【ショートショート集】題材:正月
『やさしいヨメ』
「節子さん、このお雑煮には、お餅が入っていないようだけれど?」
「はい、入ってませんね」
「喉に詰めないようにという気づかいは有難いけれど、日本人たるもの、お餅を食べなければお正月という気分がしないわ少しで良いから出して頂戴」
「それは出来ませんよ」
「仮に喉に詰めて死んだとしても、私は恨んだりしません。良いから出しなさい」
「無理です」
「だったら念書を書きましょう。それで良いでしょう。私が食べたいから無理にと頼んで出して貰ったという事で」
「仕方ありませんね」
「分かってくれましたか」
「まず最初に、それはお雑煮ではなくコーンフレークで、今日は正月ではなく、ただの七月の平日で、何よりもあなたは生粋のアメリカ人です」
「なんて酷い嫁かしら!」
「それからもう一つ、私はあなたの家の嫁ですらないのです」
【完】
『十二支のはなし』
むかし、神様が動物たちにお触れを出しました。
「正月の日の出の頃に私の所に挨拶に来なさい。早かった順番に十二種類を、年を守る動物に任じよう。尚、徹夜や門前の場所取り、座り込みは禁止だ」
年を守るというのがどういう事か動物たちにはよく理解できませんでしたが、名誉な事は分かりました。
動物で二番目に頭の良いイルカの一族は考えました。
「どうせなら一番になるのが良かろう。近くで野営をするだけなら、門前の場所取りにはなるまい」
イルカ達は神様の家から少し離れた入り江に、こっそりと陣取りました。
二晩過ぎて大晦日の夜。
「――行って来る」
イルカの中で一等泳ぎの早い者が、入り江から勢い良く泳ぎ出しました。
「イルカ君、お早い出発で」
声をかけたのはシャチでした。
イルカが反応しようとした時には既に、シャチの鋭い歯が腹に食い込んでいました。逃れようともがく間もなく、イルカは天高く放り投げられ、水面に激突して意識を失いました。
シャチは同じ要領で、アザラシ、トド、オットセイ、セイウチ、一角、クジラと、次々に海の獣を倒して行きました。
「ははは、我々が最も賢く、最も強い、動物の一番になるのだ!」
血に染まった海でシャチが高らかに笑い、神様の家に一直線に向かいます。神様の裏手の浜の、海の動物用のゴールラインが見えて来ました。
「日の出と同時だ! 陸の生き物にはここまで正確に星は読めまい!」
力強く砲弾のように進むシャチが、正にゴールラインに到着せんとした時。
シャチの身体が竜巻に呑まれ、空に吹き上がりました。
竜巻と見えたのは、水に姿を変えた竜でした。
「シャチよ、何のために神が力比べや殺し合いではなく、平和的な競走をさせたか、その意を何故酌まぬのか!」
竜はシャチを水に叩き付けました。すっかり目を回したシャチは、何も言えませんでした。
結局、神様の家に挨拶に行くことが出来た海の生き物は竜だけでした。その為、十二支はほとんどが陸の生き物になったのです。
山鯨がいるじゃないかとか言われても、昔の事ですから、そんな呼び方はまだないのでした。魚や両生類、昆虫、植物、菌類などは、神様的に別系統なのでアナウンスの対象外でした。爬虫類は朝に弱いタイプが多く、結局蛇以外はダメでした。
神様は、このレースに勝利した生物の長所を集めて究極生物を作ろうとしましたが、気負いすぎたせいか、器用貧乏なのが出来ただけでした。
ずぅっと昔の、お話しです。
【完】
『うさぎとカメ』
「やあウサギさん。ご先祖が駆け比べで我らカメに負けたウサギさん」
「なんだね、ここ一番の大勝負である、干支決定戦では選外になったカメさん」
「んだとこの野郎! バラされてぇか! 水中に引きずり込んで喰らい尽くすぞ!」
「ウサギの組織力舐めんな、海岸ほじくって一族滅ぼしてやんよ!」
「滑稽だねぇ、牛君」
「おめーも大概だがな、ネズミどん」
【完】
『笠地蔵リターンズ』
冬にお地蔵様に笠をかぶせてお礼を貰ったお爺さんですが、生まれついての運と農業技術と商才のなさで、半年後にはすっかり貧乏に逆戻りしていました。
