暗闇と黒猫その二、遊園地の〝夢〟
〈注意!〉第2部の倍以上の文字数で掲載しております(約56,000字)ので、適度に休憩を挟んでお読みになってください。
〝夢〟から醒めたワタシは、仰向けに満天の星空を眺めていた。
頭を横に傾けると、無表情のオズ君と目が合った。
「どうだったよ、あン中は」
「意味わかんなかった」
正直にそう言ったら、オズ君は「くふ、くふ」と笑い出した。
「ま、所詮〝夢〟だからな」
「妙に現実味のある〝夢〟だったんですけどね」
今度は身体も重くなく、するりと立ち上がることができた。制服のシワが気になってあちこちに手を伸ばしていると、オズ君がこちらを見上げながら尋ねてきた。
「で、タロット通りの結果になったか?」
「あー何だっけ、すっかり忘れてた」
本音でボソリと答えると、オズ君は少しだけ固まってからプイっと両目を逸らし、おやじくさい溜息をついた。
「〝死神〟だ」
「それそれ。で、どういう意味?」
「〝死神〟の正位置は『破滅・終焉・行き止まり』、逆位置は『再生・上昇・ゼロからの始まり』だ。ゲームオーバーかその場でコンティニュー、っていった方が分かるか?」
一通りオズ君が解説してくれた後で、ポケットの中から該当するタロットカードを抜き出して鑑賞してみる。
性別不明の骸骨が黒いローブを纏い、首狩り用の鎌を携えた絵のある十三番目のカード。不吉の象徴であるその数字を見れば、誰もが嫌悪感を示すだろう。
「〝夢〟の中に出てきた人は、確かにそんな立場だった……でもさ」
「ん?」
「最後ら辺は何というか、吹っ切れてたっていうか、ムシャクシャしてたっていうか」
結局、×××はワタシに何を伝えたかったのだろうか。死んで生まれ変わるとは言っていたが、〝夢〟の中で命を落とせば大多数の人間はショックで目が覚めて、意識が現実に引き戻されるはずではないのか。
「どんな奴だったんだ、そいつは?」
「見た目は落ち着いた感じだったけど、中身は相当狂ってた」
「あれか、女乃みてぇな奴だったか」
「まさか」
もし現実世界で×××が実際に生きているんだとしたら、ワタシは彼の手足をがんじがらめにしていたモノから解放してやったことになるのか。生きる意志という曖昧模糊な活力を、ワタシは彼に分け与えでもしたのだろうか。
「そうか……」
オズ君は何かを考え込むように眉間を寄せるが、少しも経つと鼻を鳴らしてうやむやにするような仕草を見せた。
「どうしたの? もう少し、詳しく話そっか?」
「いいや問題ねぇ。ただの思い過ごしだ」
ワタシが「ふぅん」と返事すると、オズ君は面白くなさそうな顔をした。
「過ぎたことは気にすンな。お前は聞き手に徹すりゃいいんだよ」
「聞くだけっつったって、次も同じような展開だったら骨が折れそうだよ」
「小娘が何ほざく、若いうちの苦労は独り占めするくれぇに買わなきゃ損だろがよ」
流石にこれだけ口が悪いと、我慢の限界ってものがある。
そこでオズ君が言葉の途中でワタシに背を向けたのをいいことに、
「ぬおっ」
「たかが猫の分際で人様に説教たぁ良い御身分じゃーありませんかぁ?」
弱点の首根っこを掴み、黙らせることにしたのだ。
「降ろせバカ野郎、地に足付けねぇと気持ち悪ぃだろが」
「その減らず口を今すぐ正さないと、こっから突き落とす」
「ンだとぉ⁉」
オズ君が取り乱す。だとしても前後両足はほとんど動かせず、身体のかゆみを訴えているようにしか見えない。ところがその何気ない仕草の中で、ふとワタシの目に留まるものがあったのだ。
「あれ、ここだけ毛が生えてない」
「ばっ、ジロジロ見てンじゃねーよっ! いいから放せっ」
オズ君が必死に怒鳴って抵抗する。はからずも驚いたワタシは手の力を緩め、彼を宙へと放ってしまう。
しかしオズ君は冷静かつ柔軟に、落下寸前のところで両前足を円盤台の縁に引っかけて、奈落の底を免れたのだ。さすがにこれはマズいと思ったワタシは再び彼の首根っこを掴み、命の足場へと引き上げたのだった。
「つっ次やったらてめぇのツラ滅茶苦茶に引っ掻いてやっからなクソガキぃ」
オズ君が猫らしく、フーと毛を逆立てて唸る。
「へーへーすんませんしたぁ」
剣呑な空気がしばし、その場に流れた。お互いに黙りこくっていた状況から同時に溜息を吐いてしまい、ますますやりきれない気持ちで胸が一杯になる。
「昔、やられたンだよ」
「え?」
「腹の傷だよ、さっきおめぇに見られた」
そう、オズ君の体の胸部から腹部にかけて縦にまっすぐな薄桃色の直線を、ワタシは見ていたのだ。野良猫が負うにしてはひどく不自然な、大きな傷跡を。〝夢〟の世界にも野良猫がいるかどうかはさておき、目に焼き付いてしまったことに変わりはなかった。
「そう、なんだ」
「猫に取っちゃ、敵に腹を向けるなんざバカのやることだ。云っとくがな、俺は好きでこンな傷付けてンじゃねーからな」
「へいへい分かりました、もうキョーミありませんよ」
できればすぐにでも知りたいという本音を、手を振って建前の言葉と共に遠ざける。
「だとしても、他にも気になる事があんだけど」
「あンだよ」
とげとげしく接してくるオズ君に、残りの疑問をおそるおそる聞き出してみる。
「おでこの傷跡は、ケンカで負ったものなの?」
「そうだが」
「じゃあ、そのオッドアイも?」
「違う。親の遺伝だ」
彼は答え終わると、ほんの少しだけ俯いた。
思い出したくもない思い出に耽っているのだろうか、邪魔をしてはいけないと頭で理解しつつも厄介な好奇心が勝ってしまい、口が滑ってしまう。
「オズ君って図太いように見えて、結構やんちゃもしてたんだね」
「だったら何だ、やんちゃして悪いってのか?」
「い、いえ、悪くないです……」
凄みのある視線で睨まれたので、思わず敬語で返事してしまう。オズ君は伝えるだけ伝えた後にさっそうと踵を返し、赤い光で橋の上に道程を作っていった。
すっかり怖気ついてしまったワタシは何も口を出せずに、ただ彼の後をチョコチョコと付いて回った。
真っ黒な尾っぽを逆立て、足音もなく前を行くオズ君の後ろ姿―――それは父の背中のように優しくも大きくもないのだけれど、誰彼構わず付いて来させる説得力があった。同時にワタシは、自立心の芽生えない自らの精神的未熟さに歯噛みする。
(誰かの背中を追っかけ続ける、レールの上の人生、か)
人には誰だって、チャレンジ精神があるはずだ。チャレンジはリスクと隣り合わせで、もちろんやるからには成功で終わりたい。理想論では然るべきだ。
でも、失敗は怖い。リスクが大きければ大きいほど見返りも莫大になるチャレンジは人の理性をいとも簡単に揺さぶり、判断力を失わせてしまいがちだ。
その点、高校や大学受験はギャンブルと似ている。努力と受験料をベットして受験生は志望校に勝負を仕掛け、結果を待つ。
勝てば天国負ければ地獄、といえば少々誇張になってしまうが、ワタシは正しいと思う。
「ギャンブラーにとって最も損をしない選択はギャンブルをしないことである」という格言(?)を耳にしたことがあるが、多くの受験生には事実上賭けへの拒否権はない。だとすれば、実力相応校を受験して合格を勝ち取るのが最も賢明なはずだ。
でもそうやって妥協してしまえば、万事解決となるのだろうか。×××の言う通りまだまだ自分にはリスクを冒してでも手に入れたい、大事な何かが待っているんじゃなかろうか。
こんな場所であれこれ考えたって、仕方のないことなのだけど。
「おぅ、さっきからなーに黙ってんだよ」
ワタシより一メートル程前を歩いていたオズ君が立ち止まり、肩越しに振り返って言った。
「ちょっと考え事」
「ここでいっくら考えたってよ、目覚めりゃ綺麗さっぱり忘れちまうんじゃねーか?」
「そりゃーそうかもしれないけどさぁ」
何か言い返そうと考えるうちに、沈黙は我が物顔で降りてくる。
強面なオズ君は見た目のまんま、他人との会話にあまり参加しない性分なのだろうか。会話と言ってもそもそも彼は猫なのだから、やはり猫同士でもなければ多くを語ってはくれないのだろうか。
(背中で語る、とか)
そう当てはめた方がオズ君らしい気もした。とは言うものの、ぴんと立てた黒い尻尾を見た方が、今の彼がわりかし機嫌が良いということに気づいていた。
先行していたオズ君の足が心持ち遅くなり、何事かと注目した途端、振り返った彼と目が合った。
「おい娘っ子。今、俺の事考えたろ」
「うえっ、なな、なんで?」
図星だったので、返す声が上ずってしまう。
「お前の足どり、さっきから俺のと一緒になってきてっからな」
「そ、そんなので分かったの?」
はやワタシが白旗をあげると、オズ君は「くふ」と笑って前に向き直った。
「なめンな。猫は人様よりずっと繊細なンだよ」
「繊細って、どこが?」
これを聞いたオズ君が、溜息と共に尻尾をくたっと下げた。
「お前もでれすけだなぁ。猫の何たるかをちっともわかっちゃいねぇ」
いくらワタシでも、流石にこの発言にはカチンと来てしまう。
「だから、アンタ等のどこが繊細なんだってば」
とにかく真面目に聞き返すと、彼の垂れていた尻尾が自身の股下を潜り抜けていき、限界まで伸びていった。いい加減止まってくれればいいものを、ヨタヨタ歩きになってまでその部分を強調してくるところが、なんとも憎めなかった。
「てめーの心だよ、ココロっ」
「まさか、感情の機微に敏感だっての?」
オズ君は間もなく尻尾をスルンと引き戻し、いつもの歩調に戻った。
「やっと分かったか、これだから人間は面倒くせぇンだ」
「自分で吹っ掛けといて、その言い草は可笑しいんじゃない?」
「うるせぇな、またダンマリ決めてもいいってのか」
「あぁもうわかった、わかったよ……ごめんなさいすいませんでしたこの無知で愚かなワタクシめに御教授くださいまし魔法使いのオズ先生」
どうしてこう、ワタシは肝心な場面で押しに弱いのだろう。
中学の時に場数を踏んだディベートでも、あと一歩のところでおいしいところを対戦相手に持っていかれ、その度に辛酸を嘗めさせられた思い出がよみがえる。我が身我が心を改めて情けなく感じつつも、さっさと本題に移ってもらうよう彼を催促する。
薄赤く光っていく透明な橋の上で、両耳をピンと立てた彼は咳払いを一つ。
「よし。ならばお前にひとつ、問いを発する」
オズ君はずいぶんと改まった口調で、次のように言った。
「お前は、コウモリの気持ちを考えたことが今までにあったか?」
「コウモリの、気持ち?」
何を考えているのかさっぱり読み取れないこの黒猫のことだ、きっととち狂った問いかけでも持ち出して来たのだろう。
そんなワタシの思惑は、彼の次の一言でさっと掻き消えていった。
「言い方を変えてやる。コウモリには意識があンのかってことだ」
「意識……哲学の問題?」
「そうだ。心の哲学ってカテゴリーの中の、心身問題に属する問いだ」
「オズ君ってばホント猫らしくないよね。誰かの入れ知恵?」
「茶化すンじゃねぇよ」
「あ、ゴメン。コウモリが意識を持ってるかどうか、だっけ?」
「ただ意識があっだけじゃなくて、コウモリの視点からみて奴らはどンな気持ちを抱きながら暮らしてるかってこったよ」
「そんなの、簡単じゃん。空を飛べて気持ちいいーとか、今日はお腹いっぱいご飯が食べられて満足できたさぁもう寝ようとか、そういうことでしょ?」
けっこうな勢いで自信を込めた回答なのだったが、オズ君は「くふ」と笑った。
「残念ながら、そりゃ見当違いだ」
「ええ、違うの?」
「俺が言いてぇのは、コウモリの脳味噌と身体で暮らすのがどんな感じか、ってこった」
「そんなの、コウモリ本人に聞いてみなきゃ分かんないじゃん」
「別にコウモリじゃなくたっていい。イルカとかクジラとか、イヌや俺みたいにネコ……人間と近すぎず離れすぎねぇ身体をした動物たちはいってぇどんなココロを持ってンのか、それが聞きてぇンだな」
思考に没頭する際にワタシは頭の後ろ、正確にはうなじ辺りをボリボリと掻く癖がある。小学生の頃からそれを続けてきたせいか、勘違いした不快な男子からはよく「フケ女」と呼ばれてからかわれていたことを思い出した。
「だとしたらまず、コウモリはワタシ達の言葉が分からないよね」
やはり後頭部を掻きつつ、思いついた事を声に出してみる。
「ん、いい着眼点だな」
「本は読めないし、時計を見ても今が何時何分か分かりっこない。目や耳も、鼻とか舌とか皮膚の感触だって人間と違う訳だし……」
「そうだな。それで?」
「それで……それ、で」
集中するあまり、両足が止まっていることに気づいたのは、次にオズ君から返事をもらった後だった。
「あンだ、もう終わりか?」
「待って……あ、そうか。結局、人間とは全く違う世界をコウモリは感じている、ってことにならない?」
「じゃあよ、その世界観をコウモリになったつもりで説明できっか?」
尻尾の先端を頭部に持って行き、彼はその小さな額をトントンと突いた。
ワタシは即座にコウモリの意識にダイブし、実況してみた。
「えーと、こんにちは! ワタシ、コウモリのなちって言います。今ワタシはとある洞窟の中を飛んでます。ワタシはコウモリだから目がほとんど見えません。代わりに超音波を出して暗闇の中をスイスイ飛んでます。何やら前方に動くものを発見―――間違いない、今日のごはんの昆虫さんです! 待て待てー……って感じでどう、オズ君?」
我ながらアドリブも出来るものだなと自画自賛していたところ、オズ君のダメ出しが入る。
「オイオイオイ、それじゃ入口に逆戻りだぞ」
「え?」
彼はまたも尻尾を使って、自らの心臓あたりをクイクイと指した。
「奴らの世界で感じてる〝気持ち〟ってのは結局、どう説明すりゃいいンだ?」
「あ……」
「俺が今お前を見てどう思っているか、俺の気持ちになって説明できっか?」
「それも無理っ。言葉で説明できないならどうしようもないじゃん」
すっかり思考が停止してしまう。
オズ君はまた「くふっ」と笑った。
「だろ? ヒトでも動物でも、感情を発した時に体内で起こる化学的・神経学的反応は認知科学の見地からちぃとずつ解明されてきてはいるがよ、なんでただのモノでしかねぇ脳味噌が主観的意識を生み出せンのか、そこが知りてぇワケよ」
猫のくせに、小難しいことを言ってくれる。確かに暇つぶしにはなるが、いくら考えても明確な答えは出せるのかと問われれば、ノーだ。
「あれ、でもオズ君は自分で人の言葉喋れてるし、ワタシの言葉だって理解できてるよね?」
「俺は特別なんだ。たまたま知能がヒトのレベルまで育っちまったンだろうな」
「だろうな、って何その言い方。怪しいよ」
「知ったことか。お前くらい生きてりゃあ人様の言葉も勝手に覚えンだよ」
「じゃあ、人様の言葉でオズ君の〝猫としての気持ち〟を説明してみてよ」
オズ君が言葉に詰まった。まさに『語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ』と言いたげに顔をしかめている。
ワタシは言葉の思いつくまま、彼に対する追い打ちをかける。
「それに猫の癖にニャアニャア鳴かないし、変な笑い方するし」
「あぁねつっこい野郎だ、これ以上詮索すンじゃねぇ」
そう吐き捨てたオズ君は、苛立ちながら逃げに走る。
彼はやけに大きな溜息を一つ吐き、先の話の続きに移った。
「いいか、お前は俺の代わりにゃなれないし、俺もお前の代わりにゃなれねぇ。仮に俺とお前の意識を完全に分離して交換できるマシンが完成したとして、実際に実験が成功したとしてみろ。俺とお前の何を交換すりゃ、意識が交換できたと言い切れる?」
「脳じゃないの?」
「そうか。お前は意識が脳の何処かに存在する立場ってワケだな」
「だってそうしないと納得できないんだもん」
「まぁ間違いではねぇだろな」
「オズ君はどうなの?」
「お前と一緒だ。臓器移植を受けた人間が、臓器を提供した人間の夢を見たりするなんてことを考えっと、肉体と意識は分かち難ぇだろ?」
「うん……そうだね」
何となく嬉しい感じがしたのに、咄嗟に出た声は素っ気ないものだった。
対するオズ君は、物足りなそうな顔で話を続けた。
「じゃあ改めてだな、意識ってのは言葉でどう説明すりゃいい?」
「説明っていわれてもなあ」
考え込んで足取りが重くなっていくワタシに対し、振り返らずに歩みを止めないオズ君。
「どうだ、何か言葉で語れそうなモンはねぇか?」
彼のしゃがれた声が十数秒前より遠くで聞こえた気がして、俯いた顔をふと上げる。
慌てて小走りをするワタシ。視界から消えかかっていた黒い後ろ姿を捉え、不満を吐露する代わりに思いつくままの言葉で返答をする。
「あのぬいぐるみ可愛いーとか、喉が渇いた水飲みたーいとか、足首くじいちゃって動かすと激痛がーとか、こんな感じ?」
立ち上がった尻尾を陽気に揺らしつつ、オズ君は前を向いたままで応答する。
「そういうやつよ。ンでそういう意識は、今お前が言った〇〇な感じに当てはめてみっとどうなるよ?」
「ぬいぐるみの可愛い感じ、喉が渇いて水が飲みたい感じ、足首を捻挫した時の激しく痛い感じ……で合ってる?」
意味を変えない言葉の置換は容易いので、オズ君の望む通りに、機械的に答えていく。
ほんの少しだけ歩幅を縮めた彼に、危うく彼の後ろ足を蹴飛ばしそうになってしまう。そんな気遣いにも気づかない彼を睨みつけるだけにして、何事もなかったように歩き続ける。
「そうよ。その〝感じ〟ってのは、てめぇがてめぇと分かる〝感じ〟みてぇに、自分の内側から出てくる気持ちだろ?」
「そうだね」
生返事気味のワタシにいちいち構ってくれることもなく、歩き続ける彼はこちらをチラリと見ながら言った。
「そいつをクオリアって呼ぶ」
「クオリア、ね」
なんだかお洒落な響きのする言葉だと思った。
今みたいな〝感じ〟が正にオズ君の言うクオリアなのだろうか。
「ただし使い方には気をつけろ。クオリアはあくまで意識に伴う質感だからよ」
「質感?」
「主観的な体験がもたらす感覚、いわばお前にしか体験できねぇ感覚だな」
「クオリアとか意識って、身体の何処から生まれるものなの?」
