これから
「おー、さぶ…」
ようやくと屋根上に登ってきた俺は、自分の吐く息の白さに、思わず両手を擦り合わせてそう呟く。
屋根上から眺める夜の帳が降りた寒空には、わざわざ上を見上げる必要性が無いほどに、月や星々が所狭しと散りばめられている。
おそらく、向こうではプラネタリウムくらいでしかお目にかかる事が出来ないそんな光景に、とても贅沢な思いがしていた。
「こういうのも悪くないな」
「……」
ミラは、ちょうど俺が登ってきた屋根上の反対側に、こちらに背を向けるようにして、ちょこんと体育座りをしている。
そんなミラに近寄り、声を掛けていた。
しかし、いくら待っても返事が返ってくる気配はない。
というか、既に俺の存在など忘れているかのように、ボーッと屋根先から夜空を見上げ続けているだけである。
聞こえていない事は無いと思うが、念の為にもう一回呼んでみることにする。
「おーい。ミラさん?」
「…」
まあ、初めての人ならここで無視されていると感じてしまうのかもしれない。
しかし、これがミラの平常運転であることはとっくに理解している。
むしろ、「なになにどしたのどしたの?!」などとリアクションするようなら、別人だと疑う自信があるくらいだ。
「…おっ、そうだったそうだった」
俺は気を取り直すように、部屋で見つけた薄手の布を、ミラの後ろ首から包むように被せる。
「さすがにその格好だと寒いって。いやー下からこれぶん投げたり、よじ登ったりと軽く大変だったぜ。ああ、ちゃんとホコリは払ってあるのでご安心あれ」
だいぶ強がっているだけで、実はここまでくるのに死ぬ思いをしたのは絶対に内緒だ。
男の子は強がりが大事なのである。
「ありがと」
「お、おう…」
意外にもミラからちゃんとお礼を言われたことに驚きがあった。
この娘ったらちゃんと成長してるじゃない、と感動を覚えてしまう。
「で、俺に何か用があったんじゃないのか?」
「…」
俺を呼んだということは、何かしらの理由があってのことだと思うのだが。はて?
ミラは黙ってしまっていたが、暫くしてようやく口を開いてくれたようだった。
「…名前。考えた」
そういえば、前に話の流れでそういうことになっていた事を思い出す。
ミラなりにずっと俺を気遣ってくれているということだろう。
「おっ、サンキューな。ずっと考えていてくれたってことか」
「3…9?」
わかりやすく首を横にするミラ。
その頭上からは、沢山のはてなマークが浮かんでいる。
いかん。
また向こうのノリで話してしまった。
最近ミラとの会話では、こうやって向こうで普段使っていた言葉がそのまま出てしまうことが多い。
他の奴と話す時はそんなことはないと思うのだが、それだけミラとのやり取りではリラックスしている自分がいるのだろう。
「えっと、要するにありがとうってことだ」
「…なんで3と9でありがとうなの?」
「ええっと、それはだな…」
困った事に毎度このような事態に陥ると、決まってミラはこのように興味津々な様子で意味を尋ねてくる。
基本的に何事にも無表情、無関心を地でいっているような奴なのだが、こういう姿をみると、案外そうでもないのかもしれない。
「…まあいい。へんなの」
とまあ、すぐに興味を無くしてしまうのも、いつもと同じ流れなのであった。
「それでは、待ちに待った名前の方を発表して頂きますかね」
俺は脱線しかけた話題について、改めて話を戻す。
果たしてどんな名前を考えてくれたのかと、純粋に愉しみな気持ちが俺の中で昂まっていた。
すると、突然ミラはその場にゆっくりと立ち上がった。
しかし、かといってこちらに振り向くことはない。
「…待ちに待ったくせに、忘れてた」
「はうっ」
まさしくその通りだった。
ミラの聴き慣れた声の中にも、若干の違和感を感じる。
…間違いない。これは不機嫌だ。