お爺さんとお婆さんは、顔を見合わせてため息を一つ。
「残っているものと言えば、藁ばかり。せめてこれで笠を編んでお金にしましょう」
「そうじゃなぁ」
二人の考える事と言ったら、ワンパターンでした。とはいえ、彼らを笑う事は出来ません。人間、歳を取ると思考に柔軟性がなくなるものです。
「――笠、笠はいかがですか? 笠じゃよ!」
お爺さんは大通りで声を上げて笠を売りますが、ちっとも売れません。
結局日も落ちかけて来ました。
売れ残りの笠を担いで、お爺さんは帰り道を歩きます。
すると。
ぽつぽつと雨が降って来ました。
雨はどんどん強くなって行きます。
「売り物じゃが、仕方ない」
お爺さんが、笠をかぶって歩いていると。お爺さんが冬に笠をかぶせてあげたお地蔵様たちの前に差し掛かりました。
「む? 笠がない」
冬にかぶせた笠は、半年雨風に曝されたせいで、すっかり朽ち果てていました。
「おお、おお、おかわいそうに」
お爺さんはお地蔵様に売り物の笠をかぶせ、最後の一体には自分の笠までかぶせました。
それから、自分は濡れながら走って帰りました。
「お爺さん――あれ、どうしたんです? そんなにびしょ濡れで!」
「いやぁ、ははは」
お婆さんは驚きますが、お爺さんは笑っています。
「お地蔵様が濡れてらしたので、差し上げたんじゃ」
「そうでしたか、それは良いことをなさいましたなぁ」
うすいうすいおじやで晩飯を済ませた後、お爺さんとお婆さんは眠りました。
夜更け、お爺さんがふと目を醒ますと、ずしん、ずしん、と重いものがやって来るような音がしていました。
「ん? これは?」
お爺さんが耳を澄ませていると。
ずしいいいいん!
ひときわ大きな音がしてから、重いものの音は遠ざかって行きました。
「な、なんです、今のは?」
お婆さんも目をさましました。
「ひょっとしてとは思うんじゃが」
お爺さんは、戸を開けました。
そこには。
餅、新巻鮭、昆布に大根、人参、八頭、百合、等々、正月料理に使えそうなものが置いてありました。
「おおっ、これは!」
「何てことでしょ、お爺さん!」
二人は顔を見合わせます。
「この腐りやすい時期に!」
【完】
『かさがない』
「笠、笠はいかがですか」
しんしんと雪の舞い落ちる大晦日の晩、お爺さんは通りに立ち、笠を売ります。
道行く人は、お爺さんを一瞥するだけで、誰も笠を買ってくれようとはしません。
「ああ、冷たいのぅ」
お爺さんは手に息を吹きかけます。
「このままでは正月の餅も買えん……笠、笠はいかがですか」
けれど、どんなに声をかけても、一つとして笠は売れませんでした。
「ああ……どうしたらええんじゃ」
お爺さんはガックリと肩を落として笠を見つめます。
「……この笠を燃やしたら、暖でも取れるかのぉ」
考えて、止めました。
そんな風に一瞬だけ温まっても、その後にかえって冷えてしまい、本当に凍死してしまう事があるからです。
「仕方ない……菜っ葉の漬け物の雑炊で正月を迎えるかの……」
お爺さんは売れ残った笠を抱えて、家へ帰って行きました。
帰り道、野っ原の道を横切っていたお爺さんは、六体並んだお地蔵さんの前に差し掛かりました。
お地蔵さんは社もなく、吹きっさらしの中に立っています。
「むむ! 地蔵様にこんなに雪が積もって! これは頭が冷たくて可哀想じゃ」
お爺さんはお地蔵様たちに、売れなかった笠をかぶせていきます。
「どうせ持って帰っても、ワシとばあさんの二人きり、こんなに笠はいらん」
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。お爺さんは笠をかぶせました。
「……おや、一つ足りんのぅ」
最後の一体のお地蔵様にかぶせる笠がありません。
「困ったのう、可哀想じゃのう」
お爺さんはしばらく考えていましたが。
「そうじゃ!」
ひらめいたお爺さんは、お地蔵様に手をかけると――。
「そいっ!!」
見事な膝車でお地蔵様を一回転、ひっくり返しました。
「よし、これで頭は寒くなかろ。これが本当のサカサ地蔵じゃ、わっはっはっは!」