「答えがポンッて出てくりゃ苦労はしねぇよ」
気分を良くした酔っ払いのように返事をするオズ君。
話のゴールが見えないことに不満を感じ、ワタシは彼に提案を申し立てた。
「オズ君でも混乱するんなら、止めとこうか」
「いや待て、意識やクオリアがどっから来るのか色々と仮説があンだよ。脳科学で言うならニューロンの様々な発火パターンの結果としてクオリアが生まれるとか、脳細胞中のチューブリンが波動関数で記述される多数の量子状態の重ね合わせを取り波動関数が収縮した時に意識が生まれるとか、意識は0と1のビットみてぇに情報に還元出来て物質的側面と心的側面の両方をまとめ上げているとか色々と主張が出てきてンだ。他にも意識が発生するには必要最小限の神経メカニズムが存在するとかな。仮に脳の仕組みが何から何まで解明されたとしてもよ、クオリア含め意識に関する問題は残り続けっかもしンねぇけどな」
宙ぶらりんだか何だか聞いたことのない単語が出て来た辺りから、ワタシは聴くことを止めた。オズ君が一息ついたタイミングをそれとなく計り、感想を一つこぼす。
「ふぅん」
「お前、途中から話聞いてねぇな」
「オズ君が一人で突っ走るのがいけないんだよ」
「そりゃ悪うござンしたな。じゃあ今度は視点を変えてみっか」
「視点を変える?」
オウム返しをするワタシに、オズ君が「おう」と呼応する。
彼はふと立ち止まり、視線をより広い場所―――ワタシ達の立つ場所以外にも点在する光った足場と暗闇だけの空間へ向けた。
「物質が素粒子レベルの相互作用から原子、分子、DNA、タンパク質、細胞って積み上がっていったとしてよ、どっかの段階で意識と呼べる現象が発生したって不思議じゃねぇよな」
「まあ、可能性としてはあるかもね」
ワタシの足元で留まっていたオズ君が移動を再開する。彼の体のすぐ後ろから、相変わらず薄赤い光が放出されては透明な橋をライトアップしていく。
彼は耳だけを器用にこちらへ捻りつつ、呆れるほどの問い掛けを続けていく。
「そンなら意識が脳に関係しねぇで存在すっとしてよ、実は死後の世界も考えられると思わねぇか?」
「んな無茶な」
「そうか? 幽体離脱や臨死体験て言葉があるくれぇ、死後の世界を真面目に考える人間もいるンだぜ?」
「……ワタシ、ノーコメントでいい?」
「そう言うなって。んじゃあ例えば、口寄せはどうだ?」
「口寄せ? 巫女とかイタコがやる降霊術のこと?」
「ああ。口寄せも色々あっけどよ、死者の魂を生きた身体に憑かせてありがたいお言葉を頂戴したり会話したりできるンならよ、オカルトに留まらせとくのは惜しい気がしねぇか?」
「うーん、第三者から死者にも意識があるって確認できるんなら、死後の世界も分からなくもないけど……」
「ほかにもあるぞ。ご先祖様が生前経験したことを語ったり、全く知らない国の言葉を書いたり話したりとかよ、この辺りは小坊でも知ってっかもな。そいつらを超能力の類として見るか、死者の意識が今の今まで続いてたまたま生きてる人間に憑依し起きた現象として見るか、結論は簡単につかねぇけどな」
「でもそれって意識の話から脱線してない?」
「そうだな。問題はてめぇ自身の意識は、てめぇの身体と関係なく働いているかってこった」
ワタシは、オズ君の口車に上手い事乗せられているだけなのだろうか。
仮に当たっていたとしても、いい気はしないのだが。
「ンで、どうよ。何かピンと来るモンはねぇか?」
「イメージが湧いてこないんですけど」
彼に視線を投げると、オズ君は黒い尻尾をシュッと横に倒して立ち止まる。突然の一時停止のサインに、思わずワタシも足を止めた。
オズ君は振り返ると、なぜか攻撃的な姿勢を取る。
「んじゃ、こう仮定するか。俺が何かの拍子でカチンと来て、お前の顔を爪で引っ掻いたとする。当然、引っ掻かれたお前は痛みを感じてその場にうずくまる」
「オズ君、ワタシにそんなことしちゃうの」
からかいの視線を直にぶつけてやると、オズ君は分かり切ったように猫ひげを吊り上げた。
「例え話だろうが。んで問題はこっからだ。お前が顔を引っ掻かれるのと痛みを感じるのに、肉体と意識に何らかの関係があるかを知りたいんだ」
向こうもからかっているつもりだろうと、ワタシは微かに口角を上げて答える。
「簡単じゃん。顔を引っ掻かれたって原因があって、その結果痛いってことでしょ?」
「それが因果関係ってやつだな。じゃあもうちょい条件を追加すっかな」
そう言って、オズ君は淡々と橋の先へと駆け出していった。
彼が見えるか否かギリギリのところで、オズ君は電光石火の勢いでワタシに急接近。訳の分からないワタシはその場に立ち尽くした。
お互い一メートルほどの距離で、オズ君がワタシ目掛けて大ジャンプ。目を瞑ったワタシは顔の横で風を感じただけだった。
何なの一体、と後ろを振り返りながら文句を言うと、彼は視界に居なかった。すぐに前をふり返ると、今度こそオズ君が目の前で澄ました顔をしながら腰を下ろしていた。
「俺がお前の顔を引っ掻く寸前、お前は目を瞑る。目を瞑っている間に別の猫……たとえば女乃の野郎と入れ替わって女乃がお前を引っ掻いたとする。すぐさま女乃は俺と入れ替わり、お前が痛みが少し引いて目を開けた時には俺が何喰わぬ顔でいたとする。お前はその時、顔を引っ掻いた奴が俺か女乃かどっちだって言われたら当然、俺と答えるよな?」
つい先ほどの謎のやり取りを、彼が発した質問からやっと理解できたワタシ。
深く考える暇もなかったせいで、二つ返事をする。
「うん」
「なら条件を変えるぞ」
オズ君は言い終えると、間髪入れずにその場からほぼ垂直に飛び跳ねた。近所の野良猫もお得意の塀への飛び乗りと同じ要領だ。
宙に舞った彼はジャンプの最高地点あたりでクルクルと前転を数回、その間に身体が白く光り出す。前転を終えオズ君が着地した時には、彼と同一のシルエットをした白い猫が一匹、彼の左横に並んでいた。
「初めから俺と女乃がお前の目の前にいたとする。二匹で同時にお前に飛び掛かるが、顔を引っ掻くのはどっちか一匹だとする。俺も女乃もお前の顔を引っ掻く方法は同じで、お前が感じる痛みも同一のものだとする。さっきと同様にお前は顔を引っ掻かれる直前で目を瞑る。すぐに顔を引っ掻かれたお前は痛みを感じてその場にうずくまる。さてその時、お前は俺と女乃のどちらかに引っ掻かれた痛みを感じているか、どう答えられる?」
今度は流石に話しの流れを把握できたので、ワタシは即答してやった。
「痛みが一緒なら、どっちか分からないよ」
「だな。そうすっと三匹、四匹、五匹……何匹で寄ってたかっても結果は同じだな」
彼は喋る間にも白い猫を暗闇の地面から生えてくるように増やしていき、気づけば何処も彼処も無数の白猫たちがワタシを取り囲むように立ち並んでいた。
「そう、だね」
眼前の無数の猫が本物だったら骨抜きにされそうだな、と妄想するワタシ。猫たちがワタシに敵意がないことが必須条件だが。
ワタシが返事をして数秒後、白猫たちは蛍光灯のスイッチを切るようにパッと消えてしまった。そして目の前に残ったのはオズ君ただ一匹。実に名残惜しい。
「仮に先の条件でお前が引っ掻かれる前と後でずっと目ン玉開けてれば、引っ掻いた犯人は一目瞭然だ。因果関係だってはっきりしてる。でも引っ掻かれる寸前で目を瞑っちまうと犯人が誰だか分からなくなる。でもお前が顔を引っ掻かれたという事実とお前が痛みを感じる事実は残る」
「原因と結果だけは残るってこと?」
「そうだ。お前が必ず目を瞑るンなら、顔を引っ掻くのは猫じゃない別の動物でも、下手すりゃ近くを通りかかったコウモリかもしンねぇしな」
彼は言い終える前、合図もなしに前へと振り返り足を進めていった。ワタシは「待ってよーぉ」と言いながら後を追いかけていく。
一人と一匹で歩くこと、体感時間で二分ほど。
先の話を頭の中で整理していたワタシは、一つの回答を思いついた。
「……あ、そっか」
「何か気づいたか」
「ワタシが顔を引っ掻かれることと痛みを感じることの間に因果関係があったとしても、その原因を簡単に決めつけちゃいけない、ってことでしょ?」
「そうよ。第三者が見りゃあからさまな事実でも、お前の主観だけじゃどうしようもねぇこともあるワケだな」
「それで結局、身体と意識の関係にどうつながるの?」
オズ君を背中越しに覗き込み、返事を待つワタシ。
すると、彼の黒い尻尾は鋭く立ち上がった。
「っといけねぇ、また脱線すっとこだった」
「しっかりしてよ先生」
ワタシが喝を入れると、オズ君はわざとらしく咳き込んだ。
彼本体の動作に従うように、尻尾がゆっくり垂れ下がっていく。
「わーってる、わーってる。つまりさっきの話に因果関係があるとすっと、肉体と意識は互いに何らかの働きかけをしてるっちゅうワケだ」
「それ認めちゃうと、オズ君の望む答えに反するんじゃない?」
「そうなっちまうな。ンならこれはどうだ。ある昼下がり、お前が公園のベンチでうたた寝をしていたとする。寝ぼけながら起きてすぐに顔がズキズキ痛むのを感じた。急いで公衆トイレの鏡を覗き込んでみたら顔に引っ掻き傷があった……なんつぅことも考えられるよな? つまり、お前の意識の及ばねぇところで何がしかの出来事があったことを認めざるを得なくなるだろ?」
「もちろん、周りにいた人たちは事件の現場を見ていないし、監視カメラとかも設置されてないのが前提だよね?」
「ああ。その空白の時間にあった出来事を、お前自身で証明する確実な方法はあるか?」
足早に歩を進めつつ、思考に没頭するワタシ。
悔しいが、明確な答えはポンと出てこなかった。
「分かんない。降参です」
両手を胸の前で組み、不服な態度を露わにするワタシ。
オズ君は「くふふ」と笑い、黒い尻尾をくねらせた。
「安心しろ。俺も分からねぇンだからよ」
「えー何それぇ」
「もしあるとすっと親切な神様がてめぇに教えてくれっか、果てしない宇宙を支配する自然法則に従って空白の時間に起きた出来事を論理的に再現するか、だろうな」
「そうなんですか」
講義のオチが段々と分からなくなってきたワタシ。
対照的にオズ君はクライマックスに向けての準備を進めていた。
「そこで、俺のお気に入りの学説が一つ出てくる」
「どんな?」
別に期待もしていなかったが、彼は笑わずにきっぱりと言い放った。
「意識なんて存在しねぇ、全部錯覚だって説よ」
「なにそれ、今までの話が台無しじゃん」
「お前らの言葉で仮想現実っていうだろ」
「なんだ、結局そこに行き着くんだね」
「あンだよ。退屈そうな面しやがって」
「違うよ。安心したってだけ」
「そりゃおめでたい。ならお前は他人が作った世界という名の掌の上で踊らされる人生に安心できるってのか」
「え、それは、どうなのかな……」
自分が知覚できないだけで現に幸福な人生を送れるのなら、所謂〝夢〟を見ることになるのか。知らぬが仏という諺もあるくらいだから、ある意味正しいのかもしれない。
高校の倫理の教科書に『自由意志は存在するのか』という命題があったのを思い出す。ワタシの隣の席にいた同じ理系の女の子がこの命題を気に入ってたらしく、論文を漁っていくうちに発見した脳科学的アプローチによる実験結果を語ってくれた。
詳しい過程は忘れたが、脳波計に出力される電位を計測して出した結論は「コンマ二秒ほど自由意志が存在する」だった。
脳科学的には一つの結論が出た訳だが、人間の意思決定プロセスは無数の選択肢から限られた数個の候補を選び出し、最終的に一つに決定すると考えるのが自然だ。そこに至るまでの過程があらかじめ決まっていたとして、さっきの脳科学的実験結果を例えばファミレスの注文に適用するとどうなるだろうか。
コンマ二秒ほどしか自由意志がないのなら、注文一つ決めるのに一秒と掛からない。
でも即断即決できる人だって三秒くらい、ワタシみたいに優柔不断な人だって十秒から二十秒くらい悩んでから注文を決めるはずだ。無論、行きつけのファミレスでお得意のメニューがあるなんて前提は除外だ。
制限時間いっぱいまで悩んだ末に決めた注文が満足のいくものじゃなかったとしても、その結果の責任を刹那の自由意志に押し付けるのは筋違いに思える。
結局のところ意思決定は脳内で無意識に支配されつつも、ワタシ達にも選択の余地があるように錯覚しているだけかもしれない。
将来の夢も、そうやって無意識のうちに最良の選択が出来たらいいのにな。
「俺は安心できねぇな」
「だろうね。オズ君反骨精神旺盛そうだし」
「そうじゃねぇ。お前の考えに安心できねぇんだ」
「心配してくれるの?」
予期しなかった彼の返事に心が弾んだワタシ。
彼は振り返らず、ゴツゴツした肩甲骨を黒い毛皮の下で規則的に動かしながら、変わらぬペースで前を歩く。
「お前の受け取り方次第だ」
「ひねくれてるなぁ」
「俺はな、某映画みてぇに現実世界が知的な機械に支配されて奴らの養分になっても構わねぇって思ってる。向こうの世界でだだっ広い大空を飛んだり、事故や病気に罹ってもボタン一つでリセットできるんなら最高だと思わねぇか?」
「そんな話聞いたら、きっと世界中の研究者が黙っちゃいないと思うよ」
「いいんだよ、人間どもには好きなだけ語らせておけ。どうせ奴らがいっくらあがいたって、瞬き一つじゃ実現できねぇよ」
オズ君がテクテクと歩いていく中で、黒いしなやかな尻尾の先端だけが曲がり、かぎ状に変わる。彼の足取りが次第に緩やかになり、今にも止まりそうになったところでワタシを見上げて来た。
「ま、どんなお偉い学者でも世間に見放されたツキのねぇ学者でもよ、肝っ玉にゃあ同じものが住み着いてンだなこれが」
「何だろう、ピンと来ない」
「俺が正しいっちゅう自信よ」
「己の信じる道を往く、ってやつ?」
「そうだ。最後に頼れるのは結局てめぇ自身ってこった」
彼の言葉は、高校生のワタシに色々と刺さるものがあった。
返事をするタイミングを逃すと、オズ君は歩くペースを徐々に上げていく。
「信じるってのは馬鹿に出来ねぇぞ。極端な話をすっと、現実の世界じゃ1+1=2が成り立つのは当然だよな?」
「うん。当たり前」
「ならよ、1+1=3がまかり通っちまう世界も可能性として考えられねぇか?」
一瞬だけ歩みを止め、次の瞬間で彼に追いついてから返事をする。
「えぇ? それはちょっと信じらんない」
「ほれ、今お前は〝信じらんない〟って言葉を使った。それはお前の住んでる現実世界が1+1=2が成り立つと〝信じている〟から言えるんだろ?」
またも一瞬歩みを止めるが、納得行かずに彼に言い返すワタシ。
「諦めるの間違いじゃないの」
「気持ちの問題だろうがよ。すぐ諦めンのも否定はしねぇが、するってえとてめぇの積み上げて来たモンをいっぺん否定することになっちまう。人間誰しも否定されながら死んでいくのは嫌に決まってンだろ」
とっさの反論ができないことに気づくワタシ。
彼はようやく足を止めたのだが、やれやれと言いたそうな顔をしていて尚更気分が良くなかった。
「信じるという言葉の補足をしてやる。物理学を例に取ってやれば、素粒子物理学は今でも大統一理論っつう学者にとって目指すべき目標がある。電磁相互作用と弱い力、強い力をまとめて一つの理論するという目標だな。その理論に重力まで加えて統一すりゃ万物の理論っつうさらにデカい目標が出来上がる。なぜそういった目標に学者どもは立ち向かえるか、ここまで説明すりゃ分かるか?」
「その目標に向かえるだけの根拠が現実の世界で成り立ってるって、学者の人たちが信じてるからでしょ?」
「その通りだ。たとえ自分達で積み上げてきた理論が明日崩壊するとしてもよ、学者どもの大半は簡単に諦めたりはしねぇだろうな。昨日まで地に足着いて生活していたのに、今日家の玄関を開けた途端身体がふわーっと宙に浮いたりしたら世間は大騒ぎするにちげぇねえ。だけどよ、学者を初め世界中の研究機関が血眼になって原因究明にあたってくれる。そしていつかは原因を突き止め、俺達は再び地に足着けて生活できるようになる。それもこれも、てめぇを信じてこそ成し遂げられンだ」
オズ君が雄弁に語るうち、彼の鼻息が荒くなっていく様子を感じた。
全く大した自信だ。一度でいいから、二十二世紀のネコ型ロボットと対談でもさせてやりたいと考え付いたのは、ワタシだけだろうか。
「ま、後はてめぇのおつむでしこたま考え抜くこったな。引き続き、タロットの絵柄集めに励ンでもらうぞ」
「りょ、了解っす……」
いつしか、オズ君の哲学講義はお開きとなった。結構高くつきそうである。
高校入学当初からいつも退屈でヌルい授業ばかりですっかり鈍っていた頭を使いすぎたせいか、少しだけ身体を支えるのがきつくなった。明確な原因は突き止めようもないが、休憩を申し出たい気持ちは少なからずあった。
なのに、講義の休憩時間は余りにも短すぎた。
「うわあっ」
まるでケータイそっくりに、制服の中でタロットが震え出した。取り乱し気味にポケットからカードを取り出すと、震源たる一枚のカードがまたしても蛍の如く明滅していた。
「噂をすれば何とやらだな」
咳き込むように笑うオズ君。周期的な振動と明滅を繰り返す一枚だけを保持し、残りを元に戻したワタシは、彼に問う。
「これって、もう近くに次の〝夢〟が待ってるってことだよね?」
「そうだな。あんまし遠くはな……おっ?」
自ら言葉を遮ったオズ君がワタシの背後を、とは言え今まで来た道とは違う方向を見て、めずらし気に語尾を上げた。
すぐさまワタシが彼に倣って後ろを振り返ると、やや遠くに白い人影が確認できた。輪郭はしかしおぼろげで、詳細は一瞥できない。
「誰だろ、オズ君の知り合い?」
「知ったことかよ。ともかくだ、追っかけるぞ」
彼の言う通り人影を認識した折、手に持っていたカードが一層輝きを増しているのが良く分かった。人影はワタシ達に気づいているのかいないのか、その場から一歩も動こうとせず、こちらの出方を伺っているようにも見えた。
「付いてこい」
オズ君がたったその一言でワタシの前をさっと通り過ぎ、人影のいる方向に最も近い橋をやや早めの足取りで進み始めた、その直後だった。
