理解しかねますが』



 怪訝な顔をする〈紫月〉。



 彼女の反応を伺うまでもなく、ワタシは言葉を続けた。



「アンタがどうしてそんな恰好してるのか、どうしてワタシの知ってるしーちゃんが直接会いに来てくれないのか、ワタシの問題はそこじゃない。そもそもこんな疑問を持つこと自体間違ってたんだよ。答えは自分の中にあるってね」

『ますます理解できませんね』


「もしアンタの名前が久池井紫月じゃなくたって、アンタが何処か遠くの国の言葉を話したって、ワタシはアンタをしーちゃんだって認識するから」

『わたしは貴女の見たいように見られている、ということですか』

「だってそう言ったじゃん。ワタシの信じるしーちゃんが、ワタシにとってのしーちゃんなんだ、ってね」



 なぜだか〈紫月〉は楽しそうな顔をしている。



 ワタシは吹っ切れた態度で、直前の言葉に付け足すようにして言った。



「だからアンタはしーちゃんの一部で、ワタシの知らなかったしーちゃんだよ」

『理解はできませんが、認めましょう』

「もう頑固なんだからぁ」



 ワタシが笑うと、〈紫月〉も可笑しそうな顔をした。



 目の細め方や口の上がり方は、紫月にそっくりだった。少し違うところは、〈紫月〉の方が幾分奥ゆかしく、見るものに慈愛と安らぎを与えるような笑い方であった点だ。



 それはまさしく、天使の微笑みであった。



「おい、娘っ子。一体何がどうなってやがる」



 すっかり〈紫月〉に意識が傾いていたので、オズ君の存在をないがしろにしてしまった。



 謝罪の意を表情だけで作って、ワタシは答える。



「この子はやっぱり、しーちゃんだよ」

「あんだって?」

「以前オズ君に話した、タロット占いが趣味なワタシの友達」



 包み隠さずそう答えると、オズ君は黒い両耳をビクつかせた。さもありなん偶然に驚いているのだろうか、全身の毛を逆立たせている。



「そんなはずがねぇよ。だって、こいつは―――」



 彼の言葉は、途中で切れた。



 それでもワタシが今さら躊躇う必要はない。



『尾上なち』



〈紫月〉がそっとワタシを呼んだ。

 ワタシはすっと彼女の方を見た。



『あなたの目指す旅の終着点にご案内します』



〈紫月〉が無機質かつ無感情な声で、ワタシ達を制した。



 オズ君はひどく落ち着かない様子で、全身を強張らせている。



「旅の……終着点?」

『審判の時が迫っています。現実を手にするか〝夢〟に溺れるか、選びなさい』

「そっか。ワタシやっぱり、帰らなくちゃいけないんだね」



〈紫月〉が強く頷いた。



 次の瞬間〈紫月〉の身体が突如強く輝いて輪郭を失い、変身前の白い光球になった。直後、ポケットの中が彼女に共鳴するように白く発光し始める。



『貴女の持つタロットの一部を蘇らせて頂きました』



 光球の彼女が言い終える前に、ワタシはすでにタロットを引き出していた。



 純白の光を薄く纏った二枚のうち、一枚には顔の付いた月、もう一枚には顔の付いた太陽の絵が象徴的に描かれている。



 ちょうど、大アルカナの十八番〝月〟および大アルカナの十九番〝太陽〟に当てはまった。陰と陽、相反する概念が同時に顔を見せるというのは、どうもこうも不吉な予感がしてならない。



 二枚のタロットを噛み締めるように見つめた後、そっとポケットの中にしまい込んだ。



 自分でも理解できないくらい満足した気分で、ワタシは〈紫月〉に顔を向ける。



「アンタもワタシと同じで、タロットに導かれる者同士なんだね」



 絨毯爆撃のような展開の後で、サラッとそんな言葉が出た。



 この言葉は無論、オズ君からの受け売りだ。



 彼の態度は気に食わないけど、セリフだけは不思議と魅力的に思えたので、ちゃっかり使わせてもらった次第だ。



『含みのある言い方に聞こえますが、褒め言葉と受け取っておきます』



 溜息ほどの間があってから、少しだけ抑揚のついた声が返ってきた。〈紫月〉は無理をしているのだろうか、変身を解く前にいっぺんその表情を拝んでやりたかった。



 この場ではまだ、ワタシの震える思いや彼女への返事はできそうにないようだ。



『この光の先に、貴女のための真実が待っています』

「うん。ワタシ行くよ」



 後戻りは出来なくもなかったが、したくなくなった。



 彼女がワタシを認めてくれたと嬉しくなり、自分の向かうべき道が文字通り一本に定まったと確信を得られたのだから。



「オズ君、短い間だったけどありがとうね」

「待てよっ、行くんじゃねぇっ」



 ワタシの靴に両前足を置き、塞き止めようとするオズ君。



 でも、ワタシの決意は揺るがなかった。



「だいじょーぶ。ちゃんと答えを見つけてくるから」



 右足を一歩、前に踏み出す。



 オズ君の引き留めをものともせずに、左足も前へと引っ張る。



 前足の抵抗むなしくオズ君はよろけ、大きくたたらを踏んだ。



 一端勢いに乗ったワタシの両足は、光の中へと吸い込まれるようにどんどん加速する。



 彼は追いかけてこない。きっとまた会えると信じて、ワタシは進んだ。





 さぁどんな〝夢〟でも来い。次で最後にしてやる。





         ✡





 懐かしくて、嗅ぎ慣れたにおいがする。



 人によっては不快なにおいで、まあ大半は嫌いな方に分類されてしまうかもしれないけど、ワタシにとっては昔からこのにおいを嗅ぐと安心できた。



 つまりここは、一般人がこぞって来たがるような場所ではないのだ。



(懐かしい……)