その日の晩。
逆さにされたお地蔵様が怒り狂っています。
「あの爺、とんでもない事をする! あんな爺、糸車の針に指を貫かれて死んでしまう呪いをかけてやろう!」
それを聞いた、笠を貰った他のお地蔵様たちは対抗する呪いをかけました。
「あのお爺さんは親切な人です、サカサ地蔵にしたのも、一応良かれと思った事です。糸車の針に刺されても死ぬ事はありません、百年眠るだけです――」
その後、お爺さんは糸車の針に刺され百年眠り、王子様の優しいキスで目覚めました。
その後お爺さんは城に迎えられましたが、お爺さんはヘテロだったので、物質的には満たされていても、精神的にはついに満たされる事はありませんでした。
めでたし、めでたし。
【完】
『お正月』
「はぁ、はぁ、はぁ……」
僧侶、四谷京作は朝から走り廻っていた。
「檀家を……全ての檀家を廻るのだ、そして、酒をゴチになるのだ……」
しかし、既に顔は真っ赤で、重そうに腹を揺すっている。
それでも彼は足を止めない。
次の檀家へやって来て、チャイムを鳴らす。
「明けましておめでとうございます!」
「や、や? これは和尚様……その、上がってお屠蘇でも一杯召し上がって行って下さい」
「わははは、お布施を断っては功徳の妨げ、ご馳走になりましょう」
当然のように、上がり込む。
出されたおせち料理の中の高い物から順に食べて行き、酒をがぶ飲みする。
四谷が卑しいからか?
否、断じて否。
「お年始回りとは、ご丁寧な事で」
「年賀状やメールなどもありますが、やはり檀家の皆様にはきちんと顔を合わせてご挨拶せねばと思いましてな、はっはっはっは!」
「左様でございますか……」
「では、御主人も一献――おや、なくなったようですな」
「でしたら、そろそろ――」
「すみません、奥方。もう一本持って来て下され。ああ、いやいや、徳利ではなく一升瓶で構いません。こっちで勝手にやります」
四谷は主人と酒を飲み、料理を喰らい続ける。
胃のキャパシティは限界に近い。
フル稼働する肝臓は、ウコンDXFX三井フィナンシャルAN錠によるドーピングがなければ、既に破壊されていたに違いない。
それでも喰う、呑む。
檀家との良き関係を保つ為、止める訳には行かないのだ。
頑張れ四谷!
ファイトだ、和尚!
ガッツだ、和尚!
和尚、ガッツだ!
和尚ガッツ!
おしょうガッツ!
「――っていう意味だっけ、お正月って」
「なんか、切り所おかしくねえ? なあ?」
【完】
『正月』
鍋を傾けると、一気に湯気が立ち上る。
目の細かいステンレスのザルで出し殻の鰹節を漉し取られ、出し汁が寸胴鍋に溜まる。
「んん、良い香りだなぁ……」
笑みを浮かべながら、中村敏明は対面型キッチンの向かい側の共有スペースを眺める。
テーブルが三つ置かれた共有スペースでは、入居者が三人、テレビで紅白歌合戦を眺めている。
中村が包丁を握ろうとした時。
「なかさん、なかさん、なかさん! へるぷー」
鈴木麻妃が、涙目で走って来た。
「水がっ、床がっ、トイレ床が、あふれて!」
「っとぉ! どこの!?」
「こっち!」
二人は入居者の部屋が並ぶ廊下を走り、突き当たりにあるトイレに駆け寄る。
トイレの傍らには、戸惑いとも不安とも付かない表情を浮かべた入居者の阿部芳治が、立ち尽くしている。
「うげっ」
詰まったトイレから溢れた汚水は、今も止まっておらず、廊下まで出て行きそうになっている。
「ど、どどど、どうすれば?」
「雑巾……いや、ゴミ! ゴミ持って来て! さっきまとめて玄関に置いといてあるヤツ!」
「え? え?」
「早く!」
鈴木が取りに行く間に、中村は汚水浸しのトイレに踏み込み、水道の栓を締める。溢れていた水はようやく止まった。
共有スペースで、阿部は熱い麦茶を飲みながら、他の入居者と一緒に紅白歌合戦を眺める。
「……やれやれ」
ハイター臭をさせながら、中村はキッチンで料理に戻っていた。
「まさか、パッドを流すとは思わなかったよー」