「あっ」
白い人影がゆらりと蠢き、息つく暇もなくワタシ達から遠ざかり始めたのだ。それもかなり早い。全力でいくら走ろうが、人並みの体力しかない自分には土台無理だ。
「走れ、娘っ子!」
オズ君が駆け出した。いや、飛び出したと言っても過言ではない速さだった。実家の近所にいる猫好きなおばちゃん家のどの猫よりも、彼は速かった。もちろん駆け抜けた後には橋が赤く輝いていたので迷子になる事はないのだが、呆然と突っ立っていては嫌な予感がしたので、とにかく走ることにした。
途中、アップダウンの激しい箇所や平均台のように横幅のゲッソリした箇所があったりと、二人(?)が辿った道筋には、想像以上に肝を冷やされた。それに引き換え、息はまったくと言っていいほど上がらない。夢の中特有の現象か否かは定かではないが、やはり慣れないことだけあって、えらく気持ちが悪かった。
それは何というか、恐怖そっくりの好奇心が生み出す感情に他ならなかった。
(いた、あそこだ)
白い人影とオズ君が対峙している場面を、目と鼻の先に捉える。さっきとは打って変わって人影はまったく逃げる気配を見せてこない。オズ君の脚力に敵わないと悟ったが故の判断なのか、はたまた奥の手でも用意しているのだろうか。いずれにせよ、迂闊に駆け寄るのは愚策だろう。
オズ君が残した赤塗りのルートを辿っていき、慎重かつ大胆に彼の真後ろ二、三メートルまで接近を終えた途端だった。
「おいっ、ボサッとすんな。早く来やがれっ!」
弾かれたように後ろを振り向いたオズ君が、ワタシを大雑把に見てそう叫んだ。
とにかく、大急ぎで彼の元へ跳んでいく。その間に僅か、人影が左右に小さく揺れる怪しげな挙動をしたので、脊髄あたりにかすかな緊張が走った。
「娘っ子、その光ってるカードをコイツの前にかざせっ」
「いきなり何⁉」
「いいから出せっ」
圧のこもった声に、ワタシの手はすでに例のカードを取っていた。もはやポケットの中から漏れ出しそうな程の光量を放っていたタロットの下端を両手で摘み、人影と対面する位置にしっかりと固定する。
「っ⁉」
声にならない声が上がったのと、タロットが新たな変化を起こしたのはほぼ同時だった。初めてタロットに絵柄が宿った時と同様、無地の面に上端からまるでカラープリントされていくように絵柄が漸うと現れていく。
「くふ、大当たりだな」
とっくに前を向き直っていたオズ君だったが、あの笑い声に混じった本音からしたり顔を垣間見たような気がした。
さらに、それだけではなかった。タロットに絵が宿っていくのと寸分狂わぬタイミングで、人影を構成していた白い靄にも似た物体が足元から徐々に人の形を取っていくではないか。
(……うそっ)
平々凡々とした背丈の自分より頭半分ほど小柄な、その人物。腰までストンと落ちた艶やかな髪の一本一本、パッチリした二つの瞳に控えめな鼻、それにふっくらとした桃色の唇が確認できなければ、声を上げることはなかっただろう。
「しーちゃん⁉」
ワタシが叫んだ時にはもう、人影は影としての役目を終え、曇りのないありのままの姿を晒していた。動揺のあまりに光の止んだタロットを手放しそうになり、それでも何とか元通りポケットの中へとねじ込ませる。
しーちゃん、もとい「久池井紫月」の姿を取る人物は固い表情をして、地に足の裏を縫い付けられたかの如く棒立ちになっている。今ワタシが見ている彼女の髪型は、いつもツインテールではなく、結いを解いたストレートであった。
「ねぇ、しーちゃんでしょ?」
『―――はい。わたしは貴女に左様に呼ばれる存在です』
紫月は固い表情のまま、そう答えた。
言葉遣いはそれこそ別人のようだが、明朗で涼やかな声は、彼女本人のものだ。
彼女の服装も、学校で見る制服姿ではなかった。聖職者が身に纏うような純白でシルクのローブに身を包んでいたのだ。錯覚かもしれないが、彼女の身体全体を白く薄い光が輝いていたので、普段の様子と相当かけ離れていることは確かである。
要約すれば、彼女が天使に見えた。
ワタシは彼女を〈紫月〉と呼んで、区別することにした。
本人確認が取れたのを機に、ワタシは真っ先にあの時の疑問を投げかける。
「しーちゃんバレンタインデーの日にさ、駅で女乃君と一緒にいたよね」
『はい』
「あれは本当にしーちゃんだったの? それとも、しーちゃんそっくりの誰かだったの?」
女乃という怪しい白猫を目の当たりにしたせいで、ワタシの心は疑り深くなっていた。
彼は確か彼女にこう伝えていた―――『ついにこの日がやってきたね、準備はいいかい今更ダメとかなしだよ」―――と。
これだけ聞けば、二人がついに一線を越えるための殺し文句にも聞こえる。実際あのとき二人は息がかかるくらいに密着していたのだから、後で良からぬ事案に発展していたのかもしれない。
親友を傷つけたくない気持ちもあったので、幼子を寝付かせるような静かな声で、ワタシは紫月に答えを尋ねた。胸のつかえを残して彼女と別れてしまっただけに、この際なのでハッキリとさせておきたかったのだ。
『確かにわたしはあの時、彼と駅で同行しておりました』
「あれって女乃君がしーちゃんに告白したんだよね? 違う?」
『……』
彼女は首を縦にも横にも降らなかった。
単に恥ずかしがっているだけだろうか。何度も学校で見てきた活発な表情が見られなくては察しようもなく、ほとほと困惑するワタシ。
「答えられないなら、無理に答えなくていいよ」
〈紫月〉は初めて視線を少し下へ向けた。彼女の機嫌が悪いときに見せる目つきだったので、逆鱗に触れてしまったのかと思い、脇が汗で湿るのを感じた。
彼女は沈黙したままだが、怒りを露わにしなかった。
「しーちゃん、どうして天使みたいな恰好してるの」
これ以上の詮索は無用と思い、ワタシは話題を変えた。
〈紫月〉の視線が戻り、険しい表情のまま口を開いた。
『お答えできません』
「いつものしーちゃんはどうしたの? ワタシをからかってるの?」
『わたしはわたし、あなたはあなたです』
熱のない声で、彼女はワタシに言い放つ。
「おかしいよそんなの。ワタシの知ってるしーちゃんは、どこかにいるんでしょ」
『わたしが久池井紫月です』
「それは分かってる。どうしてそんな喋り方なの?」
『この話し方では貴女に何か不都合があるのですか』
「ないけどさ……もしかして、女乃君に命令されてやってるの?」
『彼は関係ありません』
「じゃあほかの誰かが」
『お答えできません』
〈紫月〉は凛とした表情で、問いかける度にワタシを翻弄する。心を開いてくれない彼女に詰め寄る様は、傍から見れば呆れる位必死なのだろう。
足元にいるオズ君は、終始ワタシと〈紫月〉を交互に見ていた。
「……そう、教えてくれないんだね」
彼女は何も答えない。
視線を彼女から外したワタシは、すでに言おうと決めているのにわざわざ悩むふりをして、もう一度〈紫月〉を見て言った。
「じゃあ、アンタはワタシと仲良くなってくれる?」
『何が言いたいのですか』
「今のワタシ、おしゃべりできるのがオズ君だけで寂しくて……」
『だからわたしと仲良くなってほしいのですか』
彼女の声色は冷たいが、ワタシは首を暑苦しいほど何度も縦に振った。
「アンタが本当のしーちゃんじゃなくたって構わない。ワタシが信じれば、アンタはワタシにとってのしーちゃんなんだよ」
こんな意味不明な事がスラスラ口から出てくるくらい、その時のワタシは気持ちがはやっていた。知らない誰かに助けを呼ぶような、非常に慌ただしい態度で彼女に接していた。
それくらい、本当に落ち着く心地がしなかったのだ。
『本当のわたしとは誰ですか』
「えっ」
〈紫月〉は、短くそうやって質問した。
『わたしはわたしです。本物でも偽物でもありません』
「あ、えっと」
彼女は想像以上に頑固で意地悪だった。
すっかりワタシは答えを言いあぐねてしまう。
『言いたいことはそれだけですか』
「そんなに、ワタシと仲良くなるのが嫌なの?」
『貴女と仲良くなる理由がわかりません』
ワタシの頭は、彼女を理解することを放棄した。
不安がもたらす強烈な衝動に揺さぶられ、頼りない両足は一歩、また一歩と彼女の元へと向かっていく。しかしながら、紫月の方からはこちらに近づく気配すらない。
「しーちゃんもうやめ」
『来ないでっ‼』
見たこともない険しい顔で、紫月は叫んだ。腹の底から絞り出された怒声は、明らかな拒絶のしるしだった。
「―――えっ」
オズ君の横を通り過ぎようとした直後に轟いた彼女の言葉は、ワタシの足を一時的に麻痺させるのに十分な力を持っていた。
そのわずかな隙に、紫月は踵を返して風の如く消え去ろうとしていた。初めてこの身に突き刺さった例えようもないショックに打ちひしがれる暇もなく、ワタシも彼女を風の如く追いかけようと、オズ君の前に躍り出る。
ワタシは彼の言いつけを、破ってしまった。
「バカヤロっ、おま……」
せっかちなこの性格は、夢の中でも変わらなかった。ここに来て間もない頃にオズ君が言っていたことを、ワタシはあっさりと破ったのだ。
「ああっ⁉」
と、間抜けな悲鳴を上げた後、視線がカクンッと急降下していく感覚に陥った。
実際には視覚だけでなく、身体全体が「下」に持っていかれるようだった。ワタシとオズ君が乗っていたガラス製の橋がクッキーの如く突然脆く崩れ去り、一歩前に大きく踏み出すはずの足が、勢い余って空に突っ込んでしまったのだ。
後はもう身体が言うことを聞く前に、自らの両手が崩壊した橋の残り部分をしかと掴み、宙ぶらりんになっていた。
(落ち、る)
こういう時は誰でも下を見たい衝動に駆られるはずだが、そんな余裕もなかった。高所から落下する恐怖とは落下先を目で確認できるからこそ生起するのであって、こんな黒一色の空間に底なんかあるはずないと思ったからだ。
自分一人では、ここからよじ登ることは困難であった。体重を両腕だけで支えるというのはこんなにも大変だったのかと、今更ながらに痛感する。
(っは、っは、っは)
大ピンチ。息が上手く吐き出せていない。過去にも経験があった過呼吸だ。
今すぐ両手で胸を押さえたい。でも叶わない。
身体の内も外も自由が効かず、文字通りの絶体絶命。
「目ェ瞑れっ、引っ張り上げっぞ!」
ワタシの向く視線のすぐ先で構えていたオズ君が咆える。返事をする余裕もなかったので、今度こそ即座に彼の言うことを聞き入れた。
網膜に入り込む光を直ちに遮断する。
すると、顔から額にかけて細やかな風を感じ、およそ数秒後に「あの感触」が再びやってきた。しかも今回は右腕だけでなく、左腕もだ。暖かくも冷たくもない、袖越しに分かる五本の指が両手首より少し下をやや乱暴に包み込み、ワタシの身体を持ち上げていく。
また、このふよふよとする感覚が蘇ってきた。両目は恐怖で閉じっ放しだったが、身体全体がプールの中に浸かった時のような浮力を得、暫くするともう安定な足場へと着地したことが分かった。
「っは、っはあ、っはああ、はー、はあああっ」
昔習った呼吸法を繰り返し、何としてでも落ち着きを取り戻していくワタシ。
「しっかりしろ」
「はあっ、も、もうだい、じょうぶ……」
過呼吸を克服したとたん、腰が抜けてしまった。
膝すらもさっぱり力が入らず、ペタンと座りこむ。間もなく両目を開くと、すぐに黒い塊が目に入った。
〈紫月〉と思しき人間は、影も形も見当たらなかった。
「はぁーぁ、掛ける言葉も見っかンねぇ」
「なんだったの、さっきの」
感覚が残ったままの震える手を見て、ワタシは半ば無意識にそう呟いていた。
「俺がちっと前にお前に忠告しといた、面倒ごとってのがアレだ」
顎をクイとしゃくり上げ、ワタシにその方を見るよう指図したオズ君。
ゆっくりと左に首を回してみると、途中まで赤く染まっていた橋の大半がごっそりと抜け落ちていた。おかげでつい先ほど未遂に終わった極上の感触を思い出し、両肩がわなないた。
「ごめん……ワタシのせいで……」
「よせやい。柄でもねぇのに先走っちまった俺にも落ち度はある」
そっぽを向いて、オズ君が吐き捨てる。
ワタシの頭の中は、〈紫月〉がどうしてこんな場所にいたのかよりも、なぜ彼女がワタシを拒んだのかという方に意識が傾いていた。因果関係の有無は判然としなかったが、何か彼女に後ろめたいことでもあるというのか。
「でも悪いのはワタシだよ。彼女がしーちゃんだったって保証はどこにもないのに。それに、ここは〝夢〟の中だって分かってるのに……」
「分かってっからこそ、だろ」
床に付けた尻尾を揺らして、振り向かずに答えてくるオズ君。彼の口が悪いのは元々からではなく優しさの裏返しであるように捉えると、何だかそれがしっくりと来た。もちろん、今の時点で本人に告白する度胸も立場も無かったが。
「ほれっ目ェ瞑れ。引っ張り起こしてやる」
「うっうん」
両目を閉じ、右手を差し出すワタシ。今度はしっかりと、しかし目にすることのできない彼の右手がワタシの右手を掴んだ。強く握られるまま、右腕がすっぽ抜けそうな勢いでワタシの全身は立ち上がった。
「うわっ、わっわっ」
両目を開けた途端に右手を握られる感覚が消え、前につんのめってしまうワタシ。あと〇・五秒目を開けるのが遅れていれば、間違いなくずっこけてオズ君に痴態を晒していた。
辛うじて体勢を整え、振り返ってオズ君に文句を言う。
「力加減ってモンがあるでしょ」
「無茶いうンじゃねぇよ」
先ほど彼を高評価した気がするが前言撤回。あまりにもデリカシーがなさ過ぎるので評価は地に落ちたも同然だ。
口調と裏腹にオズ君の尻尾は元気がなさそうだ。これ以上不平不満をこぼしても仕方なかったので、制服の乱れを直しつつオズ君と再び歩き出すことにした。
「ンで、あの白づくめのしーちゃんとやらが、お前のダチなんだろ」
「そう思いたいな」
「お前がそう思うんなら、それで十分だろ」
「そう……だね」
「らしくねぇなあ」
彼にそう言われたあと、返事ができなかったワタシ。
ワタシらしさって何だろうか。先程オズ君とコウモリの話をしていて、ふと頭に浮かんだことだ。個性でしょ、と即答して満足できれば済む話ではある。家族とか友達とか先生とか、身近な周りの人から指摘されて気づくことのできる明晰なもの、それが個性だ。
学業優秀、スポーツ万能、抜群の芸術センス―――大体が他人より優れている面に注目されがちだが、それはワタシが進路決定の判断材料にした時のような、相対的な個性だ。その人だけにしかない、唯一で絶対的な個性は存在するのだろうか。
あるとしたら、自分に問い掛けてみるしかないと思う。
才能ある者が世間で天才と認められるのは、その人物の業績を他人が理解できる形で残るからであって、理解されなければ変人と評価されてしまう。天才かつ変人な人だっている。巷でよく言う馬鹿と天才は紙一重というワードは言い得て妙だ。
でもそれは、ワタシらしさの答えにはなっていない。相対的な個性の全てを他人から切り離すと、結果残るのは生のワタシだ。そこにワタシらしさが在るというのか。見た目はあくまで肉体的、遺伝子学的な〈ワタシ〉らしさであって本質的なものではない。
そもそもがワタシという人格と動物としての〈ワタシ〉を分けてしまうからこそ、こんなややこしくどうでもいい考えに至ってしまうのかもしれない。人間とは賢くも愚かな生き物であるというのは、正にこういった一面があるからだろう。
人間は動物よりも遥かに周囲の環境に影響されて育つ生き物だ。物心つく前から家族や他人からの愛情、食べ物や飲み物、外出先で目に付く様々な色や形―――物心ついた後でも教科書から得られる知識や思想、他人の言動からワタシらしさが構築されていく。すると、どこかで他人と協力したり競争したりするうちに、自身の長所や短所が目に見えてくる。こんなワタシだって、相対的な個性からは逃れられない。
比べれば比べるだけ、心が狭く貧しくなっていく。何より他人に優しくしたり、他人を受け入れるという人として大事な素質が失われていってしまう。ワタシが生涯大事にすべきは、自分の個性も他人の個性も理解し、受け入れながら生きていくこと。
これがワタシらしさだと思う。
長考の末に、ちょっぴり頭の中が片付いた。
あとは、ワタシが紫月の紫月らしさに気づいているかだ。気づいた上で、天使の〈紫月〉にあんなことを口にしてしまったことを、改めて後悔する。
「そのヘンにしとけよ。おつむが悲鳴上げてるぜ」
「え?」
「前見て歩け。またすぐ落っこちたらシャレになンねぇからよ」
「……はい」
それから二人で歩くこと、体感時間で三分。
軽快に歩いていたオズ君の動きが、揺らしていた尻尾ごと止まる。
ワタシも足を止めて薄暗い道の先に目を凝らしてみると、橋の中腹あたりがすっぽりと抜け落ちているのが目に入った。オズ君は休む間もなく、橋の先端まで、器用に四本の足でスキップするように向かって行った。
足を滑らせれば即落下は免れぬ瀬戸際まで来た辺りで、彼はこっちを振り向いた。
「さっきのタロット、俺に見せてみろ」
「えっ? ああ、うん」
仰せの通りに、急ぎポケットからタロットの束を取り出す。
その中から、先程初めて目にしたばかりの新入りを抜き取る。カード上の上半分には幾つかの光点、下半分には水瓶を持った裸体の女性が、川か湖らしき場所に水瓶の水を注いでいる様子が描かれていた。
すぐさま腰を上げ、オズ君のところまで行って実物を見せる。
「大アルカナの十七番〝星〟か。やっぱりな」
「何が?」
「〝星〟の正位置は『希望・閃き・願望成就』、逆位置は『絶望・無気力・現実逃避』だ。お前が初めてこれを見た時は、どっち向きだったよ?」
「えっと……逆位置だった。数字の位置が下にあったし。でもそれがどうしたの」
ワタシが問うと、オズ君は「くふ、くふ」と笑った。
「俺と一緒の方、見てみろ」
「―――あっ」
オズ君が崩れた橋からほぼ真下を覗き込んでいたのでワタシがそれに倣うと、あのモヤモヤとした球状の煙が、先程よりもひときわ大きく浮かんでいた。
「お手柄だな、娘っ子」
「ワタシは大したことなんて……」