 どでかい広間に整然と置かれた、長方形の縦列。そこに疎らになって座るのは、老若男女の人間たち。天のお告げがやって来ると選ばれし者は立ち上がり、定められた約束の地へと歩んでいく。



 広間から離れた場所にある階段や昇降機を使うと、ワタシのどんなに荒んだ心も鎮めてくれる匂いがムワッと漂ってくる。



 常温でも揮発性の高い、火気厳禁のレッテルをしばしば貼り付けられるその液体とはずばり、アルコール。



 何のこっちゃない、ここは病院だった。



 通りがかりのナースや医師に聞くまでも、建物の外に出るまでもなく、ここが『尾上総合病院』だと判断するのに大した時間は掛からなかった。



 ワタシの通う高校のある青田市で一番の規模を誇る大病院であることも判断材料の一つだが、幼い頃から病気や怪我をしたときには、実家近くの診療所とこの病院を行き来していた事実が何よりの理由だった。



 小高い丘の上にどっしり根を下ろすように建てられた尾上総合病院の屋上は、三六〇度見渡す限り、青田市特有の自然と技術の調和した街並みを一望できることから、長期入院の患者が暇を持て余すには皮肉にも絶好の観光スポットとなっている。



 ワタシも喘息で入院していた頃は、見晴らしのいい屋上からの景色が大好きだった。



 肺いっぱいに澄み切った風を吸い込み、頭の中でモヤモヤしていたことや嫌な記憶を絡め取って一気に吐き出すと、全てがリセットされて明日も頑張れる気持ちになれたのだ。



(いつ来ても賑やかだよな、両方の意味で)



 繰り返すことになるが、幼少の頃は通院生活が長かったこともあって、ここにやって来る同年代の子供と沢山知り合う機会があったし、仲良くもなった。



 語り尽くせるほどでもないが、十数年の間に時間という名の手垢のついたこの身体には、思い出し切れない無数の体験が記憶となって詰め込まれている。



 誰かと一緒に作った思い出というのも、人によっては金銀財宝に勝りもしたり、ゴミクズみたいに価値のないモノだったりする。ワタシの場合はどうだろう、人一倍楽しい思い出を作ってきただろうか。イマイチ自信がない。



 教育熱心な母親に諭されて、お受験も中学受験も頑張ってきた思い出が色濃く残っているのは確かだ。



 塾で出会った感受性豊かな友達とも、小中を卒業するまでにはそれなりに遊んだものの、印象的な思い出がこれといってなかった。



 だけどワタシには、この病院での一期一会が生涯の宝物の一つなのだ。



 そして今、ワタシは病院正面入口からそう遠くない場所に立っている。右肩には、いつぞやの学校指定のカバンを担いでいた。



 疑問より前に中身を調べてみると、あの日列車に乗った時の状態そのままに見えて、一ついや五つか六つは余計な固形物が混じっていた。誰かに渡そうか自分で処理しようか、一時の間迷って前者に決めた。



 それから今回に限って、オズ君と共に長くも短い時間を一緒にしてきたタロットが入っている。



〝夢〟の中なのであまり意味はないとも思ったが、無性に日時の確認もしたくなった。最も手近なものといえばアレしかない。カバンの内ポケットにすっぽりと収まったそれを手に取り、スリープ状態から起こしてやる。



 しかし反応はない。充電切れのようだ。



 驚きと呆れを半々にしてリアクションを取った後、さっさとカバンのチャックを閉めて再びあたりを見回すと、やや遠くからラフな白ずくめの女性と目が合い、駆け寄ってきた。



「あれ、もしかしてあなた、院長さんのお孫さんじゃない?」

「はい?」

「尾上なちサン、よね?」

「えっ、あっはい、そうです」


「そうよねぇ! いや~ビックリしたわぁずいぶん見ない間におっきくなってぇ!」

「ワタシを、知っているんですか」

「もちろん! あたしね、尾上総合病院が設立された年からずっとここで働いてるのよ。おかげさまでネ、あと数年もすれば看護婦長の座につけるかもなのよぉ」

「そ、そうなんですか」



 訊いてもいないことを割かし早口でまくし立てるこの女性を、本人には申し訳ないが、ワタシは覚えていなかった。



「よくあなたがお母さんと二階の診察室にやって来るのを見てたのよ? なっちゃんはいつもお母さんのスカートを引っ張っててすっごく甘えんぼさんだったのよねぇ」



 さりげなくワタシを『なっちゃん』と呼んで来るあたり、やはり相当親交の深かった人みたいだ。それでも、これっぽっちも思い出せる気配はない。



「は、はぁ」 

「あ~いっけない要件忘れるトコだったわ」



 女性は腕時計をチラ見して、斜め上を見上げてから、ワタシに向き直った。



「これから三階の久池井さんの所に行って包帯取り換えなきゃなんないのよぉ」

「久池井……それってまさか、紫月さんのことですか?」

「あらっ、じゃあもしかしてなっちゃんってあなたの事だったの? ちょっと待ってだとしたらすごいグウゼーン」


「偶然って、何がですか」

「いやそれがねぇ、久池井さんここに運ばれてきた時から毎晩毎晩『なっちゃんに会いたいんです』って聞かなかったのよぉ。なっちゃんって誰って聞いても『なっちゃんはなっちゃんです』の一点張りで困ってたんだからぁ」