鈴木がゴミ袋の口を縛る。中には、汚水を吸わせた使用済みのオムツやパッドがみっちり詰まっていた。
「パッと見、普通の人と変わらないんだけどなぁ。俳句とか作るし」
何か思いついたのか、阿部はテレビの画面に目を向けながら、指を折って数えている。
「昔の習慣とかはよく残ってるもんですよ」
「でも、何日か前の認定調査受けてたけど、生まれた年とかも言えてなかったよね。自分の年齢も、四十二歳だって」
「三十超えるとその辺の数字、ちょっと曖昧になるのは分かりますけどね」
中村は人参の飾り切りをし始める。
「あ、それ、お花?」
「見様見真似ですけど」
「良く切れてるよ、かわいー」
感心した風に、鈴木は人参を明かりにかざす。
「献立表通りだと、朝は全然平日と変わらないんですよ。せめて雑煮ぐらい用意しよう、とね」
「餅ありましたっけ?」
「食材の中に見かけたよ」
中村は運搬用の半透明のプラスチックの箱を指さす。
「あ、本当だ。へー」
紅白歌合戦は、『懐かしの歌特集』のコーナーになり、昭和中期の歌が流れ始める。入居者達が、ボソボソと歌を口ずさんでいる中、阿部は相変わらず指を折って字数を数えている。
「雑煮いーよね。あたしもお兄ちゃんもウズラの卵が大好きで、去年も取り合いしたよ」
「……ウズラ?」
湯気の立つ鍋を開けながら、中村は眉を寄せる。
「え? 入れないの?」
「雑煮っていうのは、本当色々ありますよね」
「そっか……縁起物だから、味は二の次になっちゃうんだね。かわいそうに」
「可哀想って、入れたいけど入れられない訳じゃないですよ?」
中村は鍋に醤油を入れる。
「でもあるかないかで言ったら、ウズラの卵、あった方が良いでしょ?」
「いや、そういう風な雑煮じゃないんですってば」
「ああ、ウズラの卵嫌いなんだ?」
「嫌いって事もないですけど、雑煮に入れたいとは思いませんよ」
「ウズラの卵のない雑煮なんて、雑煮じゃないよ!」
入居者達は居眠りをし始めているが、阿部はまだ指を折っている。
「雑煮に不可欠な具なんて、餅だけでしょう」
飾り切りの終わった人参を、小鍋で茹で始める。
「じゃあ何? 味噌汁に餅が入ってたらそれは雑煮なの? コーンポタージュに入ってたら? ラーメンスープに入ってたら?」
「……いや、雑煮呼ばわりされるでしょ」
「でもそれはニセモノでしょ? って事は本物があるのさ。で、本物にはウズラが付くの」
「……だから、雑煮には地域性があって、どれも独特の味があるって事でいーでしょーが」
「でもウズラが本当で」
「はい、味見」
中村は鍋の中の汁を椀にひとすくい取り、鈴木に差し出す。
鈴木は言い足りない顔のまま、吹き冷まして一口飲む。
「……何これ、うまっ!? 超うまっ、え、何、マジ? うわわっ、え? ちょ、ねえ、何これ?」
「色んな雑煮があるって事ですよ」
「いやいや、でもさ、ウズラの卵が入ってなくてこんだけおいしいなら、入ってたらもっとおいしいっていう勝利の方程式が成り立たない?」
「分からん人だな……」
「ういーっす。お、良い匂いだなぁ」
玄関のドアが開き、晴れ着姿の松野千里が入って来る。
「ん、鈴木さん? まだ遅番残ってんの?」
「あれ、リーダー?」
「丁度良かった、リーダー。ウズラの卵買って来て」
「藪から棒に何言ってんのよ?」
「この旨い雑煮を完成させるためには、ウズラの卵がなければいけないんだよ」
「雑煮?」
松野は首をひねる。
「献立にはありませんけど、余り材料を色々融通しまして」
「そっか、ありがと。これで餅が禁止じゃなかったら、本当にお雑煮だったのにね」
「へ? 正月は例外ですよね?」
「聞いてないわよ」
「だって、食材で届いてるよ?」
「ん?」
松野は食材の箱を開ける。
「これ?」
無地の袋に入っていたのは、四角く白っぽい色で――細かな穴がびっしりと開いた――食材だった。
「高野……豆腐?」
「だああ! 分かりました、入れます、高野豆腐もウズラの卵も入れりゃあ良いんでしょうが!」
「中村さん、早まんないで!」
「『生年を忘れて妻に笑われる』」