「さっきはとんだ災難だったがよ、今じゃすっかり次に進むべき道が開けている。禍福は糾える縄の如しなんてぇ諺もあるくらい、幸と不幸は代わりばんこにやってくるモンだからな。早速だがよ、お前、飛び降りる準備は出来てっか?」
「ええっ、何言ってんの?」
ほんの少し前にそれを堪能したばかりなんだけど、と言おうとして止める。彼の目が、何もかもを見透かしているような気がしたからだ。
「だーい丈夫だ。お前がまた目ェ瞑ってれば、俺が何とかすっからよ」
「嫌って言ったら?」
本音のような冗談ではなく、冗談のような本音で彼に問う。
「意地でも行かせる」
ワタシが返事をするより早く、視界がブラックアウトした。
自分で瞼を閉じた訳ではない。さっきまで黄色く光っていた橋と円盤状の足場が停電し、文字通りに視界が真っ暗になったのだ。たぶん、いや絶対に彼の仕業だ。
あっという間に右手の自由が奪われ、ワタシはまたも飛び立った。重力の普遍的束縛には逆らえず、しかし意外にも羽毛が落ちるみたいに緩やかな自由落下で、捉えどころのない闇の深みへと落ちていくのであった。
繋いだ手の先には、猫の姿でないオズ君がいる。
親しくなったつもりもないのに、ワタシの手のひらと指先は彼の骨ばった質感の手にしっかり握られ、覆われている。
いっぺん化けの皮を剥いでみたい気もしたが、不都合という名の障壁がワタシを阻み、叶うことはなさそうだった。
見ることは信じること。だがワタシの目は、もう一人の彼を見ることができそうにもない。信用するには、とにかく時間が必要だった。どうせこの際だから、思い切って吐き出してやる。
この、猫畜生め。
✡
ワタシの意識の向かった先は、何だか騒がしいところだった。
辺りを見回せば空一面の快晴の下、カップルや家族連れが絶えず目の前を通り過ぎ、巨大な蛇の骨格が波打ったりトグロを巻いていたり、近くで見上げれば首を痛めること必死の大車輪が回転しているその場所は、何を隠そう遊園地だった。
小学生の頃に両親と共に訪れた場所にどうも似ていたが、やはり記憶に薄い。今、ワタシのすぐ前にはこちらに向かって駆け寄ってくる人間が二人。両親ではない、一般的な夫婦の身長差を持ってはいるが、両者とも外見は女性のそれだった。
一方はワタシと同程度の身長で長い髪、もう一方は対照的に小柄のボブカットである。
「あっ、いたいた! 探したよぉ~」
「もう五分遅刻、何やってたのよぉ」
二人が近づいてくると、彼女らの顔立ちが良く見て取れた。
長髪の方は切れ長の瞳に高い鼻立ち、ボブカットの方はひたすら大きな瞳に小さくしまった鼻と口をしており、これまたえらく対照的である。いずれもまだ未成年の雰囲気が匂ったが、同い年だろうか。
お互いがそれぞれの容姿にピッタリの着こなしをしており、同性の身としても自然と胸のときめきを隠し切れなかったのはここだけの話である。
「今日が約束の日だったよね。どっちに返事するか、決めた?」
長髪の少女が、ワタシに向かって詰め寄る。
「決めらんないって言ったら、ゼッタイ許さないから」
ボブカットの少女が、彼女の後に続く。
「何の、こと?」
この〝夢〟の中での第一声は、のどに痰が詰まったように濁っていた。風邪でもひいたのかと一瞬だけ疑って、しかし身体にダルさは感じなかったので即刻除外した。
ではなぜだろうと考えるうちに、新たな違和感が浮上してくる。
(あれ……そういやいつもより地面が遠い)
長髪少女と同程度の身長とはいったが、彼女は昨今の男子高校生並に高い。最初に見た〝夢〟の中ではワタシの身長は現実と遜色ない感じはしたが、今回は明確だった。
「今日はホワイトデーよ? 何とぼけてんの?」
未だ地に足付かぬ心地のワタシに向かい、ボブカットが食らいつく。
「今日一日あたし達とデートして、本命の方にお返しをくれるって約束でしょ?」
長髪も負けじと、足取りを大きくしてくっ付いてくる。ふわりと香る柑橘系の香水がワタシの鼻腔を撫ぜ、早くも意識が不安定になりかける。
「ちょっとぉ、尾上君にくっ付き過ぎ! 離れなさいよっ」
「こういうのは先に押したもん勝ち。尾上君の本心はもうあたしに傾き始めてるね」
なるほど、どうやらこの世界のワタシはバレンタインデーに二人からチョコやら何やらを受け取り、その一か月後である本日のうちに歪な三角関係をぶち壊すという使命(?)が与えられているということか。
(尾上君……え、まさかっ)
鈍っていたワタシの意識は、ようやく身体の細部に至るまでを知覚した。だがここで急に取り乱しては後々のイベントに悪影響を及ぼしかねないと思い、彼女らに最低限の質問をしてからこの場を離れることにした。
「あのぉさ、二人の名字、なんだっけ?」
やはり濁った声のままのワタシが、二人の目を交互に見て言う。
大方予想通りに二人はキョトンとした顔になったが、ほぼ同時に答えてきた。
「奥井でしょ、何で?」
「金森だけど、何で?」
嗚呼、夢なるはかくもおどろおどろしき物なりや。
とにかく現状を完璧に認めるには時間と場所が必要だったので、
「ありがとうちょっと度忘れしちゃってさぁあー何だか急にお腹痛くなってきたからトイレ行ってくるよそれまで何かで時間潰してて~ぇ」
と、畳みかけるように要件だけを伝えてその場をスタコラ退散。その後まもなくして目的地の入口を一度間違えてしまったのは、ここだけの秘密である。
〝夢〟と理解しつつも必死に理性を働かせるワタシは、どうしようもなく滑稽であった。
(―――うわぁ)
大至急トイレの個室に駆け込み、穿き慣れぬデニムのパンツと下着をめくってみると、そこには予感通りに例の器官が垂れ下がっていた。しかもずる剥けである。いかにもプレイボーイをアピールできそうな迫力があった。
指先で少し摘んでみると、ブニブニとした感触が帰ってきて、悲鳴を上げそうになる。夢とは思えぬ生々しさだった。
しかもこの時、不運(?)にも尿意が突如襲ってきて、慌てふためいて便座にドカッと腰を下ろす。すっかり見慣れた液体が、見慣れない形で身体から出ていった。
(す、すげぇ……)
言わずもがな、ワタシは男になっていた。上半身の一部は左右ともに軽量化し下半身は見事にウエイトアップ、質量保存則もへったくれもない。
漫画やアニメの名高い設定の一つに男女の人格入れ替わりがあるが、アレは第三者の視点だからこそ面白いのであって、実害を被るとなれば笑い事では済まされなくなりそうだ。
人格の入れ替わった二人は如何にして元に戻るか試行錯誤し、最後は元通りになってめでたしめでたしと幕を下ろすことができるが、ワタシの場合はそもそも入れ替わった相手を把握できていない。まあ、無理にそんなことしなくたって〝夢〟が醒めるまでの時間の問題ではあるのだが。
(あっ、そういえば)
さすがにこんなブヨブヨをいつまでも眺められる程、趣味の悪いワタシではない。用を足し終えたらさっさと下着とパンツを引き上げ、いつもよりも股がスースーする感覚を新鮮に思いつつ、あの二人へのお返しを何も持ち合わせていないことに気づく。
どうしよう、完全に手ぶらだ。このまま彼女らを放っておいても勝手にタイムアップの時が来るだろうと楽観視してみるも、後ろめたさはやっぱり消えなかった。
(返事っつったって、別に物にこだわる必要は無いよね?)
二人とデートをし終えて、最終的にどちらかを選択して「好きだ」と言えばいいだけだ。それで十分じゃないか。だがこれまでに奥井と金森に恋愛感情を抱いたことは、正直言って一度もない。クラスメイト以上ボーイフレンド未満だ。
ワタシの場合人を信用したり好感を抱いたりするには、性格や身だしなみは無論大事だけれども、会話中の目線の動きとか手足の細かい仕草とかをよく見て判断する癖がある。目は口程に物を言うなんて言葉があるが、他の部位だって同じ働きは少なからずある。それでも嘘が上手い人間だっているのだから、単にワタシが疑り深いだけかもしれない。時々、一目惚れで恋が出来る他人を羨ましく思う時だってある。
これでも女の子ですから。あ、今は男だった。
(ま、いいや。出よ)
一呼吸おいて、トイレから出る。先程はドタバタして気にも留めなかったが、立ちションする男性客が結構な割合で便器の前に立っていたので、正直その迫力に驚く。
続いて、洗面所の鏡の前に立ってみるとそこにはワタシによく似た別人の顔が、怪訝な表情を作っていた。小ざっぱりとしたヘアスタイル(ウルフカットって言うんだっけ)と整った顔立ちで、なるほど女子がホイホイやって来るのも頷ける。
女乃君のライバル現る、なんてありもしない妄想を抱いていると、隣りで手を洗っている若い父親と思しき男性と鏡越しに目が合い、気恥ずかしくなった。大丈夫です、決して鏡の向こうの人間が欲しいワケじゃありませんから。
これ以上怪しまれない為にも、そそくさと男子トイレを後にすると、
「お困りのようだね」
ふと出口付近で、いきなり何やら呼び掛けられる声がしたので、それらしき方角を振り向いてみる。すると木陰には、予想だにしなかったアイツが佇んでいた。
「あっ⁉」
声になったのは最初だけで、以降は水揚げされた水魚の如くただ口をパクパクとさせることしかできなかった。
「なんで、いるの?」
枝葉を綺麗な半円状に広げた樹木に腕を組んで寄りかかる、その男。今は学ランではなく、この場に相応しいドレッシーな格好をしていた。
「言ったろう、俺は生まれ変わったのさ」
「どこら辺が?」
芝居がかった言い回しが気に障ったが、顔には出さずに聞き返してみる。
「見た目に囚われるのは良くないねぇ。この前の俺が君と居た場所は西暦一九七五年、今俺が君と居る場所は西暦二千云々年……もう、分かったかな」
「じゃあ、ワタシ達はタイムリープしたってこと?」
「そう。意識の時間旅行だね。つまり、異なる時空に存在する同一の人物の意識だけが乗り換えれば、それはある意味〝生まれ変わった〟ってことにはならないかい? もっとも君の場合なぜか肉体まで別人みたいだけど」
言い終えて、彼はニヤリと口の端を上げる。
「テセウスの船は知ってるかい?」
「小難しい講義なら後にしてよ。二人を待たせてるんだし」
「だったら三分だけでいい。時間をくれないか」
「まあ、それくらいなら」
返事をすると、×××は嬉々として話を始めた。
「テセウスの船は、時間的同一性に関わる問題だ」
「時間的同一性?」
「今ここにいる〝俺〟とさっきの〝夢〟で出会った俺は同じ人間か……尾上さんは、この問いにちゃんと答えられる?」
「そんなの、同じに決まってるでしょ」
「ほんとにぃ?」
いつになく、意地悪そうな顔でワタシを見る彼。
思わずムスッとした顔でやり返すと、彼はサッと距離を置いた。
「俺は違うと思うね。さっきも言った通り、生まれ変わったと思ってる」
「根拠は?」
「過去の俺と今の俺は異なる時空にいて、お互いに時間的・空間的に依存しない。こう考えれば、俺は時間的に区別できる複数の存在になるってわけ。もっともこういう場合タイムパラドックスとか別の問題が出てきちゃうけど、今は哲学の話をしてるから気にしちゃダメだよ」
「ふーん、で?」
ワタシは深く考えることもせず、ひたすら彼の話を聞いていた。
×××は両手を広げ、手のひらを上にして続ける。
「一方で、俺の肉体を構成する物質は過去と現在でまるっきり同じだと仮定する……いわゆる物理主義に立てば、尾上さんの言う通り俺は昔と今で同一の存在だ。でも俺としてはしっくり来ない」
「どうしてさ」
「肉体だけなら俺はただの容れ物で、魂が入っていない。仮に肉体が外界からの刺激に対して物理的、化学的、電気的反応を示せば、外っ面は過去と現在で全く同じ存在に見えるかもしれない。でもそれだと人間らしい何かが欠けている……何だと思う?」
彼がこちらをゆっくりと見上げ、答えをねだってくる。
こういう質問のされ方をすると、否応なしに答えてしまうのがワタシの性である。
「クオリア、じゃないの」
オズ君からの入れ知恵がこんなところで役立つとは思わなんだ。
×××はすっかり目を丸くし、拍手をした。
「正解。俺を俺、君を君と認識できるのはクオリアがあるからだ。俺のクオリアも君のクオリアもこの世に一つしかないはずだ。クオリアが失われなければ、肉体と精神が今じゃない時空に移動したって俺という存在は保証される。たとえ一秒後でも、一分後でも、一時間後でも明日でも、一週間後一か月後一年後十年後、時間が遡ったって同じ俺さ」
「話がややこしいって」
文句を垂れるワタシに、×××は苦笑する。
彼は得意そうな顔をしながら、残り時間が少ないことを気に掛けつつ、話を続けた。
「まあ、ここまでの話は人間を対象にしてるから話が面倒臭くなるんだ。人間じゃないもっと身近な例でいえば、尾上さんが通っている学校の校舎が老朽化して一部が建て替えられた時、その校舎は元の校舎と同一の存在とみなしていいかな?」
「一部じゃなくて全部建て替えられても同じ校舎、って言いたいんでしょ」
「おお、美味しいところを持ってかれちゃった」
勝利の気分は全くなく、ワタシは溜め息をついた。
彼はニコニコとした表情で、近くの時計塔に目をやった。
「はい、これで俺の話は終了。面白かった?」
「結局、あんたはどっちの立場なの?」
「どっちだっていい。簡単そうな問題を難しそうに考えることが哲学の醍醐味だからさ」
「あんたホント何者?」
「俺は俺さ。ほんのちょっとSFに詳しいだけだよ」
「うさんくさい」
睨みを利かせると彼はゴメンゴメン、と両手をこれまたわざとらしく振ってから、澄ました顔に戻った。
「君は無理して考える必要はないよ。これがマジで誰かの夢だとしたら、俺達が今いるこの場所が本当に『西暦二千云々年三月十四日』だなんて保証は、どこにもない。君が信じるか信じないか、ただそれだけのコト」
「信じるとしたら?」
「俺の言ったことは本当になるし、ここが夢の世界だってことの肯定にもなる」
「信じないとしたら?」
「君は、ありのままの現実を受け入れることになる」
彼の不可解な言動に、思考が一瞬乱れた。受け入れて何になるのか。第一、ワタシが命がけですべきことなんか、何一つありやしないのに。
ここは一端考えるのを止めて、どこぞの政治家みたいにうやむやにしておこう。
相手をじっと見て答えると、彼は愉快そうに目を細めた。
「それが一番かもね……ああそうそう、君に肝心な物を渡すの忘れてた」
彼は木に預けていた身体を起こし、ジャケットの胸ポケットから平べったい何かを取り出してワタシに手渡す。その特異なデザインは、ただちにワタシの瞳孔を拡大させた。
「これ、どうして……⁉」
「遊園地の土産屋の近くに落ちてたんだよ。もしかしたら、君の助けになるかと思って」
そう、オズ君の言及するタロットだった。
ローマ数字の十六がナンバリングされているそのカードには、素人にも一目で分かるキャラクターがふてぶてしく描かれていた。
―――大アルカナの十五番〝悪魔〟。
とはいえ、カードが象徴する意味までは流石に読み取れない。悪魔なんだからきっと不吉なイメージは誰でも抱くだろうが、大きく描かれた悪魔の足元にいるしもべと思しき小さな男女が鎖で繋がれているのが、いかにも意味ありげに思えた。
「あとコレ。俺が持ってても無用の長物だし、やるよ」
そう言われて手渡されたのは、この遊園地のフリーパスだった。たしかに手ぶらであった以上、これがなくては二人分のデートも務まらない。
助かったとさりげなく礼を入れ、ワタシは待ちくたびれているに違いない奥井(♀)と金森(♀)の元へ足を運ぼうとしたのだが、
「あとそれから、一つ忠告」
と急ぐワタシを、×××はその一言で呼び止めた。
「なにっ」
「言葉遣い、ちょっとは気を付けた方がいいよ」
×××は含み笑いをしながら、気障ったらしく手を振っていた。彼がオズ君の関係者か否かが最大の疑問として脳内をよぎったが、是非の即断はできなかった。もはや後ろを振り返ることなく、ワタシは二人の元へと赴いていった。
おせっかいな野郎だ。
「あ、やっときたわね」
「遅いよ尾上君っ。もう一〇分過ぎてる!」
「ワリィワリィ、プレッシャーで急に腹がさぁ」
非難を軽く受け流し、女となった二人のクラスメイトを交互に見やる。だが改めてみても、彼女らはあの小うるさい男子生徒らの面影を微塵も残していないのだ。
天文学的確率のもと、たまたま同姓だった二人が何かしらのきっかけで知り合い、そしてはたまた天文学的確率で「尾上」という名字のワタシを本来の男子と見なしているだけかもしれない。
「じゃーさじゃーさ、まずはどっちから?」
金森が、清楚な外見に似つかぬ快活さで身体をすり寄せてくる。
「な、何が?」
「決まってるでしょ。私と金森さん、どっちと先にアトラクションに行くか、よ」
先程からやけにツンケンとした態度で、金森同様に詰め寄るは美少女の皮を被る奥井。彼、もとい彼女の姿勢には記憶の中で引っ掛かるものがあった。
確信を得られるのは、バレンタインデーの日に彼が放った、とっさの一言である。
『こっ、このチョコはアンタだけの特別なんだから、大いに感謝しなさいよねっ!』
(あー、絶対アレだな)
つまるところ、ツンデレと化した奥井の意識が女体化したということか。現実でも違和感が無かったし、これはこれでアリかもしれない。
「もちろん、あたしだよね?」
「わ・た・し、でしょ、尾上君?」
互いに一歩も譲る気配のない二人の可憐な少女たち。周囲の人間からみれば誰もが羨み、内なるルサンチマンをより一層悪化させかねないシチュエーションだが、いざ経験してみると唯々面倒な時間を過ごすだけだった。
何が罪な男の宿命か、巻き込まれたワタシは無辜の人間だというのに。
「そ、そーだ。ここはさ、公平にジャンケンで決めようよ、ジャンケンで」
「「ジャンケン?」」
ハモッた二人が互いを見、面白くなさそうな顔を浮かべる。
「ジャンケンで勝った方が、次のアトラクション中にワタ……オ、オレを独占できるっていうルールだよ。それが一番フェアで単純だろ?」