 彼女にのっぴきならない事情がありそうなことを、ワタシは稲妻の落ちる速さで察知した。



「間違いありません! もしよろしかったら、案内していただけませんかっ?」

「まかせといて。ささっこっちよ」



 中年看護婦に連れられ、やってきたのは病棟の三階。



 年中いつだってピカピカに磨かれたエスカレーターは、ワタシの祖父の意向によるものであり、患者に対する心がけの一つだと、中年看護婦が祖父本人から聞かされたらしい。



 一般的なショッピングモールのよりも四分の三ほどの速度で稼働するそれを降り立ち、先導する看護婦のあとをテクテクとついていくと、「303」と書かれた扉の前で彼女は足を止めた。



 病室の入口には、確かに『久池井』と書かれた名札が差し込まれている。



 看護婦から包帯を交換し終えるまで待っててほしいと言われたので近くの長椅子に座って待ち、七、八分ほどして両手から零れそうな程の使用済みと思しき包帯の束を抱えた彼女が出てきた。



 パブロフの犬みたいに駆け寄ってきたワタシに、彼女は言った。



「一応だけどノックして断ってから入ってね」

「分かりました」

「久池井さんには敢えて何も言ってないから後はよろしくね、なっちゃん」

「はいっ、ありがとうございました」



 快活な声と深めのお辞儀で、去りゆく看護婦に感謝の意を示したワタシは扉の方に身体を向け、厄介な緊張感を少しでも勇気に変えるために生唾を飲み込んだ。



 いち、にの、さん、というセルフカウントの後に、叩扉の音を三回鳴らす。



「はぁーい」



 中から聞こえたのは、高校生になってから最も慣れ親しんだ友の声。それがこんな場所でもう一度聞けたというだけで、胸の奥のざわつきが抑えきれなくなる。



(落ち着け、これは〝夢〟なんだ)



 扉の向こうには紫月が居て、〈紫月〉は居ない。ワタシの知ってる紫月が居て、ワタシの知らない〈紫月〉は居ない。



 自分の両目はまだ部屋の中の人物を確定していないけれども、代わりに両耳が特定してくれている。疑っているんじゃない、自信がないだけなんだ。



「どうぞー」



 これ以上立ち尽くしてもしようがない、彼女がこの奥でワタシを待っているのだ。



 少々がたつくスライド式の扉を横に引いていくと、ワックスで磨かれたばかりの床に陽射しが反射して目に入った。



 病室内には、寝台が二つ。手前の一つは開いていて、きちんとベッドメイクされていた。



 その奥に一つ、カーテンに半分仕切られて顔の伺えない患者がいることが分かった。ギブスと包帯によってガッチリと固定された小さな右足を、足置き台に乗せている。



 床を一歩踏み出すと、コツンと乾いた靴の音が部屋中に響き渡り、二歩三歩と続いていっては防音性の高い壁に染み込んでいった。



 その時、開いていた窓から流れ込んだそよ風がカーテンの端から端を煽って、色めいた肌と輪郭を暴き出す。幼い顔立ちに良く映えるツーテールが、吹き込む風の流れに身を任せて自由に踊っている。疑いようもなかった。



 嗚呼よかった。



 ここにいるのは、久池井紫月というワタシの友達だ。



「久しぶり」



 おはようでもなく、こんにちはでもなく、真っ先に出た言葉がこれだった。



 掛布団代わりのシーツを邪魔くさそうにベッドの端に追いやって、薄青色の寝間着姿で両足を伸ばしていた彼女が、こちらに素早く頭を向ける。



「……なっちゃん、なの?」

「う、うん」



 無垢な子供と変わらない紫月の大きな瞳が、しげしげとワタシを見続ける。



 それほど長らく顔を合わせていなかったということなのか、彼女の双眸はこちらの旋毛から爪先までを何度も往復してはその度にパチパチと瞬かせていた。



「本当に? 何か前に会った時よりも、大人びた雰囲気してる」

「そ、そうかな」

「一瞬誰だろって思ったけど、やっぱりなっちゃんだね。安心したっ」



 紫月の緩んだ目元と桜色のほっぺたが顔のあちこちに暖かさを宿して、ワタシに微笑みかける。彼女の周辺の状況を抜きにして、今はとにかく和やかでいようという気にさせられた。



 紫月は視線を落とし、上体を捻るように窓の外を眺めやった。



「アタシさ、なっちゃんからずっと連絡来なくって心配してたんだよ」

「ごめん。いつ連絡していいか、分からなかったから」



 細かいことはこれから聞けばどうせ分かるのだからと、サラッと彼女に話を合わせる。紫月は暫くしてから身体を元に戻すと、首を折りながら答えた。



「いいのいいの、今こうしてちゃんと本人と会えたわけなんだし」



〈紫月〉の時とは違って、こちらの紫月は本当の事しか口にしていないと思いたかった。




 誰だって、生きていく上で嘘をつかざるを得ない場面に遭遇しないことはない。



 目の前の少女は、ワタシに嘘をついたことがあるのだろうか。この場で確かめる術は考え付かなかったし、そもそも親友を問い詰めるなんてどうかしてると思った。



 それなのにワタシは、〈紫月〉のいう真実が知りたかった。ワタシがこの身で受け入れた真実を、帰るべき場所で待つ〈ワタシ〉へと余すところなく送り届けたかったからだ。



「あのさ、改まってなんだけどさ」

「なぁに?」



 両手をお腹の前で揃え、紫月が言い淀むワタシに注意を向ける。



「しーちゃんは、どうしてここにいるの」

「冗談やめてよ。アタシ、このとおり足が動かないんだよ?」



 今度はさすがに、彼女も笑わなかった。言葉通りに、寝間着に包まれた紫月の両脚はワタシの二の腕より一回り太いくらいで、ふとしたことで転べば即座に折れてしまいそうだった。