そしてその原因は、明らかに俺にあるに違いなかった。
「ごめんなさい」
「なんであやまるの?」
心の底から不思議そうにするミラ。
「いやだって…」
「寒いからもう寝る」
俺の言葉を遮るように、突然会話の終了を告げるホイッスルが鳴ってしまう。
しかしそれは、色々と間違えすぎていた俺にとって当然の結果だった。
俺ってやつはどうしていつも、こうやって肝心なところで間違えてばかりなのか。
それは、向こうの世界から少しも進歩していないという事実。
…どうりで、友達もほとんどいなかったわけだ。
そんなことを考えて、自分の情けなさに嫌気がさしていた。
そんな時だった。
俺の耳に、初めての音が届く。
「ーーソラ。」
その言葉に、顔を上げたその瞬間。
視界に映るのは、当然のようにそこに存在している、月や星々の輝き。
そして、その輝きをも置き去りにしてしまうような、そんな一人の少女。
その少女は、こちらを振り向き、言葉を紡いだ。
「ソラ、おやすみ」
その少女は、ほんのわずか一瞬だけ、微笑みを浮かべた気がした。
そう。
それはまるで、奇跡のようなーーー
「って、おいおいおいおいぃぃぃ!!」
奇跡のような、垂直落下となった。
〜
「心臓に悪すぎる…」
未だに、心臓の鼓動が止まない。
いや、それもそのはず。
目の前で突然飛び降りられたら、誰だってこうなるだろう。
まさかおやすみの合図とともに、後ろ向きのまま飛び降りるなんて…誰が想像できるのか。
これは断言できる。
想像出来るやつなどいない。
あの後、すぐさまミラが飛び降りた地点まで駆け寄った俺だったが、下を見ても、ましてや混乱して上を見たりしても、誰もいないことしか確認出来なかった。
これは、夢?はたまた幻?
と、自分を疑ったりしたのだが、よく考えればここは異世界。
ファンタジー世界なら、屋根上から少女が飛び降りたくらいで、驚くことは何もないのか?いや、んなアホな。
そういえばミラのやつ、傷を癒やしたり、バリア張ったりできるかもしれないんだもんな。
それに関してはいくら質問しても答えてはくれなかったから、真相は闇の中なわけだが。
時間の経過とともに、落ち着きを取り戻したところで、今まで麻痺していた部分を身体が思い出してくる。
「……いや、寒すぎて死ぬ……」
身体が小刻みに震え上がる。
自然と歯が重なり合い、ガチガチと音を奏でていた。
さすがに寒さでどうにかなりそうだ。
いい加減、部屋に戻ることにしよう。
そこで、自分が持ってきた薄手の布の存在を思いだした。
先程までミラがいた所に行き、回収しようと持ち上げてみる。
すると、その中から見覚えのない紙ぺらがハラハラと舞い落ちた。
拾い上げてみると、そこには様々な単語のような文字がびっしりと書き記されていた。
そして、その文字の一つ一つには、細かな説明文なども添えられているものや、明らかに書きなぐったもの、上から塗り潰したもの、書き直したりしたものなどがあった。
ぱっと見ただけでも、書いた者が何かに悩み抜いた過程であることが、手に取るように分かる代物となっていた。
その中で、ある単語の組み合わせに、○が囲ってあるのを見つける。
ーーミラ、本当にありがとな。
夜空を再び見上げる。
思えば、この世界に来てから激動の日々を送ってきたように思う。
それこそ向こうの世界では、とても経験できないようなことばかりだ。
おかげ様で、ここでの人生を始める決心もついた。
しかしまあ、あの神さんのことだ。
そんな決心をした途端、向こうの世界に戻されてしまうことだって、可能性としてはゼロではないのだろう。
たとえそうなったとしても、与えられた場所で、精一杯自分らしくやっていくしかないのだと思う。
「…楽しくやろーぜ。何事もな」
誰に聞かせるわけもなく、夜空に向かってそう呟いた俺なのだった。