あぶないあぶない、早くもボロを出すところであった。たとえバレても我が身に危険は及びはしないだろうが、何が起こるか分からないのは〝夢〟でも現実でも普遍の真実なのだ。用心するに越したことはない。
「うぅーん……ま、仕方ないか」
金森は視線を横に流し、恋の好敵手に同意を求める。
「それ以外にいい方法も、すぐに見つかりそうもないだろし」
奥井も視線を横に流し、恋の好敵手に同意を返した。
「言っとくけど、アトラクション中にどさくさで抜け駆けなんて許さないわよ!」
「だーいじょうぶ、あんた違ってちゃあんと理性があるからね、あたしには」
二人はひとしきりいがみ合った後、唐突にジャンケンを開始した。
「「さいっしょはグー、じゃーんけーんぽんっ!」」
奥井はグー、金森はチョキ、軍配は奥井に上がったようだ。
「っしゃ~っ! じゃ、まずはお化け屋敷行きましょっ」
「お、おう……」
勝利を確信するや否や腕をグイと彼女の胸に引き寄せられ、はからずも困惑するワタシの意識は目的地へとたどり着くまで変わることはなかった。
後生のため、奥井に拉致されながらも振り返り際に、悔しそうにする金森にむかって「ゴメン、次は勝てよ」と断わっておく。満更でもない顔をして、金森はフンッと鼻を鳴らすと何処かへ行ってしまった。それでもきっと、ワタシ達がお化け屋敷を出るころには出口で仔犬みたいに律儀に待っているんだろう。
ここまできて言うのも何だが、やっぱりこれだけは言わせてほしい。
―――こんな七面倒くさいデート、もうやってられっか。
ここからは、いわゆる王道的展開が続いていった。
お化け屋敷はワタシの想像した以上に一回分の長さ、セットの質・量ともに申し分ない出来であり、比較的こういうのには耐性のあるワタシでもしょっちゅう心臓の止まる思いをさせられた。
特にクライマックスの血まみれのゾンビに追いかけられるゾーンにおいては、危うくチビりそうになったが、尿道が長いとこういう時は便利だなという発見があった。
奥井も割と怖がっていたように思えたが、進路に突然グロテスクな妖怪が飛び出してきた際のリアクションがどうも不自然に思えた。驚かされるたびに彼女は「こわ~い」とか言って抱きついてきたのだが、それが回を増すごとにどんどん露骨になっていったのだ。
間違いない、これは抜け駆けするつもりだ。
「だめだよ、奥井さん」
「えっ、どしたの急に?」
「あくまでフェアで行こうって決めただろ?」
とりあえず忠告はしたのだが、バカ真面目に聞き入れてくれるなんて期待はしなかった。ただこうしておかないと、ワタシの理性がいつ飛んでもおかしくなかったからだと、今のうちに告白しておかねばならないと察したのだ。
お化け屋敷内で奥井が悲鳴を上げながら抱きついてきた時の柔らかさというのは、想像以上に自律神経を刺激してくれた。小柄な体躯にそぐわぬ弾力によって、股座のアレが不随意的反射を起こし、むず痒さに似た快感を覚えてしまったのだ。かれこれ一七年近く女の身体で慣れ親しんできた身には、果てしなく抑え難い情動だった。
語弊の生じる言い方になるが、男は意外と股間で物事を考える傾向があるのではないだろうか。こと思春期に至っては、それが最も顕著になりそうな気がする。中学の水泳の授業中を思い起こせば、隙あらばワタシたちをつぶさに観察して鼻の下と股間を伸ばしていたスケベな野郎共が大勢いたっけな。
(ってことは今の自分、そいつらと同レべじゃん)
そう気づいた後で、言い逃れもできぬ虚しさに襲われたのはご愛嬌である。
気を取り直し、今度はジャンケンに勝利した金森がジェットコースターに乗ろうと言ったので、奥井とは反対側の腕で抱きつかれつつ、アドレナリン絶好調の状態で臨んだ。
ジェットコースターの座席についてしまうと身体的接触は多少難しくなっていたのだが、先程から無言のままでいる彼女が気になり、カタンカタンと上昇していくレールの駆動音と自らの心臓の鼓動を同調させつつ、隣りの様子を伺ってみる。
折しも、金森と目が合った。とっさにそっぽを向こうとして、背筋がぞくっとした。金森は自らの腕を伸ばしてきてワタシの片手首を掴み、あろうことか自分の胸に堂々と押し付けてきたではないか。奥井のものとは微妙に異なる柔い質感が手の平越しに視床下部を刺激し、出したこともない脳内ホルモンが溢れ出すのを実感する。
「ねぇ、ドキドキしてる?」
「してないって言ったら、ウソになるな」
「ふふっ、うれしいな」
金森の心臓が奏でるビートは相当間隔が短く、これからジェットコースターが急降下に入ることへの恐怖からなのか、隣りにいる男との肉体的やり取りに胸躍らせているからなのか、あるいはその両方の相乗効果なのか、気の休まらない状態の続く我が身に理性的回答を迫っても土台無理なことであった。
いざコースターが溜め込んだポテンシャルエネルギーを解き放つ寸前、金森は胸の上にあてがっていたワタシの手を両手で握り締め、結局最後まで放すことはなかった。ワタシはと言えば、久々に内臓を上下左右に揺さぶられるおぞましい感覚にもてあそばれ、緊張から解放された時の快感は皆無に等しかった。
青くなった顔のまま座席からヨタヨタと降りたワタシは、顔色一つ変えない金森に介抱されつつ、仁王立ちで待ち構えていた奥井の元へと向かっていった。
「尾上君、次はコーヒーカップよっ」
「あんたちょっとは尾上君の身を気遣いなさいよ」
普段は結構自分勝手なやつかと思っていたが、金森は意外と気の利く性格をしていることに気づくことができた。奥井がキツそうな態度で接してくるからこそ、相対的に金森が優しく見えているだけかもしれないが。
「オレは大丈夫だからさ、ちゃんとジャンケンして決めてよ。できれば次は、なるべく激しくないのを頼む」
「うん、分かった」
「分かったわよ」
少しだけ酔いが治まってきたワタシは、近くにあったベンチに腰掛け、目の前で真剣な目つきをして競争心を燃やしまくる二人を傍観していた。互いに文句を飛ばし合いながらもなんだかんだで上手くやっている姿勢からは、現実世界の二人とどこか重なるところがあった。
二人とは二年生になってから知り合ったばかりなのだが、異性のくせしてひねくれ者の自覚があるワタシによく話しかけてきたので、男子生徒の中では最も印象に残っている。初めは何か腹の底に抱える物でもあるのかと疑っていたが、二学期も終えるころにはすっかり自然に打ち解けていたのだから不思議なものである。
(それが今こうして、ちぐはぐな〝夢〟を生み出してる……のかな)
オズ君の姿がふと、頭の中に浮かんだ。彼はタロットを集めて一体何を企んでいるのだろうか。某アクション漫画のように、どうしても叶えたい大きな願いでも持っているのか。だとすればどうして、ワタシの手を借りる必要があるのだろうか。猫の手を借りたいのはむしろ、ワタシの方だというのに。
「やったぁ、あたし二連勝!」
「納得いかない、やり直しよ、やり直し!」
「バカ言わないでよ、勝負は一回きりでしょう?」
「アンタ今、後出ししてたもん」
「は~ぁ? 屁理屈こいてんじゃないわよ」
何やら二人の間で、揉め事が勃発したみたいだ。ワタシは重い腰を上げ、少々不安定な足取りで周りの見えていない二人へと近づいていき、一声掛ける。
「あの~、やっぱりさぁ」
「「何?」」
不機嫌を露わにした四つの目がワタシを捉える。しかし、ここで食い下がっては男が廃ると無理矢理に鼓舞し、彼女らの肩に手を置いて引き寄せた。
「二人まとめて付き合ってやるから、ケンカはストップ! いい?」
言い終えてすぐに二人を開放すると、各々から反応が返ってきた。
「尾上君がいいなら、あたしはそれで構わないけど」
「もっと早く言いなさいよね、デートの日が被っちゃったのもぜーんぶ、あんたの責任なんだからっ」
その後はひとまず満足してくれた二人に左右の腕を取られつつ、道行く人々から非難めいた視線を浴びつつ、フリーパスの効力に任せて残りのアトラクション片っ端から潰していった。
彼女らに振り回される内にいつしか日も暮れはじめ、正直これ以上は身が持たないと思った矢先、奥井が突如口を開いた。
「ねぇ、私たちまだ行ってないアトラクション、あるわよね?」
すると、ワタシを挟んで左隣を歩いていた金森が、見計らったように首を右へひねった。
「あーそういえばそうだね。ね、尾上君?」
「ええ、他に何かあったっけぇ?」
げっそりとしていたワタシには、皆目見当もつかなかった。
「ほら、あれよ、アレ」
「あたし達の指差す方に向かって、首を上げてみて」
深く考えもせず、言われるがままにそうしてみると、全く意識に上っていなかった巨大な車輪が目に飛び込んできた。
「か、観覧車……」
灯台下暗しとはまさにこのこと。〝夢〟の中だから可能なのかもしれないが、ここの遊園地の看板と言っても過言ではない全長が東京タワーに匹敵するそれが、幾つもの目をもってワタシを見下ろしていたのだ。
「さ、行こ。綺麗な夕焼けが見れなくなっちゃう」
「閉園までにあれだけは乗っとかないとね~」
かくして、ワタシはあの中で二人への「返事」をすることとなった。
観覧車に乗り込んで三〇分、ワタシ達三人は黙り込んでいた。
一般の観覧車とは一線を画す大きさに見合うようにか、ゴンドラは通常の三倍ほどの容積を誇る円筒形であり、大人が十人は乗っても安心の設計だと窓際に細やかなアピールポイントが記されてあった。もちろん安全性も重要っちゃあ重要だが、何しろ一周するのに一時間もかかるのが最大のネックだった。
奥井も金森も、乗って一〇分くらいまでは小学生よろしく無邪気にはしゃいでいたのだが、時間も経つと二人共がゴンドラ内に拵えられた長椅子に向かい合うようにして座り込み、
「あ~きれいな夕焼け~」
「今日は一日疲れたでも楽しかった~」
どこか遠い目をして、二人でしばし語らっていた。ワタシは彼女らに合わせることもせず、ただただ幻想世界の風景を一人、端に立って眺めていたのだった。
(アレ、おじいちゃんの病院だ)
前に見た時よりも大分年季の入った白い建築物は、夕闇の中で角砂糖みたいに映った。ワタシも小学校に入る前はひどい喘息に悩まされて、たびたびあの病院にお世話になったことを思い出す。
病院長の祖父は多忙な日々に追われていたにも関わらず、ワタシが母と共に通院する毎にわざわざ顔を見せてきてくれたので、当時の光景は今でも鮮明に思い起こすことができる。
定年を過ぎてなお心身共に若々しく、茶目っ気もあった私の祖父。だのに、すい臓がんによって本来の余命をあっという間に奪われた、未練と無念は計り知れないだろう。
祖母がワタシの母を産んで間もなく衰弱死した事実を差し置いても、祖父の口惜しさは死に化粧では隠し切れなかったに違いない。
祖父の通夜と葬式が粛々としながらも豪勢に行われていたことも記憶にはあるが、まだ三つか四つの、物心がつくかつかないかの微妙な年ごろの出来事だったために、悲しさは上の空だった。
当時を思い返すほど、眼下の白い病棟は形骸にしか見えなくなってくる。茜色の夕日がそれに照り返されると、うまく輪郭がぼやけていく。
(―――来た)
時の流れがこの場全員の緊張を高めていったのは無論、ゴンドラがようやく頂点に差し掛かる数分前というお決まりの展開が到来したからだった。窓から顔を遠ざけ、ワタシが長椅子の方へと戻って座り込むと、彼女らの表情が一気に引き締まった。
「あのさ、二人への返事、なんだけど」
答えはとっくに決めてある。これ以外に逃れられる術はないと思ったからだ。
二人は瞳をクッキリパッチリと見開き、対して口は横一文字に閉じっぱなし。三人の呼吸がピタリと重なった瞬間を見計らい、ワタシは打ち明けた。
「オレには選べないよ、どっちか一人を好きになるだなんて」
俯いて、固まったままの奥井と金森。言われたことを素直に受容できないのか、はたまた怒りに打ち震え、吐き出すべき言葉を選ぶための猶予を作っているのか。どちらに転んでも、最悪の結果は予期していた。
さあ、なるようになれ。恋のキューピッド諸共ワタシが葬り去ってやろう。
『……やっぱり、そうだよなぁ』
「えっ?」
『安心したぜ、尾上がオレ達に気を持ってないことが分かってよ』
真っ先に、自分の目と耳を疑った。
光と空気を介して伝わってきた彼女らの意思は、ワタシの認識を激しく狂わせた。
「い、一体どうしたんだよ二人とも―――うわっ」
驚きに次ぐ驚きがワタシを襲う。吹くはずのない突風がゴンドラ中に渦巻き、咄嗟に両目を庇う。瞼を閉じると、その裏側に白い闇が拡がった。
轟々と唸る旋風と網膜に焼き付く白濁した世界が全身を包み、かすかな虚脱感と共に、ワタシは元の女子高生としての自分に戻っていたのだった。
制服が肌になじむ感覚すらも、いつも通りで変わらない。
「あー、あれぇ?」
戸惑いの最中、奥井と金森が澄ました顔で近寄って来て、それぞれの手がワタシの全身をくまなく触り出した。
「ちょちょっ、やめろよ二人共っ」
『おーけーおーけーちゃんと戻ってるな……ふんふん、なるほどこーなってんのかぁ』
鼻息も荒く、胸部と腰回りをやたらと攻めてくる金森。
『口調も元に戻した方がいいと思うよ、尾上さん……お、もしかして着痩せするタイプ?』
相変わらず涼しげな顔で、臀部とそれより下をか細い指先でなぞってくる奥井。
彼らが女の格好でなかったら、一発ぶちかますどころでは済まさないこの行為。たとえそうであれ、流石にタネを明かされてはこちらも応えずにはいられなかった。
「いーかげんに、しろぃ!」
そう言って、彼女らを振りほどいて突き飛ばす。二人はワタシの抵抗に少しだけよろめいただけで、すぐに体勢を立て直した。
『うわぉ、なっちゃん様がご立腹だ』
『まぁいいんじゃないの、中々楽しめたんだしさ』
「何が楽しめただよバーカ! 舌でも噛み切って死ねっ‼」
普段ならこんなみっともない顔と声なんか表には出さないと気づいたのは、一点の曇りなきゴンドラの窓ガラスにそれが如実に映った数秒後だった。すぐに恥ずかしさを覚えたワタシはそっぽを向いて大きく咳払いを二回三回、それから二人に向き直る。
「あぁもう……二人も早く元に戻ってよ」
未だにつんけんとした顔をしてるのは、自分でもよく分かっている。彼女らは、もとい彼らは喜々とした目つきのままだった。
『やっぱり尾上さんは正直で面白いねぇ』
『この身体のまんまでもうちょいイジり倒したかったけど、時間も時間だしな』
二人は懐に手を入れ、それぞれが一枚の無地のカードを取り出した。ワタシはそれを見て即座に驚き、言った。
「そ、それっ、タロットカードと同じ形だ」
すると二人は、やはりニヤついた。
『正解。これのお蔭で俺達は〈俺達〉のまま、別人の身体でいられるんだ』
『すぐ終わっから、目ん玉開いてよぉく見てろよ?』
二人がそれぞれ言い終えた途端、二枚のカードがワタシの物と同様に白く輝き、二人の身体を糸くずのように強引に吸い上げ、代わりに別の二人がビデオ映像の巻き戻しみたいに、幾秒もせずに眼前に現れた。
「ホイ、いつものオレ達参上っと」
「バッチリ戻れたね」
ワタシが見慣れた男子二人が、それぞれ自身の手足を大雑把に確認し終えると、
「でさ、そのカードって始めから二人共持ってたの?」
「いんや、違うんだなこれが」
指に挟んだカードをチョイチョイと振りながら、金森が調子よく答えた。
すかさず、奥井も目線をカードの方に落とし、彼に続く。
「てか、俺達だって始めは右も左も分かんなかったから」
「え、どゆこと?」
とか自分で言っておきながら、数秒経って脳内に思い当たる節を見つける。この〝夢〟の案内役というと語弊が生じるが、言動がひどく飄々としてどこか人を食ったような態度で誰にでも接しそうな、アイツのことである。
『言葉遣い、ちょっとは気をつけた方がいいよ』
ワタシにこんな忠告を与えたアイツならきっと、彼らにも同じことをしたに違いない。
とりあえず息をしっかり整えて、こう訊いた。
「×××に……会ったんでしょ」
いつもより三割増しの押し殺した声に、二人の表情は固まった。
沈黙を肯定のサインと受け取って、人差し指を彼らの持ち物に向ける。
「そのタロットっぽいカードも、あいつから貰ったんだよね」
視線を逸らす二人。やはりこいつらは何かを隠しているのか、問い詰めたい衝動に駆られるワタシ。しかし今一度冷静になって外の景色を見渡してみる。
するとゴンドラが頂上で止まったままだったことに、ようやく気付かされた。夕日は茜色から朱色になり、ワタシ達の影は床面の色と混じりつつあった。
カン、カン、と足音を鳴らし、二人に一歩近づいて問う。
「これも、二人の仕業なの?」
またも二人は沈黙、ところが先程彼らに質問した時よりも、顔の緊張は緩んでいた。それどころか、奥井も金森も口角を上げてピクピクとさせている。
これはもう、察する必要もない。
「違う、違うってば」
「オレ等にそんな権限はねえっつの」
意地のない男共だ、とは言わない代わりに、寄せた眉と眉で呆れてみせる。
未だヘラヘラする二人。やはり気に喰わないので、カンカンカンと床を踏み鳴らし、一気に詰め寄った。不満とか焦燥とかではなく、ただ答えが知りたいだけだ。
二人のカードをひったくる。彼らは抵抗しなかった。
彼らの変身で力を失ったのか、二枚のタロットはどちらも絵が描かれていなかった。
「ほかには?」
息もピッタリに二人は「えっ」と声を漏らす。
「他に隠してることがあるんなら、はっきり言って」
二人はしばし目を泳がせたのち、互いに目配せをした。
「えっと、カードを持ってうろついてたら偶然バッタリだったのはホントだぞ」
「お互いに正体が分かった途端、二人でアホみたいに笑い転げた事もね」
「じゃあ、どうして〈ワタシ〉がワタシだって分かったの」
「そりゃあもちろんオンナの勘って奴だよ。なぁ、奥井ちゃん?」
「嘘は良くないよ、あの人が手取り足取り教えてくれたからこそでしょ」
「バーロー、口が軽すぎンだよオマエはっ」
すっかりいつものノリで騒ぎ誤魔化す二人。
実際のところ、彼らの話が本当かどうかなんて気にしなかった。