「骨折が完治すれば、また歩けるんだよね」

「無理。下半身不随になっちゃったもん、アタシ」



 口は「エ」の形に開いたが、しゃっくりみたいに声が出なかった。



〝夢〟にしてはあまりにも辛辣すぎる展開じゃないのか。〈紫月〉がここにいれば即座に言いつけて非難してやりたかった。これほどの重傷をどうして紫月が負わねばならないのか、ということも。



「……何があったの?」



 意識しなくても、問い掛ける自分の声はひどいくらいに重くなっていた。そりゃそうだ、負傷した本人が直に口にすれば、何人も否定できやしないのだから。



「勘弁してよ。そんなに信じられないんだったら、テレビ見てみなって」



 紫月の右手が、壁にかかっている薄型テレビを指差した。反対の手でリモコンを掴んだ彼女はためらいもなく電源のスイッチを入れたので、ワタシも画面の方へと身体を向けた。



 電源が入ってから数秒後にパッと鮮明な映像が流れてきて、何のジャンルの番組かを特定するのに一秒と少しかかる。



 画面の右上に出ていたテロップを見た瞬間、ワタシの脳髄は鞭打ちしたみたいになった。

 



《青田線・鉄道列車崩落事故 真相は未だ線路と暗闇の狭間か》




 テレビの画面、空撮用のカメラから映し出されていたのは、本当の事故現場だった。



 バサバサと忙しなく自重をプロペラによる揚力で持ち上げるヘリからの視点は、青田線水浦方面行きの途中にある山合いの鉄橋とその周囲に広がっていた。



 谷間を流れる河川敷の十数メートル上方に架かっていた鉄橋は、列車の通過に最も注意を要する箇所の一つ―――通称「魔の左カーブ」―――が曲線の外側に向かって大きく歪み、橋の上のレールを支えていた鉄骨や支柱は折れたりひん曲がったりして、あの列車と共に谷底へと落下していた。




『青田線鉄道崩落および列車転落事故から早や七日が経ちました。現場は未だヘリによる死傷者の救出に追われています』




 肝心の列車はというと、ワタシが乗っていたはずの一号車および二号車だけでなく、急ブレーキをかけた時点ですでに手遅れだったためか、車両全体が奈落の底で息絶えていた。落下の衝撃で車体は割れ、裂け、ひしゃげ、内部に取り残された人間の時間を唐突に奪い去ったあの事故で、おそらくワタシもこの世にはいないはずなのだ。




『なお、転落した車両の回収作業についてですが、車内の乗客すべての生死確認が完了次第、救助隊によって逐次取り掛かる予定とのことです』




 なのにワタシは今こうして、のうのうと親友の見舞いに来ていることになっている。おかしい、こんな現実はありえない。紫月がどうして水浦行きの列車に乗っていたのだ。



 映像がガラリと切り替わり、住宅街の玄関にてインタビューを受ける人々の首から下だけが映し出された画面になる。



『どうして、どうしてもっと早く異常に気付けなかったんでしょうね……鉄道会社の人達は自分たちが好きな電車を運転できれば、それで満足なんでしょうか……』


『あんな暗い雨の日だったんですよ! あいつらの判断はどうかしてんだよ! だからウチの子供は巻き込まれて……ああくそっこれ以上は話したくない、帰ってくれ!』



 無論、音声は加工処理されていたものの、画面の向こうから頻繁にすすり泣く声が聞こえてきて、自分が知り得なかったであろう被害者遺族の無念がやけに身に染みた。



「これで分かったでしょ。アタシはあの事故の生還者で、被害者なの」



 呆気に取られていたワタシは、声のした方を振り返る。ワタシと目が合うと、紫月はたいそうやつれたように息をハァーと吐き出した。



「事故から三日たって目が覚めたと思ったら、マスコミの人達が毎日のようにブワーって病室に押し寄せてきてさ、もうすっかりノイローゼだよ。三日前からは病院側がマスコミ関係者を面会謝絶にしてくれたから、今はどうにか落ち着いてきたんだけどね」



 紫月から視線を外し、再び壁掛けテレビの方へと注意を傾ける。



 映像は、ニュース司会者とコメンテーターの意見交換の場に切り替わっていた。



『○○さん、事故車両は未だ回収作業に入られていないみたいですが、あの現場をご覧になって気になる点はございますか?』


『現場に向かった知り合いの専門家に聞いた話なんですがね、鉄橋の老朽化の他にも車両本体を支える台車が金属疲労で歪んで脱輪した可能性も否定できないとか……』



 耳の痛い話だった。もし、ワタシの父が事故車両の設計に携わっていたならば、遺族からの慰謝料請求が待っているかもしれないからだ。



 万が一ではあるが、現実で父が非難の対象にされないことを祈るより他はない。



 再びリモコンを手にした紫月は、事故の特集が終わる頃合いを見計らったようにテレビの電源を消した。



「まったく、どうしてこんなことになっちゃったんだろね」

「ホント、どうしてだろうね」



 今度は、彼女に話を合わせた訳ではない。〝夢〟の展開についていけなくなったワタシの率直な本音だった。こんな答えが返ってくるとは予期していなかったのか、紫月は思い切り意表を突かれたようだ。