「ほら、阿部さんも認定調査を詠んでるし」
「それが今何になるってんですか!?」
「うまっ、この澄まし汁うまっ!」
「雑煮です! 何、ガチ食いしてんですか!」
テレビでは、小林幸子がチカチカと瞬いていた。
【完】
『正月2』
吹き抜ける夜風に、ジャンパー姿の阿部芳治は一つぶるっと震えてから、頭半分だけ振り向く。
妻の藤枝が、また、遅れていた。
「どうした」
「ごめんなさい、月に見とれてつい」
藤枝は笑って芳治に追い付く。
芳治は足元に目を向ける。
家々の間を通る細い道は、まだ舗装がされておらず、深い轍が出来ていた。
「急ぐ事もない」
芳治は独り言のように言って、指を折って数え始める。
「俳句ですか?」
「ん」
曖昧に返事をして、芳治は歩く。
土の道は、本通りに繋がった。
街灯に照らされた歩道のない舗装道路を歩く二人を、丸みのある軽自動車が追い抜いて行く。
「車、か」
「良いですね」
「教師の稼ぎで買うには、まだ高い」
進むうちに、通行人が一人、また一人と増えていく。
そして、明らかにそれと分かる人の流れが出来始めた頃、行く先に赤い露店の光と、鳥居が見え始めた。
参道の両側に露店が立ち並び、参拝客でごったがえしている。
交通整理の為に配置された警官達が、怒鳴り声を上げている。
「凄い人ねー」
藤枝は、素直に驚いた顔をする。
「引き揚げ船を思い出すな」
芳治は遠い目をする。
「あなたは戦地に行かれてないじゃないですか」
「新聞とかで見た」
「それなら私もですわ」
くすっと藤枝は笑う。
人の間をすり抜けるように進もうとするが、すぐに人垣に阻まれて進めなくなる。
「……肩がぶつかり……肩に……ごつんと……」
呟きながら、芳治は指を折る。
「寒いと思ったけれど、これだけ人がいると逆に暑いみたいですね」
「そうだな」
芳治はほんの少し背筋を伸ばして、露店を眺める。
「ラムネでも、飲むか?」
「良いですね」
二人は人を掻き分け、ラムネ売りの露店に辿り着く。
「ラムネ一本」
「はいよ、ありがとう」
代金を受け取ったラムネ売りが水槽からラムネを引き上げ、栓を抜き、芳治に手渡す。
芳治は溢れた泡で濡れた瓶を手でひと拭いして、藤枝に手渡す。
藤枝はラムネのビンに口を付け、一口飲む。
「うわ」
苦笑いする。
「いくら暑いって言っても、冬の夜にこれは冷た過ぎるみたいね」
「そうか?」
芳治が受け取り、飲む。
「……む」
「でしょ?」
「だが、暑いときは熱い物、寒い時は冷たいものではないか?」
「それも一理ありますね」
二人は一口づつ飲み続け、ようやく瓶を空にした。
「……おでんでも、喰うか」
「大賛成で――あら?」
瓶を持つ芳治の腕を、藤枝が見つめる。
同時に、あちこちから拍手や歓声が上がり始める。
「明けましておめでとうございます」
「ああ、おめでとう」
芳治は遠くの鳥居とその向こうの社を見ようとするが、人の頭に遮られるだけだった。
「やれやれ、こんな所で新年を迎えるとは」
「たまには、良いじゃありませんか」
ゆっくりと人の流れが出来始める。
「あなた、今年、厄年でしたね?」
「いや、まだ四十一って事になる。満で数えればな」
「ふふっ、来年になったら、数えで四十三歳にでもなりますか?」
「ん、そうなるのか? ええと、生まれが大正七年だから……」
「え? 八年でしょう?」
「それは数えだろう?」
「あはははっ、嫌ですよ、あなた。数えだろうが満だろうが、生まれた年は同じです」
おかしげに藤枝は笑う。
「あ……」
「自分の生まれた年を忘れたかと思いましたよ。ふふっ、うふふふっ」
「う、うるさいな、笑い過ぎだ」
「だって、うふふふっ、ふふふ、あはははっ!」
「さっさと行くぞ」
憮然とした表情で、芳治は藤枝の手を掴むと、人の流れに乗って参道を進み始めた。
「……あ」
「どうされました?」
「いや……何でもない」
それから芳治は口の中で呟いた。
『生年を忘れて妻に笑われる』
苦笑いをしながら、その句をもう一度繰り返す。
いつの間には雲が切れ、空には星が瞬いていた。
【完】