そもそも、こいつらはワタシにとっての被害者なのか加害者なのか、それすらもはっきりしていないのだから。
「ところでこのカード、貰っちゃっていいの」
片手に持った二枚を見せ、確認をとる。
二人は首を縦に振った。
「正直言って、こういう類のモンは尾上が持ってた方が様になるって」
「俺もこういうの、趣味じゃないしね」
途端に白けた気分になり、ワタシはさっさとカードを懐にしまう。
それと同時に、気になる事が一つ浮かんだ。
制服のもう一方のポケットから、×××に渡された〝悪魔〟のタロットを取り出して、奥井と金森の前に突き出してみる。
「ねぇ、ワタシの身体が元に戻ったのって、このタロットの仕業じゃないの?」
二人は間もなく顔を見合わせた。
「それは違うと思うよ、尾上さん」
「アイツからは『カードに向かって念じれば元に戻れる』ってことしか聞かされてないし、実際そうしただけだぞ」
悪魔の描かれたタロットは、ワタシの身体が男に入れ替わる前後で、おそらく何もおかしな変化は起こしていない筈だ。この〝夢〟の中に突入した時にも我が身に異変はなかったし、うんざりするほど聞かされた〈声〉だって、ここに来るまで聞かされていないのだから、自分が男になった〝夢〟を見せられているとも思えない。
納得が行かぬまま、ワタシは〝悪魔〟のタロットを制服のポケットに戻した。
「それならこの観覧車が止まったのは、本当にアンタ達の所為じゃないんだ」
「だからぁ……違うって言ってるだろ」
答えた金森の顔には、僅かばかりの苛立ちが混じっていた。奥井も何だか呆れた顔をこちらに向けている。苛々させられているのはこっちの方だというのに。
あまり心地よくない雰囲気が、ワタシ達を無口にさせようとしている。熱くなった頭を冷やすのには最適だったので、この場の流れに身を委ねてもいいと思った。
無言で彼らから離れ、ゴンドラ内の長椅子に再び腰掛ける。すると二人も習うようにして、ワタシから少し離れた位置にストンと腰を下ろす。微かな息遣いも聞こえるほどの静寂を、ワタシ達はしばらく享受した。
やがて沈黙に耐えきれなくなった金森が、尖った口をして言った。
「にしても、やっぱ変なやつだったよなぁアイツ。自称超能力者とか名乗っちゃって、俺達が女になっちゃった理由を説明してやるとか突然言い出しやがんの」
あの×××の話になると、流石に少しは意識せざるを得ない。
ワタシには「SFにちょっと詳しい」と言っていたが、似たり寄ったりなものだろう。おかげで、彼への不信感はますます募るところとなった。
ひょっとして、いやいやまさか、彼がそんなはずはあるまい。
「ちょっと怪しげな雰囲気してた人だけど、折角だから俺達、あの先輩に一つ占い事を頼んだんだよね」
「へぇ、アンタ等でも占いって信じるもんなんだね」
からかうつもりで、再び彼らの出方を見る。
すると反応の半分は予想通りで、奥井のかわりに金森がブスッとした表情をした所だけが違っていた。
「オレ達にとっては一世一代の特別な悩み事なんだよ」
「そうなんだ。で、どんな相談をしたの」
少なからず彼らの話に興味を持ってしまったワタシは、今度もからかうつもりで聞いてみたのだが、人の気持ちの揺れという恐ろしく精緻な変化に鈍感であったことを、次の二人の返答で知らされるハメになる。
「だから、その、オレ達が許して貰えっかどうかをだよ」
「え? 誰に?」
俯いた金森に代わり、奥井が細い声で続けた。
「俺達が殺しちゃった、あの時の君にだよ」
「―――っ⁉」
疑うより早く、身体が強張った。
もしこれが真実なら、早々に醒めて欲しい。彼らがこのワタシに殺意を抱くなどと冗談半分どころか、九分九厘ありえないと思っていたのに。
「尾上さん。君は、二年前の列車事故で死んでるんだ」
頼りなげに吐いた奥井の言葉。
「どうして⁉」
上擦った声の所為で、余裕がなくなりそうだった。
納得なんかできない、まるで辻褄が合わないじゃないか。
待ってくれ、二年前に何があった? 話がぶっ飛びすぎだってば。
「誤解しないで。尾上さんはたまたま巻き込まれただけで、殺意なんかはこれっぽっちもなかったからさ、本当に」
「まー覚えてないのも当然か。第一、オレ達の関係だって上っ面だけのモンだし」
金森が自嘲気味に呟いて、ワタシから完全に目を逸らした。
「尾上。オレ達とお前は、同じ高校のクラスメイトか?」
「そんなの、当たり前でしょ」
「本当にか?」
疑いのない目つきでそう言うと、金森の目が据わった。
「違うって言いたいの?」
「―――違うんだよ」
薄情だ、とは返せなかった。金森の声色が落ち着き過ぎて恐ろしかったからだ。
二言目は、奥井の方からだった。
「そもそもがね、俺達と尾上さんは同い年じゃない」
「は?」
「俺達は本来、君よりもずっと年上なんだよ」
目の前の男子二人が、またも珍妙なことを言う。クラスメイトという義理で信じ切る振りをした。
「それじゃ、二人はもうとっくに社会人ってこと?」
「ああ。しかもオレは、事故が起こった時にお前と同じ車両に乗ってたんだ……冴えないサラリーマンとしてな」
金森が言ったことが真実なら、青田駅でふと目が合った、眼鏡の男性が本当の金森ということになるのか。ワタシの知る金森はふだん裸眼だが、あの鋭い目つきには面影があった。気のせいではなかったのだ。
だとすればなぜ、彼はあの時接触してこなかったのだろうか。ワタシの乗った電車がこの後事故を起こすことが分かっていたというのであれば尚更だ。でも彼は実際にそうしなかったのだから、本当に知らないだけだったのか。
「俺も尾上さんに、直接じゃないけど接触しているよ」
「えっ、いつ何処で?」
奥井に関しては、思い当たる節がない。彼はすぐに答えた。
「事故を起こした車両の車掌室でね」
あの時か。面影どうこうの問題もなく、彼こそが奥井だったのだ。
いや待て、だとしたらなぜこの二人に接点があるんだ。金森の言う通りにワタシ達はクラスメイトでも、ましてや同じ年代の人間でもないとしたら―――
「じゃあ二人は、リアルでも実際に会ったことはないの?」
「会ってない……と言ったら嘘になるな」
「実際こうして出会ってる訳だしね……あの列車事故を仕掛けたのは、他ならぬ俺たちなんだからさ」
「どういう、こと?」
ワタシが思わず半歩踏み出すと、奥井が半歩後ずさって答えた。
「二年前、つまり尾上さんが中三だった時、とあるネットの掲示板に『自殺したい人募集します』って金森が書いたんだ。もちろん警察の目が届かない掲示板にね。集合場所は水浦方面行きの十八時半予定の車両一両目、尾上さんの乗ってた電車だよ」
奥井に続き、金森も一歩下がって言った。
「そうしてオレ達は予定通り線路から落ちた……ここまではよかった」
俯き加減で、しかし妙に清々しい顔をしている。
鬱を患う人は皆こういう顔をしながら死んでいくのかと、脳内で身勝手な被害妄想が働く。ワタシも受験失敗をして道を誤っていればこういう風になっていたのではないか。
この場の重たい空気が、自分の周りだけが増々重くなっていった。どっちでもいいから、早く次の言葉を聞かせてほしい。
「でも、オレ達は死んでいなかったんだ」
かなり間を空けて、金森が言った。
聞いた言葉を、ワタシは文字通り受け取れなかった。
「ごめん、よく分かんなくなってきた」
すると、またもや奥井が口を開いた。
「俺達は確かに死んだよ。でも、こうして生きている」
「幽体離脱って、やつ?」
「うん。金森も、いや、金森さんも一緒だったみたい」
「今更さん付けはやめろっての」
声に皮肉めいた笑みを足して、金森が奥井に指摘する。
「まーそのあとは、何か良く分かんねえまま、生きてた時の意識が残ったまんま今の高校生の姿になっちまった……ってことなんだよな」
「じゃあさ、何で二人は自殺なんて考えたの」
答えは予想できていたが、知らずにはいられなかった。
奥井が金森に軽く目配せをし、呟くように答えた。
「疲れちゃったから、かな。真面目に仕事をしてるのに先輩からは生意気だって言われてさ、親のコネで入ったんじゃないかとか根も葉もない噂を陰で散々言われたよ。上司に異動を希望したって言葉だけの上っ面で取り合ってくれないし、異動できてもまた同じ噂をされるだろうし、目立っても落ちこぼれてもない俺がどうしてこんな目にって思ったよ」
「オレだってそうだ。教師を夢見て叶えたと思いきや現実は毒親とパワハラの嵐。生徒の前で説教された時は屈辱なんてもんじゃなかった。最初は生徒もオレを慕ってくれたが、心に余裕を失くす度に生徒が察したみてーに離れていっちまった。誰にも頼られないってのは想像以上に辛いんだぜ」
「そう、なんだ」
返事はこれだけ。これ以上深入りしても、得られるものはなさそうだった。
目の前にいる男がワタシを殺した張本人だったとて時間が経ち過ぎている所為で、恨みや憤りといった感情がどうにも付いてこない。
今のワタシは唯、現実に置いてけぼりにされているのだ。
「で、どうすりゃいいのワタシは」
「どうすりゃ、って」
金森がこちらに視線を合わせて聞き返してきた。
「私は二年前に列車事故で死んでるんだよね」
「まぁな」
口調は軽いが、目つきは真剣だ。
傍にいた奥井も、首を縦に動かす。
「じゃあ……今のワタシは生きてるの? それとも死んでるの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるんじゃねーかな」
首肯しながら答えをぼかす金森。
「またそれ? 女乃君と同じこと言わないでよ」
あの白い猫―――女乃愛人は自身の存在をそうやって表現していた。だったらワタシもあいつと同じ存在だっていうのか。
奥井はワタシが「二年前に死んでいる」と主張した。しかし現にワタシはこうやって自分をワタシだと意識できている。たとえここが〝夢〟の世界であったとしてもだ。
「女乃? 誰だそれ」
金森が不思議そうな顔で言う。
すると奥井が間髪入れずに答えた。
「ほら、隣のクラスにいたでしょ。〝アイジン〟とか呼ばれてたやつ」
「えーっと、あーあー、確か猫みたいな目ぇしたやつだろ?」
「そうだよ。どことなく浮世離れした存在だよね、あいつ」
リアクションから察するに、金森の発言は偶然の一致のようだ。だとしても、彼らは今のワタシが何をすべきかを知っていることに違いはない。
でも焦っちゃだめだ。まずは二人を探ろう。
「二人は、女乃君のこと何か知ってるの」
彼らは顔を見合わせ、先に行けよと言わんばかりに金森が奥井に目配せする。
「隣のクラスの友達から聞いた話だと、人当たりはいいのに人付き合いがないんだってさ」
「どういうこと?」
「同じクラスの奴が一緒に帰ろうとか誘っても断って、いっつも一人で学校を出ていくらしいよ。俺はそれくらいしか知らない。そもそもあの高校の生徒になってから二年間の記憶しかないんだし、これ以上は何ともね」
奥井は淡々と、包み隠すことなく答えた。疑う余地はなさそうだ。
「ふぅん。で、金森君は?」
「オレ? ……い、いやぁオレはただの猫目野郎だとしか」
金森が不審な態度を取る。
「何か不都合な事でもあるの」
「そんなことはなぶっ」
彼は答える途中で、奥井から肘で小突かれていた。直後に金森は奥井をチラ見し、続いてワタシをチラ見してからもう一度奥井を見、白状して口を開いた。
「じ、実はさ。昔……っつても一年くらい前かな。まだ尾上とは別のクラスだった時にさ、オレ、あいつが一人で学校から帰ってくところを気になって追ってみたんだよ」
実のところ、女乃の人隣りに関しては紫月からの口伝いにしか知らない。他人にあまり関心を持てないこともあるが、こればかりはどうしても気になった。
電車の中で会った〈女乃君〉は、あくまでワタシが見聞きした彼の一面に過ぎないのだ。
「そしたらさ、青田駅の入り口のところであいつがフッと裏路地に入っていったんだよ」
「それで?」
「しばらく駅の入り口で張り込んでたらさ、裏路地から出てきたのは一匹の白猫だったんだ」
「ホント? 女乃君って保証はあるわけ?」
「あるぜ。あの白猫、なぜかすぐにオレの存在に気付いてじっと見つめてきたんだ」
「奥井君は後で、その話を金森君から聞かされたわけね」
「うん。でも、話はこれで終わりじゃないよ」
「えっ?」
「数日経ってから、俺と同じクラスだった金森と二人で、もう一度女乃を付けてみたんだよ。そしたら案の定、あいつは駅の裏路地へ消えた。でもあそこは狭いし一本道だから、すぐに二人で路地の出入り口を塞いで逃げ場を奪ったんだ」
「で、女乃君はどうしたの」
「追い詰めたときはまだ、人間の姿のままだった。でもジリジリと詰め寄っていっても、あいつは顔色一つ変えなかった。むしろ嬉しそうに俺達を見ていたよ」
奥井が当時の状況を思い出しながら、僅かに怯えた表情で話すのをやめた。
金森が奥井に続く。
「あいつに届くまであと一歩か二歩ってとこで、女乃はいきなり喋ったんだ」
「何て?」
「君たちは真実が知りたいかい、だけどそれには時間が足りないよ、ってな。初めは勿論訳分からんかったよ。何言ってんだって返事したら、あいつはまた笑ってこう言ったんだ。知りたそうな顔してるね、ってよ」
「それから、どうなったの?」
奥井が口を開いた。
「俺が真実って何だよって言ったら、あいつは君たち自身についてだよって答えた。知りたいって言ったら何かまずいことをされるんじゃないかって、しばらくは勘繰ったよ。金森も俺と同じことを考えてた」
二人の視線が軽く重なってから、奥井は続けた。
「でも、そこからが予想外だった。女乃がその場で少し膝を曲げたと思ったら、凄い勢いでジャンプしてビルのベランダの上にストンと乗っかんたんだよ。猫みたいに」
「そんで女乃はオレ達にこういった。今ならまだ戻れるよ、それでも君達は拒まないのかい、と。でも、身体は不思議と後ろに下がろうとしなかった。奥井も、オレとまったく同じこと考えてた」
「俺達が引き下がらないと分かったら、女乃はベランダから飛び降りた。地面に降りるまでにあいつの身体が真っ白な光に覆われて、そしたら着地するころにはあの白猫になってたんだ」
「二人は、猫になった女乃君を追いかけたの?」
「いや、できなかった。女乃の野郎が光ってるときに眩しくて両目を閉じちまって、目が開くようになってから猫に化けたあいつが見えた途端、俺も金森も突然眩暈がしてその場に倒れこんだ。次に目を覚ました時は、自宅のベッドの上にいた。それからこの出来事を思い出したのは、尾上さんがあの日、つまりバレンタインデーの帰りに青田駅の電車に乗ろうとする少し前だったんだよ」
「じゃあどうして、奥井君も金森君もあの時ワタシを引き止めなかったの」
少しばかり声が上ずる。
またしても焦っているのか、ワタシは。
「そりゃあそうしたかったさ、でもね」
奥井が弱弱しく口を閉じ、今度は金森が続ける。
「女乃の野郎が、オレ達がまだ学校にいた時にいきなり現れて、こう言ったんだよ。君達は尾上なちの邪魔をしてはいけない、ってね」
「でも俺達は、あいつの言葉を無視して青田駅へ向かった。そしたら、俺達はいつの間にかあの日の列車事故と全く同じ格好になった。俺は車掌に、金森はサラリーマンにね。意識は全くそのままだったのに、身体が言うことを聞かなかったんだ」
奥井が、またも不可解なことを言い出した。
金森は、それを補足するかのように口を出す。
「マジだぞ、本当に。オレは尾上の姿が見えた途端に叫ぼうと思った。でも、声も表情も、手足だって思ったことと反対にしか動かなかったんだからな」
ずっと椅子に座っているせいか、お尻がむず痒くなってきた。二人の方を見ず、ワタシは椅子から立ち上がり、ゴンドラの窓際まで近寄った。
振り返っても、二人はそのままだった。ゴンドラのガラス窓に背を預け、ワタシは問うた。
「じゃあ、二人がそうするしか出来なかった原因って、もしかして」
「……女乃の野郎じゃねえかって、思ってる」
金森は、俯いたままで答える。
奥井も、無言ながらに同じ考えを示す横顔を見せていた。
「ワタシも一応、女乃君本人から聞かされたこと、あるよ」
二人を見ながらそう言うと、奥井が食いついてきた。
「どんなコトだい?」
「女乃君には他人に夢を見せる力があるってこと。正確には、〈声〉を聞かせた人間だけに〝夢〟を見せる力があるって言ってた」
ワタシが知っていることといえば、これくらいだ。
ところが、二人の反応は凄まじかった。
「それじゃ俺達は今、あいつの作った〝夢〟の中にいるのかい?」
「だとしたらよ、オレが適当に言った答えがマジになっちまうぞ」
またまた訳が分からなくなりそうだった。
この二人は、一体どこまで真実を知っているというのか。
「その答えって、さっきワタシが生きてるか死んでるかって質問の?」
「お、おうよ」
「だとしたらさ、ワタシは二年前の列車事故で死んでて、でも意識は確かにここにある。それは女乃君が作った〝夢〟の中に生きているから……ってこと?」
奥井が頷いて答える。
「女乃の言った通りなら、そうだよね」
「でも待って。それなら今までワタシが過ごしてきた高校二年間は、何だったの? あれも全部、女乃君の作った〝夢〟だったっていうの?」
疑問は増えるばかりだ。考えるほどに思考の渦は広く大きくなり、探し求める答えを次々と飲み込んでいく。
二人への問い掛けは、だんだん独り言みたいになっていく気がした。
今のワタシは生きていて、死んでいる。
そんな矛盾しきった世界に、ワタシは存在する。この〝夢〟を包括した今までの人生が全部〝夢〟だとして、どうして突然フッと終わらないのだろうか。〝夢〟の支配者が、ワタシを生かしておく目的は何なのだろうか。
「ねぇ、二人はさ、今まで高校生活に何か違和感はなかったの?」
問い掛けに先に答えたのは、金森だった。
「さっき言った、尾上に危険な事が起こることを思い出すまでは、何も」
「俺も同じだよ。今まで金森とバカやって過ごしてきた毎日だけだね」
奥井が金森に続く。
二人とも、正直に答えていると信じるしかないと思った。