「なんで、なっちゃんがそんなこと言うの?」

「だってさ、あの事故は……」



 言うべきかどうか、いくらなんでも時期尚早だと少しは躊躇った。言ったところでこの世の流れが自分の都合に合わせてくれる訳がないことは、重々承知している。



〈紫月〉はワタシに『審判の時が迫っている』と告げた。



 字面通りに受け取れば、オズ君を残したあの世界に終わりがやって来るとか、あるいは〝夢〟の中で察知できない危機が起こり得るのかもしれない。



 散々迷いつくした挙句、いざよう心は振り出しに戻った。



「ううん、やっぱ何でもない」

「何なのよ」



 細い眉をハの字に曲げて、剣呑とした紫月の眼光が飛んでくる。想定内の事態に遭遇したワタシはカバンに目線を落としつつ、次なる対策を即席で練り出した。



「あっ、それよりさ、ワタシ良いモノ持って来たんだぁ」



 無理のあるテンションでカバンのチャックを開け、中を見られないように例のブツを探って掴んで、彼女の前に差し出して見せる。



「すっごい、これ高級品じゃん」



 紫月が驚く高級品とはすなわち、ワタシが例の高校で奥井と金森に手渡した、紫月からくすねたゴディバのチョコレートであった。



 しかも今回はなぜか五個入りで、未開封の状態でカバンにはいっていたのだ。



〝夢〟だから、仕方ない。



「実はね、ワタシのお母さんがこの前東京のデパ地下でチョコを買い漁ってきたみたいでさ、余ったからあげるーって渡されたのがコレなんだ」



 適当に言い繕って、紫月の機嫌を伺うワタシ。



 一呼吸終えるまでもなく、懐かしいやりとりが返ってきた。



「ずるいよねーなっちゃんは。お祖父さんがここの院長さんだったから、なっちゃんはその孫娘じゃん、ぶっちゃけお金持ちのお嬢様だよね?」

「やめてよ、それはおじいちゃんが生きていた頃の話だってば」

「でもやっぱりずーるーいー」

「はいはい分かったってば。一応生チョコで賞味期限あるからさ、さあ食べて食べてっ」



 言うが早いか、ポジティブな話題だと饒舌になりがちな彼女を黙らせるためにも、包装を解いて中身の一つを摘み、さっさと口に運んでやった。



「ふもっ」



 半ば強引とはいえ、紫月はこれといった抵抗もせずワタシの好意を受け入れると、



「んー、おいしい」



 口の中のチョコレートに負けないくらいに、蕩けた顔を見せてくれた。



 ああそうだ、ワタシはきっとこの笑顔に魅せられて彼女と仲良くなったんだ。誰にも見せる訳ではなく、だからといって決して媚びている訳でもなく、ごく自然に咲かすことのできる表情だからこそ魅かれたんだ。



 ワタシが言うのもなんだが、紫月のほころんだ顔はいつ目にしても天真爛漫で、まるで目の前に天使が舞い降りてきたように可憐で……可憐、で……



 ―――あれ?



 一瞬だけ、視界にノイズのような粗いちらつきが混じり、紫月の輪郭だけがぶれた。



 それだけではなく、輪郭がぶれたと同時に彼女が彼女でなくなるように、ワタシの頭が認識を拒否したのだ。



「なっちゃんにも、あーんっ」

「んもっ」



 油断しきっていたところに、紫月からの優しいお返し。



 固形とは思えぬ口当たりの良さと舌触りの滑らかさであっという間に溶けていく。しかしどうやってこの美味しさを表現すればよいのか、ワタシは考え込んでしまった。



 幼い頃から高価で風味豊かな食べ物を口にすると、美味しいと分かっていてもすぐに顔や声に出ないのがワタシである。



「おいしい?」

「う、うんっ」



 不意に感想を聞かれ、即座に首肯するワタシ。紫月は再び微笑む。



 それから二人でチョコレートをもう一つずつ食べ合って、笑顔の止まらない彼女と、笑顔を作れないワタシの奇妙な時間が過ぎていく。残り一個になったチョコレートは銀紙に包んでポケットに入れておくことにした。



 紫月はすっかり落ち着いた様子でワタシに「アリガト」と感謝すると、起こしていた上体を両手を付きながらそっと枕元まで下げていき、横になった。



「アタシね、今だから言うけどね、事故った列車の中で走馬灯……っていうんだっけ、それが頭の中を通り抜けていくのを感じたの」

「走馬灯、ね」



 フィクションの世界、特に王道的展開のある作品では主人公が窮地に陥り死を悟った際に、脳内で過去の印象的な記憶が映像となてフラッシュバックする、アレのことだ。



 紫月の場合、一体どんな思い出が蘇ったのだろうか。



「それもすっごいおかしくてね、浮かんで来た映像っていうのがなーんと、アタシとなっちゃんに関係してるものばっかりだったの!」

「えっ」



 いくらなんでも、それは誇張なんじゃないか。



 家族やほかの友達との思い出だってあるだろうし、ワタシが紫月と過ごした時間なんて、365分の1年を五百何倍かしたくらいしかないってのに。



 彼女がワタシと出会うもっともっと前、幼稚園でも小学生でも中学生でも、友達と一緒に遊んで学んで濃密な時間を彼女は過ごしてきたはずなのに。



 ―――待てよ、ワタシは紫月の家族の話を聞いたことが全くないぞ。何人家族だとか、兄弟姉妹はいるのだとか、ペットは飼っているのだとかさえも、何もかも耳にした事がない。



 それに加えて、ワタシが彼女の家にお邪魔したという記憶すら思い出せない。



 玄関がどういう造りで、家の中がどういう間取りで、リビングやキッチンやトイレのあった場所も、最も忘れちゃいけない彼女の部屋の様子だって、この目で見たはずの景色が何もかもドロドロに溶かされて形を失ってしまっている。



 凍り付いた時間に熱を当てた途端、溶け出した記憶は二度と固まりはしなかった。



「確か、初めてなっちゃんに声をかけたのは去年の四月の、一年生の入学式が終わって次の日だったっけ。周りのクラスメイトは席が近い子同士で早速メアドの交換とか始めて仲良くなろうとしてるのにさ、アタシとなっちゃんは席が隣同士でもまったく動きがなかったよね」



 ―――去年の四月?



 思い出せない。昔から記憶力は人一倍あるというのに。



 ワタシの頭は、受験勉強のためだけにあったワケじゃないだろう?



「なっちゃんてば窓際の席だったから外ばっかずーっと眺めててさ、隣りにアタシがいてもぜーんぜん気にかけてくんなかったもんねぇ。悪い言い方になっちゃうけどさ、目が死んでたよね。いつでもウェルカム、この世の終わり! って感じでさ」



 そう言われれば、そうだったかもしれない。



 でもゴメン、きれいさっぱり忘れちゃってるみたいだ。



 もっと話してくれれば、思い出せるかもしれない。



「そんでとうとう我慢できなくなったアタシが声をかけたらさ、なっちゃんはどうしたと思う? どわぁっ、って素でオーバーなリアクションなんかとっちゃって椅子から転げ落ちたんだよ! やっぱなっちゃんもあの時は内心ビクビクしていたんだなーって分かっちゃって、その場で大笑いしちゃったっけね」



 すごいな、しーちゃんってばそんなトコまで覚えてるんだ。



 よっぽどワタシの間抜けな姿が印象的だったってことだよね。



 でもゴメン。ワタシそんなことした覚え、ないや。



(そうだっけ?)



「そっから五月の全学年合同の林間学校で一緒の班になってさ、一気にキョリが縮まった感じしたんだ。なっちゃん料理上手に見えて全然下手っぴなんだもん。おまけに肝試しの時はずーっとアタシの腕にしがみついてさ、寝る時までくっつきっぱなしだったんだよ?」



 あはは、そりゃご迷惑をおかけしましたね。



 ワタシだって不器用な一面は持ってるもの。



(そうかもね)



 なんかヘンな声がする。気のせいかな。



 頼むから、ワタシの邪魔をしないで欲しい。



「あとはねー夏になって水泳の授業が始まってさぁ、アタシびっくりしちゃった。なっちゃんって着やせするタイプなんだって分かったもん。出るトコ出てたし、ちょっとだけ妬けたな。でもお腹周りはアタシよりプニプニしてたよね、そこはアタシの勝ち」



 そうかな、体つきはずっと人並みかと思ってたけど。



 個人個人で感じる世界ってのは、似ているようでやっぱし全然違うモンなんだね。



 ワタシにはワタシ、しーちゃんにはしーちゃんの世界があって、ワタシが見ているしーちゃんと、しーちゃんが見ているワタシはひょっとしたら、同じ世界に暮らしていないのかもしれないんだね。



(考え過ぎじゃないかい?)



 うるさいな、ワタシ達の甘くてほろ苦い青春に水を差さないでくれ。



 ワタシは今、しーちゃんの声で両耳を満たしたいんだ。



「あっいけない、学園祭をすっかり忘れてた! うぅんとね、確かなっちゃんと二人で食べ歩きしたでしょ、各クラスの出し物はすべて制覇したでしょ、それからお昼過ぎのライブにアタシの大好きな三人組バンドがサプライズゲストが登場して、めっちゃ大盛り上がりしたでしょー。ホント夢みたいな一日だったよねぇ、なっちゃん?」

「……うん、ワタシもあの日はよく覚えてるよ」



(嘘だね、ホントは覚えていないくせに)



 いい加減黙ってろよ、張っ倒すぞ。



「そうだっ。今思い出したんだけどね、学園祭の夜の部が終わって家に帰って電話でしばらくなっちゃんと話し込んでたらさ、もう夜中の一時ごろだったのね。流石になっちゃんもヘロヘロだったからバイバイって電話切って寝ようとしたの。でもなんか一階のリビングから人の声が聞こえて行ってみたらさ、テレビが点いてたんだよ……なっちゃん?」

「ワタシなら平気だよ」



(平気だって言う人間は、たいてい平気じゃなかったりするんだよね)



 不思議だな。なぜかしーちゃんの言葉にデジャブを感じる。



 危うく忘れかけていたけど、これは〝夢〟なんだった。



 だとしても、これって何の〝夢〟なんだ?