「そっか……あっ、二人は何で二年前のあの時、ワタシが電車に乗ってたって分かったの?」
「オレはたまたま、尾上が受験した高校で試験監督やってたからだな」
金森があのサーモンピンクをした高校の教員だったことには、ひどく驚かされた。彼の顔が記憶にないということは、筆記試験の監督員でほぼ間違いない。
「俺の場合は、落とし物を拾ったお客さんに尾上さんの学生証と定期券が入った財布を、たまたま渡された時だね」
遠い記憶を呼び起こす。
―――確かにワタシはあの高校受験の帰り、駅の中のトイレで定期券を財布ごと落としたことに気づかず、ひどく慌てふためいたことがある。あの時ワタシの財布を窓口に届けた駅の関係者とは、奥井であったのだ。
「そうだったんだね」
「尾上さん、怒ってないの」
「何を?」
「あの時、財布を落としたことに気づくのがもう少し遅れていれば、尾上さんは俺の起こした列車事故に巻き込まれなくて済んだんだよ?」
言われたところで、ワタシの胸には特に込み上げてくるものがなかった。
謝罪の気持ちが伝わってきたが、これ以上彼を詰問することはなかった。
「別に。今更言われたって、もう何とも思わない」
黙ったままの奥井。
横で聞いていた金森も、何故だか申し訳なさそうな顔をしていた。
背を預けっぱなしの窓ガラスが、少しだけ軋んだ音を立てる。
より背に力を入れたからではなく、身体を起こすために窓ガラスに一瞬だけ力を込めたことによる音だった。
「そうだ、しーちゃん……久池井さんのことは、何か知らない?」
腰の辺りだけをガラスにくっつけたままで、二人に聞いてみた。
高校一年の頃は、ワタシと紫月、奥井と金森はそれぞれ別のクラスだったわけだが、紫月に限っては色々なクラスに顔を出すことが多かったので、二人も何か知っているはずだ。
二人は顔を見合わせ、今度は渋った顔をせずにそれぞれが答えた。
「知ってることっつったら、女乃にぞっこんなツインテ女子ってことくらいか?」
「だよね。あとは尾上さんとよくタロット占いしてる女の子ってところ?」
そうなんだ、とワタシは返事をする。
今更びっくりする程のことでもないからだった。
紫月がらみの事となると、好奇心を抑えることが難しかった。ここに来るまでにオズ君と一緒に見た、あの天使みたいな子が彼女と同一の存在なのかも気になっているからだ。
窓ガラスから腰を浮かせ、制服のポケットから無造作にカードを取り出し、彼らに近寄りながら尋ねる。タロットの表面には、何も描かれていなかった。
「このタロットは……本当はしーちゃんのものなの?」
しかし、二人は素っ気ない返事しかしてくれなかった。
「そんなの知らねぇよ。あの変な男から貰っただけなんだからよ」
「ちょっとしたパーティーグッズってことで、あのお兄さんが遊園地の中で買ってきたんじゃないかな」
「なにそれ。ふざけないでよ」
「ふざけてなんかねーよ」
「なんでよ、しーちゃんのことになるとさっきと態度がちがうじゃん」
ワタシが詰めれば詰め寄るほど、二人は遠くになっていく。
彼らは両方とも、ワタシと目線を合わせようとしない。
「尾上さん、俺達は君の味方じゃないんだよ。ただのクラスメイトだよ?」
「あーもう信じらんないっ。二人だって、助かりたいんじゃないの?」
「冗談キツイよ、尾上さん。今の俺達は魂だけの存在なんだから」
「意識が肉体に戻ったって、どうしようもねぇんだよ」
「だから……だからワタシはこのタロットに賭けてるんじゃないの!」
無地のタロットカードを振りかざし、二人にまざまざと見せつける。
何をこんなに熱くなっているのだろう、ワタシは。
「ワタシ、真っ白いタロットを元に戻せるかもしれないの」
「だから?」
「何が起こるかはワタシだって分からない。でも、可能性を捨てたくない」
「じゃあ尾上が持ってるタロット、一枚でいいから元に戻してみろよ」
「え?」
「できるんだろ、やってみろよ」
金森がようやく目線を上げ、唐突にワタシを急かす。
「う、うん……」
ワタシは右手に持ったタロットをしばし見つめ、両手で持ち替えた。
二人の方にタロットの真っ白い側を向けながら、戻れ戻れと念じてみる。が、力を込めた私の指先が震えるだけで、タロットは二枚とも、うんともすんとも言わなかった。
「……?」
「なんだよ、できねーじゃん」
「だったら、二人もやってみてよ」
「無理だよ。俺達が元の姿に戻った時点で、あの魔法は使えなくなるんだよ」
奥井もようやく目線をこちらに向け、しかも食い気味に答えた。
「そんなっ」
「本当だ。その二枚のカードはもう、ただの紙切れだよ」
ワタシは項垂れながら、求められるまでもなく、彼らの向かいに力なく座り込んだ。
彼らは落ち着いてはいるものの、話し声から次第に焦る様子が、はっきり見るまでもなく分かった。白いままのタロットを両手で持ってのぞき込むが、返事はない。諦めて、制服のポケットに戻し入れた。
両目を伏せたまま、ワタシは彼らに向かって聞いてみる。
「ワタシ達、ずっとこのままなの?」
「だからオレ達だって困ってるんだよ。何とかしてこの〝夢〟から抜け出せないかって、尾上がオレ達と離れた時に金森と一緒に考えたんだ。このゴンドラの中でカードの魔法を使えば、みんなして抜け出せるんじゃないかってよ」
「でも結局は、俺達の変身が解けただけだった。あのお兄さんが言った『念じれば元に戻れる』って言葉の意味は、それ以上でもそれ以下でもなかったんだ」
互いに視線を合わさない二人。
ワタシも彼らに視線は合わせることができなかった。
ため息すら苦しいほどに、ゴンドラ内を一時の静寂が満たしていく。
ワタシはオズ君に―――あの黒猫に、都合よく騙されただけなのだろうか。奥井と金森の口から無残な現実が語られてしまった以上、もはや何もすべきことは残っていないのだろうか。
「―――あ、ちょっと待って」
顔を上げながらそう言うと、二人は気だるげにワタシを見た。
僅かに躊躇はしたが、思い切って言ってみた。
「ワタシ、×××と一緒に高い所から落ちた時、〝夢〟から醒めたんだよ」
「嘘だ、信じられないよ」
奥井が、大いに疑いの目でワタシ見つめる。
金森も、重い腰のままでワタシの言い分を黙って聞いている。
「嘘じゃないよ! あの時は×××が無理矢理ワタシの手をとって飛び降りたんだけど、今回だって同じようにできるはずだよ……ちょっと怖いけど」
「で、それを今度は俺達と実践してほしいってこと?」
「う、うん。ダメかな?」
「……」
奥井は、はいともいいえとも返さなかった。
すると金森が、視線をワタシに合わせながら答えた。
「鍵掛かってんだぞ。ゴンドラのガラスぶち破ってでも飛び降りたいのか?」
「あ……」
奥井の沈黙は、今、金森が言った指摘によるものだった。
思わずワタシは言葉に詰まってしまったが、食い下がらずに反論する。
「三人一緒にガラスを蹴飛ばせば、きっと一枚くらいは……」
ワタシはゴンドラ出入口の扉とは反対側の、二、三人で壊せそうな枠張りのガラス板を指差して主張した。
しかし、二人はとうとう聞く耳を持たなくなってしまった。一呼吸ほど置いて、ワタシはまたしても弱気になりながら、俯いてしまった。
今、ワタシ達が乗り込んでいるゴンドラ内は、学校帰りの電車内にそっくりだった。しいて違うところは、目の前に座る男子二人とワタシ以外、誰も存在していないことだ。
誰とも会話せず、自宅の最寄り駅まで時間を消費していくだけの、何てことのない日常の一片。友達が一緒に座っていれば、ひたすら笑って過ごせる時間。喋っていなくたって、ただそばにいるだけでも、気づけばあっという間に過ぎていくそのひと時。
それが、今だけはどうしようもなく勿体なく感じてしまう。
「そっか、わかったよ」
ワタシはすっくと立ち上がり、奥井にも金森にも目を向けず、ついさっき自らが指差したガラス板まで歩いていった。
そして右足を持ち上げ、ガラスに向かって蹴りつけたのだった。
「このっ、このっ」
ワタシが蹴りを入れるたびにガラスはバァン、バァンと振動を繰り替えした。ガラス板は思ったより手強い相手だった。
後ろにいる二人はどうだろう。呆気に取られているのではなかろうか。だとしても、ワタシは今の気持ちを捻じ曲げることはしなかった。
「この、この、このおっ」
ここは〝夢〟の中なので、肉体の疲労は感じない。ワタシが今、力一杯蹴りつけているつもりでも、実は思ったより力が入っていないのかもしれない。
ならば相手が音を上げるまで、ひたすら反復するだけだ。
「おいっ、やめろって!」
「無茶だよ、そんなの!」
奥井と金森が、ようやくワタシに近づいて両腕の自由を奪い、ガラス板から引き離そうとする。ワタシも負けじと、物言わぬガラス板へと立ち向かっていく。
「二人がっ、助けてくれないからっ、こうなっちゃってるんっ、だよっ!」
「馬鹿野郎、今すぐ離れろっ」
「そうだよ、何考えてんだよっ」
「うるさい、うるさいっ、うるっさい!」
二人の拘束力に抗いつつ、右足で踏ん張りつつ、逆の足でガラス板を蹴り続けるワタシ。心なしか、ガラス板の表面にうっすらとひびが入る。
もはや二人の叫びは意味をなさなくなろうとしていた、その時だった。
『そのヘンにしておきなさい、尾上なち』
「誰っ⁉」
ワタシが声を上げ、奥井と金森はワタシより素早く辺りを見回した。しかし、どこもガラス張りのゴンドラに映る影は、雲の形ばかりだった。
反射的に動きを止めたことにすぐさま気づき、二人はワタシの身体の拘束を解いた。
「尾上っ、それっ」
金森が、ワタシの手に持つタロットの方ではなく、制服のポケットの方を指差した。オズ君といた時と同じように、ポケットの中が薄く光っていた。
「どういう、こと?」
「俺だって分からないよ。いいから出してみなって」
奥井が、金森に続く。
ワタシは奥井が言い終わる寸前にはもう、白く輝くタロットをポケットから引き抜いた。
「あっ⁉」
すると、引き抜いたタロットはワタシの手から勝手に離れ、誰の力も借りずに宙に浮き、二メートルほど離れたところで静止した。
『全くせっかちさんなんだから。今出てあげるわ』
宙に浮くタロットが、更に輝きを増していく。同時に、タロットの光が渦を巻きながら、何かをゆっくりと放出していった。
ワタシは立ち尽くすばかりだったが、傍の二人は身構えて警戒していた。
光の渦から放たれたそれは、ワタシ達と同じ人のシルエットをしていた。
「こんにちは、迷える子羊さん」
逢魔が刻に、悪魔が現れた。
比喩で言っているのではなく、目の前に立つ女の見た目が、明らかにヒトではなかったからだ。褐色の肢体にルビーの如き双眸、牛の角と蝙蝠の翼、黒くて長細い尾を生やしており、外見はキリスト教の世界に登場するサキュバスと呼ばれる夢魔を彷彿とさせた。
光り終えたタロットは、悪魔の背後で役目を終えたようにひらひらと落ちていった。
悪魔は夕日を背に、さぞ愉しそうに目尻と口元を緩めていた。彼女は、ワタシ、奥井、金森を順に一瞥すると、夕陽に照らされた右手をそっと、身体の前に持って行った。
「俺たちにいったい、何するつもりなんだ―――よ」
「あのうさん臭い野郎は、どこにいっちまったん―――だ」
「黙ってなさい。あたしは尾上なちと話しがしたいの」
二人は言い切る直前で、急速に立つ力を失い、その場に崩れ落ちて意識を失った。
悪魔は笑みを浮かべたかと思いきや、不機嫌な態度に変わった。
「奥井くん! 金森くん!」
叫ぶワタシの横目で、悪魔は翳した手から薄暗色の光を出していた。催眠術の類だろうか。
もちろん危機感はあったが、今度は下手に動けそうにない。
金属の地に伏す彼らを見遣った後、ワタシは眼前の悪魔に視線を移した。悪魔の彼女は光を出し終えた右手を下ろし、またもや薄ら笑いを浮かべながらワタシを見返した。
「二人をどうする気?」
「しばらく眠ってもらうだけよ。気にしなくていいわ」
遊び飽きた人形の如く、悪魔は彼らをもう一度流し見する。これで、ひとまずは悪魔が本当にワタシにしか興味がないということが判明した。
いまだ拭えぬ緊張感のもと、ワタシは悪魔に問いかける。
「あんた、タロットの一部なの?」
「そうよ。大アルカナの十四番〝悪魔〟が、あたしよ。」
「×××は、今どこにいるの?」
「そんなの知らないわよ。今この夕暮れ時は、あたしだけの時間なの」
奥井が直前まで言いかけたことを、代わりに問い出すワタシ。
しかし、彼女は不機嫌そうに表情を変えつつ答える。
「あなた、今困っているんでしょう?」
悪魔がそう言うと、ワタシは静かに頷いた。
「ワタシがこの〝夢〟から抜け出せる方法、知ってるの?」
「知ってるわよ」
悪魔はゆったりとした動作で、ナイフの如く伸びた爪を備えた指をワタシに向けた。
「ワタシ自信が、何とかしろっての?」
「違うわ。あなたが持ってるそのタロットよ」
「やっぱり、これなんだね」
確かめるように、タロットの入った制服のポケットの上を撫でる。
「それで、ワタシがタロットに戻してくださいって、念じればいいの?」
「念じるだけじゃ無理ね。さっきまであなたがやっていたみたいに、ね」
「っ、いつから見ていたの」
動揺するワタシに、悪魔は自らの顔を軽く撫で下ろしつつ答えた。
「見ていたんじゃなくて、聞いていたが正しいわね。タロットの中からじゃ、あなたの声しか聞こえないわけだし」
ワタシは黙ったまま、悪魔の返答を待つ。
強張った表情で語るワタシに少し経ってから気がつき、彼女は答え始める。
「ああ、いつからだった、よね? はっきりあなたの声が聞こえたのが、そう……観覧車に乗り込む辺りだったかしら。ちょうど、日も落ち始める時間に入っていたことだしね」
悪魔の言うことが本当なら、奥井と金森の二人と話したこと―――加えて、×××や紫月のことについてあれこれ探っていたことまで筒抜けだったのか。
(こいつ、どこまで知ってるんだよ)
もしかすると、聞き入れるずっと前から、すべてを知っていたのかもしれない。×××については縁のありそうな様子だったが、紫月はどうなのだろうか。
「しーちゃん……紫月のことは、何か知ってるの」
「さあ。あなたのお友達じゃないのかしら?」
「タロット繋がりで、関係あるんじゃないの?」
「偶然でしょ。世の中にタロットが好きな人間なんて、ごまんといるじゃない」
わざとらしく、悪魔は視線を宙に泳がせて答える。正直なところ、これ以上聞き出したとしても、得られるものはなさそうだった。
暫くすると悪魔は「ところで」と手を叩きながら、ワタシの方を見て言った。
「悪魔のあたしが言うのもなんだけど、あなた、ジンクスって信じてる?」
「ジンクス? いきなり何?」
意味はもちろん知っている。勝負事の結果や世の中に大きな変化をもたらす事象に因縁のある、おおよそ不吉な出来事のことだ。
目の前に悪魔が現れた―――これがワタシにとってのジンクスだというのか。
「別に変な意味はないわ。ただあたしの質問に答えてほしいの」
「ワタシは信じてないかな、ジンクスなんて」
後ろ向きにそう答えると、彼女はたいそう面白そうな顔をした。
「あらそう、意外ね」
「どこが」
「だってあなた女子高生でしょ。普通、女の子だったら信じるじゃない。例えばぁ、携帯やカバンに着けていたストラップが切れたら気になる男子と両想い、とか」
「信じたところで何になるの」
普通の女の子ならムッとするところを、ワタシは受け流すようにして答えた。
悪魔はへその辺りで腕組をし、夕日に照らされた赤黒い唇を開いた。
「別に何とも。世の中為るようにしか為らないわ」
「諦めがいいんだね」
「悪魔が皆欲張りだとは限らないわよ」
興味が薄れたのか、悪魔はワタシと目線を合わせなくなった。
視線の置き場に困ったワタシは、彼女の身体全体をぼんやりと眺める。黄金比を再現したようなプロポーションは、彼女が人間であれば万人からの羨望止む無しだ。
苟もここが〝夢〟の世界であろうが、ワタシの目には都合のいいように映っているだけなのか。化けの皮が剥がれれば、醜い真実が牙を揃えて待ち構えているかもしれない。自分の目にする現実を最後まで信じ抜くことは、案外難しいと思った。
「ところでさ」
我に返ったワタシが呼びかけると、悪魔は視線をこちらへ向けた。
「ワタシが二年前に死んでるって話、聞いてたんだよね?」
「ええ、ちゃんと聞いていたわよ。あなたとこの子たちが、二年前の列車事故で死んでしまったこと」
「それと、あんたのいうジンクスが関係してるっての」
「してると思うわ。第一、あなたがこの〝夢〟に迷い込んでしまった元凶は、そこにいる子たちの起こした行動の結果でしょう?」
悪魔に言われ、ワタシは反射的に奥井と金森を見た。
二人は物言わず、ただ床に伏すばかりだ。
「ワタシ、二人にちゃんと言ったよ。起きてしまったことはどうしようもない、怒ってるとか哀しいとか、そういう気持ちの問題じゃないって」
「仮にそうだとして、事故を起こす前、あなたにとって不吉な予感のする出来事はなかったかしら?」
「あるわけ……」
言いかけて、ふと思い当たる節を見つけてしまう。
しかしジンクスと認めるには、あまりにも因果関係が稀薄すぎた。
「あるみたいね」
「……金環日食、かもしれない」
悪魔は、まつ毛の長い目を嬉しそうに細めた。
金環日食。
中学三年の修学旅行一日目、目的地に向かう新幹線の窓からわずか六分ほど、ワタシの両目を釘付けにした神秘の天体現象。
周りの同級生もマナー云々を完全に無視し、車窓から見える一つの輪っかに熱狂し、虜となっていた。たまたま窓際の席を陣取っていたワタシは、その時に運気の大半を輪っかに吸い取られたのかもしれない。
当時の光景の一部始終は、高校受験の帰りでも目を閉じた頭の中にぽっかりと浮かび上がっていた。そして、白い輪っかが脳内で溶けて視えなくなった後、ワタシの意識は何処かに往ってしまった。列車事故が起きたのは、ワタシが意識を失って間もなくの出来事だ。
無論、今でも瞳を閉じれば脳裏に浮かぶ、白くて熱い刹那の円環。
それがジンクスだって?