(まったく、何だろうね)




 最初に見た〝夢〟は、ずっと昔の母校の屋上。



 どんよりした空に、死に急いだ男子が一人。ワタシは彼の話に付き合って、最後まで聞いてあげたと思ったら、飛び降り自殺に付き合わされた。



 次に見た〝夢〟は、名前も知らない遊園地。



 男のワタシと女の二人で遊んで回って、最後に素性のよく分からない悪魔女が出てきたと思ったら、観覧車から放り出されて終わった〝夢〟。



 そして今見る〝夢〟は、おじいちゃんの病院の中。



 ここでワタシがしている事は、事故で歩けなくなったしーちゃんのお見舞い。



 この先何が待ち受けているなんて、きれいさっぱり分からない。



 けれどもはっきり分かることもある。



 ワタシは紫月といるだけで、心の底から愉しいのだ。



 それなのに、心に巣食う化け物は、ワタシを傷つけ悦ぶのだ。



(君は〝夢〟から醒めるのか、意識のあぶくとなっていくのか。決めるのは初めっから、ここにいる〈君〉しかいないんだよ)



 ワタシの記憶は、不快な誰かを思い出す。



 果ての見えない旅路を往き、〝夢〟に飛び込み話しを聞けと命じられ、現地で幾度も散々な目に遭ってきた。見方を変えれば、死という手段が〈ワタシ〉にとっての救いであり、答えになるのか。



 ワタシは誰に、そんな虚言を吹き込まれた?



 ワタシは誰かに操られている。



 ワタシは誰かに唆されている。



 ワタシには、〝夢〟を連れ去る者がいる。



 ワタシには、〝夢〟で知らない者がいる。



 出会っているのに目にしたことのない、得体の知れない人物が。



 想像もしたくないくらい、そいつは傍まで近づいているのかもしれない。



 叶うのならば、どうぞ一人でくたばってほしい。



(もしかして―――僕の事かな?)



「でねっ、そこに映ってたのがね、白猫の歩く後ろす」

「うるさい! 邪魔をするなっ‼」



 ワタシは、獣のように叫んでしまった。



 紫月がヒッとか細い声を上げ、ワタシの顔を凝視する。



「ごっ、ごめん、しーちゃん。ワタシ、何だか頭が変になってきてるみたい」

「大丈夫だよ。アタシも今日は、ちょっと変だから」



 意味深長な言葉と共に、なぜか紫月はニッコリとした。



「え?」

「ほら、窓の外……見て」



 紫月が外を指さす前に、すでに病室には変化が起こっていた。



 病室の窓から、昼間だというのに闇が落ち込んできている。気付くや否や窓の方へと駆け寄ると、太陽の前を真ん丸な一回り小さめの物体が、日の光を遮るように通過しようとしているではないか。



「日食……金環日食だ」

「朝のニュースで、どこのチャンネル回しても似たような報道ばっかで見飽きちゃったし、なっちゃんもきっと知ってると思ってあえて話題に出さなかったんだけど……なっちゃん?」



 見事に、タロットの予言通りになった。



〝月〟と〝太陽〟がおよそ二十年弱の周期で重なり合う天体現象、日食。〝夢〟と現実を混同すべきではないのだが、過去だって〝夢〟と似たようなものだ。



 何が言いたのかといえば、ワタシはあの日食に見覚えがあったということだ。中学生最後の修学旅行だったあの日、生まれて初めてこの目で見た畏敬の念すら抱かせる光の輪を、どうして忘れることができようか。



 窓から顔を放し、小さな顔に大きな影が落ち込んだ彼女に堂々と聞いてみる。



「しーちゃん、今って二〇一五年の二月二十一日だっけ?」

「なに言ってんのぉ。二〇一三年の二月二十一日でしょ?」



 最近日本で起こった日食は二〇一二年の五月。それはつまり、ワタシがまだ中学生最後の一年間を過ごす真っ只中の時期。あの第一志望を受験したのが、翌年二〇一三年二月十四日。



 間違いようもない―――予感が、確信へと変わる。




《ようやく気付いたのか。残念だけど、手遅れだよ》




 直後、バンバンバンと室内入口の扉が乱暴に叩かれる音が、真っ先に耳の奥まで轟く。



 あの中年看護婦が紫月の包帯を取り換えたいとは言っていたが、ワタシの用事が終わるまで待ってくれているはずだから、可能性は低い。



 何よりも、常識のある人間がしでかす行為ではない。



「なっ、なに⁉」

「目覚めちゃったみたい……霊安室から、死んだ人たちが」



 一転した状況の変化にも関わらず、紫月は入口の方を向きながら平然とそんなことを口にする。彼女はやはり、初めから何もかもを知っていた。



 入り口の窓ガラスから、真っ白な顔をした死人たちがワタシを見ている。生きているワタシたちの血肉を、B級映画のゾンビみたいに求めに来たとでもいうのか。



 扉は勿論開いているが、スライド式であることすら忘れてしまったのか、ひたすら目前の障害物を力づくで突破しようと意気込んでいる。



 落ち窪んだ眼底や潰れた鼻、半開きでうーうーと声を漏らす口からは、突然に生を与えられたことに対する戸惑いを表現しているように見え、不気味というよりも哀れな気持ちにさせられた。



 だが、同情なんか出来るわけがない。



「どうしよう、ワタシもしーちゃんも逃げられないよ」

「屋上に行って。アタシは大丈夫だから」



 何を根拠にそんなことが、と思った途端、入口の扉がこちらに向かってバタァンと倒れ込んだ。



 どこか面影のある死人たちがなだれ込むように向かって来る。



 絶体絶命のピンチ時に大声なんか出せるはずもなく、自分の身を抱え込むようにしてしゃがみ込んでしまったワタシ。それに応じるように、開けっ放しだったカバンから、室内の照明よりも強く光る一枚のカードが浮上する。