違う、これはワタシの大事な思い出なんだ。
「確かに不吉ね」
「あんたに言われても困るよ」
やっつけ気味にそう言うと、彼女の口元は反対に上向いた。
表情を崩さぬまま、悪魔は奥井と金森に視線を落とし、嫌味たらしく言った。
「あなたにとって、この子たちこそが本当の悪魔じゃないかしら?」
「馬鹿言わないでよ」
「説得力に欠けていたかしら。ごめんなさいね」
少し考え込んで、ふとゴンドラの床に横たわる奥井と金森を見る。顔に些かあどけなさの残る彼らは本当に、ワタシより一回りも年上だと信じていいのだろうか。
そして彼女の言うように、彼らこそがワタシを不幸に陥れた元凶と認めてしまえばそれで済む話なのか。時折ここが〝夢〟の中ではなく現実だと錯覚し、我を見失いそうになるのもまた事実だ。
曖昧な現状に引っ掻き回されないよう、改めてワタシは自らを正した。
「……あんた自身の目的は何なの?」
「目的?」
「何かあるんでしょ。そうじゃなかったら、ワタシに姿を見せなかったんじゃないの」
「あらあら、随分と勘が冴えるじゃない」
「とぼけないでよ。真剣に聞いてるんだから」
もちろん、本心は真剣ではない。ただ単に、目の前の尋常ではない事態を必死に理解しようとしているだけだ。
対する悪魔は鳩尾付近まで両腕を上げ、腕を組み直した。夕陽で艶めく乳房が球状に近い輪郭を帯びていき、その豊かさだけでなくいやらしさまでも強調させていく。
「あたしに協力してくれるんなら、教えてあげてもいいかしら」
「協力?」
「ええ」
つまり、悪魔に手を貸すということか。
不吉な予感がしてならないが、警戒しつつ彼女に問うてみる。
「大したことじゃないわ。あなたと一緒にここから出るのに、力を貸して欲しいだけよ」
なあんだそんなことかと拍子抜けしてしまいそうになったので、ワタシはいったん彼女から視線を外した。
「考えさせてよ、ちょっとだけ」
「今更考え込まなくたって、ほかに方法はないでしょうに」
悪魔は何処か楽しそうな、何処か呆れているような声で言った。
実際、考える必要なんてないのかもしれない。
「分かった。協力する」
「あら嬉しい」
口角を吊り上げ、彼女は喜んだ。
「今度は、あんたの番だよ」
「そうだったわね。ええっとお」
悪魔は微笑みを消すと伏し目がちになり、両手を後ろで組んだ。まるで、意中の相手を前に恥ずかしさで足が進まない、うぶな乙女のようである。
つい先程まで余裕綽々だった態度が掻き消え、妙にしおらしくなる彼女。これも演技の一環だろうかと邪推したのだが、真意はもちろん分からない。
「あたし、あの人にお礼が言いたいのよ」
「誰に?」
「×××に、お礼が言いたいの」
「どうして?」
彼女は姿勢も視線もそのままに、やはり恥じらって答える。
「身寄りのないあたしを拾ってくれたからよ。改めて彼に伝えようと思ったけれど、時すでに遅しだったわ」
「あんたに、何かあったの?」
そうワタシが訊ねると、悪魔は火照った身体を一気に冷ますように、両腕を胸元で組みなおした。いけないことを聞いてしまったのかと一瞬身構えたが、彼女は何もしてこなかった。
「あたしじゃないわ。彼の方よ」
「それって、×××が先に死んじゃったって、こと?」
悪魔は、ため息をついて答えた。
「死んでなんかいないわ。あたしの知らないうちに、出ていっちゃったのよ」
「今でも、行方が分からないの?」
「どこに行ったかはどうでもいいの。大事なのは会うためにどうすればいいか、ってこと。ここは〝夢〟の中ってこと、お忘れかしら?」
ワタシの脳内はまたも混乱しかけているのだが、彼女の答えを聞くことに専念した。
悪魔のくせして慈悲深そうに紅い目を細め、彼女はワタシに答えた。
「だからこそ、〝夢〟でもし会えたらって思ったのよ」
ようやく、彼女の話が見えた気がした。
もちろん、彼女を信じきったわけではない。×××は最初に見た〝夢〟で、ワタシと一緒に死んだはずだ。しかしこれは〝夢〟なのだ。一体、何を持って死んだと言い切れるんだ。
そうやって考えることが妥当なはずだが、結局は無駄に終わりそうだった。ワタシは仕方なく、彼女の思いを尊重することにした。
「だったら、夕方じゃない時間帯で会えるんじゃないの」
「言葉通りよ。あたしはこの夕暮れ時にしか姿を現せないし、彼は夕暮れ時には姿を消してしまうのよ」
「他に方法はないの?」
「あるとすれば……」
悪魔は両目を伏せ、考え込む仕草を見せる。
数秒もすると彼女の顔が上がり、艶のある唇が動いた。
「昼時でも夕暮れ時でもない時間帯、かしら」
「つまり、夜ってこと」
「まあ、そうかもしれないわね」
「ずいぶん、曖昧な答えだね」
「だって、まだ一度も会えた試しがないんだもの」
彼女の声は、そこで止まった。
ワタシは彼女から視線を逸らし、ゴンドラの向こうの夕空を見る。先ほどよりも空は赤黒くなっていて、この世界は確かに時を刻んでいることが感じ取れた。
ワタシ達が乗っている観覧車や地面を行き交う人々の群れ、延々と動き続けていた遊園地のアトラクションのどれもが動かなくなってしまっていることを除いては。
「さ、これであたしの話はおしまい」
「え、ああ、うん」
悪魔が声を掛けてきて、気を向けていなかったワタシは驚きながら応える。いつの間に、異形の相手を前にして適応できている自分が、やっと怖く感じてきた。
「とにかく、よ。まずはあなたのタロットを貸してちょうだいな」
彼女は一歩だけ歩み寄り、右手を差し出す。
ワタシは制服のポケットに視線を移したが、手は動かさなかった。
「協力するって言ったでしょ」
彼女が急かすように、もう一歩近づいてくる。
「これだけは聞かせて」
「何かしら?」
声で制すると、不審そうにワタシを見てくる悪魔。
心臓が飛び出るような気分で、ワタシは今一番気になることを問うた。
「私のタロット、本当に必要なの?」
悪魔の紅い瞳孔が、大きく見開かれる。
ワタシの恐怖心が、胸の中で一層膨らんでいった。
「何ですって?」
「あんたもワタシと同じようにここから落ちれば、〝夢〟から抜け出せるんじゃないの?」
臆病な番犬のように、視線鋭く悪魔に噛みつかんとするワタシ。
彼女は突如顔を伏せながら、床の方に視線を落としていった。
「……ない」
そして、ワタシの耳に微かにしか聞こえない声で、そう言った。
「つまんない、つまんない」
悪魔は自らの真横に位置するゴンドラのガラス壁までふらふらと歩いていき、立ち止まると直ぐに左手を突いた。
間髪入れず、彼女は左手にナイフの如き切れ味の爪を生やし、猫の手を作る。
「つまんないつまんないつまんなぁーいっ」
言葉のまま、叫ぶがまま、彼女は猛烈な摩擦音と共にガラスを引っ掻いていった。
「あああ、ああう」
これに堪らず両耳を塞いだワタシ。
悪魔は毒づく度にガラスを引っ掻いていき、嵐が過ぎ去った後のそれは夕陽を覆い隠さんばかりの白一色に変わり、見るも無残に傷だらけになっていた。
この一時だけ、ワタシは現実よりも残酷な時間を味わい続けたのだった。
「どーしてあたしの思い通りにしてくれないのよおっ」
ありったけの不満をぶちまけた悪魔の嘆きは、そこで尽きた。
「何なのぉ」
神経を逆撫でする音でいっぱいの頭を抱えながら、ワタシは何とか声を出した。
すると悪魔はワタシを睨みつけ、それはそれは無礼な言葉を吐いた。
「あなたって空気の読めない人間でしょう?」
「はぁ?」
「あなたのその性格、タロットにも見放されるわよ」
眉間から血が噴き出さんばかりの勢いで、悪魔はワタシを睨む。
「知ったこっちゃない」
然し悪魔の本性を知ったワタシは堂々とした態度でそう返した。
次の一瞬、ゴンドラの上を光った何かが掠めた。
夕日の煌めきにも見えたそれは、悪魔も気づかぬうちに露と消えた。
「最後にもう一回だけチャンスをやるわ」
傷だらけのガラス壁から悪魔が手を離し、ワタシの元へと一歩近づく。
再び恐怖が押し寄せてくるが、ワタシはその場から動かなかった。動けないのではなく、動かなかった。
「タロットを渡してくれるなら、あなたを見逃してあげる」
「嫌って言ったら?」
挑発的な態度ではなく、真面目な顔で聞き返すワタシ。
悪魔は笑いもせず、右手にも爪を尖らせ、ドスのたっぷり効いた声で言った。
「……どいつもこいつも、〝夢〟から消してあげる」
悪魔の双眸が、格好の獲物を前にゆったりと向けられた。
彼女の視線の先には、奥井と金森。
此処に来て人質を取るのか。悪魔とて背に腹は代えられぬのか。
今タロットを手放してしまえば、ワタシはオズ君との約束を破ることになるのか。或いは、猫になった女乃君に、〝夢〟から出してもらえなくなってしまうのだろうか。考えれば考えるだけ、答えは霞んで視えなくなる。
分からないことだからこそ、ワタシには目の前の事態につとめて冷静に対処した。
「分かった」
ワタシの手は、タロットの入ったポケットの中へと沈み込んでいった。
(―――せ)
直後、頭の中で聞き覚えのある声がした。
まさかと思い、その場でしばし硬直した。
悪魔女も何かを感じ取ったのか、訝し気にワタシを見ている気がした。張り詰めた空気だけが、夕日に染まった空間を満たしていた。
(―――よせ、そいつにタロットを渡すンじゃ、ねえっ)
二度目の声で、確信が付いた。
この声は、オズ君だ。
返事など出来っこなかったが、これは紛れもなく彼からの忠告だ。
「どうしたの? 渡してくれないの」
悪魔は疑いの色を強くした目線で、ワタシを貫いてくる。
オズ君の声で安堵し、覚悟を決められたお陰か、ワタシは彼女から視線を一旦外し、気を引き締めて再度彼女を見た。
彼女の顔色は、変わり映えのない様子だった。
「……ごめん。やっぱり、無理」
「どうして?」
「ワタシ、最後まで自分を信じるしか、ないから」
開き直った態度で、彼女にそう告げた。
目の前にいる悪魔は、特段驚いた表情はしていなかった。ワタシの制服のポケットの方を名残惜しそうに見つめたあと、再びワタシの方に紅い両目を向けた。
「あーそう。断るのね」
彼女はそう言うと、ワタシから一歩、二歩と後ろに下がっていった。最悪な結末になることは、果てしなく明白だった。
あとはもう、為すがままでいいのだろう。
ワタシ自身がとうとう、張り詰めたこの場の空気を破裂させてしまったのだから。
「非常に、非常に残念だわ」
「―――っぐ⁉」
悪魔が呟き捨てた直後、ワタシの首元は見えない両手に捕捉された。間もなくしてワタシの両足がゴンドラの床から三十センチほど浮き上がり、身体の自由を奪われた。
今まで感じたことのない息苦しさにワタシは困惑し、見えない両手を掴もうと自らの両手を伸ばす。しかし掴めるものは何もなく、訳も分からず宙をもがくしかなかった。
彼女は両手を翳すこともなくただ立っているだけで、憎たらしそうにワタシを見ていた。
「っ、があっ」
「手荒な真似はしたくないんだけど、しょうがないわよね」
息をする暇も与えられず、手足を暴れさせるしかなかったワタシ。
咄嗟に脳裏に浮かんだのは、オズ君だった。
(お願い、声を聴かせてよ)
次第に時の流れが穏やかになっていく中、ワタシは彼に助けを求めていた。偶然、彼の声が聞こえたせいもあり、あまりに一方的な要求なのは分かっていた。そうだとしても、今この瞬間だけは彼の存在に縋りたかった。
(くふ、くふ、ぎぎぎ、ごぉん)
ワタシの耳が何かを捉えていた。オズ君の笑い声だろうか。
そうではないように思えた。途中からあからさまに生き物とは違う声がしたからだ。
視線を悪魔の方へ向けると、彼女は平らなはずのゴンドラの床で、バランスを崩していた。彼女はよろけるのも束の間、すぐさま背中に生やした蝙蝠の翼で、宙に浮いていた。
そして、すぐさまワタシの方にも変化があった。
「がっ、あああっ」
両手の拘束がフッと消えた途端、ワタシの両足はゴンドラの床に着地した―――と思った途端、背中を猛烈に引っ張られる感覚に襲われた。誰かの手によってではなく、それは重力だった。
視界は目まぐるしく変わっていき、ピタリと止まったと同時、ワタシの背中はゴンドラの壁面を担っているガラス板へと叩きつけられたのだった。またしても息が詰まりそうになり、本当に死ぬのではないかと思った。
ようやく状況が把握できた。ゴンドラの自重を支えていた金具の一部が外れ、入口と反対側―――ワタシが転げ落ちた側―――に大きく傾いていた。
悪魔はこちらに接近してこない。ワタシを諦めたのだろうか。
奥井と金森はワタシと離れた位置、ゴンドラの隅に転がっていた。
(……え)
ワタシの背後から、みしみしみし、という音が伝わってきた。嫌な予感はしていた。
五秒ほど経過して、ばりばりばり、という音に置き換わった。嫌な予感はしていた。
一呼吸の後、ぼんっ、という破裂音に似た衝撃を背中に受け、ワタシの身体はゴンドラの外へと産み落とされていた。共に落ちていくガラスの破片が夕日に煌めき、観覧車のまん丸くて大きな顔を、いっそう鮮やかに際立たせる。
空気を入れた風船がしぼんでいくように、ゴンドラはみるみる小さくなっていった。中にいた悪魔や彼らの姿は、とっくに点のようになっていた。
今こうして落下している感覚は、×××と一緒に飛び降りたときよりも怖くなかった。地面が見えていないのに、なぜか心が軽かった。幸い、ポケットの中のタロットは飛び出ることはなく、自己主張するように内側で輝いていた。
すると、タロットの光に呼応するかのように、産み落とされたゴンドラの中から一閃、白く小さな物体がワタシの方へ矢の如く飛んできた。その時は確認する余裕がなかったがタロットの一枚、大アルカナの十四番〝悪魔〟を呼び出したタロットであった。
さらにその後を追うように、ゴンドラから黒光りする物体が、弾丸の如く向かってきた。これは紛れもなく、悪魔の彼女だった。
宙に飛散するガラスの破片を物ともせず、夕陽を切り裂くようにして彼女は突進してくる。彼女の顔は逆光でよく見えなかったが、状況から察するに焦りを浮かべていたのかもしれない。
あとどれくらいで地面に激突するのだろう。別に考えなくても良かったことを、夕闇に溶けつつ落ちていくワタシは、残りの時間をずっとそうやって考え続けていた。
タロットがワタシの胸元まで迫り、悪魔がタロットまで一メートル付近というところで、ワタシは全身の感覚を失った。