 ワタシがそれに気づいて見上げた直後、カードから何やら二人の人影が飛び出して来て、




「「であああ―――っ‼」」




 という若く雄々しい掛け声と共に、迫り来る死人たちへ向かって息もピッタリの飛び蹴りが炸裂、一挙に病室の外へと吹き飛ばしたのだった。



 ヒラヒラと舞い落ちたカードの上端には、ローマ数字で『6』が描かれていた。



「奥井くん! 金森くん!」



 たいそう懐かしい制服姿に身を包んだ二人の背中が、こちらを悠然と振り返る。



「へへっ、一度でいいからやってみたかったんだよなぁ、こういうの」

「ホント間に合ってよかったよ。尾上さん、無事?」



 ただ席の近いクラスメイトだった彼らが、今ではすっかりヒーローに様変わりしている。



 しかも、カードから突然出てきたということは―――



「二人こそ、無事だったんだね」

「ああ。どーにかこーにか、助けられてよかったぜ」

「今の俺たちは大アルカナの六番〝恋人ラバーズ〟……そう呼んで欲しいかな」



 あまり似つかわしくないと言っては悪い気もしたが、遊園地での一件が二人の役目を象徴していたのだとすれば、違和感は薄らいだ。



「かっこよかったよ、二人とも」



 ここは空気を読んで、命の恩人たちをヨイショしてみる。



 奥井は親指を立てて、金森は人差し指で鼻をこするというベタなリアクションを取り、再びワタシに背を向けて言った。



「その言葉を貰うには、まだちょっと早いか、なっ!」

「俺達の仕事は、尾上が屋上に着くまで終わらないから、よっ!」



 再び迫ってきた死人たちを蹴散らしつつ、二人は勇ましく答えた。



「さぁ行くよ。付いて来て、尾上さんっ」

「後ろは俺に任せろ、さぁっ」



 コクンと頷いたワタシは、傍にいる紫月と手短に言葉を交わす。



「しーちゃん、本当は動けるんでしょ」

「バレてたかぁ。ほら、この通りだよ」



 手厚い保護を受けた右足を、紫月はヒョイヒョイと上下させる。



「先に屋上で待ってるから、早く来てね」

「ハイハイ。相変わらずなっちゃんはせっかちなんだから」



 言葉が切れたと同時、ワタシは奥井と金森と共に病室を飛び出していった。院内の構造は長年ここに通っていた経験が生き、前後の二人に屋上までの最短ルート案内しつつ、ノンストップで駆けていく。



 道中、彼女自身からに聞けなかった疑問を彼ら二人に尋ねてみた。



「ねぇ、二人はしーちゃんの秘密、まだ持ってたりするの?」



「ああ。久池井さんもアルカナの一人なんだ」と前から奥井。


「大アルカナの十四番〝節制〟って名前の天使らしいぜ」と後ろから金森。



 なるほど紫月には適任だと思った。ヴィジュアル面では勿論なのだが、クラスの誰に対しても平等に接することのできる懐の深さも彼女にはあったからだ。



 天使というよりは仏と称した方が適切だろうが、俗っぽさがなくなってしまっては悲しい。



 何よりあの暗闇で目にした〈紫月〉も、ワタシにとってのしーちゃんなのだから。



「じゃあ二人は、しーちゃんが別人みたいに喋る姿も見たことがある?」



「まあ、あっちもあっちで久池井のキャラだから」と金森。


「大人と子供を必要に応じて使い分ける、彼女も結構演技派だよね」と奥井。



 彼らはワタシ以上に彼女のことに詳しいのだろうか。



 そんなはずはない。ワタシが紫月を一番知っている。



 自問自答して注意力が低下したところに、五階東病棟の曲がり角から伸びてきた青白い手に足首を突然捕まれ、派手にすっ転ぶ。死に装束で一瞬判断に迷ったが、手の持ち主は、事故車両の運転室へ潜入する際に踏み台にさせて貰った肥満体系の青年だった。



 温度はやはり感じなかったが、恐らく生きているときよりもブヨブヨとした感触はじかに脊髄に伝わり、神経が毛羽立っていく。



(放して、放してってばぁ)



 死んでも根に持つタイプなのか、青年は恨めしそうにもう片方の手で、ワタシの足を文字通りに引っ張ろうとしていた。



(悪かったって、言ってる場合じゃっ、ないんだ、よおっ)



 彼の手を何度も蹴りつけていくと、次第に掴む力が弱まっていった。死体にも痛覚があるのかなど考える暇もなく、遂に青年の両手はワタシの足を解放した。



 息も絶え絶えのワタシをよそに、彼は今度こそ事切れたようだ。



 へたり込んだ身を二人に肩を貸して起こしてもらう。気遣いの言葉は不要だった。



 いよいよ屋上へ続く非常階段に着く頃には、ひどい息切れがしていた。心臓の鼓動に合わせて、脾臓がチクンチクンと過剰な血液生産を主張する。



「尾上、ちっと無茶しすぎだって」

「女の子でしょ、張り切るのはよくないよ」



 二人が心配そうにしてくれたが、ここでへたってはならないと自分を鼓舞して階段を一つ一つ踏みしめていく。



 制服の左ポケットには病室を抜け出す前に捻じ込んだ二十一枚のタロット、右ポケットには余ってしまったゴディバのチョコレートが銀紙に包まれて入っている。彼らは呆れながら、先行くワタシの横を一段抜かしで上っていった。



 目標地点に迫る中、我が身に生じる痛みと疲労がまた一つ、確信事を付け足した。




 これはもう〝夢〟なんかじゃない、ワタシにとっての現実なんだと。